葛城市・忍海から新庄

    No.84.....2011年 5月15日(日曜)


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5〜6世紀ころ奈良盆地には右図のような豪族が割拠していたといわれている。

天皇家は三輪山から龍王山にかけての山裾が根拠地で、今の地名では巻向(桜井市)・柳本(天理市)・長柄である。そこには箸墓・景行天皇陵・崇神天皇陵・手白香皇女衾田陵などの巨大古墳がある。中心は大和神社(おおやまと)がある長柄であったらしい。

大伴氏の根拠地ははっきりしないが、三輪山の山裾から西側のあたりと推測されている(日本の歴史・井上光貞)。

物部氏は天理市の石上神宮を中心にした一帯が根拠地であったらしい。

盆地北部、今の奈良市には和珥(わに)氏があった。ここにはウワナベ古墳群・佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群が残る。

平群氏は生駒山・信貴山と矢田丘陵の間の地を根拠地として、いまでも生駒郡平群町の名をとどめている。

葛城氏は葛城山・岩橋山・ニ上山の山裾が根拠地で、御所市(ごせ)・葛城市・香芝市(かしば)・北葛城郡広陵町と広い。古墳は北の広陵町に馬見(うまみ)古墳群が、南の御所市に宮山古墳を筆頭にして葛城古墳群がある。葛城氏の中心地は葛城一言主神社がある御所市森脇のあたりだったろう。

これら有力豪族は一時は栄え、そして没落していくのだが、滅びた(あるいは凋落した)順は、@葛城氏、A平群氏、B大伴氏、C物部氏、D蘇我氏、のようである。(和珥氏・巨勢氏は天皇家とそれほど密着していない)

前回は蘇我氏に関係ある土地を歩いたが、今日は葛城氏に関係のある土地を歩いた。
  1. 葛城市歴史博物館
  2. 角刺神社
  3. 脇田天満宮(地光寺跡)
  4. 笛吹神社(葛木坐火雷神社・かつらきにいます ほのいかづち)
  5. 屋敷山古墳
  6. 飯豊天皇陵
  7. 柿本神社
2003年10月に、近鉄電車が無料でくれる「テクテクマップ」を持って、葛城古道を歩いたことがある。

このときは、御所市をずっと南下して金剛山の山裾にある高鴨神社からスタートして→高天彦神社→橋本院→一言主神社→高丘宮跡と北に向かって歩いた。 今日はその続きで、葛城市・忍海(おしみ)から新庄(しんじょう)のあたりをウロウロした。

名張から忍海へ来るには、3度の乗り換えをするのでかなりの時間がかかる。@名張→大和八木(近鉄大阪線)、A大和八木→橿原神宮前(橿原線)、B橿原神宮前→尺土(しゃくど・南大阪線)、C尺土→忍海(御所線)となる。

尺土で御所線に乗り換える。2両連結の電車であったが、すぐに満席となった。年配者のグループが2組あったが、おそらくロープウエイで葛城山に登るのであろう。

小学生の20人ほどのグループも乗り込んできて、私が座っている横に並んで腰掛けた。引率している大人が「席を詰めればもう一人すわれるぞ」などといっている。

8:04に名張を出て9:20ころに到着。子供たちも葛城山へ登るのだろうと思っていたら、同じ忍海駅で下車した。 

葛城についての知識はほとんどなかった。「葛城と古代国家」(門脇禎ニ)を読んで、ぼんやりとした知識を得たのだが、知識と知識が繋がるところまではいっていない。 葛城にはどういう歴史の流れがあって、どこにいわれのある場所があるのか?

まずは歩きまわって、土地の知識を得ることである。地図を見ていたら、近鉄御所線(ごせ)の忍海駅のすぐ近くに葛城市歴史博物館があることを知った。ここでザッとした知識を得て訪ねるところを決めようと思って、最初に忍海にやってきた。

西を向いている。前方の山は葛城山。子供らは私の前をバラバラと歩いている。右折すると葛城市歴史博物館があるはずだ。老人が引率して子供らは右に折れた。列の後方には落伍者がでないように二人の中年の男性が付いている。

なんと子供らは歴史博物館に入っていった。私の目的地と同じではないか。博物館の横に忍海近辺の観光案内が出ていた。
  1. 歴史博物館(北へ60m)
  2. 角刺神社(西へ70m)
  3. 飯豊天皇埴口古墳(北へ1.3km)
  4. 笛吹神社(西へ2.5km)
とある。飯豊天皇と笛吹神社は事前に調べて、訪問を予定していたが、角刺神社は知らなかった。

博物館の左の木立が角刺神社だろう。

博物館の入場料は200円。入り口にホールがあって、プロジェクターでこの場所に何があると案内をしている。その床には、葛城市と御所市の航空写真がタイルに焼き付けてあって、地名も載っている。道路も明らかであるので、今日訪ねる場所を確認するにはもってこいである。

予定している場所を探して指差していたら、先に来ていた子供らが集まってきて、「當麻はどこか」「尺土はどの辺か」と探し始めた。どうやら當麻あたりから電車で忍海にやってきて、歩いて當麻へ帰るのが今日のコースであるらしい。葛城古道を北上するわけだ。

陳列物は石器・土器・埴輪・石棺・瓦・農具などで、ほかの博物館と同じ。

博物館の隣にある角刺神社(つぬさし)へ行く。この神社は飯豊(いいとよ)王女の角刺宮があったところである。

通常わが国で最初の女帝は592年に即位した推古天皇であるとされているが、実はそれより100年ほど前に天皇に即位したと思われる女性があった。飯豊天皇である。 今日のテクテクの後半に訪れるが、ちゃんと飯豊天皇陵が残っており、今でも宮内庁は天皇陵として管理している。

日本書紀には次の歌が載っている。

   倭辺(やまとべ)に  見が欲しものは
   忍海(おしぬみ)の  この高城(たかき)なる
   角刺(つぬさし)の宮


右に5世紀から6世紀前半の歴代天皇の系図を掲げる。(天皇の横の小さい数字は、即位した年を推測したもの)

天皇は黒色字で、皇子は青色字、皇后・妃は赤色かピンク色で区別してある。 赤色字は葛城氏出身の媛(ひめ)で、ピンク色字は非葛城氏出身の媛である。

ご覧のように16代・仁徳天皇〜24代・仁賢(にんけん)天皇までは、葛城氏が皇室と密着していた。( 26代・継体天皇あたりから蘇我氏がのし上がってくる。)

葛城氏が諸豪族中最大の勢力になったのは、葛城襲津彦(そつひこ)の娘の磐之媛(いわのひめ)が仁徳の皇后になったからである。磐之媛は17代・履中(りちゅう)天皇、18代・反正(はんぜい)天皇、19代・允恭(いんぎょう)天皇を生む。

仁徳天皇の艶聞は多い。そのひとつが髪長媛である。仁徳の父の応神天皇は、国中で一番の美貌といわれる髪長媛を召したが、仁徳が媛に一目ぼれをしていることを知ったので、仁徳に譲った。 艶聞の第二は八田皇女、第三は雌鳥皇女の話だが、これはNo.79 磐之媛陵から井手町No.76 桜井市・寺川を下って聖林寺へで述べた。

髪長媛(かみながひめ)は系図にあるように、大日下(おおくさか)皇子と若日下(わかくさか)皇女を生んだ。大日下皇子は中蒂(なかし)媛を娶り、眉輪王を生んだ。


笛吹神社を目指して、西に向かっている。

17代・履中天皇は黒媛との間に市辺押磐(いちのへのおしは)皇子をもうけた。市辺押磐皇子は葛城一族の「はえ媛」を娶り、飯豊青王女・億計(おけ)王・弘計(をけ)王をもうけた。

19代・允恭天皇は葛城一族ではない忍坂大中媛(おしさかおおなかつ)を皇后とし、系図のような5人の皇子をもうけた。この5人の皇子がさまざまの騒動を起こし、市辺押磐皇子や大日下皇子がそれに巻き込まれることになるのである。

後方でガヤガヤと声がするので振り向くと、博物館にいた子供たちである。立ち止まって通り過ぎるのを待っていると、引率している70年配の男性が「さっきお逢いしましたね。どこへいかれます?」と声をかけられた。「笛吹神社です」と返事すると、「われわれもそこへ行きます。」

磐之媛が仁徳の八田皇女に対する執着に嫉妬して、山城の筒木宮へ移ったとき、次の歌を詠っている。

  つぎねふや     山代河を
  宮上(のぼ)り   我が上れば
  あおによし      奈良を過ぎ
  小楯(をだて)   大和を過ぎ
  我が見ま欲(ほ)し国は
  葛城高宮      我家(わぎへ)のあたり

(次図)南西方向の葛城山を撮る。左端の薄青い山は金剛山。 磐之媛は葛城の高宮で育った。その高宮は、たぶん中央の茶色の四角い建物の方向、葛城山麓にあったのであろう。


南下している。真っ直ぐ行けば御所市との境界に出るはずである。この手前に脇田天満宮があるが、そこは奈良時代にあった地光寺の跡であるという。

19代・允恭天皇の5皇子のエピソード@は、木梨軽皇子のことである。 古事記と日本書紀とでは食い違うが、日本書紀に従うと、木梨軽皇子は允恭の皇太子であったが、同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)と密かな恋愛関係にあった。それが露見し、臣下の心は離れた。

允恭天皇が薨去した直後、穴穂(あなほ)皇子は木梨軽皇子を攻め、自殺に追い込んだ。(古事記は伊予に島流しにしたとある) 穴穂皇子は即位して、20代・安康天皇となった。
木立があるのが脇田天満宮である。道端に多くの住民が作業着姿で休憩している。草刈や溝の掃除をしているらしい。

20代・安康天皇は系図にある大日下皇子を攻めて殺した。どころか皇子の正妻の中蒂媛(なかし)を皇后とした。中蒂媛は子供の眉輪王(まゆわ)とともに、安康のもとに嫁いだ。

エピソードAは、安康が酒宴で酔って中蒂媛の膝を枕にしてくつろいでいたとき「私が、眉輪王の父親の大日下皇子を殺したことを知ったらどうするであろうか。私は眉輪王が恐ろしい。」といったことを話した。 その会話を眉輪王が聞いていた。眉輪王は天皇が父親を殺したことを知った。天皇が熟睡したときを見計らって、天皇の首を斬って殺した。

脇田天満宮。大きくはない。村社といったところである。

兄の安康が殺害されたことを知った大泊瀬皇子(おおはつせ・雄略)は皇位継承のチャンスと思ったのであろう。兄の八釣白彦(やつりのしろひこ)皇子を殺した。もう一人の兄の坂合黒彦(さかあいのくろひこ)皇子は眉輪王とともに、葛城の円大臣(つぶらのおおおみ)の屋敷に逃げた。

大泊瀬皇子は屋敷を取り囲む。円大臣は娘の韓媛(からひめ)と葛城の7か所の領地を差し出すと交渉したが、皇子はこれを許さず、屋敷もろとも焼き殺した。そしてチャッカリと韓媛を妃としたのである。

葛城氏は葛城襲津彦の後に玉田と葦田の2系統に分かれていたが、円大臣が死んだことによって玉田の系統は没落した。


境内に大きな礎石がある。地光寺のものであったろう。

大泊瀬皇子は、次に系図の市辺押磐皇子を除こうとした。狩をしようと近江に誘い出し、これを射殺したのである。遺体は切り刻まれて、馬の飼葉桶に入れて埋められたという。

市辺押磐皇子の子である億計(おけ)王・弘計(をけ)王はこれを知って大和を離れ逃亡する。初めは丹波国へ、ついで播磨国の明石にいき、牛飼いとなって身を隠した。

ライバルをことごとく葬った大泊瀬皇子は即位して21代・雄略天皇となった。

(次図)脇田天満宮から西に向かう。山塊の中央の一番高いところが葛城山頂。




山裾なので、なだらかな上り道である。民家に大きな看板がある。「火の神・音楽・笛の神 葛木坐火雷神社(笛吹神社)」と書いてある。

雄略は平群真鳥(まとり)を大臣に、大伴室屋と物部目(め)を大連とした。皇后は兄の安康が殺害した大日下皇子の妹の若日下皇女である。

さらに3人の妃があった。自らが殺害した葛城円大臣の娘の韓媛、吉備氏出身の稚媛(わかひめ)、和珥(わに)氏出身の童女君(おみなぎみ)である。

冒頭に掲げた有力豪族のほとんどが、雄略の配下にあったわけである。

雄略天皇の艶聞は仁徳天皇に劣らず多い。その一部はNo.67 桜井市・初瀬から忍阪でいったが、次のエピソードBもある。

童女君(おみなぎみ)は女子を出産した。雄略は一晩共寝しただけであるから妊娠するはずがないと、子として認めなかった。

女の子がヨチヨチ歩けるようになると、歩く姿が実に天皇に似ている。物部目大連が天皇にこのことを正すと、天皇は「一晩限りなのに子ができるわけはない」、「ではその一晩に何度召されましたか?」、「7度である」。

物部目大連は吹き出したに違いない。天皇はしぶしぶその子をわが子と認め、采女であった童女君は晴れて妃となった。

葛木坐火雷神社(かつらきにいます ほのいかづち)。笛吹神社と呼ばれている。

司馬さんは「街道をゆく@」の「葛城みち」で笛吹神社・一言主神社・高鴨神社の3つを訪ねておられる。一言主神社についてが7割、笛吹神社が2割、高鴨神社は1割ほどの記述量である。これは一言主神は葛城を代表する神であり、記紀にも記載されているからであろう。

笛吹神社は記紀には出てこない。特に歴史に大きく関与する神社ではない。笛吹連の祖先の天香山命を祀った神社であるらしい。

ただ司馬さんが本殿の上に古墳があって珍しいと書かれていたので、一度は訪ねてみたい神社であった。


境内に、なんと大砲が置いてある。説明板を読むと、「日露戦役の記念として明治42年6月に政府より当神社へ奉献された露国製加農攻守城砲」であるらしい。日露戦争は明治37・8年戦争とも呼ばれるから、戦後まもなく笛吹神社にきたわけである。

これについては司馬さんは何も書かれていない。「坂の上の雲」であれだけ日露戦争について詳しく書かれた司馬さんである。203高地にあったかも知れないカノン砲を目にされたはずなのに、文中では触れられていない。葛城の古代についての文に明治のことを割込ませては話が脇道に逸れると思われたためであろうか。

拝殿と本殿は石垣の上にある。

雄略が供をつれて葛城山に登ったとき、向かいの山の尾根伝いに同じ格好をした供を連れて登る人があった。「この大和には私のほかに王はいない。同じ格好をしているのは誰か」と問うと、相手も同じことを聞き返した。

雄略は怒った。供の者に相手を撃とうと矢をつがえさせると、向うも同じ動作をして睨みあった。雄略は「互いに自分の名を名のってから矢を放とう」というと、相手は「私は葛城の一言主大神である」と答えた。

天皇はかしこまって、刀や弓矢を大神に献上した。大神は天皇が帰るとき、泊瀬の口まで送った。記紀にはこういうことが書かれている。葛城の神は天皇家と同格であるというのである。

本殿。神明造りのようであるが、庇がついている。

司馬さんはこのこの続きを書いておられる。「釈日本紀」に一説にいうとして、一言主大神は天皇と競い、不遜の言葉を吐いた。そこで雄略は大いに怒り、大神を土佐に移らせた、とある。

雄略は葛城氏本流の円大臣を焼き殺しているから、葛城氏を押さえつける力があったはずである。そうであれば釈日本紀のいうことのほうが正しい。雄略天皇のときから葛城氏はしだいに勢力を失っていったのだろう。

神社の左上方に古墳があった。司馬さんは、これを覗きこんで、赤土が乾いていたと書かれていたが、今は外に柵があって開口部へ近づくことはできない。

雄略天皇は、若いころはライバルを殺害するなど凶暴な性格であったが、天皇に即位してからはしだいに性格を矯正し、国の統治者としての風格を身につけていったようである。 記紀を読むと、それにはどうも皇后の若日下の内助の功があり、また雄略は皇后のいうことをよく聞いたようだ。

例えば次の話がある。雄略が舎人を引き連れて葛城山で狩をしていたとき、猪が猛進してきた。雄略は「迎え射て、しとめよ」と発したが、舎人は怖がり逃げて木に登った。天皇は猪に弓を突き刺して殺した。そして天皇を置いて逃げた舎人を斬ろうとした。

そのとき皇后がこれを諌めると、「皇后は天皇に味方せずに、舎人を大事に思うのか」と天皇がいう。皇后は「もし舎人を斬られたならば、天皇は猪のほうを大事にしていると国人はいうでしょう」と答えた。

狩が終わって帰るとき、天皇は「楽しきかな、人は禽獣(とりしし)を猟(か)る。朕(われ)は猟りて、善き言(こと)を得て帰る」といった。狩の収穫は猪ではなく、皇后の言葉だったのである。

笛吹神社から下る。遠くに音羽三山と多武峰。その手前の黒っぽいなだらかな丘は真弓の丘。

県道30号線を北上する。

先に安康天皇が皇后(若日下)の兄の大日下皇子を殺したと簡単にいったが、これは誤解によるものであった。安康天皇は弟の大泊瀬(雄略)に若日下皇女を娶らせたいと、根使主(ねのおみ)を使者にして大日下皇子に申し入れをした。

大日下皇子は大変ありがたいことだと快諾した。そのよしみの印として家宝の玉蔓(たまかずら)を根使主に託した。ところが根使主はこれを横領し、天皇には婚姻は拒絶されたと報告した。そこで安康は大日下皇子を討ったという次第である。

それから16〜17年たった雄略14年のことである。天皇は呉国からの使者の饗応役に根使主を指名し、舎人を遣わして饗応の様子を報告させた。舎人は、根使主の髪飾りが際立って美しかったと報告してきた。


天皇は自分も見たいと思い、根使主にそのときの服装で出廷させた。 天皇とともに謁見した皇后は、このとき天を仰いで嘆き、泣いた。天皇がその理由を尋ねると、「その玉蔓はわが兄の大日下皇子が私の結婚を祝福して贈ってくれたものです。根使主を疑って不覚にも涙がでました」。

根使主は逃亡したが、天皇は兵を出して、捕え、殺した。雄略は皇后の悲しみをわがこととして受け止め、根使主を憎んだわけである。

信号機のところに、乳牛の後姿が見えた。


近づくと写真のようになっている。小牧場である。牛の横からの形に前足・後ろ足を直交させて、前からでも後ろからでも横からでも牛とわかる仕掛けである。福田繁雄のトリックアートと同じだ。 誰が作ったのかは知らないが、葛城市には面白い人がいる。もし市が作ったのであれば葛城市はエライ。信号待ちをする歩行者は乳牛を見ながらのんびりと青信号に変わるのを待つことができる。

雄略天皇が薨去した後、即位したのは清寧天皇である。系図に見るように清寧の母は葛城円大臣の娘の韓媛である。雄略によって勢力をそがれてしまった葛城一族(玉田系)であったが、ここで再び葛城系の天皇をいだくことになった。

ただし葛城氏は政治の中枢からは排除されていた。清寧のブレーンは雄略のときと同じく、大臣は平群真鳥(まとり)・大連は大伴室屋であった。


北上を続ける。新庄にある屋敷山古墳を目指している。

清寧には子がなかった。父親の雄略はそのライバルをことごとく殺害していたので、後継ぎ候補がなかった。皇位を継ぐべき王を探しもとめたところ、市辺押磐皇子の妹(書紀では娘)の忍海郎女(おしぬみのいらつめ)またの名を飯豊王が忍海の角刺宮にいることが判明した。一つめの朗報である。

そこへさらなる吉報がもたらされた。市辺押磐皇子の子供(兄弟)が播磨国の明石で見つかったのである。清寧は兄弟(億計(おけ)王と弘計(をけ)王)を呼び寄せ、角刺宮に上らせた。

天皇は兄弟をわが子のように思い、兄の億計王を皇太子とし、弟の弘計王を皇子とした。


系図にみるように、市辺押磐皇子の母は葛城氏(葦田系)の出身である。さらに市辺押磐皇子は葛城氏(葦田系)の出身の「はえ媛」を娶り、生まれた子が2人の兄弟である。将来誕生する天皇は、父母ともに葛城系ということになる。

木立が屋敷山古墳であろう。説明板には、全長135m・後円部径77m・前方部幅90mとある。「古墳とヤマト政権」(白石太一郎)の巻末に、規模の大きな順に古墳が掲げられているが、これによると屋敷山古墳は83〜93位となっている。そこそこ大きな古墳である。

北葛城には馬見古墳群があって、墳丘長が200mを超える古墳がいくつもある。築山古墳(210m)、巣山古墳(204m)、新木山古墳(200m)、川合大塚山古墳(195m)などである。「葛城と古代国家」によれば、これらは葦田系葛城氏の墓である。

ところが南葛城(葛城市・御所市)には大きな古墳は少ない。御所市室(むろ)にある宮山古墳(234m)は葛城地域で最大の古墳で、葛城襲津彦の墓ではないかとか、武内宿禰の墓ではないかの説があるくらい、この古墳はとびきり大きい。かなりの威勢を持っていた豪族の墓である。

次に大きいのは同じく御所市柏原にある掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳(149m)、次が新庄の屋敷山古墳(135m)である。宮山古墳からするとぐんと小さくなる。これらは玉田系葛城氏の墓であるが、宮山古墳(4世紀末から5世紀始め)→掖上鑵子塚(5世紀半ば)→屋敷山(5世紀後半)と時代がたつにつれて小さくなっていく。

屋敷山古墳を築いたのが玉田系葛城氏の最後の事業であったようである。

屋敷山古墳が築かれた時期は古墳時代中期だろうと推定されている。それは雄略天皇の時代であり、当時の葛城の王は円大臣である。それではこの古墳は円大臣のものではないかと思いたいところだが、それはない。

円大臣は坂合黒彦皇子・眉輪王とともに屋敷ごと焼き殺され、新漢(いまきのあや)の槻本の南に合葬されたと書紀にある。この古墳は円大臣のものではないだろうが、葛城氏の首長の墓であったことは確かだろう。

墓の上は公園になっている。上ってみると、博物館で一緒だった子供らが弁当を広げていた。

(次図)少し南へ引き返し、東を向いて歩くと、 左手(北)に陵墓が見えた。飯豊天皇陵だ。



清寧天皇は在位5年にしてなくなる。これによって雄略天皇の皇統は絶えた。次の天皇は皇太子の億計王がなるはずであったが、億計王は皇位を弟に譲ろうとした。

今のような境遇になったのは、播磨国明石で弟の弘計王が決死の覚悟をもってその身分を明かしたからである。弟のおかげである。ゆえに弟が即位すべきである、という。

弟は、兄であり皇太子である億計王が即位すべきであるといって受けいれない。兄弟は互いに譲り合い、天皇空位の時期が続いた。そこで2人の姉(おばともいう)の飯豊王女が臨時に朝政をみたようである。天皇として即位したのかどうかは定かではない。

ただ古事記下巻の巻頭には、「大雀皇帝(おほさざきのすめらみこと)より豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)に尽(いた)るまで凡そ十九天皇」と書いてある。

16代・仁徳天皇から33代・推古天皇までの天皇は18人だが、19人と書いているわけで、これは古事記の編纂者が飯豊天皇を勘定にいれたからではないか、の説がある。

この時期の女性について記紀が記述することは少ない。あるのは、@皇后のことか、A天皇の浮気相手のことである。

ところが古事記は、清寧天皇が皇位を継ぐべき王を探したところ、飯豊王女が見つかったと書いている。女性は皇位を継承できないのにである。

女帝が立つにはそれなりの資格がいる。推古天皇は敏達天皇の皇后であった。皇極天皇は舒明天皇の皇后、持統天皇は天武天皇の皇后、元明天皇は草壁皇太子の妃であった。こういう女性だけが女帝になりえるのである。

日本書紀は清寧天皇3年の出来事として次のことを伝える。

秋七月に、飯豊皇女、角刺宮にして、予夫初交(まぐはい)したまふ。人に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「一(ひとはし)女の道を知りぬ。又いずくにぞ異(け)なるべけむ。終(つひ)に男に交(あ)はむことを願(ほり)せじ」とのたまふ。

飯豊王女は男と交合(まぐわい)し、人並みに女の道を知ったが、特に変わったこともない。今後は交合したいとは思わない。というのである。

清寧天皇には皇后がいなかった。シロートが思うに、清寧は飯豊王女を皇后として迎えようとしたのではないか。それが古事記の記述である。ところが一度の交合(まぐわい)で飯豊王女は、こんなことはもうしないといった。これで清寧が子を得る道は絶たれた。それが日本書紀の記述である。

あるいは清寧はそれでもよいと、飯豊王女を皇后にしたのではないか。皇后であったならば、清寧天皇の薨去後に女帝となった可能性はある。

正面に葛城市役所新庄庁舎がある。庁舎の屋上 に拡声器が置かれているのか、「本日は清掃にご協力いただき、ご苦労様でした。お陰で町はきれいになりました。」とかいっている。朝方、大勢で草刈や溝掃除をしていたのは、葛城市の行事であったのだ。

(上図)庁舎の右手に木立が見えるが、そこは柿本神社である。今日の締めくくりとなる。

全国に柿本神社あるいは人麻呂神社は70ほどあると聞いているが、私は明石の人丸神社と前回訪ねた橿原市地黄町の人麿神社しか知らない。これで3つ目である。

新庄の柿本神社は古い。 社伝によると、宝亀元年(770年)に石見で没した人麻呂の亡骸をこの地に葬り、傍らに神社を建立したのが始まりであるという。

ただ続日本紀に「和銅元年4月20日に従4位下・柿本朝臣佐留(さる)卒す」とある。梅原猛さんが「水底の歌」で主張されるように人麻呂=サルとするならば、和銅元年は708年なので、770年に没したというのは遅すぎる。


人麻呂が作った歌で年がはっきりしているのは、持統天皇の子の草壁皇子が亡くなったときの挽歌である(No.82 明日香・真弓の丘)が、これは689年のことである。このとき人麻呂が30歳だったとすると、770年まで生きているはずはない。

770年に死んだというのは間違いで、したがって遺骸を葬ることはできない。たぶん770年に人麻呂を祀る神社ができたのであろう。

「水底の歌(上)」の見開きに右のカラー写真がある。梅原さんはその中で、

『人麿像は時代が古いものほど奇妙である。いちばん奇怪なのは、人麿像の首が抜けてしまうことである。・・・・特に新庄の柿本神社のご神体とされる人麿像は、たいへん不思議な彫像である。硬直しつつ眼だけはぎょろりと宙をにらんでいる像であるが、これが最も古い形の像であろう。』

といわれている。もしかしたら、この人麻呂像を見ることができるかも。

拝殿。葛城市のHPを見ると、4月18日に「柿本神社のちんぽんかんぽん祭り」が営まれ、市長や区長が玉串を捧げたとあった。人麻呂の命日は旧暦の3月18日であるから、今は4月18日を祭りの日としているのだろう。

この日に来ておれば、あるいは人麻呂像を遠目にでも見ることができたのかと思うが、今日は拝殿の扉はピシャリと閉じられている。拝殿は高欄がめぐらせてあり、ずいぶん立派なものである。古い人麻呂像といい、新庄の柿本神社は人麻呂にゆかりがあった土地ではないかと思ってしまう。

例えば人麻呂=サルであるならば、従4位下の位であったから、位田として20町が与えられていたはずである。これが新庄の土地であったかも知れない。
拝殿の左手には3つの石がある。左の巨石は歌碑である。中央奥に歌塚、右は「柿本大夫人麻呂之墓」とある。

この墓の字はひょっとすると梅原さんの手によるものではないか。「柿本大夫(たいふ)」とあるのがその証拠である。

官職で「大夫」がつくのは、中宮大夫、春宮大夫、左右京大夫、大膳大夫、摂津大夫しかない。通説のいうように人麻呂が6位以下の身分であったならば、大夫の職につけるわけはないのである。

そう思ってよくよく見ると、供花の石台の横に「昭和五十五年四月十八日建之  京都芸術大学学長 梅原」と小さく彫ってあった。
この歌碑は難解であった。歌が読めない。岩に何筋もの亀裂がある上、字は大きく崩してある。出だしの句は岩の下部に書いてあるようだが、読めない。漢字なのかひら仮名なのかも判然としない。

この地にあるのだから、葛城山を詠ったものではないか。それなら「春楊(はるやなぎ)」が初句である。うーむ、「春楊」と読めないこともない。では2〜3句目は「葛城山に たつ雲の」だろう。「つ」と「山」は読める。だが「か」「ら」「き」とは読めない。判読はできなかったが、次の歌であろうと推測した。

  春楊(はるやなぎ)  葛城山に  立つ雲の
  立ちても坐(い)ても 妹をしそ思ふ

(11-2453)人麻呂歌集にある歌である。

拝殿の右には影現寺(ようげんじ)がある。空海(774〜835年)の高弟の真済(しんぜい。800〜860年)が創立したという。真済は人麻呂のマタ従兄弟であったともいわれているそうだが、年代が合わない。人麻呂に関係する血族かと思うが、寺を建てて人麻呂の霊を弔ったのであろう。

この真済は今昔物語に鬼となった僧として書かれている。 今年3月11日の東日本大震災による大津波は平安初期の貞観(じようがん)以来の酷さであると言われている。

その貞観期より少し前の天皇は文徳天皇であった。文徳帝の母親は染殿の后(そめどののきさき)というたいそうな美人であった。 この后に物の怪がとり憑いた。さまざまの祈祷をしたが霊験はなかった。

葛城山に貴い聖人がいることを聞いた天皇は、聖人を呼び加持祈祷をさせたところ、染殿の后にとり憑いていた物の怪は苦しがって離れていった。天皇は喜び、聖人にしばらくいるようにいった。これがいけなかった。

夏のことである。后は単(ひとえ)の着物を着て、几帳(きちょう)の内におられたが、風が几帳の帷子(かたびら)を吹き返したので、聖人は后の姿を目にした。そこで「此く端正美麗の姿を見て、聖人たちまちに心迷ひ肝砕けて、深く后に愛欲の心をおこし」、几帳に入りこんで后を凌辱したのである。

聖人は捕えられたが、「我、たちまちに死にて鬼となって、この后の世にましまさむ時に、本意の如く后に睦びむ」という。とんでもない聖人である。

右は真済の墓と伝えられている塚。


聖人は葛城山に返り、絶食して死に、鬼となった。鬼は堂々と后の几帳に出入りするようになった。后は鬼に惑わされて、鬼を待ちわび、鬼がやってくれば嬉しそうに笑って「二人臥せ給ひにける」のである。

しまいにはもっと「あさましい」ことになるのだが、今昔物語は、その後の后と鬼がどうなったのかについては書かず、「やんごとなき女人は法師を近づけてはいけない」で話をまとめている。

さあ帰ろう。右は近鉄・新庄駅。

真済にとっては迷惑な後世の説話である。もとは精神が不安定な染殿の后があり、これを真済が祈祷によって安定させた。しかしその後精神障害が進み、后は誇大妄想に陥って「鬼と褥をともにした」といったことを女御らに話した。

これが言い伝えられていくうちに、その鬼は真済であると置き換えられたのであろう。 逆にいえば、貞観のころ最も法力に優れた僧は真済であったという証しでもある。

近鉄新庄駅は柿本神社と細い道を1本挟んである。プラットホームからやや荒れた社務所が見える。

今日の万歩計は20800歩だった。



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