京都市・双ケ丘近辺

    No.101.....2015年 9月19日(土曜)


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本を読んでいて、そこへ行って見たいなと思ったときは、地図でその位置を確認し、近くにある神社・仏閣・古墳・歌枕になったところを探す。そしてインターネットでそれらに関係する記事を検索し、面白そうだと思ったものは印刷して、地図と一緒に綴じておく。

というのがここ10年間の私のテクテクの流儀なのだが、綴じた訪問予定地を全部訪れるわけではない。できれば数か所をまとめて訪れたいので、巡りにくいところはどうしても後回しになる。

2008年1月に綴じたまま、まだ訪ねていないところがある。それは京都の太秦(うずまさ)と御室(おむろ)である。今日はようやくこの地を巡ることができた。 訪れたのは右の8か所である。
  1. 木島神社(このしまじんじゃ。蚕の社)
  2. 大酒神社
  3. 広隆寺
  4. 法金剛院(ほうこんごういん)
  5. 双ケ丘(ならびがおか。三の丘)
  6. 双ケ丘(ならびがおか。一の丘)
  7. 兼好法師旧跡
  8. 仁和寺(にんなじ)
旧平安京の東端は今の寺町通り、西端は今の天神川通り、中心軸の朱雀大路は今の千本通りであった。したがってこの範囲内は条坊制といわれる区割りがされて整然としていた。東西・南北に通じる道はまっすぐだった。



旧平安京の西端をはずれた太秦や御室は整然とした区割りはされなかったから、道は勝手気ままに通された。だから今でも道は曲がりくねっている。

この場所(右京区)は慣れていないと自分がいる位置がどこなのかがよくわからない。今まで訪問をためらっていた理由の一つである

ところが前々回京都伏見区日野のテクテクで同行したAさんは、その近くの鳴滝(なるたき)に住んでいたので、地理に詳しいという。まあ一人で行っても行けぬことはないが、ややこしい道で迷うのも時間の無駄なので、エスコートしてもらうことになった。

7:26の近鉄電車に乗って8:50に京都についた。Aさんとは改札出口で待ち合わせしていたが、首尾よく逢えることができた。




JR京都駅から地下鉄烏丸線(南北の線)に乗り、京都→五条→四条→烏丸御池まで行き、東西線に乗り換えて烏丸御池→二条城前→二条→西大路御池→太秦天神川へと着いたが、時間はかかっていない。地下鉄は早い。

司馬(遼太郎)さんは、直木賞を受賞した「梟の城」以降の小説しか出版を許可されなかった。

司馬さんは1996年2月に亡くなられたが、翌年の1997年12月に新人物往来社から「司馬遼太郎全作品大事典」という本が出されている。これによると初掲の長編小説は1958年月の「梟の城」であり、短編小説は1958〜1959年と思われる「大阪侍」、ついで1959年12月の「最後の伊賀者」である。

木島神社(このしま)の一の鳥居。

司馬さんが亡くなられた後、司馬さんが出版を認められなかった小説が出版され始めた。 例えば司馬さんが初めて書かれた短編小説の、@「ペルシャの幻術師」1956年5月、A「ゴビの匈奴」1957年5月、B「兜率天(とそつてん)の巡礼」1957年12月 などである。

これによって、司馬さんが書かれたほとんどの小説を、我々は読むことができるようになった。

木島神社(このしま)の二の鳥居。

初期の司馬さんの作品についてしつこくいったのは、これから訪れる木島神社・大酒神社・太秦広隆寺についての小説があるからである。

1549年8月に、フランシスコ・ザビエルが日本(薩摩半島の坊津)にやってきた。その来日400年記念の催しが戦後すぐの1949年に行なわれた。当時サンケイ新聞・京都支局の宗教担当であった司馬さんは毎日の記事を書くのに大忙しだった。

ある日の午後、司馬さんは仕事をサボって汗を流しに銭湯にいったら、一人の老紳士が湯船に浸かっていた。その紳士が司馬さんに話しかけた。

「キリスト教をはじめてもたらしたのはザビエルではない。ザビエルよりもさらに1000年前、すでにキリスト教は日本に入っていた。第二番目に渡来したザビエルが、なにをもってこれほどの祝福を受けなければならないか?」 という。


木島神社の正式の名は「木島坐天照御魂神社」である。

神社の由緒書きによれば、祭神は@天御中主(あめのみなかぬし)、A大国魂神、B穂穂出見命(ほほでみのみこと)、C鵜茅葺不合命(うがやふきあえず)、D瓊々杵尊(ににぎのみこと)となっている。

天照大神は祭神ではない。天照の系譜は、
  1. 天照大神→
  2. Dのニニギ(天孫降臨した)→
  3. Bのホホデミ(山幸彦)→
  4. Cウガヤフキアエズ→
  5. ここにはないがカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の順である。
なぜ天照大神が祭神となっておらず、由緒書きにある@天の御中主(あめのみなかぬし)とA大国魂神が祀られているのか、の疑問が出てくる。


木島神社(このしま)拝殿。

司馬さんに声をかけた老人は元国立大学の教授であった。元教授は湯船に浸かりながら「(キリスト教がザビエルより1000年も前に伝わった)その遺跡も、京都の太秦にある。」という。

京都と宗教に関係することだから、新聞記者である司馬さんは教授の指示にしたがって日本の古代キリスト教の遺跡を調べて回った。それにもとづいて書いた新聞記事は評判になり、海外紙にも転載された。


司馬さんはその後小説を書き始められた。このときに調べたことが、@ペルシャの幻術師、Aゴビの匈奴、に続く第3作目の小説であるB兜率天の巡礼の構想の元になった。

拝殿の左脇に小ぶりな鳥居がある。木島神社の鳥居は伊勢神宮の「神明鳥居」の形で、すでに見てきている。この小ぶりな神明鳥居は別の神を祀るものであろう。



小さい鳥居をくぐると池のなかに鳥居があった。ただし池に水はたまっていない。三柱鳥居(みはしらとりい)と呼ばれている。

面妖なのは鳥居の形である。鳥居の足は3本あって、上から見ると鼎(かなえ)の格好をしている。2本足の鳥居を門あるいは遥拝の方向を示すものと すれば、三柱鳥居は3つの門または遥拝の方向があることになる。

農耕においては、季節が最も需要である。季節とは冬至と夏至を知ることである。冬至や夏至は太陽がでる方角でわかる。

三柱鳥居においては、一面(図の左の柱と中央の柱)から南東方向を見て、伏見稲荷の背面にある稲荷山から太陽がのぼる日が冬至の日である。その日には、三面(図の右の柱と中央の柱)から南西方向の松尾神社の背面の日埼峰に夕日が落ちる。また二面(左と右の柱)から北を望むといつも双ケ丘が見える、といわれている。

松尾大社も伏見稲荷も、この木島神社も秦氏にちなむ古社である。国宝の宝冠弥勒菩薩像があることで名高い広隆寺もそうだし、そこにあった大酒神社も秦氏が作ったものである。


太子道。大酒神社に向かっている。

さて司馬さんの「兜率天の巡礼」によると、次のようなことになる。

まず太秦とキリスト教との関係だが、431年にコンスタンチノープルで開催された宗教会議において、聖母マリアを認めないネストリウス派は異教であると断罪された。

異教徒として追放されたネストリウス派は200年の年月をかけて7世紀に唐に流れつき、景教寺院「大秦寺」を建てた。「大秦」とはローマを漢訳したものである。

大酒神社。

また他の一派は兵庫県赤穂の比奈の浦にたどり着き、そこに大避神社(おおさけ)を建てた。大避神社は元は「大闢神社」といった。大闢(だいびゃく)とはダビデを漢訳したものである。

赤穂と同じ名の「オオサケ神社」がここ太秦にもある。もとは太秦の広隆寺の境内にあったが、明治の神仏分離政策によって今はこの場所に移転している。

大酒神社の由緒書きによれば、祭神は@秦始皇帝、A弓月王(ゆづきのきみ)、B秦酒公(はたのさけきみ)で、元の社名は大辟神社(おおさけ)といったとある。

応神天皇の時代に始皇帝の子孫の弓月王が1万8千余人を率いて渡来し、その孫の秦酒公がおびただしい量の絹織物を積み上げて朝廷に献納したので、禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜った。とも書いてある。


渡来した秦氏は養蚕・機織の技術を持っていた。 ここで、太秦・秦・大避神社・大酒神社がなんとなく結びつく。

秦と名乗ったのは秦の始皇帝の中国の国名によるものなのか、ローマを漢訳した太秦によるものなのかは不明だが、大酒はダビデの大闢にこじつけられないこともない。

「秦」は渡来当初はどう呼ばれていたのかはわからないが、機織にたけていた秦一族を「ハタ」と呼ぶようになったことは自然なことである。同じように太秦を故事によって「ウズマサ」と言ってもおかしくはない。漢字がまずあってあとから読みがつけられたのであろう。


太子道を西へ向かうと三条通りに合流する。合流点が広隆寺である。

「兜率天の巡礼」は、応神天皇(400年?)のころネストリウス派の一派が日本にやってきて、雄略天皇(456年?)のころ帰化した。

秦一族は比奈の浦に神社ひとつを残して去り、山城の地を開拓した。そこに比奈の浦と同じ大闢神社を建てた。祭神は天御中主命としたが、天御中主命を主祭神とする神社は他に例がない。実はエホバである。

弥勒菩薩は兜率天にあって兜率天を統べている。つまり兜率天のエホバである。これを祀るために、秦川勝は広隆寺を建てた。 といったことを中軸にしながら、小説は展開していく。


広隆寺の正門。2階建てだが屋根は2階部分に1つしかない。1階部分にはない。1階にも屋根があれば二重門だが、そうではないので楼門という。

正面は3間。出入り口は中央の1間。こういうのは「3間1戸」と呼ぶ。江戸元禄期(1702年)に建立されている。

特に重文・国宝には指定されていないけれど、右に阿形(あぎょう)、左に吽形(うんぎょう)の仁王を据えた仁王門である。 仁王像はなかなか立派である。元禄期のものでなければ文句なしに楼門と合わせて重文となったのではないか。

(次図)楼門を入ると、広い境内が広がっていた。建物は少ない。中央右手の寄棟の建物は講堂である。正面のずっと奥に上宮王院太子殿がある。 残念なことに今残っている建物はそう古くはない。平安末期に再建された講堂が重文で、右奥にある(が写真には写っていない)桂宮院本堂(八角円堂)は国宝であるが、これは鎌倉期の再建である。




楼門をくぐったすぐ左手に薬師堂がある。桁行(けたゆき)は7間だが、1間の長さは短くそう大きな堂ではない。正面の3間は蔀戸(しとみど)で、左右の各2間は引き戸になっている。 特に特徴のない簡素な建物だ。

ここに祀られているのは、阿弥陀三尊立像・薬師如来立像・不動明王・弘法大師・理源大師・道昌僧都である。国宝や重文になっているものはないようだ。

理源大師は弘法大師の弟子で、京都伏見の醍醐寺(上醍醐)を開基した人である。その基本は山岳仏教、山伏である。 広隆寺にある重文(48点)の表を見ると、准胝仏母(じゅんていぶつも)画像が載っている。広隆寺は一時期山岳仏教の系統であったようだ。


講堂(重文)。ここには阿弥陀如来坐像(国宝)、地蔵菩薩坐像(重文)、虚空蔵菩薩坐像が祀られているという。

2008年7月に、伏見区上醍醐の准胝堂に息を切らしながら登ったことがある。准胝堂のすぐ下には「醍醐水」が涌き出でていた。飲むと「ああ、これを甘露というのか」と感心するほどに冷たくてうまかった。

しかしその伏見の准胝堂(じゅんていどう)は1か月後に落雷で焼失した。建物はすぐに失われていく。

講堂の写真を撮ったとき、講堂前を掃除しているおばさんが何かしら声を掛けた。 講堂を正面から撮ることはダメであるといったようであった。こんな経験は初めてだ。



おばさんの理屈では、正面からの写真には、国宝の阿弥陀如来坐像や重文の地蔵菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像が写るからだということらしい。 参詣している人が写るのもいけないともいった。

変なことをいうおばさんであるな。どういう理由で講堂を正面から撮ることを禁じているのか不審であり、いささか気分を害した。

上宮王院太子殿。江戸期(1730年)に再建されたものであるが、その建物は重厚である。

本尊は聖徳太子。歴代の天皇は即位のたびに、着用された束帯を寄贈されているという。 太子像は重文でも国宝でもないが、非公開である。パンフレットには、毎年11月22日の聖徳太子御火焚祭に 特別開扉するとあった。

ここまでに建物は、仁王門、薬師堂、講堂(重文)、太子殿の4つを見ることができたが、見た仏像は1つもない。


太子院の少し奥に参拝受付所があった、ここからは入場料700円を支払わねば立ち入れない。拝観料を払って進んだすぐ奥には広隆寺で唯一の国宝建物である桂宮院本堂(けいきゅういん)があるのである。

桂宮院本堂(1251年再建)は八角円堂とも呼ばれるが、非公開である。八角円堂への道は閉ざされている。

どうも非公開の多い寺である。建物を非公開とする例は多くはない。むろん生活空間としての住居・台所・寝室といった古い建物を非公開とすることはあろう。

だが桂宮院本堂は太子を祀る建物であって生活のための建物ではない。法隆寺の夢殿も興福寺の北円堂も国宝であるが、公開されている。法隆寺の夢殿は739年に再建されたそれはそれは古いものであるが拝観料を払えば見ることができる。興福寺の北円堂(1210年再建)なぞは、誰でも境内の散策がてらに無料で見ることができる。


桂宮院本堂へ行く道とは反対側に霊宝殿がある。耐火のためにコンクリート造の建物のようである。

聖徳太子に関係するものを比べれば、広隆寺は到底法隆寺にはかなわない。国宝の数でも法隆寺や興福寺とは比べものにはならない。そもそも太子の墓は広隆寺にはなく、南河内(大阪府)の叡福寺にある。

広隆寺と聖徳太子の縁は、太子が太秦の秦川勝に弥勒菩薩像を与えたということだけである。その弥勒菩薩像が国宝第1号に指定されなかったならば、これほど広隆寺が有名になることはなかったろう。


インターネットで調べてみると、国宝の最初の指定は1951年6月である。そのとき彫刻部門では24件が同時に国宝に指定されている。指定番号の順にしたがって掲げると以下のものである。
  1. 京都・広隆寺・宝冠弥勒菩薩
  2. 京都・神護寺・薬師如来
  3. 京都・三十三間堂・千手観音
  4. 京都・平等院・阿弥陀如来

  5. 大阪・観心寺・如意輪観音

  6. 奈良・東大寺・執金剛神
  7. 奈良・東大寺・良弁僧正坐像
  8. 奈良・東大寺・俊乗上人坐像
  9. 奈良・興福寺・弥勒仏坐像
  10. 奈良・興福寺・無著・世親菩薩
  11. 奈良・興福寺・十大弟子立像
  12. 奈良・興福寺・八部衆立像
  13. 奈良・新薬師寺・薬師如来
  14. 奈良・法華寺・十一面観音
  15. 奈良・薬師寺・薬師三尊
  16. 奈良・薬師寺・観音菩薩
  17. 奈良・薬師寺・僧形八幡神坐像など
  18. 奈良・唐招提寺・盧舎那仏
  19. 奈良・唐招提寺・鑑真和上像
  20. 奈良・法隆寺・釈迦三尊
  21. 奈良・法隆寺・百済観音
  22. 奈良・法隆寺・救世観音
  23. 奈良・中宮寺・弥勒菩薩
  24. 奈良・聖林寺・十一面観音


これら24件は当時最も重要な仏像であると考えられていたが、指定番号は仏像の重要度によってつけられたのではなく、機械的に振られたものである。この一覧表を見れば誰でもそれはわかる。

No.1〜No.4は 京都にある。No.5は大阪にあり、No.6以下は全部奈良にある。つまり北部の府県にあるものから割り振られている。 次に同じ寺にあるものがまとめられて振られた。広隆寺の宝冠弥勒菩薩はたまたま京都にあって、広隆寺のほかに国宝の候補がなかったから、宝冠弥勒菩薩が指定第1号と割り振られただけのことである。

現存する仏像のうちで最も優れているという評価を与えられたわけではないのである。だが国宝第1号を広隆寺は十分に利用できた。大衆は宝冠弥勒菩薩が最もすぐれた仏像であるような錯覚をしたのである。
上の24件のうち、私の好みからすれば、No.20の法隆寺・釈迦三尊像、No.22の法隆寺・救世観音、No.21の法隆寺・百済観音、No.1の広隆寺・宝冠弥勒菩薩、No.23の中宮寺・弥勒菩薩、No.15の薬師寺・薬師三尊、No.12の興福寺・八部衆立像(阿修羅像など)がトップグループだと思うが、順位はつけがたい。あえていえば、上図に掲げたNo.20の法隆寺・釈迦三尊像だ。



霊宝殿に入ったとき、帽子を脱ぐようにいわれた。 宝殿には、国宝・重文の仏像が並べられていた。だが照明が暗すぎる。目を寄せてもその色彩や形は判然としないが、像の大きさはわかる。

宝冠弥勒菩薩は法隆寺の百済観音ほどの大きさかと思っていたが、案外に小さいものであった。

霊宝殿の照明は暗すぎた。寺門前に貼り出してあるポスターにある弥勒像くらい見えればよかったのだがなあ。

法金剛院に向かう。道の左の城門は太秦映画村の入り口。

平安時代は長かったせいか、時代の流れが掴めにくい。私は100年ごとに区切って以下のように天皇を記憶している。
  1. 800年、桓武天皇(平安京遷都)
  2. 900年、醍醐天皇(天皇の親政)
  3. 1000年、一条天皇(藤原道長。摂関政治)
  4. 1100年、白河上皇(院政)
  5. 1200年、後鳥羽上皇(隠岐島へ配流)


法金剛院。拝観料は500円。法金剛院は鳥羽天皇の后であった璋子(たまこ。しょうし)が落飾して、待賢門院(たいけんもんいん)となって住んだところである。

天皇は歴史書に詳しく記述されるが、皇后についての記述は少ない。待賢門院は歴代の皇后のうちで(神功皇后を除けば)最も有名な存在であるといってもよい。

その要因の第一が数奇な育ちであり、第二はこれが原因で保元の乱が起きたことであり、第三は西行との関係である。

待賢門院・璋子は1101年に藤原公実(きんざね)の末子として生まれた。生まれてすぐに白河法皇(1086年退位)の幼女となった。

璋子はよほど可愛かったのであろう。関白の藤原忠実(ただざね)が参内しても法王は忙しいといって逢わなかったことがある。法王は幼い璋子の足を懐に差し入れさせて、添い寝をしていたのである。足を暖めてやっていたのであろうか。 ともかく白河上皇は璋子を可愛がった。だが璋子が美しく成長するにつれて上皇は璋子をひとりの女性として見るようになったようである。


今は小さな寺になっているが、待賢門院の時代には、敷地の真ん中に大きな池が掘られ、極楽浄土を模した大庭園があった。池の西と南には阿弥陀堂があり、東には女院の寝殿が建てられていた。

今は小規模に復元されて、東に蓮池が掘られている。その北に「青女の滝」が作られているが、もとは待賢門院が指示して作らせたものである。

滝の奥には小山がある。「五位山」という。仁明(にんみょう)天皇がこの小山に登り、見下ろした景色がよかったので小山に五位の位を授けたという。

五位山の頂上に待賢門院の陵がある。火葬にはせずに五位山に埋めよというのが遺言であったという。

白洲正子さんは「西行」の中で、陵に墓参されている。私も登ってみようと思っていたのだが、その道は柵で閉じられていた。受付に尋ねると、今は宮内庁が管理しているので、勝手に立ち入ることはできないということであった。


白洲さんの「西行」の口絵に待賢門院の絵があるので掲げる。 写真は落飾後のものである。出家したのは1142年ということだから早くても42歳ころのものであるが、なかなか美しい。気品があり静かに落ち着いているが憂いを含む。

璋子は後白河法皇と情を通じていたようである。自然に噂が出たのであろう。白河法皇は藤原忠実の長男の忠通(ただみち)を璋子の婿にしようとしたが、忠実にきっぱりと断られた。やむなく法王は自分の孫の鳥羽天皇のもとに入内させた。

璋子は1117年に女御になり、1119年に皇后になり、同年子を産んだ。のちの崇徳天皇である。鳥羽天皇は崇徳天皇を「おじ子」と呼んだそうである。白河法皇の子であるから天皇にとって「おじ」になるが、妻の璋子が産んだわが子でもあるという妙な関係にあった。

白河法皇は歴代の天皇のうちで、最も権力と財力を持った人である。藤原氏は道長をピークにして、その子の頼通からは下り坂になっていた。白河天皇は退位して、わずか8歳の堀河天皇に譲位した。堀河天皇の在位は21年間(薨去は28歳)である。ついで即位したのが5歳の鳥羽天皇である。

白河法皇は次に璋子の子を即位させる。これまた5歳の崇徳天皇である。鳥羽天皇は在位16年(20歳)で上皇になった。白河法皇は1129年に76歳で亡くなるまでの43年間、次々に幼い天皇を即位させて思うがままの政治(院政)を行った。


鳥羽天皇は「おじ子」を押し付けられたが、「おじ子」は憎くても、璋子を憎んではいなかったようである。鳥羽天皇との間には5男2女ができている。男子の一人は長男の崇徳天皇であり、4男はのちの後白河天皇である。仁和寺の覚性法親王もいる。

鳥羽天皇は1123年に退位して上皇(新院)になったが、白河上皇(本院)が政治を牛耳っており、鳥羽上皇は院政を執ることができなかった。

ところが白河上皇は1129年に崩御した。鳥羽上皇を長く押さえつけてきた巨石が取り払われたのである。鳥羽上皇は白河上皇に替わって権力と財力を手に入れた。

鳥羽上皇の時代がやってきた。まず政界の顔ぶれを一新した。白河上皇に疎まれていた藤原忠実を復帰させた。ついで璋子を退けて、藤原長実の娘得子(のちの美福門院)を上皇の后とした。

青女の滝。(せいじょ。あおめ)水は枯れている。水がなければ滝ではない。単なる石組でしかない。

1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させ、美福門院・得子が産んだ子を近衛天皇として即位させた。新天皇はわずか3歳であった。 遠ざけられた璋子は法金剛院に住むことが多くなり、ついに1142年に出家して待賢門院となった。そして3年後の1145年に亡くなった。

退位した崇徳天皇は上皇となったが、鳥羽上皇という権力者がいる。また近衛天皇は自分の子ではないので院政をしくことはできない。

ところが鳥羽上皇が無理押しして即位させた近衛天皇は1955年に17歳で薨去する。崇徳天皇は自分の皇子である重仁親王が天皇になれば、自身は上皇として権力を持てるのではないかと期待していたが、鳥羽上皇は次の天皇に崇徳天皇の弟である後白河天皇を選んだ。崇徳上皇の院政の夢はやぶれた。

青女の滝から流れ落ちた水はこの池を満たすはずだが、ここも枯れて池の底があらわになっている。

西行は出家する前は、佐藤義清(のりきよ)といった。白河上皇は院を守らせるために「北面の武士」という親衛隊を設けていた。

義清は1118年の生まれで、待賢門院の実家である藤原公実(きんざね)の子が開いた徳大寺家の家人であった。そして鳥羽上皇のときに北面の武士となって鳥羽上皇に仕えた。

しかし崇徳天皇が退位し、待賢門院が出家する少し前の1140年に、鳥羽上皇にいとまを告げて出家した。23歳のときである。出家の動機はわからないが、厭世観、無常観、恋愛問題などの原因が挙げられている。

下衆な説話では、義清が璋子に懸想したからであると伝える。一度は逢瀬がかなったのであろうが、次の機会はなかった。「あこぎの浦ぞ」と伝えられたのである。

阿漕の浦は禁漁の地であるから、ここで密漁すればいくらでも魚が獲れる。だが一度ならバレないが度重なると露見する。「あこぎの浦」の言葉を聞いて義清は未練を断って出家して西行と名乗った、というのだがこれは作り話だろう。

義清は、鳥羽院の北面の武士であったから、鳥羽上皇、待賢門院・璋子、崇徳上皇を知っていただろうし、義清の主家の徳大寺は璋子の兄である。義清の位は六位でしかないが、時折声がかかることもあったのであろう。

義清は鳥羽院から出家する際に次の歌を読んでいる。

(鳥羽院に出家のいとま申し侍るとて詠める)

  惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは
  身を捨ててこそ 身をも助けめ

いくら惜しんでも惜しみ切れないこの世である。いっそのこと、世を捨て出家して、この身を助けよう。同じころ、

  世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて
  数ならぬ身の 思い出にせむ

せめて世を厭うて出家したという噂話を現世に残して、たいしたことのないわが身の思い出にしよう。


青女の滝のそばに歌碑があった。詠み人は「待賢門院堀河」とある。これは待賢門院その人ではなく、その側近の堀河の局のことである。歌は

  長からむ 心も知らず 黒髪の
  乱れて今朝は ものをこそ思へ

百人一首に採用されている歌であるそうだ。待賢門院が亡くなった後、西行が堀河の局に送った哀傷歌が山家集に載っている。

  尋ぬとも 風の伝(つて)にも 聞かじかし
  花と散りにし 君が行くへを

堀河の局の返しは

  吹く風の 行くへ知らする ものならば
  花と散るにも おくれざらまし

西行は、花のように散っていった待賢門院の行方は風の便りにも聞くことができないと詠い、堀河は、風が門院の行方を知らせてくれるのならば、後を追って花と散るのですが、と返した。

(次図)法金剛院は双ケ丘(ならびがおか)の東隣にある。写真の右端の小山が「一の丘」、中央は「二の丘」、左端が「三の丘」である。




(右図)車が通れる道を1本はずれたら、双ケ丘の下についた。双ケ丘の周囲は遊歩道になっている。

西行は、鳥羽上皇の遣り口を嫌い、勢力が衰えていく待賢門院とその子供の崇徳上皇に親しみをもっていたようである。

待賢門院が1142年に落飾されたときは、法華経の納経供養のために有力者を訪ねて写経の依頼をしている。

また崇徳上皇が保元の乱で破れて、讃岐に配流され、悶死した後に、そこを訪ねて長く供養をしている。


目標は双ケ丘の縦走である。尾根を通って三の丘から一の丘まで歩くつもりである。

双ケ丘は山ではない。長さこそ南北約700mの丘であるが、丘の標高が最も高いのは北にある一の丘で116m。低いのは三の丘で78mである。これでは山とはいえまい。写真は三の丘への上り口。

兼好法師の「徒然草」は中学か高校の古典で、その一部を習ったきりである。鎌倉期の随筆集であると思っていたが、そうではないようだ。

小林秀雄さんの「モーツアルト・無常ということ」の中に「徒然草」の章がある。ここで小林さんは

『徒然草が書かれたという事は、新しい形式の随筆文学が書かれたというようなことではない。純粋で鋭敏な点で 、空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件なのである。僕は絶後とさえ言いたい。』

と最大限の評価をされている。


三の丘への道。ゆるやかな登り。

『兼好は誰にも似ていない。よく引き合いに出される長明(鴨長明)なぞには一番似ていない。・・・枕草子との類似なぞもほんの見掛けだけの事で、あの正確な鋭利な文体は稀有のものだ。・・・

彼には常に物が見えている。人間が見えている。見え過ぎている。』

『彼の厭世観の不徹底を言うものもあるが、「人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり」という人が厭世観なぞを信用」しているはずはない。「徒然草」の240幾つの短文はすべて彼の批評と観察との冒険である。』 

ベタ褒めである。


三の丘。標高78m。

兼好法師は双ケ丘の庵に住んでいたという。双ケ丘を散策すれば兼好法師の名残りのわずかでも感じることができるかな、と思っていたのだが、Aさんから耳寄りな情報を得た。

それはAさんの奥さんは、娘時代に双ケ丘中学に通っており、双ケ丘にはよく駆け上がった。そして中学の近くに兼好法師の庵跡の石碑が立っていたというのである。

おおーっ。兼好法師が住んでいた場所がわかっているのか。正確な場所ではなかろうが、言い伝えがあるのだから「当たらずといえども遠からじ」だろう。

小林さんは「徒然草」の以下の文を掲げて、兼好がどんなに沢山なことを感じ、どんなに沢山なことを言わずに我慢したかの例とされている。

『因幡の国に、何の入道とかやいふ者の娘容(かたち)美(よ)しと聞きて、人数多(あまた)言ひいわたりけれども、この娘、唯栗をのみ食ひて、さらに米の類を食はざりければ、斯(かか)る異様(ことやう)の者、人に見ゆべきにあらずとて、親許さざりけり』


二の丘。102m。

さっそく3冊の「徒然草」をアマゾンでもとめて読んでみた。もっとも心に沁みたのは第62段の次の文である。

『延政門院、いときなくおはしましける時、院へ参る人に、御言つて(おんことつて)とて申させ給ひける御歌、

 ふたつ文字 牛の角文字 直(す)ぐな文字
 歪(ゆが)み文字とぞ 君は覚ゆる

恋しくて思ひ参らせ給うとなり。』

延政門院(後嵯峨天皇の皇女)が幼少のころ、父の天皇の院へ参る人に、歌でことづてされた。その歌は、「ふたつ文字(こ)、牛の角文字(い)、直ぐな文字(し)、歪み文字(く)と思っております。」。「こいしく」を謎歌にされたのである。


二の丘を下りかけたところに京市街の一部を見下ろせる場所があった。夏のこととて木の葉が茂っているが、木の間から松ヶ崎山が見える。下鴨神社の真北にある山だが、ずいぶん遠くまで見えるものだ。


次に感心したのは第184段の鎌倉幕府5代執権の北条時頼の母である松下禅尼(まつしたのぜんに)の話である。

北条時頼は20歳で執権になり、30歳で出家して最明寺入道と名乗ったが、執権時代に母の館に招かれた。

招くにあたって禅尼は手づから障子の破れたところを小刀で切り、その部分だけに紙を貼った。

禅尼の兄の安達義景が、誰かに貼らせましょうといったが、私より上手に細工ができる者はいないという。


では全部を張り替えましょうというと、

『尼ものちは、さはと張替へんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して、用ゐることぞと、若き人に見習わせて、心づけんためなり』

といわれた。 禅尼は、いずれ張り替えるつもりだが、今日はわざとこのようにしているのです、という。

時頼に天下を治めるにはまず倹約することを教えようとしたのである。時頼は北条9代の執権のうちで最もすぐれた執権となった。

いったん下って、また登って一の丘へ向かう。


一の丘。116m。

次に印象深かったのは第215段である。時頼が出家して最明寺入道になった頃、平宣時(たいらののぶとき)のもとに宵の間に使いをだして呼ばれた。

宣時がよれよれの直垂を着て最明寺入道の館へ伺うと、最明寺入道が、銚子と土器(かわらけ)を持ってこられ、この酒を一人で飲むのはさびしいので呼んだのだ。

だが酒の肴がないので台所を探してみてはくれまいか、といわれる。探すと台所の棚に味噌が少し入った皿が見つかった。

『「これぞ求め得て候ふ」と申ししかば、「事足りなん」とて、心よく数献(すこん)に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしかと申されき。』

鎌倉時代のトップの質素さである。その時代は万事がこのようでしたという平宣時の思い出話である。


一の丘から仁和寺の全容が見渡せた。

大きな仁王門があり、その左手に書院がある。

仁王門の先に中門が あり、右手奥に五重塔、中門の正面に金堂がある。

その左の建物は工事のために覆われているが観音堂である。観音堂の手前の林は有名な御室の桜である。

金堂の背面には大内山があり、ここには宇多天皇の御陵がある。


一の丘を下る。下ったあたり、兼好法師が住んでいた場所に石碑が立っているという。

双ケ丘中学への道を尋ねて南下すると、中学の手前の道路沿いに小さい寺があった。

「浄土宗・長泉寺」とあり、門のきわに石碑が立っている。「兼好法師旧跡」と彫られている。

当たり前のことだが、庵が今も残っているはずはない。地図でこの場所を確認すると、双ケ丘の一の丘と二丘の中間点にある。寺のバックは双ヶ岡である。

ここで、誰でもいちどは読まされた、
『つれづれなるままに、日ぐらし、硯(すずり)にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』

の序から始まる「徒然草」を執筆したのであるなあ。


嵐電「御室駅」。無人駅であるようだ。

「徒然草」には当時の知的階級である坊さんの話がいくつか出てくる。仁和寺の坊さんについても書いているが、だいたいは愚かしい話である。

その一が第52段の仁和寺の法師の失敗談である。仁和寺のある法師が石清水八幡宮に詣でて、山麓にある極楽寺や高良明神を拝み、これだけのものかと思い込んで帰ってきた。

それにしてもお参りする人はみな山に登っていたのはどういうことであろうか。神へ参るのが本意であったので山へは登らなかったと法師がいった。この法師は石清水八幡宮は山の上にあることを知らず、八幡宮に詣でたと思い込んでいたのである。

『少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしきことなり。』  案内人に案内させればよかったのに。



仁王門(重文)。仁和寺は第58代光孝天皇の発願によって着工され、次の宇多天皇のときに完成した。天皇は退位後仁和寺に住まわれた。以来、皇子皇孫が仁和寺の門跡になり、明治維新まで続いた。 よって仁和寺は御室御所と呼ばれてきた。

宇多天皇は藤原氏を疎んじ、菅原道真を登用して天皇親政を推し進めた。その子の醍醐天皇も宇多天皇を見習って親政を進め、醍醐寺を拡張している。

宇多・醍醐時代は天皇が権力を持ち親政を執った珍しい時期である。ただ菅原道真は醍醐時代に藤原時平らの讒言によって太宰へ左遷されている。これは醍醐帝の失敗である。


仁王門をくぐると拝観の受付がある。境内の散策は無料だが、門跡の住まわれる御殿の拝観は500円である。さっそく支払って本坊表門(重文)を入る。

「徒然草」に書かれた仁和寺の坊さんのその二は第53段の鼎( かなえ)の法師の失敗である。

仁和寺の法師たちが、童が法師になるというので惜別の会を持った。そのうちある法師が酔っ払ってそばにあった足鼎(あしがなえ)を頭にかぶってひょうきんに踊ったので一座は大喝采となった。

だが頭部にすっぽりとはまってしまった鼎を抜こうとしたが抜けない。無理やり抜こうとしたら首の周りが傷ついて腫れ上がってきた。鼎をわろうとしても音がガンガン響いて我慢できない。



御殿の大玄関。上にある蟇股(かえるまた)の透かしは繊細で、さすが皇族方の住んだ御殿の玄関である。

医者にいっても医者は手の施しようがないという。しかたがないので仁和寺に戻り親しい者、老いた母親などが枕のそばに寄って嘆き悲しんだが、鼎をかぶった本人に聞こえているとも思えない。

とうとう、誰かが例え耳や鼻がとれようとも命は助かるだろうというので、皆で頸も千切れんばかりに引っ張ると、耳鼻は欠けて穴があいてしまったが鼎は取れた。

『からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。』 法師はからくも命拾いしたが、長く患っていたということだ。


大玄関を上がると、坊さんと案内の女性が立っており、参観者を歓迎していた。

写真撮影は禁止の掲示があったが、坊さんは「写真をとってもよいですよ」と誰にいうともなく言っている。

おお、さすがに日本で一番格式の高い寺である。写真を撮られてもなにほどのことはない。実に鷹揚である。太秦の広隆寺とはえらい違いだ。

御殿の公的な建物は、1)玄関、2)白書院、3)黒書院、4)宸殿、5)霊明殿 の5つの建物があって、渡り廊下で結ばれている。

写真の左側は白書院。右側は枯山水ふうの庭園になっている。奥に宸殿がある。


白書院の一室。

書院造の特徴は、@室内はすべて畳敷きである、A建物内部は襖、遣戸(やりど)、明障子(あかりしょうじ)などでいくつかの部屋に区切られている、B角柱を使っている、C接客用の部屋には違棚や床の間がある、などである。

この部屋も、畳敷き・部屋は襖で区切られている・違棚や床の間があって、書院造の特徴がよくわかる。

白書院は廊下から見ることができる部屋が3間、その裏側に3間の計6室に仕切られていた。


白書院の前は玉砂利を敷いた庭があり、その向こうに大きな勅使門が建つ。唐門である。

白書院から透かし廊下を進むと宸殿がある。門跡が使われる建物であろう。使うといっても住居ではなく、対面あるいは接待のための建物だろう。

この宸殿の外面は寝殿造りふうである。開口部は蔀戸(しとみど)で、細かくいえば上と下の2つに分かれた半蔀(はじとみ)である。

今は上半分が引き上げられていて、明障子が見えている。下半分の半蔀(格子の部分)を取り外せば建物の全面が開かれ、室内は光が満ちて明るくなり、外の景色を見るのに邪魔なものはなくなる。蔀戸はなかなかよく考えられた戸なのである。


宸殿の北側には池のある庭園がある。右側の人が歩いている建物は黒書院。この一廓は王朝の雅というか、平安期を偲ぶことができる場所である。

だが白書院・黒書院・宸殿は重文でも国宝でもない。建てられたのが最近だからである。白書院と黒書院は明治に建てられている。宸殿は大正時代のものである。

新しいのであるが、建物はすでに古色が着いて、立派である。だからいずれも登録有形文化財になっている。



御殿には深く感心した。御殿を出て、中門を通り、今日のクライマックスとなる五重塔と金堂へ向かう。

保元元年(1156年)の7月、西行は高野山からたまたま京に出てきていたが、そこで鳥羽上皇が崩御したことを知って、葬儀に出た。そのときの歌は

  今宵こそ 思ひ知らるれ あさからぬ
  君に契りの ある身なりけり

鳥羽院とは浅からぬご縁であったことを、今宵は深く思いさらされたことだ。

院の初七日がすんだころ、鳥羽上皇を憎んでいた崇徳上皇は、藤原頼長、源為義、平中正を味方につけて、後白河天皇方の藤原忠通、源義朝、平清盛と争った。だが天皇方はわずか1日で崇徳上皇方を打ち破った。保元の乱である。


五重塔(重文)。

12日、崇徳上皇は逃れるところが無く、弟の覚性法親王のいる仁和寺に入ったが、法親王に拒まれて寛遍の坊(北院)に移される。22日に崇徳院は讃岐に配流と決まった。

崇徳上皇をかばう者は誰ひとりいなかったが、西行は仁和寺に駆けつけた。崇徳院とどういう会話があったのかはわからない。まずは慰めたことだろう。この夜、月をみて次の歌を詠っている。

  かかる世に 影もかわらず 澄む月を
  見るわが身さへ うらめしきかな

こんなに物情騒然とした世なのに、いつものように月は澄んでいる。それを見る私が恨めしい。鳥羽上皇と崇徳上皇の憎しみ合いの事情を知っている西行だけに、どちらの力にもなれなかったし、しなかった。それを恨めしいといったのか。


経堂(重文)。

崇徳天皇の御製は百人一首にのっている。

  瀬をはやみ 岩にさかるる 滝川の
  われても末に 逢はむとぞおもふ

落語の「崇徳院」によってもよく知られているこの歌は1141年に退位して間もないころに詠われたという。

鳥羽上皇によって近衛天皇が即位し、崇徳天皇の系統は砕けてしまったが、分かれてもそののちに系統はひとつにまとまるだろう、という意味も含んでいる。

その鳥羽院が亡くなったのは崇徳院にとって皇統を取り戻す最後のチャンスであったが、空しく破れさったのである。

(次図)金堂(国宝)。


もとは内裏の紫宸殿であった。1613年に建てられた紫宸殿を寛永年間(1630〜1640年くらい)に移築したもの。このとき屋根は瓦葺になったという。

現在御所にある紫宸殿は1855年に建てられたもので、桁行9間・梁間3間である。金堂の桁行は7間なので、現在のものよりやや小さい。御所の紫宸殿を見学することは難しいが、仁和寺にくれば、無料で拝観できる。

正面の金具で飾られた蔀戸を見るだけで、宮殿とはどのようなものかがわかる。格子は黒漆を塗ってあるのだろう。金具には菊の紋がちりばめられている。


御影堂(重文)。清涼殿の用材で建設したもの。(清涼殿を移築したものではない)

2012年のNHKの大河ドラマは「平清盛」だった。平均視聴率が12%と過去最低で、不評であったが、私にとっては知らないことを知ることができて面白かった。

平安末期は、天皇はコロコロと替わるし、藤原、源、平は似たような名ばかりだしで、よほどこの時期の歴史に詳しくないと、ドラマを見ただけでは人物関係が掴めない。視聴率が悪かったのはそれが原因だろう。

せっかくの平安期を舞台にしたドラマであったのに、私もわかりやすい源平の争いだけに注視していた。

西行、待賢門院、鳥羽天皇、崇徳天皇に目がいかず、ましてや藤原忠実、頼長、忠通の親子の争いも軽く見逃していた。

知識が増えている今ならば、もう少しは理解ができただろうに。惜しいことをしたと思っている。 キャスティングは以下。
  1. 平清盛=松山ケンイチ
  2. 西行 =藤木直人
  3. 白河法王=伊東四朗
  4. 鳥羽上皇=三上博史
  5. 崇徳上皇=井浦新
  6. 後白河天皇=松田翔太
  7. 待賢門院・璋子=壇れい
  8. 美福門院・得子=松雪泰子
  9. 藤原忠実=国村隼
  10. 藤原頼長=山本耕史
  11. 信西 =阿部サダヲ
当時感心したのは藤原頼長を演じた山本耕史と信西(しんぜい)を演じた阿部サダヲだった。特に藤原頼長が歌を読み上げる場面があったが、そのテンポは実にユルユルとしていた。なるほど、そういうテンポでなければ、聞き手が歌の意味を理解し、言葉のつながりに気づき、そこから想像を広げることはできないだろうと、納得した。

仁和寺の背後にある大内山には宇多天皇の陵があるが、すでに歩き疲れてヘトヘトである。そこへ行くことはできない。

仁和寺はよい寺であった。拝観においては広隆寺のようにキリキリ舞いしていず、何でも許す鷹揚さがあった。大人の風格があった。

兼好が仁和寺の近くに住んでいたということは、兼好は仁和寺に親しみを感じていたということであろう。そうであればこそ、兼好は仁和寺の法師の失敗談をいくつか徒然草に書いたのであろうが、そこには非難する視点はない。「しょうがないな。坊主も人間だ。」という思いであったろう。

仁和寺のように御所の紫宸殿を金堂としている寺はどこにもなかろう。また西行が詠った場所と年月日がわかっているのも、この仁和寺のほかには少ないのではないか。 古い寺にはいろいろな由縁があるものである。

寺や仏像や神社、霊山、霊木あるいは絵画を見たり、音楽を聴いていて、なにかを感じることから、人は敬虔になり、思わず手を合わせるものである。感じるものがないのは、対象物が発信する力が低いか、受けとる側の受信装置が悪いかである。 次の歌は西行が詠ったものではないという見解があるが、いいたいことはよくわかる。

  何事の おはしますをば 知らねども
  かたじけなさの 涙こぼるる

「かたじけない」と感じさせるものに出会って、深く感じ入る。それが人生の喜びのひとつであろう。

京都駅についたら、名張への直通の電車はもうなかった。Aさんと駅中の食堂街で焼酎のウーロン茶割りを7〜8杯飲み、ほぼ最終の電車で帰った。外で飲む酒は疲れる。万歩計はちょうど20000歩だった。



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