京都・六波羅近辺

    No.103.....2016年12月 3日(土曜)


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京都の東大路を八条から四条まで歩いた。メインは平家の館が密集していたといわれる六波羅に行ったのだが、さすがに800年以上前の時代の遺物は残っていなかった。 右の17か所を順番に歩いた。
  1. 三十三間堂(蓮華王院)
  2. 養源院
  3. 法住寺・後白河天皇陵
  4. 新熊野神社(いまくまの)
  5. 京都国立博物館
  6. 大仏前交番
  7. 耳塚
  8. 甘春堂(大仏餅)
  9. 豊国神社
  10. 方広寺跡
  11. 正林寺
  12. 六波羅蜜寺
  13. 幽霊飴屋
  14. 六道珍皇寺
  15. 建仁寺
  16. 八坂神社
  17. 祇園女御供養塔
2016年10月19日から吉川英治の「新・平家物語」を40日ほどかけて読んだ。吉川さんは文がうまい。グイグイ吉川ワールドに読者を引き込んでいく。片手間に執筆されたのではない。多くの文献に当たり、吟味して、無理のないストーリーを構築されている。従って新平家を執筆されたときは、ほかの執筆を全部断り、新平家に集中された。それは7年にも及んだ。

登場人物は多岐にわたっている。天皇家だけでも@白河天皇、A堀河天皇、B鳥羽天皇、C崇徳天皇、D近衛天皇、E後白河天皇、F高倉天皇、G二条天皇、H六条天皇、I安徳天皇 をきちんと知っておかねば平家物語の流れが掴めない。

そこに皇后とか女御がからんでくる。@白河天皇には祇園の女御と待賢門院の2人、B鳥羽天皇には待賢門院と美福門院の2人、F倉天皇には建礼門院、G二条天皇は近衛天皇の皇后であった多子(まさるこ)を2度目の皇后に望むというややこしさ。

ここへ平氏の血族が連なる。清盛の父忠盛は初めの妻である祇園女御が清盛を生み、ついで後妻の池の禅尼は経盛・教盛・頼盛などの子をなす。清盛の兄弟は少なくも6人いる。 清盛の子らが大勢いる。男では重盛の母親は初婚の女人であったが、後添えとなった時子は宗盛・知盛・重衡などを生み、女では建礼門院徳子を生んで倉天皇のもとに嫁がせ、安徳天皇を生んだ。さらに清盛の孫は重盛の子の維盛・資盛・清経らを初めとして13人。平家物語の平氏の登場人物はざっと60人くらいか。

そこへ藤原摂関家の面々が登場する。保元の乱を起こした藤原忠実・頼長親子や乱で勝利した藤原忠通・信西。平治の乱を起こした藤原信頼。鹿ケ谷における平氏打倒を謀議した藤原成親・基実・成経・僧俊寛・僧西光など。 源氏では保元の乱の源為義・為朝、これに対立した義朝・頼朝、平治の乱後も隠れ通した範頼・義経・木曽義仲ら、頼朝を応援した北条一族。

まあ数え上げると200人から300人が新・平家物語に出てくると思うが、そのたびにこの人物は何者だったかなと巻末の系図を見て確認せねばならない。ついに「地図とあらすじでわかる! 平清盛と平家物語」(日下 力監修)を求めて、先にあらすじを頭に入れておいて、新・平家物語16冊を読み切った。


今日も大津のAさんと同行する。京阪七条で9:00に落ち合って、七条通を東山に向かって進む。向こうの低い山は阿弥陀ケ峯だろう。

東山が鴨川に向かって山麓を低くめているのだが、この辺りではなお緩やかな傾斜が続いている。

今日のテクテクの目的は平家物語の舞台となった地の痕跡を訪ねることであるが、果たして残っているものかどうか。

300mほど七条通を歩くと、三十三間堂(蓮華王院)がある。北西角が観光客の出入り口になっている。一度は拝観料を払って三十三間堂のうちにある1001体の観音像をサッと拝観しようかと思ったが、今日は訪れるところが多いのでじっくりと見ることはできまい。

過去2回の拝観をしているが、2度目の拝観のときに南大門の手前の柵が開かれていて、境内は無料で入ることができると記憶していた。本堂に入らないのであれば境内に入って三十三間堂の建物を撮影すればよい。

出入り口から出て三十三間堂にそって南下する。

道路の右側は三十三間堂の回廊。左側には後白河天皇陵や法住寺が並び、突き当りが南大門である。

1156年、平清盛が後白河天皇の味方について、崇徳上皇を破った後清盛は播磨守に推戴されたが、共に戦った源義朝は国を与えられることはなかった。

2年後の1158年に後白河は子の二条天皇に譲位し上皇になる。翌1159年平治の乱が起き、義朝は敗れる。清盛は武家の唯一の統領になった。

後白河天皇陵へ通じているらしい門扉があった。突き当りは民家が建っているようだ。右に曲がると御陵があるのだろう。

後白河上皇は広大な敷地をもつ法住寺を再建し、後白河の御所とした。1163年、その一角に三十三間堂を清盛に建てさせた。完工したのは翌年である。

平治の乱後の清盛の出世の速度は呆れるほど早い。1161年に検非違使の別当になっている。今の警視庁長官といったところである。

同年、妻の時子の妹である滋子(しげこ)が後白河上皇の女院となり後の倉天皇を生んだ。これで清盛と後白河上皇は姻戚関係を持つことになった。


当時の法住寺殿の規模は右図のようであったと推定されている。(地図は「平清盛と平家物語」(日下 力)から拝借) 道(通り)を示すと
  1. 現在は泉涌寺道と呼ばれるやや南に傾いた通り。明治期以前の天皇家の菩提寺である泉涌寺(せんにゅうじ)に繋がる。

  2. 東大路通。七条から北上すれば、智積院→妙法院(三十三間堂を管理する)→渋谷通→五条通→大谷本廟→八坂神社。東大路通の1本東の通りは丸山公園→知恩院→青蓮院→平安神宮 へ通じる洛東観光のメインストリートである。

  3. 七条通。794年に桓武天皇が京都に遷都したときの都市プランは、東西4.5Km、南北5.3Kmのサイズであった。東西に通じる大路は北限が一条通、南限が九条通であったから、東西南北の大きな割り地はだいたい660m四方がその単位であったかと思われる。この一画の小路の道路幅を引いても宅地の最大の1区画は550×550m、おおよそ5町四方であったと思っている。

  4. 塩小路通。塩小路を西に取り、鴨川を渡るとJR京都駅の北の大通りになる。京都駅は八条通に南面しているが、JR線が八条通を分断している。JR京都駅のすぐ西側に西大路八条があるが、ここには平清盛の邸宅があった。

  5. 大和大路通。大和大路というのだから奈良に通ずる道があったのであろうが、今では多くは狭い路地になっている。唯一、図の七条西殿のあったところは京都国立博物館になり、その北は豊国神社と方広寺跡であるために道幅は広い。それ以外は車がようやくすれ違えれるかどうかという狭い道である。

  6. たぶん現在の正面通。平氏の時代より400年後に豊臣秀吉が建てた方広寺の正面の大門に繋がる道。

  7. 渋谷通。このすぐ北に五条通がある。五条通は国道1号線である。交通の便のために洛中では東西にほぼ水平な道であるが、鴨川を渡った洛東では大きく南に傾き、清水寺と京都女子大の間を通る。洛東では大道路であるが昔の五条大路の延長ではないようだ。


上の地図に見るように法住寺殿の敷地は広大である。御所と寺院が集合しているためだ。七条通の北に七条西殿と七条東殿があった。現在は京都国立博物館になっている。

寺域の中央に三十三間堂があり、その東側に後白河上皇の后であった建春門院陵と後白河天皇陵がある。後白河上皇が亡くなった後に造ったというのが素直な考えだが、あるいは後白河存命中に陵を造っていたのかもしれない。

その場所にあるのが法住寺であるが、現在は小さな寺である。寺門をくぐった先にある建物は寺らしくない。仏事をしない本坊のようである。

隣に「旧御陵正門」の石碑が立っている禅寺風の門がある。「旧御陵」とあるのだから、今の後白河天皇陵は後に造られたのだろう。

陵を見てもさほど面白いものではないので、中に入ることはしなかった。

地図の続きである。三十三間堂の南には法住寺南殿という建物があった。ここが後白河上皇の私的な建物でその前には大きな池が掘られていたようだ。当然に十分に費用をかけた作庭がされていた。池の東側には新熊野社が建てられていた。

新熊野神社(いまくまの)はまだ訪れたことはないので、楽しみだ。


南大門」に近づく。三十三間堂の回廊は南大門の少し手前で途切れている。三十三間堂を囲んではいないのだ。回廊があるのは三十三間堂の東側の道路沿いだけであり、北側・西側にはない。南大門のある南側も太閤塀と呼ばれている築地塀である。

南大門と回廊が途切れた間には鉄柵があって、三十三間堂(本堂)の一部を見ることができる。一部分だが本堂の写真を撮ることもできる(次図)。

鉄柵は開閉部があって、前回訪ねたときはここから出て南大門に行った記憶があるが、今は完全に閉められていた。境内に入ることはできない。

名張から京都までは1時間半を要する。 テクテクで京都まで来るのはおっくうだったので、2007年3月までは京都を訪れることはなかったが、次々に無くなっていく近代建築を今のうちに見ておこうと決めて、3週連続して京都を訪れた。

京都の近代建築@(烏丸)2007年4月
京都の近代建築A(今出川)2007年
京都の近代建築B(東大路)2007年


三十三間堂は京都の近代建築Bで来ている。2007年4月28日のことである。その折の探訪記をみると、チャント500円の拝観料を払っている。無料で境内に入ることはできなかったのだ。10年近く前のことといいながら、なんと人の記憶は頼りにならないものかと思わされる。 名張から京都まで直通の近鉄を使えば、案外に気楽に京都へ行くことができるとわかって、テクテクで京都を訪れる回数が増えた。

京都・高山寺2008年6月
京都・醍醐寺2008年7月
宇治川と平等院2010年3月
京都・東寺から東福寺2010年9月
京都・伏見区日野2015年6月
京都市・双ケ丘近辺2015年9月
京都市・金戒光明寺2016年9月


南大門(重文)。秀吉時代に造営した巨大大仏を収めた方広寺は三十三間堂もその域内に含んでいたという。

南大門は方広寺の南限を示すものである。門は 子の秀頼が建てた。桃山風のスッキリしているが大ぶりな門である。切妻造・本瓦葺き。3間1戸の8脚門である。

醍醐寺の開山堂や東寺の金堂と同じ匂いを感じさせるのは、ともに秀頼時代の桃山様式であるからであろう。


南大門をくぐって向こうの道路にでると、 門の左手(西側)に重文であるの板札が立っていた。

この裏にある塀は築地塀であり、本瓦で葺いてある。これは豊臣秀吉が築かせたもので「太閤塀」と呼ばれている。これも重文である。

三十三間堂の敷地に含まれていないのか、三十三間堂が管理していないのか、南大門も太閤塀もやや荒れた感じだ。

立ち止まっている道は塩小路(しおこうじ)である。「小路」というのだから次図のように広い道ではないが、この道はJR京都駅前の広い道路に通じている。JR京都駅前の京都タワー(山田守)や関西電力京都支店(武田五一)のビルが立ち並んでいる。


吉川「新平家物語」の冒頭で、清盛の父親の平忠盛が

『平太よ。また塩小路などを、うろうろと、道草くうて、帰るではないぞ』

平太とは清盛の若い時の名である。清盛は忠盛の長男で、今日は忠盛の借金の使いに出されるのだが、これを繁華街・歓楽街で使い込んではならぬぞ、とあらかじめ忠告されたわけである。

しかし借金をした後に自然と雑踏する塩小路(今のJR京都駅前のあたりの)に足が向いた。塩小路は市場があり、焼き鳥を売る店があり、酒売りがおり、遊び女たちがたむろしている。若い清盛には素通りできない魅力的な一画である。

ここで勧学院(貴族や武者の初等教育をする学校)の同窓である遠藤盛遠と出会った。盛遠は後に神護寺を再興した文覚(もんがく)である。 酒を飲んでいると盛遠は祇園女御(ぎおんのにょうご)について語った。清盛の母親は泰子というが、その昔は白河院の寵姫であり、祇園女御と呼ばれていたという。しかも清盛の本当の父親は白河院であって、忠盛ではないという。清盛は驚愕する。

なぜ白川院の手がついた祇園女御が忠盛のもとへ嫁してきたのかについては今日最後に訪れた八坂神社のところで述べるが、白河院は平忠盛をいたく気にいっていたらしい。気に入った家臣には、自らが着た衣を与えることがある。破格の場合は自分の寵姫を与えることがある。 かつて天智天皇がその妃の鏡王女を藤原鎌足に与え、鎌足は正妻として迎えたが、そのとき王女は身籠っていた。生まれた子供が鎌足の長男の定恵(じょうえ)であるという説があるが、清盛はこれとそっくりな生まれかたである。


塩小路通を100mほど東に歩き、東大路通を200mほど南下すると、新熊野神社があった。「新熊野」と書くが読みは(いまくまの)である。

先に法住寺殿の地図を掲げたが、この辺一帯は法住寺殿の域内であり、上皇の私邸である法住寺南殿が建ち、広い苑池が掘られていた。その脇に新熊野神社があった。後白河上皇は生涯に34回も熊野御幸をしているほど熊野好きである。

ひとたび御幸(ごこう)に出ると往復で1か月はかかったというから、京都の御所(法住寺殿)にこれを勧請し熊野権現を祀りたかったのであろう。神社を 建てたのは清盛である。熊野は平家にとっても重要な神社であって、清盛の絶頂期に西八条へ私宅を建てたが、そこに熊野権現の子供である若一神(にゃくいち)を勧請している。若一神社は今でも現存する。


新熊野神社の拝殿。平瓦葺きである。貧相過ぎてがっかりだ。

由緒書きによると、
  1. 1160年に後白河上皇が勧請し、

  2. 清盛が熊野の土砂や材木を運び、

  3. 那智の浜辺の青白の小石を敷きならべて、霊地熊野を再現した。

  4. しかし応仁の乱で荒廃してしまい、江戸期1673年に再築された。
とある。地図を見ると私立大谷高校・大谷中学があって、かつての広い苑池は学校のグラウンドになっているようである。

東大路通を北に引き返し、七条通を西に200mほど歩くと、大和大路七条の交差点がある。北東角に交番があって「東山警察署・大仏前公園」と書かれている。

ここにはかつて大仏殿が建っていた。寺の名は方広寺。秀吉が創建し、秀頼が2度にわたって再建(1614年) したが、1798年に落雷によって焼失した。その後幕末近くに有志によって木像大仏および大仏殿を再建したが、秀吉・秀頼時代のものに比べてスケールは格段に小さかった。今はそれさえも残っていない。

平家物語とは無関係の方広寺を訪れるのは、1か月ほど前にNHKの番組「歴史秘話・ヒストリア」を見たからである。大仏殿の大仏を乗せた八角の基壇が発掘されているそうである。それと以前から気になっていた「正面橋」を見たかった。

方広寺が1798年に焼失する前の洛東は右図のようなものであった。
  1. 方広寺・大仏殿
  2. 三十三間堂
  3. 清水寺
  4. 八坂の塔(法観寺)
  5. 八坂神社(祇園社)
  6. 東本願寺
  7. 五条橋
  8. 正面橋
  9. 七条橋
隣の(b)三十三間堂の長さは、120mほどであるが、これを凌駕する巨大さである。ただし絵は方広寺の大きさをやや誇大に描いてるようである。 方広寺大仏殿は2000年に発掘されて、南北90m・南北55m・高さ49m(高さは推定)の規模であったことが判明している。

二層に見えるが母屋に裳階(もこし)が巻いた一層(1階建て)である。建物の高さは18mといわれる大仏を収める必要があったので、異様に腰高な建物となっている。

(h)が正面橋。方広寺の正門に通じる。


図会を見ると三十三間堂は方広寺の境内に含まれている。方広寺境内の北限は五条通、南限は七条通よりさらに南の塩小路通まであったようである。

清盛時代はここに何が建っていたかというと、七条から五条(その北の松原通まで)にかけての一帯は六波羅と呼ばれここに平家の邸宅や庁舎が集中していた。

方広寺が焼失した後、大仏殿のあった場所の半分は民有地になっていた。明治13年(1880年)に正面橋の正面に豊国神社が建立されたが、神社であるからその規模は大きくない。

政府は民有地を買い上げ、明治28年(1893年)に京都国立博物館(当時は帝国京都博物館)を片山東熊の設計によって建設した。

元の方広寺は、北側に創られた豊国神社と南側の京都国立博物館に分断された。

右図は京都国立博物館の北側から始まる石塁である。秀吉時代はこの石塁が方広寺を取り巻いていたと思われるが、残っているのは博物館より北側の部分だけである。

写真の右手は東なので、東山の山裾が緩やかに下ってきている。方広寺境内を平地にするために石塁を築いて高さを調整したと思われるが、この堂々とした石積みの連続はどうか? 

方広寺という政治的にはさして重要な寺とは思えない境内を区画するために秀吉はこれほどの手間をかけたのである。

豊国神社の石鳥居。鳥居の前の道は南北に通じる大和大路である。鳥居から手前(東西)に延びる道は「正面通」である。

何に対しての正面かというと、秀吉時代は方広寺の正門が正面であり、明治になって豊国神社が造られてからは神社の正面となった。

神社の鳥居に沿う大和大路は、この部分だけが異様に道幅が広い。同じく正面通も道幅が広い。

豊国神社には入らず、正面通を西に向かっている。写真は豊国神社を振り返りながら撮ったもの。奥に神社の鳥居が見える。

私はドンドン手前(西)に向かって歩いている。西へ歩けば鴨川に突き当たる。

鴨川に突き当たった。白いタクシーの背後に「正面橋」がある。正面橋を渡った道も正面通であるが、道幅は格段に狭くなる。

タクシーが通っている道は川端通。鴨川に沿う南北の道路である。

正面橋は渡らなかった。上図の川端通と正面通が交差する南東角に「大仏餅」を売る(昔でいえば)茶店がある。甘春堂という。

餅を売っているのだから高級な和菓子屋ではないと思うが、NHKの「ヒストリア」でみた感じは大変好ましかった。

同行のAさんを誘って店内に入った。餅と干菓子がショーケースに並べられている。大仏餅はあんころ餅に「大仏餅」の焼き印がつけてあるだけである。

多くは8個入りとか12個入りの箱ごとを販売しているようであるが、店の一角に縁台があって、5〜6人が餅を食べることができる場所がある。

店内で食べたいというと、「あちらへ」と案内していただいた。大仏餅は1つ130円と表示されていたが、2人前として2つを注文すると1つ120円になった。2人合わせてタッタの240円である。

餅を食することができる一画はガラス貼りで、正面橋が眼前にある。おお、正面橋を見ながら大仏餅が食えるかと気分が高揚する。店員さんがお盆に乗せて運んできたのは、@大仏餅、A煎茶、B干菓子 のセットであった。これには意表を突かれた。

1人前120円でこのセットである。店頭で1個130円で売るならばラクであろうに、1人前120円の大仏餅にこれほど手厚いサービスをしている。感激である。

京都は観光地であるから、京都ブランドを利用して法外な値段をつける店もある。だがこの甘春堂は元は茶店であったことを忘れていない。遠くから大仏を見にやってきた旅人に餅をふるまうのだということをよくわきまえている。 京都に行くならばタクシー代を使ってでもぜひ正面橋東詰めにある甘春堂を訪ねることを勧めたい。


正面橋から引き返して、豊国神社の神門に戻った。唐門である。この門は国宝である。秀吉や秀頼が建てた桃山様式の建築物は豪壮であるといわれているが、残念なことにこの門は豊臣が建てたものではない。

1615年に大阪城が落城して豊臣家は滅びた。当初の豊国神社は方広寺大仏殿の背後に建てられていたのだが、幕府の意向によって閉鎖され、朽ちるがままに放置されたという。

明治13年(1880年)にこの地に神社が再建され、南禅寺の金地院にあった唐門が移築された。つまり豊臣期のものは何一つ残っていないのである。


豊国神社の左手に方広寺の梵鐘がある。梵鐘に彫られた銘文の中に、「国家安康」とあるが、これは「家康」の名を分断して徳川を呪うためのものである。また「君臣豊楽」とあるのは「豊臣」を君とせよというものである。

かような屁理屈をもって徳川家康は秀頼にイチャモンをつけた。そして大阪の陣が始まり、豊臣家は滅びたという話は有名である。

梵鐘の銘文は長いものだが、「国家安康」と「君臣豊楽」の文字の彫りは白墨で埋められ、さらに白い線で囲ってあるのですぐに目につく。

日本の3大梵鐘は、@東大寺、A知恩院、B方広寺 のものだという。鐘楼は明治期に再建されているので、梵鐘だけが方広寺に唯一残る遺物である。

梵鐘の脇に方広寺の駐車場があって、ここへ入ると豊国神社の裏側に抜けられる。これはNHKのヒストリアを見て知っていたので早速やってきた。

大仏殿はここにあった。単なる野原である。右側に豊国神社がある。基壇の8角形の角ごとに「ヘ」の字型の石が置かれているという。2つほどは認識できたが残りはわからなかった。親子がボール投げをして遊んでいた。

NHKヒストリアでは左側にある阿弥陀がケ峯にある豊国廟に登っていた。廟へ行くには500段を超える石段を登る必要があるそうだが、私の体力では無理である。

方広寺や京都国立博物館があるところ(昔の五条大路から七条大路の間)は、六波羅と呼ばれていた。右図の古い地図では五条大路はきちんと東西に通っているが、現在の五条通はずっと南側に作り替えられている。

今の五条通は六波羅蜜寺や清水寺より200〜300m南を通っているが、これはかつての六波羅と鳥辺野(とりべの)の場所である。昔の五条大路は現在の松原通に当たる。

また六条大路も大きく変わり、現在では鴨川近くには六条通りはない。(渋谷通はある。)

平安時代の葬場は六波羅と鳥辺野であった。おおむね貴族は鳥辺野に葬られ、庶民は六波羅に埋められた。火事・地震・洪水・飢饉などで多くの死人がでたときは、そこに運び放置した。遺体は鳥に啄まれるか、腐敗して消えて、そのうち骨だけになった。「鳥葬」あるいは「風葬」である。


平家が六波羅に拠点を求めたのは、清盛の祖父の平正盛からである。この時分は武士階級は公卿に少しずつ認められつつあったが、所詮は貴族の番犬であるとしか思われておらず、地下人(じげにん)と呼ばれていた。

だが次の平忠盛の世代になると武家のもつ武力というものに貴族はかなりの恐れを持ったようである。忠盛は白河院に気にいられ、次の鳥羽院のときには殿上人になる。皇居の参殿を許されたのである。しかし因循な貴族はこれを無視し、意地悪をした。

忠盛までは、武家である平氏の私宅は洛中には造れず、死者が捨てられる六波羅に建てるしかなかったのであろう。


正盛が建てた館はわずかに1町四方の家であったが、忠盛の位階が上がるとともに居宅は大きくなり、清盛が忠盛のあとを継いでからは、平家の居宅は六波羅に集中した。5200あまりの建物が並んだという。

上の図の惣門とあるのは平家の六波羅の玄関口のようなものである。中には「泉殿」や「池殿」や六波羅蜜寺がある。平頼盛邸(清盛の兄弟)・平教盛邸(清盛の兄弟)・平光盛邸(頼盛の子)があったと推定されている。「小松殿」は平重盛(清盛の長男)の邸宅である。

小松谷の正林寺に行った。平重盛の別邸があったといわれるところである。楼門は立派であったが、境内では保育所が最も広い場所を占めていた。土曜日とあって保育園は休みである。尋ねる人も見当たらず、どこが本堂であるのかわからなかった。


重盛は1179年に42歳で亡くなっている。晩年は正林寺に方12間四方の灯籠堂を建て、48の灯籠を灯して念仏三昧に明け暮れたという。清盛には大勢の子供がいたが、長男重盛・次男基盛は清盛が若い時分の妻(高階基章の娘)との子である。母が死んだ後清盛は平時子を継室とし、宗盛・知盛・重衡らをもうけた。

時子に繋がる@宗盛系(時子の子たち)、A時忠系(時子の兄)と平家に批判的なB頼盛系(清盛の兄弟)がそれぞれ勝手なことを言って、嫡男である重盛を苦しめた。

現在の六波羅はかつての平家の邸宅が建ち並んでいた面影はまったくない。洛東の下町である。道は狭く、肉屋・八百屋・洋品店など小さな商店が猥雑に並んでいる。

そこを歩いていると、「池殿1番地」の町名が民家の壁に表示されていた。上図の地図の「池殿」は頼盛の邸宅があったところである。現在の地図をみると役所が定めた町名ではなさそうだが、「池殿」の名は残っているのだ。


「池殿1番地」から100mも行かないところに六波羅蜜寺がある。その昔(950年ころ)に空也上人が堂を建て、十一面観音像を安置したのが始まりである。空也は観音像を車に乗せて市中を引き歩いて、念仏を唱えて庶民を救済しようとした。町中に出ていくので「市聖(いちひじり)」と呼ばれた。

その後、堂は六波羅蜜寺と名を変えた。図の十一面観音はレプリカでブロンズの像であるが、本物は国宝である。本堂には地蔵菩薩像も祀られているというが、本堂の厨子の扉は閉じられていて、観音も地蔵も見ることはできなかった。

本堂は南北朝時代のもので重文である。本堂の裏に宝物収蔵庫がある。ここには多くの重文の木像が収められている。


最も有名なのは空也上人像だが、平清盛像も名高い。鎌倉期のもので重文。このほかに四天王像・地蔵菩薩像・吉祥天像・閻魔大王像・運慶像・湛慶像など14体の重文の彫刻がある。

清盛は我儘で傲慢な人物だと伝えられているが、この像を見ると、とうていそうとは思えない。平家納経のような巻物になった経文を左手に持ち、右手で広げて読んでいる。

表情は悲しげである。「諸行は無常」を強く感じ、仏のもとで安心立命を得ようとしているかのようだ。



(次図)六波羅蜜寺の前の道を北にわずかばかり歩くと松原通である。この道は平安期の五条大路であるが、松原通に面して飴屋がある。 赤い幟には「幽霊・子育飴」と書いてある。「幽霊」となるとオドロオドロしい。

「幽霊」とあるわけはこうである。若い女が店仕舞い間際に飴屋に飴を買いに来はじめた。毎夜のことなので飴屋は不思議に思って女の後をつけたところ、墓場で姿を消した。

飴屋は近くの寺の坊さんにこのことを話して、墓場を掘ってみた。すると女性の遺体のそばに赤子がいた。なんと生きている。

女性は埋められた後に出産し、幽霊となって毎夜飴を買って、子供を育てていたのである。 赤子は引き取られて育てられ、のちに立派な僧になったという。

幽霊飴屋の前は「六道の辻」である。

謡曲に「熊野(ゆや)」がある。平宗盛は熊野(ゆや)を寵愛していたが、熊野は母親が病気になったので暇乞いをした。


宗盛は熊野を失いたくないので、清水寺に花見に行こうと誘う。このときの道行(みちゆき)は次のとおりである。四条、五条を過ぎて・・・

『河原おもてを過ぎゆけば、急ぐ心のほどもなく。車大路や六波羅の地蔵堂よと伏し拝む。観音も同座あり、闡提救世(せんだいぐぜ)の方便あらたに、たらちねを守りたまえや。

げにや守の末すぐに、頼む命は白玉の、愛宕(おたぎ)の寺も打ち過ぎぬ。六道の辻とかや。実に恐ろしやこの道は、冥途にかよふなるものを 、心ぼそ鳥辺山。』

車大路は大和大路のことである。鴨川から牛車に乗って清水寺に行く道中の景色を言っている。

松原通を少し東に上がっていくと、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)がある。

六道の辻は「熊野(ゆや)」にもあるように恐ろしい道であった。辻は此の世とあの世の境なのである。

六道とは6つの冥界を指す。@地獄界・A餓鬼界・B畜生界・C修羅界・D人間界・E天上界である。人が死ぬと六道の辻でどの冥界に行くのかが決められる。 決めるのは閻魔大王である。

珍皇寺の本堂。本堂の右手奥には、あの世に通じる井戸があり、小野篁(おののたかむら)はこの井戸を伝って下りて、地獄の閻魔のもとに行き、閻魔の書記のようなことをしていたらしい。

したがって、誰がいつ死ぬかをいうことを知っていたという。篁に頼めば地獄界から抜け出ることもできたらしい。

六道珍皇寺は現在では建仁寺に所属している。派手な山門を入ったところに閻魔堂(篁堂)があり、閻魔大王が祀られている。

小野篁の像もあるといわれているが、今は祀られていないようで、見当たらなかった。


六道珍皇寺のすぐ北は八坂通である。建仁寺は八坂通に南面している。近いところにあるのだからと建仁寺にやってきた。初めて訪れたのだが雰囲気のよい寺であった。禅宗の寺院であるが、堅苦しさがない。

図は栄西を供養する開山堂である。「扶桑仏心宗第一開山・千光祖師栄西禅師入定塔」という石碑が立っている。

特に重文とか国宝でもなさそうなので、新しく建てられたものかもしれないが、花頭窓のついた二重門の形は端然と締まっていて、緊張感がある。よい建物だ。 ここばかりは少し緊張させる寺院であった。


山門(望闕楼。ぼうけつろう)。この3間3戸の二重門もなかなかよい。ただし昭和初期に浜名市から移築したものであるらしい。(建仁寺そのものの古くからの建物は少ないのは残念だ。)

上図の開山堂の二重門と比べると、それは開山堂のほうが引き締まっていて好ましい。

屋根が大きければ屋根の隅の軒はより高くできる。だが中国の寺院のように大仰に反り返った屋根はちょっとアクが強すぎる。

日本人好みとしては、この山門の屋根はもう少し反ったほうがよいと思われた。一層目の屋根が少し元気がなく垂れ下がっているような印象である。(まあシロートの勝手な思いではあるが)


法堂(はっとう)はすごくよい。1765年に建てられた建仁寺そのものの建物である。

板張りの扉の所々が修繕されて新しい。痛んだ部分だけを修理するという気分がアッケラカンとしている。

板が揃っていないとか、見栄えが美しいとか、姿がよいとか、そういう小さなことには気を揉む必要はなかろうという精神である。これを見たからには建仁寺のファンになってしまいそうである。

この裏(北側)には方丈があって重文であるそうだが、広島から移築したものであるという。建仁寺独自の建物は少ない。少ないが、それを統合した建仁寺はステキである。


建仁寺を出ると花見小路通である。

建仁寺は祇園のド真ん中にある。花見小路の東側には弥栄会館(木村得三郎)や祇園甲部歌舞練場がある。

大勢の観光客と車を避けながら歩いた。女性の観光客はレンタルの着物を着ている者が多い。「写メ」で自身が歩く姿を撮っている。

そこまで自分の姿かたちに執着するかと疑問に思うのだが、アプリを使えば飛び切りかわいい写真が撮れるそうだから、衣装にいくばくかの費用をかけていると見える。

一方で、羽織をきた男性も結構いた。女性とペアで和服を着ているようだが、私なら照れて拒否する。ウーム、若者は目一杯京都の観光を楽しんでいるのかなあ。

花見小路をようやく抜け出て、四条通を東に曲がると八坂神社がある。

昔は祇園社と呼ばれていた。いまでもこの神社の祭りは祇園祭といい八坂祭りとはいわない。どういうわけで八坂神社と名を変えたのであろうか。

その昔はスサノオ命こと牛頭天王を祀る神社であり、寺院でもあった。神仏習合のややこしさである。 実際のところ祇園社は平安期には延暦寺の末寺であって比叡山の配下にあった。

スサノオは祇園精舎の守護神だとされ、仏教・神道の二面から参詣客が絶えなかった。しかし 明治初期に行われた、馬鹿げた廃仏毀釈によって、神社と寺が分けられた。祇園社は神社に衣替えをして「八坂神社」になったようである。

神社境内の道々には露天商が店を連ねていて、まるでお祭りのようである。

私は雑踏に揉まれるのは好きではないが、八坂神社の境内の北に「忠盛灯籠」があるということを知って、今それを訪ねている。

平忠盛は清盛の父親で、白河上皇、ついで鳥羽上皇の信を得て、武家として初めて殿上人(でんじょうびと)となったということは先にいった。

晩年の白河上皇は祇園女御を寵愛しており、祇園社の近くに住まわせていた。

時折忠盛を従えて祇園女御の館に通ったのであるが、ある雨の降る夜、祇園女御の許へ行く道筋の灯籠の前で、頭に角が生え、手に槌を持ち、怪しげな光を発する化け物に遭遇した。


白河院は恐れて、直ちに忠盛に「化け物を斬れ」と命じたが、忠盛はいきなりは斬らずに化け物を組み伏して捕えた。捕えて見るとそれは堂守であった。

雨が降っていたので藁を束ねて頭に被り、油壺と松明を持って、灯籠に灯を入れていたのである。

白河院は動揺した自分を恥じたのであろうか、忠盛の勇気と冷静さに感心し、後に寵愛していた祇園女御を忠盛に与えた。

その堂守が火を灯そうとしていたのが、写真の灯籠である。以後この灯籠は「忠盛灯籠」と呼ばれることになった。これが平家の発展のスタートとなったのである。


祇園女御の塚があると聞いていたので、行ってみたが、それは塚ではなく新しい五輪塔であった。

今日は平家物語にちなみがあると思われる場所を多く訪ねたが、さすがに800〜900年年前の平安期のものはほとんど残っていなかった。(そもそも平安期を代表する寝殿造の建物・庭園はひとつとして残っていない。)ガッカリしたが、まあそんなものだと納得するしかなかった。

12月3日に京都にいったのだが、2日後の12月6日から下痢と嘔吐に悩まされ、5日間ほどストーブの前でゴロゴロしていた。文章を書いたり、仕事をする気力はまったく失っていた。

どうやら京都の雑踏に揉まれて、風邪かウィルに感染したようだ。12月11日に下痢は止まったが文章を書く気はおこらず、テクテクの日から2週間たってから書き始めた。だから記憶が曖昧で、印象も消えかけており、十分なことは書けなかった。万歩計は23600歩であった。無理をした。




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