東京の近代建築

    No.88.....2011年11月20日(日曜)


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東京に行く用事があったので、かねてより見たかった建物を見物してきた。訪れたのは右図の10か所。
  1. 早稲田大学・大隈講堂
  2. 東京ルーテルセンター教会
  3. カトリック神田教会
  4. ニコライ堂
  5. 湯島聖堂
  6. 日本工業倶楽部
  7. 東京銀行協会
  8. 明治生命館
  9. 三菱一号館
  10. 築地本願寺
東京へ行くのは10年以上ぶりである。よい機会なので、早めに上京して、先に伊東忠太の築地本願寺の見物をしようと予定していた。だが土曜日は大雨であった。中野サンプラザホテルにチェックインし、雨の中を出かけて用事をすませた。

天気予報では日曜日は曇りから晴れだという。朝8:00に出発すれば、6時間程度の見物ができそうである。夜、ホテルの暗い灯りのもとで明日の予定を立てた。

東京の近代建築巡りをしようと思って、「建築マップ」シリーズ(TOTO出版)の「東京」「東京A」をアマゾンから取り寄せた。この本は、大阪・神戸・京都の近代建築巡りをするときの絶好のガイドブックとなっていたからである。だがその本には1980年以降に竣工した建物だけが掲載されていた。

私が見たいのは明治・大正・昭和初期の近代建築物である。これはいかんと急遽「東京建築散歩」(山川出版)を取り寄せたのだが、届いたのは金曜日で、読む間がなかった。土曜日の近鉄および「のぞみ」の車中で目を通した。

右図は地下鉄東西線「早稲田」駅近く。

早稲田大学の大隈記念講堂は、佐藤功一の設計により昭和2年に竣工している。写真で見るとなんともいえず伸びやかで気品があり、しかも端正な建物である。一度は実見したいものだと思っていた。中野から早稲田は近い。朝一番にここを訪れようと決めた。

ただし頼みの「東京建築散歩」には紹介されていなかった。地図もない。ホテルのフロントで尋ねて、東西線に乗ればよいことがわかった。

地下鉄を降りて、念のために警視庁と書かれたバイクに乗っていた警察官に尋ねると、思っていたのとは反対の方角の道を教えられた。道は「南門通り」というらしい。道は曲がっていたが、突然、向こうに大隈講堂の塔が見えた。

おお、これだこれだ。講堂の正面には3つのアーチ形の開口部が並ぶ。その左右には細長い四角な窓と小さな丸窓がある。アーチの上には四角な窓が5つ並ぶ。アーチの真上にある3つは石の枠がつけてある。

左には尖塔。一番下に、正面とおなじチューダーアーチの出入り口、その上に細長い窓が2つ重なっている。時計の下にある窓の頂部はチューダーアーチではなく、いちどは閉じるかと見せてまた開き、最後に閉じるという三つ葉の形のアーチである。

壁面は黄色がかった茶色のタイルである。軒下には∩∩∩が連続する帯で巻き、その上に石造と思われる尖塔が乗っている。

尖塔の頂部の石の部屋は、教会なら鐘楼であろう。大学の場合は鐘はないかも知れない。四隅にはカッターナイフの先のように尖った柱が立つが、支えるものは何もなく、天に向かって伸びている。

4面は、下部に十字形が打ち抜かれた柵のような低い壁があり、その上には2連の三つ葉形アーチがある。その上に教会建築でいうところのバラ窓のような窓が繰り抜かれている。これが各面に2つずつある。

このような尖塔は、置塩章(おじおあきら)の旧国立生糸検査所にもついていた。ゴシック系の様式であるが、なんと呼ばれているのは知らない。
アーチの基本は半円である。中心点を1点決めてコンパスを回すと半円ができる。これを開口部(出入り口や窓)の上に置くとアーチになる。

中心点を2つにしてそれぞれ、左側の中心点から右側に1/4円を、右側の中心点から左側に1/4円を描くと、尖頭アーチができる。頂上部が尖っているアーチである。2つの中心点が離れるほど尖りは急になる。

チューダーアーチは中心点が4つあって、1つの中心点から1/8ずつ円弧を描かせるとできる。頂上部は少し尖っているがその脇はゆったりとした弧となる。
講堂の装飾は控えめである。シンプルである。従って建物の壁面が伸び伸びととして心地よい。アーチ・四角い窓・丸窓の配置が絶妙である。佐藤功一のセンスは凄い。

東西線に再び乗って飯田橋で下車した。「東京建築散歩」に、長谷部鋭吉が設計した東京ルーテルセンター教会が紹介されており、地図もついていたからである。

「目白通りを南に歩き・・・」と書いてあった。目白通りはわかったが、どちらが南なのか方角がわからず、少し道に迷った。

日本人が本格的な西洋建築を建てられるようになったのは、明治10年に英国人コンドルが来日し、工部大学校で教鞭をとってからである。コンドルの教え子に辰野金吾・曽禰達蔵・片山東熊らがいた。彼らを日本建築史上の第1世代という。

辰野は日本でコンドルに教わった後、コンドルが学んだロンドン大学に留学した。明治17年にはコンドルに代わって工部大学校教授になり、明治35年まで教壇に立ち、56人の卒業生を送り出した。

辰野から教わった第2世代には、横河民輔・長野宇平治・伊東忠太・武田五一・中條精一郎・野口孫市・桜井小太郎・松室重光らがいる。

第1世代はコンドルが教えた建築学をひたすら学びこれを応用したのであるが、第2世代は辰野が教えた建築学に加えて、米国からも多くのものを吸収し、どのような歴史様式の建築物でも作れるほどのレベルに達していた。彼らは明治末から大正年間にかけて活躍する。

目白通りには明治期には学校が立ち並んでいたようである。「東京農業大学開校の地」とか「日本大学開校の地」「国学院大学開校の地」といった石碑が歩道に立っていた。

「日本赤十字社跡」の石碑もある。

大正末から昭和に活躍するのは辰野から直に教わっていない第3世代である。渡辺節・安井武雄・佐藤功一・長谷部鋭吉・渡辺仁・岡田信一郎・ヴォーリズなどがいた。この世代は歴史様式を受け継ぎながらも建築に新しい感覚を持ち込んだ。

大隈講堂の佐藤功一と長谷部鋭吉は同じ第3世代である。長谷部の代表作は大阪の住友ビルヂング(住友本店)であろう。堂島川べりに建つこのビルは、飾りのないモダンデザインの箱型の建物であるが、正面に大きなイオニア式オーダーを構えて歴史主義の様式を残している。

その長谷部がどのような教会を建てたのであろうか。佐藤功一の大隈講堂と比べてどのような違いがあるのであろうか。ここが楽しみでやってきた。

なんともシンプルな建物である。塔の下が出入り口である。その上に細長いアーチ窓が2つ。またその上に丸い窓。窓を縁取る装飾はいっさいない。壁面を刳り抜いただけである。 丸窓の上方に十字架が貼り付けられ、塔の頂きにはアーチ形 の繰り抜きがある。鐘塔であろう。

塔の右側には何のためか2階にも出入り口がついていて、平らな軒を四角の柱が支えている。さらに右の壁面には4つのアーチ窓があるが、これも縁取る装飾はない。窓にはステンドグラスが嵌め込まれているから、室内に入ればきれいなのだろうが、外側からみるとペッタリしている。

神戸にある神戸住友ビル(旧住友銀行神戸支店)も長谷部の作品だが、その建物もさっぱりしていて、そっけない。それでもアーチ形の開口部の縁には細かな彫刻がほどこされていた。

この教会は元は神学校であったそうだから、教育機関らしく飾りを極力排除しているのかも知れないが、これほど飾りがないと、開口部の形とその配置のバランスしか見どころがないようである。

歴史様式からは、アーチ窓がロマネスク風である。チューダー様式を採用した佐藤功一の大隈講堂のほうが、数段よいと思った。
JR中央線の次の駅は水道橋である。ひと駅乗っただけなので運賃は130円。

これから西神田1丁目にある神田教会を訪れる。
白山通りを南に下り、2丁ほど歩いて左折すると、
ビルに挟まれた教会があった。「東京建築散歩」によると設計者はスイス人のヒンデルまたは宮内初太郎であるそうだ。宮内初太郎の名前は初めて知った。

窓という窓はすべてアーチ窓で、刳り型がつけてある。特に礼拝堂があると思われる奥の壁面には7つのアーチ窓が並んでおり、リズミカルである。

軒下には∩∩∩が連続するロンバルディア帯。いったいに同じ装飾やパーツが連続していれば建物にリズム感がでてくるものだ。このロマネスク風の教会はよい雰囲気を持っている。

出入り口は正面にはなく左横にある。日曜日なのでミサを行っているのであろう。母親と幼児が入っていった。

この教会は昭和2年に竣工している。関東大震災が発生したのは大正12年(1923年)のことであるが、それ以降に建てられる比較的大きな建物は鉄筋コンクリート造になった。純粋の煉瓦造とか組石造(そせきぞう)の建物は建てられなくなっていた。



神田教会は鉄筋コンクリート造である。外観は石造りのように見えるが、コンクリートの壁面に薄い石板を貼ったものである。

それならば形の整った四角な石板を使えばよいのに、よく見ると石の形は同じではない。大小の長方形や台形の石を組み合わせている。同じサイズの石板でカチッとまとめると堅苦しくなるのを嫌ったのかも知れない。

JR中央線の次の御茶ノ水駅で下車する。「東京建築散歩」によると、本郷界隈には多くの古い教会が残っているようである。本のイラストを見ると、本郷中央教会・弓町本郷教会・西片町教会は塔屋をもつゴシック様式の教会である。大学の回りには布教のための教会が多く建てられたそうである。

時間が限られているので、今日はそこまでは足を伸ばせない。御茶ノ水には、あのニコライ堂がある。これを見なければ来た甲斐がないというものだ。

本郷通りを南へ2分か3分ほど降っていくと、道は「く」の字型に曲がっていた。その「く」の角にニコライ堂が姿を現した。 これがコンドルが建てたニコライ堂か・・・。

コンドルが日本人にはじめに教えたことは、「様式」についてであった。欧州には、ギリシャ・ローマに始まるクラシックと、中世の教会からきたゴシックの2つの様式がある。クラシック様式は、@ローマ、Aルネッサンス、Bバロック、C新古典主義 と変化し、ゴシック様式は、@ロマネスク、Aゴシック、Bゴシックリバイバル へと変化した。

コンドルは学生にそれぞれの様式の特徴と意味を教え、また政府から設計を依頼されて実際に施工して手本を見せた。

藤森照信さんの「日本の近代建築」によれば、コンドルによる代表的なクラシック様式の建築物は、有栖川宮邸(明治17年)や鹿鳴館(明治16年)である。ゴシック様式のものは、法文科大学(明治17年)であるそうだ。


残念なことにこれら建築物は現存していない。写真で見ることができるだけである。ニコライ堂は現存する数少ないコンドルの作品で、国の重文である。

コンドルは明治17年に辰野金吾に工部大学教授の職を譲り、政府関係の設計から手を引いたのだが、それは今後は民間の建築を手がけるということでもあった。

その仕事のひとつがニコライ堂であり、丸の内の三菱一号館を初めとするオフィスビルの設計であった。

ニコライ堂が完成したのは明治24年である。いくら様式に詳しいコンドルとはいえ、これまでは日本国政府の公用の建物ばかりを建ててきたのである。ここへビザンチン様式の教会建設の依頼がきた。とまどったことだろう。


京都ハリストス正教会は松室重光によって明治36年に竣工している。ここを訪れたときに知ったのだが、教会の平面は、正面から奥に向かって、玄関→啓蒙所→聖所→至聖所の順になっており、平面プランは「十」字型をしている。

「十」が交差しているところが教会の中心部で、それが聖所である。写真の青銅色のドームの下が聖所と呼ばれるところであろう。

写真は玄関側から見たもの、玄関の上には鐘塔がついている。ビザンチン様式は大きなドームが特徴である。

大きなドームを乗せるにはその重さに耐えられるような構造設計をせねばならないが、クラシック様式にはパリのオペラ座のように巨大なドームを持つ建物があるし、ローマのパンテオンのドームの直径は43mもある。コンドルはこの面での不安はなかったろう。

あったのはビザンチン様式に詳しくないことだった。これを調べることが大変ではなかったか。



御茶ノ水駅まで戻ってきたら、聖橋のたもとに「湯島聖堂 200m」という案内板があった。 そういえば東京のNさんが湯島聖堂の何かの会長か理事長職に就いておられるといっておられた。ついでなので話のタネに訪ねてみよう。

橋を渡った右の杜が湯島聖堂であるようだ。左のビルは東京医科歯科大学である。

湯島聖堂の入り口は神田川沿いにあったのだが、それを知らないものだから、本郷通りから神田明神の門を左手に見て、また坂を下ってと、聖堂の敷地を一周するはめになった。だが歩けば得るものもある。写真の坂道が「昌平坂」であることを知った。

江戸幕府の学問とは朱子学であった。家康は林羅山を登用し、朱子学を幕府の中心となる学問であるとしたからである。湯島聖堂は、もともと林羅山が私邸内に孔子の聖像を祀ったのがその始まりだが、5代将軍綱吉は1690年に、湯島に大成殿を建て、林家の私塾(学問所)を湯島に移した。

これ以来、湯島が幕府が認める学問所になったようである。 幕府に登用されるには、学問所で優秀な成績を上げることが条件の ひとつであった。まあ学歴主義の現れである。

1797年、江戸幕府は湯島聖堂に敷地を東京医科歯科大学のあるところまで拡張し、官立の学問機関である昌平坂学問所を開設した。

しかし、朱子学はたいした学問的成果を上げることはなかったようだ。例えば、本居宣長が古事記伝44巻を完成させたのは1798年のことである。宣長は実証主義的な方法によって、古事記を解明した。観念的な朱子学はすでに時代おくれの学問になっていたのである。

写真は仰高門(ぎょうこうもん)。

大きな孔子の石像があった。

昌平坂学問所の「昌平」は孔子が生まれた魯国の昌平郷にちなんで命名されたものである。

孔子には孔門十哲と呼ばれる十人の優れた弟子があった。いちいちは憶えていないが、井上靖さんの小説「孔子」は、孔子と孔子の晩年に各地に随行した子路・顔回・子貢、の3人について架空の弟子が語るという構成である。この3人の名前は覚えていた。十哲のうちの3人である。

湯島聖堂には、孔子と4賢人の像が祀られている。ここでの4賢人とは、@顔回(顔子)、A曽参(曽子。「孝経」を記述)、B子思(「中庸」を記述)、の3人の十哲と、孔子の死後弟子であるC孟子、の4人である。


黒漆塗りの入徳門をくぐり、向うの石段の上にある杏壇門(きょうだんもん)を通ると、
大成殿がある。ここに孔子の聖像と4賢像が祀られている。

内部は床が石敷きであるほかは、柱の上の組み物や柱を繋ぐ虹梁(こうりょう)、折り上げ天井などは和様である。全体が黒漆塗りのように見えるが、柱を叩いてみると硬い。鉄筋コンクリート造である。

200円を払って大成殿の内部に入ると、パンフレットを頂戴した。そのパンフレットを読んで、驚いた。なんと湯島聖堂は伊東忠太が設計していたのである。
湯島聖堂の大成殿は関東大震災で罹災消滅していたが、昭和10年(1935年)に伊東忠太の設計により再建したとある。

伊東忠太の代表作の第1は、京都の平安神宮であろう。これは日本の建築様式に詳しい伊東が、平安初期にあった御所の大極殿を再建したものである。残っている少ない資料・図面から、伊東はなんとか大極殿を復元した。およそ800年後に復元したのである。

これに比べると湯島聖堂の大成殿の復元は容易であったと思われる。幕府の公的な建物であるから、設計図は残っていたであろう。ただし細かな装飾は不明で、伊東がそのセンスで決めたものがあったかも知れない。

例えば大棟に乗るシャチホコである。頭部は龍で尾は魚という代物である。はたして大成殿にこれと同じものがあったのかどうか。伊東忠太が右図のようなヘンテコリンなシャチホコを考えたのではないか。

また降り棟(隅棟にもある)の先に据えられている動物は、トラか豹かといった姿であるが、頭部は猫で、腹部には蛇のウロコがついている。

もともとそういう屋根飾りがあったのかもしれないが、和様の建物に異様な屋根飾り(シャチホコなど)を置いたのは、伊東忠太の考えだったのではないか。

御茶ノ水から東京駅へ。運賃は130円。辰野金吾が建てた東京駅は復旧工事中で、構内はいたるところが工事用のシートで覆われている。丸の内の北側に出た。

右の白いビルは日本生命ビル。左の黒いビルは新丸ビル。日本生命ビルの向う隣のガラス貼りのビルは三菱UFJ信託銀行本店。その前にある小さな褐色の5階建ての建物は日本工業倶楽部のビルである。

日本工業倶楽部は戦前は現在の経団連や日経連のような役目を果たしてきたが、戦後は経団連・日経連を設立し、経済問題や労働問題についてはこれら団体に任せ、今は財界人の交流を目的とする社団法人になっている。

今は非公開のようだが、若い頃一度だけ入ったことがある。といっても事務室のような小部屋に通されたので、古いビルだなという感想しかなかった。

日本工業倶楽部会館は第2世代の横河民輔(その配下の松井貴太郎が担当)が設計し、大正9年(1920年)に竣工した。今のビルは老朽化したビルを復元したものである。
横河民輔は、日本で初めて鉄骨構造のオフィスビルを建てた建築家である。当時のアメリカは鉄骨を使って、ビルがどんどん大型化・高層化しており、ビルにはエレベータや空調設備が設置されるようになっていた。

横河はいち早く鉄骨構造のビルに注目した。鉄骨の組み立てが必要となると、内製のために「横河橋梁」を作り、エレベータや空調機械の開発のために「横河電機」を作った。これら会社は今でも株式市場に上場されている。単なる建築家ではなかった。

鉄骨構造は木造家屋と同様に柱が荷重を支える。壁が支えるのではない。こういうのを軸組構造という。柱があれば荷重を受けない壁は薄くてよい。従って柱と柱の間に大きな窓を空けることができる。オフィスビルにはもってこいの構造である。

この工業倶楽部会館は鉄筋コンクリート(一部鉄骨)造である。一階は組石造、2階より上はタイル貼り。2階の窓はアーチ窓でほかは四角い窓。

正面玄関にはドリス式のオーダー。3階から5階にかけての壁面にピラスター(付け柱)が貼り付けられ、軒下はデンティル(櫛型の軒下飾り)がつく。クラシックの要素が取り入れられているが、この建物は日本における本格的なセセッション様式であるという。(セセッションについては私は知識がない)

正面の屋上には彫像が据えられている。左にハンマーを持つ男、右に 紡錘らしきものを持つ女。当時の日本の工業とはハンマー(石炭・鉱業)と紡績(糸巻き)が主力であったのだ。

工業倶楽部会館の前の道を皇居に向かって歩くと、すぐに東京銀行協会ビルがある。そこに先代の煉瓦造の東京銀行協会の外壁が貼り付けてある。ファサード保存という保存法である。

ファサード保存とは、建物の外部だけを保存する保存法である。内部は保存しない。新しく建設するビルに古い建物の表面を貼り付ける。

旧東京銀行協会ビルの設計も横河民輔(その配下の松井貴太郎が担当)である。大正5年(1916年)に竣工した。

関東大震災にも耐えて昭和62年(1987年)まで約70年間建っていたが、老朽化したため解体保存されていた。1993年(平成5年)に新しいビルが建てられたときにファサード保存された。


日本で初めてファサード保存をしたのは、京都の中京郵便局である。保存が完成したのは1978年(昭和53年)であるから東京銀行協会より15年も前のことである。

旧東京銀行協会ビルは解体保存しているので、新ビルを建設する段階で保存していた外壁を貼り付ければよい。ところが中京郵便局の場合は新ビルの建設と外壁保存が同時に行われたという。

つまり旧建物の内部を壊し、外壁だけを残して、外壁が倒壊しないように内側から補強し、新建物の枠を作ってコンクリートを流し込む。これによって外壁と新建物が一体化する。大変な工事であったと思われる。

1階は角窓が並び、2階にはペディメント(三角破風)が乗り、その下に欄干がついた窓が並んでいる。このあたりはルネッサンス風である。

正面は左右対称ではない。中央に石造の軒があるからここが玄関だろうが、建物の大きさに比べて出入り口は小さい。それらしい装飾がないので、一見しただけではここが正面であるとはわからないだろう。

右は4階で青銅葺きの尖塔屋根。壁面は煉瓦だから、イギリスのクラシック様式つまりビクトリア様式を手本にして横河がアレンジしたのだろうと思う。



日比谷通りを南下する。和田倉濠の端に石造物があった。中にベンチがあって老人が2人休憩している。まあアズマヤといった使われかたをしているが、本来の使用目的はなんっだのだろう。近衛師団の警備兵が立っていたような雰囲気がある。

明治生命館が見えてきた。わざわざ日比谷通りのお濠側の歩道を歩いてきたのは、この建物の全体を見たかったからである。 「おお、あるある」コリント式の10本の円柱が2階から6階の高さまで立っている。

オーダーを持つ建物は銀行に多いが、残っている建物は小型である。例えば大阪の旧三井銀行大阪支店の列柱はわずかに4本である。神戸の旧横浜正金銀行神戸支店のオーダーは見ごたえがあるが、それでも柱は6本である。10本もの列柱をもつオーダーは明治生命館だけであろう。

明治生命館の設計は岡田信一郎。昭和7年(1932年)に竣工。鉄筋・鉄骨コンクリート造の堂々たる建物である。国の重文。

岡田は第3世代であるが、これぞ様式美であるというすばらしい建物を残している。大阪の中央公会堂も彼の手になるものであり、やはり重文の指定がされている。

明治生命館の1階は石積みで、アーチ窓が並ぶ。これが基壇部となって、その上に2階から6階へかけて5階分の高さの石柱が並んでいる。柱の数は正面が10本、側面に6本。

7階部分がオーダーでいうところの梁(アーキトレーブ)にあたるが、7階の軒は8階の軒に比べて深い。よって強い陰影がつき、それが水平方向のアクセントになっている。

藤森照信さんによると、歴史主義の第2・第3世代は3つ派に分類できるそうだ。@アメリカンボザール派、Aヨーロッパ派、B新感覚派(後期表現派)である。岡田信一郎はヨーロッパ派の代表である。

明治生命館はアメリカンボザールの建物であるが、岡田は古典様式を崩すことはなかった。例えばギリシャの円柱にはフルートと呼ばれる溝が彫られているが、後代は円柱の溝が省略されるようになっていた(野口孫市の中之島図書館の玄関のオーダーの柱は溝がなくツルツルである)。

イオニア式・コリント式の円柱の溝は24本というのが標準である。明治生命館の円柱には溝が彫ってある。遠目に見るだけで数えることはできないが、岡田のことだからキチンと24本の溝を入れているに違いない。

明治生命館の側面の道を東に少し歩くと、煉瓦造の建物が見えた。三菱一号館である。

コンドルは明治20年に日本永住を決意し、銀座に設計事務所を開いた。政府関係の仕事はなくなったが、在日欧米人からの注文があった。先のニコライ堂(明治24年)がその大きな仕事のひとつである。

また当時、三菱は丸の内をオフィス街にしようとしており、コンドルにオフィスビル設計を依頼した。それが三菱一号館である。日本で初めてのオフィスビルである。これは明治27年(1894年)に完成した。

私が近代建築に興味を持ったのは2007年のことである。そのころ三菱一号館はすでになかった。三菱地所は一号館を解体保存していたのである。 それが復元作業にとりかかっており、2009年に完成し、2010年に美術館として公開するという新聞記事が出た。

なにしろ本邦初のオフィスビルである。コンドルの作品である。当然に重文になるのだろうと思っていたが、今目の前にして見ると煉瓦は新しい。なにぶん120年前の建物であるから、完全復元というわけにはいかなかったのだろう。

また内部は美術館になっているのだから、当時の室内とは大きく変えられていよう。復元というよりも複製(レプリカ)となったようだ。

三菱一号館はビクトリア様式の煉瓦造3階建てである。

建物正面には、戸口が中央と建物左右に3つついている(側面にも2つあった)。 現在の貸しビルはワンフロアを借りるとか、フロアの半分を借りるとか、フロア単位で借りるが、コンドルの時代は縦割りで借りていたようである。(だから戸口が複数ある)

様式は窓の並びや窓の形からルネッサンス風である。窓は石で縁取られている。戸口の左右には2本の円柱が立ちペディメントを支える。

建物のコーナーには互い違いの隅石が嵌め込まれているが、隅でない壁面にも同じものが嵌められていて縦方向の調子を整えている。
屋根には尖った塔が3つ。塔の前にオーダーのあるバロック風の建物を刻した銅版の飾りが置いてある。屋根窓の形をした小さい尖塔があり、やはりその前にペディメントのある建物の飾りがついている。三菱一号館はビクトリア様式だといわれるが、コンドルは自由にさまざまな様式をここへ集めたようだ。

コンドルの初めての生徒の一人である曽禰達蔵は三菱に入社し、コンドルとともに次々にオフィスビルを建設していった。コンドルは二号館・三号館までを建てて、オフィスビルからは手を引いたようだが、曽禰は明治37・38年に三菱四号館・五号館・六号館・七号館を建て、丸の内の三菱村の原型ができあがった。

東京駅に戻った。辰野金吾の東京駅(大正3年。1914年竣工)も修復中である。ほとんど全体がシートで覆われているが、一部修復が終わったところが現れている。

煉瓦がまだらになっているところは、新しいものを使ったからであろう。青銅の屋根も赤銅色に光っている。新たに葺き替えたらしい。

東京駅から地下鉄に乗るのはずいぶん不便だなという思いが昔からある。 大阪の地下鉄は概ね東と西、南と北に通じているから、地下鉄の路線図をみて、交差する駅で乗り換えればよいとわかる。東京の地下鉄はもつれにもつれているから、何線に乗ってどこで乗り換えればよいのか皆目わからない。

築地に行こうとしたのである。それには@丸ノ内線の東京駅から銀座方面の電車に乗り、A銀座駅で降りて、B日比谷線まで歩き、C北千住方面の電車に乗って、D2つめの築地で下車する。

通勤・通学で馴れていれば簡単だろうが、初めての者には実にわかりづらい。だが不平をいいながらもなんとか築地についた。

今日一番の 目的は伊東忠太の築地本願寺を見物することである。昭和9年(1934年)に竣工。鉄筋・鉄骨コンクリート造。その様式はインド風。

伊東忠太の主な作品を年代順に掲げると以下。
  1. 平安神宮(京都) 明治28年(1895年)
  2. 伝道院(京都) 明治45年(1912年)
  3. 大倉集古館(東京) 昭和2年(1927年)
  4. 祇園閣(京都) 昭和2年(1927年)
  5. 築地本願寺(東京) 昭和9年(1934年)


正面の本堂の上の塔の図案は蓮である。うーん、これがインドの仏教寺院のイメージか。今に残るインドの建物の多く、例えばタージマハールなどの有名な建物はイスラム様式である。インドには今でも仏教寺院が残っているのだろうか。

歴史主義の第1世代は西洋の建築様式を学び、それをもとにクラシック・ゴシックを基調とした建築物を多く建てたのだが、第2世代になると、日本の伝統様式をどう扱うかを問題にする者が現れた。そのさきがけが伊東忠太である。

伊東は日本の伝統様式を研究し、法隆寺の中門の列柱を見て、これはギリシアのオーダーやエンタシスに繋がるのではないかと考え、明治26年に「法隆寺建築論」を発表した。

ちょうどその頃京都では平安京遷都1100年を記念して、大極殿を復元しようということになり、設計が伊東にゆだねられた。このとき伊東はまだ大学院生であったが、明治28年になんとか復元させた。それが京都左京区岡崎にある平安神宮である。

伊東はこの後も日本建築の伝統様式を研究し、その源流を辿ろうと、明治35年から大旅行に出かける。中国→ビルマ→インド→トルコ→ギリシア→エジプト→エルサレムへ3年をかけて遺跡の探訪をした。この 大旅行によって伊東は、日本の伝統様式に加えて、中国、インドの様式も身につけたのである。

この旅行中に当時の西本願寺の法主である大谷光瑞が派遣した大谷探検隊と出会い、これを機縁にして帰国後、伝道院(明治45年)や築地本願寺(昭和9年)の設計を任せられた。

本堂への入り口。白壁の下は大理石。扉の上にはステンドグラス風の装飾。柱はクラシックのオーダーを思わせる。クラシック的に分解すると、@大理石の柱台(ペデスタル)に、A丸い柱礎(ベース)、Bその上に白い石の円柱(シャフト)が乗る。C円柱の上部にはレリーフが施されている。Dその上に鉢形のエキノス、E最上部に方形のアクバスと呼ばれる石板が梁を支える、ということになる。

まあこれを伊東なりにアレンジしているわけである。伊東は2つのことを思っていたようだ、1つは日本の伝統的な木造建造物を石材あるいはコンクリートで作れないか。いま1つはアジアに共通するアジア様式を作りだせないか、である。

伊東の興味は欧米の様式にではなく、日本あるいはアジアの様式にあった。

室内に入ると正面に阿弥陀如来の絵が一幅架かっているだけである。おそらく ここは外陣で、本尊のある内陣はその向うにあるのであろう。

室内は和風である。円柱は入り口のものと同じだが、柱と柱を繋ぐ梁は海老虹梁(えびこうりょう)の形にしている。柱の上には組み物があって折上天井の梁を支えている。

日本の伝統様式に造詣が深い伊東のもとには、多くの神社の設計依頼がきた。樺太神社・台湾神社・朝鮮神社などである。これらは神社がない土地に新たに作られた神社である。皇国史観に基づく国策的な神社である。

国内では明治神宮の建設にも関わったが戦災で消失している。靖国神社の神門や鳥居も作っている。これら国策に沿った建築物の多くは完全な建物としては見ることができない。

写真は左翼の部分。1階は組石造である。2階は円柱が並ぶ。これに注目するならばクラシック様式であるが、円柱の上に組み物が乗っていて、これは東洋的である。

鉄筋コンクリート造のお陰で広い窓がとれている。戸口は8 角形の柱がインド風の破風を支えているが、唐破風や西洋のペディメントをアレンジしたものとも思われる。

だいたい建物は人間が利用して初めて役立つものだから、そう突飛な様式は生まれない。 様式が生まれるのは、その国の精神性の違いによる。何が美しいのか。それはその国の美的感覚による。様式が生まれるのは、美的感覚が意識されているときだけである。

その意味では現在のビル群は、機能的で、経済的で、新しくて、集客力はあるが、建物を眺めたときに、ウーンと感心するものは少ない。

横河民輔は機能を優先したが、それでも先代の兜町の東京証券取引所というデザインの優れた建物をものにした。ただ今日見た日本工業倶楽部や東京銀行協会のビルは特に感心するほどのものではなかった。

歴史主義の建築物は昭和初期に終焉する。戦争中は物資の統制によって大きな建物を作ることはできなくなった。大きな建物は軍需産業の工場に限られた。戦後は、様式などという無駄は許されず、それこそ機能を重視したビルしか建てられなくなった。

東京オリンピック以降は、日本にもデザインを重視するという余裕が出てきた。 そのなかでデザインにこだわったのは丹下建三である。新宿の都庁はすばらしい。ゴシックの調子を持ちながら、現代に通用する様式を生み出している。

今日は、思いがけなく東京の近代建築をみることができた。好みでは佐藤功一の大隈記念講堂が1番、岡田信一郎の明治生命館が2番、伊東忠太の築地本願寺が3番であった。

14:20の「のぞみ」で名古屋へ、名古屋から近鉄特急で名張へ戻る。約4時間かかる。それぞれの車中で水割りを2本ずつ飲んだ。疲れた。

帰宅して伊東忠太の作品を調べていたら、かつて訪れたことがある 俳聖殿や楠妣庵(なんぴあん)も彼の作品であることを知った。これまで実見したものは次のものである。
  1. 平安神宮   (1895年) 京都市左京区 ・・・桓武天皇を祀る(重文)
  2. 伝道院    (1912年) 京都市下京区 ・・・旧真宗信徒生命保険会社
  3. 楠妣庵    (1914年) 大阪府富田林市 ・・・楠木正成の妻久子が隠棲した庵
  4. 祇園閣    (1927年) 京都市東山区 ・・・大倉喜八郎別邸の一部・宗教施設?
  5. 築地本願寺 (1934年) 東京都中央区 ・・・西本願寺別院
  6. 湯島聖堂   (1934年) 東京都文京区 ・・・孔子廟
  7. 俳聖殿    (1942年) 三重県伊賀市 ・・・松尾芭蕉を顕彰する(重文)

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