桜井市巻向

    No.92.....2013年7月21日(日曜)


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纒向遺跡(まきむく)はJR巻向駅を中心にして東西2km、南北1.5kmの広い範囲をもつ、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である。この域内に、巨大な箸墓古墳をはじめとして6個の大型古墳がある。

箸墓は古墳時代が始まった時期に造られたとされているが、その全長は275mもある。この巨大古墳がいきなり出現したとは考えられないので、箸墓に先行する古墳があったのではないかと学者は考える。

箸墓に似ていて、箸墓よりも小さい古墳がないかと調べると、箸墓の周辺に5つの古墳がある。@ホケノ山古墳、A石塚古墳、B勝山古墳、C矢塚古墳、D東田大塚古墳 である。箸墓を含めて「箸中古墳群」または纒向古墳群とよばれている。 今日はこれら古墳を見て回った。地図の番号は訪れた順。
  1. 箸墓古墳(はしはか)
  2. ホケノ山古墳
  3. 茅原大墓(ちはらおおはか)古墳
  4. 檜原神社(ひばら)
  5. 伝纒向日代宮跡(まきむくひしろのみや)
  6. 珠城山古墳(たまきやま)
  7. 渋谷向山古墳(景行天皇陵)
  8. 石塚古墳
  9. 勝山古墳
  10. 矢塚古墳
  11. 東田大塚古墳(ひがいだおおつか)
なお地図に(A)を打っているのは、行燈山古墳(崇神天皇陵)。この古墳は重要な古墳である。

Bの茅原大墓古墳→C檜原神社→D伝纒向日代宮跡 までの道中は、山の辺の道であり、そこには多くの万葉歌碑が立てられている。

歌碑を見つけるたびに、歌を声に出して読み上げ、忘れかけていた柿本人麻呂らの歌を思い出した。今日の目的外のことだったが、久しく疎遠になり、忘れかけていた万葉集を思い出すことができたので、この道中は懐かしかった。

(a)〜(g)が見つけた万葉歌碑。

8:30に近鉄桜井駅に着いた。 当初は、近鉄桜井駅の隣にあるJR桜井駅から、桜井線に乗って桜井→三輪→巻向へと行くつもりだったが、桜井線は便数が少ない。1時間に2本といったところである。この時刻には次の奈良行きは9時を回らないとなかった。

バスはどうか? 天理行きのバスの時刻表を見ると、これもだいぶ待たねばならない。 桜井駅から箸墓までは約3kmの距離がある。歩いてもいけるが、今は夏である。熱中症で倒れる人が相次いでいる。すでに太陽は地面を熱しつつある。タクシーに乗った。

国道169線を北上すると、ほどなく箸墓が見えた。箸中古墳群の盟主である。ご覧のように田圃の中にある。


箸墓の前方部。宮内庁が管理している。

神武天皇から始まる天皇は、平成天皇の125代まで連綿と続いてきたが、初期の天皇の年代はわかっていない。

古事記・日本書紀からわかるのは、30代・敏達天皇が即位した572年からである。海外の文献からは、「宋書」に倭王武が478年に使いしたとあり、倭王「武」を21代・雄略天皇とすれば、不明なのは1代・神武天皇〜20代・安康天皇の20代である。

安本美典(びてん)さんは、数理文献学者で統計が得意である。統計的な処理を行い、初期の天皇の在位年数は約10年であると結論されている。(「神武東遷」.1968年)。


箸墓の前方部から後円部を見る。道は箸墓の輪郭に沿って曲がっている。

無論すべての天皇の在位年数が10年ちょうどということはない、短いものもあれば長いものもある。そこで、古事記・日本書紀が表わす事績の量から、事績が多いものは10年より長くし、少ないものは10年より短くして、だいたいの歴代天皇の推定年代を決められている。

最近の著書「巨大古墳の被葬者は誰か」(1998年)によると、10代・崇神天皇は342年〜356年、11代・垂仁天皇は357年〜370年、12代・景行天皇は371年〜385年とされているようである。(1代・神武天皇は278年〜298年くらい)

前方部と後円部の継ぎ目のあたり。古墳の最も低い部分。箸墓は近くの初瀬川の河原石で葺かれていたというが、葺き石らしいものは見当たらない。

推定とはいえ、これは統計にもとづくものである。それまでの学者は1代を20年くらいに考えていたので、神武天皇の在世は、21代・雄略天皇の478年から20代×20年を引いて、78年頃になる。邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢したのは239年だから、神武天皇はそれよりも古い弥生時代中期の人間となる。

だがそうではなく神武天皇が280年〜290年の人物であるとすれば、まさに弥生時代から古墳時代にはいった時期の天皇であることになる。 逆にいえば、神武天皇がヤマトに入ってきてから、時代が変わったといえる。

後円部は一部削られていて、民家が2軒建っている。一軒は和菓子屋で「みたらしだんご」の暖簾が下がっている。

古墳が崩れていくのはしかたがない。箸墓は宮内庁の管轄になっているが、これは明治以降のことである。それまでは、一応は墓として尊重はされていたようだが、江戸初期にこの地を支配した織田有楽斎は、後円部に茶室を建てていたというし、土地の農民は後円部と前方部の継ぎ目の低い部分を道にしていたという。

また歩いている道はかつては周濠で水が満ちていたはずだが、いつの間にか埋められて人家が立ち並ぶようになった。

後円部を半周した。手前の畑は元は周濠であったろう。後円部の裾は石垣になっている。積み方がきれいなので、補修をしたようだが、築造当初にも石垣は築かれていたはずだ。そうでないと周濠の水が古墳を浸食し崩していく。

そう思っていたのは、これまで見た天皇陵(例えば奈良市の佐紀古墳群のウワナベ古墳・コナベ古墳・磐之媛陵・日歯酢媛陵・成務天皇陵など)の墳丘の裾には石垣が積んであったからである。

だが考古学者の森浩一さんは「古墳と古代文化」(1976)で『奈良と大阪での濠に水をたたえているほとんどの天皇陵古墳が、墳丘の裾を石垣で固めるというすさまじい改変が行なわれ(た)』と書かれている。元は石垣がなかったらしい。

古墳は近づけば近づくほど、その形はよくわからない。右は「ヤフー地図」の航空写真。

箸墓のサイズは、墳丘長275m・後円部の径150m・前方部の長さ124m・前方部の幅128mである(ほかの数字もある)。

長さでいえば、後円部が全長の55%・前方部が45%で、後円部のほうが長い。幅でいえば後円部(150m)に対し前方部(128m)なので、前方部の幅は後円部の径の85%である。

前方後円墳は、死者を葬る円墳に、祭祀をとり行う台形をくっつけたものである。安本美典(やすもと・びてん)さんの著書「巨大古墳の被葬者は誰か」によると、行燈山古墳(あんどんやま。崇神天皇陵)の平面は右図のようになっているそうだ。崇神天皇陵の全長は242mだが、わかりやすく全長が99mだとすると、次のような順で古墳の形状を決めたらしい。
  1. 円の中心点を決めて、半径33mの円を描く。当然に(a-b)の長さは33mで、(a-c)の長さも33mだから、(b-c)の長さは66mになる。

  2. (b)から33m(円の半径分)離れた(d)を通るように水平線を描く。

  3. (b)を頂点とする正三角形を描き、(e)点と(f)点を決める。

  4. (c)と(e)、(c)と(f)を結んで円墳と交差する(e')と(f')の位置を決める。
こうすれば、後円部と前方部の長さが(2:1)となる前方後円墳の平面図ができあがる。古代人はこの(2:1)の比率を美しい・均整がとれている・収まりがよい、と考えたのであろう。だが疑問が出てくる。 (b-d)の長さを33mにするのは簡単であるが、(b-e-f)を正三角形とするためにはどういう計算をしたのであろうか。与えられた数字は(b-d)の長さが33mということだけである。ここから(f)(d)の点をどのようにして決定したのか? 

現在の知識を持ってすれば、(b-e-f)は正三角形だから、3隅の角度は60度である。この場合(b-e-d)は直角三角形で、(b-e)の長さ:((b-d)の長さ:(e-d)の長さは、2:√3:1 である。(b-d)の長さを33mにするには、(d-e)の長さは、33÷√3=19.05m とせねばならない。(d)から左右に19.05mを加えると(e)(f)点が決まる。 前方後円墳を作った古代人はピタゴラスの定理を知っていたのか?

あるいは次のような測量をしたのかも知れない。
  1. 右のような、長さが等しい3枚の板(A,B,C)を繋げば正三角形ができる。

  2. (b)に目印の棒を立てて、(b)から33m離れた(d)の位置にも目印の棒を立てる。

  3. 一人が、(A)の板が(b)の目印の棒を向き、(B)の板が(d)の目印の棒を向くような位置を見つけると、それが(e)点となる。

  4. (d-e)と同じ長さを(d)の反対側にとると(f)点が決まる。
この場合にはピタゴラスの定理を知らなくても大きな正三角形を描くことができる。おそらくこの方法を使ったのではなかろうか。




箸中古墳群のひとつのホケノ山古墳に向かう。この古墳は過去2度訪れている。正面は三輪山。

歩いているあたりの海抜は80mほどである。箸墓の前方部のあたりが75m。三輪山に向かって少しずつ高くなっていくのだが、ほぼ平地に近いので歩くのは苦にならない。ここは箸中。古代人が各地から集まった纒向遺跡のド真ん中である。


国津神社。由緒書きによると、『天照大神の御子神五柱を祭神としております。』とある。5柱の名は掲げていない。

ところが『ちなみに纒向川下流の芝の国津神社(九日神社)には、スサノオ命の剣を物実(ものざね)として生まれた奥津島比売(おきつしまひめ)、市杵島比売(いちきしまひめ)、多岐津比売(たきつひめ)の三女神を祭祀しています。』とある。

天照大神の子は天の忍穂耳命(おしほみみのみこと)をはじめとする5人の男子であるが、他の4神は3女神ほどには知られていない。神社もそのことをわかっているので、5男神の名を省略したようだ。





なお@天照大神→A天忍穂耳命→B邇邇芸命(ににぎのみこと)→C火遠理命(ほをりのみこと・山幸彦)→D鵜葺草葺不命(うがやふきあえずのみこと)→E神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと・神武天皇)と血統は続く。神武天皇の5代前が天照大神である。

国津神社の裏手にホケノ山古墳がある。道の右側に人の頭くらいの石が敷き詰めてあるが、これは前方部。後円部は道の左側にある。つまり道はホケノ山古墳を分断している。


手前左側の葺き石は前方部のもの、中央の草が茂った高いところが後円部。

桜井市教育委員会の説明板には、『(纒向型前方後円墳と呼ばれる6つの古墳があるが)これらの古墳はその築造時期がいずれも3世紀に遡るものと考えられており・・・日本最古の古墳群と言えるでしょう。』とある。

3世紀とは、201年〜300年の間である。そういう時期に古墳時代が始まったとしているわけだ。だがどうして3世紀と推測できるのか?

安本美典さんは「邪馬台国=畿内説・箸墓=卑弥呼の墓説 の虚妄を衝く!」(2009年)で、箸墓は4世紀半ばに築造されたものでる。3世紀と推測するのはおかしい。したがって卑弥呼の墓ではないと論じておられる。


後円部。手前に石垣があり、その上にも石垣があるようである。後円部は3段になっているようだ。

頭をひねりながら眺めていたら、国津神社で挨拶を交わした夫婦が道を歩いてきた。主人が奥さんに向かって「あのてっぺんの畑は、俺の同級生が持ってるんや。市が買い上げるというても、売りよらん。」といっている。

なるほど、そういうことだったのか。手前の前方部は市が買い上げて葺き石を復元したのだろう。後円部は同級生が手放さないので、草ぼうぼうになっているのだ。後円部の右手に葉が茂った低木が並んでいるのは、なにかの果樹畑であるようだ。



少し先へ歩くと、後円部の形がわかった。草に埋もれているが、草の高さが3段になっている。やはり3段に築かれていたらしい。(後方の森は箸墓)

ホケノ山古墳は発掘調査によって、墳丘長90m・後円部の径60m・前方部の幅40mの前方後円墳であることがわかった。ではいつ築造されたのか? 発掘したときに出土した遺物がその手がかりになる。

例えば土器や埴輪である。その特徴によって編年はだいたい定まっている。A古墳で庄内式土器が出土し、B古墳から布留式土器が出土し、C古墳から須恵器が出土したとき、A古墳が最も古く、C古墳が最も新しいことがわかる。だがそれは相対的な年代であって、絶対的な年代ではない。

絶対年代を推測する手法として、「炭素14年代測定法」と「年輪年代測定法」がある。


前方部に埋葬施設が復元されている。木枠は木棺、広口の壷が2つ。これはホケノ山古墳が築造されたあとで、葺石を剥ぎ取って作られていると説明板にあった。だからホケノ山古墳の築造時期の手がかりにはならない。

炭素年代法は科学的で客観的な数字がでると思っていたが、そうでもないらしい。安本美典さんの「邪馬台国・・・の虚妄を衝く!」によると、同じホケノ山から出土した各種の木片について炭素年代法で時期を測定すると、次のようになったそうである。
  1. 最外年輪を含む12年輪の小枝(2本)の場合は、325年と335年。

  2. 添え柱材の場合は、BC130年。

  3. 木棺北側の炭化した部分(5個)の場合は、137年・30年・117年・82年・145年。
ホケノ山古墳はどこかの時期に一気に造られたはずなのに、古いものはBC130年、新しいものは335年と答えがでている。その違いは465年もある。このうち、より正しい数字は@の年輪12年の小枝である。


ヤフー地図の航空写真を見たら、ちょうどホケノ山古墳を発掘中に写真を撮ったらしく、後円部の草はきれいに刈られ発掘中の穴にビニールシートがかぶせてある。前方部は南東方向に伸びている。

炭素14年代測定法は、動植物に含まれている炭素14(炭素12の同位体)の半減期を利用している。動植物が生きているときは、体内にある炭素14の量は大気中にあるものと同じであるが、死ぬと大気を摂取しなくなるので、炭素14は減り始めていく。

5730年でその量は半分になる。 よって出土した骨とか木片とかに、どれほどの炭素14が残っているかを調べると、その動植物がいつごろ死んだのかがわかる。(昔の大気中の炭素14と現在の大気中の炭素14の量は異なっているので、これを補正する必要がある。これは後述する。)



わかるのは、動植物が「死んだ時期」であることが重要な点である。例えば大きな柱の場合、木を切ったときが死んだ時期であるが、それをすぐに利用するとは限らない。倒木や流木を使ったのかも知れないし、どこか別のところで使っていたものを再利用した可能性もある。木を切った時期をもって古墳を築造した時期とすることはできない。 その点年輪12年の小枝は、切倒して何十年もおいておくことはないし、再利用されることも少ないだろう。小枝の死の時期=古墳築造の時期である。


箸中古墳群には含まれないが、近くに茅原大墓(ちはらおおはか)古墳があるので訪ねてみる。 田圃の向うに段々のついた丘が見える。それだろう。

ホケノ山古墳は小枝を試料とした炭素年代測定法によって、325年と335年が推定できるといったが、正しくは(325年±75年)と(335年±85年)である。築造の推定時期は(西暦250年〜400年)ないし(250年〜420年)となる。

だから炭素14年代測定法によると、ホケノ山古墳は3世紀の古墳であるといっても間違いではない。(ただし3世紀は250年〜300年の50年間、4世紀は300年〜400年の100年間なので、3世紀であるとする確率は4世紀であるとする確率の半分である)


茅原大墓古墳は4世紀末に築造されたと推定されている。後円部は3段築成。

古墳のサイズは墳丘長66m・後円部径56m・前方部幅29m。

私はこれまで古墳についての本は、白石太一郎さんの「古墳とヤマト政権」(1999年)の1冊しか持っていなかった。

この中に古墳がいつごろ築造されたかの推定図がある。図から読み取ると@箸墓は250年ころ、A桜井茶臼山古墳は290年ころ、Bメスリ山古墳は300年ころ、C行燈山(崇神天皇陵)は320年ころ、D渋谷向山(景行天皇陵)は330年ころ、となっている。


白石さんの築造年代の決め手は、@古墳の形状、A埋葬のしかた(棺・竪穴式・横穴式)、B副葬品(銅鏡・武具・剣・土器)、C埴輪、D土器 などであるらしい。

前方後円墳は、3世紀中葉から600年まで約300〜350年間続いたとされている。古墳の形状についていえば、 年代が下がるにつれて
  1. 前方部幅は広くなり、
  2. 前方部長が長くなる。
  3. 前方部と後円部の継ぎ目部分に造出し(つくりだし)と呼ばれる祭祀の場所が設けられていく。
という傾向がある。

そこで統計に明るい安本美典さんは次のことを調べられたのである。
  1. 前方部幅÷墳丘全長×100
  2. 前方部幅÷後円部径×100
例えば崇神天皇陵の墳丘長は242m、後円部の径は160m、前方部の幅は102m であるから,(a)の計算値は42(=102÷242×100)となり、(b)の計算値は64(=102÷160×100)となる。

(a)の数字を縦軸とし、(b)の値を横軸にして、2次元平面に打点していくと次のような図(「前方後円墳の築造時期の推定図」)ができあがる。シロートの私も(a)(b)を計算して打点してみた。(「巨大古墳の主がわかった」(1991年)や「巨大古墳の被葬者は誰か」(1998年)に掲げられている図は、もっと精緻なものである)


Iは崇神天皇陵(行燈山)
Jは垂仁天皇陵(宝莱山)
J(赤色)は日葉酸媛陵(佐紀陵山)
Kは景行天皇陵(渋谷向山)
Lは成務天皇陵(佐紀石塚山)
Mは仲哀天皇陵(岡ミサンザイ)
M(赤色)は神功皇后陵(五社神)
Nは応神天皇陵(誉田御廟山)
Oは仁徳天皇陵(大仙陵)
Pは履中天皇陵(上石津ミサンザイ)
23は飯豊天皇陵(北花内大塚)
26(緑色)は継体天皇陵(太田茶臼山)
26は継体天皇?(今城塚)
29は欽明天皇陵(平田梅山) 数字は天皇の代数である。古い天皇陵ほど左下にあり、新しい天皇陵ほど右上に来る。

このうちで、M(赤色)の位置はおかしい。M(赤色)は神功皇后陵だが、神功皇后はM仲哀天皇の皇后であり、N応神天皇の親だから、MNの辺りにこねばならない。今の神功皇后陵は治定が間違っている可能性がある。

また26代・継体天皇陵は緑色(26)の太田茶臼山に治定されているが、近くの紺色(26)の今城塚とするほうが素直である。

上図に打点してある緑色の(A)は箸墓、(B)は桜井茶臼山、(C)はメスリ山古墳である。(A)箸墓はI代・崇神天皇陵とJ代・垂仁天皇陵の中間にある。 安本美典さんは、崇神天皇の在位は342年〜356年、垂仁天皇は357年〜370年と推定されているので、箸墓は356年〜370年頃に造られたと推測できる。

図中の小文字のアルファベットは次の古墳である。
  1. 石塚古墳
  2. 勝山古墳
  3. 東田大塚古墳
  4. 矢塚古墳
  5. ホケノ山古墳

安本美典さんはすごい学者だとただただ感心する。例えば初期の天皇の在位時期を次のようにして推定されている。
  1. 在位年数が信じられる30代・敏達天皇〜42代・文武天皇の飛鳥時代の平均在位年数は10.21年。

  2. 奈良時代の43代・元明天皇〜49代・光仁天皇の平均在位年数は10.57年。

  3. 平安時代の50代・桓武天皇〜81代・安徳天皇の平均在位年数は12.63年。

  4. 鎌倉・室町・安土桃山時代の82代・後鳥羽天皇〜106代・正親天皇の平均在位年数は15.11年。

  5. 江戸〜大正時代の107代・後陽成天皇〜123代・大正天皇の平均在位年数は20.00年。

檜原神社に向かっている。穴師の山が見えた。

時代が古くなるほど在位年数は短い。飛鳥時代の平均在位年数は10.21年だから、それより古い古墳時代の平均在位年数はさらに短いはずだ。

仮に平均在位年数を10年とすると、30代・敏達天皇が即位したのは572年だから、9代前の21代・雄略天皇の時代は482年(=572年-9×10年)ころと推定できる。

そして「宋書」によれば倭王「武」が478年に宋に朝貢している。倭王武は雄略天皇ではないかとするのが多くの学者の意見である。平均在位期間を10年とし、雄略天皇が480年ころの人物であると推測しても矛盾はでない。

井寺池(いでら)。溜め池である。ここからの眺望はよい。この周りには万葉歌碑がいくつか立てられている。

在位年数のデータは誰でも入手できるものである。私が持っている笠原英彦著「歴代天皇総覧」でも知ることができる。しかしこれまでの学者は、以上のような推定ができなかった。

時代別に平均在位年数の統計をとったのがミソである。これによって古い時代ほど平均在位年数が短くなることがわかり→在位年数が不明な時期の平均在位年数を推測し→その推測値を使って各天皇の在位年代を推定し→矛盾が出ないかをチェックする。見事な手法である。
井寺池の土手に川端康成が揮毫した歌碑がある。
大和は    国のまほろば
たたなづく  青垣(あおかき)
山ごもれる  大和し
美(うるは)し

      倭建命 (古事記-31)

次は天智天皇の大和三山の歌。万葉仮名で書いてある。揮毫者は日本画家の東山魁夷。
香具山は  畝火(うねび)ををしと
耳梨(みみなし)と  相あらそひき
神代より  かくにあるらし
古昔(いにしへ)も  然(しか)にあれこそ
うつせみも  嬬(つま)を  あらそうふらしき>

            (1-13)

もうひとつ。吉田富三の書による柿本人麻呂の歌。吉田富三は癌研究の第一人者にして、国語審議委員会委員も務めた。文化勲章受賞者。
いにしへに  ありけむ人も  わが如か
みわ(三輪)の檜原に  かざし折りけむ
            (7-1113)

檜原神社前の茶店についた。メニューは、ソーメン・カキ氷・葛きり・わらび餅・アイスコーヒーなど。

この半年間に安本美典さんの本を十数冊読んだが、どれも感心した。感心するのはデータの処理と結論を出す手法の鮮やかさである。最近読んだ本はすべて歴史ものだが、20年以上前に安本さんの本を買った記憶がある。本のタイトルは忘れたが、各種のデータをどのように表示すればよいのかについての本だった。

例えば企業の業績を一目でわからせるには、「顔形グラフ」を使えばよいとあった。企業業績を顔の要素(目・眉・鼻・口・耳など)に置き換えると、企業によって顔の表情が違う。ここからどの企業の業績がよくて、どの企業の業績が悪いかを感覚的に判断できる。

例えば@顔の大きさ=利益の大きさ、A目の大きさ=自己資本利益率、B目の吊り上がりの角度=利益の伸び率、C口の幅=売上げ高、D口の角度=売上げ高伸び率、のように業績の数字を顔の要素にリンクさせるのである。

単純にデータの数字を見るのではなく、データを何らかの方針によって、標準化したり、分類したり、統合したりの加工をすると、データが何を表わしているのか、データはどういう構造をしているのかがわかる。

安本美典さんはデータの扱い方が、一般の歴史学者よりも格段にうまい。古墳のサイズのデータはいくつかある。墳丘全長・前方部の長さ・前方部の幅・前方部の高さ・前方部のくびれ幅・後円部の径・後円部の高さ、などである。

ここから安本さんは、@前方部幅÷墳丘全長 とA前方部幅÷後円部径 の2つの加工したデータだけから、前方後円墳の時期が推定できることを明らかにされた。統計に明るいと物事がよく見える。

茶店では、万葉歌碑の拓本を販売している。 右の額は、
三輪山を  志かも隠すか
雲だにも  こころあらなむ
隠さふべしや

 額田王(1-18) 中河與一書

檜原神社。大神神社の摂社である。 由緒書きは次のとおり。

『檜原神社は天照大神を、末社の豊鍬入媛宮は崇神天皇の皇女、豊鍬入媛(とよすきいりひめ)をお祀りしております。

第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大神は宮中にて「同床共殿」でお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入媛(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら)」に「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立ててお祀りされました。

その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。』

檜原神社には本殿はない。三ツ鳥居があるだけである。左の祠は豊鍬入媛宮。なにもないのが逆によい。

 巻向の  檜原に立てる
 春霞   おぼにし思はば
 なづみ来(こ)めやも

      人麻呂(7-1813) 

 巻向の  檜原もいまだ
 雲居ねば 小松が末(うれ)ゆ
 沫雪(あはゆき)流る

      人麻呂(10-2314)

檜原神社を出て、山辺の道を。左に穴師の夏至山。中央遠くに弓月が岳が見える。

 玉かぎる  夕さり来れば
 猟人(さつひと)の  弓月が嶽に
 霞たなびく

         人麻呂(7-1813)

万葉集はひところは愛読書だったが、この2年はあまり手にしていない。久しぶりに人麻呂の歌を復習した。


高市皇子(たけちのみこ)が十市の皇女の死を悼んでで詠った歌。揮毫者は写真家の入江泰吉。

 神山(かむやま)の  
 山辺真蘇木綿(やまべまそゆふ)
 みじか木綿  
 かくのみ故に
 長きと思ひき

         高市皇子(2-157)

箸中車谷(くるまだに)の集落。集落にそって巻向川が流れている。巻向川に沿った道にも多くの万葉歌碑が立てられている。

人麻呂の歌。揮毫者はフランス文学者の市原豊太。国語審議委員を務めた。(歴史的仮名遣いを重視する)

 巻向の     山邊響(とよ)みて
 行く水の    みなあわの如し
 世のひと吾は

         柿本人麻呂(7-1269)

次も人麻呂の歌。揮毫者は版画家の棟方志功。檜原神社の茶店に拓本の額があった。

 痛足河(あなしがわ) 河波立ちぬ
 巻目(まきもく)の    由槻(ゆづき)が嶽に
 雲居立てるらし

            柿本人麻呂(7-1087)

歌碑には「柿本人麿」の文字と、弓月が岳らしい山が彫り込まれている。 巻向川に沿った道なので、巻向川の歌が多い。穴師川は巻向川のこと。

次も人麻呂の歌。揮毫者は武者小路実篤。

 ぬばたまの   夜さり来れば
 巻向の      川音(かはと)高しも
 あらし(嵐)かも疾(と)き

         柿本人麻呂(7-1101)


小林秀雄の手による「山邊道」の道標がある。

「もうひとつの万葉集」(李寧熙・いよんひ)が出版されたのは1989年である。万葉集(万葉仮名)を朝鮮語で読み、解釈した本である。

著者は、あとがきで@万葉集の全部は韓国語で解読できる。Aそうであれば、8世紀ころには日本全国で韓国語が使われていたのではないか。といっておられる。

同じころ、朝鮮語で万葉集を読む本(「人麻呂の暗号」藤村由加)も発刊されていて、朝鮮語で万葉集を解釈することが一種のブームになってた。(私も「もうひとつの・・・」は所有している)

穴師にある12代・景行天皇の纒向日代宮(まきむくのひしろ)があったとされるところ。

安本さんは、「日本語の起源を探る」(1985)で、上古日本語と他の言語はどの程度の関連があったのかの統計をとり、違いを数値化し、確率論を用いて「関連があるといえる・いえない」の検証をされている。

2つの言語を比較して、その近さの度合いを数字化し、それが偶然に起きているものか、そうでないのかの検定はすでにできていたのである。

ところが「もうひとつの万葉集」や「人麻呂の暗号」は、万葉仮名を朝鮮語の発音で読み、この発音に近い朝鮮語を当てて万葉集を読み解いたとしたので、 上古日本語と中期朝鮮語の関係を統計的に結論づけておられた安本さんは、「こじつけ・ごろあわせ」でしかないとし、すぐさま「朝鮮語で万葉集は解読できない」(1990)を上梓された。

伝纒向日代宮跡から西に向いて坂道を下る。右手に景行天皇陵が見える。道の正面に小さな山があるが、これが珠城山古墳(たまきやま)だろう。

2つの言語が、@どのくらいの関連があるのか、Aその関連は偶然でないと判断できるのか、を調べられた手順は次のようである。

【1】「基礎語彙」を200個決める。

基礎語彙とは例えば、
@人体に関する「目・鼻・口・歯・毛・頭・首・手・足・膝」、A天体に関する「太陽・月・星・空・地」、B気象に関する「雨・雪・霧・雲・風」、C家族に関する「私・男・女・父・妻・子供」、D生き物に関する「鳥・犬・魚・蛇・動物」、 E植物に関する「木・花・葉」、F地形に関する「山・川・湖・道」、G色に関する「赤・黒・緑・黄」、 G数詞の「一・ニ・三・四・五」、H方角に関する「右・左・近い・遠い」、H疑問詞の「何・誰」などである。

これらは人が生きていくうえで必須の単語であるから、最も古くからあり、時代を経てもなかなか変化しない単語である。 万葉集などから以上の200語彙を集め、現代の言葉と比較すると、200語中159語が一致する。79.5%が残っている。万葉数の時代は今から1250年ほど前だから、1000年あたりの残存率は83%(0.83)である。基礎語彙はこのように変化しにくい。

珠城山古墳(たまきやま)。3つの前方後円墳がくっついている。1号墳の全長は50m・後円部の径は24m、横穴式。2号墳の全長は90m・後円部の径は45m。3号墳の全長は240m・後円部の径は24m。小型である。横穴式であるから古墳としては新しい。説明板には古墳時代後期とある。

【2】比較したい言語について、それぞれ200個の基礎語彙を収集し、発音記号で表記する。

安本さんは「日本語の起源を探る」(1990年)で、上古日本語(奈良時代)のほかに、現代東京方言・首里方言・現代朝鮮語・中期朝鮮語・アイヌ語・インドネシア語・カンボジア語・タイ語・モンゴル語・英語・ドイツ語などの58言語の語彙を収集されている。

珠城山古墳は期待はずれだったが、古墳からの眺望はよかった。中央に箸墓が見える。

【3】同じ意味の語彙で発音が一致した個数を調べる。

すべての発音が完全に一致することはないので、言葉の先頭の音が同じであれば「一致」したとする。先頭の音は最も変化しにくいからである。

ただ変化しやすい発音がある。例えば(f・h・p)は互いに変化しやすい。 例えば「星」は上古日本語は「hosi・ほし」で、中期朝鮮語は「pyar・ぴゃる」だが、先頭の音がhとpなので一致しているとする。


12代・景行天皇陵。

また(t・ts・s・z・dz)もこの範囲内で変わりやすい。例えば「手」は上古日本語は「te・て」で、中期朝鮮語は「son・そん」だが、先頭の音がtとsなので一致しているとする。

なお中期朝鮮語とはハングル文字ができた1443年ころの朝鮮語である。ハングルは「ひらかな」「カタカナ」と同じく表音文字だから読みが明らかである。(それ以前の朝鮮語は読みが不明だそうだ。)

安本さんが調査された結果、右のような一致数になった(右図は主なものを抜粋した)。現代東京方言は、200個の単語のうち155件が一致している。一致率は77.5%。首里方言は61%の一致率。この2つは上古日本語と密接な関連があることは間違いがない。

では中期朝鮮語の一致数39(一致率19.5%)は上古日本語と関連があるといえるのかどうか? 奈良時代には、絶対に接触がなかったであろう英語でさえ32語が一致しているのである。またカンボジア語は中期朝鮮語よりも一致数は多いから、上古日本語はカンボジア語に近いのではないか? 

これらは統計によってそれを明らかにすることができる。

2代・景行天皇陵の前方部正面。

「日本語の起源を探る」の巻末に、上古日本語と中期朝鮮語の200個の語彙の発音がまとめられてある。

語頭の発音を分類すると、上古日本語は、@aが21個、Ah(f.p.v)が28個、Biが13個、Ckが42個、Dmが21個、Enが17個、Foが8個、Gt(c.ts.dz.z)が36個、Huが7個、Iwが8個、Jyが6個である。

中期朝鮮語は、@aが14個、Ah(f.p.v)が38個、Biが5個、Ckが30個、Dmが21個、Enが25個、Foが4個、Gt(c.ts.dz.z)が53個、Huが2個、Iwが0個、Jyが2個である。(6個は未掲載。全部で194個)

景行天皇陵のヤフー地図の航空写真。安本さんの推定では在位期間は371年〜385年くらいである。次図の10代・崇神天皇(推定在位342年〜356年)の陵と見比べると、前方部が長い。つまり景行天皇陵は崇神天皇陵より新しいことがわかる。

Aの箱にaと書いた玉が21個、hと書いた玉が28個、iと書いた玉が13個・・・・入っているものとする。またBの箱に、aと書いた玉が14個、hと書いた玉が38個、iと書いた玉が5個・・・・入っているものとする。

ABの箱から1つずつ玉を取り出したとき、どちらもaの玉である確率は、(21/200)×(14/194)=294/38800=0.0076である。 どちらもhの玉である確率は、(28/200)×(38/194)=1064/38800=0.0274である。どちらもiの玉である確率は、(13/200)×(5/194)=65/38800=0.0017である。

このようにして11種類の玉が一致する確率を計算し、合計すると、2つの玉が一致する確率は0.1422となる(安本さんの中期朝鮮語200語では、確率は0.135となっている)

確率が0.135ということは200個の語彙のうち、偶然でも27個の単語が一致するということである。アイヌ語(29個)、フランス語(27個)の一致数は偶然でも起きることである。では中期朝鮮語の一致数39個は偶然であるとしてよいのかどうか?

200個の単語中39個以上が一致する確率は次図の上の式で計算できる。この場合i=39、P=0.135なので、 Q=200C39(1.35)^39×(1-0.135)^(200-39)を計算すればよい。200C39は、(200×199×198×197×・・・・X163×162)÷(1×2×3×4×・・・・×38×39)を計算するという演算式である。

手計算では無理なのでプログラムして計算すると、39個が一致する確率は0.004463になる。40個が一致する確率は0.002803、41個が一致する確率は0.001708、42個が一致する確率は0.001009、と次第に小さくなってくる。

さらに計算を続けると、43個が0.000579、44個が0.000322、45個が0.0001748、46個が0.000092と万分の1未満になる。55個となると、確率はほぼ0になる。

39個〜55個の確率を合計したものが、39個以上一致する確率である。パソコンの計算では0.011249 となったが、安本さんの計算では0.012となっている(偶然で発生する確率が0.135と有効桁数が少ないのが原因と思われる)。

あれが、崇神天皇陵と景行天皇陵を盟主とする柳本古墳群の中の柳本大塚古墳だろうと思うが、行かない。


ともかく200個の単語が39個以上一致する確率は0.012(1.2%)しかない。統計の検定では、確率が5%以下のときは「5%水準で有意である」とする。偶然に39個が一致したのではない。上古日本語と中期朝鮮語にはなんらかの関連がある。と判断できる。

ただしこれをもって上古に朝鮮人と倭人が会話できたとすることはできない。200個中39個が一致したのは偶然ではないといえるだけである。また、それは語頭の発音が一致したに過ぎない。残りの161個は一致していない。最も重要な人体の名称を見ても、上古日本語と中期朝鮮語は大きく異なる。


箸中古墳群の6つの古墳のうち、箸墓とホケノ山古墳はすでに訪れた。残り4つの前方後円墳は右図のように、箸中小学校を中心にかたまってある。


次の発音は「 」が上古日本語、( )が中期朝鮮語。

「頭」は「かしら」(もり)、「毛」は「け」(たる)、「目」は「め」(ぬん)、「鼻」は「はな」(こー)、「口」は「くち」(いぷ)、「歯」は「は」(に)、「手」は「て」(そん)、「「足」は「あし」(ぱる)と、似た語彙はひとつもない。通訳なしでは到底会話はできないだろう。

額田王の超有名な歌( 1-20)がある。

  あかねさす  紫野行き  標野(しめの)行き
  野守は見ずや  君が袖振る

次のような万葉仮名で記されている。

  茜草指  武良前野逝  標野行
  野守者不見哉  君之袖布流

「茜草」を「あかね」と読めれば、あとの万葉 仮名はほぼ読める。その意味は上の読み下しのとおりである。 「もうひとつの万葉集」はこの万葉仮名を「古代韓国語でよむ」と次の発音になると著者はいう。

ごくどしょん・さち  ぼらせく・ばる・がね  びょまるぼむ・がね
ぼるじきしゃ・あにぼじぇえ  ぐで・がさ・ぼるよ

この音に似た韓国語をあてはめると、 「赤い股が  紫色の野原(ほと・陰部)を行きます 標野(禁野)を行くのです  野守は見ていないでしょうね  貴方が私のハサミ(両股)を広げるのを」 と解読できるというのである。



箸中古墳群の中のひとつ纒向石塚古墳。後円部は扁平である。太平洋戦争中に削られて高射砲かなにかが置かれていたという。

古代韓国語で読んだというが、古代韓国語の発音は不明である。わかるのはハングル文字ができた1443年以降である。「もうひとつ・・・」の著者は、実際には古代韓国語では読めていない。

例え読めたとしても、発音から韓国語を拾ってくるので、恣意的である。「君之袖布流」を「ぐで・がさ・ぼるよ」と発音し、「ぐで=君」→「がさ=はさみ」→「ぼるよ=ひろげる」と言葉を当てて、「貴方が私の両股を広げる」と解読している。


右は桜井市教育委員会の説明板にあった古墳の形状図。全長93m(100)・後円部径62m(67)・前方部幅45m(45)。( )は全長を100とした場合の長さの割合。前方部幅/後円部径は(73/100)。

安本式「前方後円墳の築造時期の推定図」では、10代・崇神天皇陵と箸墓との中間に位置する。崇神天皇陵より新しく箸墓より古い。墳墓からの出土物はないが、周濠から弥生末期から古墳時代初頭の土器が出ている。

素直に「君が袖振る」と読めば、その光景が目に浮かぶのに、なぜワザワザ恣意的に言葉を見つけてきて、下品な解読をするのか?

また「武良前野逝」を「ぼらせく・ばる・がね」と発音し、「ぼらせく=紫色」→「ばる=野」→「がね=行く」と言葉を当てているのだから、「紫野行き」とすればよいものを、「紫は女性の性器に当てています」として「(赤い股が)紫色の野原(ほと・陰部)を行きます」と解読する。

今の通説の読み下しは、テンポがよく、あざやかな茜色と紫色の配色や「君」が袖を振る姿を想像でき、野守にみつからないかと少し心配している心情に思いをはせることができる秀歌である。 韓国語読みで解読したから、意味がよく通じるようになった。よりすばらしくなったとは到底思えない。こうも読めますという「こじつけ」でしかない。そしてその結果、額田王の歌を卑猥なものに貶めている。本当に著者のいうような意味の歌であれば、1300年間もこの歌が残ってきたはずはない。

先に掲げたように、上古(7〜8世紀)の日本語と中期朝鮮語(15世紀)の基礎語彙は大きく違っている。安本さんは「朝鮮語で万葉集は解読できない」(1990)で、『万葉集で用いられている目・歯・手・毛などの基礎語彙が明確に、朝鮮語とは異なり、現代の東京方言語とつながるのに、枕詞や地名などが朝鮮語で解けるということはありそうにないことである。』といわれる。また「もうひとつの万葉集」(李寧熙)については、『性語辞典ではあるまいし』と一蹴されている。とにかく発音から言葉を拾ってくるという方法は「こじつけ」や「思い込み」に陥り、学問的なものでは決してないとされている。シロートの思い込みでしかない。



箸中古墳群の中の古墳のひとつ、纒向勝山古墳。全長100m(100)・後円部径60m(60)・前方部幅20m(20)。前方部幅/後円部径は(33/100)と異常に狭い。

したがって「前方後円墳の築造時期の推定図」では崇神天皇陵よりもかなり古い時期の(b)の位置に打点されるが、未発掘なので墳丘の正しい形状はわかっていない。

桜井市教育委員会の説明板には全長115mとあった。また説明板の墳丘図から推測すると、全長115m(100)・後円部径73m(63)・前方部幅46m(40)。前方部幅/後円部径は(63/100)となるので、崇神天皇陵とほぼ同時期に築造されたと推測できる。

なにぶん未発掘の古墳である。墳丘よりの出土物はないが、周濠から布留0式土器が出ているので、300年頃の時代と推定されてきた。

その後、周濠くびれ部の畑から出土したヒノキ材を年輪年代測定法で測定したところ、伐採されたのは210年頃と推定されたという。しかし炭素14年代測定にしても年輪年代測定にしても、木が伐採された時期がわかるだけであって、古墳が築造された年代であるとは限らない。


勝山古墳から100m先に矢塚古墳がある。あれがそうらしいがちゃんと前方後円墳の形状が残っているのかどうか。

巨大な前方後円墳を築造するとき、まずは山の枝峰を利用するのが簡単であろう。尾根を切断して、前方後円の形に整える。そこで出た土砂を土手として陵墓のぐるりを囲む。山から流れてくる水は土手によって堰き止められて水が溜まり、これで周濠も完成する。

平坦な地に前方後円墳を築造するときは、まず周濠とすべき場所を掘り、その土を積み上げて前方後円の形に整える。古墳が大きければ大きいほど土砂が必要になるので、周濠の面積は広くなり、また深くなる。


矢塚古墳の前方部は消滅している。

今の学者、例えば河上邦彦さん(元橿原考古学研究所)の推定では、@ホケノ山→A石塚→B勝山→C矢塚→D箸墓→E崇神陵→F景行陵の順番に築造されたとされているが、平地にある箸墓より、尾根を利用した崇神陵や景行陵のほうが古いとする学説のほうが納得できる。

矢塚古墳から桃核(ももの種の硬い殻)が2つ出てきたそうである。例の炭素14年代測定をすると、1つは1790±30年BP、いまひとつは1800±30年BPと測定された。BPとはBefore Present(現在以前)の略で、1950を基準にして何年前かを表わす。
1800±30年BPは、ただちに1950年から1830年前(西暦120年)〜1770年前(西暦180年)の年代を意味するのではない。1700年前の大気中の炭素14の量と1800年前の量は異なっているので、右図のようなグラフで補正して実年代を決める。(グラフは安本美典さんの「邪馬台国=畿内説・箸墓=卑弥呼の墓説 の虚妄を衝く!」(2009年)から引用した)

矢塚古墳の桃核が1800±30年BPと測定されたなら、縦軸の1800年のところから水平線を引く。すると実年代を推定する帯(灰色)を水平線が横切る部分がある。この場合には(a)と(b)の2つの時期がある。水平線と帯が交差したところの横軸の実年代を見ると、(a)は240年〜260年くらい、(b)は300年〜340年くらいに該当することがわかる。

矢塚古墳の桃は、240年〜260年か300年〜340年の時期にもぎ取られ、食べられたわけである。では(a)と(b)のどちらをとるべきかといえば、期間の長い(b)である。(a)の20年間と判断するより(b)の40年間と判断するほうが、 正解である確率が2倍あるからである。

矢塚古墳の真南に東田大塚古墳がある。田圃の畦道を行く。

東田大塚古墳のサイズは@墳丘長96m(100)・後円部径64m(67)・前方部幅30m(33)との調査数字があるが、この数字をもとにして 安本式「前方後円墳の築造時期の推定図」に打点すると、図の(b)の位置になる。

(b)の位置はあまりに極端な位置である。同じ箸中古墳群の中の、しかも4つの古墳が集まっているのだから東田大塚古墳だけ異常に前方部の幅が小さいとは考えにくい。

桜井市教育委員会の説明板によると墳丘全長は120mである。説明板にある古墳の図からサイズを推定すると、A墳丘長120m(100)・後円部径73m(61)・前方部幅45m(37)、前方部幅/後円部径は(62/100)となる。

先に掲げた「前方後円墳の築造時期の推定図」で、(b)勝山古墳と(c)東田大塚古墳の2つの位置は異常だった。(b)(c)の古墳の形状はその後の発掘によって違ったサイズであることが判ったらしい。

東田大塚古墳は公園のようになっていた。前方部は切り崩されて田圃になっている。

(b)(c)の数字を修正して、安本美典さんのやりかたに従って、纒向遺跡の中にある前方後円墳の特徴をまとめておく。((L)は前方部幅/墳丘長、(R)は前方部幅/後円部径、(K)は後円部径/墳丘長)

  1. 東田大塚古墳 (L) 37 (R) 62 (K) 61
  2. 勝山古墳    (L) 40 (R) 63 (K) 63
  3. 矢塚古墳    (L) 42 (R) 63 (K) 67
  4. 崇神天皇陵  (L) 42 (R) 64 (K) 66
  5. ホケノ山古墳  (L) 44 (R) 67 (K) 67
  6. 石塚古墳    (L) 48 (R) 73 (K) 67
  7. 箸墓       (L) 46 (R) 85 (K) 55
  8. 景行天皇陵  (L) 55 (R) 101 (K) 54

箸中古墳群(纒向遺跡)にある6つの前方後円墳は、後円部径と前方部長の比率が2:1であり、これを「纒向型前方後円墳」と呼ぶそうである。上の(K)の数字は、後円部径/墳丘長×100で計算されている。東田大塚古墳は(K)61となっているから、後円部径は全長の61%で前方部長は全長の39%(=100-61)である。

後円部径:墳丘長が2:1になっているときの(K)は66.6である。上記の古墳の矢塚古墳(K)67、崇神天皇陵(K)66、ホケノ山古墳(K)67、石塚古墳(K)67は2:1の纒向型前方後円墳である。 東田大塚古墳(K)61は、やや前方部が長い。箸墓(K)55と景行天皇陵(K)54はもっと前方部が長い。前方部長や前方部幅が長いほど新しい古墳であるとする安本理論からすると、箸墓は崇神天皇陵などの古墳よりも新しいことになる。

東田大塚古墳からも桃核が1つ出土している。炭素14年代測定では、1730±30年BPと測定されたそうである。「年代BPと実年代の関係」図から1730年のところを見ると、西暦340年〜380年ころの築造であるらしい。

これで纒向にある6つの前方後円墳の全てを見た。 JR桜井線の「巻向」駅に向かう。目の前に広がる大和青垣は右から、三輪山、その左遠方に巻向山(弓月が岳)、中央に穴師の山(夏至山)、左が竜王山。




安本美典さんの肩書きは「数理文献学者」であるが、その研究範囲は広い。言語・文章・神話・古墳の編年・天皇の在位年などの分野において、我々をうならせる結論を出されている。

結論を導く手法に統計学を取り入れられているからである。統計学においては、@データを採集する→Aデータを判りやすいように加工する→B統計的な手法で解析する→C一応の仮説を得る→Dその仮説が間違いではないかの検証をする。という手順をとる。

誰でも長く研究をしていれば、アイデアないしヒラメキは出てくるが、データの加工のしかた、データの解析のしかた、導きだした結論の検証のしかたが貧弱であるので、単なる「思いつき」のレベルの結論になる。一人よがりの結論になる。よって一部の者にしかその結論は受け入れられない。結果、「諸説紛々」という状況になる。


これからの学者は統計の知識がなければ、ものをいうことはできまい。安本美典さんの最大の功績は、安本さんがかかわった分野において、統計学を駆使し、それまでのいわば思いつきの通説を打ち破ったことにある。

安本さんの歴史分野における業績を掲げると、次の3つであろう。

  1. 古代天皇の在位年代を推定した。(「神武東遷」「卑弥呼の謎」「古代古墳の被葬者は誰か」)

  2. 前方後円墳の年代推定をした。(「古代古墳の被葬者は誰か」、「巨大古墳の主がわかった」)

  3. 古代日本語と朝鮮語との関係を統計的に解明した。(日本語の起源を探る」「高天の原の謎」)


巻向駅のプラットホームの西側には、家屋が建っていない土地が随所にある。纒向遺跡を発掘した場所である。写真の場所は2年ほど前に掘り返していたと、電車を待っている老人に聞いた。

これらの理論から、次のことを導かれている。

  1. 天照大神は卑弥呼である。(「高天の原の謎」)

  2. 邪馬台国は九州の朝倉市にあった。(邪馬台国と卑弥呼の謎」)

  3. 神武天皇は280年ころにヤマト入りした。(「神武東遷」)

  4. 箸墓は卑弥呼の墓ではない。(邪馬台国=畿内説・箸墓=卑弥呼の墓説の虚妄を衝く」)


どの理論と結論も統計学に基づいたデータの処理がなされ、同じく検定を行なってあるから、実に説得力がある。安本さんが書かれた書物はどれも感心するばかりである。そしてその結論は正しいと思う。

纒向に関して言えば、@箸墓は350年以降の古墳であるから卑弥呼の墓ではない。A崇神天皇稜には崇神天皇が葬られている。Bホケノ山古墳をはじめとする纒向の6古墳は4世紀の築造であるので、古墳時代初頭の築造とはいえない。

ところが、「巻向駅」にある観光案内板には「卑弥呼の里・国の始まりの地・ようこそ纒向遺跡へ」とあって、『纒向遺跡は3世紀代の日本列島における中心的な集落が存在したと考えられています。邪馬台国の有力な候補地ともなっています。』と書かれている。

纒向遺跡は卑弥呼の里ではない。ましてや箸墓は卑弥呼の墓ではない。卑弥呼の時代は240年前後であり、箸墓は350〜380年頃のものである。時代が100年ずれている。

安本美典さんの著作に触発されて、見学してもたいして面白くないと思ってきた古墳を訪ねた。このテクテクで書いた理論の99%は安本美典さんの著作によった。今日の万歩計は24000歩だった。時期は夏至である。暑かった。腕をさするとザラザラした。塩が吹いていたのだ。



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