磐之媛陵から井手町

    No.79.....2010年4月3日(土曜)


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サンケイ新聞朝刊に平城宮の大極殿を空中から写した写真が載っていた。復元中の大極殿が完成したのだ。だが復元されるのは大極殿ばかりではなく、その周囲に垣をめぐらすようである。

垣をつけるとは知らなかった。軽い気持ちで平城宮跡を訪ねようと思ったのが8:00ころである。まあ二度行ったことがあるので、詳細な地図は要るまいが、念のため「歩く地図(奈良・大和路)」を1冊携行した。これは18年前のガイドブックである。地図はイラストなので正確なものではない。

平城宮の北には平城山(ならやま)と呼ばれる丘陵がある。そこは佐紀町という地区で、大きな前方後円墳が並んでおり、佐紀楯列(たたなみ)古墳群と呼ばれている。平城山の山端を利用したのであろう。

ついでだから磐之媛(いわのひめ)陵にも行こう。できれば平城山を越えて木津川まで歩いてみたい。ここまでのことを思って家を出たのだが、ふと思いついたことを実行するものではない。@平城宮跡、A平城山越え、B京都府綴喜郡井手町 の3か所を無計画に歩いたので、まとまりのないテクテクになった。

  @平城宮跡・大極殿
  A平城(へいぜい)天皇陵
  B葛木神社
  C磐之媛(いわのひめ)陵

平城宮跡は近鉄西大寺が最寄の駅である。名張で特急指定席券を買おうとしたら満席であるという。桜の時期だし、行楽にでかける時刻であるからしかたがない。8:49の普通電車に乗って、西大寺駅についたのは10:00ころ。

駅から東へ5分も歩けば平城宮跡の西端に着くはずである。平城宮跡へは、2004年1月に2度訪れている。(No.24 平城宮跡 No.25 法華寺から秋篠寺 )平城宮あるいは平城京についての知識の多くは、そのテクテクで得た。

この道は平城宮の北部を通る県道104号線なのだが、平城宮跡の北から1/4くらいのところを東西に走っている。つまり平城宮跡を貫通している乱暴な道路である。

これに匹敵する乱暴さが、平城宮跡の西から北から1/2のところに入りこんで南東隅に突き抜けている近鉄電車の線路である。近鉄奈良線は大正3年に開通したというから、まだ平城宮跡を保存しようという気運は盛り上がっていなかった。

国が平城宮跡を特別史跡にしたのは、なんと昭和27年のことであり、発掘調査会が発足したのが昭和29年である。いまさら邪魔だといってもしかたがない。

平城宮跡に着いた。平城宮の西端に、平城宮資料館があり、奈良文化財研究所(奈良文研)の建物が立ち並んでいる。

平城京は条坊制である。南北に9条(4.8km)、東西に8坊(4.2km)。そこに4条3坊の外京がつく。平城宮は平城京の北端、東西の中央にあって、基本は2条2坊だが、東側に南北1.5条・東西半坊の張り出しがあるので、南北1km×東西1.2kmの広さがある。

北から南方向を見る。一番奥に建物があるが、それは北端から1/3くらいの位置にある。見ている距離のさらに2倍も先が平城宮の南端になる。

西から東方向を見る。道路のずっと向うに家屋らしきものが見えるが、これは大極殿を取り巻く塀(今度新しく作っている)である。東端は見ている距離の2倍先である。

平城宮には、@朝儀、A饗応、B皇居、C政務のための建物や設備があった。@朝儀が行われるのは大極殿である。天皇の即位式、毎年元旦に行われる朝賀、外国使節の謁見がされた。

A饗応する場所は朝堂や大安殿(まだ明らかになっていない)であった。饗膳を用意するための建物や設備(大膳職・酒造司)が必要である。B毎日の内裏の食事を用意する建物(内膳職)も要る。

C当初は4棟の朝堂があった。朝堂は政務を執るための建物であるが、一部は饗応に使われたようだ。朝堂に入る前には衣服を整えることが必要で、そのための朝集殿もあった。

さらにはD馬寮とか工房もあったので、平城宮は上の2つの写真のような広さが必要だったのだろう。

元明天皇が藤原京から平城京へ遷都したのは和銅3年(710年)3月10日のことである。その当時の建物は、右図の赤色枠とピンク色枠であったようである。

@(大極殿院)大極殿が建ち、その周りは築地塀で囲まれていた。(大極殿は建物、大極殿院は築地塀で囲まれた区画)
A(内裏)大極殿院の東に内裏があり、やはり築地塀で囲まれていた。
B(朝堂院)大極殿院の南に4棟の朝堂があり、築地塀で囲まれていた。

元明・元正天皇の時代と聖武天皇(在位724年〜749年)の前半までは右の3つが主な区画であったようである。

聖武天皇は740年12月、恭仁宮(くに)に行幸し、恭仁京を造営することを宣言する。翌年から京の大造営が始まった。大極殿は平城宮が移築されることになったようだ。だが恭仁京は完成しなかった。745年に天皇は平城宮に戻る。恭仁宮の大極殿は山背国分寺となった。

平城宮に戻った天皇は内裏の南に大極殿を建てたようである。これに伴って(第2次)大極殿の南に12棟の朝殿が建てられ、さらに南に朝集殿が建設された。元の(第1次)大極殿院跡には大膳職などの官庁が建てられたようである。

復元された大極殿は当初の位置に建てられた。



(上図)大極殿の基壇は東西53.5m・南北28.9m・高さ3.4m。現在の東大寺大仏殿とほぼ同じ規模である(「奈良の寺」奈良文化財研究所)

大極殿は桁行9間・梁間4間。1間の間隔は約5mなので、正面44m・奥行き19.5m・高さ26.9mの大きさである。重層の入母屋造。大屋根の棟には鴟尾(シビ)が乗る。9階建てのビルに相当する。

大極殿を取り囲む垣が建設中である。藤原宮の垣は「大垣」といって、2.7mごとに掘立て柱が立てられ、屋根瓦が葺いてあった、柱と柱の間は土壁で塗りこめられていたという。 平城宮の大極殿を囲んでいたのは垣ではなく築地塀であった。だが今作っているのは垣である。連子窓が開き、一部が土壁になっている。藤原宮の垣に近い。

垣根の南端に行ってみた。もとは大極門と呼ばれる門があって、大極殿院と朝堂院とを結ぶ門であったようである。写真で見る限りでは大極門はひどく簡素に作られている。どうやら復元を目的にしていないようである。垣で囲んで大極殿院の広さを示すためのようである。

平城宮の南北の中心線上に、@北に大極殿、A南端に朱雀門があった。上の大極門から南を見ると、平成9年(1997年)に復元された朱雀門が見える。門は重層の入母屋造。桁行(けたゆき)5間・梁間(はりま)2間。1間の間隔は5mだから東西25m×南北10mの大きな門である。


第1次大極殿院の東に内裏があり、その南に第2次大極殿院があった。聖武天皇が恭仁京をあきらめて平城宮へ還幸した745年以降に建てられたものである。

784年に桓武天皇は長岡京へ遷都し、794年に平安京に遷都したが、平城宮はすぐに捨て去られたのではなかった。792年には平城旧宮を警備するための諸衛府が派遣されて旧宮を守った。809年には平城上皇が平城宮に戻ってきて御所を建設しようとし、810年に上皇は平城遷都の命令を出している。平安京にあった嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派遣して上皇方を制圧したため、上皇は平城宮に孤立し、824年に没する。 平城上皇が没してから平城宮は荒れ果てた。

(次図)第2次大極殿の基壇上から真東を見る。中央手前の右下がりの山斜面(茶色)が若草山。その右の大きな山の塊りが春日山。春日山の手前にうっすらと左右対称の小山がある。これが御蓋山(みかさやま)。春日山の右の大きな塊りが高円山(たかまどやま)である。



第2次大極殿の基壇上から真北を向くと、内裏跡があって、柱が立っていた位置に潅木が植えられている。

その向うの丘は市庭古墳。平城天皇陵であるとされている。平城天皇の評判はよろしくない。桓武天皇の皇太子時代に、藤原種継の娘の薬子(くすこ)の娘を妃に娶ったが、母親の薬子も後宮に出入りしたため、後宮は大いに乱れたという。姉妹がセットで妃になる例は多くあるが母子がセットになっては人道に反する。

桓武天皇は薬子を追放したが、806年に崩御した。平城天皇が即位すると、再び薬子を迎え入れた。藤原氏は藤原不比等の4人の子供から4家に分かれていた。筆頭は南家ついで北家・式家・京家の順であった(平安中期からは北家だけが残る)。薬子は式家である。

平城天皇は健康に不安があったため在位3年にして弟の嵯峨天皇に譲位し、平城旧宮に隠棲するのだが、隠棲してから健康が回復した。薬子と兄の藤原仲成(式家)は平城天皇の重祚を計った。

京都の嵯峨天皇は北家の藤原冬嗣を任用してこれに対抗する。2系統から命令が発せられたため「ニ所の朝廷」と呼ばれた。 だが結局は仲成は殺され、薬子は自害し、平城上皇は出家して騒動は終わった。

スクーターが走っている道は県道104号線。道の向うに民家が立ち並んでいるが、そこも平城宮の範囲である。これだけ民家が建っていては発掘はできない。平城宮の北限にあったであろう3つの門は確定できていない。

平城天皇陵。宮内庁は揚梅陵(やまもも)と呼び、考古学者は市庭古墳と呼ぶ。市庭古墳はもともとは5世紀中葉の前方後円墳であり、平城京が作られたときに前方部が切り取られたものである。よって市庭古墳が平城天皇陵であるはずはない。というのが考古学者の意見である。

薬子という女性に翻弄された平城天皇であるが、万葉集を編集したそうである。「水底の歌」(梅原猛)は、万葉集が大規模に編集されたのは2度あった。1つは橘諸兄(たちばなのもろえ)と大伴家持によるもの、2つは平城天皇と大伴家持ゆかりの者によるものであろう。万葉集は反藤原勢力が強くなった時期に編集されている。といわれている。

平城天皇陵の東側に小道を北上する。葛木神社があるはずである。

万葉集は上の2度の編集だけによって成立したものではない。何度も編集されている。「万葉集・釈注(一)」(伊藤博)の巻末の解説は、三田誠司さんが伊藤博さんの万葉集瀬成立についての考えをまとめ、要約されたものである。
  1. 巻1〜巻6は、原則として作者名を明記し、部立てごとに年代順に配列されている。小万葉集といってよい。

  2. 巻7〜巻12は、巻8と巻9では作者名を明記するが、残りは作者名がない。だがどの巻も柿本人麻呂歌集を規範としている。

葛木神社。仁徳天皇の皇后であった磐之媛(いわのひめ)は葛城襲津彦の娘であり、人臣の出身にして初めて皇后になったといわれている。葛木神社がここにあるのは、すぐ近くに磐之媛の墓であるといわれるヒシャゲ古墳があるからである。
  1. 巻1は、巻頭歌を除くと、舒明天皇から持統天皇までの歌である。これを編集したのは柿本人麻呂であろう。

  2. 巻2は巻1と姉妹編であるが、巻1に文武・元明までの歌 を追加して「雑歌」とし、同時期の歌を巻2に「相聞」と「挽歌」としてまとめたものである。平城京へ遷都したすぐあと、大安万呂らが編集したのではないか。


水上池(みずかみ)が見える。昔は佐紀池と呼ばれていた。
  1. 巻3と巻4は聖武天皇の初期に巻1・巻2でもれていた歌を拾遺し、そこに平城京初期(天平3年・731年くらいまで)の歌が追加された。また巻1・巻2に志貴・長皇子らの歌が追加された。編者は山辺赤人・笠金村・大伴坂上郎らではないか。

  2. 745年ころ橘諸兄の命によって大伴家持が天平3年以降の歌を巻5と巻6にまとめたらしい。
こういう経過から、万葉集の巻1〜巻4には優れた歌がぎっしりと集まっている。事実柿本人麻呂作の歌は巻4までしかない。巻5より後にでてくるのは人麻呂歌集の歌である。

池には鴨が浮いている。

芦辺と鴨といえば、志貴皇子の

  葦辺(あしへ)行く   鴨の羽がひに
  霜降りて         寒き夕へは
  大和し思ほゆ      (1-64)  

だ。巻1に収録されているだけに、よい歌である。






(上図)水上池の北から東を見る。中央の池近くの丘はコナベ古墳。その後方に春日山と高円山。左端の木立は池に突き出た半島(?)で、その左に磐之媛陵(ヒシャゲ古墳)があるが写真には写っていない。

(右図)水上池の北端に来た。池の周りには自転車道がある。これは前回来たときにはなかったはずだ。舗装された自転車道の左に一段高くなった地道がある。前回はこの道を歩いた。この地道の向うの林が磐之媛陵。

磐之媛陵は前方後円墳である。前方部が地道に接している。


前方部の西角に来た。後円部方向を見る。先にある小高い丘が平城山であろうか。地図で探しても平城山(ならやま)という名前は見当たらない。このあたりの丘を総称して平城山というのだろうが、それにしても山というには低すぎる。

万葉集巻2の巻頭を飾る歌は磐之媛(いわのひめ)が詠んだ歌4首である。磐之媛は仁徳天皇の皇后であるから5世紀前半の人である。万葉集に出てくる作者の中では最も古い人物だろう。

巻1の巻頭歌は、雄略天皇の「籠(こ)もよ  み籠(こ)持ち  掘串(ふくし)もよ  み掘串(ぶくし)持ち  ・・・」の菜摘みの歌である。雄略天皇は5世紀後半の人である。その次の歌は舒明天皇(在位629年〜641年)の「・・・ うまし国ぞ  蜻蛉島(あきつしま)  大和の国は」の国見の歌である。雄略から舒明までには150年くらいのブランクがある。


陵墓の正面。時計を持っていないので散歩している人に訊ねると11:00だという。まだ時間はある。

巻1の巻頭の歌(1-1)は特別な位置づけである。雄略天皇が歌った歌ではなく、古歌謡として歌いつがれてきたものに手を入れて整えたものであろう、というのが定説である。

巻2の磐之媛の4首の次にくるのは天智天皇の歌である。この間のブランクは200年近くあるだろう。巻1と同様にこの4首は磐之媛が詠んだものではなく、天智天皇の時代より前には、このような歌があったという代表例であろう。

古い歌であるはずなのに(5・7・5・7・7)がきちんと整っており、調子がよい。なかなか優れた歌である。次に掲げる。


あの方が出かけられてから ずいぶん日がたった。
山路を訪ねて迎えにいこうか。
それともじっと待っていようか。


このように恋焦がれていないで
いっそ高い山の石を枕にして
死んだほうがましだ。



このまま居て、あの方を待ちましょう。
長く靡くこの黒髪に
霜が降りたように(白髪に)なるまで。


秋の田の稲穂の上にかかる
朝霞のように、いつになったら
私の恋は晴れるのだろうか。

(2-85)の「迎へか行かむ 待ちにか待たむ」の句がよい。迎えに行こうか、待っていようかと悩んでいる歌である。次の(2-86)は短気を起こしている。「高山の 岩根しまきて」死んだほうがましだ。 ところが(2-87)では冷静になって「我が黒髪に 霜の置くまで」待ち続けようと思いなおす。(2-88)はここまでの3首のまとめである。私の思いは朝霞のようである。いつになったら晴れるのだろうか。悩ましいことである。

日本書紀によると、仁徳天皇元年に磐之媛は皇后となった。史上初の人臣出身の皇后である。皇后は後に履中(りちゅう)天皇・反正(はんぜい)天皇・允恭(いんぎょう)天皇となる皇子を産んでいる。

仁徳天皇は聖帝として伝えられている。仁徳3年、天皇が高津宮の高殿に登って国見すると、人家の炊煙が見えなかった。民は貧しいと知り6年間の賦課を免除したのは有名な話である。免税によって民力を回復させた後、仁徳11年に茨田(まんだ)の堤を築き、13年に和珥池(わにのいけ)を堀り、14年に猪飼津に橋を架けるなど、大阪平野の開拓をするのである。

(次図)磐之媛陵を後にする。振り返ると水上池。南西方向を見ている。右の木立は池に突き出た半島(?)、この裏側にも池が広がっている。左側の丘は平城天皇陵。その左に大極殿の屋根が見える。




磐之媛陵の東側には陵に沿って小道がある。前方部から後円部に向かう(北上する)。写真のあたりが前方部と後円部の継ぎ目である。道はやや上り坂となっている。

仁徳22年、磐之媛皇后にとっては重大な相談が天皇から持ちかけられた。天皇の異母妹である八田皇女を妃として召し入れたいというのである。八田皇女はNo.77 宇治川と平等院でふれたように、応神天皇と妃の宮主宅姫(みやぬしやかひめ)の子供である。兄は菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ)、妹に雌鳥皇女(めとり)がいる。皇后は嫉妬深い性格である。直ちにそれを拒絶した。

日本書紀はこのときのやりとりの歌を掲げていて、これが面白い。

後円部に回り込むところで道が分かれている。陵を一周するのが目的ではない、今日は「平城山越え」をしたいのである。右の道へ入る。

天皇は次のように歌った。

  貴人(うまひと)の     建つること立て
  儲(う)さ弓弦(ゆづる)  断(た)えば継(つ)がむに
  並べてもがも

私が言いたいことは、予備の弓弦(八田皇女)としたいのだ。いつも使っている弓弦(磐之媛)が切れたときに使うために、2つを並べておきたいのだ。

皇后は次のように答歌した。

  衣(ころも)こそ      二重(ふたえ)も善(よ)き
  小夜床(さよとこ)を   並べむ君は
  畏(かし)こきろかも

衣なら二重に重ね着するのもよいですが、夜床を並べようとされるあなたは、怖ろしい方ですね。

天皇は当面、八田皇女を迎えることを断念した。仁徳30年、皇后は船で紀伊国へ行った。新嘗祭を終えた後の宴会で使う「三つ柏」の葉を採るためである。葉を採って難波の津に戻ったとき、天皇は皇后の留守の間に八田皇女を宮中に入れて妃としたことを知った。皇后の怒るまいことか。採ってきた三つ柏の全部を海に投げ捨てた。

皇后は、船を堀江に入れさせ、淀川を上り、木津川に入ってさらに上流を目指した。難波の高津宮には戻らず、大和に向かったのである。

(上図)磐之媛陵の周囲には陪塚らしき古墳がいくつかある。道は緩やかな登り坂である。順調に平城山越えをしていると思っていた。

(右図)車が走れるような道に出た。道は北方向と東方向の二手に分岐している。平城山を越すのだから北方向の道を進まねばならない。 左折して北に向かって歩いたが、道は途切れた。 平城山を越す道は、この辺りにはないようである。民家があって車の掃除をしている方がいたので、「木津」に行くにはどう行けばよいかを訊ねると、道を引き返して東向きの道を進めと教えられた。


東方向の道は下り坂であった。かなり下方にJR線路や国道24号線が見える。50mの標高差があるのではないか。磐之媛陵からの道はそれほどの坂ではなかったが、いつのまにか、このように高いところまで来ていたのだ。

(次図)坂道を下って、 国道24号線の脇へやってきた。車は北に向いて走っている。道路はやや下り坂である。写真の車の後方に見える丘も平城山の一部であろう。国道24号線も平城山越えをしているのだ。

京都と奈良を結ぶ道路は、この24号線が幹線である。おそらく古代の道も同じ場所にあったはずである。額田女王が飛鳥京から近江京へ移り住むときに次の長歌を歌っている。

  味酒(うまさけ)  三輪の山
  あをによし     奈良の山の
  山の際(ま)に   い隠(かく)るまで
  道の隈(くま)    い積(つも)るまでに
  つばらにも     見つつ行かむを
  しばしばも      見放(みさ)けむ山を
  情(こころ)なく   雲の
  隠さふべしや     (1-17)

平城山を越えると三輪山は見えなくなる。それまでは振り返っては三輪山を見たい。雲は三輪山を隠さないで欲しい。

国道24号線をくぐって東側にある道路を北に歩くとJR・平城山(ならやま)駅があった。

淀川から木津川に入った磐之媛は次の歌を詠んでいる。古事記にも載っているが日本書紀のほうを掲げる。

  つぎねふ         山背(やましろ)川を
  川上(のぼ)り      我が上れば
  川隈(かはくま)に    立ち栄ゆる
  百足(ももた)らず    八十葉(やそは)の木は
  大君(おおきみ)ろかも

山背川を遡ってくると、川が曲がったところに葉が茂った木が立っている。大君(仁徳天皇)のようだ。天皇に怒ってやってきたはずだが、立派な木を見て天皇を偲んだのであろうか。


JR平城山駅から電車に乗ることにした。次は木津駅である。木津駅は3つの線路が分岐する駅である。
  1. 東に向いては関西本線が伊賀上野に向かっている。木津駅の次は加茂駅である。ここに聖武天皇の恭仁京跡がある。

  2. 西に向いては片町線が大阪に向かう。磐之媛は筒城宮(つづきのみや)で亡くなったという。木津駅から6つ目の京田辺駅が最寄の駅であろうか。

  3. 北に向いては奈良線が京都に向かう。次の駅は上狛駅(かみこま)で ある。古代、先進の技術をもつ渡来人が開拓した土地である。


木津駅プラットホーム。 目的は木津川を見ることであるので、上のどの駅で下車してもよいのだが、それだけに迷った。どの駅で下車するにしても木津駅で乗り換えをせねばならない。

木津駅で悩んだすえ、奈良線に乗って玉水駅(たまみず)に行くことにした。快速・急行が止まる駅であるので電車の本数が多いだろうという単純な理由からである。

(次図)電車は木津川を渡る。写真は上流を向いて撮ったもの。川の向うの山は鹿背山。この山の裏に恭仁京があった。

下流には泉橋という長い橋が架けられていて、国道24号線と歩行者用の橋が並んでいる。かつて歩行者用の橋を歩いたが、ひどく長かった。



磐之媛は木津川を遡り、おそらくは写真の辺りに上陸して大和に向かったのだろう。次の歌を歌っている。(古事記のものを掲げる)

  つぎねふや         山代河を
  宮上(のぼ)り       我が上れば
  あおによし          奈良を過ぎ
  小楯(をだて)       大和を過ぎ
  我が見ま欲(ほ)し国は 葛城高宮
  我家(わぎへ)のあたり

山代河(木津川)を遡って、奈良を過ぎ、大和を過ぎて、私が見たい国は、葛城の高宮の我が家のあたりです。磐之媛は実家に戻りたかったのであろう。だが帰らなかった。山城に引き返し、筒城宮(つづきのみや)に住んだ。 


JR玉水駅(たまみず)。京都府綴喜郡井手町。綴喜郡(つづきぐん)の多くの町は合併して京田辺市になったが、井手町はそれに加わらなかったらしい。先にいったように玉水駅で下車したのは電車の便数が多いだろうという理由からである。井出町には何があるのかは皆目知らなかった。

駅に井出町の観光案内が置いてあったので貰って見ると、なんと橘諸兄(たちばなのもろえ)の別荘跡があるようである。橘諸兄が命じて大伴家持に万葉集の編纂をさせたことは先にいった。期せずして、万葉集の編纂に関与した二人(平城天皇と橘諸兄)にゆかりの場所を訪れたことになる。諸兄の別荘地跡を訪ねることに決めた。


玉川の土手には桜が植えられていて満開である。井手町は「桜祭り」をしていた。

仁徳天皇は皇后が筒城宮にいることを知って、何度も使いを出して戻ってくるように告げようとするのだが、皇后は使者に会うことすら拒否した。とうとう天皇は自ら船に乗って木津川を遡っていくのである。そのときの歌が書紀に載っている。

  つのさはふ       磐之媛が
  おほろかに       聞こさぬ
  末桑(うらぐは)の木 寄るまじき
  川の隈々(くまくま)  よろほい行くかも
  末桑(うらぐは)の木


磐之媛は寛大に聞いてくれない。末桑の木(心恋(うらごい)する天皇)は近寄ることができない。川が曲がるたびに近寄っては、また離れて流れていく末桑の木であることよ。

次の日天皇は筒城宮に着き、皇后を呼んだが、皇后は会わなかった。そこで天皇は人を介して次の歌を皇后に届けた。

  つぎねふ        山背女(め)の
  木鍬(こくは)持ち   打ちし大根(おほね)
  根白(ねしろ)の    白腕(しろただ)むき
  巻かずけばこそ    知らずとも言はめ

山背の娘子が木の鍬で掘り出した大根のように真っ白い腕を巻き合ったことがないのならば、私を知らないともいえようが(そうではあるまい)。

皇后は難波の高津宮に戻ることはなく、仁徳35年に筒城宮で亡くなり、37年平城山に葬られた。 38年、磐之媛が別居してまでも許さなかった八田皇女が皇后になった。

(上図)玉川の土手には大勢の花見客がいた。河川敷で宴会をしているグループも多い。駅で貰った井出町の観光マップによると、橘氏の氏寺であった井手寺跡があるそうである。そこへ寄ってみる。



(次図)坂道を登ると眺望が開けた。真西を向いているようである。遠くの山並みは山城国と河内国を分ける山であろう。山を越えると枚方市。 その山並みの中央手前の丘(送電鉄塔の下)に建物が密集している。同志社大学であろうか。さすれば、その左側に筒城宮があったのだろう。



橘諸兄については詳しくない。諸兄の位階と官職を「続日本紀」で追ってみると、次のようになる。
    683年(持統)美努王(みぬ)と県犬養三千代(あがたいぬかい・みちよ)を両親として誕生。葛城王と呼ばれる。
    701年(文武)首皇子(聖武天皇)誕生。藤原不比等と県犬養三千代の子の光明子が誕生。
    708年(元明)県犬養三千代は「橘」の姓を賜る。
    710年(元明)平城京へ遷都。  (従5位下) 
    717年(元正)行基を非難する詔。(従5位上)
    720年(元正)藤原不比等没。
    721年(元正)            (正5位下)
    723年(元正)三世一身法施行。 (正5位上)
    724年(聖武)聖武天皇即位。  (従4位下)
    729年(聖武)長屋王自殺。光明子が皇后に。 (正4位下・左大弁)
    732年(聖武)            (従3位・左大弁)
    733年(聖武)橘三千代没。
    736年(聖武)(臣籍降下し、橘宿禰諸兄となる。)
    737年(聖武)藤原4兄弟が病死。(従3位・大納言)
    738年(聖武)            (正3位・右大臣)
    739年(聖武)            (従2位・右大臣)
    740年(聖武)聖武天皇が知識寺の大仏を拝する。 (正2位・右大臣)
    741年(聖武)廬遮那仏・国分寺・国分尼寺の造営を発願。恭仁京へ遷都。造営に着手。
    743年(聖武)恭仁京造営中止。 (従1位・左大臣)
    745年(聖武)平城京に環都。行基大僧正になる。大仏造営が始まる。
    749年(聖武)行基没。       (正1位・左大臣)
    750年(孝謙)            (朝臣の姓を賜る)
    752年(孝謙)大仏開眼。
    754年(孝謙)鑑真来日。聖武・光明が受戒する。
    756年(孝謙)聖武上皇薨去。 (左大臣の職を辞す)
    757年(孝謙)橘諸兄没。橘奈良麻呂が処刑される。藤原豊成が左遷される。
    759年(孝謙)唐招提寺を建立。



道路の右にある東屋ふうの簡素な建物のあたりで、井手寺(井堤寺)の跡が発掘されたという。面積は240m四方である。条坊制の単位でいえば1/4坊、薬師寺の1/4の広さである。一氏族の氏寺としては大きい。

犬養三千代は持統天皇の時代、軽皇子(のちの文武天皇)の乳母であったので、後宮では勢力を振るっていたという。その後美努王(みぬ)に嫁ぎ、諸兄ら3人の子を産んだあと、どういういきさつかは知らないが、元明・元正天皇の最大のブレーンである藤原不比等の後妻となって、光明子を産んでいる。

光明子は首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)の妃になり、皇子が聖武天皇に即位したのちは皇后となった。光明皇后はのちの孝謙天皇を生んでいる。橘諸兄と光明皇后は同母の兄妹になる。


橘諸兄が権勢を誇ったのは、年表から737年から756年の20年間である。この時期に井手の地に別荘を作り、井手寺を建て、玉川を整備し、そして万葉集を編集したようだ。

橘諸兄(葛城王)の名が「続日本紀」に出てくるのは、710年正月で、「無位の葛城王に従5位下を授けた」とある。年表からは27歳である。この従5位下の位階は、官職では中央(太政官)にあっては少納言、地方の官制では上国の国守になれる。

政治は太政官で執行する。太政官の@最高位は太政大臣(正・従1位)で、ついでA左・右大臣(正・従2位)、B大納言(正3位)、C中務省や7省の卿(長官)(正4位)、D左・右大弁(従4位)、E左・右中弁(正5位上)、F左・右少弁(正5位下)、G少納言(従5位下)の順である。


自動車道を右に折れると、農道のような道があり、桜の見物客がかたまっている。坂を下る。

地方の国は重要性によって、@大国(従5位上)、A上国(従5位下)、B中国(正6位下)、C下国(従6位下)の等級がつけられていた。大国は大和・河内・伊勢・近江・武蔵・上総・下総・越前など、上国は山城・攝津・尾張・美濃・三河・甲斐・信濃など、中国は若狭・長門・薩摩・安房など、下国は和泉・伊賀・志摩・飛騨・隠岐などである。(( )内は国守になれる位階)

大宝令は、まず位階を細かく決め、一定の位階の者がそれにふさわしい官職に就くことができたのである。位階によって食い扶持が与えられ、官職につくとその間は官職に応じて手当てがプラスされる。この仕組みを完成させたのが藤原不比等である。


諸兄が初めて従5位下の位を授かったときから、位田として8町からあがる租税と布が与えられただろう。その後729年に正4位下になったときは、位田として24町の租税と封戸100戸が納める租・庸・調が与えられ、左大弁の職に就いたから職封として200戸の封戸がプラスされたはずである。



「桜まつり」の臨時の休憩所があった。

諸兄が、749年に正1位になったときは、位田80町・位封600戸が収入になり、従者100人が与えられた。ここへ左大臣の職分田30町・職封2000戸、従者200人がプラスされるのである。諸兄の資力は膨大なものであった。

橘諸兄はもとは葛城王と呼ばれていた。天皇の子供は「皇子」である。皇子の子や子孫は「王」と呼ばれる皇族である。

葛城王は敏達天皇の5世孫であった。 @敏達天皇→A難波皇子→B栗隈(くりくま)王→C美努(みぬ)王→D葛城王(橘諸兄)という系譜であるようだ。皇子の子孫がいつまでも王(皇族)であっては、皇族が増えるばかりであるので、どこかで臣籍に降ることになる。


休憩所の中に入ると「筍ご飯」がパックに詰められて売られていた。奥では大きな釜で炊き上げている。できたてである。1つ200円を買った。これが実によい味で、あっというまに平らげてしまった。縁台に3分間も座っていたかどうかである。いっぺんに井手町に親しみを持ったのであるから、単純だ。

葛城王は736年11月11日に聖武天皇に上奏して、母である橘三千代の橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜るよう願い出た。1週間のあと、橘宿禰諸兄が誕生する。このとき聖武天皇は次の歌を詠ったという。

  橘(たちばな)は     実さへ花さへ
  その葉さへ        枝(え)に霜降れど
  いや常(とこ)の葉の木  (6-1009)聖武天皇


橘の木はその実も花もめでたい。その葉さえ枝に霜が降りてもますます栄える、めでたい木である。

皆が歩く方向に歩いていたら玉川に出た。「橋本橋」とある。玉川の最も上流に架かる橋のようである。桜の木が植えられているのは橋本橋までである。桜見物客は、橋を渡らずに玉川土手(右岸)を下るか、橋を渡って玉川の土手(左岸)を下るかのどちらかである。

私は橋本橋を渡ってそのまま道を進んだ。駅で貰ったマップでは、橘諸兄の別荘跡は玉川から少し離れている。


古代の山背道を進む。次第に小高くなる。752年11月8日(太陽暦では12月17日ころ)に、橘諸兄の井手の別荘で宴会が催された。聖武太上天皇、左大臣橘諸兄、右大弁藤原八束朝臣、少納言大伴宿禰家持の4人が詠んだ歌がある。

聖武太上天皇の歌は、

  よそのみに       見ればありしを
  今日(けふ)見ては  年に忘れず
  思ほえむかも     (19-4269)聖武太上天皇

天皇は諸兄の別荘を訪ねて、外から見るだけだった以前であればともかく、今日こうして訪ねてきて見たからには、毎年思い出すだろう。と別荘をほめた。


正面の竹やぶ一帯が別荘の跡であるらしい。 諸兄は、

  葎(むぐら)延(は)ふ   賎(いや)しきやども
  大君(おほきみ)の    座(ま)さむと知らば
  玉敷かましを       (19-4270)橘諸兄

諸兄は、雑草が生い茂る、むさくるしい我が家に、大君がおいでくださると知っておれば、玉を敷きつめておくのでしたが。と天皇の行幸に感謝し、かしこまる。

(次図)竹薮から奥に入ったところに石碑があるようだ。

右大弁・藤原八束は、

  松陰(まつかげ)の   清き浜辺に
  玉敷かば         君(きみ)来まさむか
  清き浜辺に       (19-4271)藤原八束

藤原八束は諸兄の甥であるそうだ。この庭の松の木陰の清らかな浜辺に、玉を敷いておきましたら、大君はまたおいで下さいますか。この清らかな浜辺に。

諸兄が「賎しきやど」と詠ったので、八束は「清き浜辺」と持ち上げて諸兄を喜ばせる。また諸兄が「玉を敷いておきましたのに」というので、「玉を敷きましたなら」また来て下さいますか? と天皇に軽くお願いする。


「橘諸兄公旧趾」の石碑があったが、礎石といったものは残っていないようである。

次に大伴家持の歌が続くが、詞書に「右の一首は少納言大伴宿禰家持。未奏」とあるので、その場で家持が歌を詠んだのではないようだ。上の3首を編集する際に、歌を作って追加したらしい。

  天地(あめつち)に    足らはし照りて
  我が大君          敷きませばかも
  楽しき小里(をざと)    (19-4272)大伴家持

天地に輝き照らされる大君が君臨なさっているから、この里一帯が楽しくにぎやかになっています。と太上天皇を讃歌する。


(次図)橘諸兄の別荘があった場所から南西を見る。左遠くに生駒山。



この4首は面白くない。招かれた聖武と招いた諸兄の挨拶を歌にしただけのものである。万葉集に載る歌でよいものは藤原京時代(白鳳期)までの歌である。平城京時代(天平期)以降のものは、さほどのものではない。とシロートは思っている。

715年に長皇子・穂積皇子・志貴皇子がそろって亡くなったが、その後の万葉集の歌で感心するものは少ない。技巧に走っており、心に響かない。

このあと諸兄の別荘(2つはあったようである)にあったといわれる六角井戸を道に迷いながら訪ねた。脇に歌碑があって、上記の(19-4270)の歌が彫ってあった。

再び玉川の堤に戻ってきた。玉川は木津川に注いでいるから、川沿いに下っていけば木津川に行ける。

諸兄はこの玉川土手に山吹を植え、川面が黄金色に染まる情景を楽しんだという。 桜並木の一か所に黄色い小花をつける潅木があった。これが山吹であろう。

天武朝のころ、十市(とをち)皇女が亡くなったときに高市(たけち)皇子が詠った歌がある。


  山吹の        立ちよそひたる
  山清水(しみず)  汲みに行(ゆ)かめど
  道の知らなくに   (2-158)高市皇子

十市皇女は、額田王と天武天皇の子供にして、近江京の弘文天皇の妃となったが、壬申の乱で父の天武と異母弟の高市皇子によって夫を殺害された。失意のうちに夫の仇である天武と異母弟の高市皇子がいる飛鳥京に戻ってきた悲劇の皇女である。

その皇女が678年に突然に亡くなった。そのときの挽歌である。山吹が咲きほこっている山の清水。その清水を汲みにいきたいのだが、道を知らない。山吹が咲いている清水のほとりに十市皇女がいるという。だがそこを訪ねることはできない。現世にありながら幽界に行くことはできないのである。


井手町を後にする。振り返ると左に大峰、右に山吹山が見える。山吹山の裾に諸兄の別荘があった。井手町の観光マップには、@山吹の碑→A六角井戸→B橘諸兄公旧跡の碑→C瓦窯跡→D小野小町塚→E玉津岡神社・地蔵禅院→F井堤寺跡→G蛙塚の順に回るとよいとあった。

山吹の碑と蛙塚が井手町の売り物のひとつであるらしい。それは次の万葉集歌が平安期に愛唱されたからである。

  蛙(かはづ)鳴く     神(かむ)なび川に
  影(かげ)見えて    今か咲くらむ
  山吹の花        (8-1435)厚見王

西に玉水橋がある。木津川に架かる大きな橋である。この橋を渡って西に進めば近鉄電車の線路に突き当たるだろう。

@蛙が鳴く川の川面に、A黄色い山吹の花が写っているだろうか、という情景を想像して詠んだものである。厚見王は749年に従5位下となって官界にデビューしているから、橘諸兄よりも30才ほど若い。このころの歌であろうか。

シロートにはこのような叙景の歌は面白くない。川に山吹の黄色が反映している。ああそうですか、というしかない。だが平安期になって、この歌を本歌としていくつかの和歌が詠われるのである。例えば、

  春ふかみ     神なび川に
  かげ見えて    うつろひにけり
  山吹の花

である。まず高市皇子の歌の清水のほとりに咲く山吹(それは十市皇女でもある)のイメージが強くあって→これを厚見王が叙景の歌に詠み直し→平安期に本歌取りがされた。十市皇女を山吹に仮託してその死を嘆いた高市皇子の心情は失せているので、歌はしだいに面白くなくなるのである。


(次図)玉水橋の上から木津川を北(下流方向)を向いて撮る。磐之媛が木津川を遡るとき見た「川隈(かはくま)に  立ち栄ゆる  八十葉(やそは)の木」はこういう川が蛇行したところに立っていたのであろう。仁徳天皇が磐之媛を連れ戻しに来るとき「末桑(うらぐは)の木 寄るまじき  川の隈々(くまくま) よろほい行くかも」と詠ったのも、こういった場所であったろう。




聖武天皇の時代、一時は平城京から恭仁京へ遷都し、同時に難波京をも皇都とした時期があった。744年に「難波宮を都とするから、恭仁京の人は両都を意のままに往来してもよい。」という勅を発表したのは左大臣橘諸兄である。難波京と恭仁京は木津川で繋がっている。おそらく聖武天皇や橘諸兄は木津川を使って両都を往来したのであろう。

木津川から西に1kmほど歩いたところに近鉄・三山木駅があった。西大寺駅から特急に乗り換えて名張に戻った。

井手町を訪れたのは偶然だったが、橘諸兄についての知識を得ることができた。山吹の花も初めて知った。だがなによりも井手町の「筍ごはん」がうまかった。今日は万歩計を忘れてきたが、推定で22000歩というところか。


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