京都市・金戒光明寺

    No.102.....2016年 9月 3日(土曜)


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かねてより訪れてみたかった金戒光明寺(こんかいこうみようじ)にいってきた。 右の10か所を順番に歩いた。
  1. 金戒光明寺
  2. 武徳殿
  3. 京都御苑・清和院御門
  4. 京都御所・猿ケ辻
  5. 京都御苑・蛤御門
  6. 京都府庁(京都守護職屋敷跡)
  7. 京都ホテルオークラ(長州屋敷跡)
  8. 一之船入
  9. 池田屋跡
  10. 近江屋跡
金戒光明寺は、京都にある浄土宗の四箇本山のひとつである。これはこれで有名なのだが、幕末、会津の松平容保(かたもり)が京都守護職に任ぜられ、会津兵を率いて上洛したときの本陣があった寺としてより名高い。

金戒光明寺は左京区黒谷にある。京阪電車の神宮丸太町で下車した。「神宮」とは平安神宮のことである。丸太町通りを東に1kmほど歩けば平安神宮があり、その先に丸太町通りの北側、やや奥まった場所に金戒光明寺がある。

市バスで行けば5分か10分で行けそうだが、バスを待つ時間を勘定に入れると徒歩と変わらない感じなので、歩いていくことにした。歩けば歩いた分だけ何事かが発見できるものだ。

丸太町通りを東に向かっている。正面の山は東山。

西に向かえば京都御苑の南端の堺町御門に至る。つまり京都守護職本陣から丸太町通りをまっすぐ西へ向かえば一直線で御所に行ける。金戒光明寺は守護職本陣としては最適な場所なのである。


聖護院八ツ橋・総本店があった。白い暖簾には「創業元禄二年」とある。

「蒲生君平先生仮寓御址」の石碑が立っている民家もある。

蒲生君平は、高山彦九郎・林子平とともに「寛政の三奇人」と呼ばれる尊王思想家である。京都 の歌人小沢蘆庵の邸に滞在して、天皇陵の研究をした。その後関西の古墳の実地調査をして廻り、1808年に「山陵志」を著した。墳丘の形や石室・玄室などについても調べ、初めて「前方後円墳」と名づけた。

君平の石碑の隣に低い石碑が立っているが、ここには「小澤 蘆庵宅址」とある。この家は小沢蘆庵の邸であったのだ。

丸太町通りから北に折れて、岡崎道を進むと花屋に突き当たる。右に行けば金戒光明寺であると花屋の看板に「→」の道しるべが描かれている。

高麗門。

徳川幕府は京都の運営に並々ならぬ力を注いだ。まずは二条城を作り、近くに京都所司代を置いた。

ついで知恩院と金戒光明寺を城構えにし、事あれば寺に軍隊を配置できるようにした。 知恩院の山門は巨大(桁行26.6m、棟高23.8m)であるが、寺院を構成するものである。


高麗門は寺の山門ではない。山門は高麗門を入った左手の小高い丘の上に建っている。従って高麗門は寺院に必須の門ではなく城構えを構成する門であるといえる。

高麗門を潜ると左手は石垣である。この上に金戒光明寺がある。

会津墓地参道の道標がある。会津墓地に参る人は多くあるらしい。


参道の左側に20段ほどの石段があって、山門が聳えている。二重門である。

案内板によると山門楼上には後小松天皇(在位1382〜1412年)の勅額が掲げられているらしい。逆光でよくは見えないが二層目の軒に額が掲げられている。

「浄土真宗最初門」と書いてあるらしい。(浄土真宗とあるが、真の浄土宗という意味で、本願寺の「浄土真宗」ではない)


この山門は万延元年(1860年)に再建されたとも書いてある。万延元年は勝海舟が咸臨丸に乗ってサンフランシスコに派遣された年であるから、知恩院の山門(元和7年・1621年 建立)よりはよほど新しい。

松平容保が会津兵を率いて金戒光明寺に入ったのは、文久2年(1862年)12月24日であるから、山門ができたばかりであったことになる。

門は3間3戸である。桁行が3間でどの3つも通ることができる。


山門下から本殿(御影堂・みえいどう)を見上げる。御影堂は20段ほどの石段の上に建つ。左側には塔頭(たっちゅう)が並んでいる。右側には大方丈が建ってる。

会津藩兵が上洛したとき、寺は25の塔頭と大方丈を明け渡したとの記録が残っているらしい。 1000名の会津藩兵は塔頭に分かれて駐屯し、松平容保は大方丈で起居したのであろうか。

御影堂。御影堂と大方丈は昭和9年に焼失した。まず大方丈がすぐに再建された。大方丈の設計は武田五一による。

次に昭和14年から本堂の再建が始まり昭和19年に竣工している。設計は建築史家として著名な天沼俊一である。

本堂は桁行7間・梁間7間という大きさである。屋根は入母屋・本瓦葺。

御影堂には法然75歳のときの座像が祭られているという。

梅原猛さんの「法然の哀しみ」によれば、法然の一番弟子は信空(しんくう)である。信空が12歳のとき、比叡山の叡空のもとに入門したが、法然は25歳で同じ叡空を師としていた。

叡空がなくなった後は法然の弟子となり、43歳で法然が専修念仏を始めたときも、これに仕えた。12歳から50余年間、上人の教えを受けたのである。

法然が66歳のとき病気をした。法然は遺書をしたため白川の里坊を信空に譲るとした。その地が金戒光明寺のある場所である。

法然が最もかわいがったのは源智(げんち)であった。法然が63歳のときに弟子入りし、法然が亡くなったとき法然の持つもの一切を譲られている。 法然が入寂する2日前に、源智は法然に願い「一枚起請文」を書いてもらった。これが金戒光明寺に伝わっている。法然の真筆である。源智は法然の死後、法然が山を下りて最初に滞在した賀茂の河原に寺を建てて、そこに住んだ。これが百万遍知恩寺である。


阿弥陀堂。1605年に豊臣秀頼によって再建された。金戒光明寺で最も古い建物である。

法然が65歳のとき弁長(べんちょう)が弟子入りした。弁長は36歳であった。2年後に弁長は選択集(せんじゃくしゅう)を授かる。

法然72歳のとき延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を訴えた。信空は「七箇条起請文」を書き、法然の弟子たちに署名させ、叡山の批判を鎮めようとした。


清和殿。何に使われているのか知らないが連子窓が連続していて美しいので撮った。

このとき法然は弁長を故郷の九州に戻した。弾圧を受けることを避けさせたようである。弁長は九州で専修念仏の教えを広めた。浄土宗鎮西派である。

弁長の弟子良忠は鎌倉に光明寺(大本山)を建て、京都には知恩院(総本山)を建てた。

このようにして、金戒光明寺(大本山)、百万遍知恩寺(大本山)、知恩院(総本山)ができていったのである。


写真中央は御影堂。その右側の本瓦葺建物が大方丈であるが、庭木が立ち並んでいて見えない。

京都四箇本山のうちの残りの清浄化院(せいじょうけいん)は法然以前からあった古い寺である。天台の慈覚大師円仁が宮中に建てた寺であったらしい。

後白河法皇は高倉天皇・後鳥羽上皇とともに、法然を戒師として受戒されたが、そのときこの寺を法然に下賜し、以来浄土宗の大本山になったそうである。

したがって弟子たちが建てた寺ではない。



阿弥陀堂の裏の石畳を少し下ると池があり、池には石橋がかけられている。池は「蓮池」と呼ばれ、橋は「極楽橋」と呼ばれている。熊谷次郎直実(なおざね)にちなむものである。

橋の正面には長い上りの石段があり、三重塔が建っている。

橋を渡った手前右手の瓦屋根は、熊谷次郎直実が法然に師事して蓮生(れんせい)となり、住んだ蓮池院であろうか。(行っていないので不確か)

少し奥の高い、屋根が宝形造(ほうぎょうづくり)の建物は法然の御廟である。法然の遺骨が分骨されているという。


極楽橋を渡る。右手の池には蓮が群生している。

熊谷次郎直実は平家物語で語られている。有名なのは一の谷の合戦で平家を追い詰めたとき、我が子と同じ年ごろの若い平敦盛の首を泣く泣く切ったことである。

平家が滅亡し、直実は武蔵国に帰ったのであるが、父の領地は叔父に奪われていた。幕府に訴えたが荒くれ武士である直実は弁が立たず、腹を立ててモトドリを切って出家する。


右手の池には蓮はなく、錦鯉が泳いでいる。

知恩院に「法然上人絵伝」という絵巻物が伝わっている。正しくは「法然上人行状絵図」というが、48巻よりなる法然の伝記である。

この絵伝の27巻に直実(法力坊蓮生)のことが書いてある。蓮生が法然の草庵を訪ねて、後生菩提について問うたところ、法然は、

『罪の軽重をいはず、ただ念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし』と語った。

蓮生は大声をあげて泣いた。法然がなぜなくのかと問うと、往生するには手足を切り命を捨てねば難しいと思っていましたが、念仏さえ称えれば往生できるとおっしゃったので、あまりに嬉しくてなきました、と答えた。

法然は『無智の罪人の念仏申して往生すること、本願の正意なり』といった。


石段を登って三重塔へ向かう。左右は墓地である。

司馬(遼太郎)さんは「街道をゆく」の「(33)白河・会津のみち」で会津藩について書かれているが、冒頭で

『会津藩について書きたい。なにから書きはじめていいかわからないほどに、この藩についての思いが、私の中で濃い。』

と言われている。藩祖の保科正之のこと、京都守護職であった松平容保のこと、戊辰戦争で朝敵となって落城した会津若松城のこと、斗南藩に移った藩士の惨憺たる苦労、などなどを思われるのだろうか。


司馬さんは1962年5月〜1963年12月まで「新選組血風録」を連載されたが、同じ年の1962年6月〜1966年11月まで「竜馬がゆく」を連載され、同じ年の1962年11月〜1964年3月まで「燃えよ剣」の連載をされている。

この間(1963年1月〜12月)に幕末に起きた暗殺事件についての12編の短編小説を執筆されているので、1962年〜1964年は幕末に没頭されていたらしい。

松平容保を描いた「王城の護衛者」は1965年9月に、徳川慶喜を描いた「最後の将軍」は1966年6月〜12月までで、だいたいこれで幕末期の小説は終わる。

三重塔から西を見る。中央の山の鞍部は嵐山、手前の古墳のような丘が昨年訪れた双ヶ岡。




会津墓地へ向かう。

「王城の護衛者」は100頁ほどの短編小説である。多くの読者もそうであろうが、私も読むたびに胸がつかえ、思わず泣いてしまう。

@孝明天皇と容保の交流のこと、A鳥羽伏見で破れ、徳川慶喜に裏切られること、B会津城落城と容保の謹慎のこと、C容保が死んだのちにいつも身に着けていた竹筒を遺族が開けたところ、孝明天皇から容保へあてた宸翰が入っていたこと。

司馬さんは@で泣かせ、最後のCで大泣きをさせる。司馬さんの小説は泣かせる場面はほとんどないが、この小説だけは違う。


容保が、福井の松平春嶽(政事総裁職)と一橋慶喜(将軍後見役)に押し切られて、京都守護職に任ぜられ、上洛したのは文久2年(1862年)12月24日のことである。

当時の京都の治安はひどいものになっていた。各国から脱藩浪士がやってくるし、農民や町人が浪士然として大小刀を差して暴れる。開国派や佐幕派を路上で切る者がおり、商家におしかけて攘夷資金を強要する者もいる。500人くらいの浪士が好き勝手をする無政府状態にあった。

容保が率いる1000人の会津藩士が列をなして、蹴上の坂を下り、三条大橋の東詰に着いた。京都人はこぞって会津の隊列の見物に集まった。

容保は陣羽織を着て馬に跨っていたのだろうか。写真に見るようにキリリとした容貌であるから、見物人らは「さすがは会津様や」と感心し、これで京も安心だと思ったことだろう。


会津墓地。文久2年〜慶応3年(1867年)の5年間で斃れた会津藩士の墓がある。元治(げんじ)元年(1864年)の蛤御門の変や慶応4年の鳥羽伏見の戦いの戦死者が祀られている。会津は遠い。死者は金戒光明寺に祀られた。

長州屋敷は河原町御池にあり、薩摩屋敷は今出川烏丸にあった。ここにいたのは長州・薩摩藩士であるから、浪士のような無茶はしない。長州藩士や薩摩藩士は宮廷工作をする。薩摩は穏健派の公卿を、長州は過激派の公卿を味方につけ陰謀を巡らせていた。


墓地はきちんとはしていないが、墓はグループになっている。斃れた時期ごとに墓をまとめてあるのか、身分によって分けてあるのか・・・

手荒なことをしなければならないとき、長州は尊攘浪士らに金を与えて殺戮させていたのだが、会津が市中の巡察を始めると浪士はしばらくはナリを潜めた。

会津藩の藩祖・保科正之は、2代将軍徳川秀忠の4男である。3代将軍家光の異母弟であるが、秀忠は正室達子 (お江・茶々の妹)をはばかって認知せず、信州高遠3万石の保科家の養子となった。


御所に向かって丸太町通りを進む。川の向こうの建物は旧京都中央電話局上分局で、吉田鉄郎の設計。前回来たときはレストランになっていたが、今日見ると食品スーパーになっていた。

正之33歳のとき(1643年)、会津23万石を封ぜられた。会津藩の藩制・民政・藩風は正之が確立したのだが、朱子学を藩学とし、神道に傾斜しているために、会津の藩風は他藩とは少し違っている。

丸太町・寺町の交差点。ここから寺町筋を北上する。

家臣の禄の与え方も変わっていた。会津では2人の家老だけが最高の4000石を与えられた。一方100石以下の小禄者もわずかだった。家臣の85%は400石から100石を与えられていた。 司馬さんは「白河・会津のみち」の中で、

『会津藩は85%の中間層のおかげで密度高い藩風が確立したのである。さらには、教育水準を高めることにも役立ち、もうひとつは結束力もつよくなった』

と書かれている。 会津藩の2代までは保科姓である。3代目から松平姓になり徳川の親藩に列した。松平姓は徳川の親戚であることを意味する。

松平容保は保科正之から数えて9代目の藩主である。江戸幕府において政治をするのは譜代大名から選ばれた老中である。親藩が政治にタッチすることは松平定信(寛政の改革)を除いてはなかった。がこのたびは京の治安を回復する力を持つ藩は会津しかないとされ、容保は新設の京都守護職を引き受けざるを得なかった。


御所(京都御苑)は東西700m、南北1300mの広さである。築地塀で囲まれており9つの門がある。多くは面している通り名がついている。
  1. 乾御門(いぬい)
  2. 中立売御門(なかだちうり)
  3. 下立売御門(しもだちうり)
  4. 蛤御門(はまぐり)
  5. 堺町御門(さかいまち)
  6. 寺町御門(てらまち)
  7. 清和院御門(せいわいん)
  8. 石薬師御門(いしやくし)
  9. 今出川御門(いまでがわ)
御苑の中にある禁裏(京都御所)は東西250m、南北450mの広さ。築地塀で囲まれており6つの門がある。
  1. 皇后門(こうごうもん)皇后の門

  2. 清所門(せいしょもん)皇女の門・勝手口

  3. 宜秋門(ぎしゅうもん)親王や公卿の門

  4. 建礼門(けんれいもん)天皇の門・正門

  5. 建春門(けんしゅんもん)

  6. 朔平門(さくへいもん)




堺町御門。

容保が上洛した文久2年(1862)のころのキーワードは「尊王」「攘夷」「佐幕」「開国」である。長州は「尊王・攘夷」であり、薩摩と土佐藩は概ね「公武合体・攘夷」である。

孝明天皇は極端な「攘夷」であるが親幕府で、幕府は「公武合体・開国」である。

各藩は自らのスローガンを受け入れる公卿に金をバラ撒いて抱きかかえて宮廷工作をした。もっとも過激であったのは「尊王攘夷」の長州である。このころは、桂小五郎や久坂玄瑞(くさかげんずい)らが宮廷工作をしていた。

また尊攘浪士を使って佐幕派・開国派の要人を「天誅」であるとして斬殺させた。



御苑の外の寺町通りを北に歩く。

文久3年(1963年)は長州の倒幕のための陰謀が最高潮になった年である。
  1. 1月2日、容保初めて参内し、孝明天皇から緋の御衣を賜る。

  2. 1月5日、一橋慶喜が将軍後見役として入京する。

  3. 3月4日、14代将軍徳川家茂が上洛する。

  4. 3月11日、加茂行幸。

  5. 4月11日、石清水八幡宮行幸。

  6. 4月19日、幕府は5月10日から攘夷を実行することを約束する。

  7. 5月20日、姉小路公知が殺害される。
  8. 6月25日、家茂は江戸に戻る。
  9. 7月30日、御所建春門外で会津藩兵の馬揃えを天覧に供する。
  10. 8月13日、大和行幸の詔(偽勅)が発せられる。
  11. 8月18日、禁門の政変で長州と七卿は都落ちする。
長州は倒幕を決意していた。倒幕のためには幕府の権威を貶める必要がある。その1つは、天皇は将軍より高い地位にあることを知らしめることである。2つ目は、幕府に攘夷を実行させることを迫り、すでに諸外国と通商条約を締結していた幕府を窮地に追い込むことである。

幕府に無理難題を吹っかけて、幕府を崩壊させようとする陰謀を重ねた。


清和院御門から京都御苑に入る。

加茂行幸は、天皇が公卿と将軍家茂を供にして上賀茂・下賀茂神社まで行列するのである。行列を見物した京の住民は天皇は将軍よりもエライということを一目で知る。

次の石清水八幡宮への行幸は、孝明天皇が将軍を従えて石清水八幡宮に参詣し、将軍に節刀を与えて攘夷を誓わせるのが目的である。

しかし一橋慶喜は将軍家茂を病気であるとして供奉させず、慶喜自らが名代として供をした。今の日本(徳川政権)は諸外国の軍事力にはとてもかなわない。日本が米国・英国・仏国を打ち払うことは不可能であった。

幕府は朝廷から攘夷の勅命を受けるわけにはいかない。慶喜は石清水八幡宮の麓の休憩所からこっそりと引き返してしまった。

一橋慶喜の遁走は尊攘派の志士を激昂させた。朝廷(うしろに長州がいる)は幕府に攘夷実行の期限を切るようにせまった。幕府にすれば5年前に日米修好通商条約を締結し、英仏蘭露国とも同じような条約を締結している。長崎・函館・横浜ではすでに交易が盛んになっている。横浜には外国人居留地もできている。これをひっくり返して攘夷ができるはずがなかった。

どうせできないのだからと、幕府は攘夷決行の日を5月10日と決めた。当面の追い詰められた苦しさを先送りをしたのか、ヤケクソになったのか。攘夷をして日本が砲撃を受けて壊滅しそうになれば、空理空論のバカ臭い攘夷論は無くなるだろうと思ったのかも知れない。たぶん攘夷をすればどのようなことになるのかを現実に見せて、あほらしい攘夷論をそこで葬りたかったのではなかろうか。

実際のところ1863年に薩英戦争が始まり、薩摩は破れて英国にすり寄ったし、長州は関門海峡で米英仏蘭の商船を砲撃したが報復されて、長州の砲台は破壊され敵国の上陸を許すという情けない事態に陥っている。 薩長の敗戦以降も、薩摩と長州は表面上は攘夷をいい続けてついに倒幕に成功したが、維新がなったあとは「攘夷」は消滅した。攘夷は薩長の幕府に対する難癖の手段であった。現実的な政策ではなかった。幕府のほうが現実をよくとらえていたのである。


清和院御門から西へ歩くと京都御所の南角に着く。ここから北へ曲がる。向こうの塀の角の屋根は上に反っている。この下には猿の彫刻があるので、「猿ケ辻」と呼ばれている。

長州派の公卿の代表は三条実美(さねとみ)と姉小路公知(きんとも)であった。その姉小路公知が、文久3年(1863年)5月20日に猿ケ辻において3人の刺客に殺された。

「天誅」は尊王・攘夷派が仕掛け、佐幕派・開国派の要人が犠牲になるのが常だったが、尊攘派の公卿代表が殺されたのである。


猿ケ辻を左に回ると朔平門(さくへいもん)。屋根は檜皮葺。姉小路公知殺害事件は「猿ケ辻の変」とも「朔平門外の変」とも呼ばれる。

司馬さんの短編小説に「猿ケ辻の血闘」(1963年)がある。 ここでは司馬さんは、首謀者はもと会津藩士の大庭恭平とされている。

大庭は、容保が上洛するに先立って先発させた京都偵察団の一人であるが、大庭は尊攘浪士をよそおって浪士と交わり、浪士の考えや動きを探れと命じられていた。

築地塀を西にまわると皇后門。

京に潜入した大庭は剣の腕がたったから、すぐに過激浪士が集ってきた。薩摩の田中新兵衛とも昵懇になった。浪士仲間では頼りにされる存在になった。

大庭は、 @三条卿と姉小路卿を殺せば、長州は力を失う。A殺したのが薩摩藩士であれば薩摩も失墜する。そうなればB長州と薩摩は対立し、会津は京の治安を保てる、と考えた。

大庭は2人の浪士を伴って、姉小路公知を猿ケ辻で待ち伏せした。午後10時ころ朝議を終えた姉小路が宜秋門(ぎしゅうもん)をでて、御所南の建礼門を過ぎて、御所東の建春門を過ぎて猿ケ辻に近づいた。姉小路の邸はその近くにあったからである。大庭は闇の中、姉小路公知を襲った。公知は自宅に運ばれたがそこで絶命した。

なお早乙女貢さんの「敗者から見た明治維新」では、姉小路は宜秋門→清所門→皇后門→朔平門の北回りコースをとったとされ、下手人は田中新兵衛であると書かれている。司馬さんと早乙女さんのどちらが正しいのかは私には判断できないが、会津の陰謀(大庭が下手人)とは思えない。会津が藩として姑息な暗殺を行うとは考えられないのである。

会津藩は武士の組織である。いくら京都を安穏の収めようとは思っても、藩士が無頼の浪人を斬ることはしない。犯人を捕まえることもしない。それらはもっと身分の低い者たちのこ役目である。 その汚れ仕事をしたのが新選組である。会津の暗黒部分を受け持ったのが近藤勇であった。


清所門。御所の勝手口。

事件の現場には刀が遺棄されていた。刀は薩摩藩の田中新兵衛のものであった。京都守護職の会津藩は田中を捕え京都町奉行に渡したが、田中は隙を見て自害した。田中が真犯人であったのか、襲撃した他の2人は誰なのかの真相は究明できなかった。

薩摩藩は御所9門のうちの乾門を警固していたが、その役を外され、薩摩藩士の御所内を往来することを禁じられた。薩摩は京都政局に与える影響力を失墜した。

姉小路公知の暗殺から長州の動きは益々激化した。三条実美を通して帝に幕府が攘夷を実行するように迫った。帝は三条らの動きを苦々しく思っていたが、帝がなんでも決定できるわけではない。参議の決定に従わねばならない。帝は決して宮廷の独裁者ではないのである。帝にとって頼りになるのは京都守護職の容保だけであった。

5月10日は幕府が攘夷決行を約束した日である。 一橋慶喜は5月8日に攘夷準備のためと称して江戸に戻っていたが、将軍家茂も攘夷決行を迫られることを避けるために6月25日に江戸に帰った。長州は天皇の大和行幸を機に、京でクーデターを起こすつもりであった。しかしそのとき京に駐在している1000人の会津藩兵は大いに邪魔になる。容保が京にいては、長州が決起することは難しい。そこで容保に将軍を連れ戻すために江戸に赴けという勅諚を出させた。三条卿らの画策である。

容保が江戸に下れば長期間京都守護職の職務はつとめられない。長州としてはこの空白を作りたかった。しかし帝も窮地に陥っていた。宮廷は長州や薩摩の息がかかった公卿ばかりである。攘夷は望むが幕府を倒すことは望んではいない。容保が京を去ったときどういうことになるのか。

孝明天皇は密かに容保に宸翰を下した。内容は、@先の勅命は朕の本心ではない、Aこのあと会津に勅命がでても偽勅であると思え、B朕は会津をもっとも頼みにしている。というものであった。

『容保は、突っ伏した。この若者は泣きはじめた。この姿勢のまま、四半刻ばかり泣き続けた。(この主上のためには)と、容保は思った。』

「王城の護衛者」で泣かせる場面のひとつである。私はこの章を読むたびに泣かせられる。


蛤御門から京都御苑を出る。

8月13日に大和行幸に供奉する準備をせよとの勅命がくだった。容保も薩摩藩も偽勅ではないかと疑った。行動したのは薩摩である。密かに会津と組んで長州を京から追い払おうとした。

孝明天皇は薩摩と会津の同盟を認め、長州一掃の決心をした。「そのことについては容保に処理せしめよ。」という勅命がくだった。

18月17日夜、容保は堺町御門から入り、会津藩兵を9つに分け9御門を閉じた。ちょうど会津藩兵の交代のために次の1000名が黒谷に入っていたので会津は2000人の兵があった。薩摩は200人程度しか兵を動員できなかった。

長州は数百人の藩士・浪士を集め2門の砲を引いて、堺町御門に結集した。砲は御所に向けられた。長州は中に入ろうとして会津・薩摩と揉み合いになった。


御苑の外からみた蛤御門。

御所に押し掛けた長州勢は、反長州の勅命がでているうえ、兵力においても会津・薩摩に劣っていることを知った。8月18日の夜半に7人の公卿を擁して長州藩士・浪士は京を落ちた。「七卿落ち」である。

このとき会津の配下にあった壬生浪士隊も参加して御門を守った。この日から京都守護職から新選組と名づけられ、以後京において徹底的な長州藩士と浪士の取り締まりをすることになる。

2年後、元治元年(1864年)6月5日、新選組は三条河原町の池田屋を襲撃し、長州をはじめとする尊攘派浪士を斬殺・捕縛したため、長州勢は京に派兵する。

7月18日、蛤御門で会津・薩摩・諸藩の兵と戦闘になったが、長州は敗北する。久坂玄瑞は御所内で自刃した。蛤御門の変である。

蛤御門の変で打ち合った鉄砲の弾痕であるのか、門柱には丸い弾丸跡のようなものが残っている。

蛤御門の南に下立売御門がある。ここから西に3分ほど歩くと、京都府庁がある。松室重光の設計で、ネオルネッサンス様式+バロック様式である。1904年に竣工。

東隣には京都府警がある。この一画は東西150m×南北280mの広い敷地であるが、かつては京都守護職の上屋敷があった。

容保が京都守護職として上洛した翌年文久3年(1863年)から、上屋敷の建設が始まり、慶応元年(1865年)に完成した。会津藩兵はここに常駐していたという。建物ができるたびに黒谷の金戒光明寺から順次移ってきたのだろう。


この遺構は見つかってなかったが今年2016年4月に府警本部新庁舎の工事予定地から建物の痕跡が出土し、新聞などで報じられた。会津藩士の宿舎跡であった。

守護職屋敷があったことは以前から知られていた。 受付で尋ねると、府庁正門の左に石碑があるという。府庁の敷地に入って正門前にいくと、庭木が植えてあり、その前に「京都守護職上屋敷跡」の石碑があった。

今日も大津のAさんが同行している。京都で生まれ、定年まで京都市内で働いていたので、京都のバス路線は詳しい。

市バスに乗って河原町・御池で降りた。道路は河原町通りである。道路の右側、写真中央の黒い建物は京都市役所の側面。武田五一の設計。

写真には写っていないが、道路の左側には京都ホテルオークラが建っている。

ホテルオークラの前には桂小五郎のブロンズ像があった。最近作られたのか像は新しい。

幕末、長州藩の屋敷があったところである。敷地は広い。京都市役所よりやや狭いくらい。ただ屋敷は元治元年(1864年)の蛤御門の変のとき焼失した。

古地図には、長州屋敷のすぐ北側に「一之船入」があり、その北に「住倉」と書き込まれた屋敷が描いてあった。

ホテルオークラの北側の押小路通りを東に少し歩くと、「一之船入」と書かれた門があって、そこに入ると、一之船入があった。

高瀬川は江戸初期に角倉了以が掘った運河である。京の中心部と伏見がつながっていて、船で物資を運んだ。その端が一之船入である。

船入の手前はレストランのテーブルが並んでいる。向かいは日銀京都支店の敷地なのでレストランはない。

船入を出て押小路を少し東に進むと高瀬川に突き当たった。北向きに写真を撮る。川には高瀬舟が浮かべてある。川底が浅いので置いてあるといったほうがよいか。

船の手前左の水路が一之船入である。高瀬川とは直角につながっている。 船入の役目は荷物の揚げおろしをする場所であるが、舟の方向転換をするための場所でもある。




Aさんが「この先に「がんこ寿司」がどこかの屋敷を買って開いた料理屋がある」という。ひょっとしてそれは角倉の屋敷であったのではないかと思い、行ってみた。

はたして門の横に「角倉了以別邸跡」の石柱が立っていた。門には「がんこ二条苑」の看板があり、「鴨川納涼床」の提灯が下がっている。奥は鴨川に面しているようだ。

このあたりに高瀬川の取水口があって、川の水量を確保したようである。古地図では二条大橋から先の住倉邸(日銀)にかけて斜めに水路が引かれている。

ここからUターンをして、高瀬川に沿って南下する。高瀬川の東側(左)には桜木が植えられている。その隣は木屋町通り。

船入は二条から四条の間に9つあったが、今は一之船入が残るだけである。あとは埋め立てられたそうである。

「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」の石碑があった。兵部大輔は「ひょうぶだゆう」と読む。「さつき」という看板が出ている。この奥は二階建ての宿屋であった。

司馬さんの大村益次郎を描いた「花神」によれば、大村が訪ねてきた客2人と懇談中に刺客が襲った。2人の客は斬殺され、大村は手足に傷を負った。明治2年9月4日のことである。

応急手当を受けたあと、大村はタンカに乗せられ、高瀬川を下って大阪仮病院へ運ばれ、治療を受けたが、2か月後になくなった。

高瀬川の向こうに、大村益次郎(左)と佐久間象山(右)の遭難碑が建てられている。

象山は吉田松陰の師である。勝海舟や坂本竜馬・河井継之助・橋本左内など幕末に活躍した者たちも象山の教えを受けている。

元治元年7月11日、象山は白馬に乗って木屋町通を下っているときに河上彦斎(げんさい)らに暗殺された。場所はまさに大村が切られた旅籠の前であった。


三条通で木屋町通を右折して池田屋跡に向かう。

文久3年(1863年)8月18日の政変で長州勢は七卿落ちした。宮廷での影響力が失墜した長州勢であったが、それを挽回するために、密かに京の三条小橋 西にある池田屋に集まり、謀議をするということが分かった。

強風の日を選び、御所に火をかけて天皇を拉致する。駆けつけた松平容保を殺し、壬生屯所を襲って新選組を壊滅させる。というのである。


どこで謀議が行われるのかがわからなかった。新選組はこういうことを京都守護職に伝え、会津藩と桑名藩(藩主は容保の弟の京都所司代の松平定敬(さだあき))が出動の準備にかかった。

新選組は三条・四条の宿屋や料亭をしらみつぶしに探索したところ、池田屋がそれだということが分かり、新選組の5人が切り込んだのは元治元年(1864年)6月5日の夜半である。

切り込んだのは、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助・養子の近藤周平である。


河原町通りを三条から四条に向いて歩く。

池田屋事件は一気に新選組の名を高め、幕末の政局に大きな影響を与えた。

激怒した長州は、すぐに京に1000人の藩士を出兵し、会津・桑名・薩摩藩と戦ったが破れ、長州に引き上げて降伏する。

1年半後の慶応2年(1866年)1月21日、坂本竜馬の斡旋によって秘密裡に薩長同盟を結び、長州は薩摩を味方につけた。

同年6月7日から第二次長州征伐が始まったが、高杉晋作や大村益次郎の活躍で幕府軍を破り、幕府の権威は失われた。

同年12月5日、一橋慶喜は15代将軍となった。ところがその20日後の12月25日に、親幕府であった孝明天皇が崩御された。幕府にとっても会津にとっても大打撃となった。

慶応3年(1687年)10月24日、幕府は大政を奉還し、京都守護職は廃止された。


大政奉還は坂本竜馬が考えたものであるが、奉還の20日後の11月15日に竜馬と中岡慎太郎は、ここ河原町蛸薬師の近江屋で殺された。

石碑が立っている。近江屋跡は回転寿司屋になっている。

この後の政局は急調子になる。12月9日、王政復古の勅命がでて、徳川慶喜・松平容保は大阪城へ移る。翌年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗退し、慶喜と容保は江戸に戻った。

慶喜は容保が江戸城に入ることを許さず、江戸から出ていくように命じた。2月16日容保は会津藩兵を率いて江戸を去り、会津若松に戻ったが、江戸を出るとき見送る幕臣は一人もいなかった。

4月11日江戸城は開城し幕府は滅びた。9月22日会津若松城は落城し、容保は政府軍に降伏した。

今日は会津藩にゆかりのあるところだけを訪ねるつもりだったが、会津といえば長州や新選組が関係する。これにちなむ細かな場所も見たので歩き疲れた。万歩計は25800歩だった。



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