奈良県田原本町と広陵町

    No.97.....2014年5月24日(土曜)


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2002年から始めたテクテクだが、10年以上も続けていると、交通の便のよいところはたいてい訪れた。交通の便が悪いところは行かないので、未見の場所がどんどん増えていく。

交通が不便である場所を訪れるにしても、どうせ行くなら3〜 4か所を連続して回りたい。1か所だけを目的にして出向く元気はでてこない。

だがそれでは、いつまでたっても未見の場所が埋まらない。 今日はこれまで訪れていなかった場所を「落穂ひろい」をするようにして回った。今回訪ねたのは、右図の番号の順。
  1. 唐古・鍵遺跡
  2. 唐古・鍵考古学ミュージアム
  3. 鏡作神社
  4. 宮古池
  5. 飛鳥川
  6. 百済寺
今日の目当ては、1)唐古・鍵遺跡に復元されている弥生時代の楼閣と、2)百済寺の2か所である。

地図の@唐古・鍵遺跡へ行くには近鉄橿原線の石見駅で下車し、約1.7kmほど歩く。

地図のE百済寺に行くには、また1.7kmを歩いて石見駅に戻り、近鉄橿原線の笠縫駅で下車し、約3.5kmほど歩く。そこから名張へ戻るには約2.4Km歩いて、近鉄大阪線の松塚駅に行き、名張に向けての近鉄に乗る。

2か所を訪ねるために9Kmを歩くのであれば、唐古・鍵遺跡から百済寺まで歩くほうがよい。道中で何か面白いものがを見ることができるかも知れない。地図の@〜Eを徒歩で次々に訪れることになった。


初め予定したコースは@→C→D→Eであった。

田原本(たわらもと)駅にはタクシー乗り場がある。タクシーで, いきなり@の唐古・鍵遺跡へ行き、そこからCDEと歩くつもりである。(この時点ではABを訪れる予定はなかった)

田原本駅には9:40ころ着いた。


早速、駅前からタクシーに乗り、唐古・鍵遺跡に着いた。広い駐車場の突き当たりに木製の階段がある。

この向こうに遺跡があるのだろうと思って登ると、溜池があるだけである。階段は溜池の堤の上に出るためのものであった。

溜池は唐古池と呼ばれているらしい。



池の前に「国史跡 唐古・鍵遺跡」の案内板があったので読むと、
  1. 奈良盆地のほぼ中央、初瀬川と寺川に囲まれた沖積地にある弥生時代の集落遺跡である。

  2. 1936年〜37年に唐古池底の土砂を発掘調査したところ、木製農具た炭化米と土器がでてきた。

  3. 出土した土器を基に、弥生時代の土器の編年の枠組みが作られた。

  4. 1977年から100次を超える発掘調査が行われ、大型建物跡、青銅器鋳造の炉跡、楼閣絵画土器、ヒスイの勾玉などが出土した。

  5. 唐古・鍵遺跡は集落の周りを大溝で囲む「環濠集落」であり、最も内側の大溝は直径400m、幅8〜10m、深さ2mの規模である。大溝の外側の100m〜150mの幅の間に環濠が3〜5条巡る「環濠帯」が形成されている。
とあった。

地図も掲げてあったので、これを見ると元は田圃である。そして1枚の田圃は正方形で、どの田圃も同じ面積であるらしい。 唐古池は田圃2枚分の広さである。


池の周りの土手には桜の木が植えられている。

田圃が正方形であるのは条里制の名残りであろう。基本の単位は、1坪(今の坪とは異なる)で、109m四方の土地である。田圃の場合はこの広さを1町という。

ヤフー地図で田圃の1辺を計ると、だいたい102〜112mくらいである。奈良時代は公地公民制であった。朝廷は班田収授法にもとづいて、人民に口分田を与えて、耕作させ、徴税し、また使役した。

6才以上の男子には2段(反)、女子はその2/3の田が与えられたのである。もし夫婦に4人の子(男女2人ずつ)があれば、 男子の分で6段(反)、女子の分で4段(反)、合計10段(反)=1町が与えられたことになる。1世帯に与えられる口分田はだいたい1町であったのであろうか?

唐古池の西南角に楼閣が復元されている。

2層の建物であるが、1層目の床が高いので、3層の高さがある。

最も目を引くのは軒先から伸びる渦巻きである。

楼閣についての説明板があったので、これを読むと、
  1. 出土した土器に描かれていた絵を基に復元したものである。
  2. 高さは12.5m、柱の間隔は4×5m、柱の太さは0.5m。
  3. 渦巻きの飾りを大棟と軒先に復元した。

  4. 壁は外面は網代壁(あじろ)、内面は板壁とした。屋根は茅葺きで、丸太で茅を押さえてある。

  5. 床下の出入り口には刻み梯子を掛け、上層部には欄干をつけて、木製の鳥を配置した。

  6. 楼閣は、中国大陸から影響を受けた祭祀用の建物ではないかと考えられている。
ということらしい。

渦巻きの飾りは多い。大棟に2か所、上層部の屋根の軒先に4か所、欄干の下に4か所、1層目の屋根の4隅に4か所、全部で14個の渦巻きがクルクル巻いている。

次図は池の東側から西向きに楼閣を撮る。



次図は池の東側から東向きに撮る。中央に龍王山、3cmほど右に巻向山、さらに3cm右に三輪山。手前の草が生えた空き地は遺跡の発掘がすんだ跡らしい。



空き地の右側(南側)は発掘を終えて間がないようである。発掘後は土が埋め戻されている。




唐古・鍵遺跡には、見るべきものは楼閣しかないことがわかった。

では博物館(唐古・鍵考古学ミュージアム)に行って、出土物を見ましょうと、遺跡をあとにする。

国道24号線を南下している。楼閣の右手の建物がミュージアムだろうと思っていたのだが、それはまったくの思い違いであった。

行けども行けどもミュージアムに着かないのである。ミュージアムは遺跡の近くにあるはずだという先入観があったものだから、ミュージアムの住所は調べていない。

遺跡の説明版にミュージアムへの案内図があって、そこに「阪手北」という交差点があった。ここで東に曲がるとミュージアムがあるらしいのだが、その阪手北が見えてこない。

結局30分ほど歩いて、交差点に着いたが、そこは田原本駅からタクシーに乗って、24号線に出たところの交差点だった。田原本駅から近いのである。

こういうことなら、田原本駅→ミュージアム→唐古・鍵遺跡のコースを辿ればよかったのだ。無駄な歩きをしてしまった。

畑の向こうに見える建物がそれである。

11:00ころ「唐古・鍵考古学ミュージアム」に着いた。ミュージアムは独立した建物ではなく、「田原本青垣生涯学習センター」という建物の2階の3室がそれにあてられていた。観覧料は200円。

入館すると2人の男性が椅子に腰掛けていた。一人は70才くらい、もう一人は40代であろうか。受付には誰もいない。二人の男性に声をかけたら、「森さん。森さん」と席をはずしている受付の人を呼んでくれた。

森さん(女性)があたふたと戻ってきて、2人の男性を紹介するかのしぐさをしながら「ご説明しましょうか?」と聞いた。

2人の男性はボランティアのガイドさんであるらしい。お願いすると、40代のメガネをかけた人がガイドしてくれるという。安田さんといった。30分から1時間くらいガイドしてくださいと頼んだ。


弥生時代は紀元前300年から紀元後300年くらいまでの600年間とされている。これを3期に分けて、紀元前300〜紀元前100年の200年間を前期、紀元前100年〜紀元後100年を中期、紀元後100年〜300年を後期という。200年ごとなので覚えやすい。

館内は撮影ができないので、パンフレットの写真を使わせてもらう。右は弥生前期の掘立柱の跡。

唐古・鍵遺跡には、弥生時代の全期間と古墳時代の遺物・遺跡が眠っている。丁寧に土を剥がしていくと、上から順に新しい土器が出土してくるから、土器の編年がわかるのである。

絶対年代はわからないが、土器の新しい古いの相対年代はわかる。どういう順に土器が変化していったのかもわかる。

唐古池脇の説明板やミュージアムでもらったパンフレットに「1936年・37年、末永雅雄博士らによって、発掘調査が実施され、1943年に刊行された報告書は、弥生時代研究の基礎を築きました。」と誇らしげに書かれているのは、近畿地方の土器の編年の枠組ができたことにあるのだろう。

土器の編年が決まれば、土器と同じ地層から出土した遺物は同じ時期のものであるから、遺物の時期がわかる。植物の種とか、木製品が出れば炭素14・年代測定法によって、おおよその時代がわかるし、太い柱が出れば年輪年代測定法によって年代を推定することもできる。

唐古・鍵遺跡は継続して発掘調査が行われているらしいが、弥生時代を知るのに絶好の遺跡であるからだろう。

右は石剣(右側)と鞘(左側)。

右は褐鉄鉱容器とヒスイの勾玉と土器の蓋。この3点は別格であるらしく、陳列台が特別にしつらえてあって、ライトで照明されていた。緑色のヒスイはみごとなものだった。白味がかったヒスイの勾玉は大きい。

唐古池の楼閣の西側の発掘では、中期の大型建物の列柱が出た。ミュージアムの入り口の床は透明のガラス貼りで、その下に建物(列柱)発掘時の様子が復元してあり、太い柱も陳列されていた。その近くに大溝の遺構があって、そこから褐鉄鉱容器とヒスイが出た。

褐鉄鉱容器は、人が作ったものかと思ったが、聞けば自然の鉱物であるという。初見である。中が空洞になっている。ここに勾玉を入れ、土器で蓋をして埋納したという。

銅鐸の鋳型。土製の鋳型外枠である。写真の鋳型と銅鐸は出土したものではなく、鋳造実験をしたときのものであるらしい。

鋳型を初めとする青銅器鋳造関係の遺物が数多く出土しており、銅鐸や銅鏃の工房があったようである。ただ銅鐸そのものは出土していないようだ。

ボランティアの安田さんはよく勉強されている方で、自分で説明をするための資料をクリアファイルに収めておられ、折にふれ資料(図解や写真)を見せながら説明される。 互いにしだいに慣れてきて、会話が弾みだした。

安田さんは橿原考古学博物館でボランティアをされていたらしい。香芝市の二上山博物館でガイドしてもらった畑中さんも橿原考古学博物館のガイドを経験されていた。橿原考古学博物館はガイドの学習場所であり、養成場所であるようだ。


楼閣が描かれた土器。これは引出しに仕舞ってあった。屋根に付く渦巻きの装飾が珍しい。

魏志倭人伝に、卑弥呼のいるところは「宮室・楼観・城柵をおごそかに設け、常に人があって兵(器)をもち、守衛している」とあるので、この絵の建物は倭人伝が伝える楼観ではないか?と騒がれた。

「あの渦巻きは何でできているでしょう? 木ではあれほど丸くはできないだろうし・・」 「鍬や鋤を作るとき、加工しやすくするために、木材を水に漬け込んでおく施設が発掘されていますが、木ではないなあ。」 「藁かな? 注連縄のようにすれば丸く曲がるかも。」 答えはパンフレットに書いてあった。藤蔓で復元したという。

なお絵の楼閣の初層の渦巻きと渦巻きの間に、逆S字が3つ並んでいるが、これは渡り鳥であろうと推定したそうで、復元した楼閣の東西の欄干の上には3羽ずつの木製の鳥を置いたとある。

牛の埴輪。馬の埴輪は多くあるが、牛は珍しい。よって重文になっている。 遺跡から鶏の頭部の埴輪も出土していて、弥生時代に鶏を飼っていたことが明らかになったそうだ。

「祭祀のときの動物の供え物は、鹿とか猪が多かったみたいです。特に小鹿、バンビですね。その斑点が好まれたのでしょうか。」と安田さん。「ああ猪の場合は縞模様があるウリボウですな。」と私。「なるほどウリボウも模様がありますね。」

私は、「桜井に吉隠(よなばり)というところがあって、そこで猪一家に遭遇しましたよ。初めはウリボウ一匹が歩いていたが、母親が別の子供を連れてやってきて、立ち止まって私を睨みつけた。そのとき横の茂みでザザーという大きな音がしたので目を向けると、父親が坂に足を滑らせながら逃げていきよった。一家は茂みに入っていったけど、ブフブフと鼻を鳴らして威嚇したので怖かった・・・」といつもの体験談を披露する。

話が弾んだので、ミュージアムには1:00までいた。昼食時間まで長居して申し訳なかった。

唐古・鍵遺跡とミュージアムがこれほど離れていたのは誤算だった。これから、宮古(みやこ)に行く予定である。

途中に鏡作神社があるので、寄ってみることにした。ミュージアムへ行くべく24号線を南下しているとき、阪手北交差点の少し手前の道路わきに「鏡作神社→」の大きな立て看板を見つけていたからである。

奈良盆地中央には数本の川が北向きに流れている。東からいうと@初瀬川(長谷寺の裏山から流れてくる)、その西にA寺川(談山神社から流れてくる)、ついでB飛鳥川、C曽我川、D葛城川、E高田川 である。

今日の最後の目的地の百済(くだら)は曽我川と葛城川に挟まれたところにあるので、今日は4本の古くから著名な川を見ることになる。

まずは寺川を渡る。寺川の上流は倉椅川(くらはし)である。

梯立(はしたて)の  倉椅川の    石の橋はも
壮子時(おざかり)に わが渡してし 石の橋はも
           (人麻呂歌集 7-1283)

若いころに娘のもとに通った石の橋はどうなっているのだろうか。若かった昔を懐かしむ歌である。


寺川を渡るとすぐに鏡作神社があった。延喜式内大社である。正しくは「鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいます あまてるみたま じんじゃ)という。

由緒書きによれば、祭神は、天照国照彦火明命(ひこほあかりのみこと)、石凝姥命(いしこりどめのみこと)、天糠戸命(あめのあらとのみこと)の3柱である。

彦火明命はニニギノミコトの兄で、尾張氏の遠祖であるともいわれている。

本殿。

石凝姥と天糠戸は、鏡作の遠祖である。 古事記には、天照大神が天岩屋戸に隠れたときに、知恵者の思金命(おもいかね)は、石凝姥に鏡を作らさせ、アメノウズメを岩戸の前で踊らせた。

それを見た皆がわいわい騒ぐので、不審に思った天照大神が岩戸の内から「なにゆえにアメノウズメは遊びをし、八百万の神々は笑っているのか?」と聞くと、アメノウズメは「あなた様に増して尊い神がいますので、喜び笑っているのです」と答えた。

天照大神は「誰だろう」と顔を出したところ、天児屋命(あめのこやね)が鏡を取り出し、天照大神の顔を映した。天照大神はいよいよ怪しみ、岩戸より出ようとすると、手力男(たじからお)が手を引っ張って天照大神を引きだした。

その鏡(八咫鏡)を作ったのが石凝姥であるという。

書記は一書(第一)では、石凝姥に矛を作らせたといい、(第二)では、天糠戸(あめのあらと)に鏡を作らせたといい、(第三)では天抜戸(あめのぬかと)の子である石凝姥に鏡を作らせたと書く。石凝姥は鏡作の技術者であったらしい。

鏡作神社の社伝では、崇神天皇の6年に鏡作部が八咫鏡を作り天照大神の御魂として笠縫邑(檜原神社か?)に納め、もう一枚試作していた鏡を彦火明命の御魂としてこの地に祀ったという。

石凝姥の子孫が鏡を製作したということらしい。

近鉄田原本線の踏み切りを越え、西に向かってひたすら歩いてやってきたのが、宮古池である。

特に何かがあるというのではない。 犬養孝さんの「万葉の旅(上)」を読んでいたら、次の歌があった。歌に詠まれている三宅の原は、磯城郡三宅町あるいは田原本町宮古のあたりかと解説されていた。

唐古・鍵遺跡からは2〜3Kmの場所である。今日訪ねておかねば訪ねる機会はないだろうとやってきた。



光輝く三宅の原に

裸足で地べたを踏み込んで

夏草を腰で掻きわけて難儀して(行くのは)

どんな娘さんのために

お前はかよっているのかい。

そうですそうです。お母さんは知らないでしょう。

そうですそうです。お父さんは知らないでしょう。

タニシの腸のように黒い髪に

真木綿の紐であざさ(髪型)を結って

大和のツゲの櫛を

髪に挿している (さすたえの)子

それが私の恋人です。 

高架は大和御所道路。24号線のバイパスである。この辺りが三宅の原であったのか? 

上の歌は前半は母親の問いかけ、後半が息子の返答である。親に隠して息子は娘のもとに通っていたが、母親はカンが鋭い。ついに気づいてどんな娘かと息子に問うた。

息子もようやく親に打ち明けることができた。それはそれは黒髪の美しい、さすたえの子です。 (「さすたえ」は「うらぐわしい」の意味か?)

息子は親の許しを得て、晴れ晴れとしたことだろう。

初句の「うち日さつ」は「うち日射す」と同じで、ミヤの枕詞である。都、宮、宮路、三宅、屯倉などに掛かる。

3〜4年前に、NHKの「万葉ラブストーリー」という番組があった。万葉集の一首を掲げ、これを題材にして現代の男女の関係(夫婦・恋人・友人・死に別れた夫婦)を15分のドラマにしたものである。NHK奈良支局の製作であった。

その中に次の歌が取り上げられていた。

 うち日さす  宮道(みやぢ)を人は
 満ち行けど  わが思(も)ふ君は
 ただ一人のみ   (11-2382)

「うち日さす」という枕詞を初めて知った。漢字で書けば「全日射す」である。この枕詞は気に入っていて、歌を忘れぬように時々反芻している。


そういうわけで、「うち日さつ三宅の原」がどんなところか見ておきたかった。

宮古から西へ西へと歩くと飛鳥川にぶつかった。

明日香村を流れる飛鳥川は細いが、このあたりでは川幅が広く、水量も多い。灌漑にも使われているのだろう。

 年月も    いまだ経(へ)なくに
 明日香川  瀬々(せぜ)ゆ渡しし
 石橋もなし    (7-1126)

倉椅川の「石の橋」と同じ。恋人のもとに通うために渡した飛び石は、今みるともうなくなってしまっている。

飛鳥川の堤を南下していくと川が合流していた。地図をみると左側の川が本流である。その源は高取山より発し、祝戸で冬野川と合流する。

そしてすぐに石舞台古墳のある島庄(しまのしょう)を通り→飛鳥浄御原宮の脇を抜け→飛鳥の苑池に水を提供し→甘樫の丘と飛鳥寺の間を流れて→雷丘の西へ方向を転じ→藤原京を斜めに横切って流れる。

飛鳥の文化は飛鳥川上流で形成されてきたのだが、この辺りではそのような特別な川ではなくなり、並みの川になっている。

川によって区切られた土地の名(字)は、左が平野、正面が満田(まんだ)、左側が佐味(さみ)である。

「天皇陵の真相」(1994年)という本で、古田武彦さんと「橋のない川」の作者である住井すゑさんが対談をされている。住井さんは平野村満田(右図の川の左側)の生まれである。住井さんのいうところでは、

『私の家は大化の改新のときに班田収授で受けたその土地そのまんま、その名称もそのまんま、反別(たんべつ)もそのまんま土地台帳に記載されている。』

班田収授の制度のもとでは、農民は1戸あたり7反を与えられた。満田は50戸あるので35町の農地があり、佐味は70戸なので49町の田圃があった。今でもそれが残っている。といわれていた。

佐味の畑。ふーん。奈良時代に区画された田圃が今でも原形をとどめているのか。折あらば訪ねてみたいと思っていた。

土地で育った方がいうのだろうから、そうなのかも知れないが、7反というのは中途半端な数字である。1町は109m×109mの正方形だが、7反の場合は109m×76.3mの長方形になる。これを田圃の基本単位にしているとは頷けない。

そう思って畑の形を見たり、地図で測ってみたが、やはり1町が基本単位のようである。1町と1町の間の道をなくして2町になった区画もある。この区割りは唐古・鍵遺跡の辺りと同じである。ここにも奈良時代の条里制が残っている。


曽我川。背景の山は右に二上山、左に葛城山と金剛山。

曽我川を詠ったものは一首だけである。

 ま菅(すげ)よし 宗我の河原に
 鳴く千鳥     間なしわが背子
 わが恋ふらくは    (12-3087)

真菅が美しい曽我の河原に、千鳥が絶え間なく鳴いている。そのように絶えずあなたのことを思っているのだ。

先の続きだが、平野村満田では、50戸が7反ずつを耕作していたのではなく、満田には35町の田圃があって、50戸があったから平均して7反だったということではなかろうか。

曽我川を渡る。土手の下の集落は百済(くだら)である。

先の本の中で、住井さんは百済寺の塔の思いを語っておられる。

『私、塔といった時に懐かしく頭に浮かぶのは百済の塔なんです・・・これはもう大変古い塔ですよね。そんなのもう、京都や奈良の塔は新しくってね問題にならない。』

『法隆寺の塔よりもっと、三重だけど大きいです・・・あれ完全に百済ですね。韓国から来た。』

そんなによい三重塔があるのなら、一度は見てみたいと思ってやってきたのだが、ヤフー地図では百済寺が見つからなかったので、現地で見つけなければならない。(帰宅して地図を最大に拡大したら「重要文化財百済寺」と表記してあった)

法隆寺の五重塔より大きいのなら、塔は高くそびえているだろうから簡単に見つかるだろう。

だが土手を下ったところにある集落は家が建て込んでいる。細い道を歩いているので、塔は見えない。時刻は4:00近くになろうとしている。早く見通しのよい場所に出ねばならない。少し焦った。

道の先に田畑が見えるほうを向いて、行き当たりばったりに歩いていたら、ようやく畑にでた。小さな杜の上に塔の相輪が見えた。やれやれである。


本堂。百済寺は室町期には談山神社ないしその神宮寺である妙楽寺に属していたようで、本堂はそこから移築したと伝えられている。

本堂は大織冠(たいしょくかん)とも呼ばれている。大織冠とは藤原鎌足を指す。そして談山神社は鎌足を祀る。

脇に立つ説明板によると、方3間の入母屋造り。内陣には毘沙門天が祀られているという。すると、本尊はないのであろうか? 本尊が如来でも観音でも菩薩でもなく、四天王の一人というのは納得できない。

現在百済寺は無住だそうだから、元の本尊は焼失したのか、あるいは別の寺に移されたのかと推測する。

さてお目当ての三重塔である。案内板には鎌倉中期の建築であり、重文とある。

鎌倉期の建物であるので姿がよい。だが住井さんがおっしゃるように、法隆寺の五重塔より大きくもなければ、古くもない。ましてや、とっくの昔に滅びた百済の様式を持ってはいない。和様である。

京都や奈良の塔は新しくて問題にならないといわれるが、法隆寺五重塔(国宝)や法起寺三重塔(国宝)はよほど古い。

薬師寺の東塔(国宝)は奈良天平期の建立、当麻寺の東塔(国宝)は奈良末期、西塔(国宝)は平安初期のものだし、室生寺の五重塔(国宝)もそうである。

京都醍醐寺の五重塔(国宝)は平安中期のものであるし、浄瑠璃寺の三重塔(国宝)は平安末期とされている。

百済寺の三重塔は建立の時期や姿において、上に掲げた塔に勝るものではない。 本堂の裏は公園になっていて、小学生が野球をしていた。




葛城川に出た。土手は道路になっている。 遠くから見たとき土手上の道路には車が何台も走っていたので、あるいはバスも走っているかと期待していたが、どうやらそれはないらしい。

歩くしかない。この道を南下すれば、近鉄大阪線に突き当たるはずだ。



(次図)畝傍山が見える。畝傍山の先の山は高取山か。

今日は寺川→飛鳥川→曽我川→葛城川と4本の川を見たが、平地にある川はどれも同じである。川は上流を見るに限る。






ようやく近鉄・松塚駅に辿り着いた。

次の大和八木駅で特急に乗り換えて、名張に着くまでの15分間に缶チューハイを飲んで、疲れをほぐす。

今日は歩き疲れた。万歩計は26900歩だった。これだけ歩いて、弥生時代の楼閣と百済寺の三重塔を見ただけで終わった。

いつものことだが博物館を見学するのは楽しい。今日最も面白かったのは唐古・鍵考古学ミュージアムであった。博物館を見学するときだけは、話し相手があると余計に面白い。

あの道具はどうやって作ったのだろうか、どういうふうに使ったのだろうか、なぜこの土器の底に穴があけてあるのだとか。気づくままに会話を交わすと「ああそうか」と納得することがあるし、記憶に残る。今日は安田さんにガイドしてもらって愉快だった。



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