和歌山県九度山町

    No.90.....2012年8月4日(土曜)


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紀ノ川は大台ケ原を源流として、川上村→吉野→大淀→五條を巡り流れる。奈良県では吉野川と呼ばれているが、和歌山県に入ってからは紀ノ川と呼ばれるようになる。

紀ノ川になってからは、橋本→九度山→笠田→粉川→岩出→六十谷→和歌山を通って紀伊水道に出る。その長さは136kmに及ぶ。

私は吉野川は何度も見てきたが、和歌山に入っての紀ノ川は見たことがない。


右図は南海電車難波駅。仕事がヒマになったので、読みそびれていた2冊の小説を読んだ。1つは深沢七郎の「楢山節考」で、いまひとつは有吉佐和子の「紀ノ川」である。

どちらも映画化されているが、見ていない。「楢山節考」は坂本スミ子が主人公の70才の「おりん」を演じるために前歯を何本か抜いて、話題になったことは知っている。

「紀ノ川」は司葉子が主人公の「花(はな)」を演じたそうである。映画を見たことがないのに、私なりのイメージがある。それは「花」が嫁入りするときに、紀ノ川を下るシーンである。

その日結婚式に参加する父母や親戚縁者が 何艘かの舟に乗り、「花」は別の舟に花嫁衣装を着けて付き添いの者と乗り、続いて嫁入り道具が何艘かの舟に乗せられて紀ノ川を下る。

九度山駅。だが「紀ノ川」を読むと、このイメージは大いに間違っていることがわかった。 「花」は嫁入りの日の早朝に、祖母「豊乃」とともに九度山の慈尊院に詣でて、そこから紀ノ川の船着場へ行き、@振袖で、A塗り駕籠に乗り、B川舟に乗って川を下った。C嫁入り道具は予め嫁ぎ先に運んでいたので、嫁入り当日にはすでに婿家に到着していた。

勝手なイメージを抱いていたものである。婚家が遠いときは、嫁入り衣装を付けておくことはできないだろう。化粧は崩れるし、着付けも緩む。

「紀ノ川」では塗り駕籠に入って嫁ぐ。考えてみれば、花嫁を歩かせるわけにはいかない。ふーむ。昔の旧家の嫁入りというのは、こういうものだったのか。九度山を訪ねてみようと思い立った。

南海電車・九度山(くどやま)駅は小さな駅であった。駅を出るとトイレ付きの待合所があって、白壁に「六文銭」の意匠が描いてある。九度山は、関が原の戦いで西軍に組した真田昌幸・幸村親子が閑居したところである。九度山町は真田を町の観光資源として町おこしを計っているらしい。

今は真田幸村を観光資源にしているが、明治より前は高野山が一帯の土地を寺領としていた。九度山の慈尊院は、年貢を徴収し、高野山で必要な物資を集める政所(まんどころ)でもあった。

また町は高野山への表参道の入り口であるから、高野山詣でをする者が九度山へ集まり宿泊する。多くの旅籠があったに違いない。人が集まり、物資が集散すれば町は栄える。

しかし明治維新によって高野山の寺領は失われ、物資の集散地としての九度山の役目は終った。さらに交通網の発達によって高野詣での拠点でもなくなった。以来九度山町は発展が止まり、古い家並みが残る町になっているようだ。九度山町役場のHPの観光案内を見て、次の場所を訪ねた。
  1. 米金の金時像
  2. 対面石、真田の抜け穴
  3. 真田が閑居していた後に建てられた善名称院
  4. 「紀ノ川」の「花」の実家というO家(外から見ただけ)
  5. 慈尊院
  6. 丹生官省符神社
  7. 紀ノ川の船着場があったと思われるところ
九度山の町並みや古い家屋を見ること、慈尊院を訪ねること、紀ノ川を見ることが今回のテクテクの目的である。

九度山駅は標高海抜100mくらいの高い地にある。とはいっても九度山町自体が海抜80mくらいのところにあるから、20mほど高いだけである。それでも町へ行くにはわりあい急な坂道を下らねばならない。車がアクセルをいっぱいに踏み込んだ状態でエンジン音高く登ってくるが、歩道がない狭い道である。

司馬さんは「街道をゆくH」の「高野みち」で、九度山についてのあれこれを書かれているが、その中で真田について触れられている。そして面白いことに、次の章は「信州佐久平みち」で、ここでも信州上田で真田が興った顛末を述べられている。

このテクテクで、私が真田について述べることは、司馬さんのこの2章から得た知識がほとんどである。

「真田のみち」と書いた看板が掲げられた道を進む。この道は街道筋であったのだろう。六文銭の下に「幸村の里」と書いた幟(のぼり)が立ててある。このエリアでは真田幸村を目玉にしているらしい。

大阪冬の陣・夏の陣での幸村の活躍は目覚しかったし、講談本で真田十勇士が広まったものだから、真田といえば幸村を思うが、真田を有力な武士勢力に仕立て上げたのは、幸村の父の昌幸である。

戦国時代、信州の千曲川沿いには小豪族が割拠していたが、隣の甲州の武田信玄が攻め入りこの地を支配したため、真田昌幸は武田に仕えることとなった。

「まちなか休憩所」。街道沿いの家らしく中二階の平瓦葺きで虫籠窓(むしかごまど)が付いている(左側の窓は硝子窓)。

信玄の配下で働いたことは、昌幸にとっては大きなプラスになった。昌幸は信玄の戦法や民を治める法を学べたからである。だが信玄が死に、子の勝頼が織田信長によって滅ぼされると、信州は無主状態になってしまった。 徳川や北条が信州を我が物にせんと出兵しようとしたとき、昌幸は千曲川流域の豪族をまとめあげ、上田城を作り、城下町を開いた。

徳川家康は信州に遠征軍を送った。昌幸は千曲川でこれを迎え討つ。旗印は信州の名門であった海野氏が用いた「六文銭」である。徳川軍は昌幸の巧みな戦術によって撃破され、退却した。 このときから真田の徳川嫌いが強くなったようだ。

「対面石」というものがあった。空海と槙尾明神が対面した場所であるとも、空海の母親が讃岐からやってきたときに対面した場所であるとかが伝えられているらしい。

徳川から身を守らねばならない昌幸は豊臣に随身した。秀吉の死後、東西両軍は関が原で決戦する。このとき、家康は主力部隊を率いて東海道を進み、子の秀忠は別軍を率いて中山道を進んで、関が原で合流する計画であった。

昌幸は嫡男の信幸を徳川方に帰属させ、自らは豊臣方に組し、次男の幸村とともに上田城にこもって秀忠軍の進行を阻んだ。 秀忠は何度も城攻めをしたがついに落とせず、あきらめて関が原に向かったが、ついに関が原の合戦には間に合わなかった。

百貨店もある。売り物のガラスの風鈴が1ダースほど吊り下げてあって、涼しげな音を鳴らしている。

関が原の戦いの後、昌幸・幸村父子は九度山に配流された。家康の後継者である秀忠に参戦できないという大恥をかかせた親子であるから、処刑されてもしかたなかったと思われるが、徳川方についていた信幸の口利きがあったのだろう。命を失うことは避けられた。

昌幸は当時紀州を治めていた浅野から50石の養い料を与えられていたというから、単に閑居していたのではなく、浅野の監視付きで蟄居させられていたのではなかろうか。

昌幸は関が原の一戦だけで世が治まるとは考えていなかった。もう一度天下分け目の戦いがある。そのときこそはと思っていただろうに、大阪の陣が始まる前にこの地で病死した。

街道筋の古い家並みが続く。

軒下に人形のようなものを飾っている家があった。町の観光案内にある「米金の金時」であるようだ。


金太郎が「米金」と染抜かれた腹掛けをしている。熊と相撲を取って、エイヤッとばかり、熊を投げつけた直後の姿らしい。

「米金」とは屋号であろうか。この家は何屋を営んでいたのであろう。家の周りをきょろきょろ捜すと、「米金医院」と金色で書かれたプラスチックの透明板が軒下にぶら下がっていた。この像は陶製である。大正の初めに焼かれたもので、高さが2mもあるのは珍しい、とガイドにある。

焼き物であれば、色は褪色しにくいと思うが、腹掛けは灰色にくすんでいる。童形髪の色と同じであるから、もともと腹掛けの色は赤色ではなくこのようなものであったのかも知れないが、 塵がこびりついているのか、陶製にしてはツヤがない。

少し行くと古びていない平瓦葺きの民家があった。観光案内によれば松山常次郎記念館である。松山常次郎は九度山が生んだ政治家らしいが、私は寡聞にして知らない。

常次郎氏の娘が画家の平山郁夫さんの夫人であるとかで、平山郁夫の絵も展示されているらしいが、妻の実家に大作を贈るということはあるまい。

そう思って記念館には入らなかったのだが、今思うと平山郁夫が若い頃、松山家が平山への資金援助として若描きの作品を購入していた可能性もある。ちょっと覗いてみるべきだったのかも知れない。

その隣にも民家があったので行ってみると、本瓦葺きで、軒下の垂木(たるき)は漆喰で塗り固められている。虫籠窓が3つも付いていて、いかにも昔は手広く商売をしていたような家である。

惜しいことにはもとは白色の漆喰がよごれて鼠色に変わっている。家屋を維持していくには結構な費用がかかるから、商売をやめたとたんに、家は古び始める。

観光案内では、ここから先には特に見るべきものはないようなので、やってきた道を引き返す。

途中で観光案内地図にしたがって街道筋から外れて細い路地に入ると、「真田の抜け穴」と呼ばれる穴があった。近くに昌幸らが蟄居していた場所(真田庵)があるので、真田はそことここを結ぶ抜け穴を掘っていたのではないか、というのである。

だがこの穴は古墳の石室であることが判明している。覗きこんでみると、実に石室である。当然に四方は大きな石で囲まれているが、蓋石が取り除かれているので、大きな井戸のような感じになっている。昔の人はこれを穴と思い、どこかに横穴があると思ったのであろう。

調査の結果、古墳時代の終りころの円墳であったことが判明した。長い間に円墳の盛り土が崩れ、石室の蓋石が露出し、誰かが建築資材として持ち去った。そこには大きな井戸のような穴が残ったということか。


昌幸父子が閑居していた屋敷跡には、善名称院(ぜんみょうしょういん)という真言宗の寺が建っていると観光案内にある。

この塀がその寺ではなかろうかと見当をつけていたのだが、塀越しに建物が見えた。それは2階建ての民家風の建物である。寺にはこのような建物は建てないだろう。

だがそれが、まさしく善名称院(真田庵)であった。

門の左右には土塀に沿って、今どき咲く花であろう、白色のユリ、黄色の菊系の花、薄紫の洋風の花が咲いたプランターが並べられている。プランターは木箱に収められていて、木箱には六文銭の紋が描いてある。

うーむ。玄関先にプランターのようなゴタゴタしたものを置くのはまずいだろう。下町の町屋の玄関先なら花を置く場所がないのでしかたがないが、場所に余裕がある古い寺がすることではなかろう。プランターに咲く花はきれいだが、プラスチックのプランターが並ぶ寺の門はどうにも収まりが悪い。

あれっ。寺門の左の柱には「毎日牛乳」と書かれた牛乳瓶の配達を受ける箱が下げてある。住職一家が毎日牛乳を飲むのであろう。 この寺は生活臭にあふれている。 ひょっとしてこの寺の主は女性ではないのか。この寺は尼寺ではないのか。

門を入ると庭木が茂っている。植木の手入れはあまりしていないようであるし、プランターや鉢植えの花も並べられているから、やや雑然としている。

司馬さんが「高野みち」を執筆されたのは、今から約40年前の1976年のことである。そこでは次のように書かれている。

『門を入ると、よく手入れされた境内に草木がみずみずしく栄えている。全体の構えも建物も、寺というよりは戦国の地侍屋敷といった感じで、まことに剛毅質朴な感じがする。』

どうやら尼寺のようである。庭木の手入れは植木屋を使わずに、庵主さんや信徒の方がされているのであろうか。私にはよく手入れされた境内とは見えなかった。まあ司馬さんが訪問された当時の庵主さんはとっくに代替わりされたはずだ。

まさしく2階建てである。新しそうな地蔵の右手は庫裏であろう。左手の裳階(もこし)の付いた入母屋の建物が本堂だろう。庫裏と本堂の間に2階建ての家屋を建てて2つを繋いだといった格好である。

この2階建てに真田ゆかりの諸物が展示されているのだろうか。1階の玄関の上には「善名称院」と篆刻された木板が掲げられている。

玄関脇には、何かの瓶を詰める青色のプラスチックの箱が積み上げてある。入り口の前には、とぐろを巻いたビニールホースが放置してある。訪ね来る観光客はわずかなのであろう。外部の人を迎えるという雰囲気ではない。

九度山出身の大安上人という方が、1741年に真田の屋敷跡に地蔵尊を安置したのが善名称院の始まりである、と案内板が立っていた。

これが本堂の正面だろう。本堂の左には3段の階段があり、賽銭箱が置いてあるので、ここに本尊が祭られているのであろうか。 右の引き戸の上には蟇股(かえるまた)があって、ここだけは寺院風である。

うん?裳階屋根の軒下に裸電球がずらりとぶら下がっているではないか。50cmくらいの間隔で正面と側面の軒下に一列に電球が並んでいる。赤色、黄色、白色の電球が混じる。ここの本尊は地蔵尊のようであるから、地蔵講とか地蔵盆に電球を提灯に入れて吊り下げるのだろう。


地蔵の縁日は24日である。今月8月24日の夜には提灯がつけられ本堂を飾るはずだ。寺の内部を拝見したいとは思わなかったが、赤色が混じった提灯の列は見てみたいと思った。

本堂の前に瓦葺きの社があった。「真田地主大権現」とある。石造の鳥居には六文銭の紋。社は妻入りの庇付きで平瓦で葺いてある。

軒下には同じく「真田地主大権現」と書かれた提灯が下がっているが、風で破れたのか、飛んでいったのか、まばらである。5月5日には町を上げて「真田祭」をするそうだが、そのときに吊り下げたものか。


真田庵を出て、西に進むと丹生川に突き当たった。川では鮎釣りをしている。

丹生川(にゅう)は高野山から流れてきて、九度山で紀ノ川に合流する。この場所は合流点より100mほど手前である。(川の突き当たりに右から左に流れている川筋が紀ノ川)

小説の「紀ノ川」のことである。九度山の名家である紀本家に豊乃という老女とその孫娘の花がいた。花の母親は花を産んで早死にしたので、豊乃は花を手塩にかけて育てた。花が和歌山の女学校に入学したときは、豊乃は和歌山に住いを移してここから花を学校に通わせた。




丹生川に架かる橋を渡って西に向かう。

小説から抜き書きすると、花は次のようだった。

『紀州の名家である紀本の家系が、その名のとおり花によって花ひらいたと思えるように、花は美貌を備えていた。そして豊乃の願望に応えて賢く育っていった。

茶の湯も奥儀(おく)を極め、書を能(よ)くし、箏(こと)の免状をとり、豊乃の躾(しつけ)に言葉遣いも礼儀も正しい分別(わきまえ)を心得ている。家柄に加えて、右の通りならば、もう付け足すべきものはなかった。

紀本家のある九度山村、隣接する慈尊院村以下、元官省府ノ荘内の村々から降るように縁談があったのは当然である。』

小説では元「官省府ノ荘」と書かれているが、正しくは「官省符ノ荘」であろう。「かんしょうぶのしょう」と読む。「官」は太政官、「省」は民部省の意味で、「官符」「省符」はそこが発行する正式な文書のことである。「荘」は荘園のことである。

荘園は私有の農地農園だが、特に国家に租税を納めなくてよいと「官省符」によって認められた荘園を「官省符荘」と呼ぶ。高野山は九度山村を中心にこの辺り一帯を官省符荘として寺領としていた。

「紀ノ川」は明治から昭和(戦後)に生きた三代にわたる女系の物語であるが主人公は「花」である。女系とは、祖母の豊乃→母の水尾(みお)→花→花の子の文緒→孫の華子の5人であるが、母の水尾は早世しているので登場しない。孫の華子は「紀ノ川」の作者の有吉佐和子さんご自身である。

豊乃は花の嫁ぎ先を、紀ノ川の下流の六十谷(むそた)の大地主である真谷家に決めた。真谷敬索は年は26才ながら有功(いさお)村の村長を務めていた。豊乃は家格はやや劣るが人物の敬索を見込んだのである。

「紀本」は小説での姓だが、九度山で一番の旧家であるというのだから今でもあるのではないかと少し期待していた。

「対面石」の場所で、ランニングシャツ姿の老人と目があったので挨拶し、ついでに「有吉佐和子さんの『紀ノ川』に、主人公が九度山から嫁入りしたとあるけれど、その実家は今でもありますか?」と問うたところ、「ある。Oという家や」。地図を差し出すと「この辺や」と指差した。

上の写真の車道から左に外れて丘陵を登った。

O家は丘陵の中ほどに建っていた。長屋門を構える立派な家である。あとでマピオンで家のある地の標高を調べると海抜96mとある。紀ノ川の標高は60mなので、36mほど高いところから紀ノ川を見降ろせることになる。

豊乃は家つき娘で婿を取った。その家がここで、花はこの家で紀ノ川を見ながら育ったのだ。

十分に満足して丘を下り、さっきの車道に戻る。この車道は拡幅工事が行なわれたようで、歩道に沿う家はみな新しい。今風の住宅でなく、古風の建物を建ててあるので、家並みは調和がとれている。


車道からまた外れて西に向かって細い道を歩いていると、「能光尊之史跡」と彫った石柱が建っていた。観光案内によると能光は仏師で、高野山中門の多聞天・持国天を彫ったという。

ここにその仏師が住んでいたのか、それとも墓があるのか。路地を入ると、宝匡印塔(ほうきょういんとう)が建っている。仏師の墓であろう。

花が嫁入りする日の早朝、

『今年76歳になる豊乃は、花の手を引いて石段を一歩々々、ふみしめるように上っていった。』

これが「紀ノ川」の書き出しである。

仏師能光の墓からほどないところに慈尊院があった。だがその石段は6段ほどで、「一歩々々、ふみしめる」ほどの段数ではない。 どうやらこの門は裏門のようである。

『生まれて20年育った家から、他家へ縁づけば花はもう紀本家の者ではない。豊乃の掌は孫にそう教えようとして、それを強く惜しむ祖母の心をも同時に伝えていた。』

空海(774〜835年)は、唐・長安にある青龍寺にある恵果(けいか)から密教のことごとくを伝授され、806年に帰朝した。816年に嵯峨天皇から高野山を下賜され、819年から伽藍の建立を始めた。

拝堂。拝むのは弥勒堂の中にある弥勒菩薩であり、祀られている空海の母である。

空海は823年に東寺を下賜されている。このとき東寺にはすでに金堂があった。空海は講堂を建立し、中に21体の仏を配置して全体として立体の曼陀羅を表現した。ついで五重塔を建てた。塔は密教に必須の建物であった。

空海は自分が思うとおりの密教寺院を一から高野山に作ろうとした。東寺の場合は官寺であるから講堂などの建立の費用は国から出るが、高野山は空海個人の寺である。高野山に伽藍ひとつを建てるにも、空海は広く寄進を呼びかけねばならなかった。

拝殿を右回りに回ったところ。拝殿の側面。拝殿の左から渡り廊下のような屋根が伸びている。その先に弥勒堂がある(左の木立の下に屋根が見える)

司馬さんの「空海の風景」によれば、高野山の造営をたすけたのは、知名のある権門勢家ではなく、高野山付近に住む紀州の無名な豪族たちであったという。

空海が手がけた壇上伽藍は、今のような大規模な寺ではなかった。空海の寺のプランは「御図記(ごずき)」に残っているそうであるが、空海が存命中に完成した伽藍は、金堂と持仏堂(今の御影堂)くらいでなかったか。(最も重要な根本大塔は、空海の死後887年にできあがった)

弥勒堂。桁行3間、梁間3間の正方形をした宝形造(ほうぎょうづくり)。屋根は桧皮葺。国の重文である。

慈尊院は空海が建てたものである。理由のひとつは冬の避寒のための寺として、ふたつには高野山建設に必要な物資を集めるための寺務所としてである。

834年、空海の母親が讃岐から高野山を訪ねてきた。讃岐から船で淡路を経て和歌山に着き、紀ノ川を遡れば歩く必要はない。82歳の老婆が旅できたわけである。その意味でも九度山は交通の利便があった。

高野山は女人禁制である。空海は母を慈尊院に住まわせ、幾度も高野山を下っては母に会ったという。 だが母親は翌年に亡くなった。母親は弥勒菩薩を熱心に信仰していたので、死んだあとは弥勒本尊に化身したという信仰が生まれた。


弥勒堂の前の柱には願掛けの乳房が架けられている。

弥勒菩薩は空海の仏でもある。空海は母が亡くなった翌年に62歳でなくなるのだが、死ぬ直前に「兜率天に往生して、弥勒慈尊の御前にはべるべし。56億7千万年ののち弥勒菩薩とともに下生し、我が跡を訪ねるであろう。」といったという(「空海の風景」)。 空海は母のために廟堂を建て、慈尊院は女人結縁の寺となった。

豊乃と花は弥勒堂の前で手を合わせた。
『廟の前の柱にぶら下がっている数々の乳房形に気がつくと、しばらく瞑目することを忘れていた。それは羽二重で丸く綿をくるみ、中央を乳首のように絞りあげたもので、大師の母公と弥勒菩薩を祀る霊廟に捧げて安産、授乳、育児を願う乳房の民間信仰であった。』

多宝塔がある。

『幼いころから見慣れていたものなのに、この日殊更(ことさら)のように花がそれに眼を奪われたというのは、花の母親が花をみごもったときにそうしたように、豊乃の何十年の昔に花の父を産むときにそうしたように、花自身もまた近い将来そうするであろうことを考えたからである。』

このあと二人は拝堂に上って、弘法大師と御母公の御影に向かって合掌した。

『もう何もいうこともないけどの。躰(からだ)だけは大事にしなさいや。遠い処に嫁(い)くんやよって、私(わたえ)もあんたの顔をちょいちょい見せて貰えんと覚悟してるんよし。何も云うことも無(の)うても、こないして二人だけになりとうての、一緒に来てもうたんえ。』

多宝塔の左手に丹生官省符神社へ登る石段がある。途中に石の鳥居があり、その右横に町石(ちょういし)が立つ。そこが高野山への出発点である。

高野山が大きくなったのは平安末期から鎌倉期にかけてのようだ。白河法皇は高野山に4度登っているし、勅願によって東塔を創建している。鳥羽上皇の女御・美福門院は六角経蔵を寄進している。鳥羽法皇の皇女・五辻斎院は大会堂を、後鳥羽法皇は孔雀堂を、北条時宗は勧学院をといったふうに時々の権勢家が次々に堂宇を寄進した。

伽藍を寄進するときは、そこに勤める僧侶や下人の養い料や建物の維持費のために荘園も寄進することが多い。こうして官省符荘は21か村に膨らみ、租税を免除されていない荘園を含めると60余か村が高野山の寺領になったという。

石段途中にある石造大鳥居は、九度山町の指定文化財に指定されている。案内板によるとO家が1705年に寄進したとある。豊乃・花の先祖である。

同じ高野山領であっても官省符荘は格が上だという意識があったのであろう。豊乃は花の縁談を断るときは家格の違いを理由とした。さらにいうと紀ノ川の下流よりも上流のほうが格が高いし、山持ちは田地持ちを見下す癖があった。その九度山の名家の紀本家が、紀ノ川下流の田地持ちの真谷家へ花を嫁にだすのは、豊乃がよほど婿の人物を見込んだためであった。

町石には梵字と「百八十町」の文字が彫られている。これは高野山の壇上伽藍の根本大塔から180町ということを表わす。そしてこの町石が根本大塔への出発点となっている。


丹生官省符神社は、空海が慈尊院を開創したときに、その守り神として丹生都比売(にゅうつひめ)、高野御子の2神を祀ったのを始まりとするらしい。

その後官省符荘が21か村に広がると、各村社の総氏神となったようである。当時の神社名は丹生官省符神社ではない。丹生神社あるいは丹生七社大明神と呼ばれていたようである。 

明治末の神社合祀政策によって、九度山、入郷、慈尊院の3村にあった神社が集められ、戦後(昭和21年)に今の神社名になった。

社殿は3棟ある。どれも一間社の春日造、桧皮葺き。

右の2社はそれぞれ1517年に、左の1社は1541年に建てられていることが墨書や棟板からわかっているそうである。国の重文である。

このあと「百七十九町」の町石をみて、119段の石段を下る。下ると 多宝塔がある。そこから山門が見えた。

『朝靄は晴れかけて、薄く朝日が射し始めていた。

「見(み)、紀ノ川の色かいの」
青磁色の揺らめきが、拝堂を出て東の石段へ戻りかけた二人の眼の前に横たわっていた。

「美(う)っついのし」
花は思わず口に出して感嘆した。

「美(う)っついのう」
豊乃は花の言葉を反芻して、花の左手を握りしめた。』

山門から紀ノ川に向かって広い道が伸びている。両脇には古い民家が並んでいる。

『慈尊院の石段を手を繋ぎあったまま降りてきた二人を、待っている人々がとり囲んだ。船出の用意は整えられている。九度山村と慈尊院村は総出で見送りに来ていた。

髪結の崎(さき)が花に駆けよって櫛を出して髪をなでつけた。徳(とく)は先に立って渡し場の手前に置かれた駕籠の戸を開けた。

人力車という便利なものができていたが、家格を守って花の嫁入りは塗駕籠が用いられるのである。 』


振り返って慈尊院の山門を見ると、寺は一段高いところにあり、石垣が積まれている。その石は小ぶりで、なるほど女人高野と呼ばれるだけあって、石垣さえも上品でやさしげである。

ここを豊乃と花が手を繋いで降りてきたのだ。豊乃は小紋の重ね着、花の髪は高島田に結われ、縮緬(ちりめん)の明るい紫色の振袖姿。いよいよ嫁入りの出立である。豊乃は婚礼の式には出向かない。花との別れがすぐそこに迫っている。

慈尊院前の広い道をまっすぐに歩くと、下に向かって傾斜になっている道があって、その先に川面が見えた。紀ノ川である。

(次図)道とはいえないほどの坂道を降りると、河原である。川筋を見てもここのように石がごろごろしているところはない。不明ながら、ここが昔の川湊、船着場であったろうと推測した。

『「ほんなら、おめでとう」
あらたまって豊乃は花に声をかけた。花は声もなく深く頭を下げると、振袖を抱いて駕籠に乗った。徳(とく)が市松人形を花の膝にそっと置いた。人形を抱いて嫁入りするのは、このあたりの慣習である。

和歌山市から雇われてきた駕籠かきが二人、調子をとって花の乗った籠をかきあげると、渡し場につけた舟に乗りこんで中央に据え、艫(とも)に退いた。

「可愛いらしかったわの」
「ほんま、人形(いちま)さんのよやったわ」
こう口々に囁(ささや)きがきかれる中を、船頭たちが、
「ええかあ」
「ええでえ」
と大声で呼応しあい、花を乗せた舟は岸を離れた。』

先頭の舟には仲人夫妻、2番目には駕籠に乗った花と付き添いの徳、3番目と4番目の舟には花の父親と兄、紀本家の親類縁者、最後の5番目の舟には紀本家の男衆(おとこし)と女衆(おなごし)たちが膝を詰めあって乗りこんでいる。5艘の川舟が紀ノ川の流れに棹さして下っていく。



(次図)上流の吉野方面を見る。



(次図)下流の和歌山方面を見る。



舟はそのまま花の嫁ぎ先の六十谷(むそた)に行ったわけではない。途中で舟を着けて上陸し、土地の有力者の家でお茶を飲んだり小用を足すのである。最初の休憩は6〜7km先の笠田(かせた)の笠田家でとった。 笠田には万葉集に詠われる背ノ山と妹山(いもやま)がある。花は笠田の御(ご)っさんに尋ねた。

『「兄山(あにやま)は此処から見えますかのし」
「ええ」
御っさんは怪訝そうに訊き返し、花から加勢田ノ荘には背山と呼ばれる山がある筈だと説明されて、

「成高峰(なるたかさん)のことやろかの」
と曖昧な口をきいた。
「いえ、もっと小さい山のようでございますよし」


紀ノ川を挟んで、北に背ノ山(167m)、南に妹山(124m) がある。九度山で見るべきものを見たら、JR和歌山線で「西笠田」に行こうと予定していた。

花は「兄山」と呼んでいるから、2つの山は兄と妹の関係にあると思っているようだ。実際のところ、万葉集(7-1209)に、

  人にあらば  母が愛子(まなご)ぞ
  あさもよし   紀の川の辺(ヘ)の     妹(いも)と背の山


という歌がある。これは兄妹とみて詠んだ歌であるが、次の(7-1210)に、

  我(わぎ)妹子(もこ)に  我が恋ひ行けば
  羨(とも)しくも       並び居るかも    妹(いも)と背の山

家に残してきた妻(か恋人)を恋しく思いながら旅していくと、羨ましくも仲良く並んでいる。妹山と背山が。これは2つの山を夫婦ないし恋人とみなして詠んだ歌である。


紀ノ川の土手道を歩きながら、笠田にある妹山・背山を見に行こうか、 行くまいかと思案する。

「西笠田」に行くにはJR和歌山線に乗らねばならない。最寄の駅は「高野口」である。地図で目測すると、この場所から2.5kmくらい離れている。徒歩40分というところだろう。

問題は電車の時刻である。和歌山行きは1時間に1本しかない。持ってきた高野口の時刻表を見ると14:38分の電車がある。これに乗って笠田へ行き、妹山・背山を見てすぐに引き返せばなんとか6:00くらいには名張に戻れるだろう。

ところが大変なことがわかった。土曜・日曜は10:48〜16:37までの間は列車は運行していないではないか。なんということか。 妹山・背山を見ることは断念した。

南海電車・九度山駅は慈尊院から約2km離れている。駅に戻ると、うまい具合に14:16の難波行きの快速急行があった。

南海電車は停車駅が多いから時間がかかる。1時間7分かかって難波駅に着いた。九度山は遠い。妹山・背山はもっと遠い。

久しぶりのテクテクだったので疲れた。今日の万歩計は16800歩だった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 九度山町...            執筆:坂本 正治