本居宣長の畝傍山

    No.86.....2011年7月24日(日曜)


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宣長の菅笠日記(畝傍山周辺)

明和9年(1772年)、43歳の本居宣長は友人5人と一緒に、吉野・飛鳥を遊覧した。3月5日に松阪を立ち14日に戻った10日間の旅である。半分は物見遊山、半分は注力していた古事記の解明のための実地調査であった。

この旅のことを「菅笠日記(すががさ)」としてまとめ、後(66歳のとき)に出版している。

読むと、宣長が、何に驚き、何に感銘し、どういう歌を詠み、何を問題とし、何を調べたかったのかが判るうえ、大学者宣長の講釈も聞けるという、なかなか面白い古典である。

宣長一行が畝傍山の周辺を歩いたのは旅の8日目のことである。この目的は天皇陵を訪ねることであった。私もだいたい同じコースを辿ってみた。以下の順に歩いた。
  1. 久米寺
  2. 橿原神宮
  3. 懿徳(いとく)天皇陵
  4. 安寧天皇神社
  5. 御陰井(みほとい)
  6. 安寧天皇陵
  7. 畝火山口神社
  8. スイセン塚
  9. 綏靖(すいぜい)天皇陵
  10. 神武天皇陵


古事記・日本書紀にいう歴代の天皇は、@神武、A綏靖(すいぜい)、B安寧、C懿徳(いとく)、D孝昭、E孝安、F孝霊、G孝元、H開化、I崇神(すじん)の順に即位したが、このうち@〜Cの初期4代の天皇陵が上の地図の中、畝傍山麓にある。さらに神武天皇の橿原宮は、現在の橿原神宮があるあたりにあったはずである。



久米寺仁王門。 昨夜は見瀬(みせ)の宿屋に泊まった宣長らは、翌朝久米寺を訪れた。そこでの感想は、

『三瀬をいでゝ、北へ少し行て、左の方へ三丁ばかりいれば、久米の里にて、久米寺あり。今もよろしき寺也。されど古の所はこの西にて、こゝはそのかみ塔のありし跡なりと、法師はいひつ。』

と簡単に記すだけで、久米についての講釈はしていない。

久米寺は、@聖徳太子の弟の来目皇子が創建した、A久米仙人が造った。B久米部の氏寺であった。などの諸説がある。Aの久米仙人については今昔物語が久米寺ができたいきさつを面白く記しているが、私が思うところでは、当初はB久米部の氏寺であったとするのが正しいのではないか。

久米寺本堂。 「神武東征」が事実であったかどうかは、私にはわからない。だが古事記を読むと、その戦闘のスケールはごく小さいイメージしかわかない。スケールが小さいのは、東征のある部分本当ではないかの思いもする。

神武軍が初めて敵を討ったのは、宇陀においてである。宇陀は兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)の兄弟が統治していた。神武軍がやってきたとき、弟宇迦斯はいち早く恭順したが、兄宇迦斯は恭順したように見せて、罠の仕掛けのある高殿を建てて、ここに神武を導き、圧死させようとした。

神武は弟宇迦斯の注進によってこれを知り、大伴の祖となる道臣(みちのおみ)と久米の祖となる大久米命を派遣して、兄宇迦斯をその高殿に追い込み逆に圧死させた。これが第1の勝利である。

久米寺多宝塔(重文)。久米寺は真言宗御室派である。この多宝塔は江戸初期に仁和寺から移築された。

神武軍の戦闘兵は、大伴と久米が指揮していた(日本書紀では大伴が久米を指揮していた)。兄宇迦斯を葬った久米の兵士たちは次のように歌った。

 宇陀の高城(たかき)に 鴫罠(しぎわな)張る
 我が待つや         鴫は障(さや)らず
 いすくはし          鯨(くぢら)障る・・・・(古10)

意味は、宇陀の狩場に鴫を獲る罠を張って、待っていたら、鴫はかからず、鯨(鷹とも解釈できる)が掛かった。 兄宇迦斯のたくらみをみごとに打ち破って「どんなもんだい」と誇る喜びの歌である。

塔の礎石。 次に神武らは、ヤマトへの入り口である忍坂(おさか)の岩室で土蜘蛛を討った。その手口は土蜘蛛に恭順するかのように見せかけて、彼らを岩室に招いて饗応し、宴が盛り上がったとき、いっせいに剣を抜いて撲滅したのである。攻撃開始の合図は次の歌を歌ったときであった。

 忍坂の 大室屋に   人多(さは)に  来入りけり
 人多に 入り居りとも  みつみつし    久米の子が
 頭椎(くぶつつ)い   石椎(いしつつ)い持ち
 撃(う)ちてしやまむ ・・・・(古11)

忍坂の大きな洞穴に人が多く入っている。どれほど敵が多かろうとも、勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎や石椎の刀を持ち、討ち滅ぼすぞ。


久米寺の北側は近鉄電車の線路を挟んで橿原神宮に接している。

次にヤマトの東部の中心にいた磯城の一族を討ち、ここでも久米歌を歌う(古15)。最後にヤマトの西部にいた登美毘古(とみびこ。書紀では長髄彦)と争うがなかなか決着がつかなかった。ここで歌った3首の久米歌(古12〜14)が古事記に掲げられている(書紀では別の場面で歌っている)。

 神風の     伊勢の海の     生石(おひし)に
 這ひもとろふ 細螺(しただみ)の い這ひもとろほり
 撃(う)ちてしやまむ          (古14)

伊勢の海に立つ石の周りを這い回っている巻貝のように、敵の周りを這い回って討ち滅ぼすぞ。

橿原神宮・一の鳥居。(写真は2002年11月に撮影)

こうしてヤマト入りを果たした神武は、畝傍山の南東の橿原の地に宮を造営し、そこで即位した。

古事記には記述がないが、このとき大伴に畝傍山の南の築坂邑(つきさか。現在の鳥屋町)を与え、大久米に畝傍山の西の土地(久米邑。現在の久米町)を与えた。と書紀は記述している。葛城族・鴨族の反抗に備えたのだろう。

神武は即位の前年に后を娶っている。古事記では比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)、書紀では媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)である。媛は大物主(古事記)または事代主(書紀)の娘、つまり神の娘である。

橿原神宮・南神門。左に畝傍山。 大久米が神武の名代として媛のところに行ったとき、媛は次の歌を歌った。(古18)

 あめつつ ちどりましとと など黥(さ)ける利目(とめ)

大久米は答えて歌った。(古19)

 媛女(をとめ)に 直(ただ)に逢はむと 我が黥(さ)ける利目

上の2つの歌ののうち、媛が歌った歌は難解である。「あめつつ、ちどりましとと」とは何であるのか。宣長は古事記伝で、これは鳥の名称であると解読した。つまり「あま鳥、つつ、千鳥、しととのようにどうして目尻に入れ墨をして、鋭い目にしているの?」 大久米の返歌は「媛にじかにお逢いしたいと思って、こんなに鋭い目にしているのです」。

橿原神宮・外拝殿。 宣長のころ、畝傍村には橿原神宮はなく、田畑や林があっただけであろう。

『うねび山、北の方にまぢかく見ゆ。ふる言思ひ出られて、

  玉だすき うねびの山は みづ山と
  今もやまとに 山さびいます

【万葉一長哥に「うねびの 此のみづ山は 日のよこの 大御門にみづ山と 山さびいます 云々】』

宣長は畝傍山を見て、畝傍山は瑞山(みずやま)であると歌った万葉集の(1-52)を思い出し、「みず山」を織り込んだ歌を詠んだ。そして、思い出した万葉集の歌の一部を掲げている。説明ずきな宣長らしい。



宣長が掲げた万葉集の歌は(1-52)の「藤原宮の御井の歌」。ここには4つの山が歌われている。

@香具山は、宮の東面にあって、青々と春山らしく茂っている。
A畝傍山は、宮の西面にあって、瑞々しく鎮まっている。
B耳成山は、宮の北面にあって、清々しく神さびて立っている。
C吉野山は、宮の南面のはるか向こうの雲のかなたにある。 宣長はすでに吉野山に行き、昨日は香具山に登っている。ここで畝傍山を見たからには、残りは耳成山だけである。耳成山を見れば、(1-52)が歌う藤原宮を取り巻く4つの山を、松阪に戻っても思い浮かべることができる。

この日、宣長が探した天皇陵について予め述べておくと、歴代の天皇陵の場所を古事記は次のように記す。( )は日本書記。
  1. 第1代・神武天皇陵は「畝傍山の北の白檮尾(かしのお)の上」(畝傍山の東北(うしとら)陵)

  2. 第2代綏靖天皇陵は「衝田(つきた)の崗」(桃花鳥田丘(つきたのおか)の上)

  3. 第3代・安寧天皇陵は「畝傍山の御陰(みほと)」(畝傍山の南の御陰井の上)

  4. 第4代・懿徳天皇陵は「畝傍山の真名子谷の上」(畝傍山の南の繊沙渓(まなごたに)の上)。



橿原神宮・内拝殿。

橿原神宮ができたのは明治23年(1890年)のことである。明治天皇は御所にあった賢所を移築し、これを本殿とした。昭和15年(1940)には皇紀2600年を記念して、周辺を大規模に拡張、植林し、大きな公苑となった。

橿原神宮の背後に畝傍山。

『此の山のかたへつきたる道を、おしあてにゆきて、少し西へまがれば、畝火村あり。すなはち山のたつみ(南東)の麓なり。此のむらにいらんとするところの、半町ばかり右の方に、小さき森有て、中に社もてたるは、懿徳(いとく)天皇の御陵といふなれど、そは此の山の南、まなごの谷の上とあるにあはず。』

橿原公苑の敷地のどこかであろう、小さな杜があって社があった。土地の者は懿徳天皇の御陵だといったが、それは間違いであると宣長はいう。古事記には懿徳天皇陵は「畝火山の真名子谷の上」、書紀には「畝傍山の南の繊沙渓(まなごたに)の上」にあると書かれているからである。


橿原神宮前にある深田池。(写真は2002年11月に撮影)

深田池は橿原公苑の一部になっているが、昔は農業用の溜池であったろう。宣長の時代にもあったのではないか。

宣長は畝傍山の頂上に神功皇后を祀る神社があり、近くにそこへ登る道があると聞いた。連れの者たちに登ろうと誘ったが、いやだといわれ登山を断念する。深田池に沿って西にある吉田村へ向かった。

懿徳(いとく)天皇陵。その場所は、「畝火山之真名子谷上」(古事記)、「畝傍山南繊沙渓(まなごたに)上」と伝えられている。後ろの山は畝傍山の尾根の先っぽ。

『かくて此の村(畝傍村)を西へとほり、山の南の尾をこえて、くだれば、あなたは吉田村也。 此のあひだの道の左に、まなご山・まさごの池などいふ名、今もありて、池は水あせて、そのかたのみ残れりとぞ。かのいとく(懿徳)天皇の御陵は、そのわたりなるべきを、知られぬこそいとくちをしけれ。』

畝傍村から吉田村へ行く途中、案内の老人からまなご山やまさごの池があることを宣長は聞いていた。「まなご山」があるのだから「まなご谷」もあったろう。このあたりに懿徳天皇陵があるはずだがそれが見つからないと、宣長は悔しがっている。

第4代・懿徳(いとく)天皇陵。 御陵の鳥居のすぐ後ろの木立は、わずかに土地が盛り上がっているようである。それが「マナゴ山」と呼ばれていたのだろうか。

「まなご山」を教えられていた宣長はまさにこのあたりを通ったのだが、単なる小山か丘にしか見えなかったのだろう。

江戸期に陵墓の比定や修陵は何度か行われている。@元禄(1697〜1699年)、A享保(1718〜1719年)、B安政(1855年)、C文久(1862〜1865年)などである。

宣長がここを訪れたのは、1772年のことだから、すでに元禄・享保による陵墓の調査や修理によって多くの天皇陵が比定されていた。(ただそれが正しいかどうかは別である)

吉田町のメインストリート。手前は南、向うは北。宣長もこの道を歩いた。元禄の修陵では、次のように比定している。
  1. 神武天皇陵=高市郡四条村字塚山
  2. 綏靖天皇陵=高市郡慈明寺村字スイゼン
  3. 安寧天皇陵=高市郡吉田村字マナゴ山(安寧山)
  4. 懿徳天皇陵=高市郡畝傍村
神武・綏靖・安寧の3つの御陵は、一応その場所を特定することができているが、懿徳天皇陵は畝傍村だろうというだけで、特定できていない。

天皇陵の比定は、@文献にある場所、Aそれらしい古墳がある、B伝承がある、といった条件に合わねばならないから、なかなか難しい。

図は上図の地点から少し歩いて右側(東)を見たもの。丘に向かって「安寧天皇神社」への小道がある。

第3代・安寧天皇陵の場所は、古事記は「畝火山の美富登(みほと)」にあるといい、書紀は「畝傍山の南の御陰井(みほとい)の上」にあるという。 畝傍山の周りに「みほと」という地名があれば、場所は特定できるが、そのような地名はないようだ。「御陰(みほと)」とは女性の陰部をいう。古事記のいう「畝火山の陰部」とはどこなのか。

また書紀は「御陰井(みほとい)の上」と記す。「井」がついているから、「みほと」と呼ばれる井戸の上方に御陵はあると解釈できる。「畝火山のみほと」なのか「みほと井の上」なのか、簡単に判断はできない。

小山の上に安寧天皇神社があった。一応は拝殿があり、その奥の一段高いところに本殿があった。ブロック塀で囲まれていて、なんだか情けない社であるが、ともかく安寧天皇を祀る祠である。

元禄の修陵では、安寧天皇陵は「高市郡吉田村字マナゴ山(安寧山)」にあるとしている。まなご山は畝傍山から南西に流れてきた尾根の一部だろう。その東側に現在比定されている懿徳天皇陵があり、その西側に安寧天皇神社がある。

元禄の修陵では、懿徳天皇陵は不明で、安寧天皇陵は安寧天皇神社のある場所であるとしていたのか、あるいは懿徳天皇陵をそれだとしていたのか。現在の安寧天皇陵とは別の場所を比定していたようだ。


ところが宣長は、ちゃんと現在の安寧天皇陵にやってきているらしいのである。

吉田町の道を北上する。写真の軽トラックが走っている先はやや登り坂になっている。右方から畝傍山の尾根が延びているからである。道の左手に安寧天皇陵がある。

『さて吉田村にて、例の翁かたらひ出て、御陰井上御陵をたづぬるに、このおきなは、あるが中にもなへての御陵の御事を、よく知りをりて、こまかにかる。 近き世に江戸より、御陵どもたづねさせ給ふ事はじまりて後、大かた廿年ばかりに一度は、かならずかの仰事にて、京よりその人々あまた下りきて、その里々にとゞまりゐて、くはしく尋ねしたゝめつゝ、しるしの札たてさせ、めぐりに垣ゆはせなどせらるゝ事ありとなん。 』

宣長たちを案内してくれた老人は御陵について詳しかった。 少し昔から幕府は御陵を比定し修陵を始めた。だいたい20年に1度は京都から大勢の役人がやってきて調査し、御陵の標しを立て、周りを垣で囲ったりしている。それで老人は御陵に詳しくなったという。

安寧天皇陵は、「畝火山の美富登(みほと)」あるいは「畝傍山の南の御陰井(みほとい)の上」にあるのだが、実は「御陰井(みほとい)」という井戸が今も残っている。

『さて此の里中の道のほとりに、御ほとゐといふいまもあり。かたのごと水も有りて、たゞ世のつねのちひさき井也。』

電柱の下に「御陰井」がある。


「御陰井」は玉垣風に囲まれている。井戸の四方は石で囲まれ、石板で蓋がされている。傍らに「御陰井」とだけ彫られた石碑が立っている。

うーむ。どこにでもある小さい井戸であると宣長が言っているが、まさにありふれた井戸である。御陵の場所を示すのに、この小さい井戸を基準にするには、よほど「御陰井」が有名でなければなるまい。あるいは神武天皇が掘らせた井戸であるといったいわれがある聖跡でなければなるまい。

御陵の場所をいうときは、ほとんどが地名または何かを基点とした方角をもって示す。例えば神武天皇陵は「畝火山之北方白檮尾上」(古事記)と方角と地名で示し、「畝傍山東北」(書紀)と方角で示す。第2代綏靖天皇陵は「衡田岡」(古事記)、「桃花鳥田丘上」(書紀)と地名で示す。

第4代懿徳天皇陵は「畝火山之真名子谷上」(古事記)、「畝傍山南繊沙渓(まなごたに)上」(書紀)とやはり地名である。

第3代安寧天皇陵だけが小さな「井戸の上」で場所を示すのはおかしい。畝火山の近くに「美富登(みほと)」という地名があったとするのが素直だろう。

地図を見ると、畝傍山から伸びる尾根は3本あって、1本は東に向いて下り、1本は北西を向き、1本は南西を向いてなだらかに下っている。現在の安寧天皇陵は、この南西を向いて下ってきた尾根の先っぽにある。



安寧天皇陵。

方角を問題にすると、安寧陵は「畝傍山の南」にはない。ただ延喜諸陵式には「畝傍山西南御陰井上陵」とあるので、延喜式の方角とは一致している。 また「兆域東西3町、南北2町」とあって、東西に長い御陵であるのも今の安寧天皇陵と同じである。

「御陰井(みほとい)」を信用するなら、まさしく安寧陵は「御陰井の上」にある。井戸から北側を見上げると、尾根の先っぽに茂る木立がみとめられる。

宣長は、現在比定されている安寧天皇陵を見たようだ。

『御陵は、此の井より一町あまりいぬゐ(乾)の方にて、すなはち畝火山の西のふもとにつきたる高き岡にて、松などまばらに生たり。
かしこけれど、のぼりて見るに、こゝにをさめ奉りつらんと思はるゝ所は、まろに大きなるをかにて、又その前とおぼしき方へ、いと長くつき出したる所あり。そこはやゝさがりて。細くなんある。』

と御陵を描写している。 宣長の時代にはまだ御陵は整備されていなくて、立ち入りができたらしい。その下に石室があるであろう丘の上に登ると、その形は前方へ長く突き出ており、やや下がり気味で細くなっている、という。この描写は今の御陵の形と同じである。


このあと宣長たちは「すゐぜい塚」を訪れるのだが、その途中に畝火山口神社がある。

宣長は畝傍山山頂に神功皇后を祀る神社があることを聞いた。畝傍山に登ってこの神社を見たかったのだが、ほかの者は山に登るのは嫌だというので、畝傍山の神社を見ることはあきらめた。

吉田村から大谷村へ歩いてきたとき畝火山口神社があれば、おそらく宣長は天皇陵の言い伝えがあるかと神社に立ち寄ったものと思われる。だが立ち寄っていない。

畝火山口神社への道。神社は畝傍山から北西へ伸びる尾根と南西に伸びる尾根に挟まれた中心部にある。この場所こそが「みほと」であると思われるが、地名は大谷町である。

神社の由緒書きを見ると、祭神は@気長足姫命、A豊受比売命、B表筒男命 とある。気長足姫(おきながたらしひめ)とは神功皇后のことである。

さらに読むと、神社は畝傍山山頂にあって畝火明神あるいは畝火山神功社と呼ばれていたが、皇紀2600年祭(昭和15年)の折に、山頂から橿原神宮や神武天皇陵を見下すのはよくないとして、山頂から下ってこの場所に遷座し、名前を畝火山口神社に変えたとある。

宣長が聞いた畝傍山頂の神社は、この畝火山口神社だったのである。だから神社はまだこの場所にはなく、宣長が立ち寄るはずがなかった。

畝火山口神社は大谷町にある。ここを過ぎると慈明寺町。道の右手に石の鳥居が立っている。「天神社」とある。鳥居下の道は天神社の参道であろうか。この道を進む。宣長もその道を通ったはずだ。

『さて吉田村をいで、北ざまに物して、大谷村といふをすぎ、慈明寺村に入らんとする所の右のかた、山もとに寺ある。
まへの岡のうへに、大きなる塚のかたちの見えたるは、綏靖天皇の御陵にて、里人はすゐぜい塚とぞいふなる。』

と書いている。山裾に寺があって、その寺の前に岡があり、そこに大きな塚があるという。

畝傍山から伸びる3本の尾根のうち、北西に向かって伸びる尾根がこれであろう。古墳はだいたいにおいて尾根に築くのが普通である。高い土地に造らないと、山水が古墳に流れ入るからである。そうなら見えている低い尾根に古墳があるのだろう。

単なる尾根のように見えるが、宣長は「大きなる塚のかたちの見えたるは、綏靖天皇の御陵にて、里人はすゐぜい塚とぞいふなる。」と書いている。宣長のころは「塚のかたち」をしていたのだろうか。


天神社と並んで寺があった。「慈明禅寺」とある。寺の脇に橿原市教育委員会が立てた案内板があったので読むと、宣長のいう「すゐぜい塚」ではなく「スイセン塚古墳」と書いてある。

古墳は前方後円墳で、後円部の径は50m・高さ10m、前方部の長さは40m・幅30m・高さ5mの規模である。 古来スイセン塚と呼ばれていて綏靖天皇陵といわれてきたが、現在では単なる言い伝え程度のものである。とも書いてあった。

元禄の修陵では、綏靖天皇陵は、「高市郡慈明寺村字スイゼン」にあるとされていた。宣長は「綏靖天皇の御陵にて、里人はすゐぜい塚とぞいふなる」と書き、これが綏靖天皇陵であることは疑っていない。

寺の横に見える尾根が「スイセン塚古墳」なのかどうかを確かめたかったので、無遠慮ながら寺に入って声をかかると、老女が出てきて、親切にも履物を履いて外にでて、「あれがそうです」と指差してくれた。果たして目の前の尾根がそうであった。

「寺の横から古墳に行けますよ」といわれるので、あまり乗り気ではなかったが、せっかくのことなので行ってみた。 後円部らしきものがあった。どうやら畝傍山に近いほうに後円部が、遠く尾根が低くなるほうに前方部があったようであるが、荒れていて形は定かでない。

宣長も古墳に登っている。 『畝火山のいぬゐ(北西)の麓につきて、これも高き岡なる。例ののぼりて見れば、御陵のさまも、吉田なるともはら同じ事也。』 吉田の安寧天皇陵と慈明寺の綏靖天皇陵は似ているという。


慈明寺町の東隣にある山本町あたりから見た畝傍山。北から見た畝傍山。

宣長たちは、慈明寺村にあった綏靖天皇陵を見学した後、四条村にあるという神武天皇陵に向かう。

『東のかたのふもとに、山本村といふみゆ。慈明寺村は、この岡の北に続けり。やゝ離れて又北のかたに、四条村といふあり。この四条村の一町ばかり東、畝傍山よりは五六町もはなれて、丑寅(うしとら。北東)のかたにあたれる田の中に、松一もと桜ひと本おひて、わづかに三四尺ばかりの高さなる、小さき塚のあるを、神武天皇の御陵と申つたへたり。』

綏靖天皇陵の木立。道路を挟んで右端の木立は神武天皇陵のもの。

現地に着いてみると、神武天皇陵と言い伝えられている御陵は、@畝傍山より5〜600m(1丁は109m)も離れており、A畝傍山の北東にあった。B塚はわずかに1m(1尺は30cm)ほどの高さで、松の木と桜の木が1本ずつ生えていた。

神武天皇陵の場所は、「畝火山之北方白檮尾上」(古事記)または「畝傍山東北」(書紀)である。直ちに宣長は、この塚は神武天皇陵ではないという。

綏靖天皇陵へ続く細道があった。御陵の裏道である。

『さへどこれは、さらにみさゞきのさまとはみえず。又かの御陵は、かしの尾上と古事記にあるを、こゝははるかに山をばはなれて、さいふべき所にもあらぬうへに、綏靖・安寧などの御は、さばかり高く大きなるに、これのみかくかりそめなるべきにもあらず。かたかた心得がたし。』

古事記に「白檮尾上」とあるのに、この場所は畝傍山からずいぶん離れている。さらにさっき見てきた綏靖陵や安寧陵は大きかったが、この塚は小さすぎる。納得できないという。

綏靖天皇陵の場所は、「衡田岡」(古事記)、「桃花鳥田丘上」(書紀)である。どちらも「つきた」と読む。「桃花鳥」を「つき」と読むのは、桃の花のように薄いピンク色をした鳥は「トキ(つき)」だからである。


正面に綏靖天皇陵。

目の前にある塚は神武天皇のもではない。では神武天皇陵はどこにあったのか。このときは、宣長はすでに見てきた綏靖天皇陵が神武天皇陵ではないかと考えた。

『それにつきてつらつら思ふに、かの綏靖天皇の御と申すぞ、まことには神武天皇の御なるべきを、成務天皇と神功皇后の御陵の、まがひつるためしなど、いにしへだになきにしもあらざれば、これももてたがへて、昔より綏靖とは申し伝へつるにや。』

慈明寺村にある綏靖天皇陵は、本当は神武天皇陵だが、誤って綏靖天皇陵として言い伝えられてきたのではないか、と宣長はいう。その例は過去にもあった。

それは成務天皇陵と神功皇后陵が長い間入れ替わって言い伝えられていたが、後に判明して訂正されたことがあったのである。続日本後紀の承和10年(843年)にそういう記述があるらしい。さすがに博学の宣長である。

『さ思ふゆゑは、まづ此の山のほとりなる御陵どもは、いづれも畝傍山のそこの陵とあなれば、この綏靖の御も、今いふ所ならば、必ずさあるべきを、いづれの書にも、これはたゞ桃花鳥田丘上とのみあるは、此の山のあたりにはあらで、神名帳に、調田坐(つきだにます)神社とあるところなるべきか。』

そう思うのは、畝傍山のほとりにある御陵は必ず「畝傍山の・・・」がついている。神武陵は「畝火山之北方白檮尾上」、安寧陵は、「畝火山の美富登(みほと)」、懿徳陵は「畝火山之真名子谷上」。どれも「畝火山」が入っている。

ところが綏靖陵は「衡田岡」(古事記)、「桃花鳥田丘上」(書紀)とあって「畝火山」はついていない。これは綏靖陵は畝傍山から離れているからである。綏靖天皇陵があるとされる「つきたのおか」は、神名帳にある「調田坐(つきたにます)神社」のあたりではないかと推測する。

畝傍山周辺にある御陵の現在地と宣長が思っていた場所をまとめると、次のようになる。(数字は地図上の番号と同じ)

@神武天皇陵 (宣長は無視している)
A綏靖天皇陵 (宣長は綏靖陵ではないとする)
B安寧天皇陵 (宣長も安寧天皇陵)
C懿徳天皇陵 (宣長は見つけられず)
Dスイセン塚  (宣長は神武陵と推定)
E調田坐神社 (宣長は綏靖陵と推定)

神武天皇陵への道。

宣長も綏靖天皇陵を調田坐神社のあたりと推測するには無理があるのかと思っている。延喜諸陵式に綏靖天皇陵は大和国高市郡とあるが、調田坐神社は大和国葛下郡にあるからである。この矛盾については、

『それは葛下郡なるを、この御陵は、高市郡と見えたれば、たがへるやうなれど、この郡どもはならびたれば、境ちかき所々は、古の書どもにも、郡の変はれる例おほかれば、さはりなし。されどこれは、このつきだといふ所を、よく尋ねて後に、さだむべき事也。』

またスイセン塚を神武天皇陵とすると、畝傍山の北西になり、古事記の「北方」、書紀の「東北」と方角が合わなくなる。

神武天皇陵。

『又神武のおほんは、山の東北と、日本紀にも延喜式にもあるを、かのすゐぜい塚は、西北にしもあなれば、うたがひなきにあらねども、古事記には山の北のかたと見え、又かの御陰井上の御陵は、山の西なるを、日本紀には、南といへるたがひもあれば、必ず東北とあるになづむべきにもあらざらんか。後の人なほよくたづねてさだめてよ。 』

宣長は、神武天皇陵は古事記は「北方」にあると記しているから北西でも間違いではない。また安寧天皇陵は畝傍山の西にあるが、書紀は南と記しているように必ずしも正確な方角が記されているわけではない。とやや弁解している。


畝傍山にきた当時の宣長が解明していたのは、古事記・上巻(神代)である。この6年後にようやく上巻の註釈を終えているから、中巻で登場する神武天皇以下についてはまだ綿密な考証は進んでいなかった。

だからスイセン塚を神武陵ではないかと推定し、綏靖陵は調田坐神社のあたりだろうとしたのだが、この考えが出てきたきっかけは、@神武陵と言い伝えられている塚(塚山あるいは福塚と呼ばれていた)は神武陵ではない、Aスイセン塚は綏靖陵ではない、この2つを合理的に判断したことにある。

宣長が神武陵ではないとした塚山は、現在では綏靖天皇陵(地図のA)に比定されている。畝傍山から遠いというのがその理由だろうが、その塚は径16mというからそう大きなものではないし、なによりも「つき田」の地名とは無関係な場所である。

神武天皇陵は、宣長がいうように畝傍山の一部か接近した場所になければならない。

当時の学者や幕府役人がいろいろと探してみると、畝傍山の近くの「ミサンザイ」に塚がある。またその所は「ジブデン」と呼ばれている。ミサンザイとは「御陵(みささぎ)」が崩れたものだろう。またジブデンとは「神武田」であろう。こういうことから、幕末の文久の修陵において、ミサンザイの塚を神武天皇陵に比定した。それが今ある神武天皇陵である。

宣長は、この旅によって古墳を実際に見て、安寧陵やスイセン塚古墳の大きさを知り、畝傍山のどういう場所に古墳があるのかを知った。後に古事記・中巻を註釈するときにこの体験が生きたはずである。

のちの宣長は、この旅先で考えたスイセン塚古墳が神武天皇陵だという考えは捨て、畝傍山の北東の尾根に御霊山という山があるが、そこが神武天皇陵だろうとしている。(前掲の地図のF)

@場所は白橿村洞(ほら)であり、古事記の「畝傍山の北の白檮尾(かしのお)の上」に合致する。Aまた畝傍山の北東にあたるので書紀「畝傍山の東北」の方角と合う。B御霊山=御陵山(今は丸山と呼ばれている)という地名もそれらしい。 宣長らしい合理的な比定である。

丸山が神武天皇陵なのかどうかは発掘してみれば判る。だがその場所は陵墓参考地に指定されて宮内庁が管理しているので、発掘はできないそうである。ついでにいえば「御陰井(みほとい)」も宮内庁が管理しているという。



行く先の目次... 前頁... 次頁... 畝傍山周辺...         執筆:坂本 正治