本居宣長の松阪市

    No.85.....2011年6月4日(土曜)


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サンケイ新聞には教育欄があって、時折「消えた偉人/物語」が掲載される。2011年4月16日の記事は、賀茂真淵と本居宣長(もとおりのりなが)の「松阪の一夜」であった。皇學館大學准教授・渡辺毅さんが執筆されていた。

「松阪の一夜」は戦前の国定教科書に採用されていたので、大正から戦前まで小学校教育をうけた日本人全員が知っている話である。私は戦後生まれだが、やはり「松阪の一夜」は国語の教科書で習っている。

賀茂真淵は万葉集を読み解き「万葉考」を上梓し、本居宣長は古事記を解読して「古事記伝」44巻にまとめ、ようやく万葉集と古事記がほぼ正しく明らかになった。

万葉集や古事記がとりわけ重要な書物であるという認識がなければ、「松阪の一夜」は、老学者が新進の学者と一晩語りあって、新進の学者が「よしやるぞ」と学問をこころざしたというだけの話になる。

万葉集や古事記を読まない人間にとっては、この二人の偉大さはわからない。ハズカシながら、私が万葉集を読み出したのは2年半前から、古事記は1年前からである。だからそれまでは「松阪の一夜」の重さをわかっていなかった。次のところを訪れた。

  1. 新上屋跡(しんじょうや)
  2. 三井家発祥地
  3. 松阪商人の館(小津家)
  4. 御厨神社(みくりや)
  5. 本居宣長旧宅跡・見庵(けんあん)・長谷川家
  6. 松阪市立歴史民俗資料館
  7. 松阪城天主台跡
  8. 本居宣長記念館
  9. 鈴屋(すずのや)
  10. 御城番屋敷
  11. 本居宣長ノ宮・松阪神社
  12. 樹敬寺(じゅきょうじ)
名張を8:27の近鉄特急に乗ると、9:00に松阪駅に着いた。駅前の商店街はまだ店を開けていない。

「松阪の一夜」の話は、小学5年生で習うものとされていた。以下にその教科書の原文の一部を掲げる。

『本居宣長は、伊勢の国松阪の人である。若い頃から読書が好きで、将来学問を以て身を立てたいと一心に勉強してゐた。 或夏の半ば、宣長がかねて買ひつけの古本屋に行くと、主人は愛想よく迎へて、

「どうも残念なことでした。あなたがよく会ひたいとお話になる江戸の賀茂真淵先生が先程お見えになりました。」 といふ。思ひがけない言葉に宣長は驚いて、「先生がどうしてこちらへ。」

(右図)日野町交差点。左右方向の道は伊勢街道、向うへの道は和歌山に通じる。

「何でも、山城・大和方面の御旅行がすんで、これから参宮なさるのださうです。あの新上屋(しんじょうや)にお泊まりになって、さっきお出かけの途中「何か珍しい本はないか」と、お立ち寄り下さいました。

「それは惜しいことをした。どうかしてお目にかかりたいものだが。」 「後を追ってお出でになったら大てい追附けませう。」』

(宣長は松阪のはずれまで後を追ったが追いつけなかった。)

『さうして新上屋の主人に、万一お帰りに又泊られることがあったら、すぐに知らせてもらひたいと頼んでおいた。』

(右図)日野町交差点。「左さんくう(参宮)」、「右わかやま道」と彫った道標がある。

『望がかなって宣長が真渕を新上屋の一室に訪ふことができたのは、それから数日の後であった。二人はほの暗い行灯のもとで対座した。真渕はもう70歳に近く、いろいろ立派な著書もあって、天下に聞こえた老大家。宣長は30余り、温和な人となりのうちに、どことなく才気のひらめいてゐる少壮の学者。年こそ違へ、二人は同じ学問の道をたどつてゐるのである。

だんだん話してゐる中に、真淵は宣長の学識の尋常ではないことを知つて、非常に頼もしく思つた。話が古事記のことに及ぶと、宣長は、

「私はかねがね古事記を研究したいと思つてをります。それについて、何か御注意下さることはございますまいか。」


(右図)中央のピンク色のビルの場所に新上屋はあった。この道ぞいに書店(柏屋)もあった。

「それは、よいところにお気附きでした。私は、実は早くから古事記を研究したい考えはあつたのですが、それには万葉集を調べておくことが大切だと思つて、其の研究に取りかかったのです。 ところが何時の間にか年を取つてしまつて、古事記に手をのばすことが出来なくなりました。

あなたはまだお若いから、しつかり努力なさったら、きつと此の研究を大成することが出来ませう。 ただ注意しなければならないのは、順序正しく進むといふことです。これは学問の研究には特に必要ですから、先ず土台を作つて、それから一歩々々高く登り、最後の目的に達するやうになさい。」』

ビルの前をウロウロと往復して車道側に立つ貧相な「新上屋跡」の石碑を見つけた。

『夏の夜はふけやすい。家々の戸は、もう皆とざされてゐる。老学者の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町筋を我が家へ向かつた。

其の後、宣長は絶えず文通して真淵の教を受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加へたが、面会の機会は松阪の一夜以後とうとう来なかつた。

宣長は真淵の志を受けつぎ、35年の間努力に努力を続けて、遂に古事記の研究を大成した。有名な古事記伝といふ大著述は此の研究の結果で、我が国文学の上に不滅の光を放つている。』

(右図)鯛屋という旅館があった。かつての新上屋もこのようなたたずまいであったのだろう。

引用した文は「小学国語読本・巻11」(「本居宣長とは誰か」子安宣邦 より引用)だが、このもともとの文は万葉学者の佐佐木信綱の「賀茂真淵と本居宣長」で、これを小学生向けに平易な文にしたものである。書き直されているだけに、なぜ宣長が真淵の言葉に感動したのかが伝わってこない。

宣長は、28か29歳のとき真淵の「冠辞考(かんじこう)」という新刊の書物を手に入れた。「冠辞考」は万葉集の枕詞の注釈書である。はじめ宣長はこの本に戸惑った。

(次図)自転車に乗る人の左側に電話ボックスのようなものがあるが、これはちょっと人を驚かすものである。

「玉勝間」で宣長は次のようにいう。

『江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辞考といふ物を見せたるにぞ、県居ノ大人(あがたゐのうし)の御名をも、始めてしりける。

はじめ一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりことゝほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、

猶あるようあるべしと思ひて、立ちかへり今一たび見れば、まれまれには、げにもさもやとおぼゆるふしぶしもいできければ、又立ちかへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに信ずる心の出来つゝ、つひにいにしへぶりのこゝろことばの、まことに然(さ)る事をさとりぬ。』

(右図)ボックスには本居宣長が入っている!

「いにしへの心」を知るには「いにしへの言葉」を正しく取り出し、混じりけのない「いにしへの言葉」によって理解するという方法でなければならない。宣長はそういうことを悟ったのである。その手本は冠辞考であり、真淵の思想なり精神であった。

『師と頼むべき人もなかりしほどに、われいかで古へのまことのむねを、かむがへ出でむ、と思ふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、日にそへてせちなりしに』

古事記から「いにしへの言葉」を取り出して、「いにしへの心」を解明したい。その思いが日々強くなっていった。

(右図)松阪といえば松阪牛。快楽亭・和田光・和田重などの料理屋が軒を連ねている。

その真淵が松阪にやってきた。1763年5月25日(新暦は7月5日)のことであった。

『一年此うし、田安の殿の仰せ事をうけ給はり給ひて、此いせの国より、大和山城など、ここかしこと尋ねめぐられし事の有りしをり、此松坂の里にも、二日三日とどまり給へりしを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみじくゝちをしかりしを、かへるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかがひまちて、いといとうれしく、いそぎやどりにまうでて、はじめて見え奉りたりき。』

思いもかけぬ真淵との対面がかなったのである。


本町へ向かっている。松坂商人のうちでも豪商が店を構えていた町である。

「一夜」で真淵が語ったことを教科書はちょっと省略しているので、宣長が感心したことが伝ってこない。真淵は次のように言った。

『われもゝとより神の御典(みふみ・古事記のこと)をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろ(漢意)を清くはなれて、古へのまことの意(こころ)をたづねえずばあるべからず。

然るにそのいにしへのこゝろをえむことは、古言(いにしへごと)を得たるうへならではあたはず。古言をえむことは、万葉をよく明らむるにこそあれ。』

三井財閥の発祥の地。手前の道は伊勢街道。白塀で囲ってあるが、中に建物はない。三井家の2代までは松阪で味噌・醤油の商いをしていたが、3代目の高利(たかとし)のとき、京と江戸に呉服店を構え、三井財閥の基礎を作った。ここは高利が生まれたところであるらしい。

真淵は、古事記を解き明かすには、@からごゝろ(漢意)を捨てよという。古事記・日本書紀・万葉集は漢字で書かれているが、その漢字から意味を読み取ってはいけない。A当時の言葉(やまと言葉)を取り出さねばならない。Bそれには万葉集を研究することである。Cやまと言葉がわかれば、やまと心がわかる。

こういうことを「一夜」で語ったかと思う。

伊勢街道。

1764年1月、宣長は真淵に入門した。万葉集の質疑応答が手紙によって行われ始めた。通信教育である。万葉集は20巻あるが、巻1から巻20まで順次疑問点を質問したり、自分の意見を出して、真淵が良し悪しを答えるのである。

これが2度(20巻を2回)繰り返され、真淵が死ぬ1年前に終わった。(このやりとりは「万葉集問目」としてまとめられている)

2度繰り返されたのは、初めの解釈が後に疑わしくなって、もう一度解釈しなおす必要があったためであろう。宣長と真淵は万葉集の共同研究者になっていただろうと小林秀雄さんは「本居宣長」の著でいわれている。

「松阪商人の館」。もとは松阪の豪商・小津清左衛門の本宅。

松阪は紀州藩の飛び地であった。藩主は和歌山にあり、松阪には奉行所・代官所が置かれていたが武士は少人数であったらしい。だいたいにおいて武士が少ない町は商業が栄える。代表的なのは大阪である。

パンフレットによれば、松阪を代表する豪商は、三井・小津・長井・長谷川などで、いずれも江戸に出店を持ち、ここで利益を上げていたという。この小津家も1653年に江戸大伝馬町に紙屋を出したのを初めとして、1698年に大伝馬町に木綿屋(伊勢屋)を、1784年に本町に紙屋を開業している。

主人は江戸には行かず松阪の本宅にいるから、松阪には多額の財が集まった。


見世の間から勘定場を見る。

天保年間というから幕末(1830年〜40年ころ)の「大日本持丸長者鑑」という番付表が残っている。住友とか鴻池が載っていないので、大阪と江戸を除く地方の豪商の番付のようであるが、西の大関というべき位置に小津清左衛門の名がある。この屋敷の当主だった人である。(当主は代々清左衛門を名乗っていたようだ)

伊勢の商人を探すと、東の小結くらいのところに大和屋嘉右衛門・田畑屋治郎右衛門、前頭の位置に増井大助・楠見五右衛門・長谷川次郎兵衛・吉文字屋助右衛門といった名がある。なるほど、松阪や伊勢は多くの豪商を輩出している。

(次図)箱階段。

本居宣長は1730年に生まれた。 父の名は定利、母は「お勝」といった。父は江戸に小津屋という木綿店を出していた。江戸に出店を構えていると、紀州藩の千石取りの侍と同じくらいのくらしができたそうである。そういう恵まれた家に生まれた。

しかし11歳のとき定利は江戸で亡くなった。あとをついだのは、養子の定治(宣長の義兄)だが、宣長が22歳のとき、江戸の店は倒産してしまう。

当時の商家は、養子を取って店を継がすことが多かったようである。宣長も19歳のとき、伊勢山田にある紙屋の今井田家の養子になっている。だが宣長には商売に専念する気がまるでなかった。本を読むか、伊勢神宮に何度も参るという過ごしようで、21歳のときに離縁されて松阪へ戻ってきた。その翌年に小津屋が倒産したわけである。

台所。

宣長は江戸に行き、店の家財を整理したが何も残らず、親戚の家に預けていた400両がかろうじて残った。今の価値では7〜8000万円に相当するらしいが、これは貸付金である。全額が手許に戻ったわけではなく、利息を支払ってもらって、宣長一家は生活することになった。そこで、 宣長の母のお勝は、次のような決断をした。

『跡つぐ弥四郎(宣長)、あきなひのすぢには疎くて、ただ書を読むことをのみこのめば、今より商人となるとも事ゆかじ、又家の資も、隠居家(親戚)の店おとろへぬれば、ゆくさきうしろめたし・・・然れば弥四郎は、京にのぼりて学問をし、くすしにならむこそよからめ』


母親は、宣長は商人に向いていないから、京都で医学を学ばせて医者にしようと決意したのである。宣長23歳のときであった。この判断は正しかった。400両を貸していた隠居家の店は1764年に倒産し、宣長家の貸付金はなくなってしまう。

宣長は回顧して、『われもしくすし(薬師)のわざを、はじめざらましかば、家の産絶はてなましを、恵勝(おかつ)大姉のはからいは、かへすがへすも、有りがたくぞおぼゆる』と「家のむかし物語」でいっている。

宣長の生家は、三井家発祥の地(本町)の斜め向かいにあったが、父定利が死んだ翌年に、その裏(魚町)にあった隠居家に移った。

(右図)御厨神社(みくりや)に向かっている。正面の杜がそれらしい。

御厨神社は、建速須佐之男命(たけはや・すさのおのみこと)を祀る本町・中町・魚町の氏神である。魚町に住む宣長は氏子であったので、刊行した古事記伝の全巻をここへ奉納したという。

宣長(当時は弥四郎)は23歳の春、京に上り、儒学者であり医師である堀景山のもとに入門した。堀景山は朱子学者であったが、朱子学を認めない荻生徂徠とも親しく、徂徠が提唱した古文辞学(こぶんじがく)に詳しかった。また実証的方法で古典(万葉集・伊勢物語・源氏物語)を読み解いた契沖(けいちゅう)の著作(百人一首改観抄)を刊行したりしている。

宣長は堀景山のもとで古文辞学を学び、「百人一首改観抄」を読んで、日本の古典も実証的方法によって解明できることを知っただろう。

拝殿。その奥に神明造の本殿がある。

堀景山に入門した翌年から医学を学んでいる。当初は堀元厚から医書の講義を受け、ついで武川幸順(たけかわ・こうじゅん)宅に寄宿して医術(小児科)と薬学を学んだようである。

堀景山宅に寄宿したとき、宣長は姓を「小津」から「本居」に変えた。5代前の先祖は本居武秀という武士で蒲生氏郷(がもう・うじさと)の家臣であったが戦死した。懐妊中の妻は小津村の木綿商のもとへ身を寄せ子を産んだ。以来武秀の子は小津姓となっていたのである。2年後に名も弥四郎から宣長に変えた。

5年半京都で学んだあと、1757年10月に松阪に帰り、魚町の自宅で医者を開業する。


魚町の宣長の旧宅跡に向かっている。川は阪内川(さかない)。手前の朱色の橋は伊勢街道、次に架かる橋は魚町に通じている。

古代日本には文字がなかった。初めて日本語を文字で表わしたのは、中国人である。魏志倭人伝に「邪馬壹(やまと)」とか「卑弥呼(ひみこ)」が書かれているが、「やまと」や「ひみこ」という日本語の発音に漢字をあてたわけである。

日本に漢字がもたらされたのは、応神天皇の時代で、百済人の王仁(わに)が論語10巻、千字本1巻を持ってきたという。 「日本語の奇跡」(山口謡司)によれば、千字本は西暦500年ころにできたので、応神天皇のころにはまだなかったそうであるが、ともかくこのときから日本人が漢字を使って日本語を表記することができるようになった。

魚町通り。 「かなづかい入門」(白石良夫)は次のようにいう。

『それは最初、中国人がしたように、日本語の音と共通する漢字の音をあてるという方法であった。日本語のアを表記するのに「安」や「阿」などを使い、カを表記するのに「加」や「可」などを使い、シを表わすのに「志」「之」「斯」などをつかう。このばあいも漢字のもっている意味は関係しない。日本語のココロを「許己呂」、カハを「可波」、サクラを「佐久良」と表記するごときである。』

この使用例は漢字の音を借りているので「借音(しゃくおん)」という。漢字はひと文字ごとに意味を持っている。表意文字である。漢字になれてくると、例えば「心」とか「情」という文字が日本語のココロに近いことがわかってくる。そこで「心」と書いて「ココロ」と読むようになる。この場合は「借訓(しゃっくん)」である。

「特別史跡・本居宣長宅址」の石碑がたっている。テレビのカメラマンが来て、子供がボランティアの説明を聞いているところを撮影していた。

万葉集は、日本語の発音と同じ発音の漢字をあて字にした「借音」と、意味がだいたい同じで発音が異なる漢字をあて字にした「借訓」の2種類によって書かれている。これは古事記や日本書紀でも同じである。

例えば、志貴皇子の歌(3-267)は次のような万葉仮名で表記されている。

  牟佐〃婢波  木末求跡  足日木乃
  山能佐都雄尓 相尓来鴨

読み下すと、
  むささびは  こぬれ求むと あしひきの
  山の猟夫(さつを)に あひにけるかも

「牟佐〃婢波(むささびは)」は一字が一音をあてているので、借音である。「木末求(こぬれもとむ)」は借訓、「跡(と)」は借音。「足日木乃(あしひきの)」の足(あし)は借訓。「日木乃(ひきの)」は一字一音だが、「日」の音は「ひ」ではない。「じつ」とか「にち」である。よって借訓。同じく「木」や「乃」も借訓。

「山(やま)」は借訓、「能佐都(のさつ)」は借音、「雄(を)」は借訓、「尓(に)」は借音、「相(あひ)」は借訓、「尓(に)」は借音、「来鴨(けるかも)」は借訓。



(上図)宣長の鈴屋(すずのや)が建っていたところ。鈴屋は明治42年に松阪城公園に移築されていて、今は礎石が残っている。(右図)は移築される前の写真。

このように借音と借訓が入り混じって表記されているので、すんなりとは読み下せない。 さらにいうと、上の歌は一応は文字からことばを取り出すことができるが、ことばを追加しないと意味がわからない歌もある。例えば前回No.84 葛城市・忍海から新庄で取り上げた葛城山の歌は次のものである。

  春楊(はるやなぎ)  葛城山に   立つ雲の
  立ちても坐(い)ても  妹をしそ思ふ (11-2453)

これを万葉集は次のように書いている。 

  春楊  葛山  發雲
  立座  妹念

読み下しでは5・7・5・7・8の32文字になるが、たったの漢字10文字で32文字を代用している。「テニヲハ」を補わなければ歌にならない。不足していることば(助詞)をどう補うかによって意味が違ってくる。こういう歌は「略体歌」と呼ばれる(先の志貴皇子の歌のように助詞を省略していない歌は「非略体歌」と呼ぶ)。

(右図)宣長の旧宅と道を挟んで「見庵」がある(貼り紙がしてある家)。小泉見庵(けんあん)は宣長の友人で同業の医師であった。向かいの小泉家の医者の繁盛ぶりを見て、宣長も医師として身を立てようと決めたという説がある。

「見庵」の隣の長い塀は、松阪の豪商であった長谷川家。

略体歌も正しく読み下すことは難しいが、漢字をどう読めばよいのかわからない歌もある。例えば柿本人麻呂歌集にある次の旋頭歌(11-2362)である。

  開木代  来脊若子  欲云余
  相狭丸  吾欲云    開木代来脊

読み下しは、
  山城の  久世の若子(わくご)が  欲しといふわれ
  あふさはに  われを欲しといふ    山城の久世

「開木(やま)代(しろ)」と読む。「開木」は山であるらしい。「相狭丸」は「相(あふ)狭(さ)」までは読めても、「丸」を(わ・は)と読むのはクイズのようである。丸い→輪の連想であろう。

こう読み下して、ようやく「山城の久世(地名)の若者が嫁に欲しいという私。逢ったとたんに(一目ぼれして)私を欲しいという山城の久世」の意味であると判るのである。

こういうわけで、 平安初期になると人は万葉集を読むことができなくなっていた。

(右図)宣長の旧宅跡から4〜500mのところにある松阪城跡に向かう。正面に石垣が見える。

松阪城は蒲生氏郷(がもううじさと)が1588年に築城した平山城である。小高い丘の上にカタツムリの殻のようにグルグルと石垣を巡らしてある。

大手門(表門)があったところ。正面に高い石垣が聳えている。「街道をゆく(33)白河・会津のみち」で、司馬さんは蒲生氏郷について語っている。それによると、蒲生氏は近江の名族で5〜6万石を領する大名であったが、織田信長が近江に進出したときその傘下に入った。

外様であったので、嗣子の氏郷を織田家に出したところ、信長は聡明な氏郷を気に入り、14歳のとき信長の三女の冬姫の婿にした。氏郷は織田家の合戦に従軍し、出陣のつど手柄をたてた。

豊臣秀吉が天下を取ったとき、氏郷に伊勢松阪12万石を与えた。氏郷が33歳のときである。それまでこの地方を統治する城は伊勢湾に近い松ケ島にあったのだが、氏郷はこの地に新たに城を築き、城下町を作った。


天主台跡。

秀吉はすべての商品の市を大阪で立てることによって、天下を統治しようとした。これを見習って、氏郷も松阪を小さな大阪にしたかったのであろう。

まず、参宮街道を城下を通るように付け替え、旧城のあった松ケ島の商人を移住させ、近江の日野から商人を呼んで日野町に、伊勢大湊から海運業者を呼んで湊町に住ませた。

こういった町割りをした上で、楽市楽座の制度を取り入れ、自由に商工業を営むことができるようにしたのである。氏郷はこの地を 、秀吉から大坂の「坂」の字を貰い「松坂」と名づけた。(今は大阪・松阪になっているが)



石垣の上から見下ろすと歴史民俗資料館がある。もとは図書館として使われていた明治の建物である。

松坂の「松」の字は旧城のあった松ケ島の「松」から取ったのではない。

氏郷は松阪には6年しか居なかった。秀吉は奥州の押さえ役として、氏郷を会津に転封させた。石高は60万石(後に90万石)であったという。 会津に入った氏郷は、黒川の地に7層の天主閣を持つ、奥州最大の城を築き、この地を「若松」と名づけた。 氏郷は「松」の字が好きだったのである。

氏郷はこの後ほどなくして発病し、42歳で亡くなった。墓は会津若松の興徳寺にあるそうである。

本居宣長記念館と魚町から移築された鈴屋は、隠居丸という廓(くるわ)にあるそうだが、なにしろカタツムリの殻のような城郭である。どう歩いているのかがつかめないまま、道なりに下っていく。



(右図)門がある一画が隠居丸である。ようやくたどりついた。

万葉集に話を戻す。951年に村上天皇は、源順(みなもとのしたごう)や清原元輔ら5人(梨壷(なしつぼ)の五人と呼ばれる)に万葉集の解読を命じている。これによって、ある程度の解読が進んだかと思われるが、万葉集の注釈書は残っていない。

伊藤博さんの「万葉集・釈注」は、万葉集の巻1〜巻20までのすべての歌を註釈されている大著である。600頁〜900頁の厚さの本が10冊ある。その1冊目の冒頭に、釈文や補注に引用した本が、時代順に掲げられている。主だったものを掲げると、次のものである。

  1. 万葉集註釈 (仙覚) 抄出・1269年
  2. 万葉集菅見 (下河辺長流) 抄出・1661年
  3. 万葉拾穂抄 (北村季吟) 全歌・1686年
  4. 万葉代匠記 (契沖) 全歌・1687年
  5. 万葉集童蒙抄 (荷田信名) 巻2〜巻17・1735年
  6. 万葉考   (賀茂真淵) 巻1・2と巻11〜巻14・1760年
  7. 万葉集玉の小琴 (本居宣長) 巻1〜巻4・1779年
  8. 万葉集略解 (橘千陰) 全歌・1800年
  9. 万葉集古義 (鹿持雅澄) 全歌・1842年
(注釈書の成立年と注釈の対象になっている歌については、群馬県立女子大学・文学部・北川研究室 のHPの「万葉集の主な注釈書一覧」を参考にした。)

(右図)隠居丸跡。手入れして庭のようにしてある。

鈴屋(すずのや)があった。ボランティアの人がいて、鈴屋を見学するには、先に本居宣長記念館にいって入館料を払ってきてくれという。

万葉集や古事記に表記されている漢字のうち、借音した漢字から「ひらかな」と「カタカナ」が生まれたのは平安初期である。

ア音を表記する漢字は「安」や「阿」が使われていたが、「安」をくずして「あ」というひらかなが生まれ、カ音を表記する「加」から「か」が生まれた。

「阿」のコザト偏を取り出して「ア」のカタカナが生まれ、「加」から「カ」が生まれた。これによって、日本語の発音がひらかな・カタカナで表記できるようになった。


鈴屋の前を素通りして、本居宣長記念館へ向かう。雨に濡れないように渡り廊下が設けられている。右側の石垣は「きたい丸」。正面に記念館がある。

しかしその後混乱が起きる。日本語の発音が変化し、「い・ひ・ゐ」「え・へ・ゑ」「お・ほ・を」「じ・ぢ」「ず・づ」の区別がつかなくなってしまった。仮名遣いの問題である。

熟田津尓     船乗世武登  月待者
潮毛可奈比沼  今者許芸乞菜

熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと  月待てば
潮(しほ)もかなひぬ 今は漕ぎ出でな  (1-8)

額田王の有名な歌である。

「潮もかなひぬ」であって「かないぬ」や「かなゐぬ」でないことは、「可奈比沼」と「比」の字をあてていることからわかる。

次に「潮」をどう読み下すかである。「しお」「しほ」「しを」の3通りが考えられる。どれが正しいかは、別の歌で潮を借音した字を探せばわかる。人麻呂の有名な次の歌がある。

鳴呼見(あみ)の浦に  船乗りすらむ  乙女(をとめ)らが
玉裳(たまも)の裾に  潮(しほ)満つらむか  (1-40)

万葉集は次のように表記している。

鳴呼見之浦尓  船乗為良武  撼嬬等之
珠裳乃須十二  四宝三都良武香

(「撼」は正しくはテ偏ではなく女偏だが、文字がなかった)

「潮」は「四宝」と表記されている。ここから潮は「しほ」と読むのが正しいことがわかる。逆に「四於」と表記してあれば「しお」と読み、「四乎」と表記してあれば「しを」と読むので、どちらも潮(しほ)を意味していないと判断できる。

万葉の時代、「かなう(叶う)]は「かなふ」であったし、潮は「しお」でも「しを」でもなく「しほ」であったのである。

契沖はこういう実証的な方法で古代の言葉を取り出し、万葉集の全歌の注釈をした。契沖より100年ほど後に、もっと細かなことを調べ、解明したのが賀茂真淵・本居宣長である。

(右図)記念館前に「史跡 新上屋跡」の大きな石碑があった。先代の石碑は立派である。


記念館は実に見ごたえがあった。なにしろ本居家から松阪市に寄贈された著書・蔵書・歌集・書簡・自画像・版木・遺品など16000点を所蔵しており、うち467種1949点が国の重文なのである。1時間ほど陳列物を見た。次のものが印象深かった。
  1. 細かな字で書き込みがされている蔵書(古事記・日本書紀・万葉集)
  2. 古事記伝の版木
  3. 宣長44歳自画自賛像
  4. 人麻呂の吉野の歌を賛とした人麻呂像
  5. 真淵と質疑応答した「万葉集問目」
  6. 真淵を祀るために書いた「縣居大人之霊位」の軸


鈴屋に戻ってきた。記念館であれこれと陳列物を見たり、説明を読んだりしていると、3人連れ(男1人女2人)が展示室に入ってきて大きな声でしゃべりだした。「字がきれいだ」とか「薬箱がある」だとか、たわいないことをしゃべるのである。

あまりうるさいので注意をしようかと思ったほどだが、連中からできるだけ離れて見学した。

その3人連れと鈴屋で一緒に見学する羽目になった。鈴屋に戻ると、さっきのボランティアの人が私を手でこまねいて、3人連れに加えて説明を始めたからである。

塀の奥に中2階といった小部屋が窓を開いている。これが宣長の書斎、つまり鈴屋(すずのや)である。

鈴屋の前に1.5mほどの高さの石垣があって、手すりがついている。見学者はここに登ってボランティアのガイドさんの説明を聞く。見る位置が高いので、鈴屋の内部が見える。

鈴屋の奥に床の間があり、「縣居大人之霊位」の軸が掛けてある。 さっそく3人連れの一人が「あれはなんと読むのか、ケンキョ・オトナ?」としゃべりはじめた。これは黙らせねばならんと、私は「アガタイのウシのレイイ」と読み上げた。

ガイドさんは、これを受けて「県居大人とは賀茂真淵のことです。住んでいた家を県居と呼んでいました」と説明を続けた。

28歳の宣長は京都から戻ると、すぐに医者を開業した。内科と小児科が専門であったらしい。このほか薬剤を調合して、「小児胎毒丸」とか「家伝あめぐすり」なる薬を販売している。

家に入ると6畳の「店の間」がある。診察室である。実際は往診することが多かったという。

次にしたことは嶺松院(れいしょういん)の歌会に参加したことである。宣長は歌会が好きであった。歌会では予めあるいはその場で題が提示され、この題にそった歌を詠むのであるが、その題は「雨中苗代」「恋月」「寄魚恋」のように、詠い難いもの、恋を題にしたものが多い。

歌会は、難しい歌を詠みこなす技巧を競う文化的なサークルであった。したがって詠われた歌は当世風で、技巧の勝った歌であった。(「本居宣長とは誰か」子安宣邦)


手前は6畳の「中の間」。薬を調合した部屋だそうだ。奥の4畳間は息子の春庭(はるにわ)が失明した後に居た部屋。

宣長はいくつかの歌会に積極的に参加し、また自分でも歌会を催している。宣長は29歳のとき、親しくなった歌会のメンバーに「源氏物語」の講釈を始めた。初めての講釈である。賀茂真淵に入門するまでに、どういう古典の講釈をしたのかを調べると次のようである。
  1. (29歳)4月「源氏物語」を開講。
  2. (30歳)3月「伊勢物語」開講、12月終了。通年で「源氏物語」講釈。
  3. (31歳)1月「土佐日記」開講、5月終了。5月「枕草子」開講。10月「百人一首改観抄」開講、12月終了。



「奥の間」。鈴屋ができたのは宣長53歳の冬である。それまでは奥の間を書斎にしていたという。床の間に掛かる軸は「宣長61歳自画自賛像」。本物なら重文である。ガイドさんに「重文ですね」と尋ねたら「そうです」と答えたが、ここにあるのはレプリカであろう。
  1. (32歳)5月「万葉集」開講。5月「枕草子」中断。通年「源氏物語」講釈。

  2. (33歳)通年「万葉集」講釈(4月巻ニ終わる)。通年「源氏物語」講釈。

  3. (34歳)通年「万葉集」講釈。(2月巻三終わる)。
    (5月「松阪の一夜」)。通年「源氏物語」講釈。


台所から鈴屋を見上げる。人の頭上にある白壁が鈴屋。人の前にある箱階段を登って、鈴屋に入る。箱階段は1段の高さが30cmくらいあって急である。

真淵に逢う前にした講釈は平安期の物語が多い。真淵に逢う2年前からようやく万葉集の講釈を始めている。万葉集の巻3の講釈が終り、巻4まで進んでいたときに「松阪の一夜」になったようである。

「一夜」から宣長は古事記の研究に着手した。古事記の解明には万葉集によって「やまとことば」を明らかにせねばならない。万葉集から「やまとことば」を採集し、分類し、訓みくだし、疑問点を真淵に聞く。一方で古事記をやまとことばで解釈する作業をする。当然に医者の仕事(往診・調剤)がある。歌会にも出席しなければならぬ。大忙しである。


宣長が鈴屋で使っていた行灯、とガイドさんはいっていた。光源はローソクではなく油である。

宣長はこれに加えて、古典の講釈をするのである。それも月に1回2回というのではない。本居宣長記念館の「宣長ワールド・解説項目」で「講義」の項目を見ると、例えば1764年は、「日本書紀」の講釈の定日は8日、「源氏物語」は2日,6日,10日が定日、「万葉集」の定日は4日であったとある。

つまり1764年の2月は、@2日「源氏」、A4日「万葉」、B6日「源氏」、C8日「書紀」、D10日「源氏」、E12日「源氏」、F14日「万葉」、G16日「源氏」、H18日「書紀」、I20日「源氏」、J22日「源氏」、K24日「万葉」、L26日「源氏」、M28日「書紀」、と29日のうち14日講釈しているのである。超人としかいいようがない。

鈴屋を出て隠居丸からニの丸へやってきた。休憩所があったので腰掛けて休む。

真淵は、万葉の時代の心を知るには、やまと言葉を使って万葉風の歌を詠めるようにならなければならないと思っていた。宣長と書簡による質疑応答が始まったとき、宣長の歌も添削している。

宣長は万葉風の歌はそう好きではなかったようだ。好みは歌会で詠むような古今から新古今の流れを汲む当世風の歌である。真淵としては、万葉集の理解のために万葉風の歌を基準にして添削するのであるが、宣長は自分の好みの歌のスタイルを変えない。

前掲の「本居宣長とは誰か」に書いてあったが、宣長が

  夕あらし  はつせの花や  さそふらん
  袖に散りくる 入相の鐘

と詠んだ歌を書き送ると、真淵は「歌ともなし」とそっけない評価をした。(入相の鐘とは夕暮れに寺でつく鐘の音のこと)

別の歌が送られてきたときは、『いひなし。はいかい也。』いいようがない。これは俳諧である。ついで『是を好み給ふならば、万葉の御問も止め給へ、かくては万葉は何の用にもたたぬ事也。』と怒っている。

歌についてはすれ違が大きい師弟であった。

(右図)ニの丸から見降ろすと2筋の長い屋根が見える。御城番屋敷の屋根であろう。


搦め手門(裏門)跡から松阪城公園を出た。

宣長は「松阪の一夜」以来古事記の解明に打ち込み、古事記伝44巻が完成したのは、1798年、69歳のときである。真淵に逢ってから36年目のことであった。

国学は、日本固有の文化とか精神・思想を追求する学問である。万葉集・日本書紀・古事記を、外来の思想である儒教や仏教の思想を通して解釈しても日本固有の文化・思想は明らかにはならないという考えが根底にある。

ではどうすればいのか。古代のやまとことばは漢字を借りて表記されているが、借りかたには「借音」「借訓」の2とおりがある。これを正しく判読すれば、やまとことばを取り出せる。それを注釈していけば、古代の純粋な日本の心がわかる。

正しく判読し、解釈するには実証主義的な方法をとらねばならない。その草分けが万葉集を注釈した契沖である。ついで荷田春満(1669-1736)であり、その弟子の賀茂真淵(1697-1769)である。

真淵は万葉集からやまとことばを明らかにし、古事記を解明しようとしたが、古事記まで進めなかった。 真淵の弟子の本居宣長(1730-1801)は古事記を明らかにし、古代日本を見、その精神に同化した。

平田篤胤(1776-1843)が宣長の著作を知ったとき、宣長はすでになく、宣長の養子の本居大平の弟子となる。この篤胤の思想は尊皇攘夷の支柱になり、日本を大きく動かしていくことになる。

(右図)隠居丸の石垣に沿って本居宣長ノ宮へ向かう。

四五百森(よいほのもり)の前に鳥居がある。 宣長が神として祀られたのはいつのことであろうか。早ければ尊皇攘夷が盛んになった幕末か、国家神道が進められた明治の初めであろうと推測した。調べてみたら、次のようであった。
  1. 明治4年、宣長の山室山奥墓の傍らに祠を建てた。
  2. 明治8年、奥墓の横に宣長を祭神とし、平田篤胤を合祀する山室山神社が創られた。
  3. 明治22年、現在の松阪市役所の近くに移った(社域拡張)。
  4. 明治36年、県社となる。
  5. 大正4年、この四五百森に移る。
  6. 昭和6年、本居神社に改称する。
  7. 平成7年、本居宣長ノ宮に改称する。

本居宣長ノ宮の拝殿。先にあげた@荷田春満、A賀茂真淵、B本居宣長、C平田篤胤は「国学の四大人(うし)」と呼ばれている。そしてこの4人はいずれも神社に祀られている。

荷田春満(かだのあずままろ)は、明治15年に「東丸神社」(京都市)に祀られている。

賀茂真淵は死後そう遅くない時期に、真淵の実家の賀茂神社の境内に祠が創られていたようである。明治16年に「県居神社」に改称。大正13年に遷座(浜松市)し、昭和3年に県社となる。

平田篤胤は、明治14年に平田神社に祀られる。明治42年に改称して弥高神社になり、大正5年に遷座(秋田市)。大正8年に県社となる。


国学はその後、日本の天皇制度を絶対化するために利用されていくことになる。利用度が高くなるほど、彼らを祀る神社の社格は上り、大きくなっていったことは、神社の変遷の年号を見ればあきらかである。

(右図)神社を出たら「本居庵」という料理屋があった。「自然生(じねんじょ)料理」と暖簾にある。麦めし・とろろ汁(950円)をたべる。一口食べて「ああうまい」。なかなかの味である。

お櫃からお碗に麦飯をよそうと、2椀分あった。ごはんを2杯も食べたのは、この10年間で一度もない。 食べ終わって、「おいしかったです」と勘定を払うと、店の女主人が、「うちの料理は添加物を入れたものは一切使いません。醤油も和歌山から買い付けています」という。


「そういえば和歌山の湯浅に行ったとき、山長という大きな古い醤油屋があったな。」「そう、湯浅のカネチョウから買っています。」
ヤマチョウとカネチョウは違うと思うが、これをきっかけに10分ほどの立ち話になる。

本居宣長記念館に最も近い食堂であるから、見学のあとで食事に立ち寄る観光客があるだろう。知らぬまに耳学問をした女主人は「古事記は漢字で書かれているんですか?」と問うてきた。「そう古事記も日本書紀も万葉集も、全部漢字。仮名はひとつも使われていない。それを解読したのが本居宣長。」

「宣長とケンカした人がいましたね。誰だったかな」「それは上田秋成」。女主人は感心したが、なにこの1週間「本居宣長(上)」(小林秀雄)を読んで仕入れたニワカ知識である。


搦手門(からめて)まで引き返して、御城番屋敷前の道を南下する。

「松阪城御城番」という役職の40石取りの紀州士が住んでいた武家屋敷である。道を挟んで2棟があり、1棟に10戸がある長屋風の建物である。各戸は槙の生垣で囲われている。

長屋の武家屋敷は珍しいので、国の重文に指定されている。ただこの御城番屋敷は、もめごとによって紀州藩を離れ浪人していた元藩士を、1863年に復帰させると同時に建てたというから、確かに江戸期の建築物には違いないが、明治維新のわずか5年前の建物である。そう古い物ではない。

松阪には同心町(いまは殿町)があって、ここに60戸の同心が住んでいたそうである。ここへ城代・奉行などを加えても松阪の武士は200人はいなかっただろう。

本居家の菩提寺である樹敬寺に向かっている。 御城番屋敷から和歌山街道にでて、10分ほど歩いてから、だいたいこの辺りだろうと折れ曲がったら、墓地があった。

樹敬寺(じゅきょうじ)の墓地である。門の柱の右に「鈴屋大人月参墓」とある。おお、ここか。

宣長は71歳で亡くなったが、その1年前に遺言状を書いている。それによると、@墓は代々の菩提寺である樹敬寺に造れ、A戒名は考えている。B毎月の忌日に墓参りをせよ。

次にC山室山にある妙楽寺の上の山頂近くに墓地を買ってあるから、そこに葬れ、Dその墓はこのように作れ、と図入りで説明しているのである。つまり宣長の墓は2つある。

結構広い墓地である。広い墓所がいくつかあったので行ってみたが、かつての松阪商人の墓であろう、宣長のものではなかった。墓参りに来ている人が3人ほどあったので、ひとりに宣長の墓を尋ねた。

小さい墓であった。中央の高い石碑には「史跡 本居宣長墓」と彫ってある。その左側の低い墓が宣長とその妻(お勝)の墓である。 右側は長男の春庭とその妻の墓である。宣長・春庭親子は背中合わせに並んでいる。

宣長はこの墓についても細かく指示している。墓石の表には夫妻の法号を、両脇にはそれぞれの没年月日を、裏面には「本居春庭建」と刻せ。また仏式であるから花筒を忘れるな。

宣長の法号は「高岳院石上道啓居士」、妻の法号は「円明院清室恵鏡大姉」である。

「高岳院」は、宣長は高い岳を究めたと思っていたのか、研究の成果である古事記伝は高く聳え続ける不朽の書であると自負していたのか。「石上」はこの法名の場合は「せきじょう」か「しゃくじょう」と読むのだろうが、宣長の意とするところは「いそのかみ」であろう。天理の石上神宮(いそのかみ・じんぐう)の「いそのかみ」である。

「松阪の一夜」の前後に、「石上私淑言(いそのかみささめごと)」(重文)という和歌について書いた著作がある。 また自身が詠んだ歌を自選してまとめた「石上集」もある。「いそのかみ」は宣長が古代を思うときのキーワードのようなものであったのかも知れない。

(右図)樹敬寺は浄土宗知恩院の末寺で大きな寺である。 法号は宣長が自らつけて、遺言に書いたのだから、当然にその文字は残っている。墓石の字は宣長の手によるものである。

宣長が書き残した書は膨大なものである。学問の著作だけでなく、歌会などで詠んだ1万首といわれる歌、日記、旅日記、「済世録」という帳簿などなどで、お陰で宣長が何年何月何日に何をしたかということがほぼわかるのである。記録魔であった。

シロートが思うに、何事につけ記録し文字に残してきた宣長であるから、自分の死後に他人が自分の法号をつけ、他人の手による文字を墓に彫られることが嫌だったのではなかろうか。そのために遺言書を残したのではないか。

境内にはXX院跡の立て札が5つくらいあったように思うが、いちいち見てはいなかった。ところが一画に歌碑のようなものがあったので、近づいてみると、なんと嶺松院跡(れいしょういん)の立て札である。

宣長が京都遊学から帰ってすぐにしたことは、嶺松院の歌会出席であった。嶺松院は樹敬寺とは別のお寺だと思っていたから驚いた。どうりで地図で探してもなかったわけである。

  しめやかに  けふ春雨の  ふる言を
  語らん嶺の  松かけの庵      舜庵(宣長の号) 

このような歌であった。春雨の降る(ふる)→古言(ふること)に掛かって、「ふる言」→「語らん」に繋がる。それから「語らん」→「嶺の」→「松かけの庵(いお)」に繋がるのだろう。

「嶺の松」は嶺松院を詠いこんだものに違いないが、「語らん嶺」とどう繋がるのか、和歌のシロートにはわかりかねる。

妄想するならば、宣長が自ら法号を「高岳院・・・」としたように、大きな仕事をしているのだという自負はあったと思う。古語(やまとことば)を研究して高い嶺に到達したい(あるいは達成した)の気持ちが入っているのか。

「松かけの庵」は「松陰の庵」であろう。松阪は蒲生氏郷が命名した町である。その「松」阪の城下で、やまとことばを解明している庵がある。

そう考えると初句の「しめやかに」が出てきたこともわかる。「しめやか」とは「ひっそりと、もの静かに落ち着いている」という意味である。


宣長は淡々と古代を研究した。その業績は富士山ほどに高かったのだが、学問というものはなかなか世間では評価されるものではない。 宣長にとっては、自分がなしたことは自分が評価すればよいことであって、他人がする評価はどうでもよかったのであろう。

自身は松の木の下にいて、思うとおりに学問を究めればよい。それが「しめやかに」の初句となっている。この歌から、そういった宣長の心境を引き出すのは無理であろうか。

(右図)伊勢街道と和歌山街道が交差する日野町交差点に戻ってきた。私のテクテクは現地でだいたい8時か9時にスタートして6時間ほど巡ると決めている。今日は9時にスタートしたが、もう3時に近い。6時間になろうとしている。時間があれば山室山の奥墓(おくつき)に行く予定であったが時間切れである。

山室山は地図で見ると、松阪駅から8〜9Km離れたところにある。バス路線もない。車なら15分かかるだろう。そこから山室山の奥墓へは山道を徒歩で登らねばならない。それがどのくらいの時間がかかるかである。15分とすれば、つごう片道30分、往復60分。

迷った末、松阪駅前からタクシーに乗った。小林秀雄さんが同じくタクシーに乗って行き先を「本居宣長の奥墓」と告げたところ、松阪生まれの運転手はそれを知らなかったと「本居宣長」で書かれていた。私が乗ったタクシーの運転手さんは、さいわいなことに奥墓を知っていた。

ただ念のために地図を示して、この道を行ってくれと頼んだ。その道は地図でみる限り、まっすぐに奥墓に通じているのである。運転手さんは初めての道であったようである。

山道が始まるところには小型の観光バスが数台駐車できるような広場があった。運転手さんにここで待ってもらうように頼んで、山道を登る。

すぐに妙楽寺に着いた。妙楽寺は樹敬寺の隠居寺であったらしい。住職と宣長は親しく、宣長は妙楽寺の裏山の山室山の頂上の一画を譲ってもらったのである。 一画とは7尺×7尺の面積である。1坪あまりである。山の中の墓所にしては狭い。

宣長は奥墓について次のように遺言している。@4尺ばかりの石碑を建て、前面に「本居宣長之奥墓」と掘るように、石碑の裏や脇には何も書くな。A石碑の台は一重にせよ。石碑の前に花筒は立てるな。

B石碑の裏には塚を築いて芝を伏せ、山桜の木を1本植えよ。もし桜が枯れたならば植え替えをすること。 C7尺四方の墓所の境には延べ石で囲いたいが、材料費がかかるだろうから、当分の間は丸石を拾い集めて並べておけばよい。

妙楽寺からしばらくは杉並木の石段を登って行けたが、その後は山道になった。

宣長は遺言を書く前に、山室山に墓所を決め、次の2首の歌を詠んだ。

  山むろに  ちとせの春の  宿しめて
  風にしられぬ  花をこそ見め

  今よりは  はかなき身とは  なげかじよ
  千代のすみかを  もとめえつれば

宣長が自筆したこの歌は妙楽寺に残っているそうである。山室山に千年の住みかを得た。ここがわが魂が宿るところである。ここで山桜の花を見続けようと詠っている。


再び石段になった。これを登れば奥墓があるのだろう。 宣長は古事記に書かれていることは真実であると信じていた。人が死ねばどうなるのか? 次のようにいう。

『御国にて上古、ただ死ぬればよみ(黄泉)の国へ行く物とのみ思ひて、かなしむより他の心なく、これを疑ふ人も候はず、理屈を考える人も候はざりし也。さて其よみの国は、きたなくあしき所に候へ供、死ぬれば必ずゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也。』

小林秀雄さんのいわれるところでは、「死者は去るのではない。還って来ないのだ。というのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事ができない、という意味だ。それは死という言葉と一緒に生まれて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。

宣長にしてみれば、そういう意味での死しか、古学の上で、考えられはしなかった。死を虚無とする考えなど、勿論、古学の上では意味をなさない。死という物の正体を言うなら、これに出会う場所は、その悲しみの中にしかないのだし、悲しみに忠実でありさえすれば、この出会いを妨げるような物は何もない。」

(右図)登りつめると奥墓があった。だが7尺四方ではない。10m×10mくらいの領域が木の柵で囲ってある。

死ねば人は誰でも黄泉の国に行くといった宣長が、山室山が千代の住み家であると決めたのはおかしい。ただ遺言書で、樹敬寺と山室山奥墓の2つを作り、樹敬寺には親族が墓参するように、そして他所他国の人が私の墓を尋ねたら妙楽寺を教えてくれ、といっている。山室山に宣長らしい、宣長をイメージできるような墓を建てたかったのだろう。

山室山に墓参した者は、宣長の死をいたみ、宣長を偲ぶ。そのとき黄泉の国へ行っている宣長の魂は墓参者の心によみがえるのである。魂とは悲しんだり、思い出したりしてくれる人を通じてあるものであろう。 千年の間墓参するものがあれば、宣長の魂はこの場所に千年宿っていることになるのである。

(右図)宣長の奥墓(おくつき)の左側に歌碑がある。宣長没後の弟子の平田篤胤のものである。万葉仮名で書かれているが、読み下せば次のものである。

  なきがらは いずこの土に  なりぬとも
  魂は翁の  もとに往かなむ

どこで死のうとも篤胤の魂は、この山室山に戻ってくるぞ。

宣長記念館を見学して、おそらく宣長の業績は我が国で最高峰だろうという感を強くした。巨人である。惜しむらくは古事記、とくに神代の神々の事跡をまことのものとし、日本は特別な国であり、それゆえに万国の宗国であるとしたことである。

この思想は、宣長の死後、尊王攘夷ついで軍国主義のバックボーンになっていくのだが、その歴史の過ちをもって、それまで解読できなかった古事記を明らかにした宣長の業績を否定できるものではない。 宣長が古事記の記述が真実であると思わなかったなら、古事記は永久に読み解かれることはなかっただろう。それほど宣長は古事記にのめり込んだのである。

4時に松阪駅に戻った。少し余韻にひたっていたかった。電車を1本ずらして、駅のベンチに腰掛けてウィスキーの水割り1缶をゆっくり飲んだ。今日の万歩計は17800歩だった。



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