堺市百舌鳥(もず)

    No.93.....2013年8月11日(日曜)


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8月10日の新聞各紙は、考古学者(同志社大名誉教授)の森浩一さんの死去を報道した。6日に亡くなられていたそうだ。享年85歳だった。

日経の小見出しは「古代史ブーム牽引」とある。略歴は1928年大阪市生まれ。高校教諭を経て、67年に同大助教授、72年に同大教授。

記事は、『旧制中学のころから奈良県の橿原考古学研究所に出入りし、大学予科時代に大量の短甲(たんこう・鎧)が出土した大阪府の黒姫山古墳、大学卒業のころに、中国・魏の年号「景初三年」銘の銅鏡が出土した同府の和泉黄金塚古墳の発掘調査などに加わった。』と若い頃の実績を要領よくまとめてあったが、時期を間違っている。

和泉黄金塚古墳の発掘は大学予科にまだ入学していない17才のとき(1945年12月)であるし、黒姫山古墳から短甲を発掘したのは19才(1947年)で、大学予科2年生のときである。これは森さんの著書「僕は考古学に鍛えられた」の巻末に著者自身による年賦が掲げられているので確かめることができる。

日経紙はついで『古墳や遺跡の研究・調査などを基に、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された鏡を「三角縁神獣鏡」とする説に疑義を投じ、大きな論争を呼んだ。宮内庁が管理している陵墓についても、同庁による被葬者の指定が必ずしも裏付けられないことを問題提起し、(天皇陵を)天皇名などではなく所在地名で呼ぶことを提唱した。・・・古墳や遺跡の保存活動にも取り組んだ。』と書いている。

同志社大学に勤務されるまで、森さんは堺市を地盤に活躍されていた。堺には百舌鳥古墳群がある。古墳は約100あったが、今では50足らずに減っているそうだ。

特に終戦後、日本が復興し、高度経済をする過程で多くの古墳が潰されてきた。森さんは学生のときから「緊急発掘」にボランティアとして参加され、ついには古墳発掘の頂点を極められた人である。

本来なら文化勲章を受章されてもよいと思うのだが、読売新聞によると、『自らを「町人学者」と称し、各種の賞や表彰は辞退。生前、唯一もらったのは昨年の南方熊楠賞だけで、受賞に際して「熊楠(くまくす)は典型的な町人学者であり、賞は貰わないという原則を今回は捨てることにした」とのコメントを発表した』気骨の学者であった。

今日は森さんの著作物を参考にしながら、百舌鳥古墳群を巡る。右図で、天皇陵と治定(じじょう)されているのは、@反正陵(田出井山古墳)、仁徳陵(大山古墳)、K履中陵(百舌鳥陵山古墳)の3つ。陵墓参考地は御廟山古墳と土師ニサンザイ古墳(はぜにさんざい)の2つである。

古墳時代とは、前方後円墳が築造されていた時代を指す。通常は前期(300〜400年)・中期(400〜500年)・後期(500〜600年)の3つの時期に分ける。(( )内の年代はおおよその西暦)


百舌鳥古墳群の古墳は中期に築造されたものがほとんどである。この時代の天皇の推定年代(安本美典さんの統計による推定。「巨大古墳の被葬者は誰か」(1998年)より引用)は次のようになる。

10代・崇神天皇  340〜355年ころ
11代・垂仁天皇  355〜370年ころ
12代・景行天皇  370〜385年ころ
13代・成務天皇  385〜390年ころ
14代・仲哀天皇+神功皇后  390〜410年ころ
15代・応神天皇  410〜425年ころ
16代・仁徳天皇  425〜436年ころ
17代・履中天皇  436〜440年ころ
18代・反正天皇  440〜444年ころ
19代・允恭天皇  444〜460年ころ
20代・安康天皇  460〜465年ころ
21代・雄略天皇  465〜480年ころ
22代・清寧天皇  480〜485年ころ
23代・顕宗天皇  485〜488年ころ
24代・仁賢天皇  488〜499年ころ
25代・武烈天皇  499〜507年ころ
26代・継体天皇  507〜534年ころ

右は、反正天皇陵(はんぜい)とされている田出井山古墳の航空写真。南海高野線の堺東駅のすぐそばにある。その南に森浩一さんが通われていた三国丘高校(旧制堺中学)がある。



また安本式の「前方後円墳の築造時期の推定図」を右に掲げる。縦軸は(前方幅/墳丘長×100)、横軸は(前方幅/後円部径×100)として天皇陵・皇后陵を打点したものである。

古い時代の天皇陵ほど左下にきて、時代が新しくなるにつれて右上方向にシフトしている。このうちで打点の位置がおかしいのは、赤色のM神功皇后陵(佐紀五社神古墳)である。神功皇后は410年頃に亡くなっている。11代・垂仁天皇の370年ころより40年ほど時代が新しい。だが古墳の形は逆に古いということを示している。

赤色M神功皇后陵と青色L成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)を入れ替えると、いくぶんは納まりがよくなる。森さんは「古墳と古代文化」の中で、843年に神功皇后陵と成務天皇陵を取り違えて祀っていたと「続日本後記」に記録があると書かれている。取り違えていたほうがすっきりしていたわけだ。

青色M仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)の位置もおかしい。これだとR允恭天皇陵(市の山古墳)よりも時代が新しい古墳となる。

青色Q反正天皇陵(田出井山古墳)も位置が飛び離れていて、これもすっきりしない。




前方部に沿ってまっすぐな道がついている。

反正天皇陵のサイズは、墳丘長148m・後円部径76m・前方部幅110mである。航空写真でみるように西側くびれ部に「造出し」がある。

同じ百舌鳥古墳群にある仁徳陵の墳丘長は日本一長く486m。履中天皇陵は第3位で360mである。これに比べると反正天皇陵の148mはいかにも小さい。

近くにある陵墓参考地の土師ニサンザイ古墳(はぜにさんざい)は墳丘長290m・後円部径156m・前方部幅224mで第8位である。反正天皇陵の2倍のサイズであるから、これが反正天皇陵ではないかの説もある。
反正天皇陵は鉄柵で囲ってある。柵越しに内部を覗うと、土地は平らかであるが奥まるほどにこんもりと小高くなっている。1mくらいの高まりがあろうか。これは濠の外を囲む土堤である。土堤には木立が茂っているので、ここからは墳丘を見ることはできない。

反正天皇の在位期間は短い。安本美典さんの「邪馬台国と卑弥呼の謎」(1987年)に、天皇の在位年数と寿命(日本書紀による)の表が掲げられている。

15代・応神天皇(41年-110歳)、16代・仁徳天皇(87年-110歳)、17代・履中天皇(6年-70歳)、18代・反正天皇(5年-59歳)、19代・允恭天皇(42年-81歳)、20代・安康天皇(3年-56歳)、21代・雄略天皇(23年-62歳)。
反正天皇陵の拝所。手前の石柵から向こうの石柵までの距離が周濠の土堤の幅である。だいたい20mほど。拝所の奥に森になっている前方部が見える。その手前には濠があるはずだが、水面は見えない。

応神天皇と仁徳天皇の寿命が110年というのは考えられない。そこで日本書紀の記述は信用できないとするのか、いやこの寿命は何らかの根拠があるのではないのかと思うのか、学者の意見は分かれる。

安本さんはさまざまの証拠を提示して、雄略天皇までは1月から6月を1年とし、7月から12月までを1年としていたのではないか。つまり在位年や寿命は2倍されているといわれる。

寿命の統計をとると、神武天皇から33代・推古天皇の平均寿命は82.55歳で標準偏差は31.06である。

史的に明瞭な34代・用明天皇から123代・大正天皇の寿命は48.50歳で標準偏差は17.95である。古代の天皇の平均寿命は1.70倍、標準偏差も1.73倍されていることになる。古代ほど寿命は短い傾向にあるだろうから、「1年2倍説」は説得力がある。

三国丘高校のサブグラウンドではテニスの練習をしていた。

森浩一さんは、1941年に旧制堺中学に入学した。自宅は大美野(堺市東区)にあったので、南海電車の高野線で通学した。北野田→・・・→中百舌鳥→百舌鳥八幡→三国ケ丘の順である。電車からは、土師ニサンザイ古墳や仁徳天皇陵が見え、学校のすぐ先には反正天皇陵があった。

さてこれから仁徳陵の周りにある陪塚(ばいづか)をめぐる。「巨大古墳の世紀」森浩一著(1981年)に、右の図が掲載されている。15個の陪塚があったらしいが、そのうちの3つは消失している。

仁徳陵のサイズは本によって少し違いがあるが、墳丘全長486m・後円部径249m・前方部幅305m(「巨大古墳の被葬者は誰か」安本)である。森さんの計られたところでは、墳丘全長486m・後円部径245m・前方部幅304mである。堺市が出している「百舌鳥古墳めぐり」には、墳丘全長486m・後円部径249m・前方部幅307mとある。

全長は486mで一致しているが、後円部径と前方部幅に違いがでている。これは仁徳陵の実測図は大正末年に測量されたものがあるだけで、各学者がそれぞれにこの実測図に物差しを当ててサイズを換算しているためだという。(「巨大古墳の世紀」森浩一)

仁徳陵は三重の周濠で取り巻かれている。まず巨大な墳丘の周りを、これまた広大な「内濠」が取り巻いている。後円部の内濠の幅は約70m、前方部の濠幅も70m、くびれ部の濠幅は西側が120m、東側が115m。

内濠は「内堤」で取り巻かれている。内提の幅はところによって広狭があるが、ヤフー地図で計ると前方部に面しているところが39m、東側くびれ部に面したところが44mである。



三国丘高校から南へ下ると南海高野線が半地下で走っている。上に耳原橋が架かっている。西に見える森は永山古墳。

内堤の外側には外濠がある。その幅は前方部に面しているところが20m、東側くびれ部に面したところが11m。 外濠は外堤で囲まれている。外堤の幅は前方部に面しているところが21m、東側くびれ部に面したところが26m。

そしてその外側に三重めの濠がある。濠の幅は外濠の幅とほぼ同じ。

森さんは、この三重めの濠は築造当初にはなく、明治期に掘られたものであるといわれている。二重の周濠を持つ古市にある津堂城山古墳は、墳丘→内濠→中堤→外濠→外堤とつづき、幅20mの外堤がこの陵(参考地)の端になってるのだそうだ。



南に森の先が見える。一部は仁徳陵の後円部の頂上に生えている木のようである。手前の木立は外堤に生えているものだろう。

「ところが大山古墳では、外堤の外に三重めの濠があって、濠のまま終わっており、濠のままで終わるのは奇妙である。」(「巨大古墳の世紀」)

ヤフー地図で外堤と三重めの濠を合わせた距離を測ると、前方部に面しているところが36m、東側くびれ部に面したところも36mである。内堤の幅は39〜44mだったから、だいたいこれに匹敵する幅の外堤であったらしい。



永山古墳。前方後円墳で周濠をもつ。右側が後円部、左側が前方部。

三重めの濠があとから掘られたことは、陪塚の図にある「塚廻り古墳」の周濠と三重めの濠がくっついていることでも判る。塚廻り古墳は円墳で、周りは濠で囲まれていたが、三重めの濠が掘られたことによって、三重めの濠と一体化した。

さらにいえば、茶山古墳と大安寺山古墳は、三重めの濠と一体化しているし、(二重めの)外濠ともくっついている。これは外濠が後から掘られたことを表わしている。後円部は築造当初は内濠だけだった。

永山古墳の前方部の東側角。かなり形が崩れている。

前方部に並ぶ3つの帆立貝式古墳は、現在の三重めの濠とは離れており、二重めの外濠とも一体化していない。したがって、築造当時には前方部に外濠があっただろう。と森さんは言われる。

先ず内濠と中堤の陵が築造され、おなじ古墳時代のいつかに外濠と外堤が作られた。そして明治期1892年〜1894年にかけて内濠が修築された。1899年〜1902年に三重濠を掘ったという文書も残っているそうである。 かくして仁徳陵は唯一の三重濠をもつ古墳に変身したわけである。



道路の向こうに丸保山古墳が見える。帆立貝式の前方後円墳。

国の歴史を記した最も古い文献は古事記と日本書紀である。ともに各天皇の崩年を記しているが、時代が遡れば遡るほど古事記と書紀の年が食い違っている。

例えば15代・応神天皇の崩年は、古事記は394年だが書紀は313年と記す。81年の差がある。16代・仁徳天皇の崩年は、古事記は427年だが書紀は400年と記す。27 年の違いがある。記紀の崩年が一致するのは31代・用明天皇の587年からである。

1代〜30代の天皇で、古事記と書紀の崩年の違いが10年以内の天皇を掲げる。(先に古事記の年、あとが書紀の年)

丸保山古墳の後円部。周濠は空濠状態。
  • 30代・敏達天皇(584/585年)
  • 29代・欽明天皇(570/572年)
  • 27代・安閑天皇(535/535年)
  • 26代・継体天皇(527/534年)
  • 21代・雄略天皇(489/480年)
  • 19代・允恭天皇(454/453年)
だいたいの年代がわかるのは、19代・允恭天皇以降である。

仁徳陵の三重めの濠の外は鉄柵で囲まれ、濠にそって周遊道路がある。一周すると2850m。

16代・仁徳天皇の後皇位を継いだのは17代・履中天皇→18代・反正天皇→19代・允恭天皇で、いずれも仁徳の子供であり兄弟である。 ところが18代・反正天皇の崩年は(437/412年)と記紀のズレは25年違い、17代・履中天皇は(432/406年)と26年違ってくる。16代・仁徳天皇の崩年は(427/400年)と27年も開く。このあたりの記紀の紀年は信用できない。

中国や朝鮮の文献に日本についての記録がある。1つは倭国が朝鮮へ派兵したというもので、もう1つは「倭の五王」が宋(南朝)へ朝貢したという記録である。


右図の(a→b→c→d→e)の順に歩いている。上の写真は(b)と(c)の中間のあたり、次の写真は(c)のところ。

  • 391年 倭が朝鮮へ侵攻 (広開土王碑)
  • 400年 新羅城にいた倭を退けた (広開土王碑)
  • 402年 新羅王の子の未斯欣を倭へ人質として出した (新羅本記)
  • 404年 倭が帯方界へ侵攻 (広開土王碑)
  • 421年 倭王・讃に除授を賜う (宋書)
  • 425年 倭王・讃、上表貢献 (宋書)
  • 438年 讃死し、弟の珍立って貢献す (宋書)
  • 443年 倭王・済が貢献す (宋書)
  • 451年 倭王・済に称号を賜う (宋書)
  • 462年 済死し、世子の興立って貢献す (宋書)
  • 478年 興死し、武立って上表 (宋書)
391年〜404年の朝鮮侵攻はどの天皇の時代かは不明であるが、421年からは「倭王某」とある。これがどの天皇のことなのかを、日本側の記紀の記録と照合するとある程度のことがわかる。


三重めの濠は一部いびつな形をしている。閘門のついた排水設備がある(写真の右手の濠が広がっている)。写真左手の森は外堤上に生えた木立である。この向うに外濠→内堤→内濠があっって、巨大な墳丘があるはずだが、何も見えない。

安本美典さんは倭の五王を次の天皇にあてておられる(「邪馬台国と卑弥呼の謎」)
  1. 倭王讃(さん)は、15代・応神天皇
  2. 倭王珍(ちん)は、16代・仁徳天皇
  3. 倭王済(さい)は、19代・允恭天皇
  4. 倭王興(こう)は、20代・安康天皇
  5. 倭王武(ぶ) は、21代・雄略天皇
安本さんは、記紀から宋(日本側は「呉」と呼ぶ)関係の記事を探された。すると、@書紀の応神紀に3か所、古事記に1か所みえる。またA仁徳紀に1か所、B雄略紀に5か所、古事記に1か所ある。これ以外の天皇紀には宋(呉)関係の記事はない。



公園のように整備された場所がある。左側が濠。

次に古事記が各天皇について何文字を使っているかを調べられた。
  1. 15代・応神天皇(3470字)
  2. 12代・景行天皇(3239字)
  3.  1代・神武天皇(2696字)
  4. 16代・仁徳天皇(2666字)
  5. 21代・雄略天皇(2323字)
  6. 11代・垂仁天皇(2230字)
  7. 14代・仲哀天皇+神功皇后(1532字)
  8. 10代・崇神天皇(1295字)
  9. 19代・允恭天皇(1221字)
  10. 20代・安康天皇(1024字)
のようであった。

これ以外の天皇は1000文字に満たない。宋書に記録されている421年〜478年の間に在位したと思われる天皇は、15代・応神天皇から21代・雄略天皇であるが、倭の五王を安本さんのようにあてはめると、五王のすべてが、古事記の記述量のベストテンにはいる。



磐之媛(いわのひめ。仁徳天皇の皇后)の歌碑があった。犬養孝さんの揮毫による。読み下すと以下。
ありつつも    君をば待たむ
うち靡(なび)く  わが黒髪に
霜の置くまでに

        磐之媛 (2-87)
次の歌もよい。巻2の巻頭の歌。
君が行き     日(け)長くなりぬ
山尋(たず)ね  迎へか行かむ
待ちにか待たむ

        磐之媛 (2-85)



「府立 大阪女子大学 大仙学舎跡」の石碑があった。このあたりは広々としている。夾竹桃が赤い花を咲かせている。

通説では、@讃は16代.仁徳または17代・履中、A珍は18代・反正、B済は19代・允恭、C興は20代・安康、D武は21代・雄略 とする。

だが日本書紀では、17代・履中の在位は6年、18代・反正の在位は5年でしかないし、20代・安康の在位は3年である。1年2倍説をとれば1.5〜3年の在位期間である。これら天皇がはたして宋に使節を派遣したのかどうかは疑問である。


讃は421年〜425年の間に在位したことは確かであるから、讃は履中天皇や反正天皇ではない。また倭王済は443年〜451年の8年間に在位しているので、安康天皇ではない。 すると安本さんのいわれるように、@讃を応神天皇、A珍を仁徳天皇、B済を允恭天皇、C興を安康天皇、D武を雄略天皇と当てはめるしかなくなる。



仁徳陵の3重めの濠の西側角に銅亀山古墳があった。森さんは「巨大古墳の世紀」で、この古墳は「方噴か?」とされているが、現状の姿はどうみても「円墳」である。

森さんは観察眼の鋭い人である。円墳を方墳と間違われるはずはない。先に掲げた「仁徳陵と陪塚」の図では、銅亀山古墳には周濠が描かれているが、今は濠はない。明治以降の仁徳陵の整備によって姿が変わったのであろうか?

とにかく現在の古墳の姿を築造当時と同じ姿であると思うと、大変な間違いを起す。天皇陵と思われる古墳には、時の政府が何度か大きな変更を加えている。

道路(御陵通り)の向いにも古墳がある。狐山古墳。円墳である。

森さんは、倭の五王を古代の天皇に比定することには慎重である。宋(南朝)との交渉があれば、宋から文物がもたらされるはずだが、仁徳を代表とする百舌鳥古墳群や応神を代表とする古市古墳群からは、それらしいものは何ひとつ出土していない(「古墳と古代文化」森浩一)、といわれる。

応神天皇の親は、仲哀天皇と神功皇后であるが、この時期、朝鮮に侵攻している。それまで書紀が記していたのは国内のことだけであったが、神功皇后の段になって初めて新羅のことが出てくる。


左に曲がれば仁徳陵の前方部の拝所がある。拝所だから特にきれいに管理されている。生垣があり、松が等間隔に植えられている。

神功皇后の侵攻に新羅王は降参し、倭に朝貢することを約束した。また新羅王は微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質に差し出して、金・銀・彩色・綾・絹をつけて、神功の軍船に従わせた、と書紀は記している。これは先に掲げた、402年に新羅王の子の未斯欣(みしきん)を倭へ人質として出した(新羅本記)、という記録と一致する。

神功皇后が400年ころの人ならば、その子の応神天皇は420年ころの人である。421年に宋に遣使した倭王讃は応神天皇だといえる。安本さんの五王の比定は筋が通っている。

車道を横断して狐山古墳に行く。小さな円墳である。元は周濠があったようだが、今はない。

天皇陵は、葬った当時は誰もが、どの天皇の陵であるとわかっていたが、時間が経過するにつれて、どの陵が誰の陵であるのかが判らなくなった。

701年に大宝律令が成った。その制度では、天皇陵を祀るために「諸陵司」という役所を置き、「陵戸」を決めて陵の維持・管理にあたらせた。陵戸とは墓守のことである。だいたい5戸がひとつの陵を管理した。

奈良時代初期の陵戸は234戸あったというから、単純に5で割れば約47の陵を把握していたことになる。(「盗掘でわかった天皇陵古墳の謎」安本美典)

狐山古墳の隣にある竜佐山古墳(たつさやま)。帆立貝式の前方後円墳。前方部から見る。

大宝律令を定めた42代・文武天皇のころはどの古墳がどの天皇の陵であるかはわかっていたはずである。 仁徳天皇の在位が430年ころとすれば、270年前のことである。大山古墳は世界で最大の面積をもつ巨大古墳である。この古墳に誰が葬られているのかは270年後であっても、その伝承はあっただろう。

その後まもなく編纂された古事記では「御陵は毛受(もず)の耳原にあり」といい、書紀では「百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬りまつる」と場所だけをいっているのは、大山古墳は仁徳陵であることは誰もが知っていたからだろう。

孫太夫山古墳。帆立貝式の前方後円墳。そばに立つ石碑に、墳丘長56m・後円部径48m・前方部幅30m・全長67m と彫ってある。全長とは周濠を含めたサイズ。

平安時代の927年に延喜式が撰進され、「諸陵寮」に陵墓の一覧表が記載された。大宝律令(701年)より220年のち、仁徳天皇の時代から500年ほどのちのことである。

そこでは、16代・仁徳天皇の陵は、@百舌鳥耳原中陵といい、A和泉国大鳥郡にある、B兆域は東西8町・南北8町で、C陵戸は5烟、と記している。

仁徳陵の拝所へ向かう。歩道の石柵が途切れているところが正面。

平安末期までは、この延喜諸陵式にもとづいて、毎年2月10日には役人を使わして、各御陵を巡見させる。陵墓の兆域の垣や溝などが壊れていれば、守戸に命じて修理をさせる。また12月には荷前(のさき)の奉幣を行なう。(諸国からの貢物(税)の初物を諸陵に捧げること)といったことが行なわれていた。(「盗掘でわかった天皇陵古墳の謎」)

当然にどの陵にどの天皇が葬られているのかはわかっていた。

仁徳陵の正面。この場所でようやく墳丘に生える森を見ることができる。

平安末期からしだいに皇室の権威は低下し、鎌倉・室町・戦国時代には陵墓はあばかれたり、戦の砦に転用されたりする。勝山古墳とか城山古墳の名はそれを表わしている。

天皇と古墳の結びつきがわからなくなった。

一番外の三重めの濠は、ここだけ掘られていない。東を向いて三重めの濠を撮る。

江戸時代前期に日本の歴史についての研究が始まった。水戸光圀は1662年に「本朝通鑑」の編纂に着手し、のちに「大日本史」として結実する。光圀は1692年に栃木県那須で本邦初の古墳(上侍塚と下侍塚)の発掘調査をしている。

1696年、松下見林(けんりん)は延喜式に記されている天皇と古墳を結びつけ「前王廟陵記」を表わした。これは陵墓の場所を比定したものである。

1697年、幕府は大阪・京都・奈良の奉行に、諸天皇陵の調査を命じ、はじめて諸陵に垣根を巡らす工事をしている。その後1732年(享保)には2回目の大規模な周垣工事を行なっている。この当時は105の天皇陵が調査されている。

蒲生君平は関西の古墳の実地調査をし、1808年に「山陵志」を著した。ここでは墳丘の形や石室・玄室などについても調べている。また初めて「前方後円墳」と名づけた。

幕末、尊王攘夷思想が高まると、幕府は朝廷対策として、山陵奉行を設置し、天皇陵の研究と探索に力を入れた。その中心になったのが谷森善臣(たにもりよしおみ)で、1851年に「山陵徴」を、1855年に「山陵説」を、1867年に「山陵考」を著した。これらは天皇陵の治定(じじょう)に決定的な影響を与えた。幕府は1862年に大規模な山陵修復の工事にとりかかった。


近づくことができるのはここまで。前の濠は外濠、二重目の濠。拝所は内堤の上に設けられている。

幕府がやったことは、山陵の修復ではなく、山陵の改修であった。森浩一さんの「古墳と古代文化」から抜書きすると、

『修陵とはいえ、目的が目的だけに、文化財の修復ではなく、できるだけ手を加えたことが世間にわからなければ意味がなかったのである。・・・

しかも工事担当の宇都宮藩の方針が、御陵は時代によって制度が変化しているので、上古のさまを失わないように、ケース・バイ・ケースでのぞもうとしたのに対し、京都側の学者は古代の陵に一定の制度を想定し、周濠を掘り、堤も築くなどしている。・・・ 極端な場合は、野原の中の石塔だけの場所に、周濠を方形に掘って、墳丘を盛っている。天皇陵古墳には幕末の改変が大きく加わっており、その姿を古墳時代のままだと信じることは危険である。』


主面の脇にある仁徳陵の模型。

墳丘は3段築成である。濠の水面から6mの高さに1段目が築かれ、斜面には石を葺く。1段目は幅15mくらいの平坦部があり、ここには円筒埴輪が並べられていた。

2段目は1段目から10mの高さに築かれ、やはり石で葺く。2段目の平坦部分の幅は12〜13mである。そこから3段目が築かれて、頂上部分は平坦である。後円部では直径60〜70mの円形が平坦になっている。

これは森さんが仁徳陵の実測図を見て推定された数字である。陵は宮内庁が管理しているから誰も立ち入れない。



暑い。カキ氷(宇治金時)を食べる。

森さんは、前方後円墳の設計は晋尺によったのではないかといわれる(「古墳の発掘」)。晋尺は1尺=0.24mである。百舌鳥古墳群で大きな古墳は5つあるが、墳丘長の大きい順にサイズをmと晋尺の2つを掲げると、
  1. 大山古墳(仁徳陵)      486m-2025尺 
  2. 上石津ミサンザイ(履中陵) 360m-1500尺
  3. 土師ニサンザイ (参考地)  290m-1208尺
  4. 田出井山古墳(反正陵)   148m-616尺
  5. いたすけ古墳(参考地)    146m-608尺
切りよく、2000、1500、1200、600尺で設計したらしい。

前回のテクテクで、崇神天皇陵は右図のようなプランで造られていることを知った。
  1. 後円部の半径は80m、したがって後円部長は160m。
  2. 前方部の長さを後円部径と同じ80mにする、したがって後円部長と前方部長は2:1になる。
  3. (b)を頂角として正三角形を描く。すると前方部の幅が決まる。
  4. 前方部の両角(eとf)から後円部の最端点(c)を結ぶと前方部の形が決まる。
なるほど、円と正三角形の組み合わせで墳丘の形が決まっていたのかと、ちょっと感激した。だが単純に円と正三角形をくっつけただけでは崇神天皇陵の平面図とはならない。

右図の「正三角形の辺の比」にあるように、正三角形の一辺の長さ(A-B)(B-C)(A-C)を1とすれば、(A-D)の長さは0.866である。(A-D)の長さが80mのときの一辺の長さは92.4m(= 80÷0.866)になる。ところが崇神天皇陵の前方部の幅は102mである。計算上の92.4mに比べて1.1倍の長さになっている。

これは(b)を頂角として正三角形を描いたのではなく、(b)より少し後円部に入り込んだ(b')が正三角形の基準になっている。(b-d)80mの1.1倍の長さになる(b')を頂角としていることになる。


仁徳天皇陵のサイズをmと晋尺で掲げると、
@墳丘全長 480m (2000尺) 486m
A後円部径 240m (1000尺) 249m
B前方部幅 305m (1270尺) 305m

後円部の直径と前方部の長さの比率は1:1である。ここから平面図を描くと、
  1. (a)を中心にして、半径120mの円を描くと(b-c)の長さは240m。
  2. (c)から240m先の(c-X)が前方部の長さになる。
  3. (c)を頂角として正三角形(赤色)を描くと(d-e)の長さは277m(= 240÷0.866)になるので、前方部幅305mにならない。

  4. (c-X)の240mを基準にするのではなく、(C-X)の長さ264m(= 305×0.866)を基準にしなければならない。264mは(c-X)の240mの1.1倍の長さである。

  5. 従って(c)より24mほど後円部に入り込んだ(C)を頂角として正三角形を描けば前方部の(D)(E)の位置が決まる。



大仙公園に行く。 「百舌鳥耳原由来の像」が立っている。右手に鳥を抱き、左手で鹿の角を軽く握るのは仁徳天皇のようである。

日本書紀の仁徳紀にあらまし次のことが書いてある。
仁徳天皇67年10月5日に、天皇は河内の石津原にいき、そこを陵地と定めた。そして18日から陵を築きはじめた。

ところがその日に、作業している役民たちの中に、野原から鹿が走ってきて突然に倒れて死んだ。人々が不審に思い、傷をあらためようとしたとき、百舌鳥が鹿の耳から飛び出して去った。耳の中を見ると、ことごとく食いかじられていた。そこで、この地を百舌鳥耳原という。

地名説話である。たいした話ではないと思うが、堺市にとって鳥といえば百舌鳥らしく、百舌鳥を市の鳥としている。

兜が台座の上に乗っている。台には「衝角付冑型埴輪」と彫られている。「しょうかくつき かぶとがた はにわ」と読む。

「衝角」は船の舳先の構造名である。写真の冑(かぶと)をひっくり返すと昔のボートの舳先に似ている。丸い形ではなく尖頭アーチ型をしている。前が少し突き出ているので、冑をかぶると冑の先端と頭の間に隙間ができ、敵に斬りつけられてもショックは少ない。また尖っているので刀は左右に弾かれる。なかなかよく考えた形の冑である。

「衝角付冑」はよく出土するが、埴輪にしたものは珍しい。写真の冑はブロンズで作られているが、本物の「衝角付冑型埴輪」は、後で訪ねる「いたすけ古墳」から出土している。(実物はたぶん堺市博物館が保存していると思う)

大仙公園の中には、6個の古墳が残っている。@狐山古墳、A竜佐山古墳、B孫太夫山古墳はすでに見た。 右はCグワショウ坊古墳。前方後円墳のようである。周濠があるが浅そうだ。

森浩一さんのことである。「僕は考古学に鍛えられた」から、森さんの少年時代を要約する。

1941年に旧制堺中学に入学した。1年生の日本史の授業のとき、同級生が須恵器の高坏(たかつき)を持ってきた。森少年は頼んでその土器があった場所につれていってもらった。この日から、いつどこの遺跡にいったかをノートに記録しはじめた。この記録はその後も続いた。

D旗塚古墳。前方後円墳。周濠は干上がっている。

森少年は知りえた近くの遺跡を数多く訪れて観察し、考古学の本をよく読んだ。中学2年のときかと思うが、仁徳陵の東南角にある収塚古墳(おさめづか)の隣接地に高射砲陣地を造るために動員された。掘ると相当な量の円筒埴輪が出てきた。

中学3年になると学徒動員で川崎航空機堺工場の鋳物工場で働いた。そのうち夜間勤務になったので、昼間は遺跡探訪に精を出した。3年生のときは26回、4年生のときは20回の探訪をしている。

七観音古墳。小型の円墳。珍しく説明板が立ててあって、「直径25m、高さ3.5m。葺石や埴輪のかけらがみつかっています。」とある。

面白いのは、この古墳の説明はこれだけで、「1950年頃までは、この古墳の西側に七観山(しちかんやま)という直径50mもある大きな円墳がありました。そこからは、よろい、かぶと、金メッキをした帯の金具、刀、馬具などいろいろが発見されました。」と、今は消滅した「七観山古墳」の説明を多くしていることである。

七観山古墳は末永雅雄さんが若い頃調査した古墳で、甲(よろい)が5領出土している、1つの古墳から出た甲の埋納数は、当時これが最大だった。(その後、森さんは黒姫山古墳で24領の甲(よろい)や冑(かぶと)を発掘した)


大仙公園を出る。向うの森は履中天皇陵。回りには住宅が建ち並んでいる。近づいて行っても履中陵が見えるのだろうか。

1945年には5年生になるはずだったが、戦争が激しくなったために、実は4年で卒業させられていた。それでも工場勤務は続いていた。

1945年5月に松根の掘り出しで裸になった「黒姫山古墳」を見た。7月、「黄金塚古墳」を訪れると、陸軍によって塹壕やトンネルが墳丘全面に掘られていた。よく見ると鉄剣の破片と管玉が落ちていた。

そしてすぐに8月15日の終戦を迎えた。


地図では履中陵のぐるりに道があって、一周できるようである。西側の道を行くか手前の東側の道を行くかを迷ったが、とにかく暑いので近い東側の道を行った。これは大間違いの選択だった。家がビッシリ建っていて陵が見えない。

履中陵のサイズは、墳丘長360m・後円部径205m・前方部幅237m。日本で3番目に大きい前方後円墳である。

終戦のすぐ後に、考古学者として高名な末永雅雄さんが、森少年の隣村(狭山市)に住んでおられることを知った。さっそく訪問して採集した遺物をどう処置すればよいのかを相談した。

帰りぎわに奈良県橿原に「橿原考古学研究所」があり、日曜日には何人かが集まっているから来てはどうかといわれた。それからは日曜日には必ず考古学研究所に通うことになる。

くどくどと森少年のことを書いたが、ここから古墳発掘による3つの大発見が始まるのである。

かろうじて空き地があったので、履中陵の写真を撮ったが、周濠は見えなかった。正面は後円部、左が前方部。

終戦の年の11月についに森少年は末永さんと黄金塚古墳の発掘を開始した。初めは塹壕の遺物の露出部分だけを調査した。ここで短甲(鎧)・鉄剣・打製石鏃(せきぞく・やじり)、盾に塗ってあった漆・盾についていた巴型銅器を取り上げた。

巴型銅器はそれまでにも出土していたが、その用途は不明であった。だがこの発掘によって盾についていたことが判明した。1つ目の発見である。森さんが17歳のことである。

いたすけ古墳に向かっている。写真左の森がそうだが、JR阪和線が走っているので、遠くにある踏み切りまで歩かねばならない。

橿原考古学研究所に通っているうち、奈良市法華寺町の進駐軍キャンプ地にあるウワナベ古墳の陪塚を潰すという話が伝わってきた。森少年は緊急調査のために12月に現地を訪れた。3人の研究者がいた。

黒人の兵士がブルドーザーでひと削りしたとたんに、多数の鉄板が露出した。これは鉄廷(てってい。正しい字は廷に金偏がつく)であった。大型のものが282枚、小型のものが590枚。今でも日本最大の埋納数である。どの古代の歴史書を読んでも、この「大和6号墳」の鉄廷のことは必ず出てくる。2つ目の大発見である。

いたすけ古墳。サイズは、墳丘長146m・後円部径90m・前方部幅99m。周濠をもつ前方後円墳。

戦後、次々に古墳が破壊されていった。初めは家屋の壁土とするため、あるいは埋め立てのための土取りによるものである。次に復興が進むにつれ、古墳は住宅地に変えられていった。墳丘を崩し、周濠を埋めて平坦な住宅地にして販売されるようになった。

「いたすけ古墳」も同じ運命をたどろうとしていた。1955年に濠に架橋の工事が始まった。橋ができれば、墳丘の木が伐採され、墳丘から土取りが始まる。いよいよ墳丘を崩そうかというときに、民間から保存すべしの声が上がった。

なにしろ反正天皇陵と同じ大きさの古墳である。しかも周濠に守られていたため、後円部には盗掘されたような跡はない。1500年間も残ってきたものを、住宅地販売という現世の利益のために簡単に破壊してよいものか。

森さんは立ち上がった。百舌鳥古墳群の破壊のデータを配り、保存のための署名運動を始めた。これを契機として関西一円に古墳や遺跡を守る運動が盛り上がった。結果、300万円で売却されたこの古墳を堺市が400万円で買いあげ、1956に国の史跡として登録された。森さんが27歳ころのことである。(「古墳の発掘」)

御廟山古墳に向かう。

森少年の3番目の大発見は、黒姫山古墳である。

1945年5月に黒姫山古墳を訪ねたら黒姫山の立木が切り倒されて裸になっていた。近くの農家に訊ねたら、飛行機の燃料にするために松根(しょうこん)を掘り出したという。そのときに「石の部屋があって、中にバケツを並べたようなものがあった」という。その破片を見せてもらうと、それは鉄の冑(かぶと)と剣だった。

1946年に同志社大学(予科)に入学し、各地の発掘に参加した。1947年1月、周濠の水が抜かれたので、黒姫山古墳の墳丘に初めて入ることができた。そこには大きな穴があき、甲(よろい)や刀の破片や埴輪が散乱していた。早く発掘しなければならない。

その年の12月に黒姫山の発掘を開始した。形式上は大阪府教育委員会の事業だったが、発掘参加者は大学生の森さんと数人の高校生のボランティアだった。石室には24領の短甲と24個の冑が並んでいた。

1つの古墳から出た短甲の数24領は日本で最多である。森さんが19歳のときである。

御廟山古墳は、いたすけ古墳から2〜300mしか離れていないからすぐに着けると思っていたが、道に迷ったようだ。炎天下を歩けど歩けど見つからない。途中で人に道を訊ねたとき、御廟山古墳ではなく、土師ニサンザイ古墳への道を教えられたらしい。

もうこれ以上の探訪は無理だ。自転車に乗った若い娘さんに最寄の駅を尋ねると、JR阪和線の上野芝駅を教えてくれた。ヘトヘトになって帰宅した。今日の万歩計は19500歩だった。思いのほか歩いていない。道中でペットボトルのお茶を3本呑み、カキ氷1杯を食べた。




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