鈴鹿市白子町

    No.104.....2017年11月12日(日曜)


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10年ほど前のことだったか、「おろしや国酔夢譚」(井上靖・1968年)を読んだ。

船頭の大黒屋光太夫を含む17人の乗組員が太平洋を8か月漂流してアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。彼らは以来10年間にわたって極寒のロシアに滞在したが、13名が死んで、わずか2名だけが日本に戻ってきたという話である。

多くは寒さと飢えのために死んだ、残る5名のうち一人は凍傷で片足を失い、もう一人の乗組員とともにロシアに帰化した。

ロシア女王エカテリーナ2世が残りの3人を日本に送還するように命じて、3人は北海道の根室まで送られたが1人はここで死んだ。残り2人(光太夫と磯吉)だけが江戸に連れて行かれたが、江戸を離れることは許可されなかったという。

大黒屋光太夫が神昌丸に乗って出航したのは、三重県の白子(しろこ)からである。今日は近鉄の駅でいうと、@鼓ケ浦→A白子→B千代崎→C伊勢若松 を歩いた。



名張から白子に行くには近鉄特急を使えば1時間足らずで着く。乗車料金は1010円、特急券が900円。

近いのだからもっと早く訪ねてもよかったのだが、名張は伊賀国である。伊勢・松阪・津・白子・四日市・桑名など伊勢湾に面している町は伊勢国である。

伊賀国は盆地である。周りは山だ。盆地に長く住んでいるとわずかではあるが海に不安感を感じるようになる。広い海を見ると頼りになるものがなく心細くなるのである。したがって私が訪れる先は奈良や京都といった盆地のほうが多くなった。



名張を7:34に出発して、乗り換えをしたので8:30に白子駅に着いた。駅を出ることはせずに、1駅バックして鼓ケ浦駅(つづみがうら)で降りた。

ここは海水浴場があるというので、きれいな砂浜が続いているのだろう。この浜辺を歩いて白子港まで行こうというのが第一の目的である。もう一つは駅の近くにある子安観音寺を訪ねるためである。

駅舎に茶色の幟(のぼり)が立てられている。「匠の里・伊勢型紙フェスタ」と染め抜いてある。お祭りがあるのか、あったのか。

近鉄の線路より1本外れた道を南に向かって3分ほど歩くと、右手に丸い建物があった。隣に四角な建物もある。外観からは幼稚園のようである。その先の寺院風の建物が子安観音寺であろう。

子安観音は安産・求子・子育を祈願する霊場であるという。娘(次女)が妊娠したとき、腹帯を持って子安観音に祈願にいったということは知っていた。なんでも妊娠5か月に入った最初の戌(いぬ)の日に祈願するのだそうである。

娘はスマホで調べて、鈴鹿にある子安観音を見つけたらしい。昨年の秋に、車を運転して夫婦でいってきた。

山門。仁王門ともいう。3間1戸の楼門。

元禄期(1703年)に建立されたが、1982年に解体修理が行われたので新しい建物に見える。柱はやや細い感じがするが、柱の上の組み物はなかなかのものである。

門の左側に「伊勢型紙フェスタ」の幟が立っている。もう1本白い幟があるが、「南無大師遍照金剛」とあるので、白子観音寺は真言宗のようである。


境内に入ると正面に本堂がある。やや貧相な建物だ。 仁王門の脇に立っていた案内板によると@不断桜 (国の天然記念物)、A銅灯籠 (三重県指定文化財)、B仁王門 (三重県指定文化財)が寺の誇るべき文化財である。

本堂にはこの先の海から引き揚げられたという白衣観音像が祀られているはずだが、本堂の建物は文化財にも指定されず値打ちがないようだ。

本堂の前にあるのが銅製灯籠。

本堂の右側に御守受所があった。娘夫婦はここで祈願をお願いしたのであろう。

当初、私は娘の母親が早くに死んでいるので、出産時の陣痛や入院・退院、出産後の赤ちゃんの扱い方、夜泣きをしたり乳を飲まないときはどうするのか? などを相談する者がいない。不憫な娘であるな。と思っていたが、そんな心配はなかった。

スマホで即時に知りたいことがわかる時代になっているのである。娘はチャッチャカ情報を集めていた。

安産祈願の折に下されたのが右のものである。いつまでも整理棚の上に置いてあったので捨ててもよいのではないかと思い、中身をあらためると、安産祈願のための護符が4つあった。
  1. 易産符
  2. 御祈祷易産之札
  3. 易産札
  4. 不断桜之葉
である。「不断桜之葉」の包みには何が入っているのであろうか。 包みを開くと桜の葉っぱが入っていた。娘に訊いたところ、葉の表面が上になっていると男児が生まれ、裏面が上になっていると女児が生まれるそうなのである。


開いてみると葉の表側が現れたそうである。子安観音のお告げによるならば、男の子が生まれるはずであった。

2017年5月に娘は女の子を出産した。早くから女児であると産婦人科の病院から告げられていたので、女児用の肌着とか服を買い揃えていた。男女の違いについては何の驚きもなかった。

私も女の子がよいなと思っていたので、望むところであった。3.4キログラムの赤ちゃんは、すくすくと大きくなり、生後6か月の今では8.8キログラムになっている。

私の子育て時代は、仕事が忙しく、生後1年未満の赤ちゃんのころの子供の記憶はほとんどない。

今は娘夫婦が同居しているし、私も自宅で仕事をしているので、赤ちゃんと接する機会はとても多い。 我が子の赤ちゃん時代よりも、孫の成長具合をよほど詳しく知ることができるのである。

ちょうど離乳食の時期になっていて、娘がスプーンでお粥や野菜のぺーストを与えるたびに、口をパクパクして孫に食べる真似をするのである。

孫は今のところ、じいちゃん(私)が大好きなので、 私のパクパクを見てきれいに離乳食を飲み込む。飲み込めば無論「おいしいねー」とか「カシコイねー」とかの声をかける。

子安観音の男女の判断は当たらなかったが、こんなにカワイイ子が生まれてきたことを、子安観音に感謝すべきであろう。

広くない境内の隅に「不断桜」(ふだんざくら)があった。

案内板によると、「里桜の一種で四季を通じて葉が絶えず、開花期も春秋冬もに及ぶ・・・」そうであるが、いくら見ても桜の花は咲いてはいない。

ただ葉は11月だというのに枝々に茂っている。 この不断桜の葉が子安観音の安産祈願のお札に使われているのだ。


観音寺を出て、東に向かう。この辺りの海岸線はだいたい南北に伸びている。東側が海である。

写真右側にあるのは釜屋川。土手道をまっすぐ進めば鼓ヶ浦海水浴場があるはずだ。


少し歩くと、鈴鹿市伝統産業会館なる建物があった。建物はなかなかスッキリしていて端正である。ここも 伊勢型紙フェスタの会場になっているらしい。

入口に鈴鹿の産物が並べられて販売していた。試食を勧められて食べた鈴鹿抹茶のラングドシャ(700円)を買った。


入ってみると何やら展示してある。展示パネルには伊勢型紙についての紹介がしてある。

伊勢型紙は着物の生地に柄や模様を染色するために使う型紙(孔版)の一種である。一度テレビで見たことがあるが、型を彫るための技術を伝えるのが放映の主眼であったらしく、さほど記憶に残っていなかった。

ここの説明のパネルを見てもやはり技術の紹介ばかりであった。まずは型地紙の作り方である。3枚の和紙を貼り合わせて、柿渋を塗って乾燥させる。


次に型地紙に模様を彫るのであるが、
  1. 縞彫り(縦の格子状に彫る)
  2. 突き彫り(刃先が1〜2ミリの小刀で自在に模様を彫る)
  3. 道具彫り(花とか菱などの決まったパターンで造られた彫刻刀を使って均一な文様を彫る)
  4. 錐彫り(半円形の彫刻刀で小さな丸小紋を空ける)
などの彫り方があるらしい。こうして出来上がるのが伊勢型紙である。右の写真は型紙を行灯仕立てにしてあるが、白抜きの箇所が彫った部分である。

この彫抜りぬいたところをどうやって白生地に染色するのか? 私が知りたかったのはそこであるが、この説明はなかった。生地の上に型紙を置いて染めるのか? 逆に白生地に糊を置いて白生地を染めるのか。

京都には悉皆屋(しっかいや)という商売がある。着物のことに関してはなんでも引き受けるという商売である。伊勢型紙も悉皆屋や染物屋を得意先にしたのであろうか。

型紙を彫る体験ができる別室があった。着物をきた女性が伊勢型紙フェスタの実行委員であろうか、受け付けやら型紙地を配ったりしている。

型紙の彫り方の指導は実際の型紙職人さんがしているようであった。参加者は多く、なかなか盛況であるがそれほど面白いものとは思えなかった。

鈴鹿市伝統産業会館を出るとすぐに橋があった。その先は海である。松林が見える。

橋の下の川は堀切川という。海がすぐ隣にあるのにわざわざ運河を掘っているのは、海岸が遠浅になっているので、小舟での荷物の搬送をしやすくするためであろうか。

(次図)防波堤からの石段を下って浜辺に降りてみた。ここは「鼓ヶ浦」と呼ばれている。

きれいな砂浜である。砂浜は延々と続いている。打ち上げられるだろうゴミや流木はない。よく整備(清掃)がされている。第一級の海水浴場だ。

次図は南を向いて撮っているが、はるか向こうに見える山は松阪から伊勢・鳥羽に延びる山々であろう。伊勢湾は冒頭に掲げた地図にみるように南側は東にむかって湾曲しているその先っぽが答志島である。答志島のすぐ東には渥美半島が突き出ている。伊勢湾の南は伊勢・鳥羽・答志島・渥美半島で囲まれているのである。



鼓ヶ浦の北側を見る。右手の海辺にはパイプの支柱がズラーと立てられている。支柱の下は網らしいもので柱と柱がつながれている。

何かを養殖しているらしい。近くで釣りをしている方に尋ねると、海苔だという。そういえば「白子海苔(しらこのり)というのがありますね。というと、「あれは東京の会社だ。白子(しろこ)とは関係がない。」という。さらに「ここら辺では(しらこ)といわれるのを嫌がる。魚のシラコのようで気持ち悪いではないか。」とおっしゃる。

この地では(しらこ)と言うのは禁物である。(しろこ)と言わねばならない。ちなみに私はしらこは好きではない。カニの味噌も好きではない。ぐじゅぐじゅしたものは食べる気が起こらない。

鼓ヶ浦の北側の先に、白い建築物が見えていたので行ってみると、大黒屋光太夫のモニュメントであった。白子港緑地として整備されている。その向こう隣は白子漁港である。

ここから大黒屋光太夫は16人の乗組員を連れて、江戸に向けて出航した・・・。

江戸期、このあたりは紀州藩の領地であった。紀州和歌山は離れている。飛び地である。本居宣長が住んでいた松坂も紀州藩の飛び地である。

モニュメントの北に隣接する白子漁港。そこそこ広い船溜まりがある。たぶんここから出航したのだ。

積み荷は紀州藩の囲米と江戸の商店に送る木綿・薬種・紙などである。江戸の三井の越後屋も大黒屋に搬送を依頼していたようである。

船は千石船。多くの荷物が積める。光太夫を含めて17人の乗組員は鳥羽と渥美半島に挟まれた伊勢湾から太平洋へ出て、 江戸に向かって北東方向に船軸を向けた。

1782年12月のことである。ところが静岡の沖で嵐に遭遇する。

勝速日神社。勝速日(かちはやひ)とは天照大神の長男である正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつ・あかつ・かちはやひ・あめのおしほみみ・のみこと)を指す。

元々は天照と誓約(うけひ)を競った素戔嗚命とその妻の稲田姫を祭神としていたが江戸期に変えたらしい。神社は案外に節操がない。伊勢に近いから天照系にしたのか?

光太夫の乗る神昌丸は強烈な北風と西北風によって船の梶が折れてしまう。転覆を避けるために帆柱も切った。梶も帆もなければ漂流するほかはない。何日か波浪に弄ばれて、ようやく波が静かになった後、船は北へ北へと運ばれていった。

8か月の漂流によって、船は北海道を過ぎ、千島列島を過ぎ、カムチャツカ半島の沖を過ぎて、アリューシャン列島にあるアムチトカ島に打ち上げられた。漂流中に水主(かこ)の磯八が栄養不足と寒さのために死んだ。乗組員は16人になった。

白子駅に戻った。白子港の周りを歩いているとき急に便意をもよおしてきたのである。これはやばい。

この2年間、こういうときは水便がでることが多い。これが厄介なのである。油断するとピュッと便が漏れる。粗相をしてはならないので、家にいるときは1日に5度も6度もトイレに駆け込むことになる。

今年になって一度もテクテクに出かけなかった理由のひとつが突然におとずれる便意が怖かったせいである。それが訪れようとしている。

白子港の近辺には公衆トイレは見当たらない。やむなく近鉄白子駅まで行った。150円の切符を買って駅に入り用をたした。やはり水便であった。トイレはウオシュレットなので、尻周りをきれいに洗った。これでしばらくは持つであろう。

白子駅をでて、少し南下すると白子代官所跡があった。建物はむろんとして遺構は何も残っていない。白子小学校の一画に10本ばかりの松が植えられているだけである。

紀州藩は55万5千石であったが、紀伊本国は37万石ばかりで、18万石は伊勢南部に領地(飛び地)があった。

飛び地の大きなものは本居宣長がいた松阪である。ここには松阪城があり、城代を置いていた。白子には代官所が置かれていた。 光太夫が紀州の廻米を江戸に運んだのもこの関係であろう。

少し東を向いて歩くと伊勢参宮街道があって、古い商家風の建物が残っている。今は伊勢型紙資料館になっている。ここにも型紙フェスタの幟が立てられていた。フエスタのメイン会場の一つであろうか。

写真撮影はできないとあったので通り過ぎた。

青龍寺という寺があっった。ここにも不断桜の木があるという。

光太夫ら16名は小舟に米や反物、生活道具、所持品を積み替えてアムチトカ島に上陸したのであるが、ここには異様な風体の土民が住んでいた。ばかりかロシア人もいた。7月というのに凍てつくばかりの寒さであった。

一行はロシア人に連行された。ロシア人の頭はニビジモフといった。光太夫はニビジモフの家に、他の乗組員は彼の部下の家に収容された。

長い漂流によって体力が低下していたのか、寒さのためか、栄養不足のためか、最年長の三五郎が死んだ。この後、治郎兵衛、安五郎、作次郎、清七、長次郎らが毎月のように死んでいった。一行は10名に減った。

境内に入ってみると、子安観音寺にあった不断桜と同様の木があり、やはり落葉はしていないが、桜の花はどこにも咲いていなかった。

ロシア人はアザラシ・ラッコ・トドなどを土民に獲らせ、安く買い上げているようであった。毛皮にして本国へ持ち帰るらしい。

ということはロシアから島へ船がやってきて、島に派遣されているロシア人や獲物をいつか引取るはずである。光太夫らは異人の仕事を手伝い、ロシア語を学んだ。だが漂着して1年2か月後に藤助が死んだ。

島に派遣されているロシア人は5年が年期であり、交代の要員を乗せた船がやってくることも分かった。

また古い商家があった。ここもフェスタの会場のひとつらしいが伊勢型紙には飽きた。

ロシア船が交代要員を運んできたのは、光太夫らが漂着してちょうど丸3年が過ぎた1786年7月のことである。船は波止場に着けようとしたが、北風が強くてできない。いったん沖にでて、別の入江に着けようとした。

光太夫たちも入り江に向かった。だが入江で見たものは暗礁に乗り上げて大破したロシア船の姿であった。胴体は2つに割れていた。

ロシア人はもちろんのこと日本人もひどく落胆した。寒く、物資や食料が不足している島からの脱出はかなわなくなった。


高札場址という場所もあったが、もとより札場なので建物は何もない。駐車場になっている。

1か月が過ぎたころ、ロシア人のほうから自分たちで船を作ってカムチャツカに戻ろうという提案がされた。ロシア人は25名、光太夫らは9名。合計34人の食糧と捕獲した毛皮を積めるだけの大きな船を作る必要があった。

大破したロシア船と岩礁に打ち上げられていた神昌丸から、使える木材・船具・釘などを集め、設計図を描き、造船した。造船は主に日本人がした。船が竣工したのは翌年(1787年)の7月であった。

7月18日に島を出航した。ロシア人は操船できないので、光太夫らが船を動かした。カムチャツカ半島のウスチカムチャツク港に着いたのは1か月後の8月23日のことである。


伊勢街道の面影が残る松並木。

入港してまもなく、光太夫ら日本人は、カムチャツカの政庁があるニジネカムチャツカに連行された。この土地は物資の豊かな町であったが、その年が明けた1788年には大飢饉に襲われた。支給される食料は極端に減り、ついには桜の木の皮を食べるしかなくなった。

4月に与惣松が死に、勘太郎と藤蔵が死んだ。壊血病であった。一行は6人になった。

6月に一行はオホーツクに行くことになった。オホーツクにはカムチャツカを統率する政庁があった。カムチャツカを県とすればオホーツクは州である。さらに上部には、オホーツク州などを統率する総督府がイルクーツクにあった。

常夜灯があり、その先に神社がある。江島若宮八幡神社である。

オホーツクからイルクーツクに行くには少し北にあるヤクーツクを通る。光太夫たちが辿った土地の北緯を調べると、@アムチトカ島(北緯51度)→Aニジネカムチャツカ(北緯56度)→Bヤクーツク(北緯62度)→Cイルクーツク(北緯52度)→Dペテルブルグ(北緯59度)である。

札幌は(北緯43度)、北海道で最北端の宗谷岬ですら(北緯45度)である。光太夫の白子は(北緯35度)でしかない。 北緯35度であっても冬は寒い。


八幡神社の鳥居をくぐると「献灯」と書いた提灯が門をなすように続いている。柱には1丁目・2丁目・・・の札が打ち付けてある。江島X丁目の氏子が献灯したものようだ。

八幡神社の拝殿はコンクリート造であった。また古い絵馬があるということだったが、見ることはできなかった。八幡神社には何も見るべきものはなかった。


極寒のヤクーツクに1か月ほど滞在し、一行6人は12月13日にイルクーツクへ向けて出発した。ロシア人が11人同行した。

イルクーツクには1789年2月7日に到着した。イルクーツクには総督府があり、どこの町よりも賑やかであった。光太夫らの帰国願いは総督府から出してもらう必要があったのである。

イルクーツクに着いてまもなく庄蔵が凍傷に罹った。すぐに手術が行われ、足の膝から下が切断された。庄蔵は片足を失った。こういう姿を見せるくらいなら日本には帰りたくないと思った。

白子駅に戻ることにする。途中に「オコシ型紙商店」なる会社があった。今でも型紙の需要があるらしい。

光太夫はちょっちゅう政庁に行き、帰国の訴えをしたが、返事はもらえない。すでに都に願状は出されているのだが、都の政府も前例がないことなので、一日延ばしになっているらしい。

8月に役所から出頭するようにの達しがあった。都からの命令がきたらしい。だが命令は帰国は許可できないので、この国に仕官するように、というものであった。日本語学校を再開するので教師にならないかというのである。

仕官すれば日本に帰ることはできなくなる。光太夫らは断じてこの命令に従うことはできなかった。だが日本に帰るには大きなロシアの船で送ってもらうしかない。自力で帰ることは不可能である。

すぐ近所に型紙風の意匠で窓を覆っている家があった。しゃれていて良い感じである。

9月にキリル・ラクスマンという人物を紹介された。ラクスマンは地質学・植物学に詳しいばかりでなく科学・経済の教授も務めたことがある一種の博物学者である。現在は帝室付き鉱山調査官として赴任して来ている。

紹介者によると、イルクーツクにいるどんな役人よりも都の高位高官たちを知っているらしい。政府に太い伝手を持っているという。

5人はラクスマンの自宅に招かれて、家族を紹介され、ロシアへきて初めて楽しい晩餐をとることができた。 ラクスマンは帰り際に帰国嘆願書は私が代わって書こうと言ってくれた。嘆願書はすぐに役所に提出した。


千代埼駅。次の伊勢若松駅との中間に「大黒屋光太夫記念館」があるので、ここから歩く。だいたい1.2Kmの距離であるが、千代崎海水浴場があるそうなので、ここへも寄ってみるつもりだ。

翌年1790年2月に役所から帰国願いに対する返事があったが、やはり仕官するか商人になれということだった。光太夫が断ると、役人はもう一度嘆願書をだしてみろという。

だが毎月支給されていた生活費は打ち切られた。光太夫らは、日本語教師をすれば何とかなるだろう、磯吉はラクスマンの手伝いをすれば何とかなるだろう。

ラクスマンによる嘆願書の返事を待つ間はイルクーツクの漂流者に好意的な有力者の資金援助に頼ることにした。光太夫らは町の有力者に体験記を話すなどして親しく付き合っていたのである。

駅から東へ歩くとすぐに道標があった。

(次図)千代崎海水浴場。ここの砂浜もきれいである。ペットボトルや瓶などの漂着物はひとつもない。白子の海岸は美しい。

沖を見ていると、なにやら白い建物群が点々と並んでいるようだ。その背景にはゆったりとした長い山が伸びている。

ベンチに座ってくつろいでいる人に尋ねると、建物はセントレア(空港)で、山は知多半島であるという。オオーそうか愛知はすぐ目の前にあるのか。




千代崎港。

1790年、ラクスマンに2度目の嘆願書を書いてもらい、3月に役所に届けたがいっこうに返事はこなかった。ラクスマンは12月なって、どうも嘆願書は政府に届いていないのではないかといった。

来年は光太夫とともに都にいって皇帝に直訴しよう。皇帝に目通りすることは容易なことではないが、私ならできる。

都に出発するのは翌年1791年1月15日と決まった。光太夫が旅の準備をしている間に九右衛門が死んだ。

千代崎港に隣接して千代崎港緑地公園があり、そこに「漂流記」が展示されているという。

港は防潮堤で囲まれているが、その公園側のコンクリート壁に、壁画が6枚ほど書いてあった。漂流記としては内容が簡単だし、絵も漫画風で面白いものではなかった。

庄蔵はロシア正教会に改宗し、療養所で治療を受けることになった。正教会に改宗すればロシア国民として認められ、国から援助を受けることができる。 この後、新蔵もロシア正教会に入信した。

近くにある漂流者たちの供養碑を訪ねた。墓地に入ると右手に赤御影石の古い墓があった。

キリル・ラクスマンと光太夫はペテルブルクに向かった。ペテルブルクの宮殿では謁見できず、6月に別荘地のあるツアースコエ・セロの宮殿でエカテリーナ2世に謁見できた。

1782年に白子の浦を出て、1791年まで9年間が過ぎていた。漂流の様子、アムチトカ島での生活、廃材で造船してカムチャツカへ渡ったこと、そこからオホーツク→ヤクーツク→イルクーツクに到るまでに乗組員17名のうち12名が死んだことを話した。 エカテリーナ女王は深い同情をした。役人になぜ嘆願書が私のもとに届けられていないのかも責めた。

正面には右に「釈久味霊」、真ん中に「南無阿弥陀仏」の名号、左に「俗名 光太夫」と彫られている。

碑の右側面には、小市、三五郎、豊松、九右衛門、清七などの16名の名前が刻まれている。ロシアに残った庄蔵、新蔵の名もあった。

神昌丸が遭難したらしいことがわかり、その3回忌の天明3年(1784年)に供養碑が作られたという。供養碑と呼ぶのは骨など残るものは何一つなかったからであろう。

実際にはこの時点では神昌丸の乗組員の数名は存命していたが、17名全員が亡くなったものとされていたのだろう。 8年後に光太夫と磯吉の2名が帰還するとは思いもよらなかった。

2回目の拝謁が7月にあった。9月末に日本へ帰国することが許された。ロシア人となった庄蔵と新蔵を除く3人が日本に送られることになった。光太夫・小市・磯吉の3名である。

大黒屋光太夫記念館に向かって歩いている。すでに歩き疲れている。足が痛い。

ロシアにとっては光太夫らを日本に送り届けることは、日本との交易を進めるチャンスであった。

ペリーが来航して日米修好和親条約が結ばれたのは1858年のことである。ロシアとの通商条約は翌年1859年である。1791年にして早くもロシアは修好条約を結ぶに必要な、光太夫という手駒を得た。

エカテリーナ2世は、光太夫に金牌(メダル)・時計・金貨150枚を与えた。小市と磯吉には銀牌・金貨50枚が下賜された。

この道は塩浜街道と呼ばれているそうである。千代崎港からかなり歩いたところに歩道橋があって、大黒屋光太夫記念館への案内があった。もうじきだ。

1792年1月にペテルブルグからイルクーツクに戻った。ここで庄蔵らに別れを告げ、ヤクーツクを経由してオホーツクに向かった。オホーツクから日本へ向けて出航するのである。ラクスマンはオホーツクまで同行してくれた。

そこには遣日大使に選ばれたキリル・ラクスマンの次男のアダム・ラクスマンが待っていた。 アダムは日本人の護送と遣日修好使節の長に任命されていた。

1792年8月、光太夫ら3人に加えて船員や使節団の36人が船に乗り込み、オホーツクから日本に向けて出航した。船名はエカテリーナ号であった。そして10月に根室に着岸した。10年ぶりの故国への帰還である。北海道の松前藩も幕府もロシアから日本人が戻ってきたことに驚いた。


若松小学校の隣に大黒屋光太夫記念館がある。こじんまりとしているが、落ち着いたよい建物である。

松前藩はロシア人のための宿舎を建造し、幕府は役人を派遣した。

日本側がモタモタしているうちに1793年4月に小市が死んだ。帰還したのは光太夫と磯吉の2人だけとなった。小市は帰還できたのに北の根室で死ぬとは残念無念であったろう。

アダムの日露修好の提案は3度の交渉の結果幕府に拒否されたが長崎に来ることは認められた。アダムは長崎に入港できる許可を得て1793年8月にロシアに戻っていった。

同じ年の8月に光太夫と磯吉は江戸に送られた。翌年1794年に光太夫と磯吉は徳川11代将軍家斉に呼ばれて江戸城内の吹上で漂流やロシア事情について聞かれた。


光太夫の銅像。右のような服で日本に帰還し、将軍との謁見もこのスタイルで臨んだ。

幕府としてはロシアに馴染んで帽子をかぶり、フロックコートを着ている人間を市中に出したくなかったのか、再度のロシア使節の訪問のためにロシア語がわかる者を管理下に入れておきたかったのか、とにかく一般人との接触を嫌ったようである。

光太夫と磯吉は江戸番町にある薬草園に住まわせられた。薬草園には桂川甫周(かつらがわ・ほしゅう)がたびたびやってきて「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」をまとめた。光太夫は甫周のことはロシア滞在中にキリル・ラクスマンからオランダ語ができる日本人がいるということを聞いてた。

光太夫はロシアで経験したこと・ロシアの町・教会・文化・産業などについて筆まめに記録してたので、ロシア事情について詳しく語ることができた。「北槎聞略」は光太夫らの漂流と帰還、ロシアの政治・経済・文化・外交についての小辞典といえる。

だが秘すべき文献と考えられて長く世に公開されなかった。

「おろしや国酔夢譚」では、光太夫と磯吉は死ぬまで江戸に留め置かれ、半幽囚の人として生きた。としているが、最近新しい資料が発見されて、磯吉は1798年に、光太夫は1802年に1か月間故郷の白子の若松に帰郷が赦されていたことがわかった。幕府の幽閉はそうきついものではなかったようである。


約1.2Kmを歩いて伊勢若松駅についた。ここにも光太夫のブロンズ像が据えられていた。大黒屋光太夫記念館の前にあった銅像とはポーズが違うので別途作られたものだろう。

10年間のロシア滞在で17名の乗組員のうち13名が死んだ。2人はロシアに帰化し、2人だけが日本に戻ってきた。だが帰国した2人は幕府の管理下に置かれた。白子にいたときのように船頭としての自由な生活はできなかった。

それでも人間は生きるために環境に順応する。生きる知恵をもっている。 光太夫は江戸で妻帯し1男1女をもうけ、1828年に78才で亡くなった。長生きした。磯吉も6年後に73才で死んだ。10年間の過酷な生活に耐え抜いた2人であるから生きる力は強かった。


伊勢若松駅から2駅先の白子駅に向かう。白子駅は鈴鹿サーキットがあるためか、近鉄特急が止まる駅である。

まるで身内のように思い、並々ならぬ親切心をもって、光太夫らを帰国させることに尽力したキリル・ラクスマンのことである。

彼は2度目の使節派遣を政府に陳情し、許されて1795年に自ら日本に渡海しようとしたが、オホーツクに至る途中のシベリアで病に倒れ同年に死んだ。

「おろしや国酔夢譚」の「酔夢」とは光太夫にとってロシアでの体験は酔って夢をみていたようなものであった、という井上靖さんの思いからつけたものであろう。

白子駅に着くとよい具合に大阪行きの特急があった。通常ならチューハイでも飲みながら帰るところであったが、白子駅構内には売店はなかったので、ゆったりとした気分では帰れなかったが、時間は50分もかからない。

今日は途中で便意をもよおすなどして無駄な動きがあったため、万歩計は24800歩だった。1年ぶりのテクテクにしてはよく歩けた。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 白子町近辺...         執筆:坂本 正治