横大路から曽我町へ

    No.83.....2011年 5月 4日(水曜)


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古代(といっても大化改新以後であろうが)奈良県南部には図のような官道があった。南北に通じているのが、上ツ道・中ツ道・下ツ道の3本である。この道と道の距離は4里(1里は約530m)であったという。約2120m間隔で3本も幹線道路があった。

東西の幹線道路は横大路である。桜井市から高田市の間は直線で、東は初瀬街道につながり東国を結ぶ。西は竹之内街道となって難波に通じている重要な道路であった。

藤原京は、横大路を北限とし、中ツ道を東限とし、下ツ道を西限とし、山田道を南限とする都城制の京であった。都の周囲に大道があった。

そればかりではない。下ツ道をどんどん北上すると、後に作られた平城京の朱雀大路になり、中ツ道は平城京の東の京極となっている。おそらく7世紀にできた大道が後の平城京の位置やサイズを決めたのである。


今日のテクテクは
  1. 桜井市大福にある三十八柱神社
  2. 耳成山
  3. 橿原市にある入鹿神社
  4. ついでに近くにある人麿神社
  5. 真菅(ますが)にある宗我都比古神社
  6. 曲り川大橋
を訪ねる予定であったが、途中から「横大路」が明らかになったので、ひたすらこの道を歩くことになった。

名張を9:28分の近鉄電車に乗って桜井駅まで行き、そこで各駅停車の電車に乗り換えると、次の駅が「大福(だいふく)」駅である。大福には10:10ころ着いた。駅前に店舗はない。住宅地のようである。


目指しているのは三十八柱神社(みそやはしら)である。大福駅の真北約500mという近いところにあるが、道路は真っ直ぐに通じてはいない。右折れ・左折れをして10分ほど歩いた。

北上している。周りは田圃である。北東方向に三輪山、その左隣に龍王山が見える。

三輪山の麓には、2世紀末から3世紀にかけて大集落があった。集落は柵で囲われ、運河が掘られ、大きな高床式建物がいくつも建てられていた。巻向遺跡である。昨年は土杭から2000個の桃の種が発掘された。祭祀の供物であったらしい。

写真を撮った位置から巻向遺跡までは約3kmほど離れているが、ご覧のようにそこまでは平地である。広々としている。

「飛鳥とは何か」という本で梅原猛さんは、小墾田宮(おはりだみや)は大福の三十八柱神社の辺りにあったのではないか?という新説を打ち出されている。従来の学説は、甘樫丘に接した北西に豊浦宮(とゆら)があり、小墾田宮はその北にあったとしている。

崇峻天皇が蘇我馬子によって殺害された後、敏達天皇の皇后であった炊屋姫(かしきやひめ)が推古天皇として即位したのは592年のことである。場所は豊浦宮。蘇我馬子の別宅であった。小墾田宮に遷宮した後は豊浦寺になる。

推古天皇が即位した年、聖徳太子を皇太子とした。太子は摂政となって国政を任された。

道路の左の木立が目指している三十八柱神社である。


太子はのちの律令国家成立の先駆け的存在であった。日本書紀から事跡を抜き出すと以下のようである。

  1. 推古元年四天王寺建立の着工。
  2. 2年仏教の興隆を図り、諸豪族に寺を造らせる。
  3. 3年高麗の僧・慧慈(えじ)を師とする。
  4. 4年法興寺(飛鳥寺)が完工。
  5. 8年新羅へ征討軍を派兵する。
  6. 9年太子は斑鳩宮を造る。
  7. 11年小墾田宮へ遷宮。
  8. 11年冠位12階を制定する。
  9. 12年17条憲法を発表。
  10. 13年太子は斑鳩宮に移る。
  11. 14年法興寺(飛鳥寺)の大仏を造立。
  12. 同年法華経などを講義する。
  13. 15年小野妹子を隋に派遣する。
  14. 16年隋の使者・裴世清(はいせいせい)が来日する。
  15. 20年少年らに百済人味摩之(みまし)から伎楽を習わせる。
  16. 21年難波から都にいたる大路を設ける。
  17. 28年天皇記・国記を編纂。
  18. 29年太子は斑鳩宮で薨去。


三十八柱神社の拝殿。

推古9年は辛酉(しんいう)の年、革命の年である。陰陽五行説では60年に1度辛酉の年があるが、60年ごとに革命があるのではない。60年を21回繰り返した1260年を1つの時代の区切り(一蔀・いちほう)とし、1260年に一度大革命の年があるとしたのが讖緯説(しんい)である。

初めの一蔀のスタートは1260年前の神武天皇の即位の年である。太子は推古9年の辛酉の年を2度目の一蔀のスタートと考えたのであろう。この年から太子は海外諸国に負けない理想的な律令国家を築こうとしたのである。(これは梅原猛さんの主張されること) 手始めは小墾田宮への遷宮である。

従来は天皇が即位するたびに新しい宮を造り、天皇はそこで政務を執った。これは死者の出た宅は忌むべきものであるという風習からきたようである。 だが天皇が代わるたびに宮を造るのは不経済である。そのたびに部民を徴用し、新たな建物を建築しなければならない。当然に大規模な宮は造れない。いわば使い捨ての 宮であった。

当時は三韓(百済・新羅・高句麗)との交流が盛んであった。半分は日本を恃んでの朝貢といった面もあったようだが、三韓からの使者が来ても、歓待する施設が貧弱である。国力を示すような施設が欲しい。 また目指す律令制とは法に基づく政治である。官僚が政務を取る仕組みである。そうであれば、宮は単に天皇が居住する場所ではなく、国家的な政府の施設でなければならない。太子は、のちの藤原京のような都城を計画していたのではなかろうか。

右は本殿。木立に囲まれてよく見えないが春日造のようだ。

そうであれば小墾田宮は豊浦宮の北側といったチマチマしたところではなく広々としたところになければならない。三十八柱神社のあたりに小墾田宮があったのではないか、と梅原さんは推測されている。未発掘なので物的証拠はないが、傍証はいくつかある。
  1. 三十八柱神社に「奉遷小治田宮(おはりだ)」の棟札が残っている。

  2. 法隆寺に伝わる「太子伝・玉林抄」に、「小墾田宮は当時大仏供(だいぶつく)という里に、ヲハル田ノ宮という小社があるが、それが宮所である」とある。「大仏供」は今の「大福」である。

「小墾田宮伝承之地」の大きな石碑があった。梅原さんの書になるものである。
  1. 隋の使者・裴世清(はいせいせい)は初瀬川を遡って三輪山の麓の海石榴市(つばきち)に上陸したが、それは都の入口であったろう。都は海石榴市の近くにあったと思われる。

  2. 日本書紀に、推古21年に横大路を作ったの記述があるが、それ以前に横大路のもとがあって、21年に大道として整備されたのだろう。外国(三韓)の使者が難波に上陸し大和に入るには横大路を使う。その横大路に面して都があったのではないか。


境内の東側に歌碑があった。大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌である。犬養孝さんの書によるので、万葉仮名で書かれている。読み下すと次のもの。

隠口(こもりく)の  泊瀬(はつせ)の山は  色づきぬ
しぐれの雨は    降りにけらしも    (8-1593)

なぜこの歌がここにあるのかである。万葉集には「竹田の庄(たどころ)にて作る歌2首」とある。竹田の庄は大福の隣(北西)にある橿原市東竹田町であるらしい。そこに大伴氏の私領があり、大伴坂上郎女は耕作や刈り入れをしに平城京からやってきて、詠ったものである。

神社は「竹田の庄」に注目して、この歌を選んだと思われる。

神社から真東を見ると、住宅が邪魔をして見えないが、そこは隠国の初瀬である。

初瀬から大和へ出たところには、29代欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさし)があった。さらに西の桜井市戒重(かいじゅう)には30代敏達天皇の訳語田幸玉宮(おさださきたま)があり、少し南には31代用明天皇の池辺双槻宮(いけのべのなみつき)があった。

推古天皇にとって、欽明は父、敏達は夫、用明は同母兄である。家族はすべて写真の範囲内に宮を置いた。推古も家族ゆかりの地を都としたのであろう。 小墾田宮は三十八柱神社の近辺にあったと考えるほうが素直である。

三十八柱神社の前は荒地である。元は畑だったようだが、今はタンポポが綿毛を飛ばしている。かつては小墾田宮があったかも知れない土地である。

小墾田=大福説は三十八柱神社の宮司である石井繁男さんが、文献を調べ、実地調査をして論文にまとめられたものである。梅原さんはその説を知って、自身も調査を重ねた結果、小墾田宮は大福にあったと考えるにいたった。といったことを述べられている。

それまでの宮は天皇一代限りのものであったが、小墾田宮は恒久的な宮であったようである。「飛鳥とは何か」によれば、小墾田宮にあった天皇は、@33代推古天皇が26年間、A34代舒明天皇が2年間、B35代皇極天皇、C36代孝徳天皇、D38代天智天皇も宮としたらしい。

聖徳太子は初めて都城を作ろうとしたと思われる。どれほどの規模であったのかは不明だが、南に大門があり、これを入ると広い謁見のための庭がある。儀式を執り行う大きな殿舎があり、宴会のための朝堂もあったかも知れない。当然に執務のための朝堂院もあっただろう。そして一番北に天皇が起居する内裏があったのではないか。

日本書紀のE40代天武天皇の壬申の乱の記述の中に「小墾田の兵庫」が出てくるので、少なくとも672年まで小墾田宮はあったようである。いつなくなったのかは不明だが、シロートが思うところでは、41代持統天皇が藤原京を造営したときに、隣接する小墾田宮を取り潰したのではないか。

南に多武峰(とうのみね)が見える。多武峰が右に落ち込んでいるあたりが飛鳥である。

近鉄・大福駅に戻って大和八木に向かう予定だったが、気が変った。

舗装道路の歩道に花水木が植えられて並木道となっている。白色とピンク色の木が交互に植えられているようだ。花水木はちょうど花びらを大きく開ききっている。これを見ながら歩くのもよい。道の向うに耳成山が見える。GWというのに人影がない。耳成山を目指して歩くことにした。30分くらいで着くのではないか。


気軽に歩きだしたのだが、立派だった舗装道路は途中で途切れた。別の細い道を歩くことになったが、この道は田圃の中の一本道であるので迷うことはなかった。

耳成山の周囲は住宅地として開発されている。住宅地は異なる不動産会社がてんでに開発しているので、区画はきちんとしていない。道を適当に選んで行くと行き止まり、折れ曲がって別の道を進むとまた袋小路、といった具合で耳成山まで一直線には進めない。

予想では耳成山の裏側(北側)に着くはずだった。そこには昔、耳成池があったと何かの本で読んだことがある。その名残があるかと期待していたのだが、住宅地内の道が複雑なので思うように耳成山にたどりつけない。業を煮やして耳成山の南側に通じる広い道に出て、ようやく耳成山に着いた。40分くらいかかったのではないか。

耳成山。近鉄電車の車窓から見るいつもの景色である。手前の池は溜池である。溜池の傍らに歌碑があった。

耳成の  池し恨めし  吾妹子(わぎもこ)が
来つつ潜(かづ)かば  水は涸(か)れなむ  (16-3788)

娘は入水自殺したようである。この歌だけでは判らないが、万葉集を開くと、なぜ死んだのかがわかる。

この一首は独立した歌ではなく3首がセットになっている。その題詞に、三人の男がいたが、三人とも一人の女性に言い寄った。娘は困惑する。一人を選べば残り二人を傷つける。あるいは選んだ男を恨むかも知れない。いっそ私がいなくなればよい。と死を選ぶのである。 

歌碑の歌は1番目の歌である。

耳成の池は恨めしい。いとしい子がさまよい来て、水の中に沈んだとき、水が涸れて干上がってくれれば、あの子は死ねなかったものを。

これは実話ではない。そういう物語が伝わっていて、それを題材にして詠んだ歌である。

次の目的地は大和八木駅である。近鉄大阪線の踏み切りを渡って一本目の道へ出た。東に少し戻れば耳成駅があるはずだ。ここでまた気まぐれが起きた。

この道は、かつての横大路ではなかろうかと思ったのである。以前、地図に藤原京の平面図を書き込んだことがある。先にいったように藤原京の北限は横大路であるので、地図上で東西に伸びる道を探し、どうやら近鉄の線路から1本南の道が横大路だろうと推測した。

この道は間違いなく近鉄大阪線のすぐ南側にある。そう思って西の方面を眺めると道は直線である。ずっと続いているようだ。東側を見やってもやはり直線の道である。横大路ではないかも知れないが、思い切って歩いてみよう。


道はさらに細くなった。 横大路の道幅は40m近くあったそうである。だがこの道は5mほどの小道である。はたして昔の横大路なのだろうか?

もし横大路なら、この道を進めば竹之内街道に繋がるはずである。竹之内峠を越せば、南河内郡太子町である。そこには推古天皇・用明天皇・敏達天皇・孝徳天皇の御陵がある。聖徳太子の墓があり、小野妹子の墓もある。

推古天皇と聖徳太子、孝徳天皇が横大路に関わったことは確かであろう。特に孝徳天皇は難波宮を造営したから、大和と難波を結ぶ大道を整備する必要性があったろう。

また小野妹子は太子に命じられて遣隋使となって難波津から出航したと思われる。このとき横大路から竹之内街道を経て難波に行ったはずだ。

太子町の磯長谷(しながたに)にある陵墓のうち敏達・用明・推古・太子は血縁関係がある。その中で孝徳天皇だけが舒明天皇の血筋であることを不思議に思っていたが、ああそうか。孝徳天皇は横大路に繋がる竹之内街道のそばに葬られたのだ。

道は細く車は容易にすれ違いできない。家並みがやや古くなってきた。ちょうど玄関口に年配の女性が立っていたので、「この道は、昔はナントカ街道と呼ばれていたんですか?」と尋ねると「伊勢街道です」。

「もしかしたら昔の横大路ですか?」私はおばさんが横大路という単語を知っているとは思っていなかったが、「そうです」と答えが返ってきた。おお、やはりそうだったのか。大いに喜んだ。


さらに進むと四ツ辻に古い郵便ポストが建っていた。ポストがある角の家は昔の商家の風情である。そこに何やら説明板が掲げられている。

この辻は「八木 札の辻」と呼ばれていたそうである。この辻で直交する道は、東西に通じる道は横大路であることはわかっていたが、南北に伸びる道はなんと「下ツ道」であった。


辻の中央に立ち、下ツ道の北方面を見通す。この道をドンドン進めば、平城京の朱雀大路に繋がるのである。


横大路をさらに進むと、近鉄八木駅の南に出た。かつての八木駅の南側は小さな店や飲食店がゴタゴタと並び、雑然としていたが、近年都市計画によってスッキリした街区に生まれ変わろうとしている。それまでなかった大型ビルが建ち始めている。

先の札の辻に来るまで、横大路の案内板はひとつとして見かけなかったが、横大路の文字をちょいちょい見かけるようになった。

写真左下に金網のフェンスが見えるが、これは法務局の敷地である。1992年にこの地下2.5mのところを発掘したところ、横大路の南側溝(みなみそっこう)が出てきたそうである。側溝の幅は2.6m、深さは50cm。7世紀末から8世紀初めの土器が多数出土したそうである。

側溝から出土した土器が7世紀末から8世紀初めのものであったことは、横大路が廃れた時期を示している。694年に持統天皇は藤原京に遷都した。このとき重要な東西の幹線道路である横大路を拡張整備したのであろう。

8世紀初めで土器がなくなるのは、710年に元明天皇が平城京に遷都したからである。都は一気に20km離れた大和の北部に移った。横大路は難波と平城京を結ぶ道からはずれたのである。

それから1300年を経る間に、道幅が30〜40mあった大幹線道路の横大路は、道幅5mほどの小路になりはてた。

さらに進むと近鉄橿原線の踏み切りがある。これを渡る。



橋がかかっている。川は飛鳥川である。さらに進むと曽我川があるはずである。飛鳥川と曽我川の間、また曽我川の流域一帯は蘇我氏の根拠地(本貫)であったという。

門脇禎ニさんの「葛城と古代国家」を読んでいたら、橿原市に「曽我」という町があり、そこが蘇我氏の本貫の地であるとあった。またそこには入鹿神社があるそうである。地図で曽我町を探したら、それは横大路が貫通している地であった。

蘇我氏は乙巳の変(いつし)で蘇我入鹿が討たれたことで有名であるが、蘇我氏の4代はナカナカの政治力を発揮している。4代とは、初代の蘇我稲目(いなめ)、2代馬子(うまこ)、3代蝦夷(えみし)、4代入鹿(いるか)である。

飛鳥川の南方面を見る。写真の中央からやや右の木立と住宅の境目に畝傍山がのぞいている。

日本書紀から蘇我氏が屋敷を構えた場所を抜き出すと、次の地図の符号のようになる。
  1. 曽我町(書紀にはでていない)
  2. 小墾田の家(稲目)
  3. 向原(むくはら)の家(稲目)
  4. 軽の曲殿(まがりとの)の家(稲目)
  5. 石川の宅(馬子)
  6. 軽の槻曲(つきくま)の宅(馬子)
  7. 島之庄(馬子)
  8. 畝傍の家(蝦夷)
  9. 甘樫丘の家(蝦夷・入鹿)
  10. 双墓(ならびのはか)(蝦夷・入鹿)

図中の数字は宮のあったところである。
  1. 磯城嶋金刺宮(欽明天皇:稲目)
  2. 訳語田幸玉宮(敏達天皇:馬子)
  3. 百済宮(敏達天皇:馬子)
  4. 池辺双槻宮(用明天皇:馬子)
  5. 豊浦宮(推古天皇:馬子)
  6. 小墾田宮(推古天皇:馬子)
  7. 飛鳥岡本宮(舒明天皇:蝦夷)
    飛鳥板蓋宮(皇極天皇:蝦夷・入鹿)
(b)の小墾田の家の場所は梅原さんがいわれる大福の地とした。蘇我稲目は欽明天皇の大臣であったから、磯城嶋金刺宮へ通うには大福に屋敷があったほうが便利であったろう。

仏教が公式に伝来したとき、天皇は稲目に釈迦仏を授けて祀らせた。初めは小墾田の家に安置していたが、後に、(c)の向原の別宅を寺とし、ここに祀った。

(d)の軽は橿原市大軽町であり、(e)石川は隣の石川町、また(c)向原は豊浦にある。(f)は(d)と同じところかもしれない。稲目の時代にはこの辺り(c,d,e,f)まで蘇我氏は勢力を伸ばしていた。

馬子は(g)の島之庄に屋敷を構えた。飛鳥川から水を引いた池があり、その中に島が作られていたので、馬子は「嶋の大臣」と呼ばれた。

蝦夷は飛鳥の西の方面に注目したようである。畝傍山の東(j)に邸宅を作り、武器庫も設けた。(i)甘樫丘に屋敷を建て同じく武器庫を備えた。さらに(j)御所(ごせ)に蝦夷と入鹿の墓を生前に作った。 蘇我一族は、曽我の地を根拠地にして畝傍山に向かって南進し、畝傍山の東の飛鳥、畝傍山の西の御所(ごせ)まで勢力を拡大したようである。


飛鳥川を渡っても横大路は続いている。このこのあたりは小綱町(しょうこ)である。小綱町の先が曽我町だが、曽我町は広い。地図で見ると小綱町の7〜8倍の広さがある。


入鹿神社の案内があった。重要文化財・正蓮寺大日堂の案内が並んでいる。道に面して「古道・横大路」の案内がある。

横大路を左折して北上するとじきに神社の杜が見えた。

鳥居をくぐると正面に入鹿神社の拝殿がある。鳥居の左手には大日堂がある。

大日堂は方3間の寄棟造り。説明板によると、1478年に建てられた国の重文である。

堂内には鎌倉期の大日如来座像があり、これも重文であるという。堂の板扉は開かれていないので、覗くことはできない。


拝殿。東を向いて写真を撮っているから、本殿は西を向いていることになる。西を向いて何を見ているのか。この方角には二上山がある。二上山(雌岳)の南には竹之内峠がある。

多くの鳥居には「××神社」の扁額が掲げられているものだが、ここの鳥居には「入鹿神社」の額はなかった。拝殿にも額は架かっていない。拝殿の左に立っている説明板に「橿原市指定文化財・入鹿神社本殿一棟」と書いてあって、ようやく入鹿神社とわかるのである。

日本書紀によれば、645年6月12日に入鹿は飛鳥板蓋宮の大極殿中で、中大兄皇子・佐伯連子麻呂・稚犬養連網田らによって殺害される。 屍体はムシロで覆われ放置された。中大兄皇子は、蝦夷に遺体を引き取るよう使いを出した。

蝦夷は遺体を引き取ったのであろう。入鹿の遺体を前にしても蝦夷に組する者はいなかった。翌13日に蝦夷は自刃し、蘇我本宗家は滅亡した。この日蝦夷と入鹿の屍を墓に葬ることが許された。

拝殿の裏に回ってみたが、本殿は木立に隠れてほとんど見えない。やむなく神社境内を出て、本殿の裏側から撮ったのが右図。妻入りで庇がついているので春日造のようである。

蝦夷・入鹿親子は皇極天皇が飛鳥板蓋宮に遷宮した後、甘樫丘に屋敷を建てた。蝦夷の宅は「上の宮門(みかど)」、入鹿の宅は「谷(はざま)の宮門」と呼ばれていた。入鹿は常はこの甘樫丘の宅から出廷していただろう。


神社の辺りに入鹿の邸宅があったという言い伝えがあるそうであるが、入鹿殺害当時に主は住んでいなかったはずだ。

蝦夷・入鹿はどこだかの墓に葬られただろう。だが神社に祀られることはなかったはずである。だいぶ時代が下ってから、蘇我氏にゆかりのあるものが神社とし、「入鹿」の名は伏せてひっそりと祀ったのであろう。

近くに人麿神社があるので寄ってみる。正面の杜がそれである。

全国に多くある柿本人麻呂を祀る神社のひとつだろうと、ほとんど期待していなかったが、鳥居横に立つ案内板を見ると「重要文化財・人麿神社本殿一棟」とある。なんと重文である。

本殿の棟木に康永4年(1345年)の銘があるそうである。1345年といえば南北朝時代の初期である。足利尊氏の時代である。よくぞ残ってきたものだ。

本殿。これも一間社・春日造である。今日見た神社(三十八柱、入鹿、人麿)はすべて春日造りであった。

人麿神社であるから、人麻呂の歌碑があって当然である。興味は、この神社はどの歌を人麻呂の代表歌としているかである。歌は長歌(2-207)に続く(2-208)であった。
  秋山の         黄葉(もみじ)を茂み
  迷(まと)ひぬる    妹(いも)を求めむ
  山道(やまじ)知らずも       (2-208)
秋山に黄葉がいっぱいに茂っているので迷い込んでしまった、いとしい人を探そうにも、その山道を私は知らない。

なぜ人麿神社はこの歌を選択したのであろうか。手がかりはその前の長歌にある。次に軽の里の長歌(2-207)の出だしと結びを掲げる。


詞書に「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟(きふけつあいどう)して作る歌」とある。

  天飛ぶや   軽の道は
  我妹子(わぎもこ)が  里にしあれば

  ねもころに  見まく欲しけど
    :          :
  玉たすき   畝傍の山に
  鳴く鳥の   声も聞こえず
  玉鉾(たまほこ)の  道行く人も
  ひとりだに  似てし行かねば
  すべをなみ  妹が名呼びて  袖ぞ振りつる

飛鳥川を渡って近鉄八木駅へ戻る。

キーワードは「畝傍の山」である。妻がよく行っていた軽の市に自分も行ってみたが、畝傍の山でいつも鳴いている鳥の声さえ耳に入らない。道行く人も誰ひとりとして妻に似た人はいない。どうすればよいのだ。妻の名を呼んで、ひたすら袖をふるしかなかった。

場所は軽の市である。そこは畝傍の山が近い。その畝傍山は人麿神社のちょうど真南にある。おそらく人麿神社はこの長歌を掲げたかったと思われるが、この長歌(2-207)は53句もある。やむなく次の(2-208)の短歌を歌碑にしたと推測する。

近鉄八木駅から普通電車に乗って次の真菅(ますが)駅で下車する。正面の杜は宗我坐宗我都比古神社である。

宗我坐宗我都比古神社(そがにます そがつひこ)の祭神は宗我都比古と宗我都比売(そがつひめ)の2柱である。宗我都比古・宗我都比売は曽我の祖先を神格化したものであろう。つまり曽我町の地主神である。

蘇我氏の氏神であったのかも知れないが、境内に説明板はなかった。境内には神輿の格納庫と太鼓台の格納庫があったので、祭りは結構盛大に行われるようである。

本殿。平入りに破風がついている。たぶん反対側にも破風があるのだろう。背後にも破風があれば四棟屋根(よつむね)ということになる。(この形式は吉野宮滝にある桜木神社(天武天皇が祭神)もそうだった。)

屋根は桧皮葺きだが、桧皮がかなり薄くなっている。そろそろ葺き替えをしないと。


神社を出て南下する。一帯は曽我町である。向うには畝傍山が見える。

とにかく蘇我氏は人気がない。馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたい・こま)に命じて崇峻天皇を殺害したし、入鹿は聖徳太子の子の山背大兄皇子一家を死に追い込んだ。あげくが入鹿の殺害である。

人気がないのは当たり前とはいえ、仏教の普及に努めたことは評価せねばならない。稲目は欽明天皇から釈迦仏を貰いうけ、向原に寺を作った。ちょうどそのころ疫病がはやったので、物部尾輿・中臣鎌子らは崇仏のたたりであるとして寺を焼き、仏像を難波の堀江に捨てた。

敏達天皇の13年、馬子は弥勒菩薩石像など2体を下賜された。馬子は八方手を尽くして修行者を探しだし、3人の女を出家させ、自らも仏法に帰依した。馬子は石川の家に仏殿を造った(石川精舎)。ここから仏法の広まりが始まった。

しかし稲目のときと同じことが起きる。疫病が流行り、物部守屋・中臣勝海は仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てた。

用明天皇の2年、天皇は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思うと群臣に問われた。排仏派の物部守屋・中臣勝海は怒り、兵を集めた。馬子側も槻曲(つきくま)の屋敷のまわりを兵で固めた。一触即発の状況にあったが、用明天皇は崩御された。

道を真っ直ぐ南下すると川の堤にぶつかった。川は曽我川である。曽我川の向うも曽我町である。

馬子は物部守屋を討つべく挙兵した。初めは戦いの形勢は不利であった。このとき馬子は寺塔を建てる誓いをし、聖徳太子は四天王を祀る寺を建てることを誓った。

崇峻天皇の元年、百済から仏舎利が贈られた。同時に幾人かの僧や寺院建築工・瓦博士などの技術者がやってきた。馬子は飛鳥の真神原に法興寺を建立することに決めた。

推古元年、四天王寺を難波の地に作り始めた。推古4年法興寺(飛鳥寺)が落成した。推古13年、太子は鞍作鳥に丈六の金銅仏を作るよう命じ、14年に完成したので法興寺に安置した。

橋が架かっている。曲川大橋である。上の写真にあるように曽我川はこのあたりで大きく曲がっている。橋は南西方向を向いている。向うにぼんやりと葛城山が見える。

橋を渡ると曲川町となる。ここも蘇我氏の根拠地である。蘇我氏が権力を握ったのは、稲目が29代欽明天皇に二人の娘(堅塩媛・小姉君)を嫁がせてからであるが、欽明天皇の2代前の27代安閑天皇は勾金橋(まがりのかなはし)を都としている。曲川町にある金橋神社がその名残りという。

次の28代宣化天皇のとき稲目は大臣になっているから、欽明天皇より以前に稲目はのし上がっていたことになる。その武器は稲目の先進性であったろう。大陸文化を積極的に取り入れたことであろう。


推古天皇以前の天皇の在位の年は不明だが、27代安閑天皇が即位したのは530年〜550年ころだろう。入鹿が645年に殺害されるまでの約100年間が蘇我氏が繁栄した時期であった。

もしも蘇我氏に対抗した物部氏・中臣氏が主張する保守の国造りがなっていれば、仏教寺院はなく、律令制もなく、都城制もない国ができてきたはずである。それでは日本は世界から取り残され、後進国のままであったろう。

優れたものは取り入れなければならない。蘇我氏は滅びたが、蘇我氏がやったことは、後の天智天皇・天武天皇へ引き継がれ、持統天皇の藤原京、元明天皇の平城京に引き継がれるのである。

今日は馴染みの薄い蘇我氏に関係ある土地を訪れた。蘇我氏は不当に評価をおとしめられている。再評価されてもよいのではないかと思った。今日の万歩計は17900歩だった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 桜井・橿原...         執筆:坂本 正治