京都・東寺から東福寺

    No.80.....2010年9月18日(土曜)


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今年は猛暑だったせいなのかどうかは知らないが、そこらじゅうでヒヨドリが目についた。今でも窓から外を見渡すと、どこかの電線に止まって羽根つくろいをしているヒヨドリを見つけることができる。

時折電線から羽ばたいて草地に下りてゆくが、その軌道は波打っている。高いところから低いところへ降りるのだからスーッと滑空すればよいものを、下げ→少し上り→下げ→少し上り→下げと上下しながら降りていくのである。 もしかしたら、飛翔力に対して身が重過ぎるのかも知れない。山を越える鳥はあまたあるのに、特に「ヒヨドリ越え」と称するのは、このヒヨドリのいかにも精一杯がんばっていますという飛び方に、人が同情したからなのかなと思っている。

ヒヨドリは春先に卵を産むのだろう。6月になると幼鳥を見かけるようになった。まだ長距離は飛べない。ダイニングのガラス戸を明けると、目と鼻の先に生えている花水木の枝に、ヒヨドリが2羽止まっていた。 左側の鳥はやや茶色く小ぶりであるので幼鳥らしい。右側の鳥は黒がかった灰色であるので成鳥であろう。母親鳥が飛び疲れた幼鳥を休ませ、「大丈夫かい?」と見守っていると見えた。

父親鳥はどこへ行ったのかと思っていたら、一羽が隣の木に飛んできて止まった。クチバシに何かをはさんでいる。紫色をした実である。それは花水木の近くに植えてあるブルーベリーの実に違いない。そうか、ブルーベリーが熟す前に横取りしていく鳥はヒヨドリだったのだ。 父親鳥が幼鳥に実を与えるのかとしばらく眺めていたが、与えることなく3羽とも飛び去っていった。


京都の社寺の多くは東山区・左京区・上京区・北区・右京区にあり、市の中心部である中京区・下京区は少ない。

地図の赤色枠は794年に桓武天皇が平安遷都した当時の平安京である。当初のプランは、北端の一条大路・南端の九条大路・東端の東京極大路・西端の西京極大路で囲まれた、南北5.3Km・東西4.5kmの規模であった。

北部の中央に一条大路から二条大路にかけて内裏(宮城)があり、都の中軸線として南北に朱雀大路(路幅80mといわれる)があった。都の南端の九条大路には、朱雀大路を挟んで東寺と西寺が設けられていた。平安京の官寺はこの2寺だけである。

その後天皇の勅願寺や公家の私寺が建てられていくのだが、その場所は旧平安京域から外れた土地であった。多くの社寺は旧平安京の周りにある。

今日は平安京の南端である九条大路(いまは九条通)に沿って、@東寺、A羅城門跡、B西寺跡、C東福寺、D泉湧寺(せんにゅうじ)を訪れた。


朝7:27の近鉄特急に乗って、8:50に京都に着いた。近鉄電車が京都駅に着く2分ほど前に東寺の五重塔(高さ55m)が見える。五重塔を目にするのは毎度のことだが、実は私は東寺をちゃんと訪れたことはない。

JR京都線は昔の八条大路を通っている。京都駅(近鉄京都駅は隣接)から最も近い大寺は東本願寺である。歩けば5〜6分でいけるのではないか。ついで西本願寺、ここは15分くらいかかるか。この2つの寺は駅より北の七条通にある。

東寺は駅より南の九条通りにあるから、西本願寺と同じくらい近距離にあるのだが、これまで訪れなかったのは、東寺の近くには東寺を除いて見るべきものがないからである。

近鉄京都駅についたら、3分後に奈良方面へ向かう電車があった。次の駅は「東寺」である。2分足らずで近鉄・東寺駅に着いた。

「私の古寺巡礼(京都@)」に司馬さんが「歴史の充満する境域---東寺」という短文を書かれている。

『(人に京都を案内するときは)東寺の御影堂の前で待ちましょう。ということにしている。京の寺々を歩くには、やはり平安京の最古の遺構であるこの境内を出発点とするのがふさわしく、また京都御所などよりもはるかに古い形式の住宅建築である御影堂を見、その前に立ち、しかるのちに他の場所に移ってゆくのが、なんとなく京都への儀礼のような気がして・・・・』

ゆっくりあるいても5分ほどで東寺に着く。歩いてきた道は九条通。このあたりは平安京時代の九条大路と重なっているが、東寺のあたりで九条通はしだいに南に曲がっていく。交差点の南北の道は大宮通。

794年に桓武天皇が平安京遷都をしたとき、平城京がそうであったようにまだ建物は少なかったろう。都を作るとき第一に作られるのは東西南北の街路(大路)である。平面を決めてから主要な建物が作られたはずである。

主要な建物とは、@平安宮(大極殿・朝堂院・豊楽院・内裏など)、A平安宮を囲む築地塀と朱雀門、B都の出入り口である羅城門、C東寺および西寺 である。

南大門(重文)。もとは三十三間堂の西門であったが、明治になって移築されたという。

空海(774〜835年)が、唐・長安にある青龍寺にある恵果(けいか)から密教のことごとくを伝授され、帰朝したのは806年のことである(この年、桓武天皇が崩御し平城天皇が即位)。

空海は20年間留学すべきところをわずか2年で戻ってきた。命令違反である。すぐには京に戻れず、九州・大宰府に止まっていたが,809年に平城天皇が退位し嵯峨天皇が即位したのちに空海は入京を許された。

入京してからの空海は、桓武天皇が重用した延暦寺の最澄をしのぐ影響力を持つようになる。816年に高野山を下賜され、翌年から伽藍を建立していく。823年、東寺を下賜され、空海は東寺を真言密教の道場とした。

東寺の見取り図を掲げる。
  1. 南大門(重文)
  2. 金堂(国宝)1603年(豊臣秀頼)
  3. 講堂(重文)1491年
  4. 食堂 1934年
  5. 五重塔(国宝)1644年(徳川家光)
  6. 灌頂院(重文)
  7. 小子坊 1934年
  8. 御影堂(大師堂)(国宝)1379年
  9. 宝蔵(重文) 1198年(文覚上人)
  10. 洛南中学・高校
  11. 蓮華門(国宝)鎌倉前期
以上はじっくりあるいは遠目に見た建築物だが、次のものは見落とした。
  1. 観智院・客殿(国宝)1606年
  2. 慶賀門(重文)
  3. 東大門(重文)
  4. 北大門(重文)
  5. 北総門(重文)
  6. 灌頂院の北門・東門(重文)
なお東寺を囲う大土塀(おおどべい)も重文である。


金堂(国宝)。空海が東寺を下賜された823年には東寺には金堂しかなかったそうである。南大門の外にあった案内に「羅城門の東に東国(左京)の鎮護のために建てられたのが東寺の起こりである」とあったから、東寺で最初の建築物は金堂であったようである。

東寺を下賜された空海は825年に講堂建立に着手し、翌826年に五重塔を着工している。空海にあっては、金堂・講堂・五重塔の順に必要であったようだ。

金堂は1486年の土一揆で焼失し、豊臣秀頼によって1603年に再建された。元の金堂はどのような建物であったのかは不明だが、まずは奈良興福寺のような和様(わよう)であったろう。

秀頼が再建した金堂は、桁行5間・梁間3間の大きさで、構造は一重裳階付き(いちじゅう・もこしつき)、屋根は入母屋・本瓦葺き、である。



金堂は大きい。外観で目を引くのは正面の2段になった軒である。裳階上の軒は中央部で断ち切られ、その上部に軒をかぶせている。

軒が二重になっているのは、今年訪れた平等院・鳳凰堂の本堂がそうであった。右の東大寺大仏殿も、上の軒は唐風であるが、同じく二重の軒であった。これによって建物の正面性を強調しているのである。

東大寺大仏殿は巨大な建物だが、東寺の金堂を再建中に、秀頼はもっと巨大な建物を東山に建築中であった。秀吉の発願であった方広寺の大仏殿である。

東大寺大仏殿は1190年に重源を勧進元にして、大仏様(だいぶつよう)で再建されたが、1567年に再び焼失していた。秀吉は東大寺の大仏殿は再建せず、かわりに京都にそれに勝る大仏殿を建てようとした。



方広寺大仏殿は、豊臣秀吉存命中の1595年に完成していたが、翌年1596年の慶長伏見大地震によって倒壊した。1598年に秀吉が死ぬと秀頼がこれを引き継ぎ、1612年に再建した。(1798年に焼失する)

右図は「建築MAP・京都」に載っていた京都の絵図である。中央の高い建物が方広寺大仏殿。川は鴨川。方広寺の正面に架かる橋は「正面橋」である。正面橋の左が五条大橋、右が七条大橋。 方広寺の右の建物は三十三間堂、後方の山腹にある寺は清水寺、左手にある五重塔は八坂塔である。

絵に見るように、方広寺大仏殿も一重裳階付きである。なにしろ大仏を据える建物であるから巨大であるし、内部空間も広々としてなければならない。多くの柱や梁・桁が交差していては大仏を据えることはできない。 どのような建物にすればよいのか? 秀吉は、当時すでになかった東大寺の大仏殿を手本とした。

金堂の背面。

東大寺系の大工らは、重源がもたらせた「大仏様」の技術をわずかにでも受け継いでいたのであろう。あるいは一部の図面が残っていたのかもしれない。「大仏様」の構造面でのわかりやすい特徴は、
  1. 貫(ぬき)や挿肘木(さしひじき)など柱を貫通する部材を多用して軸部を水平方向に固める。
  2. 挿肘木を重ねて軒の荷重を支える。
である。東寺の金堂も大きな建物である。金堂の一部には大仏様が使われている。外面では裳階の軒を支える肘木は柱を貫通する挿肘木であり、組物(くみもの)は複雑ではない。

右は金堂内部(パンフレットを撮った)。正面に薬師如来。如来の左手(こちらからは如来の右にある)には日光菩薩、右手には月光菩薩。薬師三尊が金堂の本尊である。

薬師如来の背後の柱に注目すると、@水平材は柱を貫通していることがわかる、またA肘木は柱の中間に差し込まれていることもわかる。 方広寺大仏殿を建設することでよみがえり、技術が確固となった大仏様が使われているのである。

東大寺大仏殿が再建されたのは方広寺再建から100年後の1709年のことである。このとき上の絵図に描かれているように方広寺大仏殿はまだ残っており、京都の名所のひとつであったという。東大寺大仏殿は方広寺大仏殿を手本にして再建されたのである。 (参考:「建築MAP・京都」の「方広寺大仏殿」清水重政)

講堂(重文)。 空海が最初に建てた建物。825年に着工し835年ころ完成したという。

建物は室町期(1486年)の土一揆によって焼失したが、1491年に再建されたのがこの建物である。桁行9間・梁間4間、一重、屋根は入母屋・本瓦葺き。窓がなく白壁が塗りこめてある。

金堂は薬師三尊という顕教のホトケを祀るが、この講堂には密教の世界を表現するホトケが祀られているという。空海は密教の思想を表現する立体曼荼羅を講堂内に展開しているという。

講堂には21体の仏像が配置されていた。
  1. 中心に如来部と呼ばれる5体の如来像がある。正方形の角に宝生(ほうじょう)・阿弥陀などの4像があり、中央に一段と大きい大日如来がある。大日如来を4如来が取り巻いている。この5体は重文である。

  2. 向かって右側に菩薩部とよばれる5体の菩薩像がある。中心に金剛波羅蜜多菩薩という初めて聞く菩薩があり、やはり四方に金剛××菩薩が取り巻いている。 面白いことに、四方にある菩薩は国宝だが、中心の菩薩は国宝でも重文でもない。中央の仏像は一段と大きいので、罹災時に運び出せなかったからであろう。

  3. 向かって左側に明王部とよばれる5体の明王がある。中心は不動明王。四方に配置されているのは、金剛夜叉、降三世、軍荼利(ぐんだり)、大威徳の明王である。この5体はすべて国宝。
    (右図)中心にある不動明王はおもわず唸ってしまうほどみごとな像だった。よくぞ残ったものである。

  4. 如来部、菩薩部・明王部に各5体の像があるが、これを大きく取り巻くようにして四天王像が配置されている。多聞天・持国天・増長天・広目天である。この4像も国宝。

  5. 東西に梵天と帝釈天が配置されている。この2像も国宝。
全体として、5如来・5菩薩・5明王・6天部の合計21体が曼荼羅となって、密教が説く世界を表現しているというが、なにをどう表現しているのか、私にはまるで理解できない。
「梅原猛の授業・仏教」という本がある。これは梅原さんが洛南中学でされた授業をまとめたものである。洛南高校は東寺が経営する進学校として有名である。その付属中学に梅原さんは12度出向かれて授業をされたのである。

仏教全般についての授業であるから、空海の密教については12時限のうちの1時限だけで講義されている。 だがこの授業はすばらしい。この講堂の中で行われたのである。21体の仏像を指差しながらホトケの見分けかた、曼陀羅、加持祈祷、即身成仏などなど、詳しくはないがひとつずつのテーマをちゃんとまとめながら講義されている。 中学生が理解できるように教えることは大変であったろう。あらかじめ授業の組み立てと肉付けを十分に準備されたようで、本のあと書きに「私は今まで大学でしたいかなる講義以上に、洛南中学の授業に緊張したのである。」と述べられている。

この本の表紙になっているホトケは一目見て感心した。カバーの裏に「金剛宝菩薩像(東寺蔵)」と記してあった。東寺に行けばこの像を見ることができるかも知れないと思ってやってきたのだが、はたして金剛宝菩薩は講堂の菩薩部にあった。

金堂と講堂の中間、東寺境内の西側に立派な唐門があった。その奥の建物は「小子坊」である。門の脇に案内があって、小子坊は建武3年(1336年)6月14日より半年間、北朝の光巌上皇(こうごん)が、ここで政務を見、足利尊氏は千手堂に居住した。といったことが書かれてあった。 おお、東寺は「太平記」にも出てくるのだな。

北条鎌倉幕府と対立した後醍醐天皇が笠置山に遷座すると、幕府は光巌天皇を擁立した。後醍醐天皇軍は破れ、天皇は隠岐島へ流罪となった1332年3月のことである。

しかし翌1333年5月には足利高氏・赤松円心・千種忠顕らが京へ攻め入り幕府の拠点である六波羅を陥落させる。同月新田義貞が鎌倉に入り鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇は6月に京に戻った。建武の親政が始まった。

講堂の奥に食堂(じきどう)がある。建物は1934年に建てらたもので新しい。同じ1934年に先の小子坊も新築されている。1934年は空海の1100年大遠忌の年なのである。

醍醐寺を開山した理源大師聖宝が千手観音を造立して以来、千手堂とも呼ばれ、足利尊氏もここに居住した、と案内にある。

建武の親政は短命に終わった。2年後の1335年10月に足利尊氏は反旗を翻し、ここから足利対官軍の泥沼の戦いが始まる。

1336年1月尊氏は新田軍を破り、いったんは入京するのだが、新田・北畠顕家軍に破れて京を脱走する。2月には追われた芦屋の打出浜で敗退して九州に逃げた。

五重塔(国宝)。この塔の軸部は太い。同じ3間幅でも、奈良興福寺の3間幅よりも広いので堂々とした安定感がある。しかも鈍重には見えない。組み物はわりあいシンプルである。

尊氏は単に逃げたのではなかった。敗れた原因のひとつは賊軍とされたことである。ならば今は後醍醐天皇によって退位させられている光巌上皇から「新田を討て」の綸旨を受ければよいではないか。その手はちゃんと打って逃げていった。

強きを助け弱きをくじくのが当時の武士のならいである。尊氏有利と見ればあっというまに味方する。尊氏は九州・四国・中国勢を集めて、早くも5月には兵庫に戻ってきた。湊川の戦いで新田・楠木軍に大勝する。その直後、後醍醐天皇は京を出て比叡山に遷座した。

宝蔵(重文)。1198年に文覚上人が再建したという言い伝えであったが、解体修理の結果東寺創建に近いころの建立らしいことがわかった、と案内にあった。東寺で最古の建物である。

尊氏は初めは男山(岩清水八幡宮)に陣をとって京攻めを指揮した。京を守る千種忠顕が戦死の報を受けて、ようやく京の入り口である東寺に陣を敷いたのが6月14日である。尊氏は光巌上皇とともにあった。

尊氏が東寺にあってしたことは、光巌上皇の弟を光明天皇として即位させたこと、比叡山にあった後醍醐天皇を懐柔して下山させたことである。(比叡山で別れた新田義貞は越前に落ち延びていった)

食堂の西に見える桧皮葺の建物が、空海が居住したという御影堂(みえいどう)または大師堂である。

11月後醍醐天皇(大覚寺統)は北朝の光明天皇(持明院統)に三種の神器を渡し、太上天皇となった。尊氏は光明天皇の皇太子には後醍醐天皇の子供の成良親王(なりなが)を推した。 つまりこれまでどおりに両統は交互に帝位を継いでいこうというのである。後醍醐天皇は尊氏の意見を飲んだ。 尊氏は少し安堵したであろう。

だが後醍醐天皇は剛毅の人であった。この年(1336年)12月、警護厳しい旧御所(花山院)から天皇は脱出し、吉野で南朝を開いた。このときから南北朝時代が始まったのである。

(南朝と北朝が合一するのは56年後の1392年である)

御影堂(みえいどう)または大師堂(国宝)。東寺で貰ったパンフレットに、もともとは空海(弘法大師)の住房で、空海の念持仏である不動明王(国宝・秘仏)が安置されていたとある。

1379年に焼失したが、1380年に再建され、1390年に礼堂(前堂)と廊(中門)が加えられた。前堂には大師像(国宝)が祀られている、そうである。

写真は前堂(まえどう)。妻側が正面である。5間幅の中央3間は蔀戸(しとみど)、両端の各1間は引き戸のようである。軒下には縁があり、欄干がある。屋根は入母屋で桧皮葺。 入母屋・桧皮葺・蔀戸・欄干とくれば、もうこれは純和風で、女性的なやさしさ、やわらかさをかもし出している。平安期の貴族の住宅はこのようなものではなかったろうか。

当初あったのは後堂(うしろどう)である。ここへ前堂と中門が付け加えられたので「棟(むね)」が3つあって、屋根は複雑である。シロートながら平面図を描いてみた(右図)。
  1. 後堂は東西方向に棟がある。桁行(けたゆき)7間・梁間(はりま)4間。一重入母屋造。北面西に2間の庇、東面に1間の向拝(こうはい・ごはい)

  2. 前堂は南北方向に棟がある。桁行4間・梁間5間。一重入母屋造。北面にある庇状のものは庇ではない。

  3. 中門は東西方向に棟がある。桁行2間・梁間1間。一重切妻造。西面が正面である
桧皮葺(ひはだぶき)であるから屋根は比較的軽く、したがって屋根の勾配を自由な曲線にすることができる。

だが2つの棟を接合するときは逆に難しくなるのである。例えば上図の(a-b)は後堂の屋根である。妻側から見ると(a-b')の勾配はやや急だが、(b'-b)の勾配は緩やかになり、(b)の先では反り返る。「人」型の曲線になる。

(c-d)は前堂の屋根で同じく「人」型の勾配をもつ。この2つの屋根の接合するところはどのようなことになるのか? 私の頭では想像ができない。

答えは見るに限る。(b)の軒先は反り返っていて(d)と接合していない。(d)は(b)の下にもぐり込んで、わずかな反りがつけてある。

さらにいうと、(a'-b)には向拝がつけられている。(a'-b)は軒先であるからその勾配は緩やかで軒の先端は反っている。ここから向拝をさらに伸ばすのである。

向拝の勾配は図のようになる。反った軒先からいったん下げ、再び反らせる。このような造りを「縋破風(すがるはふ)」というらしい。

なお御影堂の前堂の東側に、冒頭に掲げた司馬遼太郎の「歴史の充満する境域---東寺」の文章を抜粋したものが案内板として立てられていた。寺の誰かが説明文を書くよりも、司馬さんの文章のほうが明快で、要点を突いているはずである。寺の判断はまことに正しい。

御影堂の西に小さい西門があったので外へ出た。通りは「壬生通(みぶ)」。 歩道の左側に生垣が植えられていて、長々と続いている。生垣の裏には大土塀があるのであるが、これは単なる塀ではない。畏れ多くも重文の土塀である。道行く人が傷をつけないように、いたずら書きをしないように、生垣で防御しているのである。

さらに生垣の前には鉄線を張った柵が設けられている。一部は有刺鉄線である。2重の防御をした上で次のような立て札がほうぼうに立てられている。

「門土塀は重要文化財ですからいためないで下さい。柵内に立ち入ったり、犬猫を入れたり、糞やゴミを捨てたりしないで下さい。」

わるさをするのは人ばかりではなく、犬猫も悪さをするらしい。


このように防御されている土塀はどのようになっているのか。生垣の下から覗いてみたのが右図。 土塀の表面に塗られていたであろう化粧土はすでになく、荒壁になっている。塀の下には板が顕わになっているところもある。

土塀は次のようにして造るようである。
  1. 柱を立て、柱と柱を板でつなぐと板塀ができる。
  2. 何尺か離して同じような板塀を造る。
  3. 板塀と板塀の間に泥土などを入れて乾燥させる。
  4. 板塀の外側は漆喰などで塗りあげる
だから東寺の大土塀は厚みがある。この厚みが外敵を防ぐので足利尊氏が東寺に陣を敷いたのであろう。

鎌倉前期に再建されたという蓮華門(国宝)が壬生通に面して建っていた。これをちょっと眺めて九条通までやってきた。東寺を去る。

九条通を西を向いて歩いている。目指すのは羅城門跡と西寺跡である。

九条通は東寺のあたりから昔の九条大路から徐々に南に離れていく。羅城門跡・西寺跡は九条大路に面していたのだから、このまま九条通りを歩いていては通り過ぎてしまうおそれがある。

途中で九条通から1本北にある道を歩き出した。車がすれ違えるかどうかという細い道である。

細い道なので何の目印もない。200mほど歩いたところに地元の住人らしい老年男性が立っていた。

「この道を行けば羅城門跡にいけますか?」

「いちど九条通に出て進むと神社がある。そこに羅城門跡の案内がでている。でも羅城門跡というのはマガイモンらしいな」

羅城門跡とされる場所を発掘調査したが、何も出てこなかったそうである。

住人は神社といったが、鳥居はなく、地蔵をトタン屋根で覆った民家のような建物があった。これでも神社である。愛宕神社らしい。

民家の横に小道があって「羅城門跡」の石柱が立てられているが、新しい。

小道を進むと、スベリ台だけがある児童公園があって、スベリ台の脇に「羅城門遺跡」と彫った石碑が建てられていた。 その前に案内板があった。それによると、
  1. 羅城門は、平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた表玄関であった。
  2. 816年に大風によって倒壊したので再建されたが、
  3. 980年の暴風雨で再度倒壊し、その後は再建されることはなかった。
  4. 11世紀前半に藤原道長が法成寺(ほうじょうじ)造営のために門の礎石を持ち帰った記録が残っている。
  5. 付近の発掘調査では、羅城門に関わる遺構は見つかっていない。

右図は案内板にあった地図。昔の朱雀大路の筋は、今の千本通として残っている。千本通を挟んで道幅が80mもある朱雀大路の突き当たりに建つ大きな門であった。

今昔物語に「羅城門の上層に登り死人を見たる盗人の語」の話がある。盗人が羅城門の2階に身をひそめようとよじ登ると、白髪の老女が若い女の死体から長い髪を引き抜いていた。盗人は老女を脅して、死人の衣・老女の着物・老女が抜いた髪を奪って逃げた。という話である。

この話でわかるように、羅城門は7間幅の二重門(2階建て)であった。そのように大きな門の痕跡がないはずがない。発掘した場所が違っているのである。

次は西寺跡に行く。唐橋小学校では運動会をやっていた。

東寺の現在の境内地は、平安京のプランと一致している。すなわち東西2町・南北4町(1町は約120m)である。北は八条大路に面し、南は九条大路に面する。東西の長さは南北の長さの半分である。

西寺も朱雀大路を中心軸にして東寺と対称の寺であったはずだが、今は建物のひとつとして残っていない。

「京都の地理」(正井泰夫監修)によると830年に講堂が完成したが、990年に焼失した。残った堂宇も1233年の火災で焼け、その後再建されることはなかった、とある。

西寺には講堂しかなかったのか、講堂のほかに南大門・金堂・食堂・僧坊・塔などの伽藍があったのかは不明であるが、嵯峨天皇の時代に、天皇が東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)に交互に雨乞いをさせたところ、守敏は小雨を、空海は大雨を降らせたという話があるそうである(「京都魔界巡礼」・丘真奈美)。

加持祈祷をしたのであるから西寺の守敏も密教を学んでいたはずだ。よって西寺も東寺と同様の庇護を受けていたのではないか。1233年の火災後、伽藍が復興されなかったのは、西寺の密教学が廃れていたためであろう。空海というスターがいなかったからであろう。

唐橋西寺公園に、西寺の痕跡(講堂の基壇跡とされている)に 「史跡・西寺址」の石碑が立っている。

もとは講堂の基壇であったろうといわれる場所は土が盛り上げられてちょっとした丘のようになっている。丘の高さは大人の背丈ほどである。基壇としては高すぎる。

公園を作ったときに明示的に土を盛ったと思われるが、ご丁寧なことに丘の隅に礎石がひとつだけあった。これもわかりやすいようにと 、どこからか運んできたのだろうと推測した。

九条通に引き返してタクシーを拾った。運転手さんに東福寺を告げ、できるだけ寺の南側にいってくれるように頼んだ。

逆光を避けるために南から北に向かって歩くほうがよいし、寺の訪問となれば、南大門→中門→金堂→講堂→食堂と南から北へ巡るのが正しいコースである。 (東福寺は禅寺だから、三門→仏殿→法堂→方丈となる)


「今日は暑いですな」から車内での会話が始まった。

「JRより南は交通の便が悪いですな」と私。
『特に九条通はよくない。なかなかバスはきませんで』と運転手。
「八条に大谷高校があるけど、あれは島田紳助がいった学校やろか?」
『そうですな』
「紳助は芸人ではナンバーワンやな」
『あれ?紳助は龍谷大学の付属高校ですわ』
「そう?テレビで大谷高校の話をしてたけどな」

タクシーは九条通を南に曲がり、クネクネと方向を変えて止まったのが右の場所。「大本山 東福寺 通天橋道」と彫り込まれた石柱が立っている。


『ここからは車は入れません。歩いて15分ほどで東福寺に着きますわ』

タクシーは何度か右折左折を繰り返したから、私は方向感を失っていた。それにしても東福寺まで15分もかかるとは。運転手はちゃんと東福寺の南側で降ろしてくれたのだろうか。しかたがない。歩くしかない。

禅寺には塔頭(たっちゅう)が多い。ナントカ院とかカントカ庵が寺の周りあるいは寺の敷地内に集まっている。東福寺には25の塔頭があるという。

塔頭の多くは東福寺××世が開いたものである。調べると、例えば龍吟庵(りょうぎんあん)は東福寺第3世の無学普門、同聚院(どうじゅいん)は東福寺第129世の琴江令薫(きんこうれいこん)が開いたとある。


東福寺のHPに載っている境内の案内図をプリントして持ってきている。同聚院があったので案内図で確認すると、図の@の位置にいることがわかった。やはり私は北から南に向かっているのだ。

運転手さんとしゃべるのではなかった。「東福寺の南へ」の指示を忘れさせたようだ。なお紳助の母校はやはり大谷高校であった。運転手さんは2つの間違いをしている。

このあと巡った順は次のとおり。
  1. 同聚院(どうじゅいん)
  2. 臥雲橋(がうんきょう)
  3. 三門
  4. 六波羅門
  5. 東司(とうす)
  6. 禅堂
  7. 本堂(仏殿)
  8. 経蔵
  9. 庫裏(くり)
  10. 方丈(ほうじょう)
  11. 通天橋(つうてんきょう)
  12. 開山堂




臥雲橋(がうんきょう)。案内図に見るように東福寺境内の中ほどに川が流れている。川というよりも渓谷といったほうが正しい。渓谷の名は洗玉澗(せんぎょくかん)という。

谷あいには楓が植えられている。秋になると橋の上から紅葉を楽しむために観光客がどっと押しかけるそうである。上の案内図の北駐車場には赤色字で「秋の特別拝観中は閉鎖」と注意書きがある。それほど混雑するとみえる。



臥雲橋から東を見ると、やや高いところに別の屋根つきの橋が見えた。これは通天橋らしい。なるほど楓が茂っている。向うの観光客は見下ろす感じで谷にしげる楓やこちらの橋を眺めている。

先に掲げた「京都の地理」(正井泰夫監修)に「藤原氏ゆかりの幻の寺院」という章があって次のようなことが書いてある。
  1. かつて東山区から伏見区にかけて、現在の東福寺の5倍の広さがある法性寺(ほっしょうじ)があった。

  2. 924年に藤原忠平(ただひら)が建立し、その後9代目の忠通(ただみち)まで建て増しを重ねて、金堂・五重塔・五大堂・灌頂堂・三昧堂など100棟を超える堂塔伽藍が建てられた。

  3. 九条兼実の孫の道家は法性寺の寺域に東福寺を建立した。法性寺は衰退し東福寺に吸収された。

藤原忠平(880〜949年)は藤原時平の弟である。時平は醍醐天皇の時代の左大臣で、右大臣は菅原道真である。その後時平の讒言によって道真は大宰府へ左遷された(901年)。道真は2年後に大宰府で病死する。時平も909年に早世し、道真の怨霊のたたりであるといわれた。

藤原北家の長者となった忠平は、醍醐政権の支柱になり、朱雀天皇の摂政・太政大臣また関白となり、村上天皇の関白を務めたが949年に70 才で亡くなった。長くトップの地位にあった忠平は藤原北家を磐石なものとし、この系統が摂関職を受け継いでいくことになる。

すなわち@忠平→A師輔(もろすけ)→B兼家(かねいえ)→C道長→D頼道→E師実(もろざね)→F師通(もろみち)→G忠実(ただざね)→H忠通(ただみち)と代を重ねたが、忠通の子は、1)近衛家(基実)と2)松殿家(基房)の2家に分かれ、ついで3)九条家(兼実)の3家に分かれた。

こののち近衛家から鷹司家が分かれ、東福寺を開基した九条道家の子供が一条家と二条家として分家する。松殿家はすぐに廃ったので、@九条、A一条、B二条、C近衛家、D鷹司家 の五摂家が後々まで摂政・関白職を独占した。


三門(国宝)1405年に再建。5間3戸の二重門。入母屋造の本瓦葺。 5間3戸とは幅が5間あるが、そのうち中央の3間だけが開いているという意味である。

堂々というか、雄大というか、端然というか。とにかくこの三門は何かを感じさせるものがある。知恩院の山門よりはよほど小さいし、南禅寺の三門のような重量感はないのだが、よい雰囲気がある。

人間に例えると、知恩院は60才の恰幅のよい大企業の社長か会長のイメージ。せかせかとは歩かない。鷹揚に動くのが大物であると思っている。

南禅寺の三門は40〜50才であろう。部下を率いて仕事に励んでいる。ファッションにも気遣うし、ブランド物を好むというイメージである。

東福寺三門は70才をこえている。すでに物欲はないが、手に入らぬからと諦めたからではない。「これでよいのだ」という心境にある。枯れた老僧のようである。


東福寺三門は「大仏様」を採用している。再建された1405年には東福寺は五山のひとつであった。足利義満の時代、京都五山は@天龍寺、A相国寺、B建仁寺、C東福寺、D万寿寺 であり、その上位に別格として南禅寺があると決められていた。だから「禅宗様」の三門を建てることもできたのだが、焼失前の三門を再建したかったのだろう。

創建当初の三門は東大寺系大工によって「大仏様」で建てられていたらしい。図の一層の軒を支える肘木は挿肘木(さしひじき)である。また水平の材は柱を貫通している。

惜しいのは軒先の軒柱である。一層目にも二層目にも軒の4隅に柱が追加されて軒の垂れを支えている。もともとは軒柱はなかったはずである。軒先を反らすのは、見栄えをよくするためにではなく、軒先を反らすことによって軒先が垂れるのを防ぐためであるらしい。

反りが重力による垂直方向への力を受け止めているのであるが、この三門は垂れを受け止めることができなかったのか、あるいは地震に備えて補強しているのか。

右図は東大寺の南大門(国宝)。東大寺大仏殿は1180年に焼けたが1195年に重源(ちょうげん)の勧進によって再興された。重源は宋(福建省という)の大工陳和卿(ちんなけい)を招いて大仏殿・南大門(1199年)を作らせた。できた建物はこれまで見たことがない構造をしていた。「大仏様」である。

1405年の東福寺三門の再建においても東大寺系の大工が呼ばれ大仏様で建てた。大仏様の特徴のひとつは「挿肘木を重ねて軒の荷重を支える」である。南大門の挿肘木は7段に重ねられていた。東福寺の三門の挿肘木は4段である。5段に重ねれば肘木はもっと軒先近くに伸ばせるから、軒の重みに耐えることができたろうにと、シロートは思うのである。

三門は生垣でぐるりを囲まれているので門をくぐることはできない。近くへ寄ることもできない。門の機能はしていない。

近くに出入りができる門があったので近寄ってみると「六波羅門(重文)」とある。六波羅探題の遺構を移築したと伝えられているそうである。

足利高氏・赤松円心・千種忠顕らに攻められて六波羅が陥落したのは1333年5月7日である。探題の北条仲時は光巌天皇・後伏見法皇・花園上皇を伴って鎌倉に向かって逃げていったのだが、伊吹山の南、米原で敵に囲まれ、応戦するも疲労困憊。もはやこれまでと近くにあった蓮華寺で自刃するのだが、なんとその数は仲時以下432名にのぼったという。吉川英治の「私本・太平記」ではちょっと泣かせる場面である。その北条仲時が通ったかもしれない六波羅門である。

東司(とうす)重文。室町前期。

トイレである。格子窓が一面についていて、風通しはよさそうである。格子越しに覗いたら甕が列をなして埋め込まれている。ここで修行僧は一様に並んで排便排尿をしたのであろうか。

禅寺には一切の会話を禁じている建物がある。禅堂、浴室そして東司は「三黙道場」とよばれている。それぞれの建物には尊像が祀られており、まず尊像に礼拝してから黙々としてそれを済ますのである。

禅堂(重文)。1347年再建。現存する最古の禅堂である。

内部は見れなかったが、想像するに中央は土間かセン(瓦やタイル)が敷いてある。それを挟んで板間があり、ここで修行僧は座禅を組むのであろう。曹洞宗は板壁に向かって(ということは堂外に向かって)座禅を組み、臨済宗は板壁を背にして(ということは土間を隔ててはいるが向うで座禅する僧と対面して)座禅するそうである。

禅宗は釈迦が説いた法をあれこれ解釈するのではない。釈迦はブッダガヤーの菩提樹の下で結跏趺坐して瞑想し、ついに悟りを得た。臨済禅はそれと同じ体験をして悟りを得ようとする。これが根本であるらしい。 悟ったかどうかを試すリトマス紙が臨済宗における公案(こうあん)である。


禅堂の妻側はすばらしい。一重裳階付きの建物である。梁間6間の裳階の下には4つの花頭窓が並んでいる、その上には風通しをよくするための連子(れんじ)が並ぶ。軒の上にはこの建物の構造を表わす4間の柱→その上に肘木→真っ直ぐな梁(水平材)と両脇に虹梁(こうりょう)→簡単な組物が次の梁を支え→次に中央2間の大きな虹梁を支え→その中間に再び組物があって1間の虹梁を支え→最後に棟を支える。

建物を見るだけで禅宗が目指している精神の方向が覗える。宗教にはまったく無縁のシロートではあるが、この建物を美しいと思う者は、すでにして禅宗に共鳴しているのではないか。 物理で振動数が同じ音叉を並べておいて、一方を叩いて音を出すと、離れたもう一方の音叉が共鳴して音を発し出すというあれである。この禅堂が発散しているものは、音楽でいえば禅宗の持つ精神的な通奏低音だろう。



仏殿(1934年)。一重裳階つき。桁行7間・梁間6間。入母屋造・本瓦葺。

東福寺は実によく焼失している。九条道家が東福寺を建立し始めたのは1236年のことである。高さ5丈(15m)の釈迦仏を収める仏殿が完成したのが1255年。法堂が完成したのが1273年。だが1319年を初めとする鎌倉末期の火災で大部分の伽藍が失われたという。

その後室町期に次々に復興されて、中世以来の伽藍が残っていたのだが、明治14年(1881年)に仏殿・法堂・方丈・庫裏が焼失してしまう。

1917年から仏殿と法堂を兼ねた「本堂」の建設に着手し、完成したのが1934年である。本堂はごく新しい建物であるが昭和の木造建築では最大のものだという。


軒下の組物は簡単である。挿肘木に大斗が乗り、肘木を支える。その肘木の両端に斗が置かれ垂木を支える丸桁(がぎょう)を支えている。肘木の出かたでいえば「一手先」であり、斗の置きかたでいえば「二つ斗」である。

軒は深い。4mくらいはあるのではないか。それがわずかに一手先の肘木で支えられているのである。昭和の本堂は実にうまく設計がされているのであろう。シロートには驚くほど軒下がすっきりしている。

扉は桟唐戸(さんからと)。隅柱(すみばしら)から飛び出した「木鼻(きはな)」には、葉のような彫刻がされている。この2つは「禅宗様」である。

手前の切妻の小さい建物は殿鐘楼(でんしょうろう)(室町後期)。ここに釣鐘が架かっていた(今は収納されている)が、その銅鐘 は平安初期を下らないもので、西寺にあったものと伝わっているそうである。西寺にかかわりがあるものが残っていた。

奥の方形造(ほうぎょうづくり)の建物は経蔵(江戸期)。重文とかではないので何の案内もなかったが、柱と梁(横木)が白壁をいくつかの長方形に分割している。その長方形の中に2つの丸窓が開けられていて、カチッとした印象のよい建物であった。


右側は本堂。本堂から左に伸びる渡り廊は通天橋に繋がっている。通天橋の先には開山堂がある。

東福寺の禅僧らは、毎朝早く開山堂にいき、線香を立て、五体投地の礼拝をするはずである(推測である。どこにも説明はなかった)。毎日通う道であるから開山堂まで屋根つき廊があるのであろう。

渡り廊の中央の屋根は一段と高くなっている。この下をくぐって右に行くと、方丈と庫裏(くり)がある。


庫裏。明治43年(1910年)に再建。一重・切妻造・本瓦葺。

みごとな妻(つま)だ。庇の上部の構造材がつくる形はどうだ。これが禅寺であると無言で示しているではないか。

建築に興味をもち出したのはここ3〜4年のことである。建築の解説があれば読む程度で、建築の本を系統だって読んだことはない。誰かに教わったこともない。だがわずかの知識でもあれば、こうして寺々を訪れたときに感心することが増えるのである。

独学のシロートがいうことだから間違いがあるだろうが、建物は2つの力と戦っている。

1つは垂直方向に働く力である。つまりは重力である。屋根の重さをどう支えるのか。深い軒をどう支えるのか? 2つには水平方向に働く力である。水平方向に働く力とは台風や地震による横揺れである。倒壊させないためにはどうすればよいのか?

垂直方向の力を受け止めるのは柱である。水平方向の力を受け止めるのは水平材(梁・桁)である。高い屋根や2階建て以上の建物のときは、水平材の上にまた柱を立てるので、水平材も柱と同様に垂直方向の力を受ける。

建物の強度を高めるには、太い柱や水平材を使うか、多用するかだが、@太い材木はなかなか入手できない→A細い材を使うしかない→B太い柱や多くの柱を使うほど内部空間は狭くなるか細分化される。ということになる。柱が林立していては、大きなホトケを収めることはできないのである。ここで、建物の強度があってしかも広い空間を確保するというさらなる問題が出てくる。

寺院にあっては広い空間が絶対に必要である。寺院をよく見れば、昔から大工たちが「強度と空間」の問題をどう解決してきたのかが覗える。そしてその工夫が建物の外観となり、外観が寺のもつ精神性を発散させるのである。

大工の工夫は柱と水平材の接合部によく現れていると思う。今の私はそこを「見どころ」としている。


庇の上の妻(破風)を下から順にいうと、
  1. 舟肘木(ふなひじき)。その上にある梁を支えるのは肘木の下の縦の材(束。つか)であるが、細い束に力が集中しないように、舟形の材を束の上において広い面積で梁を支える。

  2. 海老虹梁(えびこうりょう)。柱と柱をつなぐ。一方の柱が長く他方が短いときに用いる。水平方向の力に抗する。

  3. 斗(と)と肘木。梁を支えるとき@のように(束+肘木)とせずに、(柱+斗+肘木+斗)で梁を支える組物(くみもの)。斗には肘木が嵌る溝が掘ってあるので肘木を固定できる。肘木の両端にまた斗を置いて、2つの斗が梁をはさんで支えている。

  4. 蟇股(かえるまた)。梁を支える。束と同じ役目だが彫刻をして装飾の役割もはたしている。この例では蟇股の上に肘木がのって梁を支えている。

  5. 蟇股の両脇に山形の束がある。束といったがこれも蟇股の一種であろう。上に大斗(だいと)が乗っており、直交する肘木を挟んで「十字」に水平材を支えている。

玄関(車寄せ)の上の唐破風の下を見上げると、これまた蟇股がある。中心の蟇股には細かな彫刻がされている。瑞鳥(鳳凰であろうか)が雲の中を飛んでいる。それを挟んで2つの蟇股がある。これはシンプルであるが、上に肘木を乗せて水平材を支えている。

その上にも装飾的な蟇股。雲が植物を挟む格好である。その上には斗が据えられて肘木をはさみ、肘木が屋根の棟を支えている。先端には透かし彫りがある。一種の懸魚(げぎょ)であろう。木口を隠すためのものである。

庫裏は明治の建物である。明治期の建物はリンとしたよいものが多い。(例えば私が感心して見た吉野神宮や東本願寺も明治の建築であった)

庫裏に入ると方丈への受付があった。ここで500円だかを払うとパンフレットをくれた。

方丈は明治23年(1890)に再建されたものである。パンフレットによると庭は、『昭和の名作庭家・森重三玲の作(昭和14年)。「八相の庭」と命名され、近代庭園の傑作とされる。方丈の東西南北に四庭をもつ』そうだ。

「八相」とは釈迦八相のことであろう。壺坂寺でこのレリーフを見たことがある。@降兜率、A託胎、B誕生、C出家、D降魔、E成道、F転法輪、G涅槃、をテーマとした庭のようだ。

あいにく私は今のところ庭に興味はないのだが、なんと方丈の広縁には観光客がいっぱいである。それぞれに縁に腰を下ろして庭をじっと見ていた。


方丈を出て、通天橋を渡って開山堂へ向かう。

本堂から伸びている渡り廊を北向きに歩いていくと途中に受付があった。通天橋を渡るだけなのに、ここから先は有料であるという。400円だかを支払うと入場券をくれた。見れば「通天橋・普門院庭園 拝観」とある。どうやら東福寺では庭園を見ようとすると拝観料がかかるようだ。

結構長い橋である。20〜30mはあるのではないか。途中にせり出し部分があって、ここから秋の紅葉を愛でるわけである。


(次図)開山堂(1823年)。基本は、桁行8間・梁間3間。入母屋造・桟瓦葺、であるが、棟の中央が切り落とされて、そこに方形造の楼閣が乗っている。

1階の入母屋を常楽庵と呼び、ここに開山した円爾(えんに)が祀られている。2階は伝衣閣(でんねかく)と呼ばれ、仏像があるそうである。 開山堂の前の庭が見ものだそうだが、私には庭のよしあしがわからない。これで東福寺を去る。

パンフレットを貰ったのは方丈拝観のときであるので、方丈へ来るまでに見落としている建物が多くあった。三門の脇にある浴室(重文)、九条道家が建てた十三重石塔(重文)などであが、再び三門まで引き返す元気はなかった。

帰宅してあれこれ調べていたら、境内の奥に最勝金剛院があって、ここに九条兼実の墓があることを知った。これを見なかったのが一番悔しい。


東福寺境内にタクシーが客待ちをしていたので、これに乗って泉湧寺(せんにゅうじ)にやってきた。

泉湧寺大門(重文)江戸初期に造られた御所の門を移築したという。大門の裏に受付があった、拝観料は500円。

泉湧寺は皇室の菩提寺として有名である。この始まりは後堀河天皇が泉湧寺を祈願寺としてからである。後堀河天皇が葬られている観音寺陵は泉湧寺の敷地内にある。

後堀河天皇は鎌倉初期の天皇(在位1221〜1232年)である。1221年は承久の乱が起きた年である。すなわち後鳥羽上皇は鎌倉幕府執権の北条義時追討の宣旨を出して挙兵した。鎌倉幕府が始まってまだ30年ほどの時期である。

天皇家はまだ広大な荘園を保有しており、幕府に対抗できるだけの力があった。だが朝廷に味方する武士は少なく、1か月後に鎌倉軍は京都を制覇し、後鳥羽上皇は隠岐島へ流された。後鳥羽上皇の系統の83代・土御門、84代・順徳も流罪となり、85代・仲恭天皇は廃され、幕府は86代天皇として後堀河を擁立した。

右は仏殿(重文)1668年建立。桁行3間・梁間3間。一重裳階つき・入母屋造・本瓦葺。泉湧寺は真言宗であるが、金堂と呼ばずに仏殿とよぶ。また建物も花頭窓があるなど禅宗様である。

後堀河の子供が87代・四条天皇である。母は東福寺を開基した九条道家の娘である。四条天皇はわずか12才で亡くなり、月輪陵(泉湧寺にある)に葬られた。たぶん月輪陵に葬られた最初の天皇である。

舎利殿。仏殿が建立された同時期に、御所の建物を移築改装したという。移築だけなら重文になっていたろうが、改装しているので重文の指定はされていない。

四条天皇のあと泉湧寺と皇室の関係は失われたようである。四条天皇は若くて親王がいなかったため、後堀河の系統が途切れたためである。

承久の乱のあとの天皇家は衰弱していく。天皇家に光が当たったのは1333年の96代・後醍醐天皇による建武の親政(わずか2年)だけである。このときの武家は足利尊氏。

よい目を見たのは107代・後陽成天皇(在位1586〜1611年)である。豊臣秀吉が天皇に対して惜しげもなく財物を捧げた。若き天皇は秀吉が大好きであったようだ。

塀の向うの松の木に隠れている御座所を拝観した(500円)。天皇・皇后が来寺されたときに休憩される建物である。もとは御所にあった御里御殿(皇后の住居)であったものを明治になって移築したものであるから御所風である。内部は南北に3室・3室の都合6部屋がある。玉座もあった。

後陽成天皇のとき秀吉が亡くなり、徳川家康が江戸幕府を開いた。108代は後陽成天皇の第3子の後水尾天皇(在位1611〜1629年)が即位した。この天皇のもとへ幕府は徳川秀忠の娘の和子を入内させ、1624年には皇后とするのである。

これが天皇の不快のその一である。ついで1627年に紫衣事件が発生した。幕府は1615年に「禁中並びに公家諸法度」を定めて、朝廷が紫衣や上人号を与えることを禁じていたが、後水尾天皇は従来どおりに紫衣着用の勅許を与えていた。天皇の幕府への反抗である。

幕府は天皇が与えてきた勅許をすべて取り消した。これによって朝廷の面目はつぶれ、大徳寺の沢庵らは幕府に抗弁したため、出羽国に流罪になった。怒った天皇は興子内親王に譲位する。よって109代・明正天皇は女帝である。なんと女帝の即位は奈良時代の称徳天皇(在位764〜770年)(聖武天皇と光明皇后の子)から870年ぶりのことである。

月輪陵(つきのわのみささぎ)に行くにはいちど泉湧寺の境内を出なければならない。明治17年(1881)に明治天皇によって再建されたという霊明殿の塀に沿って少し歩くと、突き当たりが月輪陵の入り口である。

月輪陵(つきのわのみささぎ)。
退位した後水尾は1680年に亡くなり、月輪陵に葬られた。以来、徳川時代のすべての天皇は月輪陵か後月輪陵(これも泉湧寺にある。月輪陵の後方(東))で菩提が弔われることになったのである。

徳川幕府のもとでは天皇家は衰亡の極みにあったが、徳川が傾きはじめると天皇家に光が射してきた。121代・孝明天皇(在位1846〜1866年)のときである。

世をあげてのスローガンは「尊王攘夷」であった。幕府は朝廷の意向を無視しては何もできなくなっていた。そこで公武合体を計り、徳川将軍家は皇女和宮を家茂へ降嫁することを願いでた。これも天皇としては嫌なことであったが、朝廷が主導権を得たのは240年ぶりのことであった。

孝明天皇は幕府の瓦解を見ることなく、1866年に亡くなり、後月輪東山陵(右図)に葬られた。後月輪陵のさらに東の山腹(高くはない)にある。月輪陵には歴代天皇の墓石が並んでいるそうであるが、孝明天皇陵だけは別にある。

明治になって神仏分離の令が出されたので天皇家は「神」のほうに行き、「仏」からは離れた。よって明治天皇以降の菩提寺はない。 御座所を拝観したときに、昭和天皇が昭和42年に孝明天皇陵に墓参された折に詠まれた次の御製があった。

  百年(ももとせ)の  むかし偲びて
  陵(みささぎ)を    拝(おろが)みをれば
  春雨の降る

昭和42年は1967年である。まことに百年前が孝明天皇の時代、日本が大転換した時代であった。


孝明天皇も激動の時代にあったが、昭和天皇はその何十倍かの激変を体験されたのである。昭和天皇が孝明天皇の時代を偲ばれ、ご自身が耐えてきた過去を振り返って詠まれた歌である。小声に出して読み上げたとき、そのことを思ってグーッときた。

泉湧寺の仏殿にある如来像を修繕する費用の浄財寄付のお願いが貼り出されていたので、わずかのことを申し出たら、箱にはいった小皿を頂いた。帰宅して開けてみると、黒地の皿に金色の16弁の菊の紋が入っている。さすがに皇室の元菩提寺である。

黒い皿であるから白いものをのせるのがよい。頂戴ものの梨を切って盛った。 今日のテクテクは17600歩だった。半年ぶりのテクテクだったので疲れた。


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