堺市美原区黒山

    No.94.....2013年8月17日(土曜)


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今日も堺へ出かける。前回8月11日の訪問は、前日に森浩一さんの訃報を知って急に思い立ったものだから、準備不測で無計画だった。 10日に決めた訪問地は、
  1. 百舌鳥にある3つの天皇陵(仁徳・履中・反正)とその陪塚
  2. 陵墓参考地の御廟山古墳
  3. 森さんが保存に尽力されたという、いたすけ古墳

  4. 森さんが17才のときに発掘に参加した和泉黄金塚古墳(こがねづか)
  5. 19才のときに発掘し、24領の甲冑が出土した黒姫山古墳山
と欲張ったものであった。結局、陪塚のいくつかと御廟山古墳、和泉黄金塚古墳、黒姫山古墳山は今日に持ち越しとなった。

地図の(A)は百舌鳥古墳群で最寄の駅は南海高野線の「三国ケ丘」駅またはJR阪和線の「三国ケ丘」駅である。ここは交通の便はよい。まず初めにここで4つ5つの古墳を訪れる。

次に(B)黄金塚古墳は堺市の隣の和泉市上代にある。最寄の駅はJR阪和線の「北信太」。「百舌鳥」駅から5つめの駅である。古墳は約2km離れたところにあるので往復4kmを歩かねばならない。

そこからJR阪和線で「三国ケ丘」まで引き返し、南海高野線に乗り換えて4つめの「初芝」駅で降りると、駅から約3kmのところに(C)黒姫山古墳がある。所在地は堺市美原区黒山。堺市の外周部で隣は羽曳野市である。羽曳野市には百舌鳥古墳群に匹敵する古市古墳群があり、仲哀天皇陵・応神天皇陵・允恭天皇陵などがある。

ついでにいえば、森さんの堺時代の家は(D)の大美野にあった(今は堺市東区大美野)。森さんの家から黒姫山古墳までは、道路をたどって約4.5km。若き日の森少年は徒歩で黒姫山を訪れた。黄金塚古墳はちょっと離れている。森少年の自宅から約7〜8kmのところである。歩いて2時間、往復4時間。戦後すぐのことだから交通の便は悪いし、小遣いもなかったろうから徒歩で行ったと思われる。



南海難波駅からは、南海本線・南海高野線・泉北高速の3つの路線がある。今日初めに行くのは仁徳陵なので、南海高野線に乗る。南海本線に乗ると和歌山に行ってしまう。

泉北高速は「中百舌鳥」までは高野線と同じだが、中百舌鳥駅から大きく分かれて和泉市(和泉中央駅)にいく。高野線はもちろん高野山の下までいく。

南海電車には乗り慣れていないので、乗車するときはいつも不安になる。



南海三国ケ丘駅。古い駅なので改築中。

古代の天皇の土木の事績を日本書紀から拾ってみると次のようになる。

崇神天皇から応神天皇までは池を造っている。これは溜池である。大和国が多いが、依網池・茅渟池は河内国(のちに和泉国)であり、。高石池を現在の高石市だとすれば、これも河内国である。当時の天皇家は大和と河内の開発に力を入れていた。

仁徳天皇の代になると、開発の重点は河内に変わる。仁徳天皇は高津宮を摂津国(大阪)に置いた。ここが歴代の天皇と大いに違うところである。

10代・崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずがき)は奈良県桜井市金屋にあり、11代・垂仁天皇の纒向玉城宮(まくむくたまき)と12代・景行天皇の纒向日代宮(まくむくひしろ)は桜井市穴師にあった。(景行天皇は晩年、近江の高穴穂宮(たかあなほ)に移った)

13代・成務天皇の宮は書紀には記してないが、古事記は景行天皇と同じ高穴穂宮(滋賀県大津市穴太)であったという。14代・仲哀天皇の宮は転々としている。初めは敦賀の笥飯宮(けひ)、ついで紀伊国に徳勒津宮(ところつ。和歌山市)、ついで穴門豊浦宮(あなとのとゆら。山口県下関市)、最後に橿日宮(かしひ。福岡市)で亡くなった。これらは行宮である。

神功皇后は穴門豊浦宮から若桜宮(わかさくら。桜井市池之内)へ移り、ここで亡くなった。この宮にあるとき新羅や百済が朝貢してき、また新羅征討の出兵をしている。

15代・応神天皇の宮は、書紀には大隈宮(難波の大隈島)しかでてこないが、古事記では軽島豊明宮(かるしまのとよあきら。橿原市大軽町)にあったとある。大隈宮は行宮だろう。

以上おおむね代々の天皇の皇居は大和にあったが、仁徳天皇は難波に高津宮を造り、河内の開発に乗り出した。

それまでの土木工事は灌漑のための溜池を造るのが主であったが、堀を開削し、川に堤を築き、橋を架け、大道を作ったと書紀はいう。

三国ケ丘駅は仁徳陵の北側にある。駅を出ると見えるのは、大安寺山古墳である。

仁徳天皇以降の天皇の宮は、17代・履中天皇は磐余稚桜宮(いわれのわかさくら。桜井市池之内)。18代・反正天皇は丹比柴籬宮(たじひのしばがき。大阪府松原市?)。

19代・允恭天皇は書紀には宮の記述がなく、古事記によれば遠飛鳥宮(とおつあすか。明日香村?)という。20代・安康天皇は石上穴穂宮(いそのかみのあなほ。天理市)、21代・雄略天皇は泊瀬朝倉宮(はつせのあさくら。桜井市)である。このように仁徳以降も皇居は大和にある。

ただし天皇陵は河内にある。応神天皇・允恭天皇・雄略天皇は古市古墳群にあり、仁徳天皇・履中天皇・反正天皇は百舌鳥古墳群にある。(安康天皇だけは菅原伏見西陵(奈良市宝来)に葬られている。)

5世紀ころの大阪は右の地図のようであった。(図は「巨大古墳の世紀」森)青色字は現在の地名(ないし駅名)で、赤色字は当時の地名(ないし宮名)である。図の高津宮と石切間の距離は約12km。

南から北に伸びるのは上町台地である。台地の標高はだいたい20m、幅は台地の上部が4〜500m、台地の下部(水面)は1〜2kmくらいの幅の狭い半島である。半島の先端では大阪湾と河内湾が繋がっていた。

狭い海峡なので、潮の流れは早かった。書紀の神武紀に、神武天皇が九州から船でやって来て、難波碕に着こうとしたとき、潮流が早かったので早く着けた。よって名づけて浪速国(なみはや)とした。また浪花ともいう。今難波というのはなまったものであるという地名説話がある。神武一行は難波碕を進み、河内湾に入り、図の「石切」の草香(日下)の盾津に着岸した。そして孔舎衛(くさえ)で長髄彦(ながすねひこ)に敗退し、また難波碕を通って大阪湾に出て行った。

仁徳陵の東側を歩く。

そのうち上町台地の先は砂州ができ、難波碕はなくなり、河内湾は河内湖になった。仁徳天皇の時代は河内湖だったようである。上の地図にあるように南からは、大和川・東除川・西除川が流れてくる。北には淀川があって河内湖に注ぐ。 川は水とともに土砂を運んでくる。河内湖は次第に埋まっていった。

仁徳天皇は群臣を前にしていった。「この国を眺めると、土地は広いが田圃は少ない。河の水は氾濫し、長雨にあうと潮流は逆流して陸に上り、村人は船に頼り、道は泥に埋まる。 溢れた水は海に出し、逆流は防いで田や家が浸からないようにせよ。」

仁徳天皇11年に、高津宮の北の野を掘って、南の水を導いて、西の海(大阪湾)に入れた。名づけて「堀江」といった、とある。

地図の(A)が難波の堀江である。高津宮は大阪城あたりにあったといわれているが、ここの標高は20mある。ただそこから上町台地は急速に低くなる。この低いところを切り開いた。


大安寺山古墳の横には周遊道路がある。この辺りの道は狭い。

地図の(B)は茨田(まむた)の堤である。淀川の氾濫を防ごうとした。。当時の川筋はわからないが、今の川筋を基にすると、宇治川・桂川・木津川が合流する京都の山崎から高津宮があった大阪天満までは約24kmある。枚方市から寝屋川市の間の堤を築いたとされるが、大阪市鶴見区には茨田(まった)の地名が残っている。

地図の(C)は猪飼津の小橋。当時の河内湖はまだらに島ができていたらしい。上町台地からすぐ近くの島(州)へ橋を架けたようだ。いまでも大阪市生野区に猪飼野の地名が残っている。


道は広くなる。車も走れる。右には外堤の木立が見えるだけである。

地図の(D)は横野の堤。図の(D)よりもう少し北であるらしい。横野は大阪市生野区巽(たつみ)とされている。堤を築いた川は平野川だったのではないかといわれている。

地図の(E)は感玖(こむく)の大溝。溝とは灌漑のための水路であろう。大溝というから船が行き来できるくらいの幅があったかと思われる。石川の水を引いて上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦など4か所の原を潤し、4万頃(しろ)の田が得られた、と書紀は記す。感玖(こむく)の場所は南河内郡河南町から千早赤坂村にかけてかと推定されている。

仁徳陵の3重目の濠の半ばまで歩いたところに、もっこりした木立があった。陪塚の塚廻古墳(つかまわり)だ。直径30m、高さ4.5mの円墳である。この古墳は1912年に発掘されたことがある。

本来なら仁徳陵の陪塚として指定されるべきであったが付近の2古墳とともに指定がもれていた。 そこで土地の所有者が学者立会いのもとで発掘を開始した。ただその発掘作業は大変にあわただしいもので、丸二日間で終わった。

出土したものは、鏡が2面、剣が1本と刀が2〜3本、勾玉が7個、その他管玉が70個、棗玉が4個、ガラス製の小玉が多数である。

鏡・剣・勾玉とくれば「三種の神器」と同じである。三種の神器的な遺物を出した古墳は珍しいのだそうだ。その意味でこの古墳はもっと丁寧に、十分に発掘されるべき古墳であると森さんはいわれる。

仁徳陵の陪塚で初めての発掘であった。宮内省は発掘中止の命令の電報を打ったが、電報が届いたときには、すでに発掘は終了していた。この発掘は後で問題になったという。(「古墳の発掘」森浩一)

どうやら今でも陪塚として指定されず、民間人が所有しているようだ。トレンチ(試掘溝)の跡だろうか、墳丘の中央がへこみ歩いて登れるようである。墳丘の裾に円筒埴輪が並んでいたというが、今はプランターが並んでいる。

前方部の東南角までやってきた。そのまままっすぐに進む。

仁徳天皇の時代に、多くの大土木工事が行なわれた。川や溝を掘り、堤を築き、橋を架けた。この時代に土木技術が蓄積され、鉄製の道具(鍬や鍬)が普及し、運営の組織が固まったようである。

難波の堀江が今の大川(天満川)であるとするなら、大川に架かる天満橋の長さは160〜170mある。当然に川幅も160mはあることになる。当時の難波の堀江の川幅も100mはあったのではなかろうか。大工事である。 こういう土木ができたのだから、世界最大の仁徳陵の築造は難しくはなかったろう。

公園がある。その向うにある木立は収塚古墳(おさめづか)。

森さんは中学2年だかのとき、収塚古墳の隣接地に高射砲陣地を造るために動員され、土を掘ると多くの円筒埴輪が出てきたと書いておられる。この公園がその場所であろう。円筒埴輪は収塚古墳の周濠の外堤の上に並んでいたのだろう。

古墳に近づいてよくよく見るのだが、土が小高く盛られているというだけで、特に古墳だなあというものは見つからない。

珍しく堺市教育委員会の説明板が立っていた。それによると、帆立貝式の前方後円墳で、墳丘長は65m、後円部の直径は35m、高さ3m。古墳内部の構造や副葬品は不明だが、墳丘の頂上付近で鉄製短甲(よろい)の破片が出た。

周濠の幅は8〜13m、深さは0.6〜0.9mで、ここから葺石・埴輪・須恵器が出土した。5世紀後半ころの築造だと考えられる、ということだ。

1958年に国の指定史跡になっている。

御廟山古墳に向かっている。信号機の上に「本町・ふとん太鼓奉納」の横断幕が上げられている。

2004年9月に堺市土塔町を訪ねたとき、ちょうどふとん太鼓の祭りの日であった。土塔町の若者60〜70人が「ふとん太鼓」を担いでいた。初めてふとん太鼓を知ったのだが、その日の道中で、土塔町(どとう)と土師町(はぜ)の2つのふとん太鼓に何度も会った。

これらふとん太鼓は百舌鳥八幡に結集するのである。2004年のときは8町が集まっていた。本町のふとん太鼓もあった。今年も9月の末に祭りが催されるのだろうが、本町は気が早い。すでに祭りの用意をしている。



御廟山古墳の航空写真。前方後円墳で南側に造出しがある。

御廟山古墳の主軸を延長(後円部側)したすぐ先に百舌鳥八幡がある。この古墳は八幡社と関係がありそうである。八幡社の祭神は応神天皇と神功皇后だ。御廟山古墳は江戸期には応神天皇あるいは神功皇后の陵であると思われていた。

幕末から明治初期に、古市の誉田山古墳を応神天皇陵、佐紀の五社神古墳を神功皇后陵と治定したから、御廟山古墳はこのどちらでもないことになるのだが、もしかしたら応神天皇か神功皇后の陵ではないかとして、陵墓参考地になっている。

御廟山古墳。前方部(右側)から後円部(左側)を見る。

陵墓参考地になっていると、宮内庁以外の者は立ち入ることはできない。発掘などもってのほかである。学者はこれを大いに不満としているが、古墳が守られてきたことは事実である。

前回のテクテクでは、御廟山古墳へ行くのに道に迷い、結局JR阪和線・上野芝駅から帰るはめになったが、その上野芝駅の少し西に大塚山古墳があった。大きさはこの御廟山古墳よりわずかに小さいくらいの大古墳であった。

白鷺がいた。鳥は陵墓参考地に入ることができる。

1950年、大塚山古墳は土建業者によって墳丘を切り崩され、周濠は埋め立てられて、平坦な分譲住宅地に変えられた。

森さんたち民間のボランティアは土取りの現場の中を緊急に調査をした。まだブルドーザーを使ってなく、人力での作業であったからなんとか調査ができた。森さんが22才のときの話である。

「古墳とヤマト政権」(白石太一郎)の巻末に巨大古墳の一覧表があるが、御廟山古墳の墳丘長は186mで45位、百舌鳥大塚山古墳は168mで51位とある。大塚山古墳は完全に消滅した古墳のうちで日本最大のものである。

いよいよ和泉黄金塚古墳を訪れる。場所は和泉市上代町(うえだい)。最寄の駅はJR阪和線百舌鳥駅から5つ目の北信太駅(きたしのだ)である。

11時ころに到着した。駅から古墳までの距離は約2Km。往復4Kmを歩かねばならない。

次図はヤフー地図の航空写真で、黄金塚古墳を俯瞰したもの。後円部は露出している。また前方部は真っ二つに裂かれている。廻りは棚田のようである。畦道を通れば墳丘に登ることができるかも知れないと期待している。

森さんが同志社大学を操業するまでの間にされた古墳発掘のうち、学問上の大きな発見は4つある。
  1. 奈良のウワナベ古墳の陪塚である大和6号墳の緊急調査に参加し、日本で最大量の鉄廷(正しくは金偏がつく)を発掘した(17才)。

  2. 黄金塚古墳を末永雅雄さんと調査し、短甲・剣・盾の漆と巴形銅器を取り上げた(17才)。

  3. 黒姫山古墳を発掘し、日本で最多の24領の短甲(たんこう)と冑(かぶと)を取り上げた(19才)。

  4. 黄金塚古墳を本格的に発掘し、日本で初めての「景初三年」の銘が入った銅鏡を取り上げた(22才)。


高架は堺泉北有料道路。高架下は府道36号線。面白いことに黄金塚古墳もこの後訪れる黒姫山古墳も、堺泉北有料道路のすぐそばにある。

「取石6丁目南」と標識のある交差点の横断歩道を渡って右折れする。道は緩やかな坂道である。黄金塚古墳は信太山丘陵の先端にある。後で地図で計ってみたら、取石の交差点の標高は14m、黄金塚の標高は35mだった。その差(比高)は21mである。

森さんは、『(黄金塚は)丘陵の端に築かれているため、西方の海岸平野から見上げると大きな古墳に見えた。逆に後円部の頂上に立つと大阪湾を見下ろせた。もちろん海をゆく船もよく見えた。』(「僕は考古学に鍛えられた」)と書かれている。

歩いている道沿いには府営住宅とかパチンコ店が建ち並んでいるので黄金塚古墳は見えないが、ひょっとしたら黄金塚古墳の上に立てば、森さんが17才のときに見たように海が見えるのではないか。

詳細なヤフー地図を印刷して持参している。黄金塚へ直接行ける道はないが、「泉北環境整備施設組合」(これはゴミの焼却場だろう)の東に細い道があり、その道から100m先に黄金塚がある。航空写真で見たように田圃か畑の畦道を辿れば行き着けるだろう。

そう思っていたが、目当ての道は今歩いている道の下にあることがわかった。見下ろす道の先にある大きな建物は焼却場だろう。目当ての道へ降りる石段があったが鉄柵で封鎖されている。石段の下も封鎖されている。


少し引き返して、ゴミ焼却場にいくと、焼却場の周囲は柵で囲まれており、黄金塚への目当ての道へは入れないことがわかった。やむなく焼却場の周囲を大回りする。

写真右が焼却場、正面に一段高いところの木立が黄金塚古墳だろう。

終戦の年1945年7月に森さんは、黄金塚の後円部に掘られた塹壕から鉄剣の破片と青色の管玉を採集した。終戦直後に末永雅雄さんを訪ね、黄金塚の惨状について相談した。大阪府庁の文化財係りを訪れて、係りの人を黄金塚に案内した。戦後の混乱期だったから古墳に上る人はなく、古墳に異常はなかった。

焼却場のフェンスに沿って歩く。

11月16日、黄金塚の調査を始めた。森さんは、
『ついに末永先生との黄金塚行きが実現した。10時30分に古墳に着き、11時に発掘を開始している。塹壕(ざんごう)の露出部分だけの調査で、何より助かったのは、土を塹壕に落とせばよかったことで、これで土を外へ運び出す手間がはぶけ、仕事が早く進んだ。

後円部の西よりで短甲・鉄刀、それと打製石鏃などを発掘。これで露出している遺物のとりあげは終わる。・・・後円部の東よりの塹壕に、有機質の黒色の薄い膜が線になって露出していた。これが漆ぬりの盾だったのである。』
と書かれている。

フェンスが尽きた。この先の道は私道かも知れない。黄金塚は高さ5mくらいの崖の上に築造されているようだ。この崖を登る道は見当たらない。

『盾の上部には、巴形銅器を3個着装していた。・・・このように巴形銅器の用途がわかった例は初めてだし、盾に着装された巴形銅器は、その後の発掘でも出土していない。』

崖下をウロウロしたが道はない。崖の上に作業場風の古い家屋があって登る道があったが家屋の前で止まっている。私道のようだ。そこへ折りよく老人が現れたので、崖を登る道はないかと尋ねると、田圃の畦道から登れる細い道があるという。

その畦道は一度は歩いていたが登り道はなかったはずだ。しかし、あると教わったのだから引き返してもう一度道を探す。たぶんこの場所のことを言ったのか。背の高い雑草が茂る中に草を踏みしめたようなところがある。見上げると小さな小屋が雑木の間に見えた。これが登り道なのだ。

意を決して雑草の中に分け入り、細い雑木の枝や、枝から垂れ下がる蔓を手がかりにしてよじ登った。再びここを降りることはできまい。転げ落ちてしまう。

崖の上に出た。前方部の南西角らしい。一段と高くなったところが古墳である。航空写真では、古墳の廻りは田圃か畑で、ちゃんと整地されていたが、今は背の高い雑草が伸びほうだいに伸びている。この雑草の海に入って近づく勇気はない。

古墳に行けるところがあるか探してみようと思ったが、なんということか、よくよく見ると古墳の廻りを網のフェンスが囲んでいるではないか。フェンスの柱やパイプは錆びて茶色になっている。 黄金塚古墳には立ち入ることができないのだ。

写真に5本の立木があるが、左から1本目と2本目の間に溝があるようだ。また3本目と4本目の間も掘り下げられているようだ。これが塹壕跡か。

1951年に本格的な発掘がされた。森さんが大学を卒業する直前である。

後円部には3つの木棺があった。中央槨の棺内に銅鏡が1枚・車輪石と石釧(いしくしろ)・玉類があった。遺骸の首あたりにあった玉類は、ヒスイの勾玉9個、ヒスイの棗玉5個、碧玉の管玉84個で、ずば抜けて美しい首飾りであった。

また棺外に「景初三年」の銘が入った銅鏡があった。我国で初めての出土例である。甲冑や鉾・鏃(やじり)はなかったので埋葬者は女性と推定される。

東槨からは3面の銅鏡に囲まれるようにして、破損した頭骨と22個の歯が残っていた。分析すると青年期から壮年期の男性であると推定された。

遺物は、銅鏡3面・玉類1045個・玉製鍬形石1個・碧玉製紡錘車1個など・後漢時代の五銖銭(ごしゅせん)・甲冑1領・刀2口・鉾身4本・鏃110個、盾2枚(1枚は初めての調査で発掘ずみ)・その他工具(鋸・斧・鑿(のみ)・遣鉋(やりがんな))が22個。

遺物から古墳は4世紀末前後のものと推定された。黄金塚の発掘は大きな成果を上げた。

黄金塚古墳に近づくことができないのはショックだった。 黄金塚発掘について、

『遺物をただ取り出したというのではなく、配列や置かれた位置などの出土状態がきちんと観察されているという点では、戦後間もなくの発掘とはいえ、その後もこれに比肩できる内容の古式の前方後円墳の発掘例はいくらもない。』

と森さんはいわれている。

私が前方後円墳の墳丘上に立ったことがある古墳は3つある。 1つ目は天理市柳本にある黒塚古墳である。1998年に橿原考古学研究所が発掘したところ33面の三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡1面が出土した。三角縁神獣としては日本最多の出土である。

1つの古墳に40面近い銅鏡をすることは、弥生時代に北部九州で行なわれている。古墳時代前期にもこの風習は引き継がれていて大量の銅鏡が埋納されたようである。つまりヤマトの古墳の埋蔵物は北部九州を受け継いでいるらしい。

1999年に古墳発掘の新聞報道がなされた3年後の2002年に黒塚古墳を訪れた。後円部の竪穴式石室のあった場所はロープで囲まれていた。

後円部から前方部を見下ろすと、前方部にはスベリ台が設置されていた。子供たちは古墳を遊び場としている。 黒塚古墳のサイズは、墳丘長130m・後円部径72m・高さ11m・前方部長48m・高さ6m。中型の古墳である。

発掘の結果のポイントは、黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡は棺外に置かれていた。棺内に納められていたのは画文帯神獣鏡1面だけである。埋葬者にとって一番重要な鏡は画文帯神獣鏡1面であった。ということである。

一時は三角縁神獣鏡は、魏の皇帝が卑弥呼に与えた銅鏡100枚がそれではないかといわれていたが、すでに400面以上の三角縁神獣鏡が出土し、しかも棺外に置かれていたことから、三角縁神獣鏡の注目度は低下した。

2つ目は桜井市のメスリ山古墳である。写真の右側は前方部、左側は後円部。前方部の一部は個人が所有しているらしく柿畑になっている。

古墳時代前期に築造されたとされている。1959年に発掘調査がされ、1980年に史跡に指定された。

わかったことは墳丘長は224m・後円部径は128m・高さ19m・前方部幅は80m・高さ8m。後円部は3段築成で、各段に円筒埴輪が並んでいた。また前方部は2段築成で、やはり円筒埴輪が置かれていた。

驚くのは円筒埴輪の直径が1mもあったことである。この巨大な埴輪が要所要所に埋められていた。また特殊器台で高さ2.4m・直径1.3mのものもあった。国内最大の埴輪である。

メスリ山古墳の後円部の頂上。

後円部の主石室は盗掘によって破壊されていたが、その横に副石室があった、これは未盗掘であった。ここからは212本の鉄製の鉾、236個の銅鏃のほか鉄弓・鉄矢・漆塗りの盾・剣・刀などの武器が出土した。埋葬者はなかった。

右図の四角にへこんだ一画が副石室である。石室の蓋石がところどころに見えた。

3つ目は名張市にある馬塚古墳である。近鉄名張駅から2つ目の美旗(みはた)駅のすぐ近くにある。ここには7つの古墳が集まっており、美旗古墳群として国の史跡になっている。馬塚古墳はそのうちで最も大きい。

古墳のサイズは墳丘長142m・後円部径98m・前方部幅100mで造出しをもち、周濠がつく。「古墳とヤマト政権」(白石太一郎)によると、日本で82番目に大きい、古墳時代中期(百舌鳥古墳群と同じ時期)の古墳である。

前方部から後円部にかけて撮る。手前は周濠。水は枯れている。

後円部は3段築成である。古墳に続く道がつけられており、墳丘に登ることができる。

以上3つの古墳を掲げたが、どれも市がきちんと整備し、往古の古墳の姿を彷彿とさせる。荒れた黄金塚とは大違いである。

黒姫山古墳に向かう。JR三国ケ丘駅まで引き返して、南海電車に乗り換える。高野線・初芝駅で下車すればよいのだが、三国ケ丘駅で泉北高速に乗ってしまった。中百舌鳥駅を出た電車は途中から南に大きくカーブしたので、間違いに気づいた。次の深井駅で降りて中百舌鳥駅まで引き返す。

写真は深井駅からの眺め。2004年9月に堺を訪れたが、最初にこの駅で降りた。土塔町にある行基(ぎょうき)が建てた大野寺と行基が造った土塔を見るためだった。そこで土塔町のふとん太鼓に出くわした。

このあと土師町(はぜ)を経て土師ニサンザイ古墳を見、行基が生まれた家原寺(えばらじ)を訪ねた。このころは行基に興味があり、行基に関係のある場所を訪れていた。

黒姫山古墳の航空写真。墳丘長114m・後円部径64m・高さ11m・前方部幅65m・高さ11.6mの2段築成で、周濠をめぐらせている。

1946年4月、森さんは同志社大学予科に入学した。相変わらず日曜日ごとに橿原考古学研究所に出入りしていた。研究所は1951年に奈良県の文化財研究機関として正式に発足することになるが、森さんが学生のころは、考古学が好きな者たちが集まり、緊急発掘にボランティアとして参加していた。

奈良の遺跡や古墳の発掘が中心である。森さんは、@葛城市当麻町の茶山古墳、A桜井市倉橋の梶山古墳群、Bウワナベ古墳陪塚の方墳、C北葛城郡河合町の佐味田小墓古墳 などの発掘調査に参加している。ひとつひとつの発掘の経験が、18〜19才の森さんを鍛えていった。

南海初芝駅からはタクシーに乗った。3kmほどの距離だからじきに黒姫山に着いた。公園になっているようだ。

1945年5月に森さんが黒姫山に行ったところ、墳丘の木々が伐採されて裸の丘になっていた。聞けば、飛行機の燃料にするために松根(しょうこん)を掘り出したという。

その日農家の庭を通らせてもらったとき、縁の下に円筒埴輪の破片が置かれていることに気づいた。松根掘りのときに出たものだという。そして「石の部屋があって、蓋石をはずすと、中にはバケツを並べたようなものがあった」という。持ち帰っていた破片を見せてもらうと、鉄の冑(かぶと)と剣だった。(森さん16才)

「史跡・黒姫山古墳」の石碑がある。後円部を南から見る。木が茂っていて墳丘は見えない。周濠の幅は13〜15m。

1947年1月、濠の水が落としてあるので、空濠を渡って墳丘に登った。「僕は考古学に鍛えられた」から抜粋する。

『墳丘には、まるで爆弾の炸裂した穴のように、松根を掘り出した直径2メートルぐらいの大穴がいたるところにあいていて、埴輪の破片がかなり散乱している。

後円部と前方部の接合部のくびれ部をすぎて、ちょうど前方部の最高所との中間に、はずされた石室の蓋石(天井石)が数枚無造作においてあって、鉄の甲(よろい)や刀の破片がかなりの数、取り出したままになっていた。』
(森さん18才)

後円部の裾には丸い石が積み重なっている。葺石である。

黒姫山古墳は、履中天皇の皇后の黒媛(くろひめ)と同じ名前であったので、もしかして皇后陵かも知れぬと国有地になっていた。だから民間人がこれを取り潰す心配はなかった。

だが、石室の一部の蓋石はすでに取り除かれている。取り出された甲や刀の破片は、雨にうたれて赤錆が出ていた。発掘を急がねばならない。

1947年12月、黒姫山古墳の発掘が始まった。末永雅雄さんが指導し、大学予科2年生の森さんと数人の高校生がボランティアで参加した。一応は大阪府教育委員会の事業であったが、実際に動いたのは森さんたち学生であった。

後円部から造出(つくりだし)を見る。中央の木立が右側に飛び出ているところが造出。

発掘初日は竪穴式石室が現れるまで掘り進んだ。石室を上から覗き込んだときの驚きはいかばかりだったか。再び「僕は考古学・・・」から抜粋する。

『鉄製の短甲(たんこう)が足の踏み場もないほど置いてある。石室の両端から並べ出し、中央に少し残った空間には、腰部から大腿部を防御するための草摺(くさずり)を2ついれていて、石室の底部には武器・武具のほかは一点のものもなく、遺骸のための空間はない。』

前方部の石室は埋葬のためのもではなかった。もっばらに武器・武具を埋納するためのものだった。

前方部の北西角。

短甲の内部には1つか2つの冑が入れられていた。その上に鉄製の武器が置かれていた。取り出したものは、@刀・14本、A剣・約10本、B鉾・9本、C鏃・56本、D刀子(とうす)5本 など。森さんたちは、どの位置に何が、どういう状態であったかの実測図を書きながら取り出していっただろう。

甲冑以外のものは農家の納屋を貸してもらって保管した。発掘を終えた後に、これら遺物の図面を書かねばならない。甲冑は修復しなければならない。

2段築成の最上段を円筒埴輪が一周している。円筒埴輪の上部が土から見え出したところまで掘って行った。

前方部の正面。一部の木々が伐採されている。墳丘の観察ができるかも知れない。

円筒埴輪は墳丘の段の端から2mほど内側の平坦地(テラス)に延々と埋地されていた。そしてその外側に円筒埴輪9本分ずつに1本の割合でキヌガサ埴輪が立てられていた。キヌガサ埴輪とキヌガサ埴輪の間隔はどれも3.6mであった。

1947年の大晦日は休み、翌年の元旦から墳丘全体の測量を開始した。この間に末永先生によって短甲が取り上げられた。 12日に第一次の黒姫山古墳の調査を終った。22日間の発掘調査だった。(森さん19才)

よくよく見ると水面付近に丸い河原石が転がっている。その上の斜面に石が葺かれている。結構急な斜面であるからまるで石垣のようである。

石垣の上には雑草が繁茂している。石垣は水面から2〜3mの高さである。その上はどうなっているのかと視線を上げた。

ああっ、円筒埴輪が並んでいるではないか。少なくとも7個が並んでいる。ここが2段築成の1段目の平坦地だろう。さらに視線を上げると、そこから5〜6m上に、また円筒埴輪が並んでいる。この位置が最上段だ。2段目の斜面にも葺石がほどこしてある。一部ながら復元されているのだ。

黒姫山古墳が築成された当時は、水面から5mの高さまで土を盛り、斜面に白い石を葺く。その上は何mかの幅(おそらくは6〜10m)の平坦地(テラス)を造り、赤褐色の円筒埴輪を並べた。そしてまた5mくらいの高さの斜面に白い石を葺き、最上部は平坦にして周囲に赤褐色の円筒埴輪を並べていたのであろう。

遠くから見ると、白い段に赤い水平の筋が入り、またその上に白い段があって、その先端は赤い筋がアクセントをつけていたのだ。

1年経った1948年12月から黒姫山の第二次の調査をしている。今度は寺の本堂を借りて、泊り込みで調査をしている。また抜粋。

『第二次調査は、やはり米を持参して当番を決めての自炊だった。12月から正月にかけての宿泊だが、蒲団も毛布もなく、全員オーバーやジャンパーを重ね着して寝ていた。

宮川君はたしかリュックサックに足をつっこんで寝ていた。新聞紙をぐるぐる巻にしていた者もいる。よくがんばったものだ。

でも大学生活が忙しくなり、大勢の世話をするための僕のエネルギーにもぼつぼつかげりを感じはじめていた。それもあって第三次調査は結局、実現しなかった。』

この調査では、上段の円筒埴輪列、後円部頂上の方形に巡る形象埴輪の調査をし、墳丘測量の仕上げをした。結果、円筒埴輪の総数は359本、キヌガサ埴輪は25本以上あったことがわかった。
(森さん20才)

森さんの考古学にかける情熱と、その早熟ぶりには感嘆するほかはない。私は森さんの著書を10数冊読んだが、最も感銘を受けたのは「僕は考古学に鍛えられた」である。

黒姫山古墳の発掘報告書は1953年3月に、大阪府教育委員会から出版された。戦後初めての文化財調査報告書だった。森さんが執筆し、末永さんが監修をした。

第二次調査があった1948年から遺物の整理と報告書作成まで5年がかかったわけである。1957年に黒姫山古墳は国の史跡に指定された。

その後1989年から1992年にかけて、古墳周辺は公園(史跡黒姫山古墳歴史の広場)として整えられ、遺物は堺市立みはら歴史博物館が保存・展示している。

公園に行くと円筒埴輪が列になって並んでいた。

円筒埴輪が列をなしている。背の低い円筒埴輪が並び、4本おきに朝顔形円筒埴輪がある。博物館で単体の円筒埴輪はなんども見たが、こういう並び方をしていたのか。

もちろんこれは本物の埴輪ではない。復元したものであるが、このように長々と並ぶ埴輪をみると、ちょっと感激する。

円筒埴輪のサイズは高さ80cm、直径は上部が80cm・下部が40cm。高くなるにつれ広がっているから、そのまま置いたのでは不安定である。30〜40cmほどは土中に埋められていたのではないか。(シロートの考えである)。

向き合う2列の埴輪の間に四角い穴があるようだ。石室も復元してあるらしい。

おお、これが石室か。丸い河原石が3列に積み上げられている。その幅は30cmくらい。蓋石は8枚の水成岩を使っていた。

重そうである。森さんら未成年の者たちがこの蓋石を除けることができたのだろうか。特に左端の石は大きい。重機で持ち上げることができない時代である。森さんたちは実測図を描いたあとに、5〜6人の全員でなんとか動かしたのだろう。



石室のサイズは、長さ4.3m・幅0.70m・深さ1.2mである。これより少し大きめの穴を掘って周囲に扁平な河原石を積み上げて四方の壁としている。底部にも河原石を敷き詰めている。

甲(よろい)がある。手前の甲は首の部分が伸びている。これが新発見の襟付短甲(えりつきたんこう)であろう。

森さんたち学生は、この状態を見たのである。24領という我国最多の甲(よろい)がビッシリと詰まっていた。これを見たときは歓声があがったに違いない。

敗戦後生きることに必死だった大人たちは、腹の足しにならない古墳の発掘はしなかった。どころか農地の拡張のために古墳を潰し、土取りのために古墳を潰し、分譲住宅地のために古墳を消滅させてきた。

壊したものは元にもどらない。調査ができていないと復元することはできない。森さんたちのグループは大人に替わって古墳を調査し、古墳を残そうと一生懸命に努力したのである。

森さんの報告書によれば、円筒埴輪は平坦地の端から2mほど内側に立っていたという。図の復元は端から30cmのところに埴輪がある。ここは正しく復元していないようだ。

黒姫山古墳は史跡に指定され、このように手厚く保存されている。地元の熱心な支援があったのだろう。黄金塚古墳の荒れ様とは対照的である。

なお黒姫山古墳では13個の「眉庇付冑」(まびさしつきかぶと)と衝角付冑(しょうかくつきかぶと)が11個出土した。 右は眉庇付冑と襟付短甲。

歩いて5分ほどのところに堺市立みはら歴史博物館があるので訪れた。入館料は200円である。受付には70年配の男性が座っていた。200円を払おうとしたら、「65才以上の方は無料です」といわれた。

ふーむ。私は65才以上に見えたのか。「無料」を証明するカードを首にぶらさげて見学するはめになった。

甲も冑もあった。円筒埴輪もあった。キヌガサ埴輪の一部分もあった。森さんたちが取り出したものである。

今日も暑かった。黄金塚への道を探したのでよく歩いた。万歩計は24500歩だった。




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