東大阪市日下町

    No.89.....2012年 4月28日(土曜)


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今年は古事記が編纂されて1300年目にあたる。少しは古事記のブームになるかと思ったがそうでもないようだ。

神武天皇(磐余彦・いわれひこ)はヤマトを制圧せんと、船団を率いて瀬戸内海を突っ切り、河内湾の白肩津(しらかたのつ)に上陸した。神武軍は生駒山を越えてヤマトに入ろうとしたのだが、生駒山の向こうの登美(とみ)を根拠地とする長髄彦(ながすねひこ)に撃退されてしまう。その場所は@の日下(くさか)である。

敗退した神武軍はA雄水門、B名草と紀伊半島をぐるりと回って、吉野からC宇陀に出て、D磯城(しき)を制圧したのを初めとしてヤマトを勢力下にいれ、最後にE登美のあたりで、長髄彦軍と再び対戦する。

なかなか戦いの決着はつかなかったが、妹の夫である饒速日(にぎはやひ)は長髄彦を殺して神武に帰順した。ここで神武はヤマトのおおかたを支配した。これが「神武東征」として記紀が語っていることである。

写真は近鉄・東花園駅からみた生駒山。線路は真東を向いている。電車は次の瓢箪山駅から左に曲がって、生駒山系に沿って山を上る。だいたい標高100mほどの高さにある石切駅を出たらすぐに右にグイと曲がって、長いトンネルに入る。トンネルを出たら生駒山を抜けていて、そこは奈良県である。

饒速日(にぎはやひ)は長髄彦の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って子供があった。名前は可美真手(うましまで)といい、物部氏の祖である。饒速日(にぎはやひ)は物部氏の先祖神である。

この可美真手(うましまで)を祭神とするのが石切劔箭(いしきりつるぎや)神社である。名前のごとく「石切」にある。「日下」は石切の北隣である。つまり石切付近は神武東征の初めと終りに出てくる土地と人物に係わりがある。

名張から石切に行くにはやや不便である。近鉄大阪線で西に向かって大阪の鶴橋まで行き、近鉄奈良線に乗り換えて、方向としては東に引き返すことになる。主な駅名を掲げると、
  1. 鶴橋(大阪市)
  2. 布施(東大阪市)
  3. 河内小阪(司馬遼太郎記念館がある)
  4. 若江岩田
  5. 東花園(花園ラグビー場がある)
  6. 瓢箪山
  7. 牧岡(ひらおか)
  8. 石切


私は東花園までは行ったことがあるが、石切は初めてである。さてどんな町なのか。 石切駅を出たら南に向かって道が下っている。結構な坂道であるが、コンクリート製の鳥居があって、その下に「ようこそ石切さんへ」の垂れ幕がある。この道が参詣道のようだ。

コンクリート製の鳥居には「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」の扁額があったから、神社の一の鳥居であろう。

神武東征については古事記と日本書紀では少し異なる点があるので、主として書紀の記述に従う。

書紀は、磐余彦が橿原宮で即位したのは紀元前660年の辛酉(しんゆう)の年であるとしている。この年が日本の始まり、皇紀元年である。だが磐余彦が紀元前660年にいたとするのは遡り過ぎで、書紀はホラを吹いている。

だから神武天皇(磐余彦)は実在していなかったとされているが、もし実在していたならば、磐余彦の時代はだいたい紀元後100年ころのことと推定できる。というのは10代・崇神天皇は300年ころの天皇であると推定されており、1代を20年とするならばそれより9代前の磐余彦は紀元120年ころにいたことになる。(シロート考え)

書紀の崇神紀の記述は詳しい。書紀編纂のころには崇神についてのかなりの記録が残っていたようだ。それならそれより180年前の磐余彦についてもなんらかの記録があった可能性はあるし、神武紀が創作だとしても、モデルとなるようなものがあったのではないか。


参詣道は下り坂である。左手には婦人ものの洋服店がある。右手の店の前には地蔵が置かれている。地蔵には赤い前垂れがつきものだが、ここの地蔵は違う。スパンコールのような前垂れである。光を反射して七色に輝いている。

磐余彦が九州の日向(ひむか)から水軍を出航させたのは即位する年の7年前の10月であった。このとき磐余彦は45才である。

主だったリーダーは磐余彦とその兄弟(五瀬命(いつせのみこと)・稲飯命(いなひのみこと)・三毛入野命(みけいりのみこと)。いずれも磐余彦の兄たち)、子の手研耳命(たぎしみみのみこと)。

ここへ道臣(みちのおみ。大伴氏の祖先)が統率する兵士たちや多くの女性があった(東征のなかで女軍というのも出てくる)。一行の総勢は200人は下らなかったのではなかろうか。あるいは500人か1000人か?


なんだこの地蔵はと思って店の看板を見ると「水子供養・先祖供養(金の鈴・銀の鈴)」とある。よくよく見れば地蔵は大きな鈴を両手に持っている。どうやら「供養」を引き受ける店のようである。だがなあ、コンクリートブロックや煉瓦の上に据えられている地蔵では、十分な供養ができるのかどうか。

磐余彦一行は豊予海峡を抜けて、宇佐→筑紫の岡水門→安芸の埃宮(えのみや)へ寄港し、吉備に着いた。吉備の高島宮には3年間とどまってヤマト制覇の準備をした。

前657年2月11日磐余彦軍は吉備から出航した。順調ならば10日ほどで難波崎(なにはさき)に着いたのではないか。3月10日に河内湾(あるいは淀川を上って河内湖)に入り、河内国の草香邑(くさかむら。日下)の白肩(しらかた)の津に着いた。

「津」というのだから一応は港である。当然に住人がいる。大集団がやってきた。しかも言葉が異なる。当然に日下の住人は警戒しただろう。磐余彦軍も不案内な土地にやってきて、そこの住人を襲うことはしなかっただろう。住人と交渉して、陣営を敷く土地を借りたり、付近の情報を得たり、道案内を頼んだり、などの協力を申し出たはずだ。



この参詣道はどうしたことか。占いの店だらけである。左の赤い柱の店の看板は「石切占術学院」「占い横丁」とあって、入り口には「占い」の文字を記した紅白のちょうちんが下がっている。「占い」「占い」「占い」がブラブラしている。

右手の先にも「よく当たる霊感・占」の看板が出ているが、まるでラーメン屋の看板のようである。看板の上にパトカーの屋根に載せる赤色灯がつけてあるから、夕刻ともなればクルクル回って人目を引き付けるのだろう。

左手に青銅の大仏があった。そう大きくはないが、石碑に「名所・日本で三番目石切大仏」とある。厚かましいことに自分で「名所」と書いている。「宗教法人 大仏寺」とあるので新しく作った寺であろう。

昔、東大阪は新興宗教のメッカであるといったことを聞いたことがあるが、まことに、新しい宗教や占いがひとつの産業になっているようである。

4月9日に一行は信貴山の南を流れる大和川を遡ってヤマト入りをしようとした。後の龍田道の道筋である。だがこの道は険しく兵士が並んで行軍できなかったので引返した。

通常、軍隊を動かす前には斥候を出して、道筋や敵の有無、食料調達などを調べておくものであるが、これを怠っている。

ここは神社風に注連縄をつけた門がついているが、やはり占いの店。

ヤマトと河内を隔てる山は、北から生駒山・信貴山・二上山・岩橋山・葛城山・金剛山と連綿と続いている。山が切れているのは大和川だけであるが、ここがダメとなったのである。そこで生駒山を越えてヤマト入りをすることにした。

この動きを長髄彦がキャッチした。生駒山越えをしようとした磐余彦軍を孔舎衛(くさえ)の坂で攻撃したのである。

この戦いで磐余彦軍は敗退する。どころか磐余彦の長兄の五瀬命(いつせのみこと)は流れ矢に当り、重傷となった。敵は強力である。ヤマト入りは容易ではないことがわかった。

石切不動明王。

磐余彦は決断した。 書紀の記述では「自分は日の神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは天道に逆らっていた。いったん退却して、敵にわが軍が弱そうにみせよう。そして天神地祇を祀り、日の威光を背にして敵に襲いかかるのがよかろう。そうすれば刃に血を塗ることなく、敵を倒せるだろう。」

みなは「そのとおりです。」と答えたので、兵を率いて草香の津に帰った。敵もあえて後を追わなかった。 草香の津に戻った磐余彦軍は、盾をたてて雄たけびをして士気を鼓舞した。書紀はいう

『因(よ)りて改めてその津を名づけて盾津(たてつ)という。今蓼津(たでつ)といへるは訛(よこなば)れるものなり。』


この参詣道には珍しく、姿のよい不動明王があったが、そう古いものではないようだ。昭和に入って作られたものだろう。

磐余彦が上陸した白肩(しらかた)の津は、盾津(たてつ)と呼ばれるようになったというのである。地名というものはそうそう変わるものではない。もしかして「盾津」という地名が残っていないかと、地図を探してみた。

最近のインターネットの「Mapion」は地図の一点をクリックすると標高が表示されるようになっている。「盾津」であるためには標高が0m〜5m くらいの場所であろう。石切駅あたりの標高は108mである。こんな高いところに船着場(津)があったはずはない。ここから西に向けてポイントをずらしていくと石切神社のあたりが標高30mである。まだ少し高い。さらに西を見ると、外環状線が走っているあたりが6mである。かつての河内湾(あるいは河内湖)の水際に近い。


この店はなんでもありの占いを「するようだ。立て看板には、@奇門遁甲、A西洋占星術、B霊感タロット、C手相、D四柱推命、とあって「新築・改築・家相」「総合鑑定」「赤ちゃん名づけ」「恋愛・結婚・相性」を見るようである。

さらに西側を見ると地名が「川中」「吉原」「箕輪」である。いかにも昔は湿地であったような地名である。「あっ」、箕輪の近くに「盾津中」があるではないか。標高は2mである。近くに「盾津東中」もあった。

現在の住所は、東大阪市本庄2丁目であるらしい。学校名は地名と無関係の名前がつけられることはそう多くはないから、どこかの時期にはこのあたりを盾津と呼んでいたと思われる。


この店もすごい。「悩みを解き、幸福を呼ぶ大黒殿」と赤い柱に書いてある。奥には3mくらいの大黒さまの像がある。「大黒殿」が黄色の文字で書かれて「商売、商売」と訴えている。店前の左右に並ぶ狛犬ならぬ獅子のアフロヘアーもおかしい。

何が商売なのかと思ったら、やはり「よく当たる占い」の看板があった。大黒さまは、道頓堀の蟹道楽の看板の「蟹」の役目をしているようだ。

磐余彦軍は盾津から退却する。河内湾から大阪湾に出て、泉州→和歌山→新宮→熊野→吉野へと進んだのだが、この行程で磐余彦は3人の兄たち(五瀬命・稲飯命(いなひ)・三毛入野命(みけいり))を失った。

占いでない店を見るとホッとする。この店は和菓子屋であるが、赤飯や山菜おこわも売っている。「おこわ」から湯気が立ってうまそうだ。帰り道、この店で山菜おこわを買った。

磐余彦軍は孔舎衛(くさえ)の坂で長髄彦によって打ち破られたのだが、孔舎衛(くさえ)の地名が残っていないかと地図を探してみると、日下町4丁目に孔舎衛小学校を見つけた。 このあたりは孔舎衛と呼ばれた時期があったのである。

「盾津」も「孔舎衛」も残っていたのかと嬉しがっていたのだが、「日本書紀(一)」(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋)の原文(といっても読み下し文)を読んでいたら、「孔舎衛」の注に、孔舎衛村はたしかにあったが、それは大正元年に新たにつけた名である、と書いてあった。ギャフンである。この分では「盾津」もそのたぐいだろう。

参詣道は石切神社の正面に繋がっているのではなかった。石の鳥居が向いている左手が正面のようだから、まずは左に曲がって、Uターンして鳥居を正面からくぐることにする。

神門があった。立派なものである。これほどの神門を持つ神社はそうはない。そう思ったのだが、これは神門ではなく絵馬殿であるそうだ。

絵馬殿の姿はよい。形は楼門である。二層だが一層目には屋根がなく高欄がある。初層に屋根がない分、屋根は大きく軒が深い。よって鳥が翼を広げた感じになり姿がよい。

ついでなので境内図を見ると、本殿の手前に、@五社明神社、A神武社、B水神社があり、本殿の裏にC穂積神霊社、D乾明神社がある。本殿の真後ろには穂積殿という本殿よりはるかに大きな建物があって、「穂積地蔵尊」とある。神社に地蔵が祀ってあるらしい。

屋根の上には金色に輝く剣が空を突き刺すように立ち、その回りに6本の矢が並んでいる。まさに剣矢(つるぎや)神社である。


本殿に向かう。今は饒速日(にぎはやひ)と可美真手(うましまで)の2柱を祭神としているが、かつては宮山にある上之社に饒速日が祀られ、下之社(ここがそれ)に可美真手(うましまで)が祀られていたという。

参詣道を行き来する人波はちょっとしたお祭りのようであったが、その参詣人が集まってきているのであるから、本殿前は結構な人ごみである。これほど繁盛している神社は珍しい。

私のように帽子をかぶり、カバンを掛け、写真を撮っている者は観光客である。だが半分はそうではなく、ちゃんとお参りにきているようである。お百度参りという言葉は知っているが、これまでお百度参りをしているところを見たことはなかった。だがここではお百度参りをしている人を何人も見かけた。

鳥居を少し入ったところと本殿(正しくは拝殿であろう)の前に「百度石」が立っている。2本の石柱の間は15mくらいだろうか。お百度参りする人は、本殿前で礼拝し願いごとを思い、きびすを返して鳥居前の百度石まで行き、くるりと回って本殿前に戻る。礼拝が済むと本殿前の百度石を回って鳥居前の百度石までゆく。この繰り返しを百度繰り返すのである。

石切神社はデンボ(腫瘍)の神さんとして有名である。なぜデキモノの神さんにお参りするのか、デキモノができる人はそんなに多いのかと不思議であったが、今日ようやくその理由がわかった。

癌も腫瘍のひとつだからである。デンボの神さんは癌治癒の神さんであったのだ。癌患者が身内にあれば、なるほど熱心に百度参りをするはずである。この参詣人の賑わいも得心がいく。

摂社がある。右は五社明神社、左が神武社。五社とは、@恵比須大神、A大国主大神、B住吉大神、C稲荷大神、D八幡大神だそうだ。

神武社には神武天皇が蹴り上げた石を霊代(たましろと読むのであろう)として祀ってあると案内板にある。「この石はご東征のみぎり高天原の神々に武運を祈り蹴り上げたと伝わるものです」ともあった。

ガードマンに社の中に石が祀られているのかを尋ねてみたが、知らなかった。なお、磐余彦が石を蹴り上げて武運を祈ったという話は書紀にも古事記にも出てこない。

水神社には亀がいた。

3人の兄を失った磐余彦軍がその後どうしたかを、書紀から抜き出すと、以下のようになる。
  1. 7月ころ、熊野の荒坂に上陸し、丹敷戸畔(にしきとべ)という女賊を討ったが、毒気に当たって磐余彦は眠りこんでしまった。

  2. 高天原から「フツノミタマ」という剣を与えられて目覚めた。

  3. 吉野山中で道に迷ったが、高天原から八咫烏(やたのからす)がやって来て先導し、宇陀に到着できた。


境内を一周して別の出口に出た。来た参詣道を引き返して、上之社へ行ってみる。
  1. 8月、宇陀の弟猾(おとうかし)は磐余彦に服属したが、そうしなかった兄猾(えうかし)を殺した(久米歌)。

  2. 10月、国見丘の八十梟帥(やそたける)を戦闘で討ち破った(久米歌)。

  3. 忍坂邑でその残党を騙まし討ちにした(久米歌)。

  4. 11月、磯城の弟磯城(おとしき)は磐余彦に服従したが、そうしなかった兄磯城(えしき)を討った(久米歌)。



石切神社上之社へ向かっている。

12月、再び長髄彦(ながすねひこ)と戦うことになった。磐余彦にとって長髄彦は兄五瀬命の仇である。なんとしてでも長髄彦を撃破したいのだが、なかなか決着がつかない。

そのとき金色の鵄(とび)が飛んできて磐余彦が持つ弓の先に止まった。鵄(とび)は光輝いていたため長髄彦軍は幻惑されて力を発揮できなかった。それでも磐余彦軍は勝てたわけではない。

ただ後に、この地で鵄の瑞兆を得たことから、この地を「鵄(とび)邑」と名づけたと書紀はいう。今の登美・鳥見あるいは富雄のあたりである。

石切神社上之社は標高150mくらいの高さにある。

戦闘は膠着状態になったようである。長髄彦は磐余彦のもとに使者を送り次のように伝えた。

「昔、天神(あまつかみ)の子が天磐船(あめのいわふね)に乗って天降られた。名は饒速日命(にぎはやひ)とおっしゃる。

この方が我が妹の三炊屋媛(みかしきやひめ。またの名は長髄媛、またの名は鳥見屋媛(とみやひめ))を娶られて、子ができた。名前を可美真手(うましまで)という。それで私は饒速日命を君として仕えている。

いったい天神の子は2人いるのか? なぜ天神の子と名乗って人の国を奪おうとするのか? 私が思うにお前は(天神の子の)偽者だろう。」


石切神社上之社の祭神は饒速日命(にぎはやひ)である。

磐余彦は答えた。 「天神の子は多くいる。お前が君とする者が本当に天神の子であるなら表物(しるしもの)を持っているはずだ。それを見せてみよ。」

長髄彦が饒速日の矢と靫(ゆき。矢をいれる)を見せると、磐余彦は「いつわりではない。本物である。」と答え、自分が持っている矢と靫を長髄彦に見せた。

磐余彦は饒速日も天孫一族であることを知り、饒速日も磐余彦が同族であることを知った。そこで饒速日はどうしたか? 妻の兄であり、自分によく仕えてきた長髄彦を殺害し、軍勢を率いて磐余彦に帰順したのである。ここは長髄彦が哀れである。

上之社の左手に婦道神社がある。説明板によると祭神は弟橘媛(おとたちばな)であるという。日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃のひとりで、東国に遠征中に相模の海上で暴風雨にあったとき、弟橘媛は船上から海に身を投げてこれを鎮めたという、あの弟橘媛である。

なぜここに弟橘媛を祀る神社があるのかといえば、弟橘媛の父は穂積氏忍山宿禰(ほづみのうぢのおしやまのすくね)だからである。穂積氏は物部の有力な一族である。石切神社下之社に穂積神霊社や穂積殿があったが、石切神社は穂積一族の氏神社でもある。

登美霊社。ここは長髄彦の妹にして、饒速日の妻にして、物部の祖の可美真手(うましまで)の母親である三炊屋媛(みかしきやひめ)を祀っている。

三炊屋媛は、書紀では長髄媛や鳥見屋媛(とみやひめ)の別名があるといい、古事記では登美夜媛という。登美霊社の名前は古事記によってつけたようだ。

饒速日はなぜ易々と磐余彦に帰順したのだろう。饒速日は磐余彦より先にヤマトにやってきて、土地の有力者の長髄彦と血縁関係を持ち、すでに登美の地を支配していたのである。

シロートが思うに、饒速日は弥生人で長髄彦は縄文人であったためかも知れない。長髄彦とは、スネが長い男を意味する。手足が長いのは縄文人の特徴であるという。


近鉄・石切駅に向かって下る。

書紀は「土蜘蛛」について語っている。饒速日が帰順した翌年に、添県(そほのあがた)、和珥(わに)、長柄(ながら)の3か所に土蜘蛛がいて服属しなかったので殺したという。

また言う。「高尾張邑(たかおわりのむら)に土蜘蛛がいて、その姿は身丈は短く、手足が長く、蜘蛛に似ていた。皇軍は葛(かづら)の網を作って、覆って捕らえて殺した。そこでこの邑の名を「葛城」とした。」

長髄彦も土蜘蛛のようである。饒速日は異種族の土蜘蛛よりも同族の磐余彦を選んだのかも知れない。

石切駅まで戻ってきた。北に向かっている。

「日本神話の考古学」(森浩一)によると、日下町には縄文晩期の遺物を出した日下貝塚があるそうだ。地図を調べると日下町2丁目にある。標高は20mくらい。海(河内湾)を前にした高台である。

また日下は「東に山越えして大和に至る道(直越)の出発点である」とも書かれてある。「直越」は(ただこえ)と読む。生駒山を越すルートがあるらしい。

縄文人は直越をして生駒山の向こうと交流していたのであろう。その相手は長髄彦の先祖であったかも知れない。 線路の向こうに見える生駒の山並みを見ると、このあたりの山を越えることはそう難しいことではないように思える。

石切駅の近くに案内図が立ててあった。

図の(A)は生駒山山頂(642m)である。山頂の右に鞍部(B)があるが、これは暗峠(くらがりとうげ)であろう。地図を見ると標高は460mほどなので山頂より180mほど低い。

(A)の左の(C)が直越道か? 標高は380mくらいなので暗峠よりも嶮しくないようだ。

インターネットで調べると、日下町8丁目から山道を登ると直越道に出ることがわかった。 できれば直越の道を少し歩いてみようと予定していた。



このあたりはまだ上石切町である。

饒速日は磐余彦より先にヤマト入りをしているが、空想すると磐余彦と同様に瀬戸内海から河内湾に入り、日下で上陸したのではないか。そして直越をして生駒山を下ったすぐの土地である登美にいた長髄彦を従えたのではないか。

長髄彦が従ったのは、饒速日が持つ武器が圧倒的に勝っていたからだろう。鉄の剣であり、鉄の鏃(やじり)である。おそらく長髄彦はこれを持っていなかった。

磐余彦が饒速日の矢と靫(ゆき)を見て、同族であると知ったのは、矢には鉄の鏃がついていたからではなかったか。また磐余彦が初戦で敗退し、2度目の対戦でもなかなか勝てなかったのは、饒速日の傘下に入った長髄彦も鉄の兵器を所有していたからであろう。


すぐに西が見渡せるところに出た。バイクに乗った若者が写真を撮っていたので、私も撮った。

(次図)だいたい標高100mくらいの位置である。眼下のスペイン風の建物は幼稚園。その先に東大阪の家並みがかつての河内湖を埋め尽くしている。左手から1/4くらいのところに4〜5棟の高層ビルがあるが、あれは京橋のビジネスパークのビルではなかろうか。ビルの左側に森らしいものがあるが、それは大阪城公園か。

ずっと奥に連立する高層ビルが梅田から難波にかけてのビル群で、最も遠くに見える山は六甲山系であろう。

磐余彦が上陸した草香津(白肩津・盾津)は、大阪城公園(らしい)の手前に焦げ茶色のマンションらしき建物があるが、そのあたりだろうか。

日下と登美は直越道で繋がっている。磐余彦が軍勢を率いて上陸したことは、いちはやく長髄彦に伝えられたことだろう。磐余彦の目的は饒速日がそうであったようにヤマトに入ることである。 長髄彦は直越道を通って、この辺りにやってきて、磐余彦軍の偵察をしたはずだ。そしてその動きは手に取るように判ったと思われる。





日下町1丁目に来た。

磐余彦は初めからヤマトを目指していた。磐余彦がいた九州の地は日向(ひむか)であるとされるが、そこは国の中心から余りにも離れている。

日向にいるとき長老の塩土老翁(しおつつのおぢ)がいうには「東の方によい土地がある。そこは青山が四方を取り巻いている。そこへ天の磐船に乗って、飛び降りてきた者がある。」

磐余彦は「その土地は大業を広め、天下を治めるのによいだろう。そこに飛び降った者とは饒速日というらしい。私もそこへ行って都を造ろう。」そういって一族郎党を引き連れて日下にやってきた。

日下町1丁目には2つの神社がある。ひとつは右の丹波神社。古い由緒があるかと期待して来たが、江戸期にできたものだった。

ここにも百度石が立てられている。社に近づいたら社の前から猫が逃げ出した。

九州の日向(ひむか)にいるときから磐余彦は饒速日がヤマトにいることは知っていた。だが饒速日は磐余彦を知らなかった。初戦も最後の戦いも戦いの当事者は長髄彦となっているが、これを命令したのは饒速日であろう。

饒速日にとって、磐余彦は遅れて来て自分が開拓した土地を横取りしようとする簒奪者であったろう。当然のごとく長髄彦に磐余彦軍を襲わせた。そして磐余彦軍を退却させた。


日下神社。石造の社である。神武東征とか祭神についての説明があるかと思ってきたが何もなかった。日下の村社なのだろう。

登美における2度目の対戦で、饒速日は磐余彦に帰順した。互いに矢と靫を見せ合うことで、同じ天孫族であることを知ってから、饒速日と磐余彦は会談したと思われる。そこで、天孫族のうちでも磐余彦のほうが本家筋であったか、あるいは磐余彦の軍勢のほうがまさっていることを知ったのか、ともかく自分よりも磐余彦のほうが優位であることを悟ったのだろう。

先にヤマト入りをしていたとはいえ、饒速日が支配しているのは、ヤマトの片隅の登美でしかない。ここで同族の磐余彦に手を貸せばヤマト全体を支配できるという思いもあったのか。

案内板があった。「↑日下直越道」と「←日下直越道」の2つの案内が出ている。「日下右折れして坂道を登っても、まっすぐに左へ進んでも直越道に行けるらしい。坂道を登ることにした。このあたりの標高は100mである。


住宅が尽きかけたところに大龍禅寺不動院があった。

舗装道路が尽きた。山道となる際に5つの案内がされている。どれも同じ方向の「←」がついている。
  1. ←日下直越道
  2. ←神武天皇顕彰碑
  3. ←龍の口霊泉
  4. ←五瀬命負傷碑
  5. ←生駒縦走道
「←日下直越道」とは、矢印の方向に進めば日下直越道に行き当たるということだろう。とするなら、今歩いている道は直越道ではないことになる。「←生駒縦走道」とあるから、これは日下直越道とは別の道なのだろうか?案内板ひとつであれこれ疑問がわく。(事前の調べが不足している)

初めは山道としては緩やかな坂であった。

先に掲げた「日本書紀(一)」の補注によると、昭和13年から15年にかけて文部省は「神武天皇聖蹟調査」を行った。古事記と日本書紀にでてくる神武天皇に関係ある地名を推定し、 @聖蹟、A聖蹟伝説地、B聖蹟推考地、の3つのランクに分類したのである。

@の聖蹟とされたのは、難波碕(大阪市)、宇陀の穿邑(うがち。宇陀郡宇賀志)、丹生川上(吉野郡小川村)、鵄邑(とび。奈良市富雄町)、橿原宮(橿原市)など9か所である。

A聖蹟伝説地は江戸時代より前から伝承があった地で、孔舎衛(日下)、宇陀の高倉山、鳥見山中霊畤(とみのやまなかまつりのにわ)(桜井市外山)など7か所。

B聖蹟推考地は、伝説はないが価値ある資料によって推考できる地で、盾津(東大阪市)、磐余邑(桜井市)などである。

孔舎衛と盾津は、文部省がここだと決定しているわけである。なお磐余彦が敵を討った国見丘や忍坂(おさか)の大室は、広汎の地は推定できるが的確な地域は決まらなかった。

昭和15年は皇紀2600年の年であった。橿原神宮が拡張整備され、各地で記念の式典が行われた。この年にあわせて神武聖蹟を決めたのだろう。

石がごろごろしているデコボコの小道になった。ここから急な坂が続いた。


大岩滝というらしい。2011年4月4日にこの案内板と立てたと書いてある。

ここからは急坂となった上、案内がまったく無くなった。不安であるが道なりに進むしかない。


30分ほど登ると平坦な道にでた。この道が「日下直越道」なのか「生駒縦走道」なのかは判らないが、平らな道は嬉しい。3つの案内があった。
  1. ←神武天皇顕彰碑
  2. ←龍の口霊泉
  3. →五瀬命負傷碑
神武天皇顕彰碑と五瀬命負傷碑は方角が違うので、とりあえず神武天皇顕彰碑に向かう。

5分もせずして神武天皇顕彰碑の場所に着いた。だいたい標高240mくらいの高さだと思われる。尾根が平らになっているところに顕彰碑が立てられている。 大阪府教育委員会が「顕彰碑の由来について」という説明をしていた。

「神武天皇が生駒山を越えて大和に行こうとしたところ、長髄彦という者が行く手をさえぎったため、孔舎衛坂(くさえ)で両軍が戦ったという伝承がある。孔舎衛とは今の日下で、この付近であるとの説に基づき、昭和16年に各地の神武伝承地とともに、この顕彰碑が建てられた。(要約)」

この説明によれば、磐余彦軍が山越えをしていたときに、長髄彦軍がやってきて戦闘を開始したというニュアンスである。

そうならこの山中で戦いがあったとしてもよかろうが、磐余彦の長兄の五瀬命は流れ矢に当たって負傷したのであるから、戦いの初めは弓矢を打ち合っての戦いであったはずだ。

木々が茂る山中で弓を引いて矢を射ることは無理であろう。人に当たるよりも木に当たることのほうが多いだろう。また矢は枝に跳ねられて思わぬ方向に飛ぶこともある。

長髄彦軍は坂の上から左右に広がり、坂を上ってくる磐余彦軍に向かって矢を集中させたと思われる。それには、一人がようやく通れるような細い道しかない山中ではなく、もっと見通しのよい開けた場所でなければならない。

したがってこの近くに 建てられているらしい五瀬命負傷碑の場所は無理がある。戦闘のあった孔舎衛坂はもっと見通しがきく山の麓だったのではなかろうか。


石碑の前から大阪方面を向いてみたが木立が邪魔をして、かつての河内湾は見えない。

「鳥見」は「とみ」と読むことが多い。そして鳥見山という山は方々にあるようである。私が知っているのは桜井市の鳥見山と宇陀市榛原にある鳥見山の2つだが、長髄彦が根拠地とした登美も「鳥見」と書く。地図には富雄に鳥見小学校がある。

神武4年に、神武天皇は「わが皇祖の霊が天から降り見られて、わが身を照らして助けてくださった。いまや諸々の敵はすべて平らげて、天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝(おやにしたがふこと)を申しあげたい。」といわれた。

霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原(はりはら)、下小野の榛原と呼び、皇祖天神を祀った、と書紀は書いている。

五瀬命が飲んだという龍の口霊泉へ足を伸ばすことにした。尾根道なので平らで歩きやすそうだ。

「霊畤」(まつりのにわ)の場所は、先の文部省の調査では桜井市外山に比定されている。「外山」は「とび」と読む。桜井の鳥見山(245m)の麓にある(あるいは鳥見山を外山と呼ぶのかも知れない)。そこは磐余の地である。神武天皇が磐余彦と呼ばれていたのは、磐余の地と何か密接な関係があったのだろうし、天武期には迹見(とみ)駅家があった場所である。

だが、「そこを上小野の榛原(はりはら)、下小野の榛原」と呼んだというが、上小野や榛原の地名は残っていない。そこで思うのが宇陀市榛原町(はいばら)にある鳥見山(734m)である。麓には墨坂があって、ここで磐余彦軍は国見丘の八十梟帥(やそたける)を打ち破っている。この戦いは磐余彦にとってヤマトにおける初勝利となった。榛原は記念すべき土地である。

「榛原」「鳥見山」「初勝利」から、榛原町の鳥見山を「霊畤」の場所とすることもできる。9年前に榛原の鳥見山に登ったときに、その石碑を見たことがある。右がその写真で、石碑には「鳥見山中霊畤跡」とある。

ただこの比定は江戸時代にはいってからのものである。桜井の「とび=とみ」の地名は天武期からあることは確実だが、榛原町の鳥見山が昔から「鳥見」と呼ばれていたのかどうかは不明である。

大方の学者は桜井であろうというが、本居宣長は「鳥見山は外山であるが、鳥見という地名は広く榛原のあたりまでを鳥見山中といったのではないか」としたと、先の「日本書紀(一)」の注に書いてある。

龍の口霊泉。衛生上よくないから飲んではいけないと注意書きがあった。

宣長は榛原に「霊畤(まつりのにわ)」が設けられたとしているわけだ。宣長は「菅笠日記」で吉野や明日香に行ったとき、榛原で行きと帰りにそれぞれ1泊し、萩原(榛原)の歌を詠んでいる。榛原に鳥見山と呼ばれる山があることを知っていたのだろう。

龍の口霊泉で五瀬命(いつせのみこと)が水を汲んだという言い伝えがあるそうである。行軍中に水を飲んだのなら、磐余彦も共に飲んだであろう。特に五瀬命が水を汲んだと伝わるのは、肘にささった矢を抜いて傷口を洗ったということか?

この後山中を彷徨するはめになった。あとで地図で調べると右のように歩いたらしい。
  1. 日下町8丁目(山への入り口)
  2. 大龍禅寺不動院
  3. このあたりから登山し、
  4. 神武天皇顕彰碑へ行った。
  5. の五瀬命負傷碑を目指せば、どうやらそれが「日下直越道」らしい。生駒の山を越すことができるようだ。

  6. 私は逆の龍の口霊泉に向かった。そこで道は2手に分かれていた。一方はやや下り道で他方はやや上り道だったが、道のよさそうな上り道を選んだ。この道は起伏が少なくわりと楽に歩けたが、地図に見るように大回りして生駒山を越える道だった。これも「直越道」であろう。
  7. 「直越道」は「生駒縦走道」の一部なのだろうと思っているが、とにかく道の案内がないのである。「直越道」や「生駒縦走道」の案内板はどこにも見かけない。

    標識があって、嬉しや。と近づいてみると、矢印にNo.184 とかNo.185とかの番号が書かれているだけで、道案内ではない。関西電力の送電塔がある方角を示すものだろうか。No.は鉄塔の識別番号だろう。

    「生駒縦走道」なら一人くらいハイカーが歩いていてもよさそうだが、誰にも出逢わないので、この道が「直越道」または「生駒縦走道」なのかどうかを尋ねることができない。

  8. どこかに案内板があるだろうと、さらに進んだが結局見つからず、ついにはゴルフ場までやってきた。

    さすがに遠くまで来すぎた。時刻は2:00ころである。日が暮れるといけない。慌てて引き返した。
2度の対戦で長髄彦軍に苦戦した磐余彦である。饒速日が長髄彦を殺害して帰順したときは喜んだであろう。同じ天孫族が配下に入ったのである。磐余彦は饒速日(にぎはやひ)を重用した。

同じく重用したのはヤマト入りにおいて軍を指揮した道臣(みちのおみ)である。饒速日の子孫は物部を名乗り、道臣の子孫は大伴を名乗った。
出発した日下町8丁目に戻ってきた。

物部はヤマトにおいては石上神宮の近辺を根拠地としたが、実際の根拠地は東大阪市とその隣りの八尾市であった。つまり磐余彦が上陸した草香津(盾津)を中心にした一帯である。

下りすぎた。また坂道を登って石切駅に向かう。

天皇家繁栄の第一歩が盾津上陸であったことは奈良時代には周知のことであったようだ。大伴家持は次の長歌を詠っている。
蜻蛉島(あきつしま) 大和の国を
天雲に 磐船浮かべ 艫(とも)に舳(へ)に
真櫂(まかい)しじ貫(ぬ)き い漕ぎつつ
国見しせして 天降(あも)りまし
払い平げ 千代重ね
いや継ぎ継ぎに 知らしける ・・・(19-4254)
磐余彦が船団を率いて河内湾にはいったときの光景を頭に浮かべて詠んだのであろう。 


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