奈良県宇陀市

    No.91.....2012年11月25日(日曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 宇陀市地図...

この4月に東大阪市の日下町を訪れ、神武天皇(磐余彦。いわれひこ)軍が長髄彦(ながすねひこ)軍に破られた場所を想像して楽しんだ。その後、磐余彦(ここでは神武天皇をこう呼ぶことにする)は宇陀(うだ)を目指すのであるが、そこまでの行程は次のようになる。
  1. 肝駒山(いこま)を越えて中洲(うちつくに)に入ろうとして、長髄彦軍と孔舎衛坂(くさゑのさか。東大阪市日下町)で戦ったが敗退した。リーダーの五瀬命(いつせのみこと)が負傷した。

    軍は草香津に戻った。「今我は是日神の子孫にして、日に向ひて虜(あた)を征(う)つは此天道に逆(さか)れり。」 皆は「然(しかり)なり」と応え、盾を植(た)てて雄たけびをした。それでこの津を盾津(たでつ。東大阪市日下町)と呼ぶようになった。


  2. 5月 8日 茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと。泉南市樽井町)に着く。五瀬命に傷深く、命は悔しさのあまり雄たけびしたので、雄水門(をのみなと)と呼ぶ。

  3. 紀の国に着いたとき五瀬命が亡くなったので、竃山(かもやま。和歌山市和田−竃山神社)に葬った。
    6月23日 名草邑(和歌山市紀三井寺−名草山)に着き、名草戸畔(なくさとべ)を誅(ころ)した。


  4. 熊野の佐野(新宮市佐野)を越え、神邑(みわのむら。新宮市新宮)に着き、天磐盾(あまのいはたて。神倉神社)に登った。 その後、海上で暴風に遭遇したので、兄の稲飯命(いなひのみこと)と三毛入野命(みけいりののみこと)は海中に身を投げて海を鎮めた。ここで九州を出たときにいた4兄弟は、磐余彦ひとりだけになってしまった。ここより軍は磐余彦が統率することになる。


  5. 磐余彦とその子手研耳命(たぎしみみ)は軍を率いて、熊野の荒坂津(あらさかのつ。またの名を丹敷浦。Dは熊野市二木島町、D’は三重県度会郡大紀町錦か)に着き、丹敷戸畔(にしきとべ)を誅(ころ)した。

    高倉下(たかくらじ)から布都の霊(ふつのみたま。剣)を献上された。これは武甕雷神(たけいかづち)のものである。また天照大神は、郷導(くにのみちびき)として八咫烏を遣わした。


  6. 大伴の遠祖日臣(ひのおみ)は大来目を率いて、烏の向かうままに追い、菟田下県(しもつこほり。奈良県宇陀市)に至った。その土地を菟田の穿邑(うがちのむら。宇陀市菟田野宇賀志)と云う。磐余彦は日臣命をほめて、道臣(みちのおみ)の名を与えた。

熊野からどういうコースで吉野や宇陀に行ったのかは不明である。Dの熊野市またはD’の三重県度会郡大紀町錦に上陸した、という2つの説があるが、書紀ではD’→E→a→b→cのコースを、古事記からは、D→c→a→b→Eのコースをとったように思われる。ともかく、磐余彦一行は宇陀にやってき、そこをヤマト侵攻の拠点とした。

古事記や日本書紀には宇陀の地名が多くでてくる。書紀にでてくる順に地名を掲げると、@穿邑(うがちむら)、A宇陀の血原(ちはら)、B宇陀の高城(たかぎ)、C高倉山、D国見丘、E女坂(めさか)、F男坂(をさか)、G墨坂(すみさか)、H宇陀川の朝原、H伊那佐山、。宇陀からヤマトに入るとき、入った後の地名としては、(a)桜井の磐余邑(いはれむら)、(b)天香具山、(c)桜井の磯城邑(しきむら)、(d)桜井の忍坂邑(おしさかむら)、(e)生駒の鵄邑(とびむら)などが出てくるが、書紀の「神武紀」における記述は、「宇陀」についてのものが最も詳しい。宇陀は神武天皇にとって格別の土地であったらしい。

宇陀は名張の隣の市である。せっかく近いところに住んでいるのだから、一度は「神武天皇の宇陀」を訪れなければなるまい。次の@〜Gを訪れた。(Hは時間的に無理だった)




今秋、柿の木は40個ほど実をつけたが、あまりに小ぶりなので、比較的大きなものだけをもぎ、20個ほどは残していたのだが、ヒヨドリがやってきて、熟した柿をついばんでいく。

宇陀市は、2006年に奈良県宇陀郡の@大宇陀町、A菟田野町(うたの)、B榛原町(はいばら)、C室生村 が合併してできた。市の面積は広いが、人口は35000人ほどである。今日行く予定の桜実神社のある菟田野佐倉の世帯数は90ほど、宇賀神社のある菟田野宇賀志は140世帯ほどしかない。

古事記や日本書紀を読んで、この2つの神社を訪れてみたいものだと思っていたが、いかんせん交通の便がない。宇賀神社の最寄のバス停の時刻表を調べると、平日で日に6本の便があるが、土日は「運行はありません」とあった。これでは死ぬまで宇賀神社に行くことができない。


ところが、インターネットで「道の駅・宇陀路大宇陀」のページを見ていたら、レンタサイクルを用意してあることがわかった。地図で計ると、道の駅から桜実神社(さくらみ)までは約8Km、そこから宇賀神社へは2Kmである。これなら行けるぞ。もう何か所かの場所も訪れることができそうだ。

名張から榛原までは近鉄電車で約20分弱、榛原駅から道の駅・大宇陀まではバスで20分強である。榛原駅には8:40頃に着いた。 改札口を出ると、いかにもボランティアといった格好の2人がいて、案内板を掲げている。驚くことにそこには「神武東征の道をたどる・宇陀編」とあった。聞けば「桜井宇陀広域連合」というのがあって、観光探訪事業をしているが、今日は神武東征に関係のあるところをバスで巡るのだそうだ。

榛原駅前のはずれ、「鳥見山中霊畤(とみのやまなかまつりのにわ)・北20丁」の石碑が立っている。これも神武天皇の聖蹟のひとつである。

ボランティアの方に、「桜実神社や宇賀神社に行くんですか?」と聞けば「行きます」と答える。観光バスでこの2神社に行くことができるのだ。これは自転車よりも楽チンである。ここで申し込みをすることができるのかを問うと、予め往復はがきでの申し込みをしていないとダメだという。

今日の神武東征のコースは、@榛原駅→A丹生川上神社→B桜実神社→C宇賀神社→D八咫烏(やたがらす)神社→@榛原駅、のようであった。「どこかで逢うかもしれませんね」とボランティアさんと別れた。

20分ほどで「道の駅・大宇陀」に到着。

青色の幟に「電動自転車・好評レンタル」とあり、数台の自転車が並べてある。ちょうど店の人が出て来たので、レンタルの申し込みをした。

料金は4時間まで1000円である。申込書には行く先を記入する欄がある。「桜実神社→宇賀神社→宇陀水分神社→八咫烏神社」と書いたら、「宇賀神社へは坂道が続きます。」単なる自転車では無理で、電動自転車ならなんとか山道をこせるかも知れない、といった口ぶりであった。

電動自転車に乗るのは初めてだ。電動をONにすれば、力を込めて漕がねばならないときに威力を発揮する。自転車を漕ぎはじめるときと坂道を登るときである。道の駅の男性から、「平地を走るときや、坂道を下るときはOFFにしておいたほうがよいですよ。そうすれば、バッテリーはだいたい4時間持ちます。」といったアドバイスを受けていた。

手始めに人麻呂公園に行った。道の駅から約1Kmはなれた丘の上にある。公園の中心には馬に乗る柿本人麻呂像が置かれている。人麻呂が東を向いて見ている山は城山(471m)。江戸期以前に大宇陀を支配する山城があった。

発掘され復元した、飛鳥時代の竪穴式住居。

持統6年(692年)、人麻呂は軽皇子(かるのみこ。のちの文武天皇)に従ってこの安騎(あき)の野にやってきた。狩猟のためである。この地はかつて軽皇子の父親である草壁皇子(くさかべ)も狩りをしたところである。 人麻呂は、ここで長歌1首・短歌4首を詠んでいる。そのうちの2つを揚げる。

 東(ひむがし)の   野に炎(かぎろひ)の
 立つ見えて      かへり見すれば
 月傾(かたぶ)きぬ    (1-48)

人麻呂像が東を向いているのは、この歌を表わしている。


西を向いて撮る。右側の手前の山は西山(687m)、馬の鼻先にあるのが経ケ塚山(889m)。

 日並(ひなみし)の 皇子の命(みこと)の
 馬並(な)めて    御猟(みかり)立たしし
 時は来向かう        (1-49)

日並の皇子とは、持統天皇の子の草壁皇子のことである。かつて草壁皇子が馬を並べて狩りに出かけられた時刻が今到来した。

人麻呂も騎乗して、馬のくつわを並べていたのであろう。人麻呂像が馬に乗っているのは、この歌を表わしている。

すぐ近くにある阿紀神社に向かう。

阿紀神社のすぐ手前から北西方向に榛原の山々が見える。右の「山」型の山は額井岳(ぬかいだけ。812m)、左の三角推は貝ケ平山(822m)。

この山々が宇陀の北限である。
阿紀神社。由緒書きには

「神武天皇紀州熊野の難所を越し大和国宇陀へ出て当地阿騎野(あきの)において御祖の神を敬祭り国中(くになか)へ押し出すとき朝日を後に戴きて日神の御位勢をかり賊軍を打ちはらい御運を開かせ給ふと当社古文書にあり・・・」

と句読点のひとつもない文が掲げられていた。 書紀や古事記には、磐余彦が阿騎野で先祖神を祀ったとは書いていない。阿騎野の地名も出てこない。

書紀の「天武紀」に、672年、近江朝を討とうとした大海人皇子(おおあま)が吉野宮を出立し、その日に『菟田の吾城(あき)に到る。』と、その地名が出る。

「万六」というところで宇陀川を渡り、東にある高倉山を目指す。道は次第に坂道となるが、これくらいの坂なら電動自転車は軽々と漕ぐことができる。宇陀(うだ)に着いた磐余彦一行の行動をザッと掲げておく。
  1. 前663年8月2日 菟田の県の頭である兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)のうち弟は帰順したが、兄は反抗したのでこれを斬った。

  2. 磐余彦は吉野を巡幸し、吉野の井光(ゐひか)・吉野の国晒(くず)・五條の阿太(あた)を味方につけた。

  3. 前663年 9月5日 磐余彦は菟田の高倉山の山頂に登って敵の様子を覗うと、国見丘・女坂(めさか)・男坂(をさか)・墨坂(すみさか)の要地を敵は固めていた。

約1kmほど登り、下り坂に変わったところに「高倉山・神武聖跡」の看板があった。石の鳥居があり、「式内高角神社」(たかつのじんじゃ)の石碑がある。鳥居からの山道には石段がつけられているが苔むしている。
  1. 磐余彦は香具山から土を運ばせて平瓦・神酒瓶を作り天神地祇を祀り武運を祈り、また潔斎沐浴して敵を呪詛した。

  2. 国見丘にいた敵を討ち破り、その残党を策略をもって忍坂邑の大室(おおむろ)に集め、皆殺しにした。

  3. ヤマトの磯城(しき)に突入するために、女軍を忍坂に進めた。一方男軍を墨坂に進めて墨坂の敵を破り、磯城にいる敵を挟み撃ちして兄磯城を斬った。


山道(舗装されていた)を6〜7分ほど登ると高倉山の頂上に着いた。そこには小さな祠があるばかりである。拝殿はない。式内社だから、かつてはそれなりに大きな社であったはずだ。

下の鳥居の脇にあった説明の碑によれば、祭神は高角大神(またの名は高椋下神(たかくらじのかみ))である。高椋下は高倉下(たかくらじ)と同一人物であろう。

磐余彦軍は熊野に上陸してすぐに、土着の丹敷戸畔(にしきとべ)を誅(ころ)したが、毒気に当り一行は力を失い、気が萎えてしまった。そこへ高倉下が武甕雷神(たけみかづち)から授かった布都霊(ふつのみたま。剣)を献上すると、一行の力は元に戻り、そこから吉野へ向かって出立したのであった。どうやら 高倉下は磐余彦軍とともに宇陀までやってきたようだ。


高倉山は戦前の文部省の神武聖蹟調査によって、「聖蹟伝説地」とされている。「神武天皇聖蹟・菟田高倉山 顕彰碑」と彫られた石碑が建てられていた。

磐余彦は穿邑(うがちむら)を帰属させたあと、高倉山に登り国の中を眺めたという。だがこの場所は木立が多くて眺望はまったくきかない。 書紀は次のように語っている。

『国見丘の上に則ち八十梟帥(やそたける)有り。また女坂(めさか)に女軍(めいくさ)を置き、男坂(をさか)に男軍(をいくさ)を置く。墨坂におこし炭を置けり。』

国見丘は不明だが、女坂は熊が岳(904m)の左の大宇陀宮奥付近の峠(標高754m)、男坂は経ケ塚山(889m)のずっと右にある大宇陀半阪付近の峠(437m)、墨坂は榛原萩原にある西峠(347m)だろうといわれている。


右図は人麻呂公園から西の山々を撮ったものだが、同じ方角にある女坂は写真左の手前の小山に隠れて見えない。また男坂は西山に隠れて見えない。 墨坂は方角が違うが、高倉山からずっと離れている。

高倉山から敵の動きは掴めない。高倉山は敵が宇陀の地に入ってきたとき、敵の動きを知るための軍事拠点(見張り場)だったのではないかと思った。

高角神社から桜実神社までは6〜7Kmの道のりである。守道(もち)→白鳥居→片岡→東平尾→大熊→菟田野佐倉(ここに桜実神社がある)と、県道219号線と31号線を行く。

東平尾まではおおむね標高360m〜380mの平地ないし下り坂だったのでラクであったが、大熊から菟田野佐倉にかけては急な登り坂になり、標高450mとなる。この標高差は自転車には辛かった。途中で自転車を押して行くこともあったがなんとか乗り切った。

神武東征はいつごろのことであったのか? 書紀がいうように紀元前660年前(縄文時代後期)だとは到底認められない。これについては、統計学者であり、数理文献学者でもある安本美典さんの考えが明快である。

「神武東遷」(中公新書。1968年)の中で、次のように推測されている。各時代の天皇の平均在位年数は次のようになる。
  1. 古墳時代    (21代〜29代)  10.44年
  2. 飛鳥時代    (30代〜42代)  10.21年
  3. 奈良時代    (43代〜49代)  10.57年
  4. 平安時代    (50代〜81代)  12.63年
  5. 鎌倉〜安土桃山(82代〜106代) 15.11年
  6. 江戸〜現代  (107代〜123代) 20.00年
息を切らして登った峠からバス停の桜実神社前まではずっと下り坂である。バス停の前に観光バスが2台止まっていた。乗客はいないので、歩いて桜実 神社の観光にいっているようだ。例の桜井宇陀広域連合のツアーだろう。

「菟田の高城」の案内があった。「神武ゆかりの地・わが国最古の城跡」とも書いてある。

時代が古いほど在位年数は短くなっている。ここから初代神武天皇〜20代安康天皇までの一代は約10年と見てよい。21代雄略天皇が即位したのは478年であるので、20代前の神武天皇の即位は278年前後。神武東遷はだいたい270年頃であろう、と結論されている。この推定は正しいと納得した。

邪馬台国の卑弥呼が死んだのは247年か248年といわれている。魏志倭人伝では、卑弥呼の死後、男王が立ったが、国は乱れ、1000人余りが死んだ。その後卑弥呼の宗女である台與が新女王になり、(266年に)魏に朝貢した。とある。

この台與の時代のころに磐余彦らは九州を離れた。

磐余彦軍の総勢は何人であったのかは不明であるが、ヤマトに侵攻し、入植するつもりで九州(日向)を出発したのだから、男・女・子供が混じった一隊であったはずである。この一隊は故郷を捨てて、新天地を求めてやってきたのである。少くみても総勢200人はくだらなかったのではなかろうか。

男ばかりの軍隊ではない。吉野山中には獣道ほどの道はあったろうが、女・子供が歩けるように道を穿ちながら進んで、ようやく山道を抜け出ることができた。まずは、しばし生活でき、敵から守るための陣を設けねばならない。その陣はこの「菟田の高城」に敷かれたのかどうかはわからないが、陣を敷くのは小高いところと決まっている。


菟田の高城があったとされるところ。標高490mくらい。「神武天皇御東征・菟田高城」と彫られた石碑がポツンと立っている。「聖蹟」の文字はないので、それらしい証拠はないようだ。

この地名は菟田野佐倉である。菟田野宇賀志はひと山越えたところにある。磐余彦軍は直ちに宇賀志(穿邑)に入らず、まずはここを野営の場所とし、木を切り、柱を立て、草で屋根を葺き、仮設の家を建てた。 ねぐらを用意して、皆がそれぞれに落ち着いた後、宇賀志(穿邑)に斥侯を出して村の様子を調べたのであろうか。

山道を下って、桜実神社へいく。ここは式内社である。

式内社とは「延喜神名帳(えんぎじんみょうちょう)に記載されている神社のことである。延喜式は平安期(927年)にまとめられた。したがってここに名が残っている神社は、だいたい900年ころに朝廷から神社として認められていた古い神社である。

祭神は木花開耶姫(このはなさくやひめ)だという。瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の妃である。なぜ木花開耶姫を祀っているのだろう。主祭神を木花開耶姫とする神社はほかにもあるのだろうかと思って、調べてみると、富士山本宮浅間大社と配下の全国1300社の浅間神社に祀られているという。

木花開耶姫の父親は大山祇神(おおやまつみ)だから、富士山に関係ありとしたのか?

社殿は2棟ある。

木花開耶姫は瓊瓊杵命に身ごもったことを告げた。すると瓊瓊杵は「一夜にして孕むとは、これは私の子ではない。国つ神の子であろう。」と疑った。姫は「もし国つ神の子であるなら無事に産まれないないでしょう。もし天つ神の子であるなら無事に産まれましょう。」といって、戸口のない産屋(うぶや)を建ててその中に入り、土で塗り塞ぎ、産屋に火をつけて出産した。

火が盛んに燃えるなか、子らは無事に生まれた。火照命(ほでりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと。海幸彦)、火遠理命(ほをりのみこと。山幸彦)である。 富士山は火を吹く山である。火の中で無事にお産したことから、浅間神社の祭神とされたのかも知れない。

桜実神社の八ツ房杉。 そばに立つ説明板には、最大樹高14m、樹幹周囲9mとあり、さらに次のようにいう。

「その昔、神武天皇が大和平定の際、菟田の高城に陣営を張られた時に植えられたものと伝えられる杉の木です。八ツ房杉とは、八幹からなる意味で大小八ツの幹が巨大な株状を成しています。樹形は、極めて奇態、ひとつの株から伸びた八本の幹が互いにからみ合い、ある幹は途中で一本になり、再び分かれるといった・・・」

説明では、1本の杉の幹から8本に枝分かれしているかのようであるが、近づいてみると、どうもそれぞれ別の杉であるように見える。同じ場所に数本の杉が芽生え、それらが太くなるにつれて、互いが成長の邪魔になった。これをよけて四方八方に向かって成長した。どの杉もまっすぐ上に伸びることができなかった。そのように思われた。


桜実神社から東を撮る。向うの山を越えると菟田野宇賀志(うたのうがし)である。

浅間大社の神木は桜の木だという。「木花(このはな)」とは桜であるらしい。桜実神社は佐倉の地にあるからついた名であろう。その桜から木花開耶姫を逆に連想し、いつからか祭神とされたのではないか。現に桜実神社の社殿の千木(ちぎ)の形は男神を祀っていることを意味していた。もとの祭神は男神であったと思われる。

 難波津に     咲くや木(こ)の花
 冬こもり      今は春べと
 咲くや木の花     (古今集)

という歌がある。仁徳天皇の即位を寿(ことほ)ぐ歌である。この「木の花」は、冬は籠もっていたが春になると花を咲かせたのだから梅の花である。万葉集では桜よりも梅を詠む歌のほうがかなり多い。「巻5」には「梅花の歌32首、併せて序」とあって、32首の梅を詠んだ歌がまとめられている(5-815〜846)。さらに「後に梅の花を追和(ついわ)する4首」が追加されている(5-849〜852)ほど、梅の花が好まれた。

桜が木の花を代表するようになったのは、少なくとも万葉の時代より新しい。桜→木花開耶姫の連想もそれ以後であろう。

バス停桜実神社前の標高は402mである。そこから宇賀神社に行くには峠をひとつ越さねばならない。600mほど進んで峠についたが、その標高は467mである。600mで60mを登るのだから相当にキツイ。峠の手前から自転車を降りて押した。

峠を越えるとずっと下り坂である。宇賀志の集落が見えた。

八咫烏が吉野山中を先導する後を、日臣(ひのおみ。大伴)は大来目(おおくめ)を引きいて追った。書紀は、

『山を踏み、啓(みちをわ)け行きて、すなはち烏の向ひのままに、仰ぎ視て追う。遂に菟田(うだ)の下県(しもつこほり)に達(とほりいた)る。因りてその至りましし処を号(なづ)けて、菟田の穿邑(うがちのむら)といふ。』

と記するが、この文からは、なぜこの処を「穿邑」としたのかがわからない。

宇賀神社の遠景。写真を撮った位置に「神武ゆかりの地・小字ヲドノ」という案内板があった。昔はこのあたりは「ヲドノ(大殿)」と呼ばれていたらしい。

古事記には『(吉野国巣(くず)から)、踏み穿(うか)ちて、宇陀に幸(いでま)しき。かれ、宇陀の穿(うかち)といふ。』とある。

道なき道を踏みしめて、草木を押し分けなぎ倒して(つまり穿つ)、ようやく宇陀に到着した。だからその場所を「穿邑」というのであると、判りやすく地名説話を披露している。

なお書紀は「菟田」、古事記は「宇陀」、続日本紀は「宇太」と記すが、いずれも「うた」または「うだ」で、同じ場所を指す。

宇賀志川。橋のたもとに「神武ゆかりの地・宇賀神社・血原」の案内板が立っていた。

吉野山中を抜けた磐余彦軍は桜実神社の裏山に菟田の高城を設けた(のだとしよう)。次にしたことは、穿邑を治めている者との交渉である。磐余彦の配下になるのか、戦うのかを突きつけるのである。穿邑を支配しているのは、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)の兄弟であることがわかった。

磐余彦は八咫烏を使者にして、兄弟それぞれに帰順するのか否かを問うた(古事記)。弟猾(おとうかし)は磐余彦の陣にやってきて、帰順することを誓ったが、兄猾(えうかし)はこれを拒否してやって来なかった。

宇賀神社。祭神は天照大神となっているが、宇賀志の神社であるのだから、兄猾または弟猾を祀っていたとするのが素直であろう。

帰順した弟猾(おとうかし)がいうには、「兄は天孫がおいでになると聞いて皇師(みいくさ)を視察したところ、敵しがたいことがわかりました。そこで味方の軍を隠し、新しい宮を造ってその殿(おほとの)の中に仕掛けをしています。あなたを招いて饗応し、その最中に仕掛けによって倒そうとしています。」

磐余彦は道臣(みちのおみ。大伴)を兄猾(えうかし)のもとへ派遣し、その真偽を正したところ、その通りであることがわかった。


道臣は「お前が作った部屋に、お前が入ってみよ」と剣を構え、弓をつがえて、兄猾をその部屋に押し込んだ。そのとき仕掛けが作動し、兄猾は圧死した。

書紀は『乃ち自機(おのれおし)を踏みて圧(おそわれ)死ぬ。』という。「圧死」なのだから、何かのレバーを踏むと天井が落ちるとか、壁が倒れるとか、相当に重い物体が人体を押しつぶすような仕掛けであったようだ。

道臣は、死んだ兄猾の遺体を引きずり出して、これを切りきざんだ。無用の残虐さである。おそらく兄猾が隠していた兵も捕えられ、処刑されたのだろう。そのため大量の血が流れ、広がり、ついには踝(くるぶし)が浸かるほどになった。よってこの処を『菟田の血原(ちはら)といふ』と書紀はいう。


本殿。

この虐殺は、九州から出てきてヤマトのどこかに入植したいが、まだ定着する土地がない、という磐余彦のせっぱつまった状況がさせたものであろう。 熊野上陸以来はじめて土地を手に入れたのである。兄猾・弟猾が治める菟田の穿邑をようやく得た。それは嬉しかっただろう。

また今後の侵略を容易に遂行するには、磐余彦軍に逆らうとこのような目に会うぞと、兄猾の残虐な殺戮を見せしめとしたのであろう。

弟猾(おとうかし)は多くの肉と酒を用意して磐余彦軍を饗応した。そのとき磐余彦や大来目(久米)の者たちは次の歌を詠った。



菟田の高城に 鴫(しぎ)を捕るワナを張って

われが待っていると、鴫は懸からず、鯨が懸かった

古女房が獲物をくれといったら

痩せたソバの木のような、肉のないところを削いでやれ

新女房が獲物をくれといったら

実の多いイチサカ木のように、肉の多いところを削いでやれ

エー、シヤコシヤ  アー、シヤコシヤ  (掛け声)

境内に「こもうけ石」という手水があった。上部の水を貯める鉢石が「陰」、下部の台石が「陽」であるらしい。「陽」は見たとおり男根をイメージさせるが、「陰」は判然としない。

上の歌は古事記と書紀の両方に出てくる有名な歌である。鴫を捕ろうとして、広くワナの網を張っていた。そこに鯨が懸かったのである。意外な大物が懸かって皆は大喜びした。

ここで「鯨」についての説が分かれる。@山の中に鯨がいるはずはないから、これは鯨ではなく大きい鷹とすべきである。A山のワナに海の大きな鯨が懸かったとするからこそ、歌としておもしろい。の2説がある。

「鯨」派のほうが有力である。本居宣長は、宴会のご馳走に鯨肉がでていたのであろうといっている。

神社を出て宇陀水分神社へ向かう。狭い土地ながら田圃が地形に沿って重なっている。緩やかな下り坂が続く。

私が疑問とするのは、当時、鯨をクジラと呼んだのであろうか? ということである。古事記は鯨を「久治良」と書き、書紀は「区施羅」と書いている。万葉集には「鯨」の字がでてくるが、「鯨魚」と続けて「イサナ」と読む。クジラとは読まない。

ここはクジラは「鯨」ではなく「大鷹」とするのがよいのではないか。磐余彦軍が菟田の高城に駐屯していたときに、鳥を捕る網を張っていたら思いもかけず大きな鷹が懸かった。これは幸先がよいとして歌ができ、高城での小宴会で歌われた。

穿邑では反抗する兄猾(えうかし)が自らのワナに掛かって圧死した。これは高城で大鷹がワナに掛かったのと同じではないかと、宴会において一同がまた歌った。そのように思う。

兄猾が策略(仕掛け)をもって磐余彦を討とうとしたのは当然である。自分たちが、この山中の木々を切り倒し、根を抜き、草を刈り、山水を引いて、ようやく米がとれるようになった。

そこに磐余彦軍がやってきて、武力を誇示して、この土地は我がものである。皆は磐余彦に食料・物産を納めよというのである。なぜ他所から来た勢力のいうがままにならねばならないのか。抵抗して当然である。

そうではあるが、磐余彦軍の武力は相当なものだったようだ。

安本美典さんの「邪馬台国畿内説・徹底批判」によると、発掘された弥生時代の鉄鏃(てつぞく。やじり)の数を県別に集計すると、上位3県は、福岡県(398例)、熊本県(339例)、大分県(241例)である。近畿の上位3位は、京都府(112例)、兵庫県(92例)、大阪府(40例)で、奈良県はわずかに4例である。

弥生時代はBC.300年〜AD.300年ころの600年間とされている。300年前後ころから古墳時代になる。神武東征が安本さんがいわれるように270年ころだとすると、まさに弥生末期の出来事である。おそらく近畿の先住民は鉄の兵器はほとんど持っていなかったろう。だが九州から来た磐余彦軍は、鉄製の剣・鉾・鏃で武装していた。

鉄兵器の威力を目の当たりにしたとき、宇陀の邑々は抵抗することの空しさを直感し、唯々諾々と帰順するしかなかった。

道路脇に「神武ゆかりの地・穿邑伝承地記念碑」という案内があった。左の上り坂を行けばあるらしい。ちょっと登ってみたが犬がワンワン吠えるので引き返した。田舎の犬はいつまでも吠え続けていた。犬の反応は実に正しい。自分の生活を乱そうとする他所者は追い払わなければならない。

穿邑が磐余彦軍の支配下に入ったことは、すぐに宇陀のその他の邑々の知るところとなったろう。そして、わが邑に 磐余彦軍が鉾を担ぎ、剣を下げ、弓を持ち、背に矢を負い、盾を立てて、威勢よく行進してきたとき、誰も磐余彦に逆うことができなかったのだろう。

こうして磐余彦は、戦いをすることなく、次々に宇陀の邑を手に入れていったと思われる。

犬に吠えられたところから、かつての穿邑(うがちのむら。宇賀志)を見る。

書紀はこの地を「菟田の下県(しもつこほり)」といっている。 県は県主(あがたぬし)が支配する領域である。

奈良県の県(あがた)には、曽布・山辺・十市・高市・磯城などがあるが、これらは奈良盆地(ヤマト)にあって、天皇家の直轄地であった。菟田の県はヤマトの外にある例外的な県であり、書紀に初めて出てくる県である。つまり菟田は日本で初の県、大和朝廷が初めて支配した土地なのである。

弥生時代、日本は北九州を中心とする銅鉾文化と近畿を中心とする銅鐸文化の2つの文化圏があった。銅鐸は2〜3世紀に最も多く作られたが、突如として消えた。 人目につかぬ場所に埋められたのである。しかもわざわざ壊したものが多い。

銅鐸(どうたく)は祭りに使われたとされる。おそらく銅鐸を叩いて音を出し、豊穣を祈ったものであろうが、その祭りが急に絶えたのである。これは別の文化圏の者が別の祭りを強制したからではないか、と推測されている。 銅鐸の文字が正史に出てくるのは1か所だけであるそうだ。713年7月に宇太(うだ)の長岡野で見つかったと、続日本紀は記している。

弥生時代、九州に圧倒的に多く出土した鉄器は、古墳時代になると、逆転して近畿のほうが圧倒的に多くなる。神武東征を境にして、近畿の文化はごろりと変わったようだ。

道は下り坂から平らになってきた。西に宇陀とヤマトを隔てる山々が見えた。中央の大きな塊りが熊ケ岳、その右の左右対称の山が経ケ塚山、そのまた右の平たい山が音羽山。

この山の向うにヤマトがある。そこは実り多い瑞穂の国である。宇陀とは比較にならぬ広い土地がある。

だがそれだけに、磐余彦に抵抗する強い先住民が多くいる。日下の孔舎衛坂(くさゑのさか)で長髄彦軍に撃退された苦い経験もある。どうやってヤマトに入ればよいのか。

宇陀からヤマトに入るには3つのルートがあった。
  1. 熊ケ岳の左の女坂(めさか)を登って多武峰に出て寺川(てらかわ。昔の倉橋川)に沿って下る。

  2. 音羽山の右の男坂(おさか)を登って、粟原川(おうばらがわ)に沿って下る。

  3. 北部の墨坂(すみさか)から初瀬川に沿って下る。
赤い橋が見えた。宇陀水分神社(うだみくまり)へ渡る橋だろう。川は芳野川(ほうの)。

宇陀水分神社。198社ある官幣大社のひとつである。神社の格式は高い。

宇陀の地が米作に適していたことは、方々に水分神社(みくまりじんじゃ)があることでもわかる。宇陀はそれなりに実りの多い国である。そのためには降雨量が一定していることが必要だ。古代は稲作に必要な水量を求め、過大な水量を嫌った。そのために「水分神社」が建てられたのだろう。

宇陀には周りの山をそれぞれに水源とする宇陀川・芳野川・内牧川が流れているが、最終的には榛原で合流して宇陀川となる。そのうちの芳野川には、上流から順に、惣社水分神社(上社)・宇陀水分神社(中社)・宇陀水分神社(下社)の3つがある。芳野川流域は古くから稲作が盛んな土地であったことがわかる。

社殿は5棟あった。左端の平入りの社殿は宗像神社(重文)、その左隣の妻入りの社殿は春日神社(重文)。

説明板によると、宇陀水分神社は、

「崇神天皇7年2月の勅祭の大社で、水の配分の守護神として、大和のいわゆる四周東西南北に祀られた東に当る神社で、本殿は鎌倉時代の元応2年の建造である。」らしい。

四周の神社とは、東(宇陀)・西(葛木)・南(吉野)・北(都祁(つげ))である。吉野水分神社は重文で立派だったが、葛木水分神社はこのニ社とは比較にならぬ小さい社だった。(都祁水分神社には行ったことがない)


左の3棟は国宝である。左から第一殿(天水分神)・第二殿(速秋津彦神)、第三殿(国水分神)。春日造りで、桧皮葺き。

拝殿でお賽銭をあげていたら、若い禰宜さんがケータイを持ってやってきた。「きれいな神社ですね」とほめると、先の東西南北の神社を教えてくれた。

「国宝とはすごい」とさらに褒めると、「奈良県にある国宝の神社は、春日大社、石上神宮と、うちの宇陀水分神社です。」親切な禰宜さんである。

国宝の3殿の左に杉の古木が高く伸びている。注連縄が張ってあるから神木であろう。2股に分かれているがともにまっすぐ天を目差している。夫婦杉と呼ばれている。

ついでに「杉の木が倒れたら、国宝の社殿が大変なことになりますね」というと、10年ほど前の台風で別の杉が境内を斜めに横切るように倒れて大変だった。今でもこの杉が倒れはしないか心配だ。といったことを答えられた。「ああ、室生寺の五重塔が損壊したときのことですね」(正しくは14年前の1998年)

宇陀水分神社をあとにして、県道31号線を北上する。八咫烏神社へ向かっている。 向うに見える山は伊那佐山(いなさやま。637m)。山の姿は見る方角によって大いに異なる。写真は真南から見たもの。

磐余彦軍は宇陀に入ってから、次の戦いをしている。
  1. 8月、穿邑の兄猾(えうかし)を殺した。

  2. 10月、国見丘にいた八十梟帥(やそたける)を討った。

  3. 大室(おおむろ)を忍坂邑(おしさかむら。桜井市忍阪)に作って、酒宴を開き、敵(残党)を騙まし討ちにした。
いよいよヤマト入りを果たす時がやってきた。

右の山は伊那佐山の一部。その右にある三尊形の山は額井岳(ぬかいだけ。812m)。その左に2つの山があるが、右が貝ケ平山(822m)、左が鳥見山(734m)。鳥見山のふもとに墨坂がある。

11月、磐余彦は磯城(桜井市の金屋・桜井・外山・谷の一帯か?)を攻めることを決め、兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき)の許に、八咫烏を使いに出した。弟はすぐに帰順したが兄は戦うことを選んだ。

ヤマトに入る3つのコースのうち、最もよいのは墨坂から入ることであろう。墨坂がある峠道はのちの初瀬街道である。西に進めば桜井に、東へ進めば名張に通じている。

伊那佐山(637m)の全景。

墨坂の峠は男坂や女坂ほど高くない。攻略はしやすいだろう。だがそれだけに敵はその勢力を結集している。炭を燃やして侵略者を火責めにしようと待ち構えている。

次のような作戦を立てた。@先ず女軍(めいくさ)を遣わして、忍坂(おさか)の道から行こう。そうすれば敵は精兵を出してくるだろう。A男軍(をいくさ)を墨坂に走らせて、宇陀川の水を汲み、敵軍が起した炭火に注いで、敵が驚いている間に打ち破ろう。

八咫烏神社の一の鳥居。

果たして男軍は墨坂を突破し、忍坂に出た女軍とで敵を挟み討ちにして敵を撃破し、兄磯城を斬った。遂にヤマト入りが叶ったのである。ただそうことは簡単に進んだわけではなかったらしい。磐余彦は次の歌を詠っている。

 盾並(たたな)めて  伊那佐の山の
 木の間よも       い行きまもらひ
 戦へば         吾(われ)はや飢えぬ
 島つ鳥         鵜飼(うかひ)が伴(とも)
 今助(す)けに来(こ)ね    (古事記15)

伊那佐山で戦い、苦戦したようである。

八咫烏神社は思いのほか境内が広く、きれいに掃除がされていた。

伊那佐山の木の間を行ったり守ったりして敵と戦ったので、われらは腹が減った。鵜飼部(うかいべ)の者たちよ、今すぐ助けにきてくれ。

鵜飼部とは吉野川下流の阿太(あた)で梁(やな)を仕掛けて漁をする者たちで、はやくから磐余彦に帰順し、軍の食料調達の役目を負っていたらしい。

拝殿。奥の石段を登ると本殿がある。 磐余彦の配下になった者はそう多くない。
  1. 九州を出て船で東を目差しているときに、椎根津彦(しひねつひこ)
  2. 熊野で布都霊(ふつのみたま。剣)を献上した高倉下(たかくらじ)
  3. 吉野山中を案内した八咫烏
  4. 菟田の穿邑の弟猾(おとうかし)
  5. 吉野川流域の井光(いひか)
  6. 吉野の国晒(くず)の磐排別(いはおしわく)の子
  7. 阿太(あた)の苞苴担(にへもつ)の子
  8. ヤマト入りするときの弟磯城(おとしき)


本殿。春日造り。新しい。

戦闘部隊は道臣が率いる来目部(くめべ)である。椎根津彦は一人で配下になったようだし、帰順した宇陀の邑々から徴用した兵も多くはなかっただろう。

感じでは磐余彦軍の兵士は100人いたかどうか。磐余彦はこの小数の手勢でもってヤマトに入り、3年後に初代の天皇になり、次のような論功行賞をしている。
  1. 道臣には築坂邑を与えた。
  2. 来目(久米)には来目邑を与えた。
  3. 椎根津彦を倭国造(やまとのくにのみやつこ)とした。
  4. 弟猾に猛田邑(たけだ)を与えた。
  5. 弟磯城を磯城県主(しきのあがたぬし)とした。

  6. 剣根(つるぎね)を葛城国造とした。
  7. 八咫烏も賞の内にはいった。子孫は葛野主殿県主(かずののとのもりのあがたぬし)である。
ヤマト入りにおいて、剣根(つるぎね)の名前は出てこないが、それ以外の6人全員は、磐余彦が宇陀にいたときまでに仕えた者たちである。(高倉下(たかくらじ)は恩賞が与えられなかったのか? 恩賞を受けたとは書紀は書いていない。)

日本サッカー協会のシンボルマークは八咫烏である。烏の頭にサッカーボールが載っている。

境内から鳥居の向うに伊那佐山が見える。

14:10ころ、道の駅へ戻った。レンタサイクルの料金は4時間で1000円だが、4時間を10分ほどオーバーした。追加料金は請求されなかった。

電動自転車の使い方を教えてくれた店の男性がいたので、「方々へ行けてよかったです。」と礼をいったら、「宇賀志の坂道は越せましたか?」と聞かれた。「いやあ、自転車を押して登りました。」やはり宇賀志の坂道はキツイと案じてくれていたのだろう。

今日のテクテクは15400歩だったが、電動自転車のお陰で25Kmくらいは走ったと思う。




行く先の目次... 前頁... 次頁... 宇陀市地図...            執筆:坂本 正治