宣長の「菅笠日記」

    No.87.....2011年6月25日〜8月27日


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明和9年(1772年)、43歳の本居宣長は友人5人と一緒に、吉野・飛鳥を遊覧した。一番の目的は吉野の桜を見ることと吉野水分神社に詣でることであったが、その帰りに飛鳥や橿原を訪れ、解明中の古事記の裏づけをとっている。3月5日に松阪を立ち14日に戻った10日間の旅であった。

友人とは@稲懸棟隆(いながけ・むねかた)43歳、Aその子の茂穂17歳(後に宣長の養子になり本居大平と名乗る)、B戒言43歳?(来迎寺の僧)、C小泉見卓(見庵)37歳、D中里常雄16歳(のち長谷川家の養子となる)、ここに荷物持ちの「をのこ」が1人加わって総勢7人が旅をした。

宣長はこの旅について詳しく書きとめ、後に「菅笠日記」(すががさ)という本にまとめて出版している。これを読むと、私がかつてテクテクで訪れたところが多くある。「菅笠日記」にそのときに撮った写真を嵌め込んでみてはどうか。 宣長一行が旅したのは、新暦では4月7日から16日までである。当然に手許の写真は季節がずれているものが多いが、写真を見て宣長たちが歩いた道をたどるのも一興である。写真が不足しているところは、いつか訪ねて補えばよい。



旅の行程をざっと掲げると次のようになる。( )内の月日は新暦。
  1. 3月5日(4月7日)松阪を出発→ニ本木(昼食)→青山峠を越えて→伊勢路で宿泊
  2. 3月6日(4月8日)伊勢路→阿保→名張(昼食)→大野寺→榛原で宿泊

  3. 3月7日(4月9日)榛原→吉隠→長谷寺(昼食)→忍坂→倉橋→談山神社→竜在峠→千俣で宿泊
  4. 3月8日(4月10日)千俣→上市→吉水院→箱屋(昼食)→蔵王堂→吉野水分神社→箱屋で宿泊

  5. 3月9日(4月11日)箱屋→金峰神社→西河→大滝村(昼食)→蜻蛉の滝→樋口→喜佐谷を通って→箱屋で2泊目
  6. 3月10日(4月12日)箱屋→如意輪寺→六田→土田(昼食)→壷坂寺→檜隈寺跡→平田・野口の古墳→橘寺→岡で宿泊

  7. 3月11日(4月13日)岡→酒船石→飛鳥寺→大原神社→安倍文殊院→香具山(昼食)→向原寺→剣池→見瀬で宿泊
  8. 3月12日(4月14日)見瀬→久米寺→安寧陵→綏靖陵→八木(昼食)→耳成山→大神神社→初瀬→榛原で宿泊

  9. 3月13日(4月15日)榛原→伊勢本街道途中の石名原で宿泊
  10. 3月14日(4月16日)石名原→北畠神社→松阪着



@3月5日(新暦4月7日) 松阪から伊勢路




1日目の旅の行程は、松阪を出発して初瀬街道を西へ向かい、初瀬街道の最大の難所である阿保越えをして、伊勢地(現在は伊勢路)で宿泊する。

宣長は初瀬街道を歩くのは初めてではない。23歳のとき京都に上り、28歳まで医術の修行をしている。この5年半のうちで2度松阪に帰省しているから、少なくとも京都−松阪を3往復している。このとき松阪から桜井までは初瀬街道を通っているはずである。文中(図1-3)で「この道もむかし一度二度は物せしかど」というのは、若いころ往復したことを指す。

1日目は時折雨が降った。旅のはじめに見物したのは、伊勢国の都の里(宮古)にある「忘れ井」である。次に雲出(くもず)川に沿って大仰(おおのき)あたりを歩いているとき、万葉集(1-22)の吹黄刀自(ふふきのとじ)の歌を思い出している。

その後は見物はしていない。二本木で昼食をとり、阿保峠(青山峠)を目指して山を登った。(図1-10)で「又雨振りいでて、いとわびし」くあったがなんとか峠に着いた。そこからは下り道になるが、宿泊予定の伊勢地(伊勢路)まで3里ある。雨は激しくなってくる。いけどもいけども果てしない。 (図1-13)「からうじて伊勢地の宿にゆき着きたる。うれしさも又いはんかたなし。」宣長一行の旅の初日はつらかった。


  1. (図1-1)宣長の旧宅(松阪市魚町)
  2. (図1-2)三渡り橋(松阪市六軒町)
  3. (図1-3)津屋庄(松阪市津屋城町)
  4. (図1-4)(図1-5)忘れ井(松阪市嬉野宮古町)
  5. (図1-6)小川神社(松阪市嬉野中川町)
  6. (図1-7)雲出川(津市一志町大仰(おおのき))
  7. (図1-8)上ノ村(津市白山町上ノ村)
  8. (図1-9)垣内(かいと)(津市白山町垣内)
  9. (図1-10)青山峠の手前(津市白山町垣内)
  10. (図1-11)(図1-12)青山峠(伊賀市伊勢路)
  11. (図1-13)(図1-14)伊勢地(伊賀市伊勢路)


(図1-1)宣長の旧居。

『ことし明和の九年といふとし、いかなるよき年にかあるらむ。よき人のよく見て、よしといひおきける、吉野の花見にと思ひたつ。

【萬葉一に 「よき人の よしとよく見て よしといひし 吉野よく見よ よき人よく見つ」】

そもそもこの山分衣(やまわけごろも)のあらましは、廿年ばかりにも成りぬるを、春ごとにさはりのみして、いたづらに心のうちにふりにしを、さのみやはと、あながちに思ひおこして、出たつになん有ける。』


宣長は「吉野」を思って、天武天皇の歌を冒頭に掲げている。天武8年(6797年)、天武天皇一族は吉野宮に行幸し、そこで六皇子(草壁・大津・高市・川島・志貴・忍壁)に、互いに父母は違うが、みな天武の子である。兄弟で争うことなく助けあって天武の血統を守れと誓わせた。「六皇子の盟約」である。

そのときに詠まれた歌であるといわれる。よき人が、よいところだとよく見て、よしといわれた。その吉野をよく見よ、よき人がよく見たのだ。

「よき」「よし」「よく」が歌中に8度もでてくる。「見る」も3度繰り返される。半分はことば遊びのような歌だが、吉野はよいところである。よき人がそういった。吉野をよくみておけ。そして今日の盟約を忘れるな。ということであろう。


(図1-2)三渡り橋。「いがこへ追分」の道標が立つ。

『さるは何ばかり久しかるべき旅にもあらねば、その急ぎとて、ことにするわざもなけれど、心は忙はし。明日たゝんとての日は、まだつとめてより、麻(ぬさ)きざみそゝくりなど、いとまもなし。その袋にかきつけける哥。

  うけよ猶 花の錦に
  あく神も 心くだしき 春のたむけは

ころは三月のはじめ、五日の暁。まだ夜をこめて立出ける。市場の庄などいふ渡りにて、夜は明け果てにけり。

さてゆく道は、三渡りの橋のもとより、左にわかれて、川のそひをやゝのぼりて、板橋をわたる。』

(図1-3)津屋城町。

『此の渡り迄は、事にふれつゝ、をりをり物する所なれば、珍しげもなきを、この分かれゆくかたは、阿保越えとかやいひて、伊賀國をへて、初瀬(はつせ)にいづる道になん有ける。

此の道も、むかし一度二度は物せしかど、年へにければ、みな忘れて、今はじめたらんやうに、いと珍しく覚ゆるを、昨夜(よべ)より空うち曇りて、をりをり雨ふりつゝ、よものながめも、はればれしからず。

旅衣の袖ぬれて、うちつけにかこちがほなるも、かつはをかし。津屋庄といふ里を過て、はるばると遠き野原を分け行きて、小川村にいたる。』


(図1-4)宮古の集落。

『 雨ふれば   けふはを川の
  名にしおひて しみづながるゝ 里の中道。

この村をはなれて、みやこ川といふ川、せばき板橋を渡りて、都の里あり。

むかし斎(いつき)の宮の女房の、言の葉をのこせる忘井といふ清水は、 【千載集旅に斎宮の甲斐 「わかれゆく 都の方の こひしきに いざむすび見ん わすれ井の水」】

今その跡とて、かたをつくりて、石ぶみなど立たる所の外にあなれど、そはあらぬ所にて、まことのは此の里になんあると、近きころわがさと人の、訪ねいでたる事あり。』

(図1-5)忘れ井。(石碑の前の白色のパイプで覆った四角が井戸)

『げにかの哥、千載集には、群行のときとしるされたれど、古き書を見るに、すべて斎王(いつきのみこ)の京に帰へりのぼらせ給ふとき、此のわたりなる壹志の頓宮より、二道に別れてなん、御供の女房たちはのぼりければ、わかれ行くみやこのかたとは、そのをり此の里の名によせてこそは詠めりけめ。

なほさもと思ひよる事共おほかれば、年ごろゆかしくて、ふりはえても尋ね見まほしかりつるに、けふよきついでなれば、立ちよりて尋ね見るに、まことに古き井あり。』

(図1-6)式内小川神社。

『昔よりいみしき日照りにも枯れずなどして、めでたきし水也とぞ。されどさせる古き傳へごともなきよし、里人もいひ、又確かにかの忘れ井なるべきさま共見えず、いと疑はしくこそ、なほ詳しくも問ひ聞かまほしけれど、こたみはゆく先の急がるれば、さて過ぬ。

此わたりの山に、天花寺の城の跡、又かの寺の伽藍の跡など残れりとかや。又かの小川村の神とて、此の里に社のあなるは、神名帳に見えたる小川の神の社にやおはすらん。

さて三渡りより二里といふに、八太といふ駅あり。八太川、これも板橋也。雨なほやまず降る。かくては吉野の花いかゞあらんと、ゆくゆく友どち言ひ交はして、春雨にほさぬ袖よりこのたびはしをれむ花の色をこそ思へ。』

(図1-7)大仰(おおのき)付近の雲出川。

『田尻村といふ所より、やうやう山路にかゝりて、谷戸・大仰(おおのき)などいふ里を過ぎゆく。こゝまで道すがら、ところところ櫻の花ざかり也。立ちやすらひては見つゝゆく。

  しばしとて たちとまりても
  とまりにし 友こひしのぶ  花のこの本

大仰川大きなる川也。雲出(くもず)川の川上とぞいふ。此の川のあなたも、猶同じ里にて、家共立ちなみたり。

さて川辺を登りゆくあたりの景色、いとよし。大きなる岩ほども、山にも道のほとりにも、川の中にもいと多くて、所々に岩淵などのあるを、見下したる。いとおそろし。』

(図1-8)垣内(かいと)の手前の上ノ村の小川。波多の横山は、「八太」であるという説が有力である。そこに波多神社があるというが、訪れたことはない。県居大人(賀茂真淵)は大仰で雲出川に流れこむ大仰川で歌ったものだろうと推測していたようだ(次の文)。

『かの吹黄刀自(ふふきのとじ)が詠めりし、波多の横山の岩ほといふは、【萬葉一に 川上の ゆつ岩村に 苔こけむさず つねにもがもな とこをとめにて】此のわたりならんと、県居大人(あがたゐのうし)のいはれしは、げにさもあらんかし。鈴鹿にしも、かの跡とてあなるは、はやく偽りなりけり。』



天武天皇は天武3年(674年)に、14歳の大伯(大来・おおく)皇女を斉王として伊勢神宮に仕えさせた。大伯の母は皇后(後の持統天皇)の姉という高い身分であったし、大伯は多くの皇女のうちで年長であったから天皇の名代としては大伯が最適任であったのだろう。

不憫である。天皇は大伯を伊勢に送った数か月後に、2人の皇女を伊勢に遣った。ひとりは十市皇女(28歳)である。母は額田王女にして、天武天皇が壬申の乱で討った弘文天皇の皇后であった。いまひとりは、後に草壁皇子の后になり、元明天皇として即位する阿閉(あへ)皇女である。

2人の皇女の一行が波多の横山にやってきたときに、付き添いの女官が歌ったのが(1-22)である。

(図1-9)垣内(かいと)。向うの山が青山峠か。

『此のわたりゆく程は、雨もやみぬ。小倭の二本木といふ宿にて、物など食ひて、しばし休む。八太よりこゝ迄二里半なりとぞ。

そこを過ぎて、垣内(かいと)といふ宿へ一里半。』

(図1-10)青山峠はまもなく。旧街道は、今では登山道としてすら利用されていないので、道は荒れ放題である。

『その垣内をはなれて、阿保(あほ)の山路にかゝるほど、又雨降りいでゝ、いとわびし。をりしも鶯の鳴きけるを聞きて、

  旅衣    たもととほりて
  うくひずと われこそ鳴かめ 春雨のそら

【古今物名うぐひす 「心から 花のしづくに そほぢつゝ うくひずとのみ 鳥のなくらん」】』


(図1-11)青山峠。峠の向こうは伊賀国、手前は伊勢国である。だがなんということであろう。歴史に名を残す青山峠(阿保越え)にはショベルカーが止めてあり、旧初瀬街道には立ち入ることができなくなっていた。

『ゆきゆきて峠(たむけ)にいたる。こゝ迄は壹志郡。こゝよりゆく先は、伊賀國伊賀郡也。』

(図1-12)青山峠を越えると下り道である。当時、茶店はあったが宿屋はなかったようだ。宣長一行は苦しんで阿保越えをし、さらに6〜7kmを歩いて伊勢路(いせじ)の旅籠を目差した。

『おほかた此の山路は、かの過ぎこし垣内より伊勢地といふ所迄、三里がほど続きて、ゆけどゆけど果てなきに、雨もいみしう降りまさり、日さへ暮はてゝいと暗きに、知らぬ山路を、わりなく辿りつゝゆくほど、かゝらでも有ぬべき物を、なにゝきつらんとまで、いとわびし。』

(図1-13)初瀬街道最大の難所は青山越え(阿保越え)である。京・大阪・奈良から伊勢参りをする旅人は伊勢路で一泊して明日の青山越えに備えた。宣長たちは木津川(青山川)に沿って、向こうからやってきた。

『からうじて伊勢地の宿にゆき着きたる。うれしさも又いはんかたなし。』

(図1-14)伊勢路のもとは宿屋だったらしい建物がある。

『そこに松本のなにがしといふものゝ家に宿りぬ。』


A3月6日(新暦4月8日) 伊勢路から榛原




2日目は、伊勢路から榛原まで歩く。雨は降っていないが曇っている。阿保山(青山)から流れ出る川は阿保川(青山川)である。この川は下流では木津川に名前が変わる。宣長一行はおおむね阿保川に沿って阿保宿へと下っていく。

阿保宿を出て七見峠を越すと名張である。そこに新田宿がある。宣長は七見峠の山が「名張の山」であるとして、(1-43)の「名張の山を今日か越ゆらん」の歌を日記に書いている。次に名張中心部にある藤堂屋敷の近くを通り過ぎて名張川と宇陀川の合流点に出て、「名張の横川といひけんは、これなめりかし」とうんちくを傾ける。

そこから宇陀川(文中ではやなせ川)に沿った初瀬街道を歩く。 獅子舞岩の下を通過し、大野寺の前の弥勒の摩崖仏を見物して、榛原の宿で泊った。
  1. (図2-1)中山(伊賀市伊勢路)
  2. (図2-2)大村神社(伊賀市阿保)
  3. (図2-3)木津川(伊賀市阿保)
  4. (図2-4)羽根川に架かる羽根橋(伊賀市阿保)
  5. (図2-5)七見峠があった山(伊賀市比土)
  6. (図2-6)(図2-7)新田宿(名張市新田)
  7. (図2-8)藤堂邸(名張市丸之内)
  8. (図2-9)名張川(名張市新町)
  9. (図2-10)(図2-11)鹿高神社の近くの旧初瀬街道(名張市安部田)
  10. (図2-12)獅子舞岩があったらいしい崖(名張市安部田)
  11. (図2-13)(図2-14)大野寺の弥勒摩崖仏(宇陀市室生大野)
  12. (図2-15)室生寺に通じる道(宇陀市室生大野)
  13. (図2-16)あぶら屋(宇陀市榛原萩原)

(図2-1)中山。左の川は青山川(木津川)。川には1つ2つの岩があるが、岩群というほどのものではなかった。

『六日。けさは明はてゝ宿りをいづ。十町ばかり行て、道の左に、中山といふ山の岩ほ、いとあやし。

  河づらの  伊賀の中山
  なかなかに 見れば過ぎうき 岸のいはむら

かくいふは、きのふ越えし阿保(あほ)山より出づる阿保川のほとり也。朝川わたりて、その河べを伝ひゆく。』

(図2-2)大村神社。

『岡田・別府などいふ里を過て、左にちかく阿保の大森明神と申す神おはしますは、大村神社などを誤りて、かく申すにはあらじや。』

(図2-3)宣長一行は伊勢路から木津川(阿保川)の右岸(写真の川の左側)を歩いてきた。橋が架かっていないので、阿保の宿では川を歩いて渡って左岸へ移動した。

『なほ川にそひつゝゆきゆきて、阿保の宿の入口にて又わたる。昨日の雨に水まさりて、橋もなければ、衣かゝげて徒歩(かち)渡りす。水いと寒し。伊勢地より此の驛迄一里也。』

(図2-4)木津川の南には別に前深瀬川(羽根川)が流れている。宣長は木津川(青山川)と羽根川は同じ川だと思ったようだが、別の川である。架かっている橋は羽根橋。

『さて羽根(はね)といふ所にて、又同じ川の板橋を渡る。こゝにては羽根川とぞいふなる。』


(図2-5)羽根橋から西を見ると小高い山が横たわる。国道165号線はこの山を避けて左側を迂回している。旧初瀬街道は国道165号線と同じルートをとるものと、この山を越すルートの2つがあったが、宣長は山越えをしたようである。そこには七見峠と呼ばれる峠があった。今は山の裏側はゴルフ場に変わり、初瀬街道の名残はまったく失せている。

『すこしゆきて、四五丁ばかり坂路を登る。この坂の峠より阿保の七村を見おろす故に、七見峠といふよし、里人いへり。』


(図2-6)新田宿(しんでん)は名張最後(最初)の宿場である。往時は30軒ほどの旅籠が軒を連ねていた。

『されど今日(けふ)は雲霧ふかくて、よくも見渡されず。かくのみ今日も空晴れやらねど雨は降らで、こゝちよし。

並木の松原など過ぎて、阿保より一里といふに、新田といふ所あり。此の里の末にかりそめなる庵の前なる庭に池など有て、絲桜いとおもしろく咲きたる所あり。

  糸桜    くるしき旅も
  わすれけり 立よりて見る 花の木陰に

大かた此の國は、花もまだ咲かず。たゞこの絲桜、あるは彼岸桜などやうの早きかぎりぞ、所々に見えたる。是よりなだらかなる松山の道にて、景色よし。』


(図2-7)新田はその名のとおり新たに拓かれた田んぼである。つまり平地である。宣長一行が越えてきた七見峠は、右側の木立の向こうにあるはずだが山は見えない。

『此のわたりより名張の郡(こほり)也。いにしへ伊勢の国に、帝(みかど)の行幸(みゆき)せさせ給ひし御供に仕うまつりける人の、北の方の大和のみやこにとゞまりて、男君の旅路を心苦しう思ひやりて、名張の山をけふかこゆらんと詠めりしは、

【万葉一に 「わがせこは いづくゆくらん おきつもの なばりの山をけふか こゆらん」】

此の山路の事なるべし。』



名張は盆地なので、名張の西と東に越えるべき山がある。宣長は東からやってきたので東の七見峠あたりを名張の山としたようだが、その七見峠のあったところはゴルフ場になっており、旧初瀬街道は影も形もないそうである。

私の思いでは、名張の山とは西側にある山のほうがしっくりくる。近鉄電車に乗って三本松駅を過ぎ、赤目駅に出る直前に、それまで雑木に囲まれて窮屈だった視界がぱっと開けるのである。

二十数年前に初めて近鉄電車に乗って名張にやってきたとき、大げさにいえば山を抜けたところに別天地があったと驚いた。この山を越したら開けた土地があるのだ、という期待が持てる山、それが名張の山であろう。

(図2-8)藤堂邸。

『やうやう空晴れて、布引の山も越し方はるかに返り見らる。

  此のごろの 雨にあらひて めづらしく
  けふはほしたる 布引の山。

この山は、ふるさとのかたよりも、明くれ見わたさるゝ山なるを、こゝより見るも、たゞ同じさまにて、誠に布などを引はへたらんやうしたり。

すこし坂を降りて、山本なる里を問へば、倉持となんいふなる。こゝよりは、山をはなれて、たひらなる道を、半里ばかり行て、名張に到る。阿保よりは三里とかや。 町中に、此のわたりしる藤堂の何がしぬしの家あり。』

(図2-9)名張川と宇陀川が合流するところに二本の橋が架かっている。黒田橋と新町橋である。文中の「名張の横川」とは名張川のことである。これは646年に孝徳天皇が大化の改新の詔(みことのり)で、近畿の四至(しいし)を決め、機内の東端は「名張の横川」としたという日本書紀の記述を引用している。

『その門の前を過て、町屋のはづれに川のながれあふ所に、板橋を二ッ渡せり。名張川・やなせ川とぞいふ。いにしへ名張の横川といひけんは、これなめりかし。』

(図2-10)鹿高神社の一の鳥居。左に宣長の歌碑が立っている。

『ゆきゆきて山川あり。かたへの山にも川にも、なべていとめづらかなるいはほどもおほかり。名張より又しも雨ふり出て、此わたりを物する程は、ことに雨衣もとほるばかり、いみしく降る。かたか(鹿高)といふ所にて、

  きのふ今日 ふりみふらずみ 雲はるゝ
  ことはかたかの 春の雨かな



(図2-11)鹿高神社の鳥居を少し過ぎたところの旧初瀬街道。宇陀川に沿っている。川底は広く大きな右側は崖である。水が滴り落ちて溜まって泉のようになったところもある。

『少し行きて、山のそはより、川なかまでつらなりいでたる岩が根の、いといと大きなるうへを、つたひゆく所、右の方なる山より、足もとに瀧おちなどして、えもいはずおもしろき景色也。』

(図2-12)明治までこの崖の上に飛び出た岩があった。唐崖と呼ばれていたが、道中が危険なためにけずられ、コンクリートで固められたそうである。宣長がいう「獅子舞岩」とはこれであったろう。

『 又いと高く見あぐる岩岸のひたひに、物よりはなれて、道のうへゝ一丈ばかりさし出たる岩あり。その下ゆく程は、頭(かしら)の上にも落ちかゝりぬべくて、いといとあやふし。 少し行き過て、つらつら返りみれば、いとあやしき見物になん有りける。獅子舞岩とぞ、此のわたりの人は言ける。げに獅子といふ物の、かしらさし出せらんさまに、いとよう覺えたり。

さていさゝか山をのぼりて、くだらんとする所に石の地蔵あり。伊賀と大和のさかひなり。名張より一里半ばかりぞあらん。そのさきに、三本松といふ宿までは二里也とぞ。』


(図2-13)大野寺の前にある摩崖仏。川は室生川。

『大野寺といふ寺のほとりに、又あやしき岩あり。道より二三町左に見えたり。こは名高くて、旅ゆく人も多く立ちよる所也といへば、ゆきて見るに、げにことさらに造りて、立てたらんやうなる岩ほのおもてに、みろくぼさちの御かたとて、ゑりつけたる。ほのかに見ゆ。』

(図2-14)弥勒菩薩の摩崖仏は鎌倉期(1207年)に造顕されたそうである。弥勒仏の高さは11.5m、背後の光背(凹み部分)の高さは13.8m。宣長が文中にいう帝とは、後鳥羽上皇で、弥勒菩薩の開眼供養に臨席している。

『其の佛の長、五丈あまり有といふを、岩の上つ方は、猶あまりて高くたてる。うしろは山にて、谷川のきしなるを、こなたよりぞ見る。 そもそもこゝは、むかしおりゐの帝(みかど)の御幸も有し事、物にしるしたるを見しこと、ほのほの覺ゆるを、いづれの帝にかおはしましけむ。今ふと思ひ出ず。』

(図2-15)室生寺に到る道。室生寺へは、向こうの朱色の橋を渡る。初瀬街道に戻るには、道をまっすぐ100mほど進んで、右折れする。

『さて其の川に沿ひて少しのぼりて、山あひの細き道をたどり行きてなん、本の大道には出ける。其の間に室生に詣る道なども有りて、石ぶみの標(しるべ)なくは、必ず迷ひぬべき所也。

けふは必ず長谷迄物すべかりけるを、雨降り道悪しくなどして、足もいたく疲れにたれば、さもえゆかで、はいばら(榛原)といふ所にとまりぬ。』

(図2-16)榛原の「あぶら屋」。宣長はここに宿泊した。細かくいえば、この場所は榛原区萩原である。

『此の里の名、萩原と書けるを見れば、何とかや懐かしくて、秋ならましかば、かりねのたもとにも、

  うつしても ゆかまし物を
  咲く花の  をりたがへたる 萩はらの里

とぞ思ひつゞけられける。こよひ雨いたくふり、風はげしきに、故郷の空はさし置かれて、まづ花の梢やいかになるらんと、吉野の山のみ、夜ひと夜安からず思ひやられて、いとゞめもあはぬに、此の宿のあるじにやあらん、夜中に起き出て、さもいみしき雨風かな。かくて明日はかならず晴れなんとぞいふなる。 聞きふせりて、いかでさもあらなんと念じをり。』


B3月7日(新暦4月9日) 榛原から千股



3日目は長谷寺と談山神社を見物した。うまい具合に雨はやんでいる。榛原から長谷寺に向かう途中、吉隠(よなばり)の地を過ぎる。駕籠かきに「吉隠の猪養岡や春日宮天皇妃陵」について問うたが、知らなかったので悔しがる。

長谷寺では多くのものを見て、昼食をとる。出雲村・黒崎村を通過するとき、雄略天皇や武烈天皇の宮はこのあたりにあったと思いをはせる。

桜井の手前の慈恩寺から忍阪(おつさか)を経て、倉梯(くらはし)に出て、崇峻天皇の倉梯柴垣の宮の跡や崇峻天皇陵を探すが見つからない。あげくは御陵は忍阪にあると間違った情報を教えられている。

倉梯川にそって音羽山を見ながら談山神社に行く。神社が「きらきらしくつくりみがかれたる有様、眼もかがやくばかりなり」と感心する。

神社を出て、山道を登り下りして良しのへ向かったが日が暮れたので千俣(ちまた)で泊る。
  1. (図3-1)あぶら屋前の初瀬街道
  2. (図3-2)西峠
  3. (図3-3)吉隠(桜井市吉隠)
  4. (図3-4)吉隠から葛城山を望む(桜井市吉隠)
  5. (図3-5)化粧坂から長谷寺を眺める(桜井市初瀬)
  6. (図3-6)〜(図3-12)長谷寺境内
  7. (図3-13)与喜天満宮(桜井市初瀬)
  8. (図3-14)出雲(桜井市出雲)
  9. (図3-15)黒崎(桜井市黒崎)
  10. (図3-16)外鎌山を見る(桜井市脇本)
  11. (図3-17)慈恩寺(桜井市慈恩寺)
  12. (図3-18)忍阪(おつさか)(桜井市忍阪)
  13. (図3-19)〜(図3-22)倉橋(倉梯)(桜井市倉橋)
  14. (図3-23)〜(図3-25)倉橋川(寺川)(桜井市倉八井内)
  15. (図3-26)〜(図3-28)談山神社(桜井市多武峰)
  16. (図3-29)〜(図3-30)談山神社西大門(桜井市多武峰)
  17. (図3-31)〜(図3-34)吉野(上市)に通じる山道


(図3-1)あぶら屋前の伊勢街道(初瀬街道)。

『七日。あけがたより雨やみて、起き出て見れば、雲のやうやう薄らぎつゝ、晴れぬべき空のけしきなるに、家あるじの心のうらは、まさしかりけりと、いとうれし。

日頃の雨に、ゆくさき道いと悪しく、山路にはたあなりときけば、今朝は誰れも誰れもみな、籠(かご)といふ物に乗りてなん出たつ。さるはいとあやしげに、むつかしき物の、程さへせばくて、うちみじろくべくもあらず。

尻いたきに、朝寒き谷風さへ、はしたなう吹き入りて、いとわびしけれど、ゆきこうじたる旅ごゝちには、いとようしのばれて、徒歩(かち)ゆくよりは、こよなくまさりて覺ゆるも、あやしくなん。』

(図3-2)西峠。

『もとよりあひ伴なふ人は、覚性院の戒言法師、小泉の何がし、いながけ(稲懸)の棟隆、その子の茂穂、中里の常雄と、あはせて六人、同じ物に乗りつれたる。前後(まへしりへ)に呼びかはしては物語などもし、やゝおくれさいだちなどもしつゝゆく。

西峠、角柄などいふ山里共を過て、吉隠(よなばり)にいたる。こゝはふるき書どもにも見えたる所にしあれば、心とゞめて見つゝゆく。』

(図3-3)吉隠。

『猪養の岡、又御陵などの事、【万葉哥に 吉隠のゐかひの岡、 (延喜)式に 吉隠陵。光仁天皇の御母也。】 籠かけるをのこに問へど、知らず。里人に尋ぬるにも、すべて知らぬこそ、口惜しけれ。

又この吉隠を、万葉集に、ふなばりといふよみをしもつけたるこそ、いとこゝろえね。文字もさは読みがたく、又今の里人も、たゞよなばりといふなる物をや。

そも旅路のにき(日記)に、かゝるさかしらは、うるさきやうなれど、筆のついでに、いさゝかかきつけつる也。』


但馬皇女は、当時太政大臣であった高市皇子の妃であったらしい。穂積皇子と但馬皇女は許されぬ関係に陥った。

万葉集(2-116)の詞書に『但馬皇女、高市皇子の宮にいます時に、ひそかに穂積皇子に接(あ)ひ、事すでに形(あら)はれて作らす歌一首にし』として、但馬皇女の次の歌が載っている。

人言(ひとごと)を  繁み言痛(こちた)み
おのが世に  いまだ渡らぬ  朝川渡る

人の噂がたいそううるさいので、私は生まれて初めて、渡ったことのない川を夜明けに渡るのだ。

その但馬皇女は、そののち亡くなって、吉隠の猪飼の岡に葬られた。それを偲んだ穂積皇子の歌である。



(図3-4)吉隠から、遠くに霞む葛城山を見る。

『なほ山のそはぢをゆきゆきて、初瀬近くなりぬれば、向かひの山あひより、葛城山(かづらき)、畝傍山(うねび)などはるかに見え初(そ)めたり。

よその国ながら、かゝる名どころは、明くれ書にも見なれ、哥にも詠みなれてしあれば、ふる里びとなどのあへらんこゝちして、うちつけにむつましく覚ゆ。』



(図3-5)化粧坂(けわいざか)から長谷寺を眺める。

化粧坂(けはひ)とて、さがしき坂を少し下る。此の坂路より、長谷(はつせ)の寺も里も、目の前に近く、あざあざと見渡される景色、えもいはず。

大かたこゝ迄の道は、山ぶところにて、ことなる見るめもなかりしに、さしもいかめしき僧坊御堂の建ちつらなりたるを、にはかに見つけたるは、あらぬ世界に来たらんこゝちす。』


(図3-6)与喜天神前の初瀬川。

『与喜(よき)の天神と申す御社のまへに、下り着きて、そこに板橋わたせる流ぞ、初瀬川(はつせ)なりける。

向かひはすなはち初瀬の里なれば、人宿す家に立ち入て、物食ひなどして休む。うしろは川岸にかたかけたる屋なれば、波の音たゞ床のもとにとゞろきたり。

  はつせ川  はやくの世より
  ながれきて 名にたちわたる 瀬々の岩なみ


(図3-7)長谷寺・仁王門。

『さて御堂にまゐらんとていでたつ。まづを入りて、くれはし(呉階)を登らんとする所に、たがことかは知らねど、だうみやう(道明)の塔とて、右の方にあり。』

(図3-8)紀貫之・故郷(ふるさと)の梅。 立札には「人はいさ 心も知らず ふるさとの  花ぞ昔の 香ににほひける」の歌が掲げられている。

『やゝ登りて、ひぢをるゝ所に、貫之の軒端の梅といふもあり。又蔵王堂・産霊(うぶすな)の神の祠(ほこら)など、並びたてり。こゝより上を、雲ゐ坂といふとかや。』

(図3-9)長谷寺・本堂。

『かくて御堂にまゐりつきたるに、をりしも御帳かゝげたるほどにて、いと大きなる本尊の、きらきらしうて見え給へる。人も拝めば、われも伏し拝む。

さてこゝかしこ見巡るに、此の山の花、大かたの盛りはやゝ過ぎにたれど、なほ盛りなるも、ところどころに多かりけり。巳の時とて、貝吹き鐘つくなり。』

(図3-10)長谷寺・鐘楼。

『むかし清少納言がまうでし時も、にはかにこの貝を吹きいでつるに、驚きたるよし、書きおきける。思ひ出られて、そのかみの面影も、見るやう也。鐘はやがて御堂のかたはら、今登りこし、くれはしの上なるになんかゝれりける。

  名も高く はつせの寺の かねてより
  きゝこしおとを 今ぞ聞ける

ふるき哥共にも、あまたよみける、いにしへの同じ鐘にやと、いとなつかし。かゝる所からは、ことなる事なき物にも、見聞くにつけて、心のとまるは、すべて古をしたふ心のくせ也かし。

猶そのわたりたゝずみありく程に、御堂のかたに、今やうならぬ、みやびたる物の音の聞ゆる。』


(図3-11)外舞台から与喜山(左側の山)を見る。

『かれはなにそのわざするにかと、しるべするをのこにとへば、此の寺はじめ給ひし上人の御忌月にて、このごろ千部のどきやう(読経)の侍る。日ごとのおこなひのはじめに侍る。 がくの聲也といふに、いと聞かまほしくて急ぎまゐるを、まだいきつかぬ程に、はやく聲やみぬるこそ、あかず口惜しけれ。

又御堂のうちをとほりて、かの貫之の梅の前より、かたつかたへ少し下りて、学問する大とこたちの庵のほとりに、二本の杉の跡とて、小さき杉あり。 又少しくだりて、定家の中納言の塔也といふ五輪なる石建たてり。此のごろやうの物にて、いとしもうけられず。』


(図3-12)登廊。宣長は「くれはし」(呉階)といっている。

『八塩の岡といふ所もあり。なほくだりて、川辺に出で、橋をわたりて、あなたの岸に玉葛(たまかづら)の君の跡とて庵あり。墓もありといへど、けふはあるじの尼、物へまかりて、なきほどなれば、門さしたり。

すべて此の初瀬にそのあとかの跡とてあまたある。みなまことしからぬ中にも、この玉葛こそ、いともいともをかしけれ。かの源氏物語は、なべてそらごとぞとも、わきまへで、まことに有けん人と思ひて、かゝる所をもかまへ出たるにや。

このやゝ奥まりたるところに、家隆の二位の塔とて、石の十三重なるあり。こはやゝ古く見ゆ。そこに大きなる杉の、二またなるも立てり。』

(図3-13)与喜天満宮への石段。

『 又牛頭天王の社。そのかたはらに、苔の下水といふもあり。こゝまではみな、山のかたそはにて、川にちかき所也。

それよりかの与喜の天神に詣づ。社の山のはらに、やゝたひらなる所にたゝせ給へり。長谷山口坐神社と申せるはこれなどにもやおはすらん。されど今は、なべてさる事知れる人しなければ。わづらはしさに、尋ねも問はず。大かたいにしへ名ありける御社ども、いづくのも今の世には、すべて八幡天神さては牛頭天王などにのみ成り給へるぞかし。

此のわたりすべて小深きしげ山にて、杉などは多かれど、名にたてる檜原は見えず。此の川上には、檜の木も多しと、しるべのをのこはいへりき。』

(図3-14)出雲から葛城山・畝傍山・耳成山を見る。

『 かくて此のうち巡りはてゝ里に降りける程、又雨降り出しぬ。けふは朝より空晴れそめて、やうやう青雲も見ゆるばかりに成しかば、今はふようなめりとて、とくとりをさめつる雨衣、又しもにはかにとりいでゝうちきるもいとわびし。

  ぬぎつれど 又もふりきて
  雨ごろも  かへすがへすも 袖ぬらすかな

されどしばしにて、里はなるゝ程は、きよくやみぬ。

あなたよりいる口に、いと大きなる朱(あけ)の鳥居たてり。さて出はなれて、出雲村・黒崎村などいふ所を過ぐ。』


旧初瀬街道を歩いて出雲にでると、旧街道は国道165号線よりも10mほど高くなる。進むうちに巻向山に向かって登り道がある。ここを山に向かって登ると、左の歌の舞台ではないかという棚田に着く。

出雲・黒崎・脇本といった街道沿いの集落にある田畑のうちで、ここが最も広いだろう。往時は棚田ではなく、菜を摘む丘であったとしてもおかしくない。

なにしろ左の歌(1-1)は万葉集の巻頭歌である。特別な歌である。

宣長がここを通ったときにこのことを知ったならば、必ずこの歌を掲げたことだろう。


(図3-15)黒崎の白山神社(泊瀬朝倉宮があったという)。

『此のあたりは朝倉宮列木宮【長谷朝倉宮は雄略天皇の都 長谷列木宮は武烈天皇の都】などの跡と聞こしかば、いとゆかし。

此の黒崎に家ごとにまんぢうといふ物をつくりて売るなれば、かのふりにし宮どもの事、尋ねがてら、あるじの年老いたるがみゆる家見つけて、食ひに立ちよる。 さて食ひつゝ問ふに、ふるき都の跡とばかりはうけ給はれど、これなんそれとたしかに伝へたるしるしの所も侍らずとぞいふ。』

(図3-16)手前の三角が外鎌山。奥は音羽山。

『高圓(たかまと)山はいづこぞと問ふに、そはこのうしろになん侍るとて、教ふるを見れば、此の里よりは南にあたりて、よろしき程なる山の、いたゞきばかり少し見えたる。今は外鎌山(とがま)となんいふとぞ。

まことの高圓山は春日にこそあなるを、こゝにしも其の名をおふせつるは、もとより外鎌(とかま)といふが、似たるによりてか、又は高圓山とつけたるを里人のもてひがめて、かくはいふか。いづれならん。』

(図3-17)慈恩寺の西隣の三輪から見た外鎌山。奥は音羽山。

『脇本慈恩寺などいふ里をゆく。こゝよりはかの外鎌山、近くてよく見ゆ。

此の里の末を追分とかいひて、三輪の方へも桜井のかたへもゆく道のちまた也。今はその少しこなたより左へわかれ、橋をわたりて、多武(たむ)の峯へゆく細道にかゝる。此橋は初瀬(はつせ)川の流れにわたせる橋也けり。

そもそも多武の峯へは櫻井よりゆくぞ、正しき道には有ける。外山(とび)村などいふも、その道也といふなれば。それも名ある所にて、訪ね見まほしき事共はあれど、みな人ほどの遠きをものうがりて、今の道には物するなりけり。』

(図3-18)忍阪から見た音羽山。川は粟原川。

『東の方にいと高き山を問へば、音羽山とぞいふ。音羽の里といふも、その麓にありとぞ。

忍坂村は道の左の山あひにて、やがて此の村のかたはらをとほりゆく。こゝもふるき哥に見え、神の御社などおはすなれど、ゆく先急がれて、さまではえ訪ねず。

なほ山のそはづたひをゆきゆきて倉梯(くらはし)の里にいでぬ。こゝはかの桜井よりくる道也けり。初瀬よりこし程は二里。多武の峯迄はなほ一里有とぞ。』


(図3-19)道の奥、左側の白壁(工事中)の建物が金福寺なのだが、その向こうに崇峻天皇陵がある。宣長は倉梯柴垣の宮は金福寺の場所にあったと聞いてやってきた。

『しばし休める家にて、例の都のあとを尋ぬれば、【崇峻天皇の都 倉梯柴垣の宮】あるじ、この里中に金福寺と申す寺ぞ、その御跡には侍る。

このおはしける道なる物をとて、子にやあらん、十二三ばかりなる童(わらは)をいだして、案内(あない)せさす。これにつきてゆきて見る。二三町ばかりも立ちかへりて、かの寺といひしは、門などもなくて、いとかりそめなる庵になん有ける。猶くはしきこともきかまほしくて、あるじの法師をとぶらひしかど、なきほど也けり。』


(図3-20)崇峻天皇陵の横を流れる倉梯川。金福寺の護摩堂の後ろには倉梯川が流れていると宣長は書いている。つまり写真の場所に宣長はやってきたのであるが、御陵に気づいていない。宣長の時代には、村人は崇峻天皇陵を単なる雑木林だと思っていたようだ。実際のところ、現在の崇峻天皇陵には円墳らしきものがなく、平地に雑木が繁っているだけである。

『まへに護摩堂(ごまだう)とて、かやぶきなる小さき堂のあるを、さしのぞきて見れば、不動尊のわきに聖徳太子・崇峻天皇とならべ奉りて、かきつけたる物たてり。

されどむげに今やうのさまにて、さらに古しのぶつまと成ぬべきものにはあらず。倉梯川(くらはし)は、やがて此の庵のうしろを流れたり。すべてこゝは、山も川も名ある所ぞかし。』


(図3-21)崇峻天皇陵。(文中の忍阪にある陵は舒明天皇陵である。村人は間違ったことを教えている。)

『さきの家にかへりて、また御陵【倉梯岡陵崇峻天皇】はいづこぞととへば、そは忍坂と申す村より五丁ばかりたつみの方に、みさゞき山とて、しげき森の侍るなかに、洞の三ッ侍る。深さは五六十間も侍るべし。こゝより程は遠けれど、そのあたり迄もなほ倉梯の地には侍る也といふ。

いでその忍坂は来しかたの道なりしに、さることも知らで、過ぎこし事よと、いと口惜し。こゝよりは廿町あまりもありといへば、えゆかでやみぬ。

かの音羽山といひつる山、こゝより東にあたりて、いと高くみゆ。倉梯山は。ふるき哥共によめるを見るに、いと高き山と聞えたれば、これやそならんとおぼゆ。』

(図3-22)倉橋から見た音羽山。

『さてこの里を出て五丁ばかり行て、土橋をわたりて、右の方に下居(おりゐ)といふ村あり。 その上の山に小高き森の見ゆるは、用明天皇ををさめ奉りし所也と、かの家のあるじの教へしは、所たがひて覚ゆれど、猶あるやう有べしと思ひて、のぼりて見るに、その森の中に春日の社とて祠(ほこら)あり。

その少しくだる所に山寺の有けるに立ちよりて尋ぬれば、あるじの法師、かれは御陵にあらず。用明の御陵は長門村といふ所にこそあなれといふに、さりや、かのを教へしは、はやくひが事也けりと思ひさだめぬ。 されど此の森も、やうある所とは見えたり。ふるき書に【文徳實録九又神名帳】椋橋下居神とあるも、此の里にこそおはすらめ。』

(図3-23)八井内あたりの倉梯川。

『かの土橋を渡りては、倉梯川を左になして流れに沿ひつゝのぼりゆく。此の川は多武の峯よりいでゝ倉梯の里中を北へ流れ行く川也。

此の道に桜井のかたよりはじまりて多武の峯迄、瓔珞經の五十二位といふ事を一町ごとにわかちて、彫(ゑ)りしるしたる石ぶみ立ちたり。すべてかゝるものは、こしかたゆく先のほど計られて、道ゆくたよりとなるわざ也。』

(図3-24)不動滝。宣長が見た滝はこれであろう。

『なほ同じ川岸をやうやうに登りもてゆくまゝに、いと木深き谷陰になりて、左(ひだり)右より谷川の落ちあふ所にいたる。瀧津瀬のけしき、いとおもしろし。』

(図3-25)屋形橋。

『そこの橋をわたれば、すなはち茶屋あり。こゝははや多武の峯の口也とぞいふ。さて二三町がほど家たちつゞきて、又うるはしき橋あるを渡り、少しゆきて惣門にいる。左右に僧坊共こゝらなみたてり。』

(図3-26)談山神社・楼門。

御廟の御前はやゝうちはれて、山の腹に南向きにたち給へる。いといかめしく、きらきらしくつくりみがゝれたる有様、眼もかゞやくばかり也。』

(図3-27)談山神社・神廟拝所。後ろに十三重塔。

十三重の塔、又惣社など申すも西の方に立ち給へり。すべて此の所、みあらかのあたりはさらにもいはず。僧坊のかたはら、道のくまぐままで、さる山中におち葉のひとつだになく、いといときらゝかに掃き清めたる事、又たぐひあらじと見ゆ。』

(図3-28)談山神社の全景。

『桜は今を盛りにて、こゝもかしこも白たへに咲き満ちたる花の梢。ところからはましておもしろき事、いはんかたなし。

さるはみな移し植ゑたる木どもにやあらん。一やうならず。くさぐさ見ゆ。そも此の山に、かばかり花の多かること、かねては聞かざりきかし。

  谷ふかく 分けいるたむの
  山ざくら かひある花の いろを見るかな


(図3-29)細川あたりの冬野川。(宣長はここは通っていない)

『鳥居のたてる前を、西ざまにゆきこして、あなたにも又惣門あり。その前をたゞさまにくだりゆけば、飛鳥の岡へ五十町の道とかや。

その道のなからばかりに、細川といふ里の有ときくは、南淵(みなぶち)の細川山とよめる所にやあらん。又そこに此の多武の山より流れゆく川もあるにや。

【萬葉九に うちたをり たむの山霧 しげきかも 細川の瀬に 浪のさわげる】訪ねみまほしけれど、え行かず。』


宣長は「うち手折り」と読んだが、今は「ふさ手折り」と読むらしい。 いっぱいに手折ろうと枝もたわむ(という)多武の峰の山霧が深いためか、細川の瀬に波が騒いでいることだ。 イマイチよさがわからない。それなら同じ人麻呂歌集の(7-1092)

  あしひきの 山河(やまがは)の瀬の
  響(な)るなへに 弓月が岳に
  雲立ち渡る

のほうが調子がよく、しかも山の川(穴師川)の瀬音が大きくなって、弓月が岳に雲が湧き上がるという動きがある。

宣長がこの日記で引用する万葉歌の多くは巻1〜巻3からである。こここで特に巻9の歌を出しているのは、宣長にとって特に愛着がある歌なのであろうか。



(図3-30)西大門跡。

『吉野へはこののもとより左にをれて別れゆく。』

(図3-31)竜在峠から大和をみる。

『はるかに山路を登りゆきて手向(峠)に茶屋あり。大和の国中(くんなか)見えわたる所也。なほ同じやうなる山路をゆきゆきて、又峠にいたる。

こゝよりぞ吉野の山々、雲居はるかにみやられて、あけくれ心にかゝりし花の雲、かつがつ見つけたる。いとうれし。

さて下りゆく谷かげ、岩ばしる山川の景色、世ばなれていさぎよし。多武の峯より一里半といふに、瀧の畑といふ山里あり。まことに瀧川のほとり也。又山ひとつ越えての谷陰にて、岡より上市へ越ゆる道とゆきあふ。』

(図3-32)竜在峠から吉野をみる。

『今日は吉野までいきつべく思ひまうけしかど、とかくせしほどに、春の日もいととく暮ぬれば。千俣といふ山ぶところなる里に泊まりぬ。こよひは、

  ふる里に  通ふ夢路や
  たどらまし ちまたの里に 旅寝しつれば

此の宿にて龍門の滝の案内(あない)尋ねしに、あるじの語りけるは、こゝより上市(かみいち)へたゞにゆけば一里なるを、かしこへ巡りては二里あまりぞ侍ん。

そはまづ此の里より、かしこへ一里あまり有りて、又上市へは一里侍ればといふ。』

(図3-33)龍門岳。

『此の瀧かねて見まほしく思ひしゆゑ、今日の多武の峯より物せんと思ひしを、道しるべせし者の、さてはいたく遠くて、道も嶮しきよし言ひしかば、えまからざりしを、今聞くが如くは、かしこより物せんには、ましてさばかり遠くもあらじ物をと、いとくちをし。

されど吉野の花、盛り過ぎぬなどいふを聞くに、いとゞ心の急がるれば、明日ゆきて見んといふ人もなし。』

(図3-34)龍門の滝。

『そもこの龍門といふところは、伊勢より高見山越えて、吉野へも木の国へも物する道なる。瀧は道より八丁ばかり入るところに有りとなん。いとあやしき瀧にて、日のいみしう照るをり、雨を請ふわざするに、かならずしるし有りて、むなぎののぼれば、やがて雨は降る也とぞ。

  立よらで よそにきゝつゝ 過る哉
  心にかけし 瀧の白糸。



C3月8日(新暦4月10日) 千股から吉野水分神社



4日目は目的地の1つである吉野を巡る。千俣(千股)から山を下って吉野川を渡し船で渡って、吉野山に登ってみると、(下千本あたりの)桜は盛りを過ぎていた。3〜4日前が満開であったという。

だが金峰山寺の仁王門あたりまで登ると、まだ満開の桜が多くある。吉水院近くの宿屋で旅装を解き、さっそく吉水院を詣でて後醍醐天皇・後村上天皇を偲ぶ。蔵王堂では3体の蔵王権現の大きさに驚く。実城寺、勝手神社、竹林院を見て、吉野水分神社に詣でた。上千本のこの地の桜は満開だった。

文中で宣長は、父が吉野水分神社に祈願して生まれた子であるという。13歳になったらお礼参りに行くぞと、父はいっていたが、その父親は宣長が11歳のときに亡くなった。

母親は13歳になったとき宣長を吉野水分神社にお礼参りさせている。誰かに付き添ってもらってやってきたのだろう。その母も今はない。

その折のことは宣長はあまり覚えていないが、成長して物の心もわきまえ知るようになると、神の恵みのありがたさに、毎朝吉野水分神社の方向を向いて拝んでいる。

ようやく30年を経て吉野水分神社へ詣でることができた。「年ごろの本意かなひつるこことして、いと嬉しきにも。落ちそ涙は1つなり」と感激している。

なお吉野の桜は、下千本・中千本・上千本・奥千本の4つの区域に分けていう。桜はこの順に開花するので、下千本から奥千本まで約1か月にわたって桜見物ができる。

  1. (図4-1)大和上市駅から見た吉野。

  2. (図4-2)吉野川

  3. (図4-3)吉野川を挟む妹山と背山

  4. (図4-4)吉野神宮(宣長の時代にはなかった)

  5. (図4-5)七曲坂。下千本へ上る。

  6. (図4-6)〜(図4-8)(中千本)

  7. (図4-9)仁王門(中千本)
  8. (図4-10)〜(図4-13)吉水神社(中千本)

  9. (図4-14)金峯山寺・蔵王堂(中千本)

  10. (図4-15)南朝妙法殿(中千本)

  11. (図4-16)勝手神社。(中千本)

  12. (図4-17)(図4-18)中千本から上千本へ

  13. (図4-19)〜(図4-26)吉野水分神社。(上千本)

  14. (図4-27)上千本から下る。

  15. (翌日訪れる金峯神社・西行庵は奥千本)


(図4-1)近鉄電車の大和上市駅(やまとかみいち)から見た吉野。遠くの山の右側の尖った山は百貝岳(860 m)。左側の丸い山は青根ガ峰(858m)。その中間のやや下の小高い山に、いわゆる吉野がある。よく見れば金峰山寺の根本中堂である蔵王堂が見える。

『 八日。きのふ初瀬の後雨ふらで、よもの山の端も、やうやうあかりゆきつゝ、多武のみねのあたりにては、なごりもなく晴たりしを、今日も又いとよき日にて、吉野も近づきぬれば、けさはいとゞ足かろく、みな人の心ゆく道なればにや、ほどもなく上市に出ぬ。

此のあひだは一里とこそいひしか、いとちかくて、半里にだにもたらじとぞ覚ゆる。』

(図4-2)大和上市駅から5分ほど下ると吉野川である。吉野神宮行きの近鉄特急が吉野川を渡って行った。向うの橋のあたりに「渡し」があった。

『吉野川。ひまもなくうかべる筏をおし分て、こなたの岸に船さしよす。 夕暮ならねば、渡し守ははやともいはねど、【いせ物語に渡し守はや船にのれ日もくれぬといふに云々】みな急ぎ乗りぬ。』

(図4-3)妹山(左側)と背山(右側)

『いもせ(妹背)山はいづれぞととへば、河上のかたに、流れをへだてゝ、あひ向かひてまぢかく見ゆる山を、東なるは妹山、西なるは背山とをしふ。

されどまことに此の名をおへる山は、紀の国にありて、疑ひもなきを、かの中におつるよし野の川に思ひおぼれて、必ずこゝとさだめしは、世のすきもののしわざなるべし。されど、

  妹背山 なき名もよしや よしの川
  よにながれては それとこそ見め



(図4-4)吉野神宮。飯貝の隣の吉野山にある。後醍醐天皇を祀る。明治25年に 創られたものだから、宣長は見ていない。

『あなたの岸は、飯貝といふ里也。さて川べにそひつゝ、少し西に行て、丹治といふ所より、よし野の山口にかゝる。やゝ深く入もてゆきて、杉むらの中に、四手掛の明神と申すがおはするは、吉野山口神社などにはあらぬにや。 されどさいふばかりの社とも見えず。』



(図4-5)七曲り坂。

『此の森より下にも上にも、此のわたりなべて桜のいと多かる中を、のぼりのぼりて、のぼりはてたる所、六田のかたよりのぼる道とのゆきあひにて、茶屋あり。しばしやすむ。』

(図4-6)「下千本」を見下ろす。写真は12月のものなので、桜の木には葉も花もない。

『此の屋は、過こし坂路より、いと高く見やられり所也。こゝより見わたすところを、一目千本とかいひて、大かた吉野のうちにも、桜のおほかるかぎりとぞいふなる。

げにさも有ぬべく見ゆる所なるを、たれてふをこの者か、さるいやしげなる名はつけゝんと、いと心づきなし。

花は大かた盛りすぎて、今は散残たる梢どもぞ、むらぎえたる雪のおもかげして、所々に見えたる。そもそも此の山の花は、春立る日より、六十五日にあたるころほひなん、いづれの年も盛りなると、世にはいふめれど。』


(図4-7)大橋。ここより吉野山。

『又わが国人の来て見つるどもに、とひしは、かのあたりのさかりの程を見て、こゝに物すれば、よきほどにぞと、これもかれもいひしまゝに、其の程うかゞひつけて、いで立しもしるく、道すがらとひつゝこしにも、よきほどならんと、おほくはいひつる中に、まだしからんとこそ、いひし人も有しか、かく盛り過ぎたらんとは、かけても思ひよらさりしぞかし。

なほこゝにてくはしくとひきけば、この二月のつごもりがた、いとあたゝかなりしけにや。例の年のほどよりも、ことしはいとはやく咲出侍りつるを、いにし三日四日ばかりや、さかりとはまうすべかりけん。

そも雨しげく、風ふきなどせし程に、まことに盛りと申つべきころも侍らぬやうにてなん、うつろひ侍りにし。』


(図4-8)銅(かね)の鳥居

『と語るをきけば、其のとしどしの寒さぬるさにしたがひて、おそくもとくもあることにて、かならずそのほどと、かねては此の里人も、えさだめぬわざにぞ有ける。

うしとらの方に、御舟山といふ山見えたり。【万葉に「瀧のうへの御船の山】されどその山は、瀧のうへのと詠みたれば、此のちかき所などにあるべくも覚えず。これも例のなき名なるべし。

こゝは吉野の里にいる口にて、これよりは町屋たちつゞけり。二三町ばかりゆきて、石の階を少しのぼりたる所に、いと大きなる銅の鳥居たてり。發心門としるせる額は、弘法大師の手也とぞ。』


(図4-9)仁王門。

『又二町ばかりありて。石の階のうえに。二王のたてる門あり。此わたりにも桜有て、さかりなるもおほく見ゆ。

かのみふね山、こゝよりは、向かひにちかく見えたり。まづ宿りをとらんとて、蔵王堂にはまゐらですぎゆく。堂はあなたにむかひたれば、かの門は、うしろの方にぞたてりける。

そのあたりに、きよげなる家たづねて、宿をさだめて、まづしばしうちやすみ、物くひなどして、けふ明日の事共かたらひ、道しるべすべきものやとひて、まづ近き所々を見めぐらんとて、いでたつ。 このかりつる宿は、箱やの何がしとかいふものの家にて、吉水院ちかき所なりければ、まづまうず。』



(図4-10)吉水院は鳥居の下の坂道をいったん下って、再び坂道を登ったところにある。

『この院は、道より左へいさゝか下りて、又少しのぼる所、はなれたる一ッの岡にて、めぐりは谷也。後醍醐のみかどの、しばしがほどおはしましゝ所とて、有しまゝに残れるを、入てみれば、げに物ふりたる殿のうちのたゝずまひ、よのつねの所とは見えず。かけまくはかしこけれど、

  いにしへの こゝろをくみて よし水の
  ふかきあはれに 袖はぬれけり


(図4-11)吉水神社(昔の吉水院)。

『かのみかどの御像、後村上帝の御てづからきざみ奉り給へるとて、おはしますを拝み奉るにも、

  あはれ君 この吉水に うつり来て
  のこる御影を 見るもかしこし


(図4-12)吉水院から北を見る。中千本。

『又そのかみのふるき御たから物ども、あまた有て、見けれど、ことごとくはえしも覚えず。此寺の内に、さゞやかなる屋の、まへうちはれて、見わたしのけしきいとよきがあるに、たち入て、煙ふきつゝ見いだせば、子守の御社の山、むかひに高く見やられて、其山にも、かたへの谷などにも、ひまなく見ゆる桜共の、今は青葉がちなるぞ、かへすがへすくちをしき。

さはいへど奥ある花は、盛りとみゆるも、猶あまたにて、

  みよし野の 花は日数も かぎりなし
  青葉のおくも 猶盛りにて


(図4-13)北闕門から北を望む。

『滝桜といふも、かしこにありとをしふ。

  咲きにほふ 花のよそめは たちよりて 
  見るにもまさる 滝のしら糸

くるゝ迄見るとも、あくよあるまじうこそ、又雲ゐ桜といふもあり。後醍醐のみかどの、此の花を御覧じて、「こゝにても 雲ゐのさくら 咲きにけり たゞかりそめの 宿とおもふに」とよませ給ひしも、

  世々をへて むかひの山の 花の名に
  のこるくもゐの あとはふりにき


(図4-14)金峯山寺・蔵王堂。

『さて蔵王堂にまうづ。御とばりかゝげさせて見奉れば、いともいとも大きなる御像の、怒れるみかほして、かた御足さゝげて、いみしうおそろしきさまして立給へる。三はしらおはする。たゞ同じ御やうにて、けぢめ見え給はず。堂は南向きにて、たても横も十丈あまりありとぞ、作りざまいとふるく見ゆ。

まへに桜を四隅にうゑたる所あり。四本桜といふとかや。そのかたつかたに、くろがねのいと大きなる物の、鍋などいふものゝさまして、かけそこなはれたるが、うちおかれたるを、何ぞととへば、昔塔の九輪の焼け落ちたるが、かくて残れる也といふ。 口のわたり六七尺ばかりと見ゆ。その塔の大きなりけんほど、おしはかられぬ。』

(図4-15)実城寺は廃仏毀釈で無くなり、今は南朝妙法殿が建立されている。

『堂のかたはらより西へ、石のはしを少しくだれば、すなはち実城寺也。 本尊のひだりのかたに後醍醐天皇。右に後村上院の、御ゐはいと申物たゝせ給へり。此の寺も前のかぎり蔵王堂のかたにつゞきて、後も左も右も、みなやゝくだれる谷也。されどかの吉水院よりは、やゝ程ひろし。

この所は、かりそめながら、五十年あまりの春秋をへて、三代の帝【後醍醐天皇 後村上天皇 後亀山天皇】のすませ給ひし御行宮の跡なりと申すは、いかゞあらん。ことたがへるやうなれど、をりをりおはしましなどせし所にてはありぬべし。

今は堂も何も、つくりあらためて、そのかみの名残りならねど、なほめでたく、こゝろにくきさま、こと所には似ず。』



(図4-16)勝手神社跡。宣長が訪れたときは焼失して仮屋が建っていた。その後再建されたのだが、平成13年にまた焼失した。

『此の寺を出て、もとの道にかへり、桜本坊などいふを見て、勝手の社は、この近き年焼きぬるよし。いまはたゞいさゝかなるかり屋におはしますを、をがみて過ゆく。

此のやしろの隣りに、袖振山とて小高き所に、小さき森の有しも、同じをりに焼けたりとぞ。御影山といふも、このつゞきにて、木しげきもりなり。』

(図4-17)竹林院。いまは旅館業が忙しいようである。

竹林院、堂のまへに珍しき竹あり。一ッふしごとに、四方に枝さし出たり。うしろの方に、おもしろき作り庭あり。』

(図4-17)高取山・竜門岳。

『そこより少し高き所へあがりて、よもの山々見わたしたる景色よ。まづ北の方に蔵王堂、町屋の末につゞきて、物より高く目にかゝれり。なほ遠くは、多武の山・高取山、それにつゞきて、うしとらのかたに、龍門の岳など見ゆ。

東と西とは、谷のあなたに、まぢかき山々あひつゞきて、かの子守の御社の山は、南に高く見あげられ、いぬゐ(乾)のかたに、葛城山はいといとはるに、霞のまより見えたるなど、すべてえもいはず面白き所のさま也。

  花とのみ おもひ入ぬる 吉野山
  よものながめも たぐひやはある


(図4-18)花矢倉から蔵王堂のあたりを眺める。

『時うつる迄ぞ見をる。ゆくさきなほ見どころはおほきに、日くれぬべしとおどろかせど、耳にもきゝいれず。くれなばなげの【古今春「いざけふは 山べにまじりなん 暮れなばなげの 花の陰かは】などうちずして、

  あかなくに 一よは寝なん み吉野の
  竹のはやしの 花のこの本

かくはいへど、ゆくさきの所々も、さすがにゆかしければ、そこにたてる桜の枝に、この歌は結びおきて、たちぬ。』

(図4-19)吉野水分神社・鳥居と楼門。

『さてゆく道のほとりに、何するにかあらん、桜の宿り木といふ物を、多くほしたるを見て、

  うらやまし 我も恋しき 花の枝を
  いかにちぎりて やどりそめけむ

ゆきゆきて、夢ちがへの観音などいふあり。道のゆくてに、布引の桜とて、なみ立る所もあなれど、今は染めかへて、青葉のかげにしあれば、旅ごろもたちとまりても見ず。かの吉水院より見おこせし、滝桜・雲ゐざくらも、此の近きあたり也けり。

世尊寺、ふるめかしき寺にて、大きなるふるき鐘など有り。』


(図4-20)吉野水分神社・本殿

『なほのぼりて、蔵王堂より十八町といふに、子守の神まします。此の御やしろは、よろづの所よりも、心いれてしづかに拝み奉る。

さるは昔、我が父なりける人、子持たらぬ事を深くなげき給ひて、はるばるとこの神にしも、ねぎことし給ひける。しるし有て、程もなく母なりし人、たゞならずなり給ひしかば、かつがつ願ひかなひぬと、いみじう悦びて、同じくはをのこゞえさせ給へとなん、いよいよ深くねんじ奉り給ひける。』

(図4-21)正面は権殿、右は本殿、左は拝殿。

『われはさて生まれつる身ぞかし。十三になりなば、かならずみづからゐてまうでて、かへりまうしはせさせんと、のたまひわたりつる物を、今少しえたへ給はで、わが十一といふになん、父は失せ給ひぬると、母なんものゝつひでごとにはのたまひいでゝ、涙おとし給ひし。

かくて其の歳にも成しかば、父の願はたさせんとて、かひがひしう出たゝせて、まうでさせ給ひしを、今はその人さへなくなり給ひにしかば、さながら夢のやうに、

  思ひ出る そのかみ垣に たむけして
  麻よりしげく ちるなみだかな

袖もしぼりあへずなん。』


(図4-22)権殿には豊臣秀頼が寄進したみこしがある。秀吉が吉野水分神社に祈願して秀頼が生まれた。

『かの度は、むげに若くて、まだ何事も覚えぬほどなりしを、やうやう人となりて、物の心もわきまへ知るにつけては、むかしの物語をきゝて、神の御めぐみの、おろかならざりし事をし思へば、心にかけて、朝ごとには、こなたに向きて拝みつゝ、又ふりはへてまうでまほしく、思ひわたりしことなれど、何くれとまぎれつゝ過こしに、三十年をへて、今年又四十三にて、かくまうでつるも、契あさからず。年ごろのほい(本意)かなひつるこゝちして、いとうれしきにも。おちそ涙は一ッ也。

そも花のたよりは、少し心あさきやうなれど、こと事のついでならんよりは、さりとも神もおぼしゆるして、うけ引き給ふらんと、猶たのもしくこそ。』

(図4-23)吉野水分神社・拝殿。子守のお守りを売っている。

『かゝる深きよしあれば、此の神の御事は、ことによそならず覚え奉りて、としごろ書を見るにも、萬に心をつけて、尋ね奉りしに、吉野水分神社と申せしぞ、此の御事ならんと、はやく思ひよりたりしを、續日本紀に、水分峯神ともあるは、まことにさいふべき所にやと、地のさまも見さだめまほしく、としごろ心もとなく思ひしを、今来て見れば、げにこのわたりの山の峯にて、いづこよりも高く見ゆる所なれば、うたがひもなく、さなりけりと思ひなりぬ。

ふるき哥に、みくまり山と讀めるも此の所なるを、その文字を「みづわけ」とひがよみして、こと所の山にしも、さる名をおふせたるは、例のいかにぞや。』

(図4-24)本殿前の庭に立つ桜木の枝に稲が吊られている。新嘗祭を行ったのであろう。

『又みくまりをよこなまりて、中比には、御子守の神と申し、今はたゞに子守と申して、産みのこの栄えをいのる神と成給へり。 さて我父も、こゝには祈り給ひし也けり。此の御門のまへに、桜おほかる。いま盛りなり。

木のもとなる茶屋に立よりて休めるに、尾張国の人とて、これも花見にきつるよし、から哥このむ人にて、名もからめきたる。なにとかやわすれにき。

その妻は、やまと言の葉をなん物するよし。それもぐしたる、やゝさだすぎにたれど。けしうはあらず見ゆ。』

(図4-25)上千本。

『さるは一昨日(をとつひ)、伊賀の名張に休める所にて、見し人也けり。昨日(きのひ)多武の峯に、詣であひつるを、今日(けふ)又竹林院なる所にも、ゆきあひて、かの男なん。

小泉(見庵)に語らひつきて、ふみつくりかはしなどしつゝ、おのれらがことをも、くはしうとひきゝなどせしとかや。さる事はしらざりしを。又しもこゝにき逢ひたる。しかじかのよしいひ出て、物語などする程に、春の日も入相の鐘の音して、心あわたゝしければ、立ちわかるゝこの本にて、

  今は又 きみがことばの 花も見ん
  吉野の山は わけくらしけり


(図4-26)丹生の社。後醍醐天皇が雨宿りしたという。

『ゆくさきは、明日のついでと、のこし置て、けふはこれより、宿りにかへりぬ。その夜さり、かの尾張人の宿より、歌ふたつかきて、見せにおこせたる。かのさだすぎ人のなるべし。けふの花のおもしろかりしよしありければ、返し、

  よしの山 ひる見し花の おもかげも
  にほひをそへて かすむ月影。

かくよめるは、かの哥ぬしの名、「霞月」とありければぞかし。くだものなどそへておくりければ。

  み吉野の 山より深き なさけをや
  花のかへさの 家づとにせん


(図4-27)竹林院の近くにある喜蔵院。宿泊ができる。

『これよりは、ゑぶくろに有あひたるまゝに、いせの川上茶といふをやるとて、つゝみたる紙に、

  ちぎるあれや 山路分け来て すぎがての
  木の下陰に しばしあひしも

茶少しとは、聞きしりなんや。このほか人々の哥どもゝ。これかれかきつけてやりつ。京にいそぐ事あれば、明日はとくたちて、のぼるべきよし。いひおこせたるに、

  旅衣 袖こそぬるれ 吉野川 
  花より早き 人の別れに



D3月9日(新暦4月11日) 大滝村から喜佐谷




D日目は吉野町を広くめぐっている。その目的は吉野川の上流を見ることであったらしい。一応は吉野川の上流の大滝村あたりにかつての吉野離宮があったらしいのでここを見てみたいの思いもあったようだが、川そのものを見物しようというつもりだったようだ。

流れが激しい川、川の中の岩群、滝、川岸の崖、など躍動する水の動きとそれを受け止める岩に興味を抱いている。これまでの道中で宣長が風景について記述したものは、「川+巌(いわお)」が多かった。 例えば@日目の「ゆつ岩群」の大仰川、A日目の「中山の岩」・「名張の獅子舞岩」・「大野の磨崖仏」、B日目の倉梯川上流の「不動滝」・行けなかった悔しさをいう「竜門の滝」、そしてD日目は、「激しい水の流れ+川の中の巌+滝+切り立つ崖」を見るために、大滝村・蜻蛉の滝・宮滝を訪れている。

  1. (図5-1)〜(図5-3)吉野の宿屋の立地(中千本)

  2. (図5-4)上千本へ(中千本)
  3. (図5-5)金峯神社(奥千本)
  4. (図5-6)義経隠れ塔(奥千本)
  5. (図5-7)茶店、青根が峰(奥千本)
  6. (図5-8)苔清水(奥千本)
  7. (図5-9)〜(図5-10)・西行庵(奥千本)

  8. (図5-11)青根が峰・女人結界標(吉野町吉野山)
  9. (図5-12)〜(図5-13)西河の里(川上村西河)

  10. (図5-14)大滝村(川上村大滝)
  11. (図5-15)〜(図5-18)大滝の吉野川(川上村大滝)

  12. (図5-19)三船山(川上村樫尾)
  13. (図5-20)〜(図5-25)蜻蛉の滝(川上村西河)

  14. (図5-26)樋口(吉野町菜摘)
  15. (図5-27)〜(図5-30)宮滝の吉野川(吉野町宮滝)

  16. (図5-31)桜木神社(吉野町喜佐谷)
  17. (図5-32)象山(吉野町喜佐谷)

  18. (図5-33)(図5-34)菜摘の吉野川(吉野町菜摘)







(図5-1)吉水院近くはみやげ物屋・食堂・宿屋が並ぶ。

『九日。とくおき出て、はしちかく見いだせば、空はちりばかりもくもりなく、晴れ渡りたるに、朝日のはなやかにさし出たるほど、木々のこのめも、春ふかき山々の景色、霞だにけさはかゝらで、物あざやかに見わたされたり。

吉水院は、たゞはひわたるほどにて、ゆきかふ人のけはひ迄、まぢかくめのまへに見ゆ。

大かた此の里は、かの水分(みくまり)の峰より、かたさがりにつゞきて、細き尾の上になん有めれば、左右に立なみたる民の家居どもゝ前よりこそさりげなく、たゝよのつねの屋のさまに見いれらるれ。』


(図5-2)上図右側のみやげもの屋を横からみると、ご覧のように3階建てになっている。

『うしろは、みな谷より作りあげて、三階の屋になん有ければ、いづれの家も、見わたしの景色よし。さるはまらうど宿し、又物うりなどするは、上の屋にて、道よりたゞに入る所也。

次に家人のすまひは、中の屋にて、その下なれば、戸口より階をくだりてなん入める。今一ッはしを下りて、又下なる屋は、床などもなくて、たゞ土のうへに、物うちおきなど、みだりがはしくむつかしきに、湯あむる所、厠(かはや)などは、そこしもあなれば、日ひとひあるきこうじたる旅人の足は、八重山越ゆくこゝちして、此のはしどものぼりくだるなん、いと苦しかりける。』



(図5-3)吉水院のあたりは中千本。吉野水分神社は上千本。今日は奥千本まで足を伸ばし、吉野川まで下る。

『されど所のさまの、いひしらずおもしろきには、さる事は物のかずならず。花ちりなばと、まつらん人をもうちわすれて、【新古今西行「吉野山 やがていでじと 思ふ身を 花散りなばと 人やまつらん」】やがてとゞまりても、すみなばやとさへぞ思はるゝ。』


(図5-4)右の坂道が上千本への入り口。宣長は昨日行った吉野水分神社(上千本)をさらに登り、奥千本へ向かった。

『今日は瀧ども見にものせんとて、例の道しるべさきにたて、かれいひ酒などもたせて、いでたつ。かの竹林院などいふわたりまでは、いかめしき僧坊どもなど、立まじりて、ひたつゞきの町屋なるを、末はやうやうまばらになりもてゆきて、子守のみやしろよりおくは、人の家もなく、たゞ杉のおひしげりたる中をぞ分け行く。さてやゝうちはれたる所にいでゝ、左にはるかの谷となづけたるところ、またいと桜おほくて、さかり也。』


(図5-5)金峯神社。吉野で世界遺産に登録されているのは、@蔵王堂、A吉水神社、B吉野水分神社、C金峯神社 である。金峯神社はあいにく修繕工事中だった。

『 高根より 程もはるかの 谷かけて
  立ちつゞきたる 花のしら雲

なほ行きて、大きなる朱(あけ)の鳥居あり。二の鳥居又修行門ともなづくとかや。金御峯神社、いまは金精大明神と申して、此の山しろしめす神也とぞ。』

(図5-6)義経隠れ塔。宝形造の品格ある建物である。文中の「けぬけの塔」は「蹴抜けの塔」である。

『このおまへを少し左へ下りて、けぬけの塔とて、ふるめかしき塔のあるは、むかし源義経が、かたきにおはれて、この中にかくれたりしを、さがしいだされたる時、屋根をけはなちて、逃げいにける跡などいひて、見せけれど、すべてさることは、ゆかしからねば、目とゞめても見ずなりぬ。』

(図5-7)茶店はないが、今は休憩所になっている。この場所は宝塔院跡と呼ばれている。このあたり一帯に、多宝塔・四方正面堂・安禅寺蔵王堂など大小の寺院が点在していたらしいが、明治初めの廃仏毀釈で影も形もなくなっている。といったことが案内板に書かれてあった

『茶屋ある所にいたる。その前を、右へいさゝかくだれば、安禅寺也。蔵王堂、大坂右大臣のたて給へるとぞ。

東の方に、木しげき山は、青根が峯也とて、此のだうのまへより、むかひにちかく見えたり。』

(図5-8)苔清水。高さ1mほどの岩盤をチョロチョロと水が流れ落ちている。

『二三町おくに。何とかやことごとしき名つきたる堂あり。そのうしろへ、木の下道を、二丁ばかりくだりたる谷陰に、苔清水とて、岩間より水のしたゞり落る所あり。西行法師が哥とて、まねびいふをきくに、さらにかの法師が口つきにあらず。むげにいやしきえせ哥也。』


(図5-9)西行庵。一辺が1丈(10尺)ほどの宝形造りだが、その柱は曲がった自然木を使っていて、茶室のようである。一辺が1丈なら、その部屋の広さは4畳半。「方丈記」を書いた鴨長明もこのような「方丈」の庵に住んでいたのだろう。

『なほ一町ばかり分け行て、かの住めりし跡といふは、少したひらなる所にて、一丈ばかりなる、かりそめのいほり、今もあり。桜もこゝかしこに見ゆ。

  花見つゝ   すみし昔の   あととへば
  苔の清水に うかぶおもかげ


(図5-10)西行庵のある場所は平らで結構な広さがある。おそらくここにも何らかの寺院が建てられていたと思うが、今は桜の木が植えられている。文中に、このあたりには槇の木が多いとあるが、ちょうど草刈にきていた地元の人に尋ねると、ここは桜が多い。槇の木は如意輪寺のある山に多くあるという。

『このちかきころある法師も、みとせばかり、こゝにこもりゐけるとぞ。京にて高野槇といふ木を、こゝの人は、ただにまきとぞいふ。これを思へば、いにしへ檜のほかに、まきといひしは、この木なるべし。

これは、こゝに必ずいふべきことにもあらねど、此わたりの山に、此の木のおほかるにつきて、人のたづねけるに、いらへつることばを聞て、ふと思ひよれるゆゑ、筆のついでに、かきつけつるぞ。』

(図5-11)女人結界の石標。「右 大峰山 ・左 蜻蛉瀧」とある。横の地蔵には「右 大みね山 ・左 せいめいケだき」と彫ってある。まっすぐ進めばずっと先に大峰山。左の道を行けばじきに青根が峰の山頂である。

『本の道を、安禅寺の前の茶屋迄かへりて、御嶽へまうずる道にかゝり、三丁あまりもきつらんと思ふ所に、しるべのいしぶみたてる道を、左へ分れゆく。

みたけの道へは、これより女はのぼらずとぞ。かの見えし青根が峯は、すなはち此の山也けり。』

(図5-12)青根が峰から音無川の谷底を目指して下る。道は次第に急角度で落ちていき、途中では丈の高い草で道が消えている。一歩間違えると急な山斜面を転げ落ちる。文中の「夏箕(なつみ)の里」は見えない。宣長らは写真の山道は通っていないようだ。青根が峰からの山稜を通って西河(にしごう)の里へ下ったようだ。

『少し行て、東のかたの谷の底はるかに、夏箕(なつみ)の里見ゆ。ゆきゆきて又東北の谷に、見くださるゝ里をとへば、国栖とぞいふ。

此のわたり、うちはれたる山の背を、つたひゆくほど、いと遠し。さてくだる坂路のけはしさ、物にゝず、されどのぼるやうに、くるしくはあらず。此の坂をくだりはつれば、西河の里也。安禅寺より、一里といひしかど、いととほく覚えき。』


(図5-13)音無川上流。山を下ること1時間あまり、いまだに人一人みかけぬし、もとより人家はない。宣長一行は青根が峰からどういうコースで山を下ったのか? 現在では私がたどっている登山道があるだけである。

『山の中につゝまれて、いづかたも見はるかす所もなき里なるを、家ごとに紙をすきて、門におほくほせる。こはいまだみぬわざなれば、ゆかしくて、足もやすめがてら、立ち入て見るに、一ひらづゝすき上げては、重ね重ねするさま、いとめづらかにて、たつこともわすれつ。』

(図5-14)吉野郡川上村大滝。道を下れば吉野川に出る。なお音無川も迂回して、大滝のやや下流で吉野川に注ぐ。

『さて右の方へ三丁ばかり、里をはなれ行て、谷川にわたせる板橋のもとよりわかれて、左へいさゝかのぼり、山のかひを、あなたへうちこゆれば、すなはち大滝村也。此の間は五丁ばかりもあらんか。

此の大瀧の里のあなたのはづれは、すなはち吉野川の川のべにて、瀧といふも、やがて川づらなる家のまへより、見やらるゝ早瀬にて、上よりたゞさまにおつる滝にはあらず。』

(図5-15)大滝の吉野川

『此の瀧は、遠くては、ことなることもなし。近くよりて見よと、貝原翁が、教へおきつる事もあれば、岩の上を、とかくつたひゆきて、、せめてまぢかくのぞき見るに、そのわたりすべて、えもいはず大きなる巌(いはほ)どもの、こゝら立ち重なれるあひだを、さしも大きなる川水の、走り落つるさま、岩にふれて、砕け上がる白波のけしきなど、おもしろしともおそろしとも、いはんは中々おろかに成ぬべし。

むかしは筏も、此の瀬をたゞにくだしけるを、あまりに水のはげしくて、度ごとに、くだしわづらひし故に、いはほのやゝなだらかなる所を、切り通して、今はかしこをなんくだすなると、をしふる方を見れば、あなたざまに一みち分れて、おちゆく水、げにこなたの瀬より、少しはのどやかに見えたり。』

(図5-16)Uターンする吉野川。宣長たちは弁当を食べ、酒を飲みながら筏下りを見物した。

『あはれ今くだし来む筏もがな、いかで此の早瀬くだすさま見むといひつゝ、かれいひくひ、酒などのみをる程に、みなかみはるかに、この筏くだしくる物か、やうやうちかづききて、此の瀧のきはになりぬれば、乗りたる者共は、左右の岩の上に、飛び移りて、先なる一人、綱をひかへて、みな流れにそひて、走りゆくに、筏の早く下るさまは、矢などのゆくやう也。

さて岩のとぢめの所にて、人共皆筏へかへる。そこは殊に水の勢ひはげしくて、ほどばしりあがる浪にゆられて、うきしづむ丸木の上へ、いたはりもなく飛び移るさま、いといとあやふき物から、珍らかにおもしろきこと、たぐひなし。』


(図5-17)淀む吉野川。このあたりから筏流しをしていたのだろうか。

『みな人此の筏に見入て、盃のながれは、いづちならんとも、とはずなりぬ。さて此の筏、瀧をはなれて、ひら瀬にくだりたるを、よく見れば、一丈二三尺ばかりの長さなるくれを、三ッ四ッづゝ組みならべて。つぎつぎに十六、つなぎつゞけたるは、いといと長く引はへたり。

人は四人なん乗れりける。川瀬は、此の滝のしもにて、あなたへをれて、むかひの山あひに流れいる。右も左も、物をつき立たるやうなる岩岸の下に、さる筏をしも、くだしゆくけしき、たゞ絵にかけらんやうに見ゆ。 かゝる 所にては、中々に口ふたがりて、哥もいでこぬを、わざとうちかたふきつゝ、思ひめぐらさんも、さまあしければ、さてやみぬ。』


(図5-18)大滝のバス停。吉野離宮が大滝にあるとするなら、宮を建てるためにそれなりの広さの平地がなければならない。奈良交通の大滝バス停のあたりがわずかな平地になっている。ここには郵便局や交番もある。宣長はこの場所を吉野宮があったと思ったのかも知れない。

『いにしへ吉野の宮と申して、みかどのしばしばおはしまししところ。柿本人まろ主の、御供にさふらひて、滝のみやことよみけるも、この大瀧によれる所なりけんかし。

そのをりをりの歌どもに、あはせて思ふに、あきづの小野などいひしも、又滝のうへの御舟の山も、かならず此のわたりなりけんこと、疑ひもなければ、今もさいふべきさましたる山やあると、心をつけて見まはすに、この川づらより左の、少しかへり見る方に、さもいひつべき山あり。』



この歌は持統天皇が689年に吉野宮に行幸したときに、柿本人麻呂が詠んだものと推定されている。


あまねく国を支配されているわが大君が、
治められている天下に、
国は数多くあるが

山と川が清らかであると、
心をよしとされる吉野の国の、
美しい花の散る秋津の野のほとりに

太い宮柱をお建てになったので、
ももしきの大宮人は、

朝には船を並べて川を渡り、
夕には舟を競って漕いで川を渡る。

この川が絶えることがないように、
この山の高いように、
(天皇が)君臨されている
流れの激しいこの「滝の都」は、
いつまで見ても見飽きることがない




(図5-19)宮滝バス停近くから見た三船山。大滝は確かに三船山の麓にあるが、大滝近くに小山があるので、これが邪魔をして三船山を見ることはできない。三船山を見るには山から少し離れなければならない。

『船にしていはんには、まへしりへたひらに長くて、なからばかりに、一きは高く、屋形といひつべき所ある山なり。これやさならん、とは思ひよれど、いかにあらん。おぼつかなし。

そは瀧の所よりは、少し下ざまにしあなれば、瀧のうへといへるには、いさゝかたがへるやうにもあれど、なべて此のわたりならん山は、などかさいはざらん。古へ忍ばん人、またまたもこゝにきまさば、必ずこゝろみ給へ。やがて此の里の上なる山ぞかし。』



(吉野川の)激しい流れの上にある三船山に、雲はいつもかかっているが、私がいつまでも生きているいられるとは思っていない。

悲観的な歌である。諦観したような歌を詠ったの理由のひとつは政治的な不遇な立場にあったことである。

天武天皇は天智天皇の4人の皇女を后としていたが、皇位継承順位の1番の草壁、2位の大津は亡くなり、母が皇女の身分である皇子は、長・弓削の兄弟と舎人皇子の3人だけが残っていた。

だが持統天皇は草壁の子の軽皇子を世継ぎにしたいという思いがあった。政治は皇位継承順位の低い高市皇子にまかせ、長皇子・弓削皇子は政治的に疎んじていたようである。



(図5-20)蜻蛉(せいれい)の滝。滝は図の落ち初めから40〜50m落下して、岩に当たり水しぶきをあげて5〜10m下の滝つぼへ落下する。

写真の滝の落ち初めのところは、淵になってここに溜まった水が落下する。つまり@水脈→滝の上のくぼんだ淵へ→A大落下→B下の岩にぶつかり→さらに落下して滝つぼへ、という落下をしている。「3段の滝」である。最後の滝つぼからは落差はなく、ふつうの川になって、吉野川へ流れていく。

『かくて又里の中を通りて、西河のかたへかへり、こたみは、さきの板橋をわたりて、石のはしを一町ばかりものぼり、こしげき谷かげを分け入て、いはゆるせいめいが滝を見る。これはかの大瀧とはやうかはりて、しげ山の岩のつらより、十丈ばかりが程、ひたくだりに落る滝也。

この見る所は、かたはらよりさし出たる、岸のうへにて、ちかう滝のなからにあたりたれば、上下を見あげ見おろす。』





(図5-21)滝は一度岩にぶつかって砕け、ふたたび滝壷へ落ちていく。

『上はせばきが、やうやうに一丈あまりにも広ごりて、落ちゆく。末はこなたかなたより、み山木どもおひかゝりて、をぐらき谷の底なれば、穴などをのぞくやうなる所へ、山も響(とよ)みて、落ちたぎるけしき、けおそろしく、そぞろさむし。』

『かたはらにちひさき堂のたてる前より、岩根をよぢ、つたかづらにかゝりつゝ、少しのぼりて、滝の上を見れば、水はなほ上より落ち来りて、岩淵にいる。この淵二丈ばかりのわたりにて、程はせばけれど、深く見ゆ。瀧はやがてこの淵の水のあまりて、落るなりけり。』


(図5-22)滝の最上部。滝の滝口(文中では「銚子の口」といっている)の上は深い淵になっている。そこへ小さな滝が落ち、淵に水を溜めている。写真の左下が銚子の口で、そこから50mほどの落下が始まる。

『こゝに里人の岩飛といふことして、見するよし、かねて聞しかば、さきに西河にてさるわざするものやあると、尋ねしかど、此のごろは、長雨のなごりにて、水いとおほければ、危ふしとて、するものなかりき。

さるはこのかたへなるいはのうへより、淵の底へとび入て、うかび出ることをして、銭をとるなるを、水おほくて、はげしき時には、浮みいづるきはに、もし押し流されて、銚子の口にかゝりぬれば、命絶へずとなんいふなる。銚子の口とは、淵より滝へおちんとする際をいふ也けり。』

(図5-23)滝壷近くから見上げる。

『そもそも此の瀧を、清明が瀧としもいふは、かげろふの小野によりたる名にて、虫の蜻螟(かげろふ)ならん、と云し人もあれど、さにはあらじかし。里人は、蝉の滝ともいふなれば、はじめは、なべてさいひけむを、後に清明とは、さかしらにぞいひなしつらん。

いま瀧のさまを見るに、かみは細くて、やうやうに下ざまの広きは、蝉のかたちに、いとよう似たるに、なる音はた、かれが聲似かよひたなれば、さもなづけつべきわざぞかし。』


(図5-24)蜻蛉滝公園。青根が峰から流れはじめた水は蜻蛉の滝でクライマックスを迎える。この滝で修験する者のために仙龍寺が開かれていたが、今は無く、その寺跡は「蜻蛉滝公園」になっている。

『又その蝉の瀧は、これにはあらず、こと瀧也ともいへど、里人は、すなはち此の滝のこと也とぞいふける。

そはとまれかくまれ、かの虫の蜻螟は、ひが事なるべし。かげろふの小野とは、かのあきづ野をあやまりたる名にて、もとよりさる所はなきうへに、そのあきづ野はた、此のわたりにはあらじ物をや。 』

(図5-25)滝が落下したあとは、音無川はがらりと大人しい川になる。

『さて此滝のながれを、音無川といひて、萬よりもあやしきは、月毎のはじめなからは、上津瀬に水といふものなく、後のなからは、又下津瀬に水なしとかや。 さて上より来る水は、いづちへいかにして、流れゆくぞといふに、石のはざま砂の下などへ、やうやうにしみ入つゝ、なくなりては、はるかに下にいたりて、又やうやうに湧き出つゝ、流れゆく也といふは、さることも有ぬべけれど、ころをしもたがへで、上つせと下つ瀬と、たがひにしかかはらんことは、猶いとあやしきわざ也かし。 そはとまれかくまれ、かの虫の蜻螟は、ひが事なるべし。』

(図5-26)音無川には太鼓橋が架かっている。

『されど今は、たゞよのつねの川にて、さりげも見えぬは、此ごろ水のおほき故也とぞいふ。すなはちかの板橋のかゝれるも、此の川にて、しもはにじかふの里中をなん、ながれ行める。

かの里にかへりて、又今朝くだりこし山路にかゝる。今朝はさしもあらざりしを、のぼるはこよなく苦しくて、同じ道とも思はれず。

さてのぼりはてて、右につきたる道へわかれて、又しものぼる山は、佛が峯とかいひて、いみしうけはしき坂也。 さてくだる道は、なだらかなれど、足疲れたるけにや、猶いと苦しくて、茶屋の有所に、しばしとてやすむ。』

(図5-27)大滝から三船山の北を回りこんで、再び吉野川に出たところが樋口。右下方に吉野川がある。

『こゝにて鹿塩神社の御事をたづねたれば、そは樫尾西河大滝と三村の神にて、西河と樫尾とのあはひなる山中に、今は大蔵明神と申て、おはするよし語る。この道よりは、ほど遠しときけば、え詣でず。

なほ坂路をくだりゆくほど、右のかたを見おろせば、山のこしをめぐりて、吉野川流れたり。国栖・夏箕(なつみ)なども、川べにそひて、こゝよりは、ちかく見ゆ。』


(図5-28)柴橋。川の向うは宮滝(地名)。

『さてくだりはてたる所の里を、樋口といひ、そのむかひの山本なる里は、宮滝にて、吉野の川は、此のふた里のあひだをなん流れたる。西河よりこゝ迄は、一里あまりも有ぬべし。かの国栖・なつみ(菜摘)などは、此の少し川上也。しもは上市へも程ちかしとぞ。

此のわたりも、いにしへ御かり宮有て、おはしましつゝ、せうえうし給ひし所なるべし。宮瀧といふ里の名も、さるよしにやあらん。

こゝの川べのいはほ、又いとあやしくめづらか也。かの大滝のあたりなるは、なべてかどなく、なだらかなるを、こゝのは、かどありて、みなするどきが、ひたつゞきにつゞきて、大かた川原は、岩のかぎり也。』

(図5-29)柴橋から上流を見る。「滝つ河内」と呼ばれている。

『此の岩どもにつきても、例の義経がふることとて、何くれと、えもいはぬこと共を、語りなせども、うるさくて、きゝもとゞめず。

此のわたり川のさま、さるいはほの間にせまりて、水はいと深かれど、のどやかにながれて、早瀬にはあらず。

さて岩より岩へわたせる橋、三丈ばかりもあらんか。宮滝の柴橋といひて、柴してあみたる。渡ればゆるぎて、ならはぬこゝちには、あやふし。』

(図5-30)柴橋から下流を見る。「夢の和田」と呼ばれている。

『又ここにも、かの岩飛びするもの有。かたらひ来てとばす。とぶ所は、やがて此の橋の下なる。こなたかなた岸はみな岩にて、屏風などを立たらんやうにて、水ぎはより、二丈四五尺ばかりの高さなるを、かなたの岩岸の上より飛ぶを、こなたの岸より見るなりけり。

そのをのこ、まづき物を皆ぬぎて、はだかに成て、手をばたれて、ひしと腋につけて、目をふたぎ、うるはしく立たるまゝにて、水の中へつぶりととびいるさま、めづらしき物から、いとおそろしくて、まづ見る人の心ぞ、きえ入ぬべき。』


(図5-31)象(きさ)の小川は「夢の和田」へ水を落とす。

『此比は水高ければ、深さも二丈五尺ばかり有となん。しばし有て、やゝ下へうかひいでゝ、きしの岩にとりかゝりて、あがりきて、くるしげなるけしきもなく、なほ飛びてんやといへど、おそろしさに、又は飛ばせでやみぬ。

さるは始のごとして、うしろざまにむきても、かしらを下に、さかさまにも、すべて三度迄とぶ也とぞ。大かた此のわざは、こゝらの年をへて、習ひうることにて、おぼろけならねば、一さとのうちにも、わづかに一二人ならでは、いうるものなしとぞ、このをのこはいひける。』

(図5-32)桜木神社。祭神は天武天皇。

『是より還るさの道のほどは、一里にたらずとはいふなれど、日も山の端ちかく成ぬれば、今はとて、宿りにおもむく。

川邊をはなれて、左の谷陰にいり、四五丁もゆきて、道のほとりに、桜木の宮と申すあり。御前なる谷川の橋をわたりてまうづ。

さて川邊をのぼり。喜佐谷村といふを過て、山路にかゝる。少しのぼりて、高滝といふ瀧あり。よろしき程の滝なるを、一つゞきにはあらで、つぎつぎにきざまれ落るさま、又いとおもしろし。 象(きさ)の小川といふは、此の瀧の流れにて、今過来し道より、かの桜木の宮の前をへて、大川に落つる川也。』

(図5-33)宮滝から見た象山(右側 407m)と三船山(左側 531m)。最も遠くにあるのが青根ケ峰(858m)。

象山(きさやま)といふも、此のわたりのことなるべし。桜いと多かる。今はなべて青葉なるなかに、おのづから散り残れるも、所々に見ゆ。大かた此の吉野のうちにも、ことに桜の多きは、かのにくき名つきたる所、さては此のわたりと見えたり。

滝を右の方に見つつ、なほ坂をのぼり行きて、あなたへ下る道は、なだらか也。其ほどにも、桜はあまた見ゆ。されどいにしへにくらべば、いづこもいづこも、今はこよなう、少なくなりたらんとぞ思はるゝ。』

(図5-34)菜摘橋から見下ろすと鮎釣りをしている。上流にダムができているので、今は筏流しはできない。

『さるは此の山のならひとて、此の木を切ることを、いみしくいましむるは、神のをしみ給ふ故なりとこそいふなるに、今は杉をのみ、いづこにもおほくうゑ生したるが、たちのびて、しげりゆくほどに、桜はその陰におしけたれて、おほくはかれもし、又さらぬも、かじけゆきて、枝くちをれなどのみすめるを、神はいかゞおぼすらん。

まろが心には、かく杉うゝるこそ、伐よりも、桜のためは、こゝろうきわざとおぼゆれ。かくて暮れはてゝぞ、宿りにかへりつきぬる。まことや大滝の哥、かへるさの道にて、からうじてひねり出たる。』

(図5-35)菜摘橋から下流を見る。正面の山は三船山。山のむこうが宮滝。

『 ながれての 世には絶ける みよしのゝ
  滝のみやこに のこる瀧津瀬

宮瀧のも、

  いにしへの 跡はふりにし 宮たきに
  里の名しのぶ 袖ぞぬれける



E3月10日(新暦4月12日) 吉野から飛鳥・岡へ



宣長一行は2泊したのち吉野の宿屋を出立した。如意輪寺、後醍醐天皇の塔尾陵を見物してから吉野山を下った。吉野川に出て、六田の渡しを渡り、土田に着いたときは昼どきであった。そこでソバ切りを食べたが、その器はきたなかった。

土田から畑屋までは中街道と呼ばれる道を行き、途中から壷坂寺に通じる山道を歩いたようである。壷坂寺を見物し、宣長を除く一行は五百羅漢の石仏群を見物する。

壷坂寺を下って土佐に出て、檜隈寺跡に向かった。ここから飛鳥である。

初めての飛鳥だからだろうか、檜隈寺跡の記述は多い。次に近くの高松塚古墳にいったようだ。宣長は現地で文武天皇陵だと教えられている。次に少し北へ歩いて、野口の御陵を見物する。

その墓は石室が露出していたので内部を観察することができた。武烈天皇陵だという者がいるが、それは間違いであると宣長はいう。なぜなら延喜式に、檜隈にある御陵は、檜隈坂合陵は欽明天皇、檜隈大内陵は天武天皇と持統天皇、安古岡陵は文武天皇の御陵であると書いてあり、武烈天皇陵は檜隈にはないからであると指摘している。

宣長はこのあと、川原寺跡、橘寺を見て、岡の宿屋に泊まった。

  1. (図6-1)如意輪寺へ向かう(吉野町)
  2. (図6-2)如意輪堂(吉野町)
  3. (図6-3)後醍醐天皇陵(吉野町)

  4. (図6-4)六田の渡し(吉野郡大淀町)
  5. (図6-5)土田(吉野郡大淀町)

  6. (図6-6)壷坂寺(高取町)
  7. (図6-7)壷坂寺・三十塔(高取町)
  8. (図6-8)五百羅漢石仏(高取町)
  9. (図6-9)土佐の町並み(高取町)

  10. (図6-10)檜隈寺跡(於美阿志神社)(明日香村檜前)
  11. (図6-11)檜隈寺十三重石塔(明日香村檜前)
  12. (図6-12)宣化天皇廬入野宮(いおりののみや)跡(明日香村檜前)

  13. (図6-13)檜隈寺講堂跡(明日香村檜前)
  14. (図6-14)檜隈寺金堂跡(明日香村檜前)
  15. (図6-15)檜隈川(明日香村檜前)

  16. (図6-16)高松塚古墳(明日香村平田)

  17. (図6-17)文武天皇陵(明日香村栗原)

  18. (図6-18)(図6-19)天武・持統天皇陵(明日香村野口)

  19. (図6-20)鬼の雪隠(明日香村野口)
  20. (図6-21)鬼の俎板(明日香村野口)

  21. (図6-22)(図6-23)川原寺跡(明日香村川原)

  22. (図6-24)(図6-25)橘寺(明日香村橘)

  23. (図6-26)川原寺近くの飛鳥川(明日香村川原)
  24. (図6-27)岡の町並み(明日香村岡)


(図6-1)正面の山の中腹に如意輪寺の塔が見える。

『十日。けふは吉野をたつ。昨日の帰るさに、如意輪寺に詣づべかりけるを、日暮れて残しおきしかば、今朝ことさらに詣づ。

此の寺は、勝手の社のまへより、谷へ下りて、向かひの山也。谷川の橋を渡りて、入もて行く道、さくら多し。寺は山の腹に、いと物ふりてたてる。

堂のかたはらに宝蔵あり。蔵王権現の御像をすゑたり。この御づしのとびらの裏なる絵は、巨勢金岡がかけるといふを見るに、げにいと古く見どころある物也けり。』

(図6-2)如意輪堂(本堂)

『それに。後醍醐のみかどの、御みづからこの絵の心をつくりて、かゝせ給へる御詩とておしたり。わきにこのみかどの御像もおはします。これはた御てづからきざませ給へりとぞ。其外かゝせ給へる物、又御手ならし給ひし御硯やなにやと、とうでゝ見せたり。

又楠の正行(まさつら)が軍にいでたつとき、矢の先して、塔の扉に、「かへらじと かねて思へば 梓弓 なきかずにいる 名をぞとゞむる」といふ哥をゑりおきたるも、此のくらに残れり。

みかどの御ためにまめやかなりける人なれば、かの義経などゝはやうかはりて、あはれと見る。』

(図6-3)後醍醐天皇陵(塔尾陵)。

『又塔尾の御陵と申て、此の堂のうしろの山へ少しのぼりて、木深き陰に、かの帝のみさゞきのあるに、まうでゝ見奉れば、小高くつきたる丘の、木どもおひしげり、つくり巡らしたる石の御垣も、かたははうちゆがみ、かけそこなはれなど、さびしく物あはれなる所也。

そのかみ新待賢門院のまうでさせ給ひて、「九重の 玉のうてなも 夢なれや 苔の下にし 君を思へば」とよませ給へる御哥など、思ひ出奉りて、

  苔の露 かゝるみ山の したにても
  玉のうてなは わすれしもせじ

と思ひやり奉るも、いとかしこし。』

(図6-4)吉野神宮へ行く電車から吉野川下流を撮る。六田はもう少し下流。吉野川はもうゆったりと流れている。穏やかな流れであるから川舟の渡しがあったのだろう。

『本の宿りに帰り、しばし休みて、此の度は六田の方へくだらんとて出たつ。里をはなれて、山の背をゆきゆきて、坂をくだりはてたる所なん、六田の里也ける。今は里人は、むだとぞいふめる。吉野の川づらにて、古柳を多く詠めりける所なれば、今もありやと見まはせど、

  有としも みえぬむつだの 川柳
  春のかすみや へだてはつらん


(図6-5)土田の町。

『舟さし渡りて、かなたの川べをやゝくだりゆきて、土田といふ所は、上市の方より、紀の国へかよふ道と、北より吉野へいる道とのちまたなる駅也。

六田より一里といへどちかゝりき。こゝにてそばきりといふ物を食ふ。家も器物も、いとあやしくきたなげなれど、椎の葉よりはと思ひなぐさめて食ひつ。【万葉に「家にあれば けにもるいひを 草枕 旅にしあれば しひの葉にもる」】』

(2-141)は万葉集の挽歌中で一番に掲げられている歌である。岩代(地名)の松の枝と枝を結んで神に祈っていく。無事であったならば、帰りにまた見たいものだ。

有間皇子は孝徳天皇の皇子で、有力な皇位継承者であったが、謀反の疑いをかけられ、和歌山にいた斉明天皇のもとに連行された。その旅の途中で詠った歌である。

(2-142)の意味は、家にいるときは、器に盛って食べる飯だのに、草を枕にする旅先なので、椎の葉に盛ることだ。

宣長は昼食に出された汚い器を見て、この歌を思い出し、まあ椎の葉に盛ってだされるよりはましかと自らをなぐさめた。

(図6-6)壷坂寺から国中(くんなか)が見渡せる。

『これより壷坂の観音に詣でんとす。たひらなる道をやゝゆきて、右の方に分れて、山そひの道にいり、畑屋などいふ里を過て、のぼりゆく山路より、吉野の里も山々も、よく返り見らるゝ所あり。

  かへりみる よそめも今を かぎりにて
  又もわかるゝ みよしのゝ里

吉野の郡も此の峠をかぎり也とぞ。くだる方に成ては、大和の国中よく見わたさる。比えの山あたご山なども見ゆる所也といへど、今は霞ふかくて。さる遠きところ迄は見えず。』

(図6-7)壷坂寺・本堂と三重塔。

『さてくだりたる所、やがて壺坂寺なり。此の寺は高取山の南の谷陰にて、土田よりこし道は五十町とかや。

二王門有て、普門観とかける額かゝれり。観音のおはする堂には、南法華寺とぞある。三こしの塔も、堂のむかひにたてり。』

(図6-8)五百羅漢の石仏群。宣長はここへは来なかった。

『奥の院といふは、やゝ深く入る所にて、佛のみかたどもあまたつくりなへたる、あやしき岩ありとて、みな人は詣づるを、われはいさゝか心ちなやましくて、え物せず。

まへなる茶屋に入てためらひおるに、やゝまつ程へて、人々は帰り来て、有りつるやう語るをきけば、誠にあやしき物なりけり。』

(図6-9)土佐の町並。

『こゝより、右へ谷の道を十町ばかりくだり行て、清水谷といふ里にいづ。此の里は、国中(くんなか)より芦原峠といふを超へて、吉野へいる道也。

一町ばかりはなれてあなたは、土佐といふ所。町屋つゞけり。高取山の麓にて、この町なかより、山のうへなる城、近く見あげらる。大かた此城は、高き山の峯なれば、いづかたよりもよく見ゆる所なりけり。』

(図6-10)檜隈寺跡。今は於美阿志神社が建っている。

檜隈は此わたりと、かねてきゝしかば、たづねてゆく。この土佐のまちをはなるゝ所より、右へ三町ばかり細道をゆきて、かの里也。 例の翁たづねいでゝ、いにしへの事共とへど、さだかにはしらず。都のあとゝは聞つたふるよし。又御陵どもは、この近き平田・野口などいふ里にあなる。いにしへはそのわたりかけて、ひのくま(檜隈)となんいひしと語る。』

(図6-11)十三重の石塔。重文。

『さて里の神の社也とて、森のあるつゞきなる所に、高さ二丈ばかりなる十三重の石の塔の、いとふるきが立る。めぐりを見れば、いと大きなる石ずゑありて、塔などの跡と見ゆ。近きころ、この石をおのが庭にすゑんとて、あるものゝ掘らせつれど、あまりに大きにて、掘りかねてやみぬる。程もなく病みふして死にけるは、このたゝりにて有けりとなんいふなる。』


(図6-12)宣化天皇廬入野宮(いおりののみや)の石碑があった。

『その前にかりそめなる庵のある。あるじの法師に、この塔の事たづねしかば、宣化天皇の都のあとに【檜隈廬入野宮宣化天皇の都】寺たてられて、いみしき伽藍の有りつるが、焼けけたりし跡也。

このあたりにその瓦ども、今もかけ残りて多くあり、と教ふるにつきて見れば、げに此の庵の前も、道のほとりにも、すべて古瓦のかけたる、数もしらず、土にまじりてあるを、一ッ二ッひろひとりて見れば。いづれも布目などつきて、古代のものと見えたり。』

(図6-13)神社拝殿の左側に講堂跡がある。礎石が残っているが規模はそう大きくない。

『此の庵は。やがてかの伽藍のなごりといへば、そも今は何寺と申すぞとゝへば、だうくわうじといふよし答ふ。文字はいかに書き侍ると又とへば、此の法師、頭(かしら)うちふりて、なにがし物かゝねば、その文字までは知り侍らずといふにぞ、なほ問はまほしき事も、ゆかしささめつるこゝちして、問はずなりぬ。

わが住む寺の名の文字だに知らぬ法師も、世には有物也けり。むげに物かゝずとも、こればかりは、しかじかと人にきゝおきても知りをれかし。さばかりのあはつけさには、いかで古の事をしも、ほのぼの聞きゝおきて語りりけむとをかし。』

(図6-14)金堂があったと思われる場所。祠が建っている。

『後にこと里人にきけば、道の光とかくよし也。されどそれもいかゞあらん。知らずかし。大かた此にきよ。

たゞ物の心も知らぬ里人などのいふを、きけるまゝにしるせる事し多ければ、語りひがめたる事もありぬべし。又聞きゝ違へたるふしなども有べければ、ひがことゞもゝまじりたらんを、後によく考へたゞさむことも、物うくうるさくて、さておきつるを、後見ん人、みだり也となあやしみそ。

これはかならずこゝにいふべき事にもあらねど、思ひ出つるまゝになん。』

(図6-15)檜隈川。下流方向を見る。

檜隈川といふべき川は見えざれば、

  聞わたる ひのくま川は たえぬとも
  しばしたづねよ あとをだに見ん。

【古今集に「さゝのくま ひのくま川に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見ん】

人々もろ共に、こゝかしことあづねありきけるに、たゞいさゝかなる流れは、一ッ二ッ見ゆれど、これなんそれとたしかには、里人も知らずなん有ける。』


(図6-16)宣長が平田で見たのは、右の高松塚古墳らしい。

『さて教へしまゝに、平田といふ里にいたりて、御陵をたづぬるに、野中のこだかき所に、松三もと四本おひて、かたつ方くづれたるやうなる塚あり。これなん文武天皇のみざゝきと申す。』

(図6-17)文武天皇陵。文武陵は高松塚古墳の南側にあり、高松塚古墳よりも大きい。しかしこれも文武天皇陵ではなく、高松塚の北にある中尾山古墳がそれであるというのが有力な説である。

野口にある古墳は、今では天武・持統天皇陵とされているが、宣長が訪ねたころは、比定されていない。

『そこを過きて、又野口といふ里にて、こゝかしこ尋ねつゝ、田のあぜづたひの道をたどり行て、一ッの御陵ある所にいたる。

こはやゝ高くのぼる岡のうへに、いと大きなる石してかまへたる所あり。南向きに、横も縦も二尺あまりなる口のあるより、のぞきて見れば、いはやのやうにて、内せばく、下は土にうづもれて、わづかにはひいるばかり也。』


(図6-18)天武・持統天皇陵。かつては野口王の墓とされていた。

『うへには、たてよこ一丈あまりのひらなる大石を、物のふたのやうにおほひたり。そのうしろにつゞきたる所、一丈四五尺がほど、やゝたひらにて中のくぼみたるは、近き世に、高取の城築くとて、大石ども堀り取りしあと也といへり。

みだれたる世に、物の心も知らぬ、むくつけきものゝふのしわざとはいひながら、いともかしこき帝の御陵をしも、さやうに堀り散らし奉りけん事の心うさよ。

そこにわらびなどたきるてたる跡の見ゆるは、あやしきかたゐなどの、すみかにしつるなめり、と思ひしもしるく。』

(図6-19)天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)。

『やがて此御山の下に、さるものどもおほくあつまりゐたりき。これを武烈天皇の御陵也と申すなるは、所たがひて覚えし故に、そのわたりにて、これかれに問ふに、みなさいへるは、いかなることにか。

すべてこの檜隈に御陵と申すは、延喜の式にのせられたるを見るに、檜隈坂合陵は、磯城島宮に天下しろしめしゝ天皇。 同じき大内陵は、飛鳥浄御原宮に御宇天皇、又藤原宮御宇天皇。 同じき安古岡陵は、同宮にあめの下しろしめしゝ文武天皇にておはします。

このうち、いづれかいづれにおはしますらん。今はさだかにわきまへがたし。こゝなるを武烈としも申すやうなる、ひがことしあれば里人の伝へも、もはら頼みがたくこそ。』

(図6-20)天武・持統天皇陵の近くに、鬼の雪隠と呼ばれる石室が露出してある。

『さいつころ並河のなにがしが、五畿内志といふ書をつくるとて、おほやけにも申て、その国々所々を、細かにめぐりありきて、かゝる事もいといとねんごろに尋ね奉りし事、此のわたりの里人も、年おいたるはおぼえゐて、そのをりしかしかなど語るなり。

げにかの書には、何のあとは、その里のそこにあり。その村に、今は何といふ塚なん。その御陵なるなどやうに、いともさだかにしるしたるは、なにをしるしにさだめつるにか。』

(図6-21)鬼の雪隠の近くには鬼に俎板(まないた)と呼ばれる平べったい岩がある。これは石室の床石で、鬼の雪隠が石室の蓋石であった。誰かが墓を壊したのである。

『むげにちかきことなれど、その世までは、なほ里人もよくわきまへしりゐて、語りけるにや。又おしあてにもさだめつるにやと、疑はしきことはた多かるを、此の度かくこゝかしこと、かつがつも尋ぬるに、とかくさだかならぬにつけては、さまでもつまびらかには、いかにしてたづねえけんと、いさをの程は、おほろけならず思ひしらる。』

(図6-22)川原寺跡。

『此のみさゞきより少し行て、ほどなく廣き道にいでぬ。こは土佐より岡へたゞにゆく道なりけり。やゝゆきて。左のかたに見ゆる里を、川原村といふ。

このさとの東のはしに、弘福寺とて、ちひさき寺あり。いにしへの川原寺にて、伽藍の石ずゑ、今も堂のあたりには、さながらも、又まへの田の中などにちりぼひても、あまた残れり。』

(図6-23)川原寺の礎石。昭和32年に発掘調査された。

『その中に、もろこしより渡りまうでこし、めなう石也とて、真白にすくやうなるが一ッ、堂のわきなる屋の、壁の下に、なかばかくれて見ゆるは、げにめづらしきいしずゑ也。尋ねてみるべし。里人は観音堂といふ所にて、道より程もちかきぞかし。』


(図6-24)川原寺跡から南を見ると橘寺が見える。

『つぎに橘寺に詣づ。川原寺よりむかひにみえて、一町ばかり也。』

(図6-25)橘寺本堂。

『此の寺は今もやゝひろくて、よろしきほどなる堂もありて、古の石ずゑはた残れり。橘といふ里も、やがて此寺のほとりなり。』

(図6-26)川原寺近くの飛鳥川。

『日暮れぬれば、岡の里に泊まる。かの寺より近いし。此のあひだに土橋をわたせる川あり。飛鳥川はこれ也とかや。』

(図6-27)岡の町並み。

『いまの岡といふ所は、すなはち日本紀に飛鳥岡とある所にや。さらば岡本宮も、【舒明天皇皇極天皇齊明天皇三代の京】その傍とあれば、遠からじとぞ思ふ。又清御原宮は、その南とあなれば、その跡も近きあたりなるべし。』

F3月11日(新暦4月13日) 飛鳥見物



宣長一行は、昨日は吉野から飛鳥に入って、飛鳥の南部を見て歩いた。今日は飛鳥の北部を見物する。現在なら飛鳥板蓋宮跡、水落遺跡、亀形石造物などが発掘されていて見所が多いが、宣長の時代にはこれらは知られていなかった。

まず岡寺を見物して引き返し、酒船石を見て→飛鳥寺→飛鳥坐神社へと北上している。そこから私にとっては思いがけない小原(大原)を訪れている。

大原で藤原鎌足は生まれたという言い伝えがある。 宣長は大原神社(当時は大原寺)を訪ね、そこの法師に話を聞くと、この寺は藤原宮の跡であるという。宣長はすぐに否定する。藤原宮は香具山の近くにあったことは万葉集の歌からも確実である。ここは藤原宮ではなかった。

大原は藤原の里とも呼ばれている。鎌足の臨終に際して天智天皇は、大職冠の位を授け、藤原の姓を与えた。おそらく鎌足の出生地が「藤原」であったからだろうが、後に持統天皇が作った都が藤原京と呼ばれたので、法師はこの大原(藤原)に都があったと思っていたのだろう。それを宣長が間違いであると正したわけである。

宣長はこのあと、安部文殊院に行き、境内にある古墳を見る。ついでに近くの山にある艸墓古墳も見学し、古墳の石室の様子をひとしきり述べている。 次に南下して香具山に登った。ここの記述は多いし、歌も5首詠っている。つい万葉調の歌を歌ったので、同行者にからかわれている。

香具山から西へ歩き、このあたりに藤原宮があったのだろうといっているが、それは正しかった。その後豊浦の向原寺→雷丘を見て、また西に向かい和田村→石川村の剣池→大軽村を通って見瀬で宿屋を探して、そこに宿泊した。

  1. (図7-1)岡寺(明日香村岡)
  2. (図7-2)(図7-3)酒船石(明日香村岡)
  3. (図7-4)飛鳥寺(明日香村飛鳥)
  4. (図7-5)飛鳥坐神社(明日香村飛鳥)
  5. (図7-6)〜(図7-8)大原神社(明日香村小原)
  6. (図7-9)〜(図7-11)安部文殊院(桜井市阿部)
  7. (図7-12)(図7-13)艸墓古墳(桜井市谷)
  8. (図7-14)石舞台古墳(明日香村島庄)宣長は訪れず。
  9. (図7-15)マラ石(明日香村阪田)宣長は訪れず。
  10. (図7-16)安部寺跡(桜井市阿部)宣長の時代は発掘されていない。
  11. (図7-17)(図7-18)稚桜神社(桜井市池之内)
  12. (図7-19)〜(図7-28)香具山登山
  13. (図7-29)大官大寺金銅跡(明日香村小山)
  14. (図7-30)(図7-31)藤原京朱雀大路跡(橿原市上飛騨)宣長の時代は発掘されていない。
  15. (図7-32)(図7-33)向原寺(明日香村豊浦)
  16. (図7-34)雷丘(明日香村雷)
  17. (図7-35)剣池(橿原市石川町)
  18. (図7-36)春日神社(橿原市大軽町)
  19. (図7-37)見瀬丸山古墳(橿原市五条野町)
  20. (図7-38)牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
  21. (図7-39)大軽町(橿原市大軽町)
  22. (図7-40)益田岩船(橿原市南妙法寺町)宣長は訪れず。
  23. (図7-41)岩屋山古墳(明日香村越)宣長は訪れず。


(図7-1)岡寺・仁王門。

『十一日。朝まだきに宿りをたちて、岡寺に詣づ。里より三町ばかり東の山へのぼりて、二王門あり。額に龍蓋寺とあり。この門よりまへの道の左のかたに、八幡とて社もあり。

さて御堂には、観音の寺々をがみめぐるものども、おひずりとかいふあやしげなる物をうちきたる。男女老いたる若き、数もしらずまうでこみて、すきまもなくゐなみて、御詠哥とかやいふ哥を、大聲どもしぼりあげつゝ、ひとだうのうちゆすりみちてうたふなるは、いとみゝかしかましく、大かた何事ともわかぬ中に、露をかでら(岡寺)の庭の苔などいふこと、ほのぼのきこゆ。』

(図7-2)酒船石。

『又岡の里にかへり、三四町ばかりも北へはなれゆきて、右の方の高きところへ、一丁ばかりのぼりたる野中に、あやしき大石あり。

長さ一丈二三尺、よこはひろき所七尺ばかりにて、硯をおきたらんやうして、いとたひらなる、中の程に、まろに長くゑりたる所あり。 五六寸ばかりの深さにて、底もたひらなり。

又そのかしらといふべきかたに、同じさまにちひさくまろにゑりたる所三ッある。中なるは中に大きにて、はしなる二ッは、又ちひさし。さてそのかしらの方の中にゑりたる所より、下ざまへ細き溝を三すぢゑりたる。』


(図7-3)酒船石を反対側から撮る。

『中なるは、かの廣くゑりたる所へ、たゞさまにつゞきて、又石の下といふべき方のはし迄とほり、はしなる二すぢは、なゝめにさがりて、石の左右のはしへ通り、又そのはしなるみぞに、おのおの枝ありて、左右にちひさくゑれる所へもかよはしたり。 かくて大かたの石のなりは。四すみいづこも角(かど)なくまろにて、かしらのかたひろく、下はやゝほそれり。

そもそも此の石、いづれの世にいかなるよしにて、かくつくれるにか、。いと心得がたき物のさま也。 里人は昔の長者の酒ぶねといひつたへて、このわたりの畠の名をも、やがてさかぶねといふとかや。 此の石むかしは猶大きなりしを。高取の城きつきしをりに。かたはらをば。おほくかきとりもていにしとぞ。』


(図7-4)飛鳥寺。

『少し行きて、飛鳥の里にいたる。飛鳥寺は里のかたはしに、わづかに残りて、門などもなくて、たゞかりそめなる堂に、大佛と申して、大きなる佛のおはするは、丈六の釈迦にて、すなはちいにしへの本尊也といふ。

げにいと古めかしく、尊ふとく見ゆ。かたへに聖徳太子のみかたもおはすれど、これはいと近き世の物と見ゆ。又いにしへの堂の瓦とてあるを見れば、三四寸ばかりの厚さにて、げにいと古し。

此の寺のあたりの田のあぜに、入鹿が塚とて、五輪なる石。なからはうづもれてたてり。されどさばかり古き物とはみえず。』

(図7-5)飛鳥坐神社。

飛鳥の神社は、里の東の高き岡のうへにたゝせ給ふ。麓なる鳥居のもとに、飛鳥井の跡とて、水はあせて、たゞ其かたのみ残れる。これもまことしからずこそ。

石の階をのぼりて、御社は四座。今はひとつかり殿におはします。此の御社もとは、甘南備山といふにたゝせ給ひしを、淳和のみかどの御世、天長六年に神のさとし給ひしまゝに、鳥形山といふにうつし奉り給へりしよし、日本後紀にみえたり。

されば古、飛鳥の神なみ山とも、神岳ともいひしは、こゝの事にはあらず。そこはこゝより五六町西のかたに、今いかづち(雷)村といふ所也。』

(図7-6)藤原鎌足の母、大伴夫人の墓がある。

『かくて今の御社は、かの鳥形山といふ所也。さればこそ、。かの飛鳥寺をも、てうぎやう(鳥形)山とは名づけゝめ。今もわづかに一町ばかりへだゝれゝば、いにしへ寺の大きなりけんときは、今少し近くて、此の御山のほとり迄も有つる故に、さる名は有なるべし。

さて此の御山の南のそはを、二町ばかりゆきて、道のほとりの森の中に、大きなる石どもをたてめぐらしたる所あり。中は少しくぼまりて、廣さ一丈あまり、横は六七尺も有ぬべし。

こはまことの飛鳥井の跡などにはあらぬにや。世に鎌足の大臣の生れ給ひしところぞといふなるは、いと受けられず。』

(図7-7)大原神社・この右手に藤原寺が建っていた。

『此のやがて近き所に、大原寺といふ有。藤原寺ともいふよし。小さき寺なれど、いときよらにつくりみがきて、めにたつ所なれば、入て見るに、堂などはなくて、たゞきらゝかに作りたる御社あり。 大原明神と申して、かのかまたりの大臣の御母をまつれる神也とかや。

又此の寺は、持統天皇の藤原宮の跡なるよし、こゝの法師は語りけり。大原の里は、此の南の山そひに、まじかく見えたり。 藤原といふも、すなはちこの大原の事也といふは、さの有ぬべし。されど持統天皇の藤原の宮と申すは、こゝにあらず。そは香山のあたりなりし事、万葉の哥どもにてしられたり。』

(図7-8)大原の里。

『かねては、この大原といふ里、かぐ山の近き所に有て、藤原宮も、そこならんとこそ思ひしか、今来て見れば、かぐ山とははるかにへだゝりて、思ひしにたがへれば、いといとおぼつかなけれど、なほ藤原の里は、この大原の事にて、宮の藤原は、べちにかの香山のあたりにぞありけんかし。』


(2-104)の藤原夫人は藤原鎌足の娘(五百重娘・いおえのいらつめ)である。夫人(ぶにん)とは天皇の妻妾で、皇后・妃の次の位。天武天皇のいる飛鳥浄御原宮に大雪が降った。そこで天皇は(2-103)を詠んだ。

わが里に大雪が降ったぞ。(お前の里の)大原の古い里に降るのは、ずっとあとのことだろう。

これを受けて藤原夫人は(2-104)を詠って答えた。

わが大原の岡の水神に言って降らせた雪のかけらが、そこに散ったのでしょう。

天皇は夫人をからかったが、逆にぎゃふんと言わされた。二人は大笑いしたことであろう。


(図7-9)中央手前の丘が鳥形山。奥の左手に八釣山。

『これより安倍へ出る道に、上やとり村といふあり。文字には八釣とかけば、顕宗天皇の近飛鳥八釣宮の所なるべし。里のまへに、細谷川のながるゝは、八釣(やつり)川にこそ。

やゝゆきて、広き道にいづ。こは飛鳥のかたより、たゞに安倍へかよふ道也。山田村、このわたりに、柏の木に栗のなる山ありとぞ。』

(図7-10)安倍文殊院。

『荻田村といふを過て、安倍にいたる。岡より一里也。此の里におはする文殊は、世に名高き佛也。』

(図7-11)文殊院の境内にある西古墳。

『その寺に岩屋のある。内は高さも広さも、七尺ばかりにて、奥へは三丈四五尺ばかりもあらんか。又奥院といふにも、同じさまなるいはやの、二丈ばかりの深さなるありて、内に清水もあり。』

(図7-12)艸墓古墳(くさはか)は住宅の裏の山にある。

『さて此の寺をはなれて、四五町ばかりおくの、高き所に又岩屋あり。こゝはをさをさ見にくる人もなき所なれば、道しるべするものだに、さだかにはしらで、そのあたりの田つくるをのこなどに問ひ聞きゝつゝ、行きて見るに、これの同じほどの大きさに構へたる岩屋なる。

三丈四五尺がほど入て、奥は上も横もやゝ廣きに、石して屋のかたりにつくりたる物、中にたてり。そは高さも横も六尺ばかり。奥へは九尺ばかり有て、屋根などのかたもつくりたるが、あかりさし入て、ほのかに見ゆ。

うしろのかたは、めぐりて見れども、暗くて見えわかず。さて口とおぼしき所は、前にもしりへみのなきを、うしろの方のすみに、一尺あまりかけたる跡のあるより、手をさし入てさぐりみれば、物もさはらず、内はすべてうつほになん有ける。』


(図7-13)艸墓古墳(くさはか)。

『こはむかし安倍晴明が、宝物どもを、蔵めおきつるを、後に盗人の入て、すにをうちかきて、盗みとりし也と、里人はいふなれど、こは例のうきたることにて、まことはかの文殊の寺なる二ッの岩屋も、これも、みないといとあがれる代に、たかき人をはふりし墓とこそ思はるれ。

そのゆゑは。すべて岩屋のさま、御陵のかまへにて、中なる石の屋は、すなはちおほとこと思はるれば也。そのかまへ、いと大きなる石を、けたにつくり、なかをゑりぬきて、棺ををさめて、上におほえる石を、屋根のさまにはつくれる物也。』

(図7-14)島庄の石舞台古墳。宣長は行っていない。今は蘇我馬子の墓とされているが、宣長のころは推古天皇陵とされていたようだ。

『さて土輪などいひけんたぐひの物は、此のめぐりにぞたてけんを、こゝらの世々をへては、さる物もみなはふれ失せ、又盗人などの、大とこをもうちかきて、中にをさめし物どもは、盗みもていにけるなるべし。かの寺なる二ッは、その大とこも、みなかけうせて、たゞとなる岩がまへのかぎり、残れるものならんかし。

さてこゝの岩屋のついでに、しるべするをのこが語りけるは、岡より五六丁たつみのかたに、嶋の庄といふ所には、推古天皇の御陵とて、つかのうへに岩屋あり。内は畳八ひらばかりしかるゝ廣さに侍る。』

(図7-15)坂田にはマラ石がある。

『又岡より十町ばかり、これも同じ方に、坂田村と申すには、用明天皇ををさめ奉りし所、みやこ塚といひて、これもその塚のうへに、大きなる岩の角、少しあらはれて見え侍る也となんかたりける。この御陵どもの事はいかゞあらん。坂田も嶋もふるき所にしあれば、里の名ゆかしく覚ゆ。』



(図7-16)安倍文殊院の近くに安倍寺の遺構が発掘されている。図は塔の基壇。かなり大きな塔であったようだ。手前に金堂の基壇もある。

『さてもとこし道を、文殊の寺までかへりて、あべの里をとほりて、田の中に、安陪仲麻呂の塚、又家の跡といふもあれど、もはら信じがたし。大かた此のわたりに、仲麻呂・晴明の事をいふは、ところの名によりて、つくりしことゝぞ聞ゆる。

又せりつみの后の七ッ井とて、いさゝかなるたまり水の、ところどころにあるは、芹つみし昔の人といふ事のあるにつけていふにや、こゝろえぬ事ども也。』

(図7-17)池尻・膳夫町に通じる道。畝傍山・葛城山が見える。

『それより戒重といふ所にいづ。こゝは。八木といふ所より、桜井へかよふ大道なり。横内などいふ里を過て、大福村などいふも、右の方にみゆ。

少しゆきて、ちまたなる所に、地蔵の堂あり。たゞさまにゆけば八木、北へわかるれば、三輪へゆく道。南は吉備村にて、香具山のかたへゆく道也けり。

今はその道につきて、吉備村にいる。村のなか道のかたはらに、塚ありて、五輪の石たてるは、吉備大臣の墓とぞいふ。石はふるくも見えず。又死人をやく所とてあるに、鳥居のたてるがあやしきてとへば、此の国はなへてさなりといへり。』

(図7-18)稚櫻神社(わかざくら)。鳥居は北向きである。南向きを北向きに変えたというのは、この社のことだろうか。

『村をはなれ、南へ少し行て、西にをれて、池尻村といふをすぎて、膳夫(かしはで)村の南のかたはらに、森のあるをとへば、荒神の社といふ。

北にむかへり。昔は南むきなりしを、いとうたてある神にて、御前を馬に乗りて通る者あれば、かならず落ちなどせしほどに、わづらはしくて、北むきにはなし奉りしとぞ。此の社は、今物する道の少し北にて、此のわたり天の香具山の北のふもと也。』

(図7-19)藤原宮跡から見た香具山(152m)。山の北西部が見えている。

『此の山いとちひさくひきゝ山なれど、古より名はいみしう高く聞えて、天の下に知らぬものなく、まして古をしのぶともがらは、書見るたびにも、思ひおこせつゝ、年ごろゆかしう思ひわたりし所なりければ、此の度はいかでときのぼりてみんと、心もとなかりつるを、いとうれしくて、

  いつしかと 思ひかけしも 久かたの
  天のかぐ山 けふぞわけいる



(図7-20)香具山の北側の上り口近くに溜池がある。私も最初は、これが埴安(はにやす)の池かと思った。

『みな人も同じ心に急ぎのぼる。坂路にかゝりて左のかたに、一町ばかり の池あり。いにしへの埴安(はにやす)の池思ひ出らる。されどそのなごりなどいふべき所のさまにはあらず。』

(図7-21)香具山の上り口。

『いとしの高からぬ山は、程もなくのぼりはてゝ、峯にやゝたひらなる所もあるに、此のちかきあたりの者どもとみゆる五六人、芝のうへにまとゐして、酒など飲みをるは、わざとのぼりて見る人も、又有けり。さてはわらびとるとて、里のむすめあんななどやうのもの二三人、そのあたりあさりありくも見ゆ。

山はすべてわか木のしもとはらにて、年ふりたる木などは、をさをさ見えず。峯はうちはれて、つゆさはる所もなく、いずかたもいずかたもいとよく見わたさるゝ中に、東のかたは、うねを長くつゞきて、木立もしげゝれば、少しさはりて、ことかたのやうにはあらず。』

(図7-22)香具山の北側の登山口には香山神社があるが、宣長はこの神社については何も言っていない。

『この峯に、龍王の社とて、ちひさきほこらのある前に、いと大きなる松の木の、かれて朽ち残れるがたてる下に、しばしやすみて、かれいひなどくひつゝ、よもの山々里々をうち見やりたる景色、いはんかたなくおもしろきに、「のぼりたち 国見をすれば 国原は」など、【万葉一長哥 とりよろふ 天のかぐ山 のぼりたち 国見をすれば 国原はけぶり立こめ うなはらは云々】』


(図7-23)香具山の山頂。国常立神社(くにのとこたち)がある。

『聲おかしうて、わかき人々のうちずしたる、さしあたりては、ましていにしへしのばしく、見ぬ世のおもかげさへ立そふこゝちして、

  もゝしきの 大宮人の あそびけむ
  かぐ山見れば いにしへおもほゆ

かの酒飲みゐたりし里人共も、こゝにきて、国はいづくにかおはするなどとひつゝ、此の山のふることどもなど語りいづる。いとゆかしくて、耳どゞめてきけば、大かたここによしなき、神代のことのみにて、さもと覚ゆるふしもまじらねば、なほざりにきゝすぐしぬ。されど、見えわたるところどころを、そこかしこと問ひ聞くには、よきはかせ也けり。』

宣長は、「天の香具山は、小さくて低い山であるが、古来その名は大変高く、天下に知らぬ者はいない。書を見るたびに香具山を思っていたが、ようやく登ることができる。嬉しくてたまらない」といったことを文中で言っているが、その宣長が思い出す香具山の歌はなんであろうかと、実に興味深々である。

宣長が掲げた歌は(1-2)舒明天皇の国見の歌であった。

大和には多くの山々があるが、そのなかでもとりわけ立派なのが天の香具山である。山の頂に登り立って国見をすると、 国原には煙が盛んに立ち登っている。海原にはかもめが盛んに飛び立っている。美しい国だ、蜻蛉の島大和の国は。

このあと宣長も国見をして、畝傍山・金剛山・葛城山・二上山・生駒山・耳成山と大和の国中を確認した。

(図7-24)畝傍山が見える。背後に葛城山。

『まづ西のかたに畝傍山。物にもつゞかず、一ッはなれて、ちかう見ゆ。こゝより一里ありといへど、さばかりもへだゝらじとぞ思ふ。

なほ西には金剛山。いと高くはるかに見ゆ。その北にならびて、同ほどなる山の、いさゝかひきゝをなん、葛城山と今はいふなれど、いにしへは、このふたつながら葛城山にて有けんを。金剛山とは、寺たてて後にぞつけつらん。

すべて山もなにも、後の世には、からめきたる名をのみいひならひて、古のは失せゆきつゝ、人もしらず成ぬるこそくちをしけれ。されど又いにしへの名どもの、寺にしものこれるが多きは、いとよしかし。』

(図7-25)遠くに二上山がみえる。

『又その北にやゝへだゝりて、二上(ふたがみ)山。峯ふたつならびて見ゆ。これも今はにじやうがだけと、例の文字のこゑにいひなせるこそにくけれ。

伊駒山も雲はかくさず、【きのふけふ 雲の立まひ かくろふは 花のはやしを うしとなるべし】いぬゐの方にかすかに見えたるに、吉野の山のみぞ、近きにさへられて、こゝよりは見えぬ。さては東も南も、此の国の山々、のこるなく見やられたり。』

(図7-26)北西方向に国中を見る。

『又くになか(国中)は、畳を敷ならべたらんやうにたひらにて、その里かの森など、むらむらわかれて見えたる。北のかたは、ことにはるばると、末は霞にまがひて、めも及ばず。山のはも見えぬに、耳成山のみぞ、西北といはんには、北によりて、物うちおきたらんように、たゞひとつ。これは、畝傍山よりも少しちかく見えたるなど、すべてすべてよも山のながめまで、

  とりよろふ あめのかぐ山 万代に
  見ともあかめや あめのかぐ山

といふを聞て、なぞけふの哥のするめかしきはと、人のとがめけるに、』


(図7-27)南側はこういうところに降りてくる。

『 いにしへの 深きこゝろを たづねずは
  見るかひあらじ 天のかぐ山

といへばとがめずなりぬ。今はとて立なんとするにも、

  わかるとも 天のかぐ山 ふみ見つゝ
  こゝろはつねに おもひおこせん

などいひつゝ、せめてわかれをなぐさめて、この度は南の方へくだりゆく。坂のなからに、上の宮とて、ちひさきほこらあり。』

(図7-28)南側の登り口に天の岩戸神社がある。これが下の宮であろうか。

『麓はやがて南浦といふ里にて、日向寺といふ寺もあり。その堂のまへにも、大きなる松のかれたるあり。このわたりに下の宮といふもあり。すべて此の山には、いにしへ名ある神の御社ども、かれこれとおはせる。今はいづれかいづれとも、しる人なければ、此のほこらどもなども、もしさるなごりにもやと、目とまる。

此の里の東のはしに、御鏡の池といふあり。埴安の池はこれ也といひし人もあれど、信じがたし。此の池のほとりに、香来山の文殊とて寺あり。かく山村は、この東にありとぞ。』

(図7-29)一段高い畑が大官大寺・金堂跡。背後に香具山。

『又この南浦村の三町ばかり南に、金堂講堂のあとゝて、石ずゑ丗六のこれりとぞ。こはいずれの寺なりけん。

すべてかうやうのところどころも、後に古き文どもか考へあはせなば、その跡と定かに知らるゝやうもありぬべけれど、さまで物せんも、旅路のにきには、くだくだしければ、例のもだしぬ。

又此の里のたかむらの中に、神代のふることをいひつたへたる石あり。そのほとり七八尺ばかりは、垣などゆひめぐらしたり。その中に生る竹に、あやしき事有とて語りしは、後にかゝむと思ひてわすれき。又里を西へいでゝ、道のほとりの田の中に、湯篠やぶとて、一丈ばかりの所に、細き竹一むらおひたるのあり。』


(図7-30)藤原京の朱雀大路跡。そこから高殿町→藤原宮→耳成山を見る。宣長は藤原宮の発掘は知らない。

『さて西へ行て、別所村といふに、大宮と申す御社あり。高市社はこれ也ときゝおきしかば、たづねて詣づ。香具山の少し西也。今はこの北なる高殿村といふ所の神也とぞ。

この御社の西の方にも池あり。持統天皇の藤原宮と申せしは、このわたりにぞ有けん。今高殿などいふ里の名も、さるよしにやあらん。

さて埴安の池も、かならずこのわたりと聞えたるを、今たえだえに所々つゞきて、ひきゝ岡のいくつもあるは、かの堤のくづれ残りたるなどにはあらじや。ふるき哥どもにも見えて、名高き堤なりしはや。』

(図7-31)朱雀大路跡から南を見る。正面の木立が「ひざつき山」であろう。

『又その西に、ひざつき山とて、かたつかたには松しげくおひて、ひきく長き岡あり。これにも神代のふることゝて、語りしことあれど、例のうきたる事也き。のぼりて見やれば、南の方に、飛鳥川西北さまへながれて、長く見ゆ。

此の岡の南に、かみひだといふ里あり。文字は神の膝とかくよし。そこより少しゆきて、かの見えし飛鳥川をわたる。

このあたりにては、やゝひろき川也。此の川のみ南のそひをゆく道は、八木より岡へ通ふ道也。その道を田中村などいふを通て、十町ばかり川上の方へゆけば、豊浦の里。』

(図7-32)向原寺。境内には推古天皇の豊浦宮跡の一部が発掘されており、それを見学することができる。

『豊浦寺のあとは、わづかに薬師の堂あり。今も向原寺といふ。【日本紀に向原】ふるき石ずゑものこれり。えのは井はいづこぞと尋ぬれど、知れる人もなし。』

(図7-33)難波堀江の跡という。

難波堀江の跡とて、ちひさき池のあるは、いともうけがたし。かの佛の御像をすてられしは、津国の堀江にこそありけれ。』


(図7-34)雷丘(いかづち)。

『さて此の里は、飛鳥川の西のそひにて、川のむかひは、すなはち雷村也。いにしへ飛鳥神社のたゝせ給ひて、神なみ山とも、神岳ともいひしは、この所ぞかし。

今来て見るに、さいふべき山有て、「神なみ山の帯にせる飛鳥の川」と詠めるにもよくかなひて、川はやがて此の山のすそをなんながるゝ。このわたりまでも、飛鳥と古いひしは、もとよりの事にて、今も飛鳥の里よりわづかに五六丁なるをや。

又人まろが哥にも、雷之上と詠めれば、今の里の名もふるき事也。いはせの森などいひしも、このわたりなりけんかし。』

(3-235)天皇は神であらせられるので、天雲をとどろかせる雷神の、その上の仮宮にいらせられることだ。

雷村の文中で、雷丘は神奈備山とか神岳といわれていて、飛鳥坐神社ももとはここにあった。今訪れてみると、雷丘の裾を飛鳥川が流れていて、「神なみ山の帯にせる飛鳥川」の歌にかなっている。そこで、「いわせの森」もこの近くだったのだろうかという。それは次の歌の「石瀬の杜」のことだろう。

神なびの    石瀬の杜の   呼子鳥
いたくな鳴きそ 我が恋まさる     (8-1419)鏡王女

宣長は、雷丘は神奈備山である。したがって「神なびの 石瀬の杜」もこの近くにあったのではないかと推測したが、現在では斑鳩町にあったとされている。


(図7-35)剣池(石川池)。突き出ている森は孝元天皇陵。

『又豊浦をとほり、西ざまに行て、和田村といふあり。そこより少しのぼりて、山のかひを西へうちこゆれば剣の池、道の左にあり。東南も北もひきゝ山にて、池はたてもよこも二町ばかりの廣さなる。 中にちひさき山有て御陵也。南西北と池めぐりて、東のみうしろの山につゞけり。

さて池の西の堤のしたは、やがて石川村也。此の御陵はまがふべくもあらねど。猶さだかにきかんと思ひて、れいの里のおいびとたづねてとへば、第十八代のみかどのみさゞき。御名は何とかやのとて、しばしばうちかたふくを、いな十八代にはあらず、八代孝元天皇よといへば、おいさりおいさりとうなづく。 物とはんとして、かへりてこなたより教へつるもをかし。』

(図7-36)大軽町にある春日神社。応神天皇の軽島豊明宮(かるしまのとよあきら)があったところだといわれている。

『此の村をいでゝ、あなたは程なく大軽村。是はかの天皇の都の跡也。軽い(かる)の市などいひしも、こゝなるべし。』

(図7-37)見瀬丸山古墳。欽明天皇陵と推定されている。後円部に長さ28mの日本最大の横穴式石室があり、明治初年までは誰で内部を伺うことができた。

『軽をはなれて、猶西へゆけば、やゝ高き所なる、道の南に、なほ高くまろに見ゆる岡あり。その南のつらに、塚穴といふいはや有ときゝつれば、細き道をたどりゆきて見るに、口はいとせばきを、のぞきて見れば、内はやゝ広くて、おくも深くは見ゆれど、闇ければさだかならず。下には水たまりて、奥のかたにその水の流れいづる音聞ゆ。

これは何の塚ぞととへど、しるべのをのこもしらぬよしいへり。』

(図7-38)正面の杜が牟佐坐神社(むさにます)。孝元天皇の軽境原宮(かるのさかいはら)があったという言い伝えがある。

『もし宣化天皇の身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのえ)御陵などにはあらぬにや。其の故は、此の岡の下はやがて三瀬村といふ所なるを。牟佐坐神社も、今かの村に有ときけば、身狭は此のわたりと思はれ、又坂上とあるに、所のさまもかなへれば也。

それにつきて猶思へば、今みせといふ名も、身狭と書る文字を、しかよみなせる物か。又さらずとも、聲かよへばおのづからよこなまりつるにや。』

(図7-39)見瀬丸山古墳の前方部から、中街道の丈六交差点を見る。かつての軽の市があったところ。

『かくて西へ少しくだりて、かの三瀬村にいづ。こゝは八木より土佐へゆく大道とぞいふなる。

日もはや夕暮に成ぬるを、此の里はよろしき家どもたりつゞきて、ひろき所なれど、旅人宿す家は、をさをさなきよしきけば、なほ八木までやゆかまし、岡へやかへらましといてど、さては日暮はてぬべし。

足もうごかれずと、みな人わぶめれば、さはいかゞせん。なほ此の里にとまりぬべきを、あやしく共、一夜あかすべき家あらば、猶たづねよといふに、ともなるおのこ、ひと里のうちとひありきて、からうじて宿りはとりぬ。』

(図7-40)見瀬の近くにある益田岩船。宣長は訪れていない。

『 思ふどち 袖すりはへて 旅ごろも
  春日くれぬる けふの山ぶみ

道の程はなにばかりもあらざめれど、そこかしことゆきめぐりつゝ、ひゝとひたどりありきつれば、げにいといたく苦しくて、何事も覚えぬにも、猶この近きあたりのことども、問ひきかまほしくて、まづ此の宿のあるじよび出たる。

年のほど五十あまりと見えて、ひげがちに顔にくさげなるが、おもゝちこわづかひむべむべしうもてなしつゝ、いでこのわたりのめいしよこうせきはと、いひ出るよりまづをかしきに、若き人々はえたへずほゝゑみぬ。』

(図7-41)見瀬の近くにある岩屋山古墳。宣長は訪れていない。

『この東なる山に、塚穴とてあるは、いかなる跡にかと問へば、かれは聖徳太子の御時に、弘法大師のつくらせ給ふとかたるには、たれもえたへねど、なほ何事かいふらんと、さすがにゆかしければ、いみしうねんじて、 さはいみしき所にも侍るかな、深さはいくらばかりかと問へば、おくはかぎりも侍らず。奈良の寒さの池まで通りてこそ侍れといふ。

そもその池は、いづこばかりにあるぞと問へば、興福寺の門前に、さばかり名高くて侍る物を、知らぬ人もおはしけりといふにぞ、心得てみな人ほころびわらふ。』


G3月12日(新暦4月14日) 畝傍山周辺から三輪へ





8日目。昨日、宣長一行はあこがれの香具山に登った。今日は畝傍山の回りを通って天皇陵をめぐり、耳成山を見ながら三輪明神(大神神社)に詣でる。そのあとは初瀬街道を引き返して榛原で宿泊する。

この日宣長が多くを書いたのは御陵の比定についてである。例えば神武天皇陵は、日本書記は「畝傍山の東北(うしとら)陵(みささぎ)」といい、古事記は「畝傍山の北、白檮尾(かしのお)の上」にあるという。そこで畝傍山の北東や北に古墳がないかを調べ、古墳の大きさなどから、神武天皇陵らしい・らしくないと判定するのである。

宣長は古事記・日本書記・延喜式などの文献に通じているから、ここから得た知識を総動員して、天皇陵の講釈をしている。畝傍山の近辺には、第1代・神武天皇、第2代・綏靖(すいぜい)天皇、第3代・安寧天皇、第4代・懿徳(いとく)天皇の4代続いての天皇陵がある。今は一応比定が定まっているが、当時は宣長らが決めるほかはなかった。

  1. (図8-1)久米寺(橿原市久米町)
  2. (図8-2)南から見た畝傍山
  3. (図8-3)(図8-4)懿徳天皇陵(橿原市西池尻町)

  4. (図8-5)橿原神宮(橿原市畝傍町)
  5. (図8-6)吉田町(橿原市吉田町)
  6. (図8-7)(図8-8)安寧天皇神社(橿原市吉田町)

  7. (図8-9)御陰井(みほとい)(橿原市吉田町)
  8. (図8-10)安寧天皇陵(橿原市吉田町)
  9. (図8-11)畝傍山口神社(橿原市大谷町)
  10. (図8-12)スイセン塚(橿原市慈明寺町)
  11. (図8-13)綏靖天皇陵(橿原市四条町)
  12. (図8-14)神武天皇陵(橿原市四条町)
  13. (図8-15)真東からみた畝傍山(橿原市畝傍町)
  14. (図8-16)今井町(橿原市今井町)
  15. (図8-17)〜(図8-19)耳成山(橿原市木原町)

  16. (図8-20)〜(図8-23)大神神社(桜井市三輪)

  17. (図8-24)外鎌山(桜井市)
  18. (図8-25)巻向山(桜井市)
  19. (図8-26)あぶら屋(宇陀市榛原)

(図8-1)久米寺。傍らに東大寺の七重塔に匹敵するのではないかと思われるほどの巨大な塔の礎石が残っている。

『さて畝火山の事かたるついでに、神功皇后の御事を申すとて、じんにくんといへるこそ、よろづよりもをかしかりしか。それより此のあるじをば、じんにくんとつけて、物わらひのくさはひになんしたりける。 こゝには神の御社やなにやと、尋ねまほしき所々おほかれど、かゝるには何事か問はれん。いとくちをしくこそ。

十二日。三瀬をいでゝ、北へ少し行て、左の方へ三丁ばかりいれば、久米の里にて、久米寺あり。今もよろしき寺也。されど古の所はこの西にて、こゝはそのかみ塔のありし跡なりと、法師はいひつ。』

(図8-2)畝傍山を南から見る。宣長の時代は畝傍村があったところに、現在は広大な面積を占める橿原神宮と橿原公苑ができている。

『うねび山、北の方にまぢかく見ゆ。ふる言思ひ出られて、

  玉だすき うねびの山は みづ山と
  今もやまとに 山さびいます

【万葉一長哥に「うねびの 此のみづ山は 日のよこの 大御門にみづ山と 山さびいます 云々】』




宣長は畝傍山を見て(1-52)の「藤原宮の御井の歌」を思い出している。ここでは4つの山が歌われている。
    @香具山は、宮の東面にあって、青々と春山らしく茂っている。
    A畝傍山は、宮の西面にあって、瑞々しく鎮まっている。
    B耳成山は、宮の北面にあって、清々しく神さびて立っている。
    C吉野山は、宮の南面のはるか向こうの雲のかなたにある。
宣長はすでに吉野山に行き、香具山に登っている。ここで畝傍山を見たからには、残りは耳成山だけである。耳成山を見れば、(1-52)が歌う藤原宮を取り巻く4つの山を、松阪に戻っても思い浮かべることができる。

宣長が探した天皇陵について予め述べておくと、古事記は次のように記す。( )は日本書記。第1代・神武天皇陵は「畝傍山の北の白檮尾(かしのお)の上」(畝傍山の東北(うしとら)陵)、第2代綏靖天皇陵は「衝田(つきた)の崗」(桃花鳥田丘(つきたのおか))、第3代・安寧天皇陵は「畝傍山の御陰(みほと)」(畝傍山の南の御陰井の上)、第4代・懿徳天皇陵は「畝傍山の真名子谷の上」(畝傍山の南の繊沙渓(まなごたに))。

(図8-4)で村人がいう懿徳天皇の陵は間違いである。陵は「畝傍山の南のまなご谷」にあるはずだと正している。 (図8-6)では吉田村に行く途中に「まなご山」があるはずだが、村人は知らないので悔しい、という。

(図8-7)〜(図8-9)では「御陰井」を見つけ、(図8-10)で「御陰井の上」にある安寧天皇陵を見物する。これは現在比定されている安寧天皇陵と一致している。


(図8-3)畝傍山頂は右側の高いところ。正面は畝傍山が西に向かって張り出した尾根。

地元の者が「すゐぜい塚」と呼んでいる塚(図8-12)は綏靖天皇陵だろうと納得している。だが(図8-13)で神武天皇陵と村人がいう陵に行ってみると、あまりにも小さいし、神武陵は「かし尾の上」とあるのに、山から離れすぎているから、ここは神武天皇陵ではない。(図8-12)のすゐぜい塚が神武天皇陵ではあるまいかと推測する。

それでは綏靖天皇陵はどこなのか。(図8-14)で、宣長は、神武・安寧・懿徳の陵墓の場所はすべて「畝傍山の・・」がつくのに、綏靖陵だけは「畝傍山」がついていないことに注目した。そこで綏靖天皇陵は、調田(つきた)坐神社があるところだろうかと推測している。

(図8-4)懿徳(いとく)天皇陵。宣長がいうとおり、畝傍山の南にある。

『此の山のかたへつきたる道を、おしあてにゆきて、少し西へまがれば、畝火村あり。すなはち山のたつみの麓なり。

此のむらにいらんとするところの、半町ばかり右の方に、小さき森有て、中に社もてたるは、懿徳(いとく)天皇の御陵といふなれど、そは此の山の南、まなごの谷の上とあるにあはず。

また御陵のさまにもあらねば、かたかたいぶかしさに、村の翁にそのよしいひて、くはしくたづねければ、げにさる事なれど、まことのみさゞきは、さだかにしれざる故に、今はかの森をさ申すなりとぞこたへける。』

(図8-5)橿原神宮。宣長の当時にはなかった。辺りは一面、田畑や林だったろう。背後は畝傍山。

『橿原宮は、【畝火山の東南 橿原宮は神武天皇の都】このわたりにぞ有つらんと思ひて、

  うねびやま 見ればかしこし かしばらの
  ひじりの御世の 大宮どころ

今橿原(かしばら)てふ名は残らぬかと問へば、さいふ村は、これより一里あまりにしみなみ(西南)の方にこそ侍れ。この近り所にはきゝ侍らずといふ。 さて此の山を、今は慈明寺山といふとかや。されど畝傍山ともいはぬにはあらず、それもなべてひもじを清てなんいふめる。』

(図8-6)吉田町の道。宣長はここを通った。

『又此のほとりの里人は、御峯山といひて、いかなるよしにか、峯に神功皇后の御社のおはするとか、かのじんにくんが語りしは、此の御事也けり。

さてそこへは、此の畝傍村よりのぼる道ありて、五丁ばかりときけば、いざのぼらんといへど、日ごろの山路にこうじたる人々は、いでやことなることもなかめる物から、足疲らさんもやくなしとて、すゝまねば、えしひてもいざなはずなりぬ。

かくて此の村を西へとほり、山の南の尾をこえて、くだれば、あなたは吉田村也。 此のあひだの道の左に、まなご山・まさごの池などいふ名、今もありて、池は水あせて、そのかたのみ残れりとぞ。かのいとく(懿徳)天皇の御陵は、そのわたりなるべきを、知られぬこそいとくちをしけれ。』


(図8-7)道に左に細い山道がある。安寧天皇神社があるという。

『さて吉田村にて、例の翁かたらひ出て、御陰井上御陵をたづぬるに、このおきなは、あるが中にもなへての御陵の御事を、よく知りをりて、こまかにかる。

近き世に江戸より、御陵どもたづねさせ給ふ事はじまりて後、大かた廿年ばかりに一度は、かならずかの仰事にて、京よりその人々あまた下りきて、その里々にとゞまりゐて、くはしく尋ねしたゝめつゝ、しるしの札たてさせ、めぐりに垣ゆはせなどせらるゝ事ありとなん。』

(図8-8)石段を登ると小さな祠があった。安寧天皇を祀る神社である。

『ふりにし御跡の失せゆきなんことを、かしこみ給ひて、さばかりたづね奉り給ふは、いともありがたき御おきてなるを、下ざまなる人どもは、心もなく、それにつけても、たゞがうけをのみさきに立つゝ、うちふるまふ故に、御陵のある里は、ことなる民のわづらひおほくて、そのしるしとては、つゆなければ、いづこにも、是をからき事にして、たしかにあるをも、ことさらに隠して、此の里にはすべてさる所侍らず、とやうに申なすたぐへもあめりとぞ。

さてはいよいよ埋づもれゆくめれば、なかなかに御陵の御ためにも、いと心うきわざにて、たづねさせ給ふ、本の御心ざしにも、いたくそむける事ならずや。』

(図8-9)御陰井(みほとい)。今は水は湧いていないらしい。石の蓋がされている。

『いさゝかにても、その里にはけぢめを見せて、御めぐみのすぢあらんにこそ、民どもも悦びて、いよいよやむごとなき物に、守り奉るやうは有ぬべきわざなめれ。又かの並河がたづね奉りしをりの事をも語りき。

さて此の里中の道のほとりに、御ほとゐといふいまもあり。かたのごと水も有りて、たゞ世のつねのちひさき井也。

御陵は、此の井より一町あまりいぬゐ(乾)の方にて、すなはち畝火山の西のふもとにつきたる高き岡にて、松などまばらに生たり。』

(図8-10)安寧天皇陵。

『かしこけれど、のぼりて見るに、こゝにをさめ奉りつらんと思はるゝ所は、まろに大きなるをかにて、又その前とおぼしき方へ、いと長くつき出したる所あり。そこはやゝさがりて。細くなんある。

かの翁こゝまで案内(あない)しきたりて、語りけるは、すべていづこのも、古のみさゞきは、みなかうやうに作りし物なるを、岩屋などの侍るもあるは、うへの土のくづれ落て、なかなるかまへの現れたる也、と語るをきくに、かの安倍のおくなりし岩屋のさまなど、げにを思ひあはせぬ。

かの口より奥へやゝ入ほどは、このまへに長くつきたる所也けり。』


(図8-11)安寧天皇陵の近くに畝傍山口神社がある。

『又いづれにも、昔はめぐりにから池の有りつる。 七十年ばかりあなた迄は、これにも侍りし也、といふを見るに、今はめぐりは、畠又はたかむらなどになりて、さるさまもさらに見えず。此のたかむらなんそのなごりと、このおきなはいにけり。御山は今もまたくて、有しまゝと見えたり。

そもそも御陵の御事をしも、などかくものぐるほしき迄、たづねまどひありきて、くはしうは書記せるぞと、とがめん人もありなめど、末の代まで、いといとあがりての代の物の、まさしくこれとて残れるは、これより外に有りなんや。

ことにこの畝傍山なるどもは、あるが中にも古く、それとあしかにはたあなれば、としごろこゝろにかけつゝ、いかでくはしく、まうでゝ見奉らんと、ゆかしく思ひわたりつる物をや。』

(図8-12)スイセン(綏靖)塚。前方後円墳だという。

『されどいづこなるも、たゞ同じさまにて、めづらしげもなく、何の見るめしなき所々なれば、たゞおのがやうに、いにしへをしのぶ。世のひがものならでは、わざとたづねて見ん物とも思ふまじければ、あなあぢきなの物あつかひやと、世の人のおもふらんを、さりぬべき事也かし。

さて吉田村をいで、北ざまに物して、大谷村といふをすぎ、慈明寺村に入らんとする所の右のかた、山もとに寺ある。まへの岡のうへに、大きなる塚のかたちの見えたるは、綏靖天皇の御陵にて、里人はすゐぜい塚とぞいふなる。

畝火山のいぬゐの麓につきて、これも高き岡なる。例ののぼりて見れば、御陵のさまも、吉田なるともはら同じ事也。』

(図8-13)四条町にあるのは綏靖(すいぜい)天皇陵である。

『東のかたのふもとに、山本村といふみゆ。慈明寺村は、この岡の北に続けり。やゝ離れて又北のかたに、四条村といふあり。

この四条村の一町ばかり東、畝傍山よりは五六町もはなれて、丑寅のかたにあたれる田の中に、松一もと桜ひと本おひて、わづかに三四尺ばかりの高さなる、小さき塚のあるを、神武天皇の御陵と申つたへたり。

さへどこれは、さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は、かしの尾上と古事記にあるを、こゝははるかに山をばはなれて、さいふべき所にもあらぬうへに、綏靖・安寧などの御は、さばかり高く大きなるに、これのみかくかりそめなるべきにもあらず。かたかた心得がたし。』


(図8-14)綏靖天皇陵の南隣に、広大な神武天皇陵がある。

『それにつきてつらつら思ふに、かの綏靖天皇の御(陵)と申すぞ、まことには神武天皇の御(陵)なるべきを、成務天皇と神功皇后の御陵の、まがひつるためしなど、いにしへだになきにしもあらざれば、これももてたがへて、昔より綏靖とは申し伝へつるにや。

さ思ふゆゑは、まづ此の山のほとりなる御陵どもは、いづれも畝傍山のそこの陵とあなれば、この綏靖の御(陵)も、今いふ所ならば、必ずさあるべきを、いづれの書にも、これはたゞ桃花鳥田(つき)丘上とのみあるは、此の山のあたりにはあらで、神名帳に、調田坐(つきだにます)神社とあるところなるべきか。』

(図8-15)畝傍山(199m)の東側面。建物は橿原考古博物館。

『それは葛下郡なるを、この御陵は、高市郡と見えたれば、たがへるやうなれど、この郡どもはならびたれば、境ちかき所々は、古の書どもにも、郡の変はれる例おほかれば、さはりなし。されどこれは、このつきだといふ所を、よく尋ねて後に、さだむべき事也。

又神武のおほんは、山の東北と、日本紀にも延喜式にもあるを、かのすゐぜい塚は、西北にしもあなれば、うたがひなきにあらねども、古事記には山の北のかたと見え、又かの御陰井上の御陵は、山の西なるを、日本紀には、南といへるたがひもあれば、必ず東北とあるになづむべきにもあらざらんか。後の人なほよくたづねてさだめてよ。』

(図8-16)今井町。江戸期の商家が立ち並ぶ。

『さてこの四條村より二三町ゆけば、今井とて、大きなる里也。この今井の町中をとほりて、少しはなれゆきて、八木に到る。こゝにしばしやすみて物食ふ。

このごろは日いとよく晴れて、ちりばかり心にかゝる雲もなかりしに、よべよりうちくもりて、今朝は雨もふりぬべきけしきなりければ、宿をいでゝも、空をのみ見つゝこしを、やうやうに雲も晴れゆきて、畝傍山めぐりし程より、又よき日になりぬれば、たれもたれもいとこゝちよし。』

(図8-17)八木から見た耳成山。

『當麻・龍田・奈良などへゆかんには、こゝより物すべきを、いかゞせんといひあはすに、よきついでなればとて、ゆかまほしがる人おほかれど、かの所々は、またまたも来つべし。このたびは、われらはやむごとなき事しあれば、一日もとくかへりぬべき也と、いふ人もあるにひかれて、みなえゆかずなりぬ。さるは旅のならひとて、たれも故里いそぐ心は有ながら、なほいとくちをしくなん。

八木を東へいでゝ、四五町ゆけば、耳成山は、道より二町ばかり北也。畝火と香具山と此の山とは、国中にはなれ出て、あひむかひたる。いづれもこと山へはつゞかぬを、かの二ッは、なほほとりの山にもやゝちかく見ゆる に、此の山はことに遠くくのきて、こと山にはいさゝかもつゞきたる所なんなき。』


(図8-18)三輪の檜原神社から見た大和三山。右に耳成山、中央に畝傍山。香具山は左端のぺったりした山。

『さて三ッの山いづれも、いとしも高くはあらぬ中に、此の山はやゝ高く、香具山はことに低くて、畝傍ぞ中には高かりける。又そのあひだをくらべ見るに、此の山より畝傍は近く、次には香具山近くて、畝傍と香具山の間ぞ、中には遠かりける。

いにしへこの三ッ山の妻あらそひとて、畝傍と耳成は男山にて、香具山の女山なるを、争そひよばひける、故事の有しは、今見るにも、まことに二ッの山は雄々しく、かぐ山は女しき山のすがたにぞ有ける。』

(図8-19)耳成山の南に溜池があるが、これは耳成池ではない。宣長の時代には耳成池はもうなかった。

『此の耳成山、今は天神山ともいひて、その社ありとぞ。

さもこそはねぎこときかぬ神ならめ耳成山に社さだめて、かの鬘児(かづらこ)が身なげゝん、耳成の池も、此のわたりにや有けん。今も道のべに池はあれど、いにしへのそれかあらぬか耳成の池は問ふとも知らじとぞ思ふ。』

(図8-20)大鳥居。昭和に建てられたもの。宣長の時代には右横に参道があって、そこに一の鳥居があった。

『さて三輪の社にまうでんとすれば、やゝ行て、きのふ別れし地蔵の堂あるちまたより、北の道にをれゆくほど、奈良のかたを思ひて、ながめやりたるそなたの里の梢に、桜の一木まじりてさけりけるを見て、

  思ひやる  空は霞の
  八重ざくら ならのみやこも 今や咲くらん

さてゆきゆきて、はつせ川は、三輪の里のうしろをなん流れたる。橋を渡りて、かの御社の鳥居のまへにゆきつきぬ。こゝはゆきゝの旅人しげくて、この日ごろの道とは、こよなく賑ぎはゝしく見ゆ。』

(図8-21)旧大御輪寺(だいごりんじ)。今は若宮神社となっている。この元本堂の縁の下に、今は聖林寺にある国宝十一面観音像が打ち捨てられてあったというが、亀腹があるので、ここには観音像は収まらないだろう。

『此の鳥居より。並木の松かげの道を、三町ばかり山本へ入て、左のかたに、だいごりんじとて、文字はやがて大三輪寺とかく寺あり。二王門、三こしの塔なども有りて、堂は十一面観音にて、三輪の若宮と申す神も、同じ堂のうち、左の脇におはします。』

(図8-22)大神神社(おおみわ)・ニの鳥居。

『さてもとの道をなほ一町ばかり入て、石の階をいさゝかのぼりて、社の御門あり。このわたりに、いと神さび大きなる杉の木の、こゝかしこに立てる、ことゝころよりはめとまる。はやくも詣でし事など思ひ出て、

  杉の門 又すぎがてに たづねきて
  かはらぬいろを みわの山本

【古今「わがやどは 三輪の山もと 恋しくは とふらひきませ 杉たてる門】』


(図8-23)大神神社(おおみわ)・拝殿。

『神のみあらかはなくて、おくなる木しげき山ををがみ奉る。拝殿といふは、いといかめしくめでたきに、禰宜・かんなぎなどやうの人々なみゐて、うちふる鈴の聲なども、所からはましてかうがうしく聞ゆ。』

(図8-24)金屋から見た外鎌山。

『さて本の道にはかへらで、初瀬のかたへたゞにいづる細道あり。山のそはづたひを行て、金屋といふ所にいづ。こは奈良より初瀬へかよふ大道なり。これよりは初瀬川の川べをゆく。

敷嶋の宮の跡は、このわたりとぞ聞きし。かの外鎌山といひし山も、此の道よりは、物にもまぎれず、ゆくさきに高く見えたり。

さて桜井のかたよりくる道と、ひとつにあふ所を、追分とぞいふなる。さきには此のわたりよりわかれて。多武峰の方におもむきしぞかし。』

(図8-25)宣長一行は、三輪山、巻向山の麓の初瀬街道を進んだ。山並みの右の尖ったところが、万葉集によく詠まれた弓月が岳。

『又初瀬の里をとほりて、川の橋を渡るとて、

  二本の すぎつる道に かへりきて
  ふる川のべを 又もあひ見つ

【古今「はつせ川 ふる川のべに 二本ある杉 年をへて 又もあひ見む 二本あるすぎ】』

(図8-26)あぶら屋。「あぶらや」の看板が今も残っている。

『こよひも又萩原の里の、ありし家に宿る。』


H3月13日(新暦4月15日) 榛原から石名原へ






9日目は帰り道である。宣長らは来た初瀬街道とは別の伊勢本街道を通って松阪に戻ろうと話し合った。だが供の男子は、伊勢本街道は嶮しい坂ばかりであるし、明日は雨も降るのでとても山を越えることはできないという。

ところが一行のうちの戒言法師は「それほど恐ろしい道ならば、誰も行かないはずなのに、人は皆行っているではないか。足があれば越えれないはずがない」というので、本街道を歩くことになった。

だが、雨脚が強いので道がわるく、室生寺行きを断念した。どころか風も強く谷底へ転び落ちそうな目にあい、大和を抜けて伊勢国に入ったところの石名原というところで泊まった。散々な一日だった。


(図9-1)あぶら屋の前に「左 あをこえみち」「右 いせ本かい道」の道標が立つ。初瀬街道(伊勢街道)と伊勢本街道の合流点である。

『これよりかへるさは、道かへて、まだ見ぬ赤羽根ごえとかいふかたに物せんといひあはせて、ともなるをのこに、かうかうなんといへば、かしらうちふりて、あなおそろし。

かの道と申すは、すべて嶮しき山をのみ、いくへ共なくこえ侍る中にも、かひ坂・ひつ坂など申して、世にいみしき坂どもの侍るに、明日は雨もふりぬべきけしきなるを、いとゞしく道さへあしう侍らんには、おまへたちの、いかでかかやすくは越し給はんとする。』

(図9-2)あぶら屋を出て、伊勢本街道を行くと常夜灯がある。

『さらにさらに、ふようなめりといふをきけば、又いかゞせましと、みな人よわく思ひたゆはるゝを、戒言大とこひとり、いなとよ。

さばかりおそろしき道ならんには、絶てゆく人もあらじを、人もみなゆくめれば、なにばかりのことかあらん。足だにもあらば、いとようこえてんと、つゆききおぢたるけしきもなく、はげましいはるゝにぞ、さは御心なンなりとてをりぬ。

十三日。雨そほふるに、まだ夜をこめて、かのおそろしくいひつる道にいでたつ。そはこの里中より、右のかたへぞわかれゆく。』


(図9-3)桃俣から4Kmほど北にいくと鎧岳という屹立する姿のよい山(894m)があるのだが、宣長たちは寄り道する余裕はなかった。

『けさはいさゝかこゝちも悪しければ、ゆくさきの山路のほどいかならんと、今よりいとわびし。この道より、室生は程ちかしときけど、雨ふりまさりて、道もいと悪しければ、え詣でず。

田口といふ宿まで、萩原(榛原)より三里半とかや。まづ石わり坂などいふをこえて、道のほどいと遠し。田口より、又山どもあまたこえ行て、桃の俣といふへ二里、又山こえて二里ゆけば、菅野の里也。』

(図9-4)菅野から大和と伊勢の国境にある山の中で最も高い山は倶留尊山(くろそ・1037m)である。

『こゝより多気へ四里ありとぞ。此のあひだになん、大和と伊勢の国ざかひは有ける。』

(図9-5)石名原は大洞山(985m)の南山裾(写真の右側)にある。

『さて今日は、多気まで物すべかりけるを、雨いみしう降り、風はげしくて、山のうへゆくほどなどは、蓑笠も吹きはなちつゝ、ようせずは、谷の底にもまろびおちぬべう、ふきまどはすに、猶ゆくさき、聞ゆるかひ坂もあなるを、かくてはえ越えやらじとて、石な原といふ所にとまりぬ。

けふは、萩原よりこなた、いづこもいづこも、たゞ同じやうなる山中にて、何の見どころもなかりしを、桜はところどころにあまた見えて、なほ盛りなりき。

されど日もいと悪しく、うちはへ心ちさへなやましかりければ、何事もおぼえで、過ぎ来つれば、哥などもえ詠まずなりにきかし。』

(図9-6)石名原



I3月14日(新暦4月16日) 石名原から松阪へ





10日目。旅の最終日である。雨はやんだが宣長は気分がすぐれずひとりだけ駕籠に乗って山を越えていった。飼坂(かいさか)を下ると北畠神社がある。北畠神社は初代伊勢国司の北畠顕能(あきよし)を主神とし、南北朝時代の南朝方の指導者であった北畠親房・その子の顕家を配神とする(顕能も親房の三男である)。

文中に北畠具教(とものり)が「国司一世」とあり、北畠神社に具教を祀っているとあるが、具教は国司8世である。宣長は顕能と具教を混同している。具教は戦国大名であったが、織田信長に攻められ降伏し、信長の次男の織田信雄(のぶかつ)を息子の具房の養嗣子として迎え入れた。だがその後具教は殺害され、伊勢北畠家は滅びた。

文中、宣長が北畠神社に「ねんごろに伏し拝み奉った」のは、宣長の先祖の本居宗助が北畠に仕えていたからであることを、その後の文中でいっている。 北畠神社のあと飯福田寺に詣で、巨岩・奇岩を見物したようだが、この詳細は述べていない。堀坂を登り、峠を越えて、日が暮れ果てたころ松阪に帰っている。



(図10-1)飼坂峠(かいさか)。現在はトンネルが出来ているが、宣長たちはこのトンネルの上の峠を越えた。

『 十四日。雨はやみぬれど、なほここち悪しければ、例のあやしき駕篭といふ物に乗りて、飼坂をのぼる。げにいと嶮しき山路也けり。

されどおのれは徒歩(かち)よりならねば、さもしらぬを、みな人の。、ばかりゆきては、いきつき立やすらひつゝのぼるを見るにぞ、苦しさ思ひやられぬる。

とものをのこは、荷もたればにや、はるかに遅れて、やうやうにのぼりくるを、つゞらをりのほどは、いとまぢかく、たゞここもとに見くだされたり。』

(図10-2)美杉村多気。多気は北から流れてくる八手俣川に沿って開けた細長い集落である。建武の親政のとき北畠親房の子の北畠顕能(あきよし)が初代の伊勢国司となって、この地を南朝方の根拠地のひとつとした。

『さて峠なる茶屋にしばし休みて、此の坂をくだれば、やがて多気の里也。

こゝはおのが遠つ祖(おや)たちの、世々に仕うまつり給ひし、北畠の君の、御代々へてすみ給ひにし所也ければ、故郷のここちして、すゞろになつかしく覚ゆ。

此の度も、多くは此の御跡をたづね奉んの心にて、此の道にはきつるぞかし。所のさま、山たちめぐりて、いとしも廣からねど、きのふこし里々にくらぶれば、こよなううちはれて、ひろう長き谷なりけり。』

(図10-3)北畠神社。北畠といえば、北畠親房とその長男の北畠顕家がもっとも名高いが、北畠神社は三男の北畠顕能を主祭神とする。顕能がこの地に密着して、領土の経営をしていたからである。

『かの殿の跡は、里より四五町ばかりはなれて、北の山もとに、真善院とて、わづかなる小寺のある。里人は、今も國司とぞいふなる。そこに北畠の八幡宮とておはするは、具教大納言【國司一世 号寂光院不智】の御たまを、いはひまつれる御社とぞ。先祖の事思ひて、ねんごろに伏し拝み奉る。 をりしも雨いさゝかふりけるに、

  下草の 末葉もぬれて 春雨に
  かれにしきみの めぐみをぞ思ふ



(図10-4)館跡庭園。

『堂の前に、そのかみの御庭の池・山たて石なども、さながら残れるを見るにも、さばかりいかめしき御おぼえにて、栄え給ひし昔の御代の事、思ひやり奉りて、いとかなし。

 君まさで ふりぬる池の 心にも
  いひこをいでね むかしこふらん

この上のかたの山を、雰が峯(きりがみね)とかいひて、御城の有し跡も残れりとぞ。されど高き山なれば、え登りては見ず。』

(図10-5)館(多気御所)の復元模型。

『さてむかしの事共かきとゞめたる物などやあると、此の寺の法師に尋ねけるに、此のごろあるじの法師物へまかりて、なきほどなれば、さる物も、この里の事おこなふ者の所に、預かりをるよしいらへけるは、るすなめり。

さてその物見に、又里にかへりて、かの家たづねて、しかじかのよしこひけるに、とり出て見せける物は、此の所のむかしの絵図一ひら、殿より始めて、仕へし人々の家、あるは谷々の寺ども、町屋などまで、つぶさに写しあらはしたり。

さては、仕へし人々の名どもしるし集めたる書一巻あり。ひらきて見もてゆくに、かねてきゝわたる人々、又は今もこゝかしこに、その像とて残れるが先祖など、これかれと多かる中に、己が先祖の名【本居宗助】も見えたり。かの絵図に、その家も有やと、心とゞめてたづね見けれど、そは見あたらざりき。』

(図10-6)飯福田寺(いぶたじ)。

『かくて此家にかたらひて、食ひ物のまうけなどしてゆく。さるは伊勢にまうづる道は、こゝよりかのひつ坂といふを越えて、南へゆくを、今はその道ゆかんは遠ければ、堀坂を越えて帰へらんとするを、そのかたは、旅人の物する道ならねば、食ひ物などもなしと聞けばなりけり。

又しもかの寺の前をとほり、下多気にかゝりて、山を越え、小川・柚の原などいふ山里を過ぎて、飯福田寺(いぶたじ)に詣づ。

こゝは少し北の山陰へまはる所にて、道のゆくてにはあらねど、御嶽になずらへて、掃除などしつゝ、国人の詣づる所にて、かねてきゝわたりつるを、よきついでなれば、まはりてま詣づる也けり。』

(図10-7)飯福田寺(伊勢山上)。

『山は浅けれど、いと大きなる岩ほなど有て、谷水もいさぎよく、世ばなれたる所のさまなり。

さて与原といふ里にいでゝ、寺に立入て、しばし休みて、堀坂をのぼる。こはいと高き山なるを、今はそのなからまでのぼりて、峯は南になほいとはるかに見あげつゝ、あなたへうち越ゆる道也。

この峠(たむけ)よりは、南の嶋々、尾張・三河の山まで見えたり。日ごろはたゞ、山をのみ見なれつるに、海めづらしく見渡したるは、ことに目覚むるこゝちす。

わがすむ里の梢も、手にとるばかり近く見付けたるは、まづ物などもいはまほしき迄ぞおぼゆるや。』

(図10-8)堀坂峠。

『さて下る道、いと遠くて、伊勢寺すぐるほどは、はや入相になりにけり。いぶたにまはりし所より、供のをのこをば、先だてゝやりつれば、みな人の家より迎への人々などきあひたる。

うちつれて、暮はてぬる程にぞ、帰り着きける。かくてたひらかに物しつるは、いとうれしき物から、今はとて、ときすつる旅のよそひも、ひごろのなごりはたゞならず。

  ぬぐもをし 吉野のはなの 下風に
  ふかれきにける すじのを笠は

よしや匂ひのとまろずとも、後しのばん形見にも、その名をだにと、せめて書きとゞめて、菅笠の日記。』









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