京都・伏見区日野

    No.99.....2015年 6月 6日(土曜)


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今年はテクテクに励むつもりだったが、どうしても作りたいソフトを思いついて、4月5月の2か月間はこれに没頭した。

いつ桜が咲いて散ったのかも気がつかず、ゴールデンウィークも家に閉じこもって精出した。

西行が、
    吉野山   こぞの枝(し)折りの
    道かへて  まだ見ぬかたの
    花をたづねむ
と詠い、後醍醐天皇が
    花に寝て  よしや吉野の
    吉水(よしみず)の  枕の下に
    石(いは)走る音
と詠った吉野の桜満開のニュースも目につかなかった。

ようやく構想していたソフトが完成し、さあ、しばらく休んでいたテクテクを再開するぞ。と訪ねたのは右の地図の5か所である。
  1. 下鴨神社
  2. 石田(いわた)の杜
  3. 方丈岩
  4. 親鸞誕生院
  5. 法界寺(日野薬師)



今日のテクテクはAさんが同行する。彼とはもう30年近い付き合いだ。ソフトのユーザーであるから商売上では「お客さん」であるのだが、家内が死んだときはいち早く弔問してもらったりと、親密な関係にある。

京都の新聞社に勤めていたが数年前に定年退職し、いまは大津にあって年金生活をされている。「比叡山なら車で案内しまっせ」とかねがね誘われているのだが、比叡山は遠い。いまだに誘いに応じられないでいる。

今度のソフトについて電話がかかってきて、質問された後、運動不足のために血糖値が下がらぬ。というので、じゃあ「方丈記」の方丈を見に行こう。20000歩は歩けるだろうと誘った。

京阪電車・出町柳駅(でまちやなぎ)で、9:30に待ち合わせた。



下鴨神社は大原・八瀬から流れてくる高野川と雲ケ畑から来る賀茂川の合流点にある。川は合流してからは「鴨川」と呼ばれる。

出町柳駅は地下にある、階段を登ると目の前に橋がある。ここは合流点の少し川上なので、高野川に架かる橋だ。名は「河合橋」とあった。なるほど川が出合う「河合」である。

向こうの山は、松ヶ崎の西山と東山である。五山の送り火では「妙」と「法」の字が燃える。今見ても火床の跡があって「妙法」と読める。東を見ると東山如意ケ嶽の「大」の文字が読み取れる。

「妙」「法」「大」文字が間近に見える。よってこの橋は、8月16日には見物客でごったがえすのだそうだ。


うーむ。橋の上だから涼しいだろうしな。そういえば鴨川の川床で飲み食いしたことはないなあ。といえば、いつか貴船の川床で鮎でも食べようか、という。

流しそうめんでよいよ。だが貴船は遠いし、夏は出歩くには暑すぎる。

ここより下鴨神社の境内。林は糺(ただす)の森。


楼門(重文)。 下鴨神社の正式な名は賀茂御祖神社(かもみおや)である。賀茂といったり、加茂と書いたり、鴨としたりでややこしい。

京都を流れる川は東から順に、@宇治川、A山科川、B鴨川、C桂川である。平安京以前は宇治川・山科川は宇治氏・岡屋氏が押さえ、鴨川は鴨氏・八坂氏が、桂川は秦氏が支配していた。

古代の京都(古名は葛野・かどの)では秦氏が格段に大きな勢力を持っていたはずだが、鴨氏の氏神である下鴨神社が山城国の一宮となっている。

秦氏の氏神はどうしたのか? 伏見稲荷が秦氏の氏神であるらしい。平安京になって地の利のよかった鴨氏の氏神が京の一宮になったのだろうか。

「海外からの観光客が最も喜ぶのは伏見稲荷らしいで。鳥居の列をくぐり通るのが面白いらしい。」とAさん。

中国・韓国は赤(朱)色が好きやな。平安神宮にいったら、中国・韓国語が飛び交っていてどこの国にきたのかと思ったわい。平安神宮を建てた伊東忠太もびっくりしているだろう。

本殿は国宝であるというので、楼門をくぐってみたが、拝殿が本殿に近すぎて、本殿の屋根さえ見ることができなかった。

まあいい。下鴨神社へ来たのは、摂社である河合神社を見るためである。河合神社は今は「かわい」と呼ばれているが古くは「ただすのやしろ」といったらしい。ここは「方丈記」の鴨長明に縁のある神社である。


今年になってから、西行(さいぎょう)についての本を読んでいるのだが、歌が中心であるのでなかなか頁が進まない。西行についての4冊の本を揃えたが、通読できたのは「西行山家集」(井上靖)と「西行」(白洲正子)の2冊だけである。

私は万葉集はよいと思うが、古今・新古今はそのよさがわからなかった。ところが新古今集に最も多く載せられている西行の歌は、私が思っていた新古今的な歌とはどうも違うようなのである。

西行については詳しくない。知らないことばかりなので、この2冊については身を入れて読めた。のちにも何度か読み返すことになろう。

HPを見ていたら「鴨長明や西行、芭蕉ら隠者に学ぶ---これからの時代の「ひとり」の哲学」という記事があった。宗教学者の山折哲雄さんのインタビュー記事である。

かつて、鴨長明、吉田兼好、西行、芭蕉、良寛など庵住まいをして質素に生きた隠者がいた。だが決して禁欲的ではなかった。出家しながらも歌を歌い、書を書き、月や桜をめでた。老齢化社会に入った今こそ「ひとりで生きる」「ひとりで立つ」「ひとりで暮らす」ことの本質的な価値を見直すべきである。といった内容であった。


そうだ、鴨長明は方丈の庵に住み「方丈記」を書いたのだ。その方丈庵が河合神社に復元されているという。

庵があった。屋根は杉皮か桧皮で葺いてあるのであろうか。手前に軒がつけられ、左の窓は半蔀(はじとみ)である。

この方丈庵は復元しやすかっただろう。というのは鴨長明はこの庵について詳しく述べているからである。

(29段)『いま、日野山の奥に、跡をかくして後(のち)、東に三尺あまりの庇をさして、柴折りくすぶるよすがとす。』

写真の軒(庇)は3尺ほど伸びていて、この下で柴を燃やして調理をした。雨が降っても炊きつけができるように軒をつけたのだろう。


『南に竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)をつくり、北によせて、障子をへだてて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかけ、前に法花経(ほけきょう)をおけり。』

戸は2枚の引き戸となっている。桟格子のついた板戸であるが、戸についての記述はない。土台は基礎とした石の上に据えられているようだ。したがって床下はない。

左は南向きである。室外に丸竹のスノコが敷いてある。壁は網代(あじろ)で、窓は半分だけが上に開く蔀戸(しとみど)だ。これは板張りである。

室内の中央に炉が切ってある。炉についての記述はないが、方丈記の(31段)に『或いはまた、埋(うず)み火をかきおこして、老(おい)の寝覚めの友とす。』とあるので、炉があったとしたのだろう。

南面。竹のスノコがよくわかる。室内の西隅の棚は閼伽棚(あかだな)である。曲げ物の桶が載っているが、ここへ仏に供える水を汲み置きしたのだろう。

『東(ひんがし)のきはに、蕨のほどろを敷きて、夜の床(ゆか)とす。』

「蕨のほどろ」とは蕨が成長すると穂がばさばさになるようである。綿毛かススキか蒲の穂に似てホワホワしたものだろう。これを敷いて敷き布団の替わりとしたのか。掛け布団は着物であろう。

曲げ物の下にわずかに竹の棒が2本みえているが、これは吊り棚の上部である。

『西南に竹の吊棚を構えて、黒き皮籠(かわご)三合を置けり。すなはち、和歌・管絃・往生要集ごときの抄物(しょうもの)を入れたり。』

和歌の書、管絃の書、仏典などを置いていた。本棚である。

西面。網代の壁ばかりである。室内のこの壁には, 阿弥陀仏と普賢菩薩の画像が掛けられていた。

『かたはらに、琴・琵琶おのおの一張(ちょう)を立つ。いはゆるをり琴(折り琴)・つぎ琵琶これなり。かりの庵(いおり)の有様(ありよう)、かくのごとし。』

本棚の隣には、琴と琵琶が立てかけてあった。琴は「をり琴」というから、2つか3つに折りたためるようになっていたのか。また琵琶は「継ぎ琵琶」なので棹を胴にはめ込むようになっていたのか。狭い庵であるから、物はコンパクトでなければならない。

振り返って方丈庵を眺める。この庵を解体すると、荷車2台分になると方丈記にある。



平安末期は武士が勃興し貴族が没落していった時期であるだけに、のちの世に残る人物が排出する。

武士を除いても、西行・法然・鴨長明・親鸞・明恵が同時期に同じ空気を吸って生きている。

西行は法然が黒谷で浄土宗を開き、その説法を聞きに大勢が法然の小さな坊につめかけたことは知っていただろうが、西行はそういうことはいわない。

鴨長明は和歌の道を志していたから、西行の歌は多く知っていた。また出家者として、法然のことは気になっていたはずだ。しかし長明も法然のことはいわない。


京阪三条まで引き返して、地下鉄東西線に乗った。東西線とはいうけれど、東西を向いて走っているのは、太秦天神川→蹴上(けあげ)の間だけである。蹴上→御陵→山科は南東へ向きを変え、山科からは南北を走る。

実質は「南北線」となった東西線は、山科→東野→椥辻(なぎつじ)→小野→醍醐→石田→六地蔵と伸び、六地蔵が終点となる。

「石田」駅で下車した。石田は「いしだ」と呼ばれているが、奈良時代には「いわた」といった。

2010年3月に宇治の平等院から宇治上神社へいき、ついでに仏徳山(131m)に登って、平等院を俯瞰したことがある。その道中に万葉歌碑が立てられていた。声を出して読み上げると調子がよい。気に入って、紙に書き写して帰宅して調べると、万葉集(13-3236)の歌であった。



大和の国から平城山(ならやま)を越えて、

山城の国の綴喜(つづき)の原、

宇治の渡し、

岡屋のアゴネの原と続く道を

千年のうち1日も欠かさず

万年のあいだ通い続けたいと

山科の石田の杜の神に

幣帛(ぬさ)を手向けて

私は越えていく。逢坂山を


奈良の平城山から逢坂山への道筋を詠んだ歌である。逢坂山を越えると滋賀の国。そこから琵琶湖西岸を北上すれば若狭の国。さらに足を伸ばせば越前の国である。

この歌は5・7・5・7・・・の繰り返しがない。。初句からの字数は、(4・6・7)・(5・6)・(5・6)・(4・7)・(4・7)・(5・7)・(5・7)・(5・7)・(7・7)である。普通は7・7で終わるのだが、この歌は7・7・7で終わっている。7・7・7で終わる形式は万葉集以前の記紀歌謡に例があるので、古くから詠い続けられてきたものだろう。と伊藤博さんは言われている(万葉集・釈注F)。

一句が4字とか6字とかが多いのは地名を詠っているのも原因である。その地名の綴喜、宇治、岡屋の地名は今も残るが、アゴネの原は残っていない。

最も言葉を費やして詠っているのは「石田の杜」である。ここで旅人は道中の無事を祈った。その石田の杜がいまなお残っている。「すめ神」がいる神社は「天穂日命神社」(あめのほひのみこと)である。

ワクワクしながら神社境内に入ったのだが、期待は見事に裏切られた。「杜」ではなかった。林と呼べるほど広くもない。単なる参道脇に植えられた木立である。

社殿は小さく、神主さんは住んでいないようだ。大方は勤めていて、事があれば(初詣・宮参り・地鎮祭など)自宅から駆けつける感じである。

奈良から滋賀に行くときに旅人が必ず参った石田の杜は、いまではうらさびれた神社になっていた。


次の目的地は日野である。地下鉄石田駅から南東に通じる道(県道127号)を30分ほど歩けば着くはずだ。 しかしやたらに車が多い。

向こうの山は醍醐山か? それとも日野の山か?

鴨長明および方丈記については、「すらすら読める・方丈記」(中野孝次)に頼っている。著者はバブルが崩壊した後の1992年に「清貧の思想」を書かれ大きな反響を呼んだ。2004年に亡くなられた。

この本では本阿弥光悦・鴨長明・良寛・池大雅・与謝蕪村・吉田兼好・芭蕉・西行を取り上げられている。私が小学生のとき「清く貧しく美しく」という映画があって、学校からクラス全員で見に行ったが、まさに「清く貧しく美しく」が中野さんの言いたかったことである。

交差点を過ぎると車は急に減った。

長明の父季継(すえつぐ)は下鴨神社の禰宜(ねぎ)であった。長明もこのあとを継げるはずであったが、長明は和歌や音楽(管弦)に熱中した。父の季継が死んだとき、禰宜の職は別の鴨一族(鴨祐兼)が継いだ。道楽息子に禰宜は務まらないとされたのだろう。

その後も祐兼の系統が禰宜職を受け継ぎ、長明が下鴨神社の禰宜になる可能性は無くなった。30歳過ぎには家をでて鴨川の傍に前の屋敷の1/10ほどの家を建てて住んだ。長明は和歌をよくしたから後鳥羽院は和歌所に採用された。和歌所は新古今和歌集の編纂をしていたのである。


長明にチャンスがおとずれた。下鴨神社の摂社の河合社(ただすのやしろ)の禰宜に欠員が出たのである。

父季継は河合社の禰宜を務め、そこから下鴨神社の禰宜に昇進したのである。河合社の禰宜になれれば、下鴨神社の禰宜になる道が拓ける。

しかも今回は後鳥羽院という強力な後押しがある。長明は感激した。しかし河合社の禰宜になることはできなかった。神職についていない長明には実績がなかったため、横槍が入ったのである。

3本の道標が立っている。左の道標は、方丈庵があった場所はここから1000m先であることを示し、真ん中のくすんだ道標は「右 ひのやくし」とあって法界寺の案内をする。右の新しい道標は「親鸞聖人誕生院」とある。

後鳥羽院は代わりに別の社を官社に昇格させ、長明をその職につかそうとしたのだが、長明は断り、和歌所を辞めて出家する。50才くらいのときである。

その後大原で隠遁生活に入ったが、5年後に日野に小さな庵を移した。その庵は河合神社で見たものである。

その庵で方丈記を執筆し、62才で亡くなった。



隠遁生活であるから人里離れた山の中に住むにきまっている。道はまだ舗装されているが、道幅は狭くなり、そのうちに山道となった。

方丈庵のあった場所について、方丈記は次のようにいう。

(30)『その所のさまをいはば、南に懸樋(かけひ)あり。岩を立てて、水を溜めたり、林、軒近ければ、爪木(つまぎ)を拾ふに乏(とも)しからず。名を外山(とやま)という。』

南には懸樋を引いて、岩を組み合わせた水溜めに山水を溜めていた。家の近くに林があるので、薪にする小枝はいくらでも拾える。山の名は外山である。

「外山」という山があるかと地図で探したが見当たらなかった。日野南山が昔の外山であろうか。日野南山の頂上の標高は約210m。たぶん長明が住んだ場所のその山裾で、標高は110〜120mくらいだったのではないか。

巨岩があった。木の柱が立っており「方丈記庵跡探訪記念標」と書いてある。教育委員会のような公的機関が立てたものではなく、探訪者が勝手に立てたもののようである。

巨岩の左に小道があった。

濡れ落ち葉に足を滑らせないようにゆっくりと登ると、巨岩の上にでた。

ここに庵があったと推定されているのだが、案外狭い。庵の南(右手)には懸樋を引いて岩で囲った水溜があったし、東(奥)には3尺の庇を出して、その下で煮炊きしたのだから、そのスペースも要る。

幸い南にも引き戸がついているから、長明は私らが登ってきた山道を同じく上り、庵に出入りすることはできたであろう。

北(左手)は山斜面が迫っているが、斜面ぎりぎりに庵を据えることはできそうだ。

「方丈の庵跡」の石碑があったが、字が小さい上彫りが浅いので読めない。こういうものは撤去したほうがよい。方丈庵をしのぶには邪魔である。

『まさきのかづら、跡を埋めり。谷しげけれど、西晴れたり。観念のたより、無きにしもあらず。』

かづらが茂って道を覆い隠している。谷は木が茂っているが、西側は開けている。日想観をするには好都合である。

『もし日うららかなれば、峰によぢのぼりて、はるかに故郷(ふるさと)の空を望み、木幡山(こわた)・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を見る。勝地(しょうち)は主(ぬし)なければ、心を慰むるに障(さわ)りなし。』

木幡山・伏見の里は庵から西方向にあり、鳥羽は北西にある。羽束師という地名は伏見よりもっと西の桂川近くにあるが、そこが長明のいた当時の里であったのかどうかは知らない。

長明はこの場所に庵を構え、自ら、掃除・食事の用意・後片づけをし、自給自足で食料の調達をし、着るものは藤蔓を砕いて織った衣、夜具は麻の衾(ふすま)という質素ではあるが、充実した生活をしたのである。


方丈庵から下山する。といってもわずかな高見に上っただけなので、あっという間に平地へ出た。訪れたのは、親鸞の誕生院である。

親鸞は日野有範(ありのり)の子である。日野家はもともと藤原北家の系統で、本来なら藤原の中心になってもよかったのだが、政治的な失敗があって本流にはなれなかった。

先祖の藤原資業(すけなり)が1051年に日野に法界寺を建立し、薬師如来を祭ったことから、日野氏を名乗ることになった。日野氏の地盤は日野の里である。

親鸞も日野で生まれた。しかしそのころの日野家は貧しかった。父の日野有範(ありのり)は正五位の位であり、貧乏学者として生涯を終えた。


日野誕生院本堂。これは1804年に親鸞の父の日野有範にちなんで立てられた「有範堂」が起源である。だから新しい寺である。

ところが日野の系統からは歴史の変革期に人材が輩出する。まずは親鸞である。ついで後醍醐天皇の正中の変における日野資朝(すけとも)、元弘の乱で活躍した日野俊基(としもと)。彼らは建武の親政がなる前に斃れたが、足利尊氏が天下を取った後、日野家は足利家と深く結びついた。

多くの日野家の娘たちが足利将軍の正室になった。3代・足利義満の正室になったのを始めとして、4代・6代・8代・9代・11代と6代の将軍の正室をだした。最も有名なのは8代将軍義政の正室の日野富子である。日野家は女でもった家系だといえる。

方丈記は中学か高校の授業で習った記憶があるが、サワリだけで全文を通読したことはなかった。だがその書き出しは印象的である。

(1)『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。人と栖(すみか)と、またかくのごとし。』



法界寺。真言宗醍醐派。

「ゆく河の・・・」と河の流れや水の泡に無常観を込めているのだが、それは長明がいうまでもない。400年以上前に柿本人麻呂がすでに歌にしている。
    もののふの  八十氏河(やそうじかわ)の
    網代木に   いさよふ波の   行く方知らずも

                   (3-264)
あるいは
    巻向(まきむく)の  山辺(やまべ)とよみて
    行く水の 水沫(みなは)のごとし 世の人われは

                   (7-1269)

阿弥陀堂。国宝。

このたび方丈記の全文を読んでみたが、37段に分かれているうちの23段は災害の記述である。長明が生きた時代の災禍を掲げると以下のようである。
  1. 1156年 保元の乱
  2. 1160年 平治の乱
  3. 1177年 安元の大火
  4. 1180年 治承の辻風
  5. 1180年 福原へ遷都
  6. 1181年 養和の大飢饉
  7. 1185年 元暦の大地震
1)と2)は長明の子供のころのことなので、方丈記には書かれていないが、あとは体験したことだから克明に、リアルに記述してある。

薬師堂(本堂)。重文。背後の山は日野南山。

で、長明は世の無常を思うのであるが、冒頭で『人と栖(すみか)と、またかくのごとし。』と書いたように、栖(すみか)に大いなる興味をもつのである。

住居は狭いのがよい。最小限の機能があればよい。いつでも移動できるのがよい。として方丈庵を設計する。 方丈庵の構造と日野の環境についてが後段の記述である。方丈記のメインの題材は、どこに、どのような住居に住み、どのようなくらしをするのか、ということである。

無論体験した厄災や人との交わりから受けた無常観が方丈記の通奏低音となっているのだが、長明は悲観したわけではない。法然や親鸞のように来世を頼みとしなかった。

蓮池の向こうに薬師堂。

薬師堂は薬師如来を祭る。薬師如来は現世の病を救う仏である。一方阿弥陀堂は衆生を来世に導く阿弥陀仏を祭る。

長明は現世の生き方を考え、法然・親鸞は来世の救いを思った。(同じ宗教家でも明恵は現世で釈迦に近づこうと修行した。)

無常の世ではあるが現世を生ききったのが、西行・長明・兼好・芭蕉・良寛である。

そういうことを思いながら、日野の里を歩いた。

AさんとJR京都駅に出て、焼き鳥屋で一杯飲み、4:15の近鉄電車で帰宅した。

今日のテクテクについてもう少し書くつもりだったが、撮った写真が少なくて使える写真が尽きた。万歩計は19400歩だった。



行く先の目次... 前頁... 次頁... 伏見区日野近辺...            執筆:坂本 正治