大阪城周辺の近代建築

    No.100.....2015年 6月20日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 大阪城周辺...


昨年(2014年)10月に契沖の足跡を巡ったが、不首尾に終った。第一番に、契沖の墓がある円珠庵は契沖の墓を公開していなかったことである。これにはひどくガッカリした。

第2番目は近松門左衛門の「曽根崎心中」にちなむ場所を訪ねることであった。

もし契沖・近松の訪問が順調に進めばに、第3番目に「大阪カテドラル」を見たい。第4番目に大阪城の大手門の継手(つぎて)を見たいと思っていたが、大阪カテドラルは改修中で見ることはできなかった。ここでもガッカリして継手には行かなかった。

大阪カテドラルは、今年3月下旬には改修が終っているはずである。今日は第3番目と4番目を見るのを目的として出かけた。辿ったのは右の17か所である。
  1. 大阪カテドラル
  2. 越中井(えっちゅうい)
  3. 難波宮跡
  4. 大阪歴史博物館横の高床式倉庫
  5. 南外堀
  6. 大手門
  7. 多聞櫓(やぐら)
  8. 石山本願寺推定地
  9. 桜門
  10. 天守閣
  11. 極楽橋
  12. 京橋口
  13. 旧大阪砲兵工廠化学分析場
  14. 旧大阪市長公館
  15. 桜宮橋
  16. 造幣博物館
  17. 泉布観と旧桜宮公会堂



近鉄電車の鶴橋で下車し、JR環状線に乗り換える。玉造駅は鶴橋の次の駅で、感じでは1分くらいで玉造駅に着くので、座席に座る間もない。

ここから西へ5〜600m歩き、北に向かって4〜500m行けば、大阪カテドラルがある。正しくは「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」という。カトリックの教会である。

(次図)きれいな建物だ。壁面は広い。中央にアーチ型の切り込みがあり、空色のタイルが貼られている。中央下に聖マリア。周りを雪の結晶のような意匠がちりばめられている。





出入り口の左右には小型のアーチの切り込みがあり、上部に十字架、中ほどに「×」型の意匠(これはキリスト教においては何か意味があるマークなのかも知れない)、下部に尖頭アーチの窓が空けられている。窓にはステンドグラスが嵌め込まれており、パンテオンにあるエディキュラ(小祠)を思わせる。

左右には6つのアーチ型の窓(明り取り)。どの造作にも縁取りはないから、平明でスッキリしている。

設計は長谷部鋭吉である。長谷部の代表作は、
  1. 住友ビルディング(住友銀行本店・大阪市・1930年)
  2. 神戸住友ビル(住友銀行神戸支店・1934年)
  3. 日本生命本社ビル(大阪市・1935年)
  4. 東京ルーテルセンター教会(日本神学校・1937年)
  5. 大阪カテドラル(大阪市・1963年)
などがある。長谷部は1960年に亡くなっている。歿後大阪カテドラルが竣工した。したがって長谷部の遺作である。


大聖堂の前には、右に細川ガラシャ、左に高山右近の彫像が立つ。

どちらも殉教者である。特にガラシャの細川家は豊臣の時代にはこの辺一帯に屋敷を構えていたので、大阪カテドラルにとっては因縁のある人である。

司馬遼太郎さんは、1968年〜1972年にかけて「坂の上の雲」を執筆された。伊予松山の3人、秋山好古(1859〜1930年)、秋山真之(1868〜1919年)、正岡子規(1867〜1902年)の生き様を通して、小さな国がどのようにして先進国にのし上がっていったかを書かれている。

小説を書き始められた1968年とは、明治100年に当たる。司馬さんが明治をどう評価したのかも読みどころのひとつである。


秋山好古(よしふる)は陸軍に入り、秋山真之(さねゆき)は海軍に行き、日清・日露戦争にかかわり、明治という国家を作ることに積極的に参加した。一方、子規は疾病し、寝床で病魔に苦しみながら、近代俳句のリーダーになった。

この3人が死んでから、その縁者や子供らがどう生きたかについての小説が「ひとびとの跫音(あしおと)」である。1979〜1981年に中央公論に連載された。

主人公は子規の看病をし、死を見取った妹の律(りつ)のその後の生き様。律の養子の正岡忠三郎(子規の叔父の加藤択川(たくせん)の子)と忠三郎の高校時代からの友人である西沢隆二(詩人・ぬやまひろし)および司馬さんそのものである。

司馬さんは「坂の上の雲」を執筆されるにあたって、子規や律、子規の母の八重、叔父の択川らについて、忠三郎に間違いはないかの問い合わせをされたようで、それ以来の付き合いであったらしい。

といっても司馬さんは忠三郎・西沢隆二の二人とは20才以上も年下なので、友達付き合いではなかった。その小説の冒頭部分に、大阪カテドラルがでてくる。


忠三郎が1976年に75歳で亡くなった夜、司馬さんが伊丹の正岡宅へ通夜の弔問にいかれると、忠三郎夫人のあや子が、『 あなた葬儀委員長をやってよ、そうなったのよ、』といった。 司馬さんは『ぼくは、そういうお役目、だめです』と固辞されたのだが、あや子は、

『忠三郎なんぞは、戦前に阪急で佃煮売り場にいたし、戦後は事業ともいえない小さなしごとをしていて、それが死んだんですから、お葬式もはじめっからこの家でひっそりしたものにしよう、ときめていたんです。

来てくださる人もご近所ばかりと思っていたのに、誰がたのんだのか、こまったことに、会場は玉造のカトリック教会の大阪カテドラルという処だというのよ。あそこ、大きいでしょう。

椅子の数が千だったか二千だったか、ともかくもそこへ二、三十人入るだけでは、みっともないというのよ。それはいいとしても、葬儀委員長もないというのはおかしいというの』


(次図)礼拝堂。





西側から撮る。縦に長いアーチ窓が4連。それを1セットにして3か所にアーチ窓が続く。このアーチ窓の内部は、上図の左右にあるステンドグラスである。

正岡忠三郎の葬儀は、ここで営まれた。司馬さんは葬儀委員長を務められたのだろう。その8日後に、忠三郎の友人であるタカジ(西沢隆二)が死んだ。

カテドラルの外に、写真を焼き付けたタイルの説明板があった。これによると、当初カテドラルには鐘楼が付属していた。鐘楼は高い。大聖堂の2.5倍くらいの高さがある。

鐘楼は1995年の阪神淡路大震災で被災したために撤去されたとある。うーん。神戸からはなれた大阪で、しかも地盤の堅固な上町台地に建っていたのに崩れたのだから、細身の塔の高さが高すぎたのか?

次図は、東京・飯田橋にある東京ルーテルセンター教会である。長谷部鋭吉が1937年に設計した戦前の建物である。もとは日本神学校であった。

鐘塔がついているが、その高さはそう高くない。

塔の最上部に4つのアーチ型の切り込み、その下に十字架、丸窓、細長いアーチ窓。礼拝所の壁面には大振りのアーチ窓が4つ並ぶ。この内部にはステンドグラスが嵌められている。

通常ならファサード(正面)は左側にあるはずだが、土地の形状の関係でそうなったのか、道路に面した側面に出入り口がある。

それから26年後に大阪カテドラルを設計したのであるが、平板な壁に装飾はなく、小アーチの明りとりやアーチ窓の連続を採用しているのは、変っていない。ロマネスクの雰囲気がある。

比べると大阪カテドラルのほうがよい。大阪カテドラルの正面のアーチ型のブルーの壁、聖マリアのレリーフなど、やや装飾が多いが、カトリックの教会だからすこし華やかなほうがよかろう。

長谷部鋭吉は1909年に住友総本店に入社した。当時の住友は本社ビルを建てるために野口孫市を招き、臨時建築部を発足させ、優秀な設計者集団を作りあげた。 そこには長谷部や竹腰健造らがいた。

1930年に念願の住友ビルヂング(右図)が完成したが、時代は昭和の大不況の時期である。目的の本社ビルが出来たため設計集団(工作部)は縮小された。

そこで1933年に長谷部は竹腰とともに独立して「長谷部竹腰建築事務所」を開くのである。これが戦後の「日建設計」の基になった。


日建設計の活躍は目覚ましい。大阪における作品は、@大阪市庁舎、A大阪ドーム、B住友生命御堂筋ビル、C大阪ワールドトレードセンタービル、D大阪ツインタワー、E住友生命本社ビル、FOBPキャッスルタワー。(DEFは大阪ビジネスパーク地区にある)

神戸では@神戸市庁舎(右図)、A神戸国際会館、B大丸神戸店、C神戸ポートタワー。

神戸市庁舎は、1989年に竣工した。30階建、高さ132mあり、当時の地方自治体の庁舎としては最も高層であった。1995年の阪神淡路大震災ではビクともしなかった。

旧神戸市役所は地震によって6階部分がぺちゃんこになった。今は6階部分を取り除いて5階建てとし、2号館として使われている。

日建設計の仕事は、タワーと高層ビルが多い。ついでにいえば東京タワーと東京スカイツリーもそうである。


越中公園。この辺一帯は豊臣時代に細川家の屋敷があったことはいった。当主は細川越中守忠興(ただおき)である。その正室は玉子(たまこ)、明智光秀の娘である。

司馬さんは、忠興と玉子の関係について「胡桃と酒」という短編小説を書かれている(1965年)。そこでは、

玉子の容色はたぐい稀なものであった。そのため忠興は他の男に妻を見せることを嫌悪した。玉子が声をかけた庭師を切り殺したほどである。

玉子を男から隔離した。聡明な玉子は屋敷の内で、儒教と禅学を学んでいたが、当時流行りだしたキリスト教に興味をいだくようになる。男と接することができない玉子に教義を教えたのはほかならぬ忠興であった。


越中井(えっちゅうい)。細川屋敷の台所にあったと伝えられている。

織田信長は切支丹には寛容であった。京都に教会を建てることを許していた。この方針は秀吉も受け継いだ。

このころ最も伝道に励んだ大名は、摂津高槻城主の高山右近である。右近は家臣のほとんどに洗礼を受けさせ、同僚の大名に説いた。小西行長、蒲生氏郷、黒田官兵衛らが入信した。

忠興は右近と親しく、熱心に教義を教えてもらったが、それは玉子へ伝えるためであった。右近は玉造屋敷にやってきては忠興に教義を説いたが、玉子の顔を一度も見たことがなかった。

忠興は、玉子がキリスト教の教義を学ぶのは、知的好奇心からくるものであると思っていたが、そうではなかった。



中央大通りを西へ。正面の薄茶色の建物は大阪歴史博物館。その奥の大きな白い建物はNHK。

『ところで、忠興の滑稽さは、かれの洞察力では窺いきることのできぬ彼女の奥底ですでに切支丹への傾倒がはじまっていたことであった。もはや知的関心の段階はすぎ憧憬(しょうけい)がはじまり、その憧憬の段階もおわり、彼女の信仰は小侍従(玉子の侍女頭で切支丹)と同水準か、それ以上に高まっていた。』

秀吉は、1587年に外国人宣教師の国外追放命令を出した。平戸に集結し、便船がありしだい日本を退去せよ。そうでないと死罪に処す。というものであった。

同じ時期に秀吉は 高山右近に棄教するよう命じたが、右近は拒絶した。秀吉は右近から高槻城を取り上げた。

難波宮跡。孝徳天皇の時代と聖武天皇の時代の跡が重層している。

玉子は狼狽した。『彼女はまだ受洗していない。もし神父が日本からいなくなるとすればたれの手で洗礼を受けるのか』

神父が大阪を去る日、神父は小侍従を代理者として玉造屋敷で洗礼を受けさせることになった。

『やれば、忠興に殺される。が、小侍従はそれを決意した。彼女は玉造屋敷に帰った。』
大阪歴史博物館とNHK(左側)

『秘儀の準備がすすめられた。たま(玉子)は、彼女に与えられている奥の一廓のなかでもっとも美しい部屋の十畳に壇を設け、必要なすべての祭具をかざり、それがすむと、翌日、奥の侍女のうちの入信者をすべてそこに集めた。小侍従が、聖役をつとめた。たま(玉子)は、とどこおりなく受洗した。

洗礼名は、「伽羅奢ーガラシャ」と名づけられた。』

九州から帰還した忠興は怒り狂った。侍女たちを追放し、ガラシャに棄教をせまった。忠興は秀吉の意向を恐れた。秀吉がさらなる切支丹弾圧に進めば、細川家も高山右近のようになるであろう。

しかし事態は少しよくなった。禄を失っていた右近は、秀吉の勧めによって前田利家の客将になることができた。

復元された高床式倉庫。このあたりに古墳時代の16棟の倉庫が埋まっていた。

切支丹弾圧という点では安堵したが、忠興が苦悩したのは秀吉の「女房狩り」である。秀吉は朝鮮侵攻の派兵をしていたが、出兵した大名の留守に秀吉が訪問し、器量のよい正室によからぬことをするのである。老いた秀吉はすでに自制心を失っていた。

忠興は出征中に秀吉が玉子の部屋に押し入ってくることを恐れた。忠興は玉子が住む奥御殿を改造し、天井、床の下に火薬を仕掛け、もし万一のときは御殿が人もろともに吹っ飛ぶようにした。

玉子を失うことになるが、秀吉もろとも消滅させたいと思ったのである。

大阪城外堀脇の道路は観光バスが数珠繋ぎである。駐車場に入るために前のバスが動くのを待っている。

ところが1598年に秀吉は死んだ。ここから諸大名は、石田三成を筆頭とする吏僚派と、徳川に心を寄せる武断派に分かれていく。忠興は武断派であった。

1600年7月石田三成と連携している上杉景勝が挙兵した。家康はそれを討つべく大阪から諸大名を率いて関東に入った。忠興も家康に従っていた。この隙に三成は大阪で挙兵した。上杉と共同して家康を挟み討ちするつもりであった。

三成は家康軍が出立した後すぐに大阪市街に兵を配置し、諸大名の妻子が逃げることを防いだ。人質を手にしていれば、家康に従う大名は少ないだろうと踏んだのである。


後ろにホテルか国際会議場かと迷うほどに立派なビルができている。ガードマンに尋ねると、大阪府警本部庁舎であるという。設計は黒川紀章。黒川は庁舎完成直前(2007年)に亡くなった。黒川の遺作である。

玉造屋敷には、玉子に大阪城へ入れとの要請が何度もきたが、玉子はそのたびに拒絶した。

秀吉が死んだ後、奥御殿の爆破装置は撤去されていたが、忠興は今度は「地震の間」を作り、やはり爆破装置を設置していた。

地震が起これば玉子は屋敷の外に避難せざるをえない。そうなれば玉子が世間の目に触れる。それならいっそ、玉子を木っ端微塵にしたほうがましであると思った。

大阪城入城要請の最後の使者がやってきた。明日の返事しだいでは武力をもって従わせるという。玉子は「地震の間」に祭壇とキリスト像を移した。玉子は屋敷うちの男女をことごとく逃がした。屋敷が無人となってから、長年付き添ってきた侍従に我が身を切るように命じた。落命するとともに玉造屋敷は火を吹いて炎上した。翌朝、焼け跡から数人の遺骸が見つかったが、玉子の遺骸はどこにも見あたらなかった。



大阪城南外堀、西から東を見る。2層の櫓は「六番櫓(やぐら)」

以上の細川忠興と玉子の関係は、司馬さんが小説的にアレンジされたものである。夫婦の関係は司馬さんが思われたことに近いのかも知れない。

だが細川忠興は、武将としては優れていたし、茶の湯においては、千利休が最も目をかけた大名であった。

性格は短気であったが文武に優れた武将であった。


同じ位置から北側を見ると、大手門がある。その背後に多聞櫓(やぐら)、その左の2層の櫓は千貫櫓である。

1591年、利休は秀吉の勘気にふれ、京から堺へ戻って蟄居させられ、その2週間後に京都に呼び戻されて、切腹させられた。

利休が堺へ戻るとき、淀の渡し場まで見送ったのは、細川忠興と古田織部の二人だけであった。高山右近が京にいれば右近も送ったかもしれない。

今や独裁者となった秀吉の命令によって利休は堺に戻るのである。利休からを茶を何度もふるまわれた多くの大名は知らぬ振りをしたが、忠興は違った。秀吉のことは無視した。利害を考えると誰にでもできることではない。

秀吉が天下を統一するまでは、武士にとっての茶の湯とは、茶室に入って茶を一服し、出るとその足で戦場に向かい、討ち死にして果てる、ということであった。 利休の茶は単なる美や風雅のわざではなく、死を得るために人間と人間がいのちを突きつけあう儀式であった。(「本覚坊遺文」・井上靖)。茶道とは死と向き合うことであることを忠興はよく知っていた、並みの大名ではない。


大手門。大阪城の玄関である。

門の右手の柱が今日見ようとしているものである。

門の外側の両脇の柱や門扉は鉄板が貼られており、鉄鋲で留めてある。だから外側からはどの様な材を使っているのかはわからない。


門をくぐると、白木の柱が見える。写真の柱は外側から見て右側(南側)の柱である。この柱は地上約1mくらいのところで継いである。柱の下方が傷んだために、新しい材を継いだのだろう。

「継手・仕口」(INAXギャラリー)という本によると、「継手」とは「2本以上の材を継ぎ合わせて1つの部材とする場合の継ぎ合わせ目、またはその方法」である。

2材を継ぐやりかたは多くある。その用途によって、どういう継ぎ方にすればよいのかが異なるからである。

柱の場合は立てるし、このように太い(だいたい42cm角)の柱は重量があるので上下にずれることは少ない。この場合は継いだ2材が前後左右にずれないことが肝心である。


右図の@は「殺(そ)ぎ継ぎ」の一種である、男木(おぎ)は山形にカットし、女木(めぎ)は谷形にカットして、2材を合わせる。仮に正面を南、向こう正面を北、右側面を東、左側側面を西とすると、この場合は東西のズレは防げるが、南北のズレは防げない。

Aの「蟻継ぎ」は男木のでっぱりは蟻の頭か鳥の尾羽のような逆台形にカットしてある。女木は同じ形でへこんでいる。この場合も東西のズレは防げるが、南北のズレは防げない。ただし上下のズレは防げる。


この大手門の柱をよくみると、上図の東面は蟻継ぎで、北面は「殺ぎ継ぎ」になっている。

南から柱を見る(右図)と、南面は「殺ぎ継ぎ」であるから、南北は「殺ぎ継ぎ」、東西は「蟻継ぎ」である。

柱内部の継手の形は、上図のB「大手門継手」のようにならないといけない。ところがこの継手では上の柱と下の柱を継ぐことは難しい。南面から嵌め込もうとすれば(b)の蟻の頭が支えるし、東面から嵌め込もうとするならば(a)の山形が支える。

前後左右にズレないようにしたいのだから、逆にいえば前後左右から上の柱と下の柱を継ぐことは不可能なのである。


前後左右のズレを防ぐにはCの「ほぞ継ぎ」を使うことが多い。男木は上部に凸形にカットし、女木の下部は凹形に彫る。女木を持ち上げて、男木を下に据えておいて女木を落とせば、前後左右にズレない継ぎになる。ただし上下のズレは防げない。

前後左右のズレを防ぐ継手は、上下方向から継ぐしかない。大手門の継手も上下方向から継いだのであろうと推測できるが、上下方向から継ごうとしても、(b)の蟻の頭は上部が広く、下部が狭い逆台形であるから、単純に女木を男木に落とし込むことはできない。上下方向でも継ぐことはできないのである。

一体、継手の男木と女木の形はどのようになってるのか? どのようにして継いだのか? は長い間不明だったが、1983年にX線照射によって判明した。




「継手・仕口」には右図のような図が載っている。

男木の上部は、台形が重なった形である。すなわち(b)を上辺とし(a)を底辺とする台形と、(d)を上辺とし(c)を底辺とする台形の2つが重なっている。(a)(b)(c)(d)は同じ平面(水平)にあって高低差はない。

重要なのは、@(a)は(b)より幅が広いこと、A(c)は(d)より幅が広いこと、B(a)と(d)の幅は等しいことである。

これをうまく継ぐと、東西の面は「蟻継ぎ」に見え、南北の面は「殺継ぎ」に見える。問題は継ぎ方である。前後左右からの嵌め込みはできないし、上下からの嵌め込みは「蟻継ぎ」があるのでできない。

図のように「斜めに差し込む」と本に書いてあるが、イメージできない。2次元の図から3次元の形を想像することは難しい。

以下は帰宅してからしたことである。インターネットで探したら、 継手と仕口のペーパーモデル(岩下繁昭) というHPがあって、大阪城大手門の継手がペーパークラフトで作れることがわかった。ペーパークラフト集として市販されているらしい。

ここにそのパーツの図面が載っていて、印刷することができる。喜んだ。著者の岩下さんには感謝である。

図のような8つのパーツがある。これを厚手の紙にプリンターで印刷して、パーツを切り分け、組み立ててみた。

何しろ厚手の紙とはいっても厚紙ではないし、プリンターで出せるのはA4サイズだから、パーツは小さく、糊付けに難儀したが、なんとかできたのが次図。

左側は男木で柱の下部になる。右側は女木で、男木の飛び出ている形と同じ形でへこんでいる。

継ぎ方の手順は次のようになる。
  1. 女木の(a)の先端を男木の(b)に合うようにかぶせる。

  2. 側面から見ると、女木の殺継ぎの山形が男木の蟻継ぎの水平面と同じになるように傾ける。

  3. (a)を男木の殺継ぎの山形に沿うように斜め下方に押し込んでいくと、(a)は(b)を挟み込んでいき、(d)は(c)を挟み込んでいく。

  4. 差込完了。2面が殺継ぎ、2面が蟻継ぎになっている。



大手門の左手には多聞櫓がある。この一廓は石垣で囲まれている。この囲みを枡形という。

敵が大手門を突破して侵入しても、大手門を除いて3方が石垣によって囲まれ、石垣の上の櫓から集中攻撃を受けることになる。

また味方が城外に出陣するときは、枡形に整列すれば、その人数が100人とか200人とかをすばやく掴める。

枡形の石垣は巨石が多い。敵によじ登られないためなのか、巨石で城の堅固であることを表現したいのか。とにかく巨石を多用している。

巨石と巨石の間の隙間には切石が嵌め込まれていて。モザイク模様のような精巧さである。

「石山本願寺推定地」の案内板があったが、本願寺跡には、秀吉が大阪城を作り、徳川がその大阪城に盛り土をして、徳川の新しい大阪城を作ったので、もし本願寺跡があっても地下になる。

いまさら掘り返して、豊臣の大阪城の発掘することもできなければ、さらに下にある本願寺跡を探すことは不可能だ。

内堀を渡れば、本丸である。桜門の向こうに天守閣が見える。

天守閣。正面(南向き)の屋根には大きな破風が乗る。破風は2層分の高さがある。

最上階の入母屋の妻の△を含めて△が3重に重なっている。破風が大きいので南面は豪放にして派手である。ここが南面の最大の見どころだろう。

右は西面、左は北面。西面の破風は1層分の高さである。1層目の屋根には2つの△が横に並び、2層目の屋根には中央に△がひとつつく。1層目の破風よりも大きい。

3層目の屋根には破風はなく、4層目の屋根に1層目と同じ大きさの破風が1つつく。破風が小さいのでおとなしい感じだが、破風と屋根の調和がとれていてなかなか美しい。

城は見るべきところは、さして多くない。

極楽橋を渡って本丸を出た。今日のテクテクの目的はこれで終了したのであるが、まだ11:30ころだったし、万歩計も1万歩になっていない。

歩数を稼ぐために、大川沿いに歩いて桜宮橋まで行くことにした。

京橋口から外堀を越えて、城外にでた。

(次図)歩道橋から南を振り返ると、左手に置塩章(おじお・あきら)設計の旧大阪砲兵工廠化学分析場があり、右手に大阪城天守閣が見える。





歩道橋は「大阪橋」に繋がっていて、寝屋川を越えることができる。

橋の中ほどから上流方向(東)を見ると、寝屋川と平野川に挟まれた大阪ビジネスパーク(OBP)の超高層ビルが林立している。

中央のガラス貼りはクリスタルタワー(竹中工務店)。クリスタルタワーの左側と背後にはツインタワー(日建設計)がある。

クリスタルの右側には2つのビルが重なっているが、、左の白いビルは松下IMPビル(日建設計)、黒っぽいビルはOBPキャッスルタワー(日建設計)である。

(次図)寝屋川はすぐに大川と合流する。写真は合流点に架かる川崎橋から大川上流を撮ったもの。大川の先に銀橋がみえる。





大川端には遊歩道が敷かれ、川の土手斜面に木立が植えられ、随所にベンチが置かれている。夏暑い日の夕刻は川風が吹いて涼しいことだろう。

川端の遊歩道を歩かなかったのは、川から少し離れたところにある大阪市長公館に行くからである。市長公館は竹腰健造の設計である。ついでに見ておこうと思いついた。

この辺りは網島町である。近松の「心中天の網島」の最後の舞台(網島町・大長寺)となった場所である。

明治になって、網島町のほとんどを藤田財閥が手に入れたようである。どこに行っても藤田の名残りがある。例えば太閤園、藤田美術館、藤田邸跡公園、大阪市長公館など。



この白い瀟洒な建物は、5〜6年前に藤田美術館を訪ねたときに知った。

塀に囲まれていて、門には大阪市長公館のような門札がかかっていたはずだが、なんだかひどく開放的になっている。

歩道からひょいと敷地内に立ち入ることができるのではないか。


思い出した。この位置に鉄格子の扉があって、その向こうから、当時の大阪市長だった平松(邦夫)さんが車に乗って公邸を出ようとしていた。周りに2〜3人の秘書か警備の人がいた。

やはり公邸は塀で囲まれていたはずだ。橋下(徹)市長になってから、かように開放的にしたのかと思ったが、玄関の車寄せにレストランのウェイター姿が立っているのが気にかかる。

表札を見ると、「ガーデン・オリエンタル」になっている。市長公館はレストランになったのだ。大阪市の財政立て直しの一環であろうか。

レストランに入れば、日建設計の創始者のひとりである竹腰健造の建物や室内の装飾を見ることができるわけだ。



桜宮橋(さくらのみや)に向かう。

橋は銀色に塗装されているので、大阪では銀橋(ぎんばし)と呼んでいる。

銀橋は上り(東行き)と下り(西行き)の2つがある。手前の橋は西行きで、1930年に架けられた。武田五一の設計。

向こうの東向きの橋は、2006年に国道1号線の拡張がされたときに架けられたもので、安藤忠雄の設計。新旧の橋を区別するときは新桜宮橋と呼ばれる。

2つの橋はそれぞれ3車線。

武田五一の銀橋は、古いだけあって、リベットかボルトで構造物を留めている。アーチ形の鋼材はアーチリブというが、写真のようにリベットが連続している。

またアーチリブの下にある柱は、アーチリブを支えているのではなく、アーチリブから垂れて、これが道路を吊っているのである。吊り材もリベット(かボルト)で鋼材を合わせている。

一方、新しい橋は溶接しているようだ。橋にボルトやリベットの頭が出ていない。武田と安藤の76年間の時代の差は大きい。

銀橋を西へ渡ると「天満」である。橋の西詰めに大阪造幣局がある。造幣局には「造幣博物館」がある。

前回、藤田美術館に来たとき、ここへ寄ってみたが、「土曜と日曜は休館です」のお知らせが出ていた。

土日曜しかテクテクのチャンスがない私には、今後も縁はないなと思っていたが、今日は「休日開館中」と立て看板が出ている。

「休日は閉館」の間違いではないかと読みなおしたが、今日は土曜日にもかかわらず、特別に開館しているらしい。ラッキーだ。


受付で博物館の見学を申しこむと「190番」という名札が与えられた。胸ポケットに挟んでおくようにとのことである。さすがは造幣局だ。人の出入りのチェックを怠らない。

入ると門があった。この門はアイルランド出身のウォートルスが、明治4年(1871年)に作ったもので、旧造幣寮の正門であった。

両脇に八角形の衛兵詰所がある。普通なら守衛室であるが、ここは造幣寮である。貨幣を作っている。よって大阪師団の兵士が門番として警備をしていたという。

以下のウォートルスと事績については「日本の近代建築(上)」(藤森照信)を参考にした。

造幣博物館があった。設計は河合浩蔵というから、ずいぶん古い建物のはずだが、古びていない。博物館内はリニューアルしてあったから、そのときに外面も修復したのだろう。

幕末、徳川幕府は洋式海軍を作り、洋式の艦船を作る工場を持つことが急務であると考えた。そこでオランダ海軍のカッテンディーケに依頼して、長崎製鉄所を作らせた。 製鉄所と名づけられているが、鉄を製造するのではなく、艦船を造船するのである。

造船に必要なものの一切の建物や設備がここに建造された。溶鉄場、鍛冶場、工作場、ドック、倉庫、外国人住宅を含めた一大プラントである。木造建築しか知らない日本人には、石造の壁構造、鉄骨を多用する柱、トラスによる屋根組などを使って工場を作ることは無理であった。

一方、ウォートルスは、幕末に薩摩藩の依頼によって、紡績所や製糖工場を作って、洋式の工場とはこういうものであるという成功例を示していた。維新がなって新政府ができた。新政府はすぐに、英国人キンドルを雇い入れ、新貨幣鋳造のための造幣寮を計画し、ウォートルスに造幣寮に必要な一切のものの建設を依頼した。

博物館に創立当時のジオラマがあった。大川に面して、先ほど見た正門がある、これを入ると石造の建物がある。玄関には6本の円柱にペディメントが乗った車寄せがついている。金銀貨幣の鋳造所である。後方にはレンガ造の工場がある。銅貨の鋳造所である。

金銀貨幣鋳造所の右隣の小さい白い建物はキンドル詰所。その右の緑色の軒をつけた建物は地金局。 写真には写っていないが、その右には中等洋人館・下等洋人館や貴賓客のための泉布観(せんぷかん)があった。当時の日本にとって最大にして最新の洋式工場建築(プラント)であった。


博物館の展示室は2階と3階にある。2階に上がってみるとなかなか贅沢な陳列のしかたである。

図は造幣寮に貢献のあった人物のレリーフである。左から由利公正、井上馨、3番目にウォートルス。

ウォートルスは単なる建築家ではない。建築はもちろんとして、土地測量、土地造成、土木、工場、橋梁、港湾、鉄道、水道、都市計画、レンガやセメントの製造などなど、明治政府が必要としたすべての建設分野をカバーした。

司馬さんの「坂の上の雲」の書き出しは、『まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。』であるが、ウォートルスが植えた木の苗が、10〜20年のちに開花期を迎えることになったのだ。

造幣局であるから、貨幣の展示が多い。古代中国の貨幣、和同開珎、富本銭、大判・小判、一分銀、造幣寮で作った貨幣などが並べられている。

紙幣は日銀が印刷し、貨幣は造幣局が作る。紙幣の偽札があるように貨幣も偽造される。これを防止するには、一般の工作機械ではできないような高度の技術を備えていなければならない。 例えば500円硬貨での工夫は、右図のような技術を使っている。
  1. 微細点。単純にプレスしただけではつぶれてしまうほど小さな点々を意匠に入れる。

  2. 微細線。極細の線を意匠に入れる。
  3. 斜めギザ。
  4. 潜像加工。硬貨を見る角度によって別の文字が現れる。

スターウォーズをモチーフにした銀貨セットがあった。2011年にニウエという国が発行している。記念切手と同様に記念硬貨を発行してニウエ国は外貨を獲得しているらしい。

銀貨だが白くはない。カラー写真が焼き付けてある。日本の進んだ技術を見て造幣局に製造依頼をしたようだ。このセットはファルコン号のケースに収められて売られた。

見学を終えて造幣局を出ると、店舗らしきものが目についた。「造幣局製造品販売所」の幟が立てられ、ガラスドアには「ミントショップ」「Mint Shop」と書かれている。

造幣局直営の販売所であるらしい。営業時間は月曜〜金曜の9:00〜16:30である。役所らしく商売気がない。土曜日曜には店を開いていないのだが、どういうことか、今日は特別に造幣博物館とミントショップが開いている。

もらったパンフレットで知ったが、天満橋のOMMビルで大阪コインショーがこの金曜〜日曜の3日間開催されている。造幣局がそれを後援しているので、それに合わせて博物館とミントショップを開いたという。

めったにない機会だから入ってみた。先ほど見たスターウォーズのコインセットが置いてあるかも知れないし。

店内には、メダルなどの工芸品も置かれているが、メインは記念貨幣や貨幣セットの販売のようである。

現在発売されている記念貨幣は、@地方自治法施行60周年記念貨幣、A新幹線鉄道開業50周年記念貨幣、B東日本日本震災復興事業記念貨幣 の3つである。

「地方自治法施行60周年記念500円・バイカラー・クラッド貨幣」を買った。各県によって図案が違う。三重県は熊野古道、兵庫県はこうの鳥の図案である。2つとも買った。

500円硬貨として通用するが、販売価格は税込みで各1028円。合計で2056円だった。貨幣なのに消費税がつくのだ。

右は兵庫県の500円記念貨幣。名刺サイズのカード形ケースに入っている。図案は「こうの鳥」。背景の写真は、天空の城・竹田城である。

500円貨幣はスターウォーズのようなフルカラーではない。「バイカラー」とあるので2色であるが、これは色をつけたのではなく、色が異なる2種類の金属を使う。

ケースの裏の素材を見ると、基本はニッケル黄銅で、白銅および銅も入っている。白銅で白色を出し、銅で金色に近い色を出しているようだ。

ミントショップの前の国道1号線を北へ渡ると泉布観がある。前回来たときは工事中であった。工事用の塀が取り巻いていたので、大川縁の遊歩道から一部分だけを見ることができた。

今日は補修工事が終っているので全貌を見ることができる。人と人との出会いのように、建物との出会いにもよい時期・悪い時期がある。

設計はウォートルス。造幣寮のゲストハウスとして、明治4年(1871 年)に建てられた。煉瓦造2階建て。重文。

異人館の造りは、ベランダ・コロニアルと呼ばれている。最も特徴的なのはベランダが部屋を取り巻いていることである。各部屋はベランダ側に扉をつけ、部屋から部屋に移動するときはベランダを通る。(内部に廊下も戸もあるが)

各階には円柱が並び、2階には手すりがつく。そして正面にはペディメントが乗った車寄せがある。

ゲストハウスであるから、室内はそこそこ豪華な造りになっているとは思うが、外から見る限りでは装飾は少なく、割りに単純な造りである。



泉布観の隣に旧桜宮公会堂がある。正面玄関の石柱とペディメント(円柱上部の△)は、旧造幣寮の玄関であった。これをこの場に移し、後背部に公会堂(ホール)部分を継ぎ足してある。

だから玄関部分は1871年のもので、継ぎ足したホール部分は1935年のものである。

これだけ改変されているのに重文になっているのは、玄関部分がそれほどまでに歴史的に重要であるということだろう。

建物に近づくとピアノの音が流れてきた。ははあ、公会堂だったから今でもコンサートを催すことがあるのかな、と思っていたが、玄関前にコック姿やサロン(エプロン)を巻いたウエイター達が動きまわり始めた。

何事ならんと見ていると、玄関の石段下に横並びとなった。そこへホールから出てきたのは新郎と新婦とその両親の6人であった。この重文の建物は結婚式場としても使われているらしい。 大阪市長公館とおなじく、歴史ある建物を開放して、大阪市の財政立て直しの一助としているのだろうか。まあよいことである。

鶴橋発2:10分の電車で帰った。多方面のものを見たので印象が散漫になった。@大阪カテドラルでは司馬さんの「ひとびとの跫音」と長谷部鋭吉のことを思わねばならなかったし、A越中井では細川忠興について知らねばならず、B大手門では継手を理解するためにペーパークラフトまで組み立てた。C大阪城天守閣には心は弾まなかったが、C造幣局では知らなかった硬貨についてのことを知れたし、Dウォートルスの造った旧正門・泉布観・旧桜宮公会堂の玄関を見ることができた。ウォートルスがようやく見れたという思いであった。

今日の万歩計は18800歩だった。



行く先の目次... 前頁... 次頁... 大阪城周辺...            執筆:坂本 正治