橿原神宮と新沢千塚

    No.95.....2013年9月21日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 橿原市地図...

古墳探訪でやり残していたことをかたずけた。

@神武天皇の御陵ではないかといわれていた旧洞村(ほうらむら)にある丸山古墳を訪れる。

A橿原考古学研究所付属博物館に行き、古墳に埋納されていた遺物を確認する。

B建築家伊東忠太の作品でもある橿原神宮をよくよく見る。

C「満山皆塚」と呼ばれた新沢千塚古墳群を訪れる。

次の順に巡った。
  1. 洞村・丸山古墳
  2. 神武天皇陵
  3. 橿原考古学博物館
  4. 橿原神宮
  5. 久米寺
  6. 宣化天皇陵
  7. 新沢千塚古墳群

近鉄・名張から近鉄橿原線・畝傍御陵前への運賃は540円。西口を出ると畝傍山が迎えてくれる。空は秋だ。

江戸時代の山陵の研究には3つの大きな波があった。第一の波は松下見林(けんりん)の「前王廟陵記(ぜんおうびょうりょうき)」(元禄9年(1669年)に出版)で、古事記・日本書紀・延喜式に書かれていることから歴代の天皇陵を考証した。

第ニの波は蒲生君平(がもうくんぺい)の「山陵志」(文化5年(1808年)に出版)で、不明の山陵を実地踏破して考証したものである。君平は、山陵の形は@自然丘陵の利用→A前方後円墳(竪穴式石室)→B円墳(横穴式石室)の順に変化したとしている。今の考古学の常識に近いものである。

第三の波は幕末の「文久の修陵」である。幕府は宇都宮藩に天皇陵の治定と修陵を命じた。藩は谷森善臣(たにもりよしおみ)を筆頭とする顧問団を結成し、その任に当たらせた。

顧問団には、山陵研究家の北浦定政や津久井清影(平塚瓢斎)、画家の岡本桃里らがいた。右は岡本桃里が描いた「山陵図」である。畝傍山を北方から見て描いている。これが旧御陵の見取り図である。

畝傍山のふもとに「洞村」があり、その少し上に「丸山」という丘が描かれている。洞村の手前に「ミサンザイ」と「塚山」があり、木が一本生えている。当時は神武天皇陵に比定される塚は「丸山」「ミサンザイ」「塚山」の3つがあった。
神武陵の場所は、古事記は「御陵は畝傍山の北の方の白檮尾上(かしのおのへ)にあり」といい、書紀は「畝傍山の東北(うしとら)の陵に葬りまつる」といい、延喜式は「兆域は東西1町・南北2町」と記す。

古事記を重視すれば、畝傍山の「白檮尾上」(白檮(かし)の尾根の上)にある丸山が御陵の有力な候補となる。北浦定政の意見であった(それ以前に本居宣長や蒲生君平も主張している)。

谷森善臣はミサンザイのある場所が「神武田(じぶでん)」と呼ばれていたためか、ミサンザイを神武陵と決めた。そしてたった一本の松らしきものしか生えていない小さな塚を拡張し、見栄えのよい陵にした。その修陵工事で弥生式土器・土師器・須恵器・鳥形埴輪が出土したそうである。

なお「塚山」は2代・綏靖(すいぜい)天皇陵と治定されている。はたして真の神武陵は丸山なのかミサンザイなのかを断定できる手がかりはない。すべてが状況証拠である。

インターネットで丸山を検索すると、丸山に行ったという記事が2〜3本あった。さらに安本美典さんは丸山を真の神武陵であると主張されていることも知った。一度は丸山を訪れてみる価値がある。

上図は津久井清影(平塚瓢斎)の「聖蹟図志」にある畝傍山の絵図である。タイトルは「此一丘は御陵又は丸山で、神武天皇の畝傍山東北陵である」とある。

中央の山は畝傍山の尾根である。(畝傍山は右上にかけてより大きく(一部が)描かれている。)尾根の中の小さい丘に「丸山」と記し、その左に「生玉明神社」、さらに左に「洞之清水」と記した泉か井戸のようなものが描かれている。山のふもとには「山本ノ洞村・家数百六ケン」とある。

右図のAのところに丸山があるらしい。

現在の畝傍山の北東部の航空写真である。
  1. は神武天皇陵。もとの小さな塚は方形に拡張され、周濠がつけられている。現在の兆域は、東西500m・南北400mの規模である。神武陵の周辺には田畑があり農家があったが、収用され、植林した結果、深閑とした大きな森になっている。

  2. は御陵の入り口。入り口から西へ進むと北に向けて大きくカーブし、Aに到る。

  3. は畝傍山の山頂。標高は199m。

  4. は、丸山があったと思われる位置。Fから20〜25mの高さにある。

  5. の一帯は旧洞村があったところ。

  6. は、御陵の参道から山本町へ通じる地道があるところ。
私はB→F→E→Dへと向かうつもりだが、ご覧のように雑木で覆われている。インターネットで調べたところ、いまだに洞村への道は残っているようだ。地図で計るとFからDへの距離は200〜250mくらい。

橋を渡れば御陵の兆域である。

神武陵は文久の修陵によって形が整えられ、明治期に陵を拡張。さらに大正期には洞村の住民を村ぐるみで大久保村(今は大久保町)へ移転させ、洞村は兆域に組み込まれた。

最後に皇紀2600年(1940年)を記念する大事業として兆域がさらに拡張され、今の形になったようである。

参道のカーブを曲がり切って、拝所の鳥居が見えるところに出ると、参道の左側に小道がある。低い石段が10段ほどあり、これを登ると幅3mほどの地道があり、山本町へ通じている。

2002年11月に畝傍山に登ったことがある。このときはまだテクテクを始めたばかりであったので、近鉄の駅に用意されている「てくてくまっぷ(50)大和三山回遊コース」という地図を見ながら登った。

朝10時くらいだったかと思うが、登山者が多かった。下山するハイカーと「コンニチワ」の挨拶を交わしているとキリがないほどである。ぞろぞろと下山してくる。なかには脳梗塞かなにかで足が不自由になった年寄りが杖をつきながら登っていた。山道の傾斜はゆるく手軽なハイキングコースであった。

石段を上ったところの左手に山道がある。木が2本立っているが、その左右には雑草が生えておらず、明らかに人が何度も通っているようだ。

前回の畝傍登山では、橿原神宮の北神門近くの登山口から登り、山頂を経て、畝傍山の西麓にある畝火山口神社へ下った。その後は「てくてくまっぷ」に記載されているコースをちゃんとなぞって畝傍山の北麓を廻り、木立に挟まれた道に積もった落ち葉を踏みながら進んだら、よく掃除されたきれいな参道に出くわして驚いた。

この脇道は記憶に残っている。さすがに「てくてくまっぷ」である。裏道というか抜け道というか、よく調べてあった。

地図上では250mほどで丸山に着くはずである。また古図面にあるように洞村は畝傍山のふもとにあったのだから、道は多少の上り坂があっても、息切れをするようなところはあるまい、とタカをくくっている。

道は落ち葉が重なっているが、道の左右の雑木林との段差はない。昔は家屋が立ち並んでいたとしてもおかしくない。

この辺りは一面が平地である。当然に洞村の住人が住んでいたはずだ。

どうやら畝傍山に突き当たったようで、平地から2mほどの高さのところに煉瓦造りの井戸らしきものがあった。

先に掲げた津久井清影の絵図面に「洞之清水」が描かれていたが、それがこの井戸になったものと思われる。すると井戸の右手の上方に「生玉明神社」があり、その右に「丸山」があるはずである。

丸山に行った人がアップされているインターネットの記事では、井戸の左側に上に登る道があるからこれを進めとあった。見れば井戸の左に道がついている。教えに従って左の道を登り、Uターンして井戸の上にある道を右に進む。

2〜3分登ると平坦地となった。そこに石柱が立ててあった。

なにやら文字が彫ってあるようだ。彫りが浅くて判読しづらいが、「宮」の一文字が彫ってあるようだ。

洞村の住民が全村をあげて大久保村に移住したのは1917年から1920年(大正9年)にかけてのことだという。

洞村の一帯は国に買い上げられて、宮内庁が管理しているはずだ。すると「宮」は宮内庁の「宮」のことだろうか? そうなら、移住が終わった1920年以降に石柱が立てられたのだろう。

「宮」の石柱はほかにも立っていた。図の石柱の右側はやや下りの斜面である。左側は平地である。

ここら辺が古絵図にある「丸山」であろう。宮内庁(当時は宮内省)はもしかして、神武天皇の御陵(塚)だったかも知れぬと石柱を立てたのか?

すると「宮」の字が四角い石柱のどの部分に彫られているのかが問題となる。もし西側に彫られているならば、石柱の東側に塚があり、南側に彫られているならば石柱の北側に塚があったはずだ。上の写真では「宮」の裏側に塚があったことを示している。そういえば石柱の左奥はやや土地が高まっていると見えなくもないが、丸山には塚らしきものは残っていないようだ。

丸山から引き返して、神武陵を見る。広い。

古事記の「畝傍山の北の方の白檮の尾の上」を重く見れば、丸山はまさに畝傍山の尾根筋にある。書紀の「畝傍山の東北(うしとら)の陵」と方向もピッタリである。だが延喜式に「兆域は東西1町・南北2町」には当てはまらない。丸山にこのように広い場所はなかった。

この神武天皇陵が元はミサンザイと呼ばれていたことやその土地が神武田(じぶでん)といわれてきたことは無視できない。神武天皇と漢風諡号を贈ったのは淡海三船で、780年ころのことである。神武田はそれ以降おそらくは江戸期に呼ばれるようになったのだろうが、神武天皇にかかわりがある土地であったからではないか。

橿原考古学研究所・付属博物館に行く。写真は橿原考古学研究所。

先日亡くなられた森浩一さんが、末永雅雄さんの勧めによって、橿原考古学研究所を訪れたのは終戦の年の9月のことだった。当時は大和国史館という博物館があった。17才の森さんはこれを研究所と間違えたが、研究所はその脇にある小さな倉庫であった。

皇紀2600年を記念して橿原神宮の外苑が拡張されたのだが、そのとき研究所がある一帯に縄文時代の遺跡があることがわかった。研究所の発端はその遺跡の調査のためである。

博物館は畝傍山を背にしている。

森さんが研究所に日曜日ごとに入り浸りになったころは、研究所は独立した機関ではなかったが、ボランティアがたむろして、森さんは教えられるものが多かったといわれる。(「僕は考古学に鍛えられた」)

その後1951年に奈良県立橿原考古学研究所が設置され、初代の所長に末永雅雄さんが就任された。1974年に博物館は研究所の付属施設になり、1980年に橿原考古学研究所・付属博物館となって今に到っている。

入館料は400円である。博物館は最近「イワミン」という博物館のマスコットキャラクターを売り出し中である。

この博物館の特色は考古学研究所と一体化しているところにある。よって、@発掘したものを惜しげもなく展示している、A復元技術を持っている、Bまた研究所が発掘した物の写真を撮っても構わないという鷹揚さもすごい。

今日は巨大円筒埴輪やキヌガサ形埴輪、武具や馬具、玉類、銅鏡などの写真を撮る予定である。(参観者が多いと遠慮しなければならないが)

入館して、まず一番に驚かされるのは、巨大な円筒埴輪である。普通の博物館でお目にかかるのは高さが60〜80cm・直径が30cm程度のものであるが、ここの円筒は頭抜けて大きい。左端のものは高さが2.4mもある。直径は1mを超える。桜井市のメスリ山古墳(古墳時代前期)で発掘されたものである。

この巨大な円筒埴輪が、後円部の上に四角形に並べられていた。四角形の中心部の下には竪穴式石室があった。

円筒埴輪(焼き物)は形が大きくなればなるほど難しくなる。例えば、粘土でその形をつくっても水分を含んだときのサイズと焼き固めた後のサイズは10%程度の収縮が起きる。


中央は特殊器台。橿原市弁天塚古墳から出土。古墳時代前期(3世紀)

この上に左の特殊壺を載せて、古墳に並べていた。いわば死者への捧げ物だろう。その後、特殊器台と特殊壺は一体化されて、円筒埴輪や朝顔形埴輪に変化していく。

銅鏡。中央は「方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)」橿原市新沢500号墳より出土。古墳時代前期(4世紀)

左側も「方格規矩鏡」。広陵町新山古墳より出土。古墳時代前期(4世紀)

銅鏡は丸い。鏡の役を果たすためなら四角形のほうがよかろうと思うが、出土するものは全部が丸形である。どうして鏡が丸いのか。表面を磨きやすかったのか? それとも丸形に特別な意味があったのか?

鏡の背面の模様によって、方格規矩鏡・内行花文鏡(ないこうかもんきょう)・海獣葡萄鏡・神獣鏡などに分類されているが、私にはその見わけがつかない。

車輪石。磯城郡川西町島の山古墳より出土。古墳時代前期(4世紀)

1996年に島の山古墳を発掘したところ、前方部に割竹形木棺をくるんだ長さ8.5m・幅2mの粘土槨(かく)があり、腕飾り(車輪石と鍬形石)が槨の上に貼り付けられるように並べられていた。その数はなんと132点、日本最多の出土である。

車輪石は女性用の腕輪である。弥生時代にはカサ貝を輪切りにして腕輪にしていたが、古墳時代にはそれを真似て石で作られるようになった。車輪のように筋を浮き出させているのはその名残である。

鍬形石。島の山古墳より出土。古墳時代前期(4世紀)

男性用の腕輪である。元はゴホウラ貝を輪切りにしていたが石や碧玉で作られるようになった。

江戸期にその形が鍬に似ていたから「鍬形石(くわがた)」と名づけられたらしいが、古墳時代の鍬とは別物である。

勾玉。橿原市新沢500号墳。古墳時代前期(4世紀)

三種の神器は、鏡・太刀・勾玉だが、勾玉の出現時期は最も古い。すでに縄文時代に「C」形の玉があり、弥生時代に入ってコンマ形(,)に定型化したという。

ヒスイやメノウ、水晶といった硬い石をコンマ形に整形することは簡単ではない。簡単な丸形や筒形にせずに、あえてコンマ形にしたのは何か強い意味があったのだろう。

(左側奥)須恵器の器台。

(手前右側)須恵器の杯。橿原市新沢221号墳より出土。古墳時代中期(5世紀)

(奥左側)衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と短甲(たんこう)。橿原市新沢115号墳より出土。古墳時代中期(5世紀)。

(奥中央)眉庇付冑(まびさしつきかぶと)と短甲。橿原市新沢139号墳より出土。古墳時代中期(5世紀)。

銅鐸。銅鐸は多く展示されていたが、ほとんどは撮影禁止となっている。よそから借り出して展示しているものが多いようだ。

写真は銅鐸の鋳型を作り、銅鐸を再現したもの。銅鐸の厚さは2〜3mm ほどしかなく、これを鋳出すのは非常に難しいという。

最も大きい銅鐸は高さが135cmあるそうだが、現代の技術をもってしても、この大きさの銅鐸を復元することはできない。(「古代技術の復権」森浩一・久野雄一郎)

藤の木古墳(6世紀後半)のコーナーは国宝で溢れている。

金銅製冠(こんどうせいかんむり)。国宝。

金銅製履(こんどうせいくつ)。国宝

履の表面には歩揺(ほよう)が付いている。もしこの履をはいて歩けば、金製の歩揺がゆれてキラキラと光ることだろう。だが履の底にも歩揺がついているので、これを履いて歩くことはできない。

金銅製筒形品(こんどうせいつつがたひん)。国宝。

これは用途が不明の物体である。@中央部に紐がついており、頭部近くにあったので、紐でくくって頭の上にのせたのではないかとか、A紐で首からぶら下げるのだとか、B鼓の形をしているから腰に下げて音を出したのではないかとか、諸説紛々である。

鞍金具(鞍の後輪)。国宝。

上の3つの金銅製品は石棺の中に入れてあったものだが、棺の外に馬具が置かれていた。@轡(くつわ)、A鞍(前輪と後輪)、B鐙(あぶみ)、C歩揺付飾り金具(杏葉・きょうよう)などである。

棺内には水がたまっていたため、冠・履・筒形品は銅の青錆びが浮いているが、鞍は棺外にあったので保存状態がよい。

一度に多くのものを見ると頭の整理がつかないし、記憶に残らない。小一時間ほど見て博物館を出た。500mほど先にある橿原神宮へ向かう。


橿原神宮は伊東忠太(1867〜1954年)の設計になるという。伊東忠太は神社を数多く手がけている。主なものをあげると
  1. 橿原神宮(1890年)
  2. 平安神宮(1895年)
  3. 宮崎神宮(1907年)
  4. 弥彦神社(1916年)
  5. 明治神宮(1920年)
  6. 靖国神社・神門(1933年)
  7. 上杉神社(1941年)
などがある。
南神門。

橿原神宮は明治23年に創建されたが、このとき伊東忠太は23才である。はたしてこの大きな神宮全体の設計をしたのだろうか? 調べてみたが橿原神宮の建造物についてのインターネット記事は少ない。

この南神門はいつできたのだろうか? 反対側には北神門があるが、これは大正4年(1915年)に建造されたもので、元は正門であったが、 紀元2600年記念事業(1940年)のとき、北神門として移築されたという。
南神門を入った左手に神楽殿がある。

神楽殿は元は京都御所にあり、神宮創建の際に明治天皇から 下賜されたもので、当初は拝殿として使われていたが、1931年に今の場所に移築されたという。

ただし1993年に焼失したので、この建物は復元されたものである。
外拝殿。

すると、 伊東忠太が関与した可能性がある年は、1915年(北神門)、1931年(拝殿)、1940年?(南神門)の3つであろう。

1931年に建てられた拝殿は、この外拝殿なのか内拝殿なのかは不明だが、1931年に神宮(回廊で囲まれた部分)の規模が決まり、その後境内が拡張されて今の広大な橿原神宮になったのだろうと推測する。(調べてもわからないと、はがゆいことだ)

外拝殿の屋根は入母屋造で、銅葺き。

コンドルに教わった歴史主義の第一世代は、ヨーロッパの建築様式を夢中で学び、それを日本に移植した。辰野金吾の日銀本店や大阪支店・東京駅、片山東熊の京都国立博物館・赤坂離宮が残る。

辰野金吾に教わった第二世代のうちから洋風建築を真似しなくても、日本にも伝統様式があると目覚める者がでてきた。筆頭が伊東忠太である。
回廊。外拝殿と内拝殿の間には外院斎庭(げいんさいてい)と呼ばれる広場があり、四方を回廊で囲っている。

藤森照信さんによれば、伊東は3つのスタイルを持っていたという。

@「進化主義」は木造を石造・コンクリート造へ進化させるもので、祇園閣・湯島聖堂が残っている。

A「近代和風」は日本建築の伝統様式を引き継ぐものである。建築家が伝統様式を学び設計する点が、従来の棟梁が造る建物と異なる。平安神宮・明治神宮・橿原神宮が残る。

外拝殿から内拝殿を見る。内拝殿の上に、幣殿の「V」字の千木が見える。

B「アジア主義」は日本ばかりでなく中国やインドの様式を取り込んだもので、築地本願寺はその集大成である。

築地本願寺を見ると、インド風の外観から伊東忠太の作品であるとすぐにわかる。しかし近代和風の建物(多くは神社)は伝統を重視しているために、建築家の個性は発揮できない。

この橿原神宮を見ても、伊東忠太によるものだとは判らない。

別の角度から見ると、内拝殿の奥に幣殿がある。その奥に桧皮葺きの屋根が見えるが、これが本殿か。幣殿は妻入り、本殿は平入りのようだ。

個性を発揮できない神社建築ではあるが、西洋建築の部分と部分の比例関係を学んできた伊東である。例えば、拝殿の間口と回廊の長さの比例、屋根の高さのバランス、屋根の反り、柱の太さと高さの関係、柱間の幅の取り方などに、伊東のセンスが現れていると思う。

畝傍山の南西に新沢千塚古墳群(にいざわせんづか)がある。写真は橿原考古学博物館に掲げられていた古墳の航空写真であるが、丘の上に円墳がポコポコと点在している。円墳と円墳は接近していて、円墳の団地のごときである。

森浩一さんは、1947年7月に橿原考古学研究所のボランティアとして、新沢千塚古墳群の調査に参加されて、3基の古墳を発掘されている。これが新沢千塚に学術的なメスが入った最初である。19才のときであった。「僕は考古学に鍛えられた」)

森さんの訃報をきっかけに始めた古墳探訪は今日で終わる。最後に新沢千塚にはぜひとも訪れねばなるまい。

だがそこ(橿原市川西町)は、上の写真に見るように周りは田圃である。電車は走っていないし、バスの便も1時間に1本あるかなしかである。歩いていくしかない。地図で計ると橿原神宮から約2.5kmの道のりである。

橋の下は高取川が流れている。橋を渡って道(県道133号線)なりに歩けば新沢千塚古墳群に着くはずだ。

初めての新沢千塚の発掘では、101号墳の成果が大きかった。また19才の森さんは、この発掘によって多くの貴重な体験をした。「僕は考古学に・・・」から引用すると、

『墳頂より2.7m下に、木は腐っていたが木棺があり、頭のあったところに整然と一対の銀張り銅製環(耳飾)があり、首の位置にヒョウタン形の金メッキをした銅製の空玉(うつろだま)が3個、コハクの棗玉も3個あった。ほかにも鉄鏃や短刀などがあった。

この発掘で、木棺とか人骨が無くなっていても、装身具の位置から埋葬状態を復元できることと、逆に遺物のある位置から、その遺物の本来の用途がわかることを痛感した。』

その後森さんは、1962年から毎夏、新沢千塚古墳群を訪れ、5年間で約130基の古墳を発掘された。これをきっかけに群集墳の見直しがなされ、新沢千塚古墳群は国の史跡に指定された。

途中に宣化天皇陵があるので寄ってみる。県道を左に折れると、小山が見える。

26代・継体天皇には3人の皇子がいて、順に27代・安閑天皇→28代・宣化天皇→29代・欽明天皇として即位する。欽明の子の30代・敏達天皇は585年に崩御し磯長中尾陵に葬られたが、これが天皇陵としては最後の前方後円墳である。

安本美典さんが推定される宣化天皇の在位時期は、536年〜540年の4年間である。

宣化天皇陵のサイズは墳丘長138m・後円部径83m・前方部幅78mである。墳丘は2段築成で、葺き石や埴輪があるという。

宣化陵の築造時期は5世紀後半と推定されている。宣化天皇が崩御した540年ころとはかなり年代がズレている。宣化天皇の前後の天皇陵のサイズを掲げると次のようになる。(全長・後円部径・前方部幅の順)
  1. 継体 今城塚古墳    190m 100m 140m
  2. 安閑 高屋築山古墳  122m  78m 100m
  3. 宣化 鳥屋ミサンザイ  138m  83m  78m
  4. 欽明 梅山古墳     138m  73m 107m
宣化陵の前方部幅(78m)は後円部径(83m)よりも狭い。安本美典さん式に、前方部幅÷後円部幅×100の計算すると、継体(140)・安閑(128)・宣化(94)・欽明(135)となっていて、宣化陵は異形であることが明らかだ。古墳の時期が他と異なっている。

鳥屋ミサンザイ古墳の航空写真。前方部の右側角はやや広がりを見せるが、これは崩落して広がったもの。

この鳥屋ミサンザイ古墳を宣化天皇陵と治定した理由は、 日本書紀に「大倭国の身狭桃花鳥坂上(むさの つきさかのうへ)の陵に葬りまつる」と記している(古事記は何もいっていない)ことや「ミサンザイ」(陵→ミササギ→ミサンザイの転化)と呼ばれてきたのは天皇陵であるの言い伝えがあったからであろう。

だが古墳の編年からは鳥屋ミサンザイ古墳を宣化陵とするには無理がある。では、身狭(むさ)の地にほかに目に付くような前方後円墳があるかといえば、見瀬丸山古墳くらいしかない。
見瀬丸山古墳は、全長318m・後円部径155m・前方部幅210mの巨大古墳である。ところが延喜式は、宣化天皇陵の兆域は「東西2町・南北2町」と記している。

延喜式の時代の1町は142mである。2町は284mであり、見瀬丸山古墳の全長318mは兆域を超えてしまう。兆域は墳丘を囲む区域であるから、兆域を超える墳丘はありえない。ここからの結論は、宣化天皇陵は鳥屋ミサンザイ古墳ではなく、見瀬丸山古墳でもないということになる。

考古学による実証と伝承が異なる場合は、考古学の結論に従うべきだと思うが、この場合は書紀の記述と延喜式の記述が互いに矛盾していることが混乱の元になっている。
天皇家についての伝承で、最重要なものは血統であったと思われる。天皇の皇后は誰で、どういう皇子・皇女を産んだのか、そして誰が皇位を継いだのか(帝紀という)。これが第一番に重要なことである。

ついで天皇はどの宮で執政し、どの地に葬られたのかが重要なことであろう。第三番目は天皇がどういうことをしたのかの事績やエピソードである(旧辞という)。

日本書紀が編纂されたのは720年である。宣化天皇が亡くなったのが540年ころとするなら、書紀編纂時から180年前のことである。この時点では、宣化天皇が「身狭桃花鳥坂上(むさの つきさかのうへ)の陵に葬られたことを間違うことはあるまい。 宣化天皇は「身狭桃花鳥坂上陵」に葬られたことは信じてよいのではないか。

延喜式は927年になったものである。書紀編纂から200年経っている。この間に宣化天皇の御陵の所在地が不明になったことは十分に考えられることである。

延喜式が間違って鳥屋ミサンザイ古墳を宣化天皇陵とみなし、兆域を「東西2町・南北2町」とした可能性がある。 延喜式を疑えば、「身狭桃花鳥坂上(むさの つきさかのうへ)の陵は見瀬丸山古墳に比定することができる。

書紀によれば安閑・宣化天皇の両時代は皇室の屯倉を増やしたため、皇室の財政はそうとう裕福になっていたようだ。その時期に大きな見瀬丸山古墳を造ったとしてもおかしくはない。

歩くこと30分、ようやく新沢千塚古墳群に着いた。

新沢千塚の南東約1.4kmのところに貝吹山(210m)があって、この辺りでは最も高い山である。橿原はおおむね平坦地だが、その標高は80mあるので、平地から貝吹山を眺めても高いとは感じない。その比高は130mほどである。丘陵というほうがあたっている。

その貝吹山から四方にだらだらと丘が伸びている。新沢千塚のある丘は北西に伸びた先端にあたる。この丘はずいぶん低く、比高は20mほどである。

新沢千塚古墳群は県道133号線をはさんで北と南にわかれているが、合わせて約600基の墳墓が密集している。その時期は早いもので4世紀末、遅いもので7世紀。最も多く築造されたのは5世紀半ばから6世紀前半の100年間だという。

丘を少し登ると早くも円墳が見えてきた。道の左にひとつ、右に1つ、その先に1つ。国の史跡に指定されているだけに、ちゃんと草が刈られており、円墳の形がよくわかる。

2004年4月に大阪府南河内郡の一須賀古墳群を訪ねたことがある。そこは6世紀中葉から7世紀前半の古墳が102基あったが、古墳と古墳の間は30m以上離れており、ぽつんぽつんと円墳が点在していた。また横穴式で玄室への入り口は開口していた。

新沢千塚は古墳と古墳は5〜10mほどしか離れていない。密集している。またほとんどが木棺直葬のようで、円墳が開口しているものはなかった。円墳は完全な形を保っている。

しばらくは面白がって歩き回ったが、じきに飽きた。ようするに墓場なのである。土饅頭が並んでいるだけだから何の思いも湧かない。

発掘の結果、考古学上で重要であるとされた古墳には、説明板が立てられている。橿原考古学博物館で、新沢千塚古墳からの出土品の写真を撮っているので、それとともに以下に掲げる。

右は115号墳。径18m・高さ3.5mの円墳。古墳時代中期(5世紀)

墳頂には円筒埴輪が巡り、家形埴輪が配置されていたそうである。

新沢115号墳の出土品は、@銅鏡(2)、A鉄刀(2)、B鉄鏃(多数)、C甲冑一式(冑・胴甲・頚甲・肩甲)、Dガラス玉(約1000)である。

出土した銅鏡2面のうちのひとつが写真の「五鈴鏡(ごれいきょう)」である。小型の鏡の周りに5つの鈴をつけている。鈴だから振れば音がでる。新沢千塚古墳群では唯一の出土例だそうだ。 

(左側) 新沢115号墳出土の衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と短甲(たんこう)。古墳時代中期(5世紀)

(右側) 新沢139号墳出土の眉庇付冑(まびさしつきかぶと)と短甲。古墳時代中期(5世紀)



126号墳。長方形をしている。東西の長さ22m・南北の長さ16m・墳丘高1.5m。円墳がほとんどの中で、ぺッタリした四角い墳形は珍しい。1963年の発掘時に、森さんたちは「ザブトン墳」と呼んでいたそうだ。

ところがこのザブトン墳からとんでもない副葬品が出土した。金製の装飾具とガラス製品と熨斗(ひのし)である。

金製の装飾具は、@金製方形版(一種の冠)(1)、A金製垂飾付耳飾り(2)、B金製螺旋状垂飾り(2)、C金製空玉(2)、D金製腕輪(1)、E金製指輪(5)、F金製歩揺(382) と豪華である。

熨斗(ひのし)は昔のアイロンで、金属製の柄杓に燃える炭を入れて、底を布にあてて皺を伸ばす道具。これは日本初の出土であるらしい。


126号墳から出土したガラス製椀(左)と皿(右)

白色の椀には丸くカットされた模様がついている。いわゆる切子(きりこ)である。紺色の皿は透き通っていて、美しい。地中海沿岸で作られたローマングラスであるという。

新沢古墳を代表する豪華な副葬品は、東京国立博物館に移されている。橿原考古博物館では見ることはできない。(写真は「日本の古代D」森浩一 より引用)


109号墳。古墳時代中期(5世紀)

全長約28mの「前方後方墳」である。前方部と後方部に一人ずつ埋葬してあった。後方部の墳頂は破壊されており、鉄製刀子(とうす・小刀)だけが出土した。

前方部からは、@銅鏡3面、A桂甲(騎馬用鎧)、B短甲(歩兵用鎧)、C鉄製武具類、D銅製三環鈴(さんかんれい)、E金製垂飾付耳環(すいしょくつきじかん・耳飾り)、Fガラス製小玉約300個 が出土している。

Dの金製垂飾付耳環は、金の耳輪から鎖の糸を垂らして、先に金の飾りをつけたもの。現代でも女性が歩くと揺れる耳飾をつけているが、それと同じものである。
109号墳出土の銅製三環鈴。

見るように銅製の輪に3個の鈴がついている。私は初めて見るものだ。祭祀のための道具だろう。

鈴を3個つければ、1個の鈴よりも音量は大きくなるだろうが、それなら神社の拝殿にぶら下がる鈴のように大きなものにすればよい。だがその音はガラガラである。

今でも神社の巫女が神楽舞いをするときに鈴の取っ手を手にして舞うが、そこには15個の鈴がつけられている。鈴を振れば、カラカラとかリンリンではなく、シャンシャンの音を発する。鈴の振動数がそれぞれに違うからである。それによって音に厚みが加わる。鈴を3個つけたのはそういうことだろうか。(シロートの考えである)
173号墳(手前)と178号墳(奥)。

173号墳は直径14mの円墳。半肉彫獣帯鏡が出土している。

178号墳は、南北26m・東西24mのややいびつな円墳。土器・鉄製農工具(鋤・鎌・刀子・斧)・馬具一式が出土した。

173号墳出土の半肉彫獣帯鏡(古墳時代中期・5世紀)

先にもいったが、銅鏡はなぜ丸いのだろうという疑問を持っている。鏡であるからには、表面はツルツル・スベスベしていなければ物体を映すことはできない。銅鏡は錆びていくから、しょっちゅう鏡面を磨く必要があったはずだ。

もしロクロのようなものがあって、銅鏡を回転させて磨くことができればその作業は割合に簡単だろう。そのためには回転したときに磨きやすい形でなければならない。四角形のものを回転させると磨きにくい。

どういう形であっても回転させると円になるのだから、初めから円形にしておくほうがよい。。この理由から銅鏡は円形をしているのかと思う(これもシロートの考えである)。

178号墳出土の馬具一式。古墳時代後期(6世紀)

(手前)鉄地金銅張り鏡板
(中央)轡(くつわ)
(奥)鉄地金銅張り杏葉(きょうよう)

杏葉は馬の尻を飾る金具である。写真は中心の金具(名前は不明)に3枚の杏葉がつけられている。鞍の後ろから雲珠(うす)と呼ばれるベルトで中心の金具を繋ぎ、3枚の杏葉は馬の腰高の部位から左右と後ろに垂らす。

323号墳出土の玉類(古墳時代後期・6世紀)

(奥)はガラス管と勾玉を交互に繋いでいる。

(手前)は管玉と丸玉の組み合わせ。

500号墳出土の方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)。古墳時代前期(4世紀)

500号墳は本格的な調査を始めた1962年に発掘されている。前方後円墳(全長62m・後円部32m・。前方部幅24m)だそうだ。県道の南側の丘にあるが、距離が1kmほどありそうだったので行っていない。

出土品は多かったようである。博物館に500号墳出土と表記された遺物が少なからず展示されていた。@内行花文鏡(1)、A右図の方格規矩鏡(1)、B管玉(110個余り)を繋いだ首輪、C琴柱形石製品(2)、D勾玉(17)(博物館のところで掲げた)、E車輪石(3)、F石製紡錘車(1)、G玉杖(7)、H鉄刀(2)、I鉄製槍先(3)、J銅鏃(11) などである。

500号墳出土の筒形銅器。古墳時代前期(4世紀)

筒形銅器はどう使うのだろうか。筒形銅器の底はふさがっている。また筒の上下に2本の溝が開いている。この溝は筒の左右にもあるようだ。どうも筒の周囲に4本の溝があるらしい。上下合わせて8本の溝がある。

3本の筒の右側に銅の棒も展示されている。この棒は筒にあけられた溝の中に落とせそうだ。棒を入れて筒を振れば音が出るだろう。あるいは棒を糸で吊るして筒の中にぶら下げると、風鈴のように音がでる。 いや小太鼓のように、棒で筒の底を叩いて音を出したのかもしれない。いずれにしても先に掲げた三環鈴や五鈴鏡のように音を出すための道具だろう。

円墳の間に畝傍山が見える。さあ帰ろう。

近鉄・橿原神宮駅へ行くバスは1時間に1本である。バスの便に合わないかとバス停の時刻表を見たが、20分ほど待たねばならなかった。駅を目差してひたすら歩く。

先週の日曜日は東京にいた。四谷のホテルに宿泊し、月曜日の朝早く中央線で東京駅に戻った。中央線の電車は東京駅の1・2番線に止まる。ホームから辰野金吾の東京駅が間近に見えた。3階建に復元された南口のドームが手を取るように見えるのである。

台風が接近中であったが約30分をかけて写真を撮った。このとき暴風で帽子を吹き飛ばされたらしい(風が強いので帽子は脱いでバッグに突っ込んでいたため気づかなかった)。

だから今日は帽子を被らずに歩いたのだが、テクテクに帽子は必需品だ。大和八木駅で降りて近鉄百貨店で帽子を買った。Mサイズで少し頭の周りに隙間があくのは、私の頭髪が少なくなったせいか。

百貨店のビヤホールでビールを2杯。アテは鶏の竜田揚げと豆腐。今日の万歩計は27000歩だった。よく歩いた。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 橿原市地図...            執筆:坂本 正治