大阪市・契沖の足跡

    No.98.....2014年10月18日(土曜)


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小林秀雄さんの「本居宣長」を再び読んでいる。なかなか難しい内容である。難しいのは私に古典(古今・新古今・源氏・伊勢物語など)の素養がないことと江戸期の学者についての知識がないためである。それでもパソコンのプログラムに疲れたとき、寝転んで「本居宣長」を少しずつ読んでいるのだが、本居宣長(1730〜1801年)が畏敬した学者は、契沖(けいちゅう・1640〜1701年)と賀茂真淵(1697〜1769年)の2人だけであったようである。

空前絶後の大学者の本居宣長が『契沖の歌学における、神代よりただ一人なり』といわしめた契沖は、大阪が生んだ国学の先駆者であるが、その生前は質素な生活を強いられたようである。学者はその対象(ものごと)が好きで研究をする人である。自分にとって面白いから研究するのである。よって貧乏な一生を終えてもかまわない。他人の評価のため、金儲けのために研究するのではない。逆に学問によって現世的な名声を得たり、財を成すことは、その時代に迎合した学説であることの証拠であり、新しい学問を打ち立ててはいないのである。

だから我が国における国学の先駆となった契沖は、思い存分の研究をして、その手ごたえを感じ、貧しかったが得心のいく人生を送ったと思われる。契沖は尼崎に生まれ、大阪で出家して高野山で学び、泉州で研究に没頭し、ふたたび大阪に戻って、「万葉代匠記」(だいしょうき)を著した。この「万葉代匠記」はそれまでの万葉集の解釈に革命的な影響を与えたものであったが、契沖の生前に刊行されることはなかった。

宣長は自分の死ぬ年(1801年)の春に、契沖の墓のある円珠庵(えんじゅあん)を訪れ、墓参りをしている。70才になって松阪から大阪まで旅し、わざわざ円珠庵を訪れたのは、宣長の契沖に対する尊敬心の強さである。その契沖が大阪で住んだ場所を訪ねて、契沖のなしたことを勉強しようというのが今日のテクテクの目的であった。

しかし今日の訪問では契沖の大阪における名残りを十分に享受することはできなかった。予定していた拝観ができなかったためである。今日のために宣長や契沖の復習をしてきたが、残念な結果に終わった。 その代わりに近松門左衛門について知ることができ、元禄期の勉強もできたので、まあよしとせねばなるまい。


  1. 妙法寺

  2. 生国魂神社

  3. 銀山寺

  4. 高津宮

  5. 井原西鶴墓

  6. 近松門左衛門墓

  7. 浪華仮病院跡

  8. 契沖墓(円珠庵)

  9. 真田山(三光神社)

  10. 大阪カテドラル

  11. 露天神 (図にはないが梅田にある)



近鉄・今里駅で降りた。 契沖の略歴と住んだところをザッと掲げると以下のようになる。
  1. 1640年(1才)、尼崎に生まれる
  2. 1650年(11才)、出家して妙法寺(東成区)に入る
  3. 1653年(13才)、高野山で修行する
  4. 1662年(23才)、曼陀羅院(天王寺区)の住職となる
  5. 1666年(27才)、このころ曼陀羅院を出て高野山に上り修行する
  6. 1669年(30才)、久井村(和泉市)の辻森家に寄宿する
  7. 1674年(35才)、万町(和泉市)の伏屋家に寄宿する


  8. 1678年(39才)、妙法寺の住職となる
  9. 1681年(42才)、万葉代匠記初稿本を書き始める
  10. 1686年(47才)、万葉代匠記初稿本が成る
  11. 1690年(51才)、円珠庵に隠棲す。万葉代匠記精撰本が成る
  12. 1692年(53才)、百人一首改観抄が成る
  13. 1693年(54才)、和字正濫従鈔(わじしょうらんしょう)が成る
  14. 1696年(57才)、円珠庵にて万葉集の講義をする
  15. 1701年(62才)、円珠庵に没す
契沖が出家し、後に住職となった妙法寺は東成区大今里4丁目にある。地図を頼りに北上すると、熊野大神宮があった。町内の人がテントをたたんだり掃除をしていた。前日は秋祭りで、「だんじり巡行」があったようである。

妙法寺は熊野大神宮のすぐ隣にあった。11才で出家した契沖は、妙法寺住職の手定(かいじょう。本当の字は縦棒が突き抜けているのだが、文字がないので「手」で代用する)について2年学んだ後、高野山に上り10年間の修行にはげむのだが、これは契沖の学問に対する資質を師のカイ定が見抜き、勧めたからであろう。

カイ定は兼摂していた曼陀羅院を契沖に譲ったり、最後には妙法寺を継がせたりしている。 契沖は妙法寺住職を12年間務め、その合間に不滅の「万葉代匠記」を書き上げた。

「万葉代匠記」は画期的な万葉集の注釈書であった。契沖より前の注釈は「古注」と呼ばれ、契沖以後は「新注」と呼ばれるほどである。

「万葉代匠記」をはずしては万葉集を読み解くことはできない。例えば伊藤博さんの「万葉集・釈注」では次のものを参考文献として掲げられている。
  1. 万葉集註釈 (仙覚・せんがく)
  2. 万葉拾穂抄 (北村季吟・きたむらきぎん)
  3. 万葉代匠記初稿本 (契沖・けいちゅう)
  4. 万葉代匠記精撰本 (契沖・けいちゅう)
  5. 万葉集童蒙抄 (荷田信名・かだののぶな)
  6. 万葉考 (賀茂真淵・かものまぶち)
  7. 万葉集玉の小琴 (本居宣長)


仙覚は鎌倉期の人である(1203〜1272年)。仙覚の功労は、@ばらばらに伝えられてきた万葉集の校合(きょうごう)をして万葉集校本を作ったこと、Aそれまで読み下せなかった152首の歌に訓点をつけたことである。

仙覚が校合した万葉集は松殿御本、六条家本、忠定御本など10種類以上に及んだといわれるが、それらは現存していない。仙覚が突き合わせてこれが正しいとした校本によって、万葉集の全体像がわかるのである。

仙覚の次に「万葉集管見」(まんようしゅうかんけん)(下河辺長流・しもこうべちょうりゅう)を挙げる学者もいる。下河辺長流(1623?〜1686年)は契沖より15才以上年配であるが、契沖が心を許した友でもあった。

北村季吟(1625〜1705年)は俳諧の人であるが、万葉拾穂抄(まんようしゅうすいしょう)を著した。初の全歌注釈書である。契沖より15才年上で、なお契沖の没後4年長生きしている。契沖と同時代(元禄期)の人である。

次が契沖(1640から1701年)である。万葉代匠記に、初稿本と精撰本の2つが掲げられているのは、契沖が2種類の校本を元に注釈したからである。ともに全歌の注釈である。


妙法寺の建物は、本堂が残るばかりである。ここへ来るまでの道の細さや家並みを見ると、このあたりは大阪の大空襲を受けたとは思えないが、契沖の書き残したものは何も残っていないそうである。

「万葉代匠記」は水戸藩(徳川光圀)の依頼によって書き上げた書である。徳川光圀は「大日本史」の編集をすると同時に万葉集の編纂も企画した。その注釈者として下河辺長流を選び、長流は禄を受けながら注釈を書いていったのだが、途中で疾病(中気)する。

そこで長流は親しかった契沖を水戸藩に推挙し、契沖は親友の難儀を救うべく万葉集の注釈を書き始めるのである。書き始めたのが1681年で1686年には書き上げている。わずか5年で、万葉集4600首の注釈をしたのである。これは信じられないスピードである。

賀茂真淵(1697〜1769年)の「万葉考」は真淵が生涯をかけた書物であるが、ここでは万葉集20巻のうちの、1・2・11・12・13・14巻の6巻に注釈をつけただけである。本居宣長の「玉の小琴」は1〜4巻の注釈でしかない。(そのかわり「古事記伝」44巻を著したのであるが・・・)  契沖にとっては万葉集を読み下すことはさほど難しいことではなかったようである。契沖の頭の中には、言葉の発音・意味・用例が整然と分類できていたようだ。

ともかく、妙法寺の住職の役目をしながら、たったの5年間で「万葉代匠記初稿本」を書き上げたのである。ところがこれを水戸藩に奉ったところ、水戸藩はその元にした万葉集が本当に正しいものであるかを吟味した。

水戸藩では4つの万葉集を校合した「四点万葉集」という校本を作っていた。4点とは、阿野本・中院本・飛鳥井本・紀州本である。これを定本として注釈をしてほしいといわれたのである。

契沖はそれを基にして再び注釈にとりかかり「精撰本」を脱稿したのは4年後、契沖51才(1690年)のときである。初稿本および精撰本の自筆本は水戸の彰考館にある。「初稿本」は契沖の手元にあるとき弟子たちが写して世にでたが、「精撰本」は世にでることはなく、明治期になって初めて刊行された。


妙法寺には見るべきものはなかった。生玉神社に向かう。

本居宣長(1730〜1801年)は契沖の没後約30年後に生まれている。宣長が契沖を知ったのは宣長が23才のとき京都の堀景山の塾に入学してからである。宣長は伊藤仁斎・荻生徂徠らの古義学、古文辞学を摂取しているうちに、契沖の著作(百人一首改観抄」)に巡り合うのである。そのときの感激を次のように記している。

『さて京に在りしほどに、百人一首の改観抄を人に借りて見て、はじめて契沖といひし人の説を知り、その世にすぐれたるほどをも知りて、此の人の著したるもの、余材抄・勢語臆断などをはじめ、その外にもつぎつぎに、求めだして見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よし悪しきけじめをも、やうやうにわきまえさとりつ。』

堀景山は安芸藩の講師であり、したがって儒学の先生であったが、開明的であった。宣長に今の学問の方法を教えたのである。宣長はさらにいう。

『近代難波の契沖師此の道の学問に通じ、すべて古書を引証し、中古以来の妄説をやぶり、数百年来の非を正し、万葉よりはじめ多くの註釈をなして、衆人の惑ひをとけり。その著述多けれども梓行せざれば世に知る人まれなり。』

本居宣長の学問の方向と手段を契沖は教えたのである。

地下鉄千日前線の今里駅から谷町9丁目駅に着いた。道は谷町筋。谷町筋は上り3車線・下り3車線の広い道である。概ね上町台地の最も高いところを走っている。

写真の左(南)を進むと四天王寺があり右(北)へ向かうと天満橋に出る。向こう左手に生国魂神社(いくたま)への参詣道がある。

生国魂神社の参道。江戸期には左側に蓮池があり、芝居小屋やお茶屋が立ち並ぶ歓楽街であったという。右側にも池があり中の島には弁財天が祀られていた。

何度も来たことのある生国魂神社だが、今回やってきたのは、契沖が23才のときに住職となった曼陀羅院がこの近くにあったことを知ったからである。

さらにいうと、今日のテクテクのコースには、西鶴の墓と近松門左衛門の墓が含まれている。近松とくれば心中物が有名である。最も有名なのは曽根崎心中であり、心中天の網島であろう。その近松は「生玉心中」という台本も書いている。これは生国魂神社の境内で起きた心中事件を題材にしたものである。


大阪の繁華街はキタとミナミに分かれる。キタで有名な神社は大阪天満宮で、7月下旬に行われる天神祭りは日本の3大祭りのひとつである。(ほかは八坂神社の祇園祭り、神田明神の神田祭)

ミナミを代表するのは生国魂神社である。ミナミには今宮戎とか高津宮といった由緒ある神社もあるが、生国魂神社は高台にあって見下ろす景色がよいので、大勢の行楽客が集まった。

生国魂神社の祭神は生島大神(いくしま)と足島大神(たるしま)である。神武天皇が祀ったと伝えられている。もとは大阪城の天守閣近くにあったが、豊臣秀吉が大阪城を築城するときに、この地に移したという。

今の大阪はもとは河内湖とよばれる湖であった。大阪湾と河内湖は上町台地で仕切られていたが、台地が途切れた北部の一部では大阪湾と河内湖は海でつながっていた。


神武天皇がイワレ彦と呼ばれていたとき、九州を出航し、瀬戸内海を通って大阪湾から河内湖に入り、湖の東端の日下の白肩の津に上陸した。

そこから生駒山を越えてヤマトに入ろうとしたのだが、孔舎衛(くさえ)の坂で長髄彦(ながすねひこ)によって撃退されてしまう。挙句のはてにリーダーであった五瀬命(いつせのみこと)は矢傷を負い、しばらく後に亡くなるという大敗をきっしたのである。

そういう苦い思い出のある大阪湾と河内湖を隔てる上町台地に、生島・足島の2神を祭った。河内湖は淀川、旧大和川、石川、平野川などが注ぎ込んでいるので、次第に洲ができ、島ができていくのを知っていたのであろう。島が生まれ、島が満ち足りていくのである。これは神のなす仕業である。この神の庇護を受けたいということだったのだろうか。

生国魂神社の社殿の形式は「生国魂造」といわれる特徴のあるものである。基本は流れ造であるが、その屋根の上に3重の破風が乗っている。写真の一番上に三角の千鳥破風があり、その下に唐破風がある。写真にはわずかしか写っていないが、唐破風の下に千鳥破風がある。

社殿はコンクリート造である。空襲で焼かれ、台風で倒壊するなどしたので、コンクリート造として立て替えられた。したがって建物を見ても感心するものは少ない。



本殿の北側に回ると、庭園風の散歩道があって、神社の道案内がある。「鴫野神社」と「浄瑠璃神社」の方向が示されている。

鴫野(しぎの)神社は城東区の鴫野にあった神社であろうか? 浄瑠璃神社近年作られた神社であるらしい。早くても近松門左衛門(1653〜1725年)以降のことであろう。面白そうなので行ってみる。


浄瑠璃神社。由緒書きによれば、祭神は「近松門左衛門を始めとした文楽の先賢を祭る」とある。

「鎮座の年は不詳であるが、記録によれば明治9年に竹本春太夫・鶴沢清七等とともに三業(太夫・三味線・人形)の先師38柱の御霊を生国魂神社の境内に社殿を整え合祀したのが始まりである。」そうである。

最後に『ちなみに「曽根崎心中-生玉社の段」は、生国魂神社境内が舞台である。』と付け加えられている。

そうだった。曽根崎心中の二人とは、内本町の醤油商平野屋の手代の徳兵衛と蜆川(しじみかわ)新地の天満屋の女郎「初(はつ)」である。

初と徳兵衛は結婚を契る仲であったが、しばらく逢ってはいなかった。初が田舎客につれられて大阪33所観音巡りをしたあとで、たまたま生玉さんに詣でたときに、二人はバッタリと出会う。

徳兵衛はお前と逢えない間に大変なことになったのだ、と切り出した。ここから心中へ向けての物語が始まる・・・。


鴫野神社。小さな祠である。

由緒書きによると、祭神は、@市寸島比売(いちきしまひめ)、A大宮比売、B淀姫である。淀君も神さんになっている。

もとは大阪ビジネスパークとなっている場所(弁天島)にあったがビジネスパークの用地買収によって、生国魂神社に移したとある。

さらに「淀君が大阪城からこの弁天社に足繁く通ったことから、後の世には、淀君自身も弁天社に併せ祀られた。爾来、女性の守護神と仰がれ、心願成就と縁結び・悪縁切りの神様として霊験あらたかとの評判が広まり・・・」とある。

おおー。女性の願いは、縁結びと悪縁切りであるのだ。


生国魂神社を出て、南下する。じきに源聖寺坂があって、坂の下り口の北側には齢延寺、南側には銀山寺がある。

銀山寺には、近松の「心中宵庚申(よいこうしん)」の二人のお千代と半兵衛の比翼塚が残る。これは以前、天王寺七坂を巡ったときに知っていたが、源聖寺坂に面した銀山時の門は閉じられていて中へ入ることができなかった。

ところがこの通りに面したところに正門があっていつも開かれていることがわかった。「心中宵庚申」の内容は知らないが、心中者の墓があるのは珍しいのではなかろうか。


銀山寺本堂。浄土宗のようである。

「曽根崎心中」は浄瑠璃で見たこともないし、台本も読んだことがなかったので、アマゾンで文庫本を取り寄せて、さっと読んでみたのだが、これが存外に面白い。場としては、@生玉神社の場、A蜆川新地天満屋の場、B徳兵衛・お初 道行の場、の3幕である。

だがその前にお初が大阪33所観音巡りをする場面シーンがあって、ここでは大阪33所観音がすべて挙げられているのである。今ではもうなくなった寺もあるかと、調べてみた。


中央の黒い墓が比翼塚である。

『大阪油掛町の八百屋半兵衛とその妻お千代が、生玉の大仏勧進所で心中した。この心中事件は、近松門左衛門が浄瑠璃の「心中宵庚申」として、また歌舞伎の「新坂宵庚申」に脚色された。特に「新坂宵庚申」は大当たりし、そのため世上に広く知られた心中事件となった。』と説明されている。

大阪33所観音であるが、次のようになる。
  1. 太融寺・北区太融寺町3
  2. 長福寺×・不明
  3. 神明宮○・不明
  4. 法住寺○・不明
  5. 法界寺○・不明
  6. 大鏡寺○・不明
  7. 超泉寺○・不明
  8. 善導寺・北区与力町2
  9. 栗東寺・北区与力町1

  10. 玉造稲荷・中央区玉造2
  11. 興徳寺・天王寺区餌差町2
  12. 慶伝寺・天王寺区餌差町6
  13. 遍明院×・不明
  14. 長安寺・天王寺区城南寺町5
  15. 誓安寺・天王寺区城南寺町6
  16. 藤の棚×・不明
  17. 重願寺×・不明
  18. 本誓寺・天王寺区生玉町3
  19. 菩提寺・天王寺区生玉町4
  20. 六時堂・天王寺区四天王寺1
  21. 経堂・天王寺区四天王寺1
  22. 金堂・天王寺区四天王寺
  23. 講堂・天王寺区四天王寺
  24. 万灯院・天王寺区四天王寺
  25. 新清水寺・天王寺区伶人町5
  26. 心光寺・天王寺区下寺町1
  27. 大覚寺・天王寺区下寺町1
  28. 金台寺・天王寺区下寺町1
  29. 大連寺・天王寺区下寺町1
  30. 三津寺・中央区心斎橋2
  31. 大福院×・不明
  32. 難波神社・中央区博労町4
  33. 御霊神社・中央区淡路町4   (不明のうち、○は江戸末期の古地図にあるが、×はすでに見当たらない)

お初は客に連れられて大阪の33所観音巡りをすることになった。道中は駕籠に乗って移動する。一日で33か所を巡ることができるのか?と思うが、朝5時から夕刻7時までかけるなら14時間ある。だいたい30分で1か所を訪れればよい勘定である。四天王寺には20番札所から24番札所の5つの札所があるし、ほぼ隣り合った寺もあるから、短時間に3つか4つをまとめて巡ることができるところもある。


生国魂神社に引き返し、北側の鳥居をくぐると、下り坂である。この坂は真言坂(しんごんさか)と呼ばれている。

立て札があって、『神社の北側には、医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼陀羅院の六坊があった。すべて真言宗であったので、この坂は真言坂と呼ばれた』とある。

契沖が初めて住職となった曼陀羅院はここにあったのだ。弘化2年(1845年)に発行された「大坂細見図」という古地図を見ると、写真の道路右のマンションの場所に遍照院があり、その右側に曼陀羅院があったようである。

契沖についての書物は少ない。入手しやすいのは、久松潜一著の「契沖」だけである。これから書くことは、久松潜一さんの「契沖」か、小林秀雄さんの「本居宣長」か、本居宣長記念館のHPに全面的に依存している。

高野山での10年間の修行では、もっぱら仏典を研究したようである。23才で高野山を下り、今里の妙法寺に戻ると、師のカイ定は契沖が曼陀羅院の住職になるよう推薦した。 これは契沖にとっては荷が重かったようである。契沖は学問をしたかったのである。住職になれば寺務がある。檀家との付き合いもある。

このころ下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)の知遇を得て、しだいに心を許しあう親友になっていったようである。下河辺長流は契沖よりも15〜16才年長であったが、年の差の溝は深くなく、和歌のやりとりは頻繁であった。それは「漫吟集」に多く残っている。

真言坂を下ると千日前大通りである。この辺りは向こうの谷町筋から割と急な下り坂になる。上町台地を下る位置にある。

契沖が下河辺長流と昵懇になったころ、長流は万葉集研究に最も力を入れていた時期であり、「万葉集管見」はこのころ完成したらしい。それが機縁となって水戸藩から万葉集の註釈の依頼があったようである。

一方契沖はまだ国文学には目覚めていなかった。研究すべき対象が見つからなかったためか、住職といういわば俗事にかかずらわることをよしとしなかったためか。当時の心境を次のように詠っている。

 世のうさを    忍べばしのぶ   心にて
 すまば山にも  など住まざらん

ついに契沖は曼陀羅院を捨てて旅にでる。

高津宮へ上る。仁徳天皇が高台にのぼり国見をして、民のかまどに立つ煙が少ないとして、租税の免除をしたという宮跡である。

「曽根崎心中」の書き出しは次のものである。

『げにや安楽世界より 今此の娑婆に示現して 我らが為の観世音。仰ぐもたかし高き屋に 登りて民の賑はいを 契り置きてし難波津や。

三つづつ十(とを)とみつの里。 札所々々の霊地霊仏めぐれば 罪の夏の雲 暑くろしとて駕籠をはや おりはのこひ目 三六(さぶろく)の十八九なる かほよ花。今咲き出しのはつ花に笠は着ずとも  照る日の神も男神(をとこがみ) よけて日負けはよもあらじ。

頼み有りける巡礼道。西国三十三所にもむかふ と聞くぞ有り難き。』

高津宮本殿。先のくだりを理解するには、ある程度の知識がいる。

安楽世界より娑婆に出現た観音は→仰ぎ見るほど気高いが→その高い宮に登って→仁徳天皇が民の賑わいを誓った→難波の津である。

3つずつの十と三つ(これで33になる)の里(三津(御津)の里は大阪の古名)→その33か所の観音霊場の札所をめぐると→罪も夏(罪がなくなるを掛ける)の雲が暑苦しいと、駕籠を→をりはのこひ目(駕籠を降りたお初の恋の目つき。おりはのこい目はサイコロで出て欲しい目のこと)

三六(3×6=18)の十八九なる かほよ花(かきつばた)の→今咲き始めたはつ花(初とお初を掛ける)は→笠をかぶらなくても、照らす日の神は男の神なので→(お初に)日を射さぬだろうから、日焼けをすることはないだろう→これから向かう巡礼道は西国33所に匹敵すると聞いている→ありがたいことだ。


高殿を模した絵馬堂。高津宮も生玉神社と同じくかつては大阪城のある場所にあった。だからこの場所で国見をしたのではない。

曽根崎心中の冒頭の200文字たらずの語りから、
  1. 高津宮を思いうかべて、これから始まるのは大阪の物語であることを知る。

  2. 33か所観音の霊験を思い、

  3. お初は色白で魅力的な目をもつ18〜9才の美人であることを知り、

  4. 大阪の33か所観音巡りに出かける
ことを知るのである。物語の出だしは完璧だ。さらに声を出してよむとよい。調子よく、流れるように歌うように、言葉がつながっていく。

冒頭では、三津(御津)、高津、難波津の地名がでてくるが、これらは万葉集以前からある古い地名である。

最も知られているのは、山上憶良が唐にあったときに歌った次の歌である。

 いざ子ども       早く大和へ
 大伴(おおとも)の  御津(みつ)の浜松
 待ち恋ひぬらむ    (1-63)

さあみんな(者どもよ)早く日本に帰ろう。大伴の御津の浜松も我々を待ち焦がれているだろう。

 ひさかたの  天(あま)の探女(さぐめ)が
 岩船の    泊(は)てし高津(たかつ)は
 あせにけるかも     (3-292)

その昔、天の探女が天降った岩船が泊まった高津は、面影をとどめていない(浅くなった)。

 難波津に  咲くや木(こ)の花
 冬こもり   今は春べと  咲くや木の花      (王仁)

これは万葉集には出ていないが、憶良の歌よりも有名であるかも知れない。寒さの厳しい長い冬を経て、ようやく難波の津に梅の花が咲きそろう。



上町筋にやってきた。写真は上本町5丁目のあたり。上町筋は谷町筋の1本東側の筋である。この筋を北上すると大阪城の大手門に着く。

上町筋の東側に大手門、西側には大阪府庁と大阪府警がある。昔は最も重要な道であった。寺も多い。

上本町西4丁目に誓願寺があって、ここに井原西鶴の墓がある。ずっと前から知っていたが、わざわざ訪ねることもあるまいと今まで来ずにきた。

誓願寺はビルとガソリンスタンドにはさまれて、間口は狭い。だが奥は広くなっていたので、寺は上町筋に面した部分を売ったようである。

西鶴といえば元禄文化を代表する文芸家の一人である。元禄という年号は1688〜1704年の16年間であるが、徳川綱吉が将軍であった1680〜1707年の27年間を元禄期という。

この時期には日本の文芸・学問・美術などの分野で天才たちが輩出した。

分野別に3人の名を掲げると
  1. 文芸では、@井原西鶴、A松尾芭蕉、B近松門左衛門

  2. 学問では@熊沢蕃山、A伊藤仁斎、B荻生徂徠

  3. 歴史では、@水戸藩の大日本史、A新井白石

  4. 古典では、@下河辺長流、A北村季吟、B契沖

  5. 美術では、@菱川師宣、A尾形光琳、B尾形乾山

  6. ほかに和算の関孝和、天文の渋川春海、医学の山脇東洋など


西鶴の墓は中央最奥の黒い墓である。

元禄期は文化・学問が著しく花開いた時期であったが、経済の高度成長期でもあり、成金が輩出した。有名なところでは奈良茂こと奈良屋茂左衛門、紀文こと紀伊国屋文左衛門。この両人は江戸の成金である。奈良茂は日光東照宮の修造で、紀文は寛永寺根本中堂の造営時に大儲けをした。政商であり、投機的商人であった。

一方上方を代表するのが、松阪の三井高利と大阪の鴻池善右衛門である。三井は京・大阪・江戸に呉服屋をもち両替商を兼ねていた。 鴻池は酒屋→運送業→両替商・商品取引業と事業を変化させ、最後には新田開発も手がけている。


西鶴は三井高利を最も評価していた。墓名は『仙皓西鶴』とある。西鶴の墓の右に歌碑があって、

 鯛は花は  見ぬ里もあり  今日の月

鯛も食べられず、花見もできない貧しい里もあるだろうが、今日の中秋の名月だけは誰もが観賞できる。

綱吉のインフレ政策が終わり、次の新井白石(正徳の治)がデフレ政策を採るにいたって、江戸の投機的商人は零落したが、事業を中心にすえた上方の商人はさらに事業を発展させる。

鴻池は三和銀行(今は三菱UFJ)を残し、三井は三井銀(今は三井住友)、三井物産、三越を残したが、奈良茂は子達が遺産を使いはたし、紀文は赤貧の中で亡くなった。

上本町4丁目の交差点を西に曲がって、また谷町筋に戻ってきた。ここは谷町8丁目である。

観光案内が立っていて、

→ 0.3Km 地蔵坂
→ 0.5Km 高津神社
← 0.4Km 浪華仮病院
← 0.7Km 契沖の墓(円珠庵)
↑ すぐ  近松門左衛門墓

とある。

右に元禄期に活躍」した人物を掲げる。

黒色線は江戸、青色線は大阪、赤色線は京都に住んだことを表す。

熊沢蕃山は中江藤樹の弟子で近江に住んだが、便宜上京都にしてある。

西鶴・芭蕉・近松の3人の巨人が固まっているのは面白い。また契沖・西鶴・近松は同じ大阪にいて、同じ空気を吸っていたのだから、これも面白い。


近松の墓もビルとガソリンスタンドに挟まれている。西鶴の墓は寺の墓所にあったが、近松はそうではない。幅が1mあるかなしかの路地を入っていく。ガソリンスタンドの塀に、素人が書いたのか『中央区史跡めぐり・近松門左衛門之墓」と細い立て看板がかかっている。

なんでも墓はもとは法妙寺という寺にあったのだが、法妙寺が移転して取り残されたらしい。

法妙寺は土地をガソリンスタンドに売ったのか? もし市に掛けあえば市役所は金を出したろうに・・・あるいは市役所は近松の墓であるから寺の大事な観光名所になるだろう、したがって市が寺に特別の便宜を図ることはできないと渋ったのか? どちらにしても日本のシェークスピアと称賛される近松の墓の扱いとしてはお粗末である。

黒い墓があった。墓石は倒れたのか割れた石片を継いである。墓には2つの戒名が刻んであった。夫婦の墓であるらしい。

「曽根崎心中」の33所観音のくだりは、大阪を知るものにとってはナカナカ面白い。近松はお初が廻った大阪33所観音をことごとく列挙している。

『一番に天満の 大融寺(たいゆうじ)。此の御寺の 名もふりし(古いいわれがある)昔の人も、気のとほるの(気が利く=粋人である・寺を創建した源融(とうる)と掛けている)、大臣の君が、塩釜の浦を 都に堀江こぐ(浦を掘ると堀江(地名)を掛ける)、潮汲み舟の跡絶えず。』

源融は京都の鴨川の近くに六条院なる屋敷に奥州塩釜の風景に似せた庭を造り、池には大阪から舟で運ばせた海水を湛え、焼き塩を作ったということが今昔物語(27-2)にある。このことを大阪の町人は知っていたわけである。

源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇の子供である。嵯峨天皇には多くの皇子があったため臣籍降下して「源」性を名乗った。源融は左大臣の位にあったので、その邸宅は贅沢なものであった。

源融の没後、融の子は六条院(川原院ともいう)を宇多天皇に寄進し、宇多天皇が住んでいたのだが、夜な夜な怪しげな霊がでる。宇多院は誰かと問うと、源融であると答えた。 源融は、ここは私の屋敷なのに、院が住まわれているので気詰まりであるというと、院は「それは、いと異様のことなり」。我は他人の家を強奪した覚えはない。と一喝したので亡霊はでなくなった。というのが今昔物語の話である。

近くに「浪華病院跡」があるそうなので行ってみた。上町筋に面している大福寺がそれであった。

これまでの理解だと、大村益次郎が明治維新で傷ついた兵士たちのために、法円坂にある国立大阪病院のある地に「大阪仮病院」を建て、これが阪大医学部になったと思っていたが、まず大福寺に「浪華仮業院」を作り、2年後に現在地に移ったようである。

初代の院長は緒方洪庵の次男の緒方惟準、教授はボードウィンであった。司馬さんの「花神」に、大村益次郎が適塾で学んでいるころ、惟準の子守をしたことが書かれてある。


さてお初の33所観音廻りであるが、10番玉造稲荷、11番興徳寺、12番慶伝寺とやってくる。11番と12番は天王寺区餌差町というから、円珠庵に近い。ついで、

『さて げによいけい伝寺(景色と慶伝寺を掛ける)。縁に引かれて またいつか ここにこう津の(来うと高津を掛ける)遍明院(13番)。

菩提の種やうえ寺町(植えると上寺町)の 長安寺(14番)より誓安寺(15番)。』(14番・15番は天王寺区城南寺町にある。写真右の高津中学の右手)

『上りやすなすな、下りやちょこちょこ、上りつ下りつ谷町筋を、歩みならはず行きならはねば、所体(しょたい)くずほれ、アアはづかしの(羽束師と恥ずかしい)、もりて(羽束師の森と漏れる)裳裾がはらはらはら。

はっと返るを打ちかき合わせ、ゆるみし帯を引き締め引き締め、締めてまつはれ(帯を締めると藤の蔓が締めてまわりつく)藤の棚(16番)。』


円珠庵。

契沖が生玉の曼陀羅院を出たのは27才くらいだといわれているが、その足跡ははっきりしていない。長谷寺・室生寺・高野山で学んだようだ。30才のとき高野山を下りて、高野山で親しくなったと思われる和泉国泉北郡久井村の辻森家に5年間滞留している。

辻森家には大量の蔵書があって、契沖はこれを読みふけったという。ついで近くの万町の伏屋家に移る。伏屋家は契沖のために養寿庵という庵を新築し、契沖はそこで4年間、和漢書の研究に没頭する。この和泉国の研究が契沖の学識の元になった。

39才の年、師匠のカイ定に請われて、今里の妙法院の住職になり、ここで「万葉代匠記」を著述したことはすでにいったが、短時間で万葉の全訳をなしとげることができたのは、和泉国での研究があったからである。


門の左には「史跡 契沖旧庵 円珠庵 並びに墓」の石柱が立つ。

契沖は妙法寺で住職の職の合間に「万葉代匠記(初稿本)」をだいたい5年ほど掛けて書き上げ(1687年・契沖48才ころ)、ついで1690年(51才)のとき「万葉代匠記(精撰本)」を書き上げる。

「代匠記」と名づけたのは、師匠の下河辺長流に代わって注釈したものだという意味である。契沖は長流を尊敬していた。

このころ妙法寺住職を辞して、円珠庵(この場所)に移っている。建物は和泉国泉北郡万町の伏屋家の養寿庵を移築した。

契沖が円珠庵に隠棲したのは、万葉代匠記が成ったか、成る目途がついたからだろうが、同じ年に養っていた母親が亡くなったからでもある。住職をして生活費を稼ぐ必要がなくなったが、契沖ひとりが生きていくにも何がしかの費用はかかる。


門の右には「贈正五位 下河辺長流大人 墓所」の碑が立つ。長流は1686年、契沖が47才のときに亡くなっている。この1年後に長流から受け継いだ万葉代匠記(初稿本)が完成した。

長流の晩年は疾病していたこともあって困窮していたようである。契沖も貧しかった。 通常なら万葉代匠記を刊行すればよいのであるが、万葉代匠記は水戸藩の依頼によるもので、初稿本も精撰本も水戸藩に献本したし、書が成ったときは破格の礼金を与えられている。

実際のところ精撰本は明治になるまで世に出なかったし、初稿本は円珠庵にあるとき、弟子たちが筆写していたものが、没後に刊行されたものである。契沖は出版による収入は得ていない。宣長が感嘆した「百人一首改観抄」も契沖没後の刊行である。

久松潜一「契沖」の最後にある年表をみると、契沖が生前に刊行した本は極めて少ない。円珠庵時代の業績を掲げると
  1. 52才、「和字正韻」成る
  2. 「古今和歌六帖」成る
  3. 「古今余材抄」稿本を校す
  4. 「厚顔抄」成る
  5. 53才、「百人一首改観抄」成る
  6. 54才、「和字正濫抄」成る
  7. 56才、「和字正濫抄」刊行
  8. 57才、「源注拾遺」成る
  9. 「首書新撰菅家万葉集」刊行


とあって「成る」は多いけれど「刊行」は2つしかない。これでは生活はしていけない。弟子たちが面倒を見たり、万葉集の講義をしたり、水戸藩からの手当てでなんとか生活したようである。契沖も一生貧乏であった。

残念なことがわかった。契沖や長流の墓は拝観できないのである。年に1度契沖の死んだ1月25日だけ特別に墓参できるそうだが、今年(2014年)はそれもできなかったそうである。

ここまできて墓を見られないのではと、「御用があるかたはインターホンで・・・」とあったので、お願いしたところ、きっぱりと断られた。

契沖の円珠庵は「鎌八幡」も兼ねている。祠の後ろに立つ老木に鎌を打ち込んで悪縁を断ち切ることをお願いするのだそうだ。なお円珠庵の敷地内は撮影禁止と張り紙がでていて、写真を撮ることもかなわなかった。


この後、大阪冬の陣のときに、真田雪村が出城を築いたという真田山 に行き、建築家の長谷部鋭吉の最後の作品といわれる大阪カテドラル聖マリア大聖堂を訪ねたが、耐震補強の工事中で 来年3月までは拝観できないということだった。

細川ガラシャにちなむ「越中井」(井戸)も見たが、さして面白いものではなかった。円珠庵の落胆がテクテクの意欲を失わせていた。

しかたがない。今日のテクテクの仕上げは、お初天神に行き、近くの飲み屋で一杯飲んで、元気をつけて帰るとしよう。森ノ宮駅から大阪駅までJRに乗った。


お初天神。正しくは「露天神」である。

「曽根崎心中」を有名にしたのは、なんといっても「徳兵衛・お初の道行き」である。筋立ては知らなくとも道行のくだりは誰でも知っている。

『此の世のなごり 夜もなごり。死にに行く身を例ふれば、あだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く。夢の夢こそ哀れなり。』

名調子である。

『あれ数ふれば暁(あかつき)の、七つの時が六つなりて、残る一つが今生(こんじょう)の、鐘の響きの 聞きをさめ。寂滅為楽(じゃくめついらく)と響くなり。』


参詣者は多い。心中の決意をした二人は梅田の堤を手を取り合って死に場所に急ぐ。今、キタを流れる川は大川と堂島川の2筋だけで、大川と堂島川の中州が中之島である。

その昔は堂島川の北側に蜆川(しじみ)が流れていた。堂島川と蜆川で挟まれた洲があったのである。

お初を抱えていたのは堂島新地の天満屋とも蜆川の天満屋とも言われる。まあどちらも今では堂島の地なのだが、細かくいえば蜆川のほうが堂島よりも北側であったらしい。

二人は蜆川にかかる梅田橋を渡って、蜆川の土手を露天神に向かった。

『いつもはさもあれ、此の夜半(よは)は、せめてしばしは長からで、心も夏の夜のならひ、命を追はゆる鶏(とり)の声、「明けなばうし(憂しと天神の使いの牛)や天神の、森で死なん」と手を引きて、梅田堤の小夜烏(さよがらす)。』

『明日は我が身を餌食(えじき)ぞや。まことに今年はこな様も25才の厄の年。わしも19の厄年とて、思ひ合うたる厄祟り、縁の深さのしるしかや。神や仏にかけおきし、現世の願(がん)を今ここで、未来へ回向し のちの世も、なほしも一つ蓮(はちす)ぞや。』


徳兵衛とお初は露天神の境内に入る。そこには松と棕櫚が絡み合い、共生して一本になった木が生えていた。

『涙の糸の結び松棕櫚の、一本の相生ひを、連理(れんり)の契りになぞらへ 露の憂き身の置き所。 「サアここに極めん」と、上着の帯をとく兵衛(解くと徳)も、初も涙のそめ小袖(涙で染めと染め小袖)。脱いで掛けたる棕櫚の葉の、その玉箒(たまははき) 今ぞげに、浮世の塵を 払うらん』

『さりながら今はの時の苦患(くげん)にて、死に姿見苦し、といはれんも口惜(くちお)しし。この二本(ふたもと)の連理の木に 体をきっと結(ゆは)ひつけ、いさぎよう死ぬまいか。世に類なき死に様の手本とならん。』

徳兵衛は剃刀でお初を突き、自分の喉を突いて果てるのだが、近松は以下の文句で話を納める。

『誰(た)が告ぐるとは、曽根崎の 森の下風 音に聞こえ取り伝え 貴賎群集(くんじゅ)の回向(えこう)の種、未来成仏疑いなき。恋の手本となりにけり。』


お初天神の絵馬はお初の顔形である。詣でたひとは、福笑いよろしく髷をゆった顔に、目・眉・鼻・口を書き込んで絵馬を結ぶ。なかなか上手な人もいる。美人もあり、おてもやんもいる。

曽根崎心中の冒頭の33所観音であるが、近松はこのくだりで、

『三十三に御身を変え、色で導き、情けで教へ、恋を菩提の橋となし、渡して救ふ観世音。誓ひは妙に有り難し。』と結んでいる。

観音は一切衆生を救おうと、三十三の姿に変えて、あるときは色情で導き、あるときは情欲で教え、そして恋を縁にして浄土に導いてくださる。遊女のお初も観音の化身なのであろう。という前振りなのである。


だから33所観音のくだりも重要なのであるが、大阪の人間でないと寺や地理がわからないためか、この段は演じられないそうである。 (参考「曽根崎心中」諏訪春雄訳注)

お初天神を出たら15:00を回っていた。お初天神通りは、飲み屋や食い物屋が軒をつらねている。夕刻を前にすでに店を開けているところがあったので、ブタのタンをあてにしてライムのチュウハイを3杯。

今日は契沖がメインで、近松をサブとする予定だったが、近松がメインになってしまった。万歩計は25500歩だった。



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