近鉄名張駅周辺

    No.81.....2010年10月10日(日曜)


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電線にツバメが並んで止まっている。春先にやってきて、日本で繁殖し、さあこれから南方の異国へ渡ろうとしているのだろう。南方とは台湾かフィリッピンか。とにかく海外旅行・無銭旅行をするのである。

土曜日のサンケイ新聞に「近鉄名張駅あす80歳」という記事がでていた。前身の参宮急行電鉄の駅として、昭和5年(1930年)に開業してから、10月10日で80周年を迎える。当日は各種の記念イベントが催され、オープン当時の名残をとどめる旧会議室も初めて公開されるそうだ。

晴れていれば顔を出してみようと予定していたら、晴れた。セレモニーは10:00からである。娘に駅まで送ってもらった。車中で「まあ参加者が100人あれば大成功。下手をしたら50人くらいかもわからんな」と今日の人出を予想したが、実際のところ近鉄名張駅が80年を迎えたからといって大勢の見物客が集まるとは思えなかった。

セレモニーの2分前に着いたが、果たして人は少ない。近鉄の駅職員の数のほうが多そうである。

近鉄電車(正しくは近畿日本鉄道)の歴史は合併の歴史である。細かく数えると20や30の鉄道会社を併合していったようだが、大きくは5系統ある。


  1. 大阪電気軌道(大軌・だいき)。大正3年設立。大阪上本町−奈良を結ぶ。今の奈良線である。

  2. 大阪鉄道。明治31年設立。昭和4年に大阪阿部野橋−橿原神宮まで路線が延びた。今の南大阪線である。

  3. 伊勢鉄道。大正4年、白子−高田本山の開通が初め。昭和5年には桑名−大神宮前を結ぶ、三重県下最大の路線であった。今の名古屋線である。

  4. 参宮急行。大軌の姉妹会社。大軌は大阪−伊勢を直通で結ぶ路線を計画し、昭和4年に大阪−桜井間を開通した。これと平行して桜井−山田(伊勢)までの路線は参宮急行が担当した。大阪−山田が開通したのが昭和5年。今の大阪線(と山田線)である。

  5. 奈良電気鉄道。奈良と京都を結ぶ目的で、大軌と京阪電鉄が共同設立し、昭和3年に全通した。今の京都線である。

  6. このほかやや細かい路線を上げると、 大軌が大正12年に奈良(西大寺)−橿原神宮間を開通させた。今の橿原線である。

  7. 吉野−橿原神宮前の路線を持っていた吉野鉄道を併合したのが昭和3年。今の吉野線である。これによって京都−吉野間が繋がった。(「近鉄・ぶらり沿線の旅」・徳田耕一 を参考)

やや見物客が増えてきた。

初めて名張駅を見たのは1987年、いまから23年前のことである。このレトロな駅舎に驚いた。今の外壁は塗装したアルミ板を貼ってあるようだが、当時は板張りだったと思う。

板張りといっても多くの張り方がある。まずは板を縦に張るのか・横に張るのかである。横(水平)に張るのを「下見板張り」という。ヨーロッパの板張りはこれである。

次に板と板の継ぎ合わせの違いがある。片方の板の端を(『)形に、次の板の端を(』)形に切り込んで継ぎ合わすと、継ぎ目の段差がなく平らな板壁となる。「ドイツ下見」という。ドイツらしく律儀な継ぎ方である。
もうひとつは、特に継ぎ目に細工をすることなく、板と板を少しずつ重ねて張るものである。板の下部は少し外側に反り、段差がつく。札幌の時計台がその例。

これは「イギリス下見」「アメリカ下見」「鎧下見」などと呼ばれる。米国の西部開拓時代の家は、この張りかたである。たぶん名張駅もこの張りかたであったと思う。名張駅が建てられた昭和5年当時としては、ハイカラな異国風の駅舎であったろう。

駅舎がレトロな感じを受けたのは、菰樽の背後の2本の支柱と支柱から45度の角度に伸びた(たぶんトラスと呼ぶかと思うが)材である。まるで人が万歳をして、軒の荷重を支えているかのようである。
式典が始まった。初めに駅長が沿革をいい、ついで市長・市議会議長 が祝辞を述べた。

昭和初期は関西の私鉄が次々に路線を開設し、路線を延長した時代であった。なかでも近鉄(当時は大軌)の拡大意欲は強かったようである。昭和5年に今の大阪線が開通したが、その距離は108Km(上本町−伊勢中川)。山田線28Km(伊勢中川−宇治山田)を含めると136kmという距離である。これを民間企業一社(大軌と参宮急行)がやり遂げた。

鉄道を通すことは並大抵の苦労ではなかろう。まずは路線を決め、それに該当する沿線の土地を買収せねばならない。何十Kmの路線にいる何百・何千の地権者と交渉するのである。売り渋る者もあるだろうし、先回りして土地投機をする者もでてくるだろう。

20脚ほどの折りたたみ椅子には、たぶん駅周辺の人たちであろう、老人が腰掛けているが、ただ一人黒い礼服を着た40才前後かと思われる綺麗な婦人が中央に座っている。誰であろうか。

最後にこの駅がある地区の「区長」さんが挨拶に立った。それによれば、元々は線路はここを通る計画ではなかった。もっと西北を通るはずだったが、住民の反対があって買収が困難となったらしい。

そこで「私の曽祖父が、このあたりの2000坪の土地を提供して、名張における参宮急行敷設のリーダーとなり、開通できたのです。」といったことを述べた。フーム、そうだったのか。最後に「私が3代目ですが、本家筋の4代目はそこの酒屋の賛急屋です。」というと、くだんの黒い礼服の女性が立ち上がり、見物客に向かってペコリとお辞儀した。

クス玉は合図とともに割られるはずであったが、早々と割れてしまった、「祝・名張駅誕生80周年」の垂れ幕が下がるはずだったが、裏返しになって白紙の面が現れた。少し失敗した。

そのころの時代背景を知っておかねばなるまい。 今の日本経済はデフレ下にあり、閉塞感が充満しているが、大正9年(1920年)〜昭和6年(1931年)も今以上のデフレであった。


1919年年6月にベルサイユ講和条約が調印され第一次世界大戦が終了した。軍需景気に沸きバブル状況にあった日本経済はいっぺんに収縮し、不良債権が発生した。1923年に関東大震災が起きたため、支払い猶予(モラトリアム)があって金融が行き詰っていき、ついに1927年(昭和2年)に金融恐慌が発生。取り付け騒ぎになって、多くの銀行が倒産する。

流動性の不足である。蔵相高橋是清は200円券を急遽増刷し、現金を市中にばらまいて流動性を確保したため金融恐慌は収まった。200円券は急ぎ刷られたので裏面は白紙であったという。

菰樽の鏡が割られた。桝酒が振舞われたので、いちはやく頂戴した。(次図は私。8年ぶりの登場)


だが1929年10月(昭和4年)には世界恐慌が発生した。にもかかわらず、1930年1月(昭和5年)に日本は金本位制に復帰(金解禁)する。デフレ経済の下ではまったく大間違いの経済政策であった。十分な通貨を供給できず、期待インフレ率が-20%ほどのひどいデフレをもたらしたのである。

司馬さんの「ひとびとの跫音(あしおと)」という小説がある。主人公のひとりが、正岡子規の死後養子になった正岡忠三郎であるが、昭和2年に京大を出て「阪急」に就職した。金融恐慌の時期であるから就職はむずかしかった。

親戚の夫人に就職できたと挨拶にいったところ、『けっこうじゃありませんか。こんなご時勢にたとえ半給でも。』といわれたとある。「阪急」を「半給」と間違ったという司馬さんのユーモアであろうが、そういう時代であった。

式典が終わったが、駅舎内の見学は11:00からであるという。愛宕樽太鼓が始まったが、観客が50人ほどなので、やや盛り上がらない。

デフレの原因は流動性(マネー)が不足しているからである。例え年率+5%の経済成長をしていても通貨供給量が+3%しか増えないときはデフレになる。逆に経済成長率が-2%であっても通貨供給量が+5%の伸びであればインフレになる。

1930年の世界恐慌を一番先に乗り切ったのは日本であった。それは1931年に高橋是清が再び蔵相に就任し、@金輸出を禁止して通貨と金との連動(兌換)を断ち切り、通貨の供給の制約を除いたこと、A1932年に日銀の国債引受を開始したからであった。

11:00になって、駅舎内の見学ができることになった、4〜50人くらいずつ入場を許された。白髪頭が2階の会議場への階段を上っている。

参宮急行が開通し、名張駅ができた時代はこのような大デフレ時代であった。デフレとは、物価が継続的に下落する時期である。当然に賃金も低下するし、地価も下落する。カネの流通速度が低下して、生産も減少する。需要不足の時期である。 こういうときは、@マネーを大量に市中に出し、A政府支出を多くして需要不足を補うことである。高橋是清は80年前に、この2つのことをしてデフレからの脱却をしたのである。

眼下の日本経済も長いデフレを経験しているが、@マネーの供給、A需要の創造をするほかに手立てはない。だが馬鹿な人間が財政規律を守れとデフレ政策を続けようとしている。今の民主党政権である。


会議室は駅舎ができた当時の面影が残っているということだったが、もともと会議室というのは装飾が少ない。アールデコ風の照明や暖炉でもあるかと期待していたのだが、「面影」は板張り床と板張りの壁だけに残っているらしい。

昭和5年当時のデフレ下で、さきほどの「区長」さんの先祖は下がり続ける土地を近鉄に売却でき、近鉄は常よりも安い用地を手に入れることができた。さらには鉄道建設によって地元の雇用が増え、消費が増えたに違いない。

開通してからは駅に集まる乗客を目当てに駅前には新しい店ができたはずである。政府支出を増やすことに匹敵することが、近鉄(参宮急行)と土地を提供した地主らの手でなされたことになる。

展示物はさほどのものはなかった。模型の近鉄電車がクルクル回っていたり、テレビゲームで電車を運転したり、発車ベルやそれを鳴らす押しボタンが展示されていたりである。名張駅の職員の手作りであると思われた。

唯一面白かったのが、右の古い写真である。「昭和6年 産業奨励のため、各地を視察されていた賀陽宮(かやのみや)ご夫妻 名張駅で」というキャプションがついている。

駅舎ができて1年後のことである。改札口の位置も、タバコを売る店の位置も変わっていない。自動改札口になりタバコ自動販売機になってはいるが、80年間同じ位置にあるのだ。そしてあの軒を支える支柱である。腕を上げた格好のトラスはその当時のものが残っているのではないか。

名張駅80年の歴史はこのトラスが記憶しているのである。

大阪天王寺にあった事務所をたたんで、自宅に籠もりだして8年が経った。それまでは毎日大阪へ通勤していたから、この駅前は馴染みの光景であったが、その後は駅前を歩くことがなかった。

酒屋の賛急屋(さんきゅうや)も店舗改造をして「立ち呑み処」を設けていた。店先には揚げ物をする油鍋が据えられている。そこで揚げたコロッケを立ち呑みのアテにできるらしい。

おおー、ずいぶん変ったな。と思っていたら、先ほど鏡割りをした黒い礼服姿の「4代目」が帰ってきた。つかの間すぐに平服に着替え、エプロンをつけて店に出てきてコロッケを揚げ始めた。いやあ、黒服のときは綺麗に見えたんだがなあ。女は化ける。まあヒイヒイ爺さんが名張に貢献をしたようなので、一杯呑んで売上げに協力していくか。

4代目はコロッケを揚げながら、道行く人に「忍者バーガーはいかがですかあ」と呼び込みをし始めた。私も1つ注文した。酒は酒屋なので何でもある。リザーブの水割りを頼んだ。

なんで、「忍者バーガー」なのだと別のおばさんに訊ねたら、使っている肉が伊賀牛と伊賀豚であるからだそうで、伊賀ギューと伊賀トンで「ギュートンの術です。」 水遁とか火遁とかは聞いたことがあるが、ギュー遁とはえらいこじつけをしたものである。

話は突然に変るが、名張市内にある本屋に必ず置いてある小説がある。田山花袋(たやま・かたい)の「名張少女(なばりおとめ)」という復刻版の本である。 帰宅して、娘に「名張少女」はまだ本屋で売っているのかを問うと、あるという。じゃあ買ってきて。名張に来て20年目にして初めてその短編小説(120頁ほど)を読んだ。

駅から5分ほどの沖津藻(おきつも)橋に向かっている。

「名張少女」は明治38年に文芸雑誌に発表された。単行本になったのは昭和4年のことで、発行所は名張の岡村書店であった。その本は絶版になったが、平成6年に名張出身の川上さんという方が復刻されたのが書店にある本である。

昭和4年に単行本化するときに、花袋が寄せた「はしがき」が巻頭に納めてある。これが昭和4〜5年の名張の様子をうまく伝えているので、抜書きする(口語体に改めた。改行も勝手にした)。

『・・・略・・・名張は万葉集にも詠まれてある地だけあって、古雅な町である。明治末期頃までは交通の要衝でもあったけれど、汽車の便に永く恵まれなかったため、鎖国的であった。8年ほど前、伊賀鉄道が敷かれてから大そう便利になった。』

『その上、近頃参宮急行電鉄が大阪と伊勢の宇治山田とを貫通し、名張はその枢要な中心になるという事だし、また他にニ三の線が計画せられているという有様だから、近来にわかに交通文化に恵まれてきた名張は、将来どう変化していくのだろう。

昔のような名張おとめの姿は、段々に見られなくなるだろうか。古雅であった名張の言葉も、町の様も、自然に変わって行くであろうか。憧れを持つ名張に対してこの序を書く。 昭和4年6月』

沖津藻橋から名張川の下流を見る。

田山花袋がいうように、名張を詠んだ万葉集歌は2首ある。(1-43)はわかりやすい一首で、万葉集に二重に掲載されているほど有名な歌である。



わが夫はいまごろどこを行っているのであろうか。沖つ藻が水の下に隠れているように、隠っているという名張の山を今日あたり越えているのだろうか。

No.70 三重県・答志島で掲げた)



宵に逢って(共寝して) 次の朝には(恥ずかしくて)顔を隠す(という)名張の地に、
私の妻は長いあいだ仮の廬を結んでいたのだなあ

No.75 吉隠から長谷寺へで掲げた)


(1-60)の長皇子(ながのみこ)の歌は、やや技巧的な歌である。夫が旅に出たとき残される妻は、@夫と妻の下着を取り替え、A衣を紐で結んでそれを解かぬように誓わせた、B自身は身を清め夫の無事を祈った。

どういうわけか、長皇子の妃は名張で斎戒沐浴していたらしい。長皇子が伊勢かどこからか戻ってきて再会したときに詠ったのが、(1-60)であろう。日長く(けながく)斎戒沐浴していた妻がいじらしい、という思いがある。

長皇子は「宵に逢ひて、朝面なみ」を使って「なばり」を引き出している。2句以上による修飾語は「枕詞(まくらことば)」ではなく、「序詞(じょことば)」という。名張を持ってくるために、夜に逢って→一夜をともに過ごし→朝になると女としては恥ずかしく→袖で顔を隠す→なばり(隠ばり)と、いく段階を経て「名張」を引き出していくのである。


藤堂邸に向かっている。

「名張少女」のことである。お弓の夫はドイツ文学者である。結婚して3年がたち、子供もできている。その夫が京都・大阪・奈良へ出張した。

最後に曾遊の地である「月ガ瀬」(梅林で有名)へ行き、島ケ原で宿泊した折に名張の娘お園に出逢う。夫は可憐な娘の美しさに引かれるとともに、その境涯に同情し、妻に隠れて東京に呼び寄せて囲った。

だがそれもわずかの期間で、じきにお園は肺病に罹り、今日明日にもいけないということになる。そこで夫はお弓にことの次第を告白して謝るとともに、お園に逢ってやって欲しいと願うのである。


お弓の心情のゆれを独白させるのと、お園のはかなかった命を語るのがこの本のテーマであるようだ。

この小説が書かれたのは明治38年である。当時は、大阪−奈良−伊賀上野−亀山−名古屋を通る関西鉄道という私鉄があった。本社は三重県四日市市である。夫は奈良から関西鉄道に乗り、加茂→笠置→島ヶ原へやってきたのだろう。島ヶ原の次は伊賀上野である。

伊賀国への鉄道はこれ一本きりであった。名張は上野の南方約30kmのところにある。参宮急行が開通したのは20数年あとの昭和5年だから、当時上野から名張を訪ねようとすれば、歩くか、人力車を雇うかしかなかったであろう。名張は、花袋が「はしがき」に書くように鎖国的な地、外から訪れがたい地であった。

島ヶ原の旅籠で仲居か下働きの乙女が名張から来たことを知る。夫は、お弓にこう言っている。

『どうもあの位静かな、あの位人気のよい、あの位面白いところはない。第一、美しい少女(おとめ)の多いところで、・・・・・それに田舎といえば、大抵言葉が野卑で、美しい少女が多くってもさほど心を惹かれぬものであるが、その地方の言葉が実に優美である・・・・』

名張の女性は、過分にほめられたものである。夫あるいは花袋にあっては、名張は気軽に出向けることができない地であった。おそらく一人の名張の美しい乙女に出会い、たまたまそのしぐさや話すテンポがよかったものだから、その印象が名張という地にまで拡大され、名張に憧れの気持ちが湧いたのだろうと推測するが、それはまあ幻想である。

(上図)藤堂邸は往時(江戸期)の1/4か1/5の規模になっている。廃藩置県によって大名は没落した。残ったのは奥向きの建物で、おおやけの建物(例えば大広間)は潰されたようである。一応この部屋は「祝間」となっているが、維新後、ここで起居することもあったようである。柱に蚊帳を吊る金具が打ち付けてあった。

(右図)庭。庭のよしあしは私にはよくわからない。日本庭園は自然を縮尺したものが多いようだが、なぜに縮尺するのか、縮尺すればよくなるのか。縮尺すれば面白いという気分が湧いてこない。

お弓の最後の述懐は、次の通り。

『伊賀の国、名張の町−−−このようにやさしい娘の多い町は、どんなに平和に、どんなにすぐれた処でしょうか』


『月の瀬の梅の渓(たに)、それを下ろうとする新道からは、名張に通じる間道が、渓流を縫って細く細く屈曲して、言い知らず人の思いを誘うと、かつて夫が私に語ってくれましたが、その渓、その路、一生のうちにはぜひ一度参って、名張少女(なばりおとめ)の美しい故郷(ふるさと)を見たいと思っております。』

誰も藤堂邸を訪れていないだろうと思ってやってきたが、一組の先客があった。愛知県豊田市からやってきた家族のようである。ボランティアのガイドさんに小学生の子供が、毛利がどうの、伊達がどうのといっている、ガイドさんは「よく知っているな」と感心したが、父親は「ゲームで覚えたんだろう?」という。戦国ゲームが一部の子供たちの間ではやっているらしい。

右は秀吉が、洞ヶ峠で優柔不断な態度をとる筒井順慶に出した、出陣せよの督促状。羽柴秀吉と丹羽長秀の連名の書である。名張藤堂家の始祖は丹羽長秀の三男である藤堂高吉である。よってこの催促状がここに残るのも当然かと思えるが、筒井に一度出した書状がどうして残っているのか。

おそらく書状は2通書かれ、一通は正式な文書、もうひとつは後の証拠として保存されたのだろう。草書の文は読みづらい。なんとか「長秀」「秀吉」の文字が判読できた。

伊賀国唯一の鉄道であった関西鉄道は、明治40年(1907年)に国営化された。名古屋から大阪へ通じる路線であったが、昭和5年に参宮急行と大軌によって大阪−伊勢間が開通したあとは、次第に旅客を奪われていく。

今の近鉄大阪線は複線になり、名張駅は近鉄大阪線の検車区が併設される大きな駅になった。一方かつての国鉄関西本線の亀山−加茂駅の間は1両編成のジーゼルカーが運行するという淋しい路線になっている。

鉄道は地域の盛衰を左右する。さいわいなことに名張はよい方向に向かったが、それは近鉄および線路敷設のために地権を譲ったひとびとのお陰であると想いを馳せなければならないであろう。何もしなければ、ものごとは都合のよいようには動かない。よい方向に動かすのは土地の住民の意思と努力である。

屋敷を出たら、桜の木の元に桔梗の花が咲いていた。藤堂の家紋は桔梗である。このようにさりげなく桔梗を植えた、藤堂邸を管理する方のセンスはよい。

今日は名張駅前をウロウロしただけなので、万歩計は6700歩であった。タクシーがなかなか来なかったので、再び賛急屋で、コロッケ2個をアテにして生ビールを飲んだ。今思うのだが「賛急屋」は「参宮急行」からとった「参急屋」ではなかったか。(現に長谷寺駅下には「参急橋」という鉄道名にちなんだ橋がある。)



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