明日香・真弓の丘

    No.82.....2011年 1月 9日(日曜)


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2009年から2010年にかけて、明日香村教育委員会は牽牛子塚古墳(けんごしづか)を発掘調査し、古墳は八角墳であったことが判明した。

八角形の墳丘部は3段に重ねられており、最下段の墳丘の一辺の長さは9m。その周りには八角形の敷石が並べられていたそうである。

牽牛子塚古墳は2002年11月に訪れている。その折、

@牽牛子とは朝顔(花)のことであり、名前からして古墳は八角形をしている。

A現在、宮内庁は字「車木」にある陵を斉明天皇陵としているが、そうではなく、牽牛子塚古墳こそが斉明天皇の陵であろう。

という学者の意見を知っていた。

今回の発掘調査で、まさに八角形であることが確かめられ、新聞の報道となったのだが、まあそうだろうという程度にしか思っていなかった。ところが12月10日に、牽牛子塚古墳の南東20mほどのところから大田皇女の墓と思われる古墳が発見されたの報道があって、大いに驚かせられた。

サンケイ新聞の見出しは「斉明陵前に皇女の墓」「日本書紀 記述通り」とある。日本書紀は、天智6年(667年)2月27日に斉明天皇と間人皇女(はしひと・孝徳天皇の皇后)を越智岡上陵(おちのおかうえのみささぎ)に合葬し、この日、皇孫の大田皇女を陵の前の墓に葬った、と伝えている。

大田皇女は中大兄皇子(天智天皇)の皇女であり、大海人皇子(天武天皇)の妃であり、大来皇女(おおく・大伯とも書く)と大津皇子の母である。間人皇女は舒明天皇と斉明天皇の子供で天智天皇の妹であるから、天智天皇は、@母親とA実妹とB実娘の3人をひとつ所に葬ったわけである。それが牽牛子塚古墳なのである。

牽牛子塚古墳は近鉄飛鳥駅の西の丘の上にある。近鉄・吉野線の飛鳥駅から壺阪山駅にかけて、線路の西側に小高い丘がうねり続いているが、この丘を「真弓の丘」という。


真弓の丘にある次の古墳を訪れた。
  1. 岩屋山古墳
  2. 牽牛子塚古墳
  3. 鑵子塚(かんしづか)古墳
  4. マルコ山古墳
  5. 束明神古墳
  6. 岡宮天皇陵
写真は飛鳥駅前。東を向いている。西側には駅出口がないので、いったん東側に出て、線路を渡って西に行くことになる。

踏み切りの向うはゆるやかな坂道である。真弓の丘の始まりである。

「古墳とヤマト政権」(白石太一郎)によると、巨大な前方後円墳は600年ころを境にして造営されなくなった。ヤマトで最後の前方後円墳は、29代・欽明天皇の御陵ではないかと推定されている見瀬丸山古墳で、墳丘長は318mもある。

30代・敏達天皇陵は大阪府太子町にある。天皇陵としては最後の前方後円墳である。

太子町には、31代・用明天皇陵があるが、これは方墳(63×60m)である。平面は正方形に近い。 用明の子の聖徳太子の墓は円墳。33代・推古天皇陵は方墳(63×56m)である。

蘇我馬子は推古天皇が没する2年前に亡くなり、その墳墓は明日香の島の庄にある石舞台といわれているが、これも方墳(50 ×50m)である。 用明天皇が移葬されたのは聖徳太子が摂政を務めた推古天皇の時代であったろう。聖徳太子以降に天皇陵は円墳や方墳に切り替わっていったのである。

おそらく推古天皇の時代に「前方後円墳の造営停止」の命令が出されたのであろう、と白石太一郎さんは言われている。

踏み切りを渡ってすぐ右手(北)に土饅頭状の古墳が見えた。道路から入り込むと農家の敷地であった。鎖に繋がれた2匹の犬に吠え立てられた。

墳墓は2段になっている。明日香村のHPによると、方墳(40×40m)と推定されている。


方墳と「推定」しているのは、ご覧のように墳墓の左(西)半分は削り取られて、民家が建っているためである。

推古天皇の前の32代・崇峻天皇陵は円墳である。粗くいえば、600年〜640年のころの天皇と蘇我氏の陵墓は方墳で、反蘇我氏勢力の陵墓は円墳である(太子も崇峻も反蘇我といってよい)。

推古天皇の次の34代・舒明天皇の陵は桜井市忍阪(おつさか)にある押坂内陵(段ノ塚古墳)で、これは八角墳である。平面を見ると前方後円墳の「鍵穴」の形をしているが、後円部が円形ではなく八角形になっている。

舒明天皇は641年に没した。35代・皇極天皇として即位したのは舒明の皇后であった宝皇女である。


皇極天皇の元年、舒明は明日香の冬野に葬られたが、翌年押坂に移葬されたと日本書紀にある。皇極天皇は押坂内陵を造営した。これがヤマトにおける八角墳の始まりである。舒明天皇以降の天皇とその陵は次のとおり。

 34代・舒明天皇 (押坂内陵・八角墳)
 36代・孝徳天皇 (磯長陵・円墳)
 35/37代・皇極(斉明)天皇 (牽牛子塚古墳・八角墳)
 38代・天智天皇 (山科陵・八角墳)
 39代・弘文天皇 (長等山前陵・円墳)
 40代・天武天皇 (檜隈大内陵・八角墳)
 41代・持統天皇 (檜隈大内陵・八角墳)
 42代・文武天皇 (中尾山古墳・八角墳)
 43代・元明天皇 (奈保山東陵・山形墳)

43代・元明天皇の奈保山東陵(山形墳)は平城京へ遷都した奈良時代のことである。飛鳥時代では、36代・孝徳天皇の磯長陵と39代・弘文天皇の長等山前陵(ながらやまさき)が円墳であるがこれは例外で、天皇陵はすべて八角墳である。

方墳が最高の陵墓であった時期に聖徳太子・崇峻天皇は円墳に葬られ、八角墳が最高であった時期に孝徳天皇・弘文天皇は円墳に葬られていることを思えば、政争に敗れた者の陵墓は一段格下の墳墓にされたのかと思われる。

(右図)巨大な石を積み上げた石室は完全な姿で残っている。大きな切石が1段または2段に積んだ羨道がある。その長さは13m。幅と高さは各2mという。平らな石面はコンクリート造のように精巧だ。

13mの羨道の先には玄室がある。奥行き5m弱、高さ3m。壁面の2段目は船底のように内に傾けている。天井の石は1枚。これほどに高さと広さがある玄室であるからには、家形石棺が置かれていたに違いないが、盗掘によってカケラすら残っていない。

出土した土器から、7世紀前半に築造されたと推定されているようである。方墳ではなく八角墳ではないかという学者もいて、それならば斉明天皇に縁にある人物の墓ではないか。それは斉明の母である吉備姫王(きびひめのおおきみ)ではないかの推定もあるそうである。

宮内庁が吉備姫王と祀る墓は、近鉄飛鳥駅を出てすぐのところにあり、そこには4体の猿石が置かれているが、墓は岩屋山古墳ほど立派ではないし、規模も大きくない。

いよいよ牽牛子塚古墳へ向かう。大田皇女の墓の見学会があったためであろう、新しい道案内が立っている。

641年に舒明天皇が薨去し、642年に皇后であった宝皇女が即位して皇極天皇となった。皇極は49才である。舒明との間に2男1女があった。中大兄(なかのおおえ)皇子・間人(はしひと)皇女・大海人(おおあま)皇子である。中大兄皇子はそのとき16か17才であったろう。

皇極の在位は642年〜645年の3年半と短い。大臣は蘇我蝦夷(えみし)である。天皇は大臣に詔して百済大寺を建立させたり、板蓋宮(いたぶきのみや)を造営させているが、それに伴って蘇我氏の専横が顕著になっていく。

643年、蘇我蝦夷の子の入鹿(いるか)は聖徳太子の子である山背大兄王一族を全滅させた。


道なりに進むと、丘の上に工事用の柵がハチマキのように並べられているのが見えた。牽牛子塚古墳である。

644年、中臣鎌足は任官を辞して摂津の三島へ移り、入鹿打倒の策を練る。そしてついに645年6月12日、中大兄皇子・蘇我倉山田石川麻呂、鎌足らによる乙巳の変(いつしのへん)が起きた。

場所は飛鳥板蓋宮の大極殿。皇極の目の前で入鹿は斬殺された。皇極は大いに驚き、「何事が起きたのか?」と中大兄に尋ね、立ち上がって殿舎に戻ったと日本書紀は伝える。皇極は何も知らされていなかった。

6月14日、皇極は同母弟の軽皇子に譲位し、軽皇子は即位して孝徳天皇となる。皇太子には中大兄皇子がなった。

牽牛子塚古墳は版築によって3段に築かれた八角墳である。1段目の墳丘の1辺の長さは約9m・対角長は22m。この周りに切り石が敷かれ、さらにその外側に小石が敷かれているそうである。小石が敷かれた部分を含めると、1辺が12m・対角長は32mの規模になる。

2段目の墳丘の1辺の長さは約7m・対角長は18m強。発掘前はこの2段目の規模がこの古墳の大きさであるとされていた。右図の草が刈られた斜面が2段目。

その上に3段目がある。図で工事用の柵で囲まれた部分である。頂上部には防水シートが掛けられている。

3段目を見下ろす。八角墳の全体が見渡せるのではないかと、3段目より高い位置に続く小道を登ってみた。

3段目はすっぽりと防水シートで覆われている。図の左が南、右が北である。3段目の北半分は黒色と黄色の縞の入った工事用フェンスで囲われ、立ち入りができなくなっている。この部分を発掘して1段目と2段目の規模と形状を調べたのだろう。

このアングルは見覚えがある。2002年11月に、No.5 飛鳥 A日目でこの古墳を訪ねたことがある。その写真が次図である。 右図の黒と黄色の工事用フェンスは、次図の緑色の金網のフェンスがあったところである。緑色フェンスが途切れたところに、人が踏みならした細い小道ができているが、これは右図の3段目の南側に続く道と同じである。

(右図)このように、墳丘は草で覆われ、雑木が茂っていた。右図の2段目の傾斜の裾から傾斜は緩やかになっていて、この下に1段目の墳丘があるらしいことが推測できる。

蘇我蝦夷・入鹿が殺されたとき、計画について何も知らされていなかった皇極天皇は怒り、退位することを決めたと思われる。次の天皇は誰がよいか。

皇極の子の中大兄皇子はまだ20才である。天皇にするには若すぎた。皇極には同母弟の軽皇子があった。当時は生まれた子供は母親方が養育した。同じ母のもとで育てられた姉と弟の仲が格別によいのは、大田皇女の子の大来皇女と大津皇子の例を見ればわかる。

軽皇子は即位して、36代・孝徳天皇になった。

(右図)3段目の墳丘を回り込んで南側に向かう。そこには石室の開口部がある。

娘の間人皇女は皇極の弟の軽皇子(孝徳天皇)に嫁いでいたから、弟が即位することに異存はなかったろう。 孝徳天皇が即位したのは50才のときである。間人は18才くらいだったのではなかろうか。ずいぶん年齢差がある夫婦である。高年齢で即位した孝徳天皇は、だが極めて革新的な政治をした。

@まず、即位の日から年号を「大化」とした。これは年号使用の始まりである。

A大化元年12月に難波に遷都した(難波長柄豊崎宮)。

B翌年1月に大化改新の詔(みことのり)を発した。

石室の開口部。手前の平らなところは2段目の墳丘の上部であるから、石室は2段目と3段目の中間にあるようである。今は発掘のために立木が伐採されて明るいが、前回来たときの写真が次図である。こちらは雑木が茂っていて暗い。

大化改新の詔は、4つの画期的なことを決めている。
    @は、「公地公民」である。豪族の支配する部民と土地をおおやけのものとし、豪族には改めて食封(へひと)を与えた。

    Aは、地方の行政制度の定めである。畿内に国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置いた。

    Bは、戸籍・計帳・班田収授の法である。50戸を里とし、里長を置いて戸人の管理をさせる。また歩(坪)・段(反)・町の広さを定め、1町につき租稲22束とした。

    Cは、賦役の廃止である。賦役を課さない代わりに「調」を行う。例えば1町の田につき絹1丈、1戸につき粗布1丈2尺、100戸につき馬1匹を課す。
以上のことによって、地方の豪族を無力化し、朝廷が支配しやすく、税が朝廷に集中して納められる、という体制を作ったのである。

だがそれは権力者を贅沢にさせるためのものではなかった。国の民が貧しいのは立派な墓を作るのも原因であるとして、墓についての定めもしている。

例えば皇族以上は、@玄室のサイズは9尺×5尺、A墓の外域は9尋×9尋・高さ5尋、B労役に服するのは1000人、C7日で築成を終えること、とした。 1尋(ひろ)は6尺とすれば1.8m、5尺なら1.5mである。皇族の墓であっても16m×16m(または13.5m×13.5m)に制限したのである。

開口部の手前に斜めになっている大きな石は石室を塞ぐ外側の扉である。次にもうひとつ内扉があって、図のように鉄柵が嵌め込まれている。もとは木製の扉が付けられていたのであろうか。この内扉の石を取り除くと、巨大な凝灰岩を刳り抜いた2つの石室があるのである。

次図は左右の石室である。左右はだいたい同じサイズで、高さは約1.3m、幅は約1.1m、奥行が約2.1m。




2つの石室が刳り抜かれた凝灰岩のサイズは、横幅5m、奥行き3.5m、高さ2.5mだそうだ。巨石である。

そこで思い出すのは、牽牛子塚古墳から北西5〜600mのところにある「益田岩船」である。2002年11月に訪れたときは、この巨石の四角の穴は何のため掘られたのかを想像するための知識はなかった。

そのときは、@記念碑の台である。A墳墓である。 B占星台である。Cゾロアスター教の儀式に使われた(松本清張)。 といった推測があることを知っていたに過ぎない。

そのとき撮った写真(右図)を取り出してみると、これは繰り抜いた石室に違いない。2つの石室を掘っていたのである。

「Yahoo地図」で益田岩船の航空写真をみると、なんと大岩に2つの穴が並んでいるのが認められた。ブタの鼻のようである。

穴が岩の上に開いているものだから、ここに記念碑を嵌め込んだとか、占星台にしたとか、儀式に使ったとか推測されているのであろうが、ことは簡単である。完成したら横にして2つの石室とするのである。

考えてみれば、四角い穴を掘るには上から彫るほうが簡単である。削った石を捨てていけば、ドンドン深く掘ることができる。上から小石をつけた糸を垂らせておけば、この垂直線を基準にして、真っ直ぐに掘り下げることが容易となる。石室は横向きに置かれるからといって、石工が岩の横から彫らねばならないということはない。


開口部からやや南東を見下ろすと、発掘した後、土を戻した場所がある。ここが大田皇女の墓であろう。

斉明天皇が亡くなったのは661年である。当然どこかに天皇の陵が築かれたろう。それは車木にある斉明天皇陵(越智岡上陵)であったのではないか。(越智は車木の隣)

冒頭にいったが、斉明天皇と間人皇女が牽牛子塚に、その前に大田皇女が葬られたのは、天智6年(667年)2月27日のことである。翌月3月19日に天智は近江に遷都している。飛鳥を出る前に、母・妹・娘をここに安置したわけだ。

間人皇女が亡くなったのは天智4年(665年)2月である。おそらくこのとき、天智は母・斉明と妹・間人を一緒に葬ろうと思い、巨岩に2つの石室を繰り抜かせたのである。それは初めは益田岩船であったのかも知れない。

益田岩船の大きさは東西11m、南北8m、高さ4.7mである。今ある牽牛子塚古墳の石槨の岩にくらべて、各サイズは2倍ある。体積で8倍である。このような巨岩こそが、2人を葬るにふさわしい。そこに1辺1.6mの穴を掘り始めたが、深さ1.3mまで掘って中断された。

片方の穴は水漏れすることが判明したのである。岩を繰り抜くのは石室に水が漏れるのを防ぐのが一つの理由であろう。益田岩船は放置された。代わりに二上山の凝灰岩を繰り抜くことになった。岩は小ぶりになり、石室のサイズも少し小さくなった。このようにシロート(私)は推測するのである。

近くの工事用フェンスに大田皇女の墓の発掘時の写真が掲げられてあった。


上図を見ると、平らな床石に長方形の台がある。蓋石はこれを覆うようにかぶせられていたはずであるが、その一部しか残っていない。盗掘のときに蓋石が砕かれたのだろう。

天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)のすぐ近くに「鬼の雪隠」(右図)と「鬼の俎板」(次図)がある。

鬼の雪隠は石室の蓋石であり、鬼の俎板は石室の床石である。俎板の上に雪隠をかぶせると石室ができる。 ここに盛り土をして版築すれば立派な墓になる。

天武・持統天皇陵のそばにある墓であるから皇族の墓であったろうが、暴かれて今のような姿になっている。

石室の造作の変遷は、@岩屋山古墳のように切石を積む→A大田皇女の墓や鬼の雪隠・鬼の俎板のように床石・蓋石の2つの石を合わせる→B益田岩船や牽牛子塚古墳のように1つの巨石に石室を繰り抜く、といった順番であるらしい。

難波に遷都した孝徳天皇のブレーンは、@中大兄皇太子、A左大臣が阿倍倉梯麻呂、B右大臣が蘇我倉山田石川麻呂、C内臣が中臣鎌足、D国博士は僧旻(みん)と高向玄理(たかむくのくろまろ)であった。中大兄の弟の大海人皇子もいた。

この強力メンバーが、新しい統治のしくみを作り上げていったのだが、649年に阿倍倉梯麻呂が亡くなり、蘇我倉山田石川麻呂が謀叛の疑いをかけられて自殺し、651年僧旻が死ぬなど、少しずつメンバーが欠けていく。

牽牛子塚古墳を後にする。

孝徳天皇のとどめの悲劇は653年に起きた。皇極皇太后・中大兄皇太子・間人皇后・大海人皇子・中臣鎌足らが飛鳥に引揚げたのである。仲のよかった姉(皇極)ばかりか、妻(間人皇后)までもが自分のもとを去ったのである。日本書紀に、孝徳は去った間人に次の歌を贈ったとある。

  鉗(かなき)着け  我が飼ふ駒は
  引き出せず     我が飼ふ駒を   人見つらむか

頸木(くびき)をつけて、私が飼っていた馬を厩から出すこともせず、大切にしていたのに、どうして他人が見つけて連れ去っていったのだろうか。残された孝徳は翌年654年に悶死した。


(右図)鑵子塚(かんしづか)古墳。前回は古墳の開口部まで立ち入れたが、今回は危険防止のために立ち入り禁止となっていた。円墳である。

どういう理由で孝徳が置き去りにされたのかはわからない。孝徳天皇が亡くなった翌年、655年に皇極皇太后は再び即位して斉明天皇となった。天皇は62才である。中大兄は30才になっていたが即位せず皇太子のままでいた。

斉明天皇が在位したのは655年から661年の7年間であるが、初めの5年間に大きな出来事はない。658年に孝徳天皇の子である有馬皇子を謀叛の疑いで処刑したくらいである。

中大兄皇太子と中臣鎌足は、「大化改新の詔」で掲げた政策を着々と実現化していった。権力と富を集中できるシステムがほぼ完成した時期である。

これをバックにして、斉明は飛鳥においていくつかの大工事を行っている。日本書紀によれば、
  1. 後飛鳥岡本宮を造営した。
  2. 多武峰(とうのみね)山頂に両槻宮(ふたつきのみや)を建造し、周りに垣を築いた。
  3. 天理まで運河を掘り、200艘の船で切石を運んだ(飛鳥池東方遺跡)。
  4. 宮の東の山に切石を積んで垣にした(酒船石遺跡)。
  5. 吉野宮を造営した。
  6. 須弥山を形どった石造物を飛鳥寺の西に作った(水落遺跡)。
とある。右図は飛鳥板蓋宮跡だが、石が敷きつめてある。ここから「百(もも)敷き の」は「宮」の枕詞となった。

  1. 中大兄は漏刻(水時計)を作り人民に時を知らせた(石神遺跡)。

  2. 書紀は記していないが、10年前に発見された「亀形石造物」もそうであると「飛鳥−水の王朝」(千田稔)はいわれている。
右図は亀形石造物。中央下の丸いタライ状の石は亀形をしている。その一帯は石が敷き詰められており、周りは切石を積んだ石垣である。

斉明は飛鳥を石で覆いつくそうと思ったかのようである。石像も多く残っている。亀石・猿石・酒船石・ニ面石・マラ石などである。斉明天皇の石へのこだわりが覗える。

(右図)鑵子塚(かんしづか)古墳の向う(南)には舗装された道があった。 地図を見ると、真弓丘をいったん下って→近鉄線路まで行き→南下すると「佐田」の集落がある→そこから再び真弓丘を登っていけばマルコ山古墳がある。

マルコ山古墳の埋葬者は不明だが、天智天皇の子の川島皇子ではないか、また天武天皇の子の弓削皇子ではないか、といわれている。

万葉集の巻1・巻2は万葉集の中核で、合計234首(雑歌84首・相聞56首・挽歌94首)が集められているのだが、そこへ 川島皇子は1首、弓削皇子は5首を残している。

万葉集は舒明天皇から始まるといってよい。巻1の冒頭歌は雄略天皇の「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ ・・・」だが、これは舒明天皇より前にはこのような歌があったという代表歌である。実質の万葉集第一番目の歌は、舒明の次の歌(1-2)である。



大和には多くの山々があるが、
とりわけ装いのよいのが香具山である。
その山に登って、国見をすると、

陸のあちこちに炊煙が立ち上っている。
海には多くの鴎が飛び立っている。
蜻蛉島(あきつしま)である大和の国は、
ほんとうに美しい。



(右図)近鉄の線路まで戻った。向う(右手、電柱の近く)に高取山が見える。

舒明の皇后であった皇極(斉明)天皇の歌は、万葉集にはない(はっきりしていない)。ただ額田王が替わって皇極の心情を詠った次の歌がある。

大化4年皇極上皇は宇治へ行幸した。かつて舒明と皇后が近江の比良宮に行幸した途上、この宇治で旅宿りをしたことがあった。舒明亡きあと再び宇治を訪れるてみると、そのときのことが思われてならない。




ゆるやかな真弓丘を登っていくと民家の裏に円盤のような古墳が見えた。マルコ山古墳である。

中大兄皇子は8人の女性に子を産ませている(正妻の倭姫王(やまとひめのおおきみ)には子がなかった)。母親の身分が高い4人が生んだ子供は次のとおり。
  1. 蘇我石川麻呂の子の遠智娘(おちのいらつめ)が、@大田皇女●、A鵜野皇女●、B建(たける)皇子。
  2. 遠智娘の妹の姪娘(めいのいらつめ)が、C御名部皇女、D阿陪皇女(元明天皇)。
  3. 阿倍倉梯麻呂の子の橘娘(たちばなのいらつめ)が、E飛鳥皇女、F新田部皇女●。
  4. 蘇我赤兄大臣の子の常陸娘が、G山辺皇女。

身分が低い4人が生んだ子供は次のとおり。
  1. 色夫古娘(しきぶこ)が、H大江皇女●、I川島皇子、J泉皇女。
  2. 黒媛娘(くろひめ)が、K水主(もひとり)皇女。
  3. 越道君娘(こしのみちのきみ)が、L志貴皇子。
  4. 伊賀采女(いがのうねめ)が、M大友皇子。
日本書紀に掲げてある順に抜き出したが、皇子が4人、皇女が10人である。皇女のうち4人(上の●)は弟の大海人皇子の妃になっている。

身分の高い建皇子は幼くして亡くなった。天智天皇の後を継いだのは年長の大友皇子であったが、壬申の乱で破れて死んだ。天武天皇時代には川島と志貴の2皇子が残っていた。

(右図)マルコ山古墳は大変に姿がよい。いったいに古墳は眺めて面白いものではないが、7世紀末に築かれた当時の姿を保っているマルコ山古墳をみて、飛鳥の墳墓は美しかったのだと感心する。

マルコ山古墳は入口が開いていない。説明板を見ると、平面は対角長が24m(ということは1辺が12m)の六角墳、2段築成で高さ5.3m、石室は凝灰岩切石を組み合わせてある、とある。

漆塗木棺の破片、太刀金具が出土しているそうだから、 まあ皇子の墓であることは確かだろう。終末期(7世紀後半)の古墳である。この時期に亡くなった皇子で墓が不明なのは、川島皇子(691年)・高市皇子(696年)・弓削皇子(699年)である。

柿本人麻呂は4人の皇子・皇女の挽歌を作っており、歌中に殯宮(もがりのみや)があった場所を詠い込んでいる。
  1. 草壁皇子(689年没)真弓(佐田)
  2. 川島皇子(691年没)越智
  3. 高市皇子(696年没)城上(きのへ)
  4. 飛鳥皇女(700年没)城上(きのへ)
4つの挽歌のうちで、感心するのは川島皇子への挽歌である。この歌によって川島は「越智」に葬られたことがわかるのだが、越智はマルコ山古墳のある真弓から西へひと丘越えたところである。

斉明天皇は「越智岡上陵」に葬られたと日本書紀にある。これが真弓にある牽牛子塚古墳だとすると、「真弓」と「越智」の分別はそうはっきりしたものではなかったようだ。よってマルコ山古墳を川島皇子の墓ではないかと推測してもよい。

挽歌には『柿本朝臣人麻呂、泊瀬部(はつせべ)皇女と忍壁(おさかべ)皇子とに献(たてまつ)る歌一首』の題詞がある。泊瀬部は川島の妻、忍壁は泊瀬部の同母兄である。



(飛ぶ鳥の)飛鳥川の
川上に生えている玉藻は
川下に流され絡み合っている
その玉藻のように寄り添い
靡きあった夫のあなたが
重なりあう柔肌を

剣を身の側に添えるように寝なくなったので
(ぬばたまの)夜の床が荒れているでしょう。
だからこそ、私の心は慰めかねて
もしやお逢いできるかもと思い

(玉垂れの)越智の大野の
朝露で裳裾は土で汚れ
夕霧で衣を濡らせながら
(草枕)旅宿りをすることです
もう逢えないあなたゆえに。


(敷栲の)袖を交わしあったあなたは
(玉垂れの)越智野を過ぎていってしまった
再びお逢いできるのでしょうか。


マルコ山古墳からの眺め。東南を見ている。奥の山並の中央部の切れ込みは芋ケ峠に続く谷だろう。峠の右は高取山である。左の高いところが竜門岳か?

飛鳥京の大工事をしたり、紀伊白浜へ温泉につかりにいったり、吉野宮で宴会をしたり、と比較的安定していた斉明時代だったが、斉明6年から一気にあわただしくなった。百済が新羅と唐によって侵攻され、国の存亡が危うくなったと、救援を要請してきたのである。

斉明はこれに応じた。船を作らせ、武器を難波に集め、翌年(661年)1月6日、斉明は船団を率いて難波津から出港した。中大兄・大海人ばかりでなくその妃も従った。8日には早くも岡山の大伯(おおく)の海に着いた。このとき、中大兄の娘であり大海人の妃であった大田皇女が女子を出産した。それが大来(大伯)皇女である。

束明神古墳に向かう。束明神古墳はマルコ山から南西1km先、ひと丘越えた「佐田」にある。

14日、船団は熟田津に着き、石湯行宮(いわゆのかりみや。松山の道後温泉)に泊まった。ここで遅れて出港した軍団を待ったのか、兵器の調達をしたのか、斉明の体調が悪く休養したのか、ともかく3月25日に博多へ向かって船出した。

出航にあたって、額田王は斉明に代わって次の歌を詠んだ。歌は各船に伝えられ、船団の志気をいやがうえにも高めたことであろう。


斉明は筑紫の朝倉に宮を置いた。ここで朝鮮半島の情勢を探り、いざとなれば援軍を出すつもりであったのだろう。だが7月24日に斉明は亡くなった。68才であった。

10月に斉明の亡き骸は難波に着き、11月に飛鳥川原宮で殯りした。中大兄や大海人は再び家族と連れて筑紫に戻ったのだろう。その地で、翌年662年に大海人の妃鵜野皇女は草壁皇子を、663年に大田皇女は大津皇子を生んでいる。

筑紫に本営を置き、国家の総力を挙げて百済復興の援助をしたのだが、663年8月27日、白村江の戦いで、日本水軍は壊滅した。兵を失い、資力を注ぎ込んだ兵器や船を失い、半島の権益を失った。

束明神古墳のある集落に着いた。束明神古墳は草壁皇子の墓ではないかといわれている。

中大兄は、飛鳥ではなにかとやりにくかったのだろう。667年に近江京へ遷都し、668年に天智天皇として即位したが、671年12月に薨去し、山科陵(八角墳)に葬られた。

大友皇子が弘文天皇として即位したが、翌年の壬申の乱で、大海人皇子によって討たれ、長等山前陵(円墳)に葬られた。

673年大海人は即位して天武天皇となる。681年鵜野皇女との間の子の草壁皇子を皇太子とする。686年天武が薨去した。草壁皇子は2年間の長きにわたった殯宮(もがりのみや)を主宰し、688年に天武は檜隈大内陵(八角墳)に葬られた。だが、翌689年草壁は病死した。28才であった。


(右図)束明神古墳は春日神社の境内にあるようである。石段を登れば神社がある。

鵜野皇女はわが子草壁を天皇にするために、さまざまな手を打ってきたのである。@679年に吉野で6皇子の盟約をさせた。A681年にようやく皇太子にした。B天武が薨去した直後には第2位の皇位後継者である大津皇子を処刑した。Cこのたびは草壁の権威づけのために長期間の殯をした。

これらの苦労がことごとく無駄になった。鵜野の夢は潰えた。この上は草壁の子の軽皇子を即位させるしかない。そのためには草壁の葬儀を大々的に、天皇なみの規模で執り行うことである。それほど手厚く葬られた草壁の子の軽皇子こそが天皇になってしかるべきだ、の考えを宮廷内に植え付けねばならない。

円墳のように見えるが、八角墳である。脇に立っている説明板によれば、尾根の南側を直径60mの範囲が造成され、その中央部に墳丘を築成しているという。右図の墳丘の直径はとても60mはない。直径は10m あるかどうか、高さは2mほどの規模である。

発掘調査の結果、対角長30mの八角墳であると判明した。当然に1段の墳丘ではなく、2段あるいは3段の墳丘であったのだろう。また 石室は大きく、長さが約3m・幅2m・高さ2.5mであるという。そうであれば、眼前に見ている墳丘は低すぎる。 牽牛子塚古墳のように1段目と2段目(または2段目と3段目)の間に石槨があったのではないか。

石室から青年から壮年の歯が6本見つかっているそうだ。八角墳であることと歯による年齢から、草壁皇子の墓であろうと推測されている。


殯は1年の長きに及んだようである。鵜野皇女(持統天皇)は人麻呂に挽歌を作らせ、殯宮で何度も歌わせた。次の長歌である。



天と地が初めて分かれたとき
(ひさかたの)天の河原に
大勢の神々が
お集まりになり
治めるべきところを神々にお分けになったとき
天照大神は
天を治められることになった。

葦原の瑞穂の国は
天と地が接する果てまでを
お治めになる神の命として

幾重にも重なる天雲をかき分けて
降りてこられた
天高く輝く日の御子(天武天皇)は
飛鳥の浄御原の宮に
神のままにお治めになった。

そしてこの地は天皇が治める国であるとして
天の原の岩戸を開かれ
神として天に上っていかれた。

わが大君(草壁皇子)が
統治される世は
春の花のようにめでたいであろう
満月のように満ち足りていようと
国中の人々が
大船に乗ったように安心し、
天からの恵みの雨を待ち仰いでいた。

だがどう思われたのだろうか
ゆかりもない真弓の丘に
太い宮柱を立てられて
高々とした宮殿をお造りになった。

朝のお言葉をおかけにならなくなって
長い月日がたってしまった。
そのために、皇子にお仕えする宮人は
途方にくれている。




草壁皇子は奈良時代に岡宮天皇を追号された。宮内庁が「岡宮天皇陵」として管理する陵が、束明神古墳から300mほどはなれたところにある。右図の右側の杜がそれである。

人麻呂は草壁のために65句からなる長歌を詠んだ。だが初め14句は天照大神について、次の22句は天武天皇についてである。残りの29句が草壁についてなのだが、草壁自身のことについては何もいっていない。

天武天皇から皇位を受け継ぐことが決まっており、人民は期待していたのだが、真弓丘に葬られた。皇子に仕えていた宮人は途方にくれている。というだけである。この歌の狙いは、天照大神→天武天皇→草壁皇子のつながりを打ち出すことにあったようである。

岡宮天皇陵。宮内庁が管理すると雑木が茫々と生え、根が張るので元の墳丘は次第に形を崩していく。しかも立ち入りはできないので、右図からはどのような墳墓であるのかはわからない。(隣にある神社の玉垣越しに覗くと円墳のようであった)

万葉集の巻2にある挽歌は94首である。このうち草壁皇子を傷んだ歌は、人麻呂の長歌(2-167)とその反歌(2-168〜2-170)の4首。これに加えて、草壁の舎人たちの歌23首が掲げられている。合計27首である。なんと94首のうちの約3割が草壁への挽歌なのである。 ここにも持統天皇の草壁へ対する執着の強さがあらわれている。


(次図)さあ帰ろう。南西方向に金剛山が見える。




(次図)南東方向には高取山がある。写真中央の谷あいの上に壺阪寺の大観音立像が認められた。
今日の万歩計は17600歩だった。




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