美旗古墳群と城之越遺跡

    No.96.....2014年5月6日(火曜)


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昨年(2013年)亡くなられた考古学者の森浩一さんは学者としては珍しいほどに多くの著書を出されているが、その中に「僕と歩こう・考古学の旅」がある。これは全国の遺跡について、JRの会員誌に5年間に亘って連載されたものを1冊の本にまとめたものである。

各県で森さんにとって印象的であった遺跡を選ばれたようで、私が知らない遺跡がほとんどである。 例えば埼玉県行田市の「旗を立てた馬の埴輪が出土した酒巻古墳群」では馬の鞍の後部に旗を立てた埴輪を紹介されている。

岩手県一戸町の「土屋根の家があった御所野遺跡」では屋根が土で葺かれている竪穴住居の写真が載せてある。

三重県はどうかと探すと、三重県上野市の「聖なる泉と神の庭・城之越遺跡」とある(上野市は今は伊賀市に改名)。名張から近鉄電車で4駅のところにある。これは一度は訪ねておかねばならない。

ただ城之越遺跡(じょのこし)を訪ねるだけでは、おそらく往復で2時間ほど、万歩計も10000歩かそこらであろう。時間も不足だし、歩行距離も短すぎる。そこでその近くの美旗(みはた)古墳群も合わせて1日のテクテクのコースとした。 訪ねたのは、右図の番号の順。
  1. 馬塚古墳(前方後円墳)
  2. 小塚古墳(方墳)
  3. 貴人塚古墳(前方後円墳)
  4. 女良塚古墳(じょろうつか・帆立貝式前方後円墳)
  5. 毘沙門塚古墳(びしゃもん・前方後円墳)
  6. 城之越遺跡
美旗の古墳のうち、女良塚・毘沙門塚は名張に越してきたころ幼稚園児だった娘を連れて訪れたことがある。馬塚は2年ほど前に本居宣長の「菅笠日記」に出てくる新田宿の写真を撮るときに再訪して、古墳がきれいに整備されていることを知った。残りの古墳は今日初めて訪れる。


そこで予習をしようとインターネットで「古墳・三重県」をキーワードにして検索をしたのだが、驚いたことに私が住んでいる梅が丘のすぐ近くに古墳があるのである。「大屋戸古墳群」(おやど)と呼ばれているらしい。ある場所は杉谷神社の裏山である。

さっそく訪れることにした。5月4日のことである。 梅が丘とはいうものの、実際は山の尾根を開発したもので、名張盆地から約90〜100mほど高い位置にある。名張駅やスーパーに行くには写真のような坂道(S字坂と呼んでいる)を下る。ほとんどの大人は車を使う。歩くのは散歩する老人か、中学校に通う中学生くらいのものである。

山の斜面はきれいに草が刈られている。ポツポツと生えている立ち木は梅ノ木である。斜面の草は4月から9月にかけて、草刈り部隊が毎週刈る。私も2009年には緑化委員として2週に1度は草刈機をブンブン振って刈ったものだが、なにしろ斜面である、草にスベって転がり落ちることも何度かあった。この年を最後に住民が草刈をすることは廃止された。今では草刈りは委託している。




S字坂を下りきったところに杉谷神社がある。この神社は梅が丘の住民にとってはお馴染みの神社である。新年元旦には雑煮が振舞われる。正月2日には「笑って走ろう会」が開催されて、梅が丘を一周するスタート地点になる。

杉谷神社に祀られている神々は多彩である。石碑に祭神が掲げられているが、なんと12柱もある。@大日霊売(おおひるめ・天照大神)、A菅原道真、B天児屋根(中臣氏祖先)、C天穂日命(あめのほひ)、D大物主命、E五男三女神、F建速須佐男之命(たけはやすさのを)、G櫛名田比売命、珍しいところではH火之迦具土命(ひのかぐつち)・・・などである。

このように多くの神が祀られているのは明治期(M41年)に政府が一村一社制を打ち出し、神社の合祀を進めたからである。 杉谷神社には5地区の神社が集められたそうである。したがって祭神が多彩(バラバラ)になった。



神社の社務所に声をかけて見学をお願いするつもりであったが、神主さんはここには住んでなく、無人であった。写真は本殿。三間社の立派な建物である。

12柱が祀られているが、天穂日命(あめのほひのみこと)が杉谷神社の主祭神である。杉谷神社の元の祭神であったからだろう。

天穂日命は天照大神と須佐之男命が誓約(うけひ)をしたときに生まれた5人の男神のひとりである。長男が天忍穂耳命(あめのおしほみみ)、次男が天穂日命、三男が天津日子根命(あまつひこね)・・・。須佐之男命は3人の女神を産んだ。多紀理比売命、市寸島比売命(いちきしまひめ)など。



石碑に掲げられた祭神に「五男三女神」とあるのは、誓約で生まれた5人の男神と3人の女神を指す。 昨年桜井市のホケノ山古墳を訪ねたとき、すぐ近くに国津神社があって、ここの祭神は「五男神」であった。

本殿から20mほど後ろの山の傾斜地に、目当ての古墳があった。横穴式の石室である。開口している。小さい天井石が見える。手前に2つ転がる石は開口部の手前に据えられていた扉石(とびらいし)だろうか。

天井石の上には盛り土がされていたはずだが、崩れてしまって、なんとか石室を覆っているといったふうである。



天井石が小さいわけがわかった。玄室の側面の壁は割り石が積まれているが、次第に内部にせり出していて、天井に近いところは底辺の半分ほどの狭さになっている。

古い古墳の石室の側面はまっすぐ(垂直)に石が積まれているので大きな天井石を必要とするが、このような石の積み方をすれば大きな天井石は必要としない。石積みの技術が進んだのか、あるいは石材に恵まれていたからか。

河原にあるような丸い石では垂直にしか積めない。 写真のように上になるほど壁が内部に食い込んでくるようにするには長い石が必要である。上部に置く石ほど長いものが必要である。こういう石材がこのあたりでは手に入りやすかったのかもしれない。

もうひとつ古墳があった。こちらは石室の上に土が盛られてあり、どうやら円墳であるようだ。

この古墳は先の古墳から15mほど山斜面を下ったところにあった(写真の左手に先ほどの古墳がある)。つまり2つの古墳が隣り合わせ(斜面であるので真横にあるわけではないが)の位置にある。

石室は30〜50cmの四角い石が積んである。壁は垂直であるから、当然に天井石は大きなものになっている。先の古墳よりも造りが丁寧で、立派であるように思われる。

古墳というと、ひとつだけがポツリと孤立しているかのイメージを抱きがちだが、テクテクのお陰で古墳の団地のようなところが多くあることを知った。

初めて実見したのは大阪府南河内郡河南町にある「風土記の丘」という古墳公園(学術名は一須賀古墳群)でである。ちょうど10年前の2004年4月のことだった。円墳が数珠繋ぎにならんでいた。といっても隣の古墳がすぐ見えるというわけではなく、古墳と古墳は離れていた。杉谷神社裏の古墳のように密着してはいない。

そこで思い出すのは昨年(2013年)9月に訪れた奈良県橿原市にある新沢千塚古墳群である。右図は173号墳(手前)と178号墳(奥)だが、墳丘の裾どうしは人が歩けるほどしか離れていない。まさに古墳が密着している。

新沢千塚のように一定のせまい範囲に小さい古墳が密集している古墳群を特に「群集墳」と呼ぶ。多くは径10〜15m、高さ2〜3m程度の円墳か方墳で、古墳時代後期(6世紀)に活発に築造された。日本の古墳の大半は群集墳である。


群集墳となったのは、その時代の人々がその場所を墓地と定めていたからである。 有力な氏族の代々の墓場であったのか、地区の有力者の共同の墓場であったのかはわからないが、とにかく6世紀の人々はその墓場にせっせと古墳を築いた。

神社の裏山(写真左の明るい色の杉の木の左側)にはあと2基の古墳があるそうであるが、小古墳を見るのはもう十分だ。 もう少し墓の主の一族が有力であれば、群集墳になっていたかも知れない大屋戸古墳群であった。

S字坂を登って、食品店でレジの女性に「杉谷神社の裏に古墳があるぞ」といったら、思いがけぬことにそれを知っていた。小学生の子供が言っていたそうである。

家に帰って、集荷に来たヤマトの若いドライバーに同じことをいったら、やはり知っていた。 梅が丘から杉谷神社へ山道が続いていて、その途中にも古墳があるという。ドラーバーは「幼稚園のころ行ったことがあります」という。古墳があることは子供のほうがよく知っているのだ。


5月5日は天候がよくなかったので、6日に城之越遺跡を訪れた。まずはその手前にある美旗古墳群を訪れた。

近鉄電車に乗ると、@名張→A桔梗が丘→B美旗(みはた)→C伊賀神戸(かんべ)→D比土(ひど)の順に各駅停車する。 名張から美旗までの運賃は210円。距離は約6km。

美旗駅には8:10ころ到着した。駅前には誰もいない。駅前に「美旗古墳群ハイキングマップ」なる案内図があって、美旗古墳群を構成する7つの古墳が示されている。

ただこの地図は上を北にしていない。左下方向が北にして描いてある。地図の上は北、右は東、下は南、左は西というルールを守りましょう。せっかくの案内図なのに、どっちへ向かえばよいのかわからない。



初めに馬塚古墳へ向かう。駅から南約100mのところにある。

馬塚の後円部である。ここから見ても2段築成であることがわかる。

手前の道は県道57号線。22〜23年前に来たときは、県道は途中までしか出来ていなかった。馬塚には木が茂っていたが、今は切られて古墳の形が露わになっている。

この馬塚は三重県で2番目に大きい古墳である。


左が後円部、古墳に行ける小道の右側が前方部。小道が古墳に突き当たったところは、こちら側に向かって少し突き出ている。「造り出し」である。

小道に入る手前に名張市教育委員会の説明があったので、要点を写しておくと、

『美旗古墳群は、名張盆地の東部の台地に築かれた前方後円墳を中心とする伊賀地方で最も大規模な古墳群である。』とある。次いで築造時期の順に各古墳の紹介がされている。
  1. 殿塚(との)。前方後円墳。全長88m。

  2. 女良塚(じょろう)。帆立貝式の前方後円墳。全長100m。

  3. 毘沙門塚(びしゃもん)。前方後円墳。造り出し、周 濠あり。全長65m。

  4. 馬塚(うま)。前方後円墳。造り出し、周濠あり。全長142m。

  5. 小塚(こつか)。方墳。馬塚の陪塚。一辺15m。
  6. 貴人塚(きじん)。前方後円墳。全長55m。
  7. 赤井塚(あかい)。円墳。径22m。


馬塚の航空写真。確かに前方後円墳であるが、その形は次の点に特徴がある。
  1. 前方部の幅は後円部の直径よりやや長い(10%くらい)。
  2. しかし前方部の長さは後円部の直径よりかなり短い(半分くらい)。
馬塚の実測データを探してみたが見当たらない。「日本の古代遺跡(52)三重」(森浩一企画)はテクテクする前にアマゾンに注文していたが、テクテクをした後に届いた本である。

その古墳についての知識を持って見学するのと、知識がなく古墳を見た後に本を読んで、ああそうだったのかと合点するのとでは、後者のほうがよほど面白い。自分が何に注目し、何に興味をもったのかがわかるからである。

この本に馬塚の実測図が載っていたので、物差しで馬塚の各サイズを計ってみた。


前方部の端から後円部を見る。前方部はテニスコートのように平坦である。通常は後円部から前方部にかけて次第に高くなって、斜面になっているものである。

全長142mを基準にして換算すると、@全長142m、A後円部径95m、B前方部長50m、C前方部幅104mとなる。

崇神天皇陵のサイズは、@全長242m、A後円部径160m、B前方部長82m、C前方部幅102mである。長さに注目すると、242:160:82 で、だいたい3:2:1である。つまり前方部の長さは後円部の半径と同じ長さである。

馬塚の長さの比は、142:95:50であるから、これもだいたい3:2:1になる。長さの比からは、崇神天皇陵と同じ時期の築造の可能性もある。


後円部に登る。野仏がある。地蔵が前垂れをしているのかと思ったが、どうやら観音のようだ。頭には宝冠を被り、天衣(てんね・スカーフのような細長い布)が彫られている。

ピンク色のシートを頭上にかぶせてあるのは、前垂れではなく石仏の劣化を防ぐためのカバーらしい。

墳丘の長さの比からは、馬塚は4世紀後半と推定することも不可能ではない。しかし古墳時代が下るにつれて、@前方部長は長くなり、A前方部幅は広くなり、B前方部の高さは高くなるという傾向がある。つまり前方部が発達するのである。

前方部の発達の程度を前方部幅を基準にして表現すると、(A式)前方部幅÷全長 と(B式)前方部幅÷後円部径 の2つの算式が考えられる。これは安本美典さんのアイデアである。

(A式)を当てはめると、崇神天皇陵は0.42(=102÷242)であるが、馬塚は0.73(=104÷142)となる。馬塚は崇神天皇陵と同時代のものではなく、もっと時代が下るといえる。



後円部の頂上、真ん中に大きな穴が開いているのは、盗掘坑である。後円部の頂上付近を掘ったということは、そこに石室があったのだろう。するとそれは竪穴式石室であったろう。

竪穴式は、長方形の穴を掘り→穴の4面に割り石を小口積みして石室を造り→棺を下ろして→扁平な長い石で上部を塞ぎ→盛り土をする。

だから盗掘にあったとしても、石室の壁となっていた石がいくらかは残っているのではないか。そう思って穴に下りてみたが、ひとつの石もない。穴の周りは土ばかりである。盗掘された後、石室としてあった石は持ち去られたようだ。石は貴重な建築土木の資財だからなあ。



後円部2段目を下って1段目へ降りた。1段目は周濠の水面(今は水はない)から2mほど高く、幅5mくらいの平坦地があって、2段目の小山が約10〜12mの高さまで盛り上がる。

1段目の平坦地には埴輪が並べられていたのかもしれない。今は石仏が後円部を取り巻いている。調べると西国33か所観音巡りができるらしい。

「西国33か所観音巡り」は、那智の青岸渡寺を第1番札所として、主として近畿の観音をまつる33箇所の寺をめぐる巡礼旅である。

有名なところでは3番・粉川寺(和歌山)、6番・壺坂寺(奈良)、7番・岡寺(奈良)、8番・長谷寺(奈良)、9番・興福寺(奈良)、10番・三室戸寺(京都)、11番・上醍醐寺(京都)・・・と数えてみたが、ほとんどが名の知れた由緒ある寺院である。

だが、実際に観音33か所巡りができる人は限られる。時間とお金がかかるし、旅する体力もいる。そこで西国33か寺の観音を石に刻み、これを後円部の周りに配置して、人々がグルリ一周すれば33か所巡りができるようにしたようだ。

四国48か所巡りを境内に作っている寺は多いが、古墳を利用したというのは珍しいのではないか。古墳を人々が訪れることによって、馬塚は手入れがなされ、雑木に埋もれることなく、できた当時の姿を保持したものと思われる。これも観音の功徳である。

石仏は観音らしいとわかったので、さらに仏をよく見ていくと、「十七番」と彫っているものがあった。

家に帰って調べると、17番札所は六波羅蜜寺(京都)である。ここの観音は十一面観音である。ピンクのカバーがされていて頭部にあるべき十一面の観音は見えないが、これを拝めば六波羅蜜寺に参詣したことになる。

この観音は身をよじらせて、ややコケティッシュで、艶やかである。これは如意輪観音に違いない。「第十八番」と彫ってある。調べると十八番札所は六角堂(京都)で、本尊はやはり如意輪観音だった。

馬塚の築造時期に戻る。 (B式)前方部幅÷後円部径を計算すると、崇神天皇陵は0.64(=102÷160)であるが馬塚は1.09(=104÷95)である。崇神天皇陵よりかなり時代が下る。 安本美典さんの考案された「前方後円墳築造時期推定図」に当てはめると、馬塚は5世紀中葉の築造となる。

現在のところ馬塚古墳は5世紀後半 から5世紀末にかけて築造されたものと判定されている。埴輪や土器などの出土品が時期を決める手がかりになったのか?

馬塚全体に葺石や円筒埴輪の破片が認められるそうである。そういえば観音の台座の下にこぶし大の石が積んであったが、葺石を拾い集めたものかも知れない。

小塚は、馬塚の陪塚(ばいづか)とされている。一辺が15mの方墳であるようだが、墳丘は崩れており円墳だか方墳だかの区別はつかない。

田植えの時期である。苗を植えた田もあれば、これからのもある。小塚は水が張られた田圃の中にあって、墳丘を水に写している。のどかな風景である。

畦道(といっても軽4輪が走れるほどの幅がある)を歩いて貴人塚(きじんつか)へ向かう。

貴人塚に行くには一度初瀬街道(はせかいどう)に出て、少し南下して、西に戻ることになる。貴人塚も田圃の中にあるので、畦道を通れば先の小塚から最短距離でいけるのだが、畦道は私有地である。田植えをしている田もあるから畦道を歩くことは憚られた。

初瀬街道。ここは新田(しんでん)という地名である。昔は新田宿(しんでんじゅく)といって30軒ほどの旅籠があって栄えていたらしい。

漆喰の虫籠窓をつけた家がある。玄関先には「初瀬街道・新田宿」と染め抜かれた暖簾が懸けられている。

暖簾は3枚あって、中央に「わたか」とか「まつや」とか染め抜かれているのは、当時商売をしていたときの屋号であろう。

ここは何の商売をしていたのか。屋根の上に6角形だか8角形だかの小さい塔がある。大きさからしてここへ人が登って景色を眺めたということではなかろう。明かり採りか。

明かり採りとすれば、その下で、なんだかの商品を見せ、商談をしたのであろうか。

初瀬街道はここで左に折れる。土手の上に常夜灯が置かれている。たぶん「左・いせ」とでも彫った道標も立っていただろう。

左に折れると、昔は七見峠(しちみ)があって、伊勢からきた旅人はこの峠を越すと、やれやれ平地の新田に着いたとほっとするのである。

私は右に折れて、農道を歩く。

じきに古墳が見えた。2つの丘があって2段の築成である。思いのほか低い。ぺったりしている。

近づくにつれて、左の丘が後円部で、右の丘が前方部であることがわかった。墳丘へは道が通じている。

道は貴人塚古墳の周濠まで続いていた。墳丘には登ることはできない。周濠といったが水はなく空堀である。これは築造当時もそうであったようだ。


前方部から後円部を見る。案内板によると、現在の墳丘長は47mだが、元は55mあったと書いてある。

美旗古墳群の中で最も新しい6世紀前半に築造されたと推定されている。55mのサイズが47mになったのは、開墾によって墳丘が削りとられたからである。

開墾によって周濠はあらかたなくなっていたのだろう。周濠確認の調査をしたとき、多数の須恵器の円筒埴輪が出土したとある。


貴人塚の航空写真。田1枚の中に前方後円墳が置かれている。周濠は形を持たず、田圃が周濠の役割を努めている。


常夜灯のある堤まで戻った。堤を上に登ると用水路がある。「新田水路」と呼ばれているらしい。灌漑のための用水路である。

南を見ると常夜灯の左にも水路がある。水はその先の山から摂取しているようだ。常夜灯の下は初瀬街道である。堤を街道が分断している。

ふん? 常夜灯まで流れてきた水はどうなったのであろうか。こちら側には水が流れているから、どこからか常夜灯の水が来ているはずである。だが水路は街道で断ち切られているのである。

気になったので常夜灯のある堤に登ると、堤の端で水は急角度で流れ落ちていた。

すると初瀬街道の向うで落下した水が、こちらで吸い上げられているのか? 周りには水を汲み上げるポンプ小屋のようなものはないし、ポンプに音も聞こえない。

なにかの仕掛けか原理によって落下した水が元の高さまで戻っているのだろうが、不思議なことである。

新田水路は真北を向いてまっすぐに伸びている。この水路脇に散歩道というべき小道がついているので、ここを歩いて次の女良塚(じょろうつか)へ向かう。

女良塚古墳は県道57号線の際にあった。前方部左角から後円部にかけてを撮る。

案内板が立っていて、それによれば、
  1. 帆立貝式の全長100mの前方後円墳。
  2. 幅約12mの周濠がめぐる。
  3. 奈良県河合町の乙女山古墳と同じ形。
  4. 5世紀前半の築造。
  5. 後円部上で3点の家形埴輪が出土した。
ということだ。


女良塚の航空写真。まことに帆立貝である。

サイズのデータがないので例によって、「日本の古代遺跡(52)三重」に載っている女良塚の実測図を物差しで計り, 全長100mを基準にして換算すると、@全長100m、A後円部径74m、B前方部長23m、C前方部幅38mとなる。

奈良県北葛城郡河合町の乙女山古墳は帆立貝式古墳の典型例である。森浩一さんの「古墳」(カラーブックス・保育社)には64基の古墳のカラー写真を集めてあるが、乙女山古墳もちゃんと載っている。 学術調査がされているので、各サイズのデータがはっきりしている。@全長130m、A後円部径104m、B前方部長30m、C前方部幅52mである。


前方部と平行して新田水路が流れている。女良塚のところで水路は北西方向に向きを変える。

乙女山古墳は女良塚の1.3倍の大きさである。 各サイズの比を計算すると、次のようになる。( )内は乙女山古墳の数字。
  1. 前方部幅÷墳丘全長 = 0.35 (0.40)
  2. 前方部幅÷後円部径 = 0.51 (0.50)
  3. 前方部長÷後円部径 = 0.31 (0.29)
女良塚のサイズは物差しによる計測だから不正確だが、各サイズの比例関係はほぼ同じである。ということは同じ姿をしているということである。


女郎塚の前方部と後円部の高さの数字はないが、乙女山古墳の前方部の高さは3.5m、後円部の高さは14.7mである。乙女山は女郎塚の1.3倍大きいとするならば、女郎塚の前方部の高さは2.7m、後円部の高さは11.3mになる。

帆立貝式の前方部の高さは実に低い。後円部の高さは前方部の高さの4.2倍もある。仁徳天皇陵とされる大仙古墳の高さは、森浩一さんの計測では、前方部と後円部も33mであるという。

後円部の高さが前方部の4.2倍も高いというのは異常な数字なのである。やはり帆立貝式の前方後円墳は特殊なものであると見なければならない。

近鉄電車の上に橋が架かっている。水路もパイプになって線路を跨ぐ。

女郎塚と乙女山古墳が同じプランでできていて、女郎塚がその縮小版であるということは、乙女山古墳を築造した氏族から設計図を譲られたからであろう。

毘沙門塚に着いた。木々がうっそうと茂っているところが後円部である。周濠があって水が溜まっているが、手入れがされておらず汚い。毘沙門塚は、
  1. 全長65mの前方後円墳。
  2. 両側のくびれ部には明瞭な造り出しを持つ。
  3. 墳丘には葺石が認められ、円筒埴輪片が採集されている。
  4. 5世紀中葉の築造と推定される。
とあり、特筆すべき特徴はないようだ。


航空写真を見ると前方後円墳であることはわかるが、その形は木が繁茂しているためよくわからない。

後円部の右(東)に空き地と木立がぼそぼそとあるが、今は木々は伐採され空き地は拡張されて、ソーラー発電の基地になっている。


くびれ部にある造り出し。 これで美旗古墳群巡りを終わる。

参考文献として「日本の古代遺跡(52)三重」を掲げたが、美旗古墳がある旧伊賀郡の遺跡について執筆されているのは、三重県埋蔵文化センターの穂積裕昌(ほづみ・ひろまさ)さんである。穂積さんの名は、森さんの「僕と歩こう・考古学の旅」で出てくる。これから訪ねる城之越遺跡を発掘した方である。

美旗古墳群について、穂積さんは、美旗古墳群の築造は、この地に4世紀末から6世紀後半にかけて有力な首長権を持つ氏族がいた。古墳群で1・2番目に大きい馬塚と女郎塚が帆立貝式を採用しているのは、他の伊賀地方には見られないことで、伊賀全体を統括していたのだろう。 といったことをまとめられている。

(次図)新田水路はいつしか西向きに変わっている。水路に沿って歩けば初瀬街道に出るはずだ。南を向くと曽爾(そに)の山々が見える。中央の左右対称のゆったりした山のピークは急に尖っている。倶留尊山(くろそ・1037m)だろう。その左に丸っこい山が2つ並んでいる。右は大洞山、左は尼ケ岳(957m)だろうか。




美波多神社(みはた)で水路と分かれて南を向いて歩く。

美旗は、今は名張市であるが、昔は伊賀郡であった。三重県は旧国名では@伊勢国、A志摩国、B伊賀国、C紀伊国の一部からなっている。伊賀国は三重県の20%の広さがあるかないかであろう。

伊賀国の特徴は、川は最終的に淀川に注ぐということである。(伊勢国や志摩国は伊勢湾や太平洋に注ぐ)。伊賀国は昔から伊勢国よりも大和国や山城国との繋がりが大きい。

したがって大きな古墳は伊賀国にある。三重県の上位3位までの古墳はすべて伊賀国にあるのである。


伊賀国は4つの郡に分かれていた。北からいうと@柘植(つげ)川水系の阿拝(あべ)郡、A服部川水系の山田郡、B木津川水系の伊賀郡、C名張川水系の名張郡である。 面積は伊賀郡が最も広く、ついで阿拝郡。名張郡と山田郡は同じくらい。

美旗古墳群があるところは伊賀郡の南にあって名張郡と接していた。美旗は台地である。近鉄の各駅の標高を測ると、名張川は190m→名張駅は200m→美旗駅は210m→次の伊賀神戸駅は170m→目的地の比土駅も170mくらいである。 伊賀郡の首長は美旗の台地に大きな古墳を作り、周りを睥睨していたわけである。

初瀬街道の道端に石碑が建てられていた。



歌碑のようである。歌は3ブロックに分けて書いてある。右下に3行、中央に左下がりで5行、左に3行である。

なんと書いてあるのか、どこから読み始めればよいのか。中央から文字を追うと「以とさくら」と読める。「いとさくら」、2行目は「くるしき」と読めるが、あとは読めない。

歌碑のしまいに揮毫者の名があるようだ。消えかけているが「本居弥生」と読める。ああっ、これは本居宣長の歌なのだ。

本居弥生さんは宣長の子孫で、松阪市の本居宣長ノ宮(神社)にこの方が「敷島の 大和こころを 人とはば 朝日ににほふ 山桜花」の歌を揮毫されていた。「いとさくら」は「糸桜」である。帰宅して「菅笠日記」を見ると、以下の文があった。

『並木の松原など過ぎて、阿保より一里といふに、新田といふ所あり。此の里の末にかりそめなる庵の前なる庭に池など有て、絲桜いとおもしろく咲きたる所あり。

  糸桜    くるしき旅も    わすれけり
  立ちよりて見る   花の木陰に

大かた此の國は、花もまだ咲かず。たゞこの絲桜、あるは彼岸桜などやうの早きかぎりぞ、所々に見えたる。是よりなだらかなる松山の道にて、景色よし。』





いよいよ今日の目的である城之越遺跡(じょのこし)に向かう。遺跡は伊賀鉄道の比土駅のそばにある。比土に行くには、近鉄大阪線で美旗駅の次の駅の伊賀神戸(いがかんべ)に行き、ここで伊賀鉄道に乗り換えて、これまた次の駅の比土駅で下車する。

2007年までは比土駅は近鉄伊賀線であったので、美旗駅から比土駅のキップを購入して、伊賀神戸駅で伊賀線に乗り換えればよかった。

だが今は別会社になったため、伊賀神戸駅内での乗り換えはできなくなっていた。一度近鉄伊賀神戸駅で降りて、伊賀鉄道のキップを買い、伊賀鉄道の伊賀神戸駅に入場するという手間のかかることをせねばならない。




近鉄伊賀神戸駅で降りて、伊賀鉄道の「伊賀神戸→比土」間のキップを買ったが、次の駅であるにもかかわらず210円である。

伊賀鉄道のプラットホームで待っていると、伊賀鉄道の「忍者列車」が到着した。2両編成であった。私は進行方向に向かって2両目に乗り込んだが、網棚の上に黄色い物体を認めてぎょっとする。印を結んだ忍者の人形が網棚から見下ろしている。

観光客を少しでも呼ぼうということか。伊賀鉄道は努力している。アナウンスがあって次の比土駅では前の車両の扉しか開きません、というので1両目に移った。

あっという間に比土駅に着いた。車両には前・中央・後ろに3つの扉がある。私は中央の扉の前で開くのを待っていたのだがいっこうに開かない。手動であけるのかと思いドアを引っ張ってみたが開かない。そうこうするうちに電車は出発してしまった。

運転手に尋ねると、1両目車両の一番前の扉しか開かないそうである。乗り越し料金はいらないので、上林駅で比土駅行きの電車を持ってくれということだった。

旧伊賀線は無人駅が多い。無人駅ではキップは販売しないので、無人駅から無人駅への移動は事実上無料になるのである。また無人駅から乗車して終点の伊賀神戸駅で降りたときでも、最も近くの無人駅から乗ったといえば運賃は安く済むのである。

こういうことから、適切な運賃が入らないので、伊賀鉄道になってからは次の対策をとったようである。
  1. 無人駅では、運転手に最も近い扉しか開けず、誰がどの無人駅で乗り、どの無人駅で下車したかのチェックができるようにした。

  2. シルバー人材センターから料金徴収のための人を派遣してもらって、新たな乗車客があるとすぐにキップの販売を車内でするようにした。
うーむ。人は追い詰められると知恵を出すものですな。

乗り越した比土駅へ戻った。私一人だけが下車した。

城之越遺跡は比土駅から500mの距離にある。道標に従って少し歩いたら、田圃の先にそれらしいものが見えてきた。向うの白い建物は城之越学習館であろう。

城之越遺跡は古墳時代の4〜5世紀の水を使う大規模な祭りの場、祭祀遺跡であるという。

水を使う祭りとはどのようなものであるのか?

明日香で、斉明天皇の時期に造られた亀形石を中心とする水利施設が発掘されている。

写真は2002年10月に撮ったものである。 まず後背の小山から引かれた水は傾斜のある四角な場所に樋で導かれ、そこから小判形の水槽に注ぎ、ついで亀形の水槽に水を満たし、あふれた水は一条の細い水路によって排水される。

亀形石のところで主な祭祀が行なわれたのであろう。周りは一面に石が貼り付けられている。草の1本も生えてはいない。水と石だけの構造物である。一体何を祈ったのか。思いつくことは雨乞いである。

城之越学習館。ワンフロアーの小さな博物館である。発掘された出土品の陳列をしているが、古墳から出土する(鏡、勾玉、管玉、腕輪、剣、冑、玉杖、埴輪)のような派手なものはなく、この遺跡では、供え物をするための高杯、大壺、小型の丸底壺が多い。変わったところでは木製の刀や剣、弓、小机。行事のときに飾られたものであろう。

稲作にとって天候の不順は悩みの第一である。特に雨が降らないと稲は全滅する。古代の支配者はこの天候を何とかうまくコントロールしたいと思い、祭祀を繰り返したと思われる。

城之越学習館の右手に高さ30mほどの小山があって、ここから流れる水はいったん地下に潜りこみ伏流水となる。

それが学習館の左手から湧き出て泉となる。 泉は3か所あり、互いに10mほど離れている。3つの泉から流れる水を、水路を掘って集めて1つの流れにし、最後には500mから1000m離れている木津川へ流すのだそうだ。


(次図)遺跡の全景。 中央の泉と右側の泉が見える。左側の泉はやや低いところにあるのか見えていない。




中央の泉。写真右下にある丸い窪みが泉である。周りは丸い石が貼られている(「貼り石」という)。よく見ると白い水が吹き上げている。ただし自然に湧き出しているのではなく、底に水道菅を引いてあって、水道水が吹き上げているらしい。(学習館の受付の方がいっていた)

湧き出した水は中央の水溜りに流れ、ここから貼り石がされた水路(「大溝」という)に導かれて向うへ流れていく。

左側にも水路があって、中央の水路と合流している。合流点には比較的大きな切り石が据えられている。これを立石(たていし)と呼ぶ。

右側の泉。ここは貼り石はされていない。

泉の水は2本の角材で仕切られている。湧き出た水がそのまま流れるなら、細い流れにしかならない。そこで、いったん水を溜めて水位を高くし、水平に置かれた角材の幅の流れを作ろうとしているのだろう。風呂の水が湯船を溢れる様を想像するとよい。

泉の左側に草が生えた岸があるが、これは上図の泉の右側の草の岸である。ここが祭祀のメインの場所であったと推定されている。


(次図)水が流れてくる方から泉を取る。3つの泉が見える。中央の泉と左側の泉の間は祭祀のメインの場所で、舌状の先に立石がある。ここには木製の階段があったらしい。唯一水辺に降りることができる場所である。
森さんは「僕と歩こう考古学の旅」で、

『・・・ここで禊(みそぎ)などの祭りがおこなわれたのであろう。禊といっても、京都の賀茂社の葵祭では、斎王が指先を水にひたす。城之越の舌状突出部はまさにそれに適した構造である。僕もこの突出部にかがんで、指先を水につけてみたが、心が洗われるような気分になった。』

と書かれている。なお今はこの場所は立ち入り禁止である。貼り石の保護のためだろう。


貼り石が施されている川を見ると、思い出すのは先の斉明天皇の亀形石造物(7世紀)と平城宮の東院庭園(8世紀)である。右図が東院庭園。曲水の周りは同じように石が貼ってある。ところどころに立石もある。木も植えられている。

4〜5世紀に作られた城之越の大溝は日本庭園の原形であるのかも知れない。
(次図)比土駅に引き返していると、無情にも忍者列車が比土駅に入っていくのが見えた。次の電車は20分か30分後だろう。駅の道標に伊賀神戸駅まで1Kmとあったので、歩くことにした。

帰途とりたてて目につくものはなかったが、木津川を渡った。泉から湧き出た水はここへ流れてきたのだ。今日の万歩計は19600歩だった。




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