広島県・三原市

    No.78.....2010年3月28日(日曜)


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広島県三原市は私の故郷である。そこで生まれて中学を卒業するまで住んでいた。高校からは三原を出たので、それ以来30年間ほどは、学生時代にたまに帰省するほかは三原に戻ることはなかった。

だが最近の15年間は1〜2年に一度は三原に行っている。1994年に母親が死んだ。母親は父親の墓を三原市本町の正法寺に立てていたので、そこへ納骨した。1周忌・3回忌・7回忌の法事を寺でしたため、そのたびに三原を訪れることとなった。

2001年に家内が死んだ。名張では弥勒寺のお世話になったが、そこには墓所がなかったので正法寺に納骨した。よって正法寺で1周忌・3回忌・7回忌をした。

姉の嫁ぎ先はどういうことか同じ寺に墓所を作ったのだが、その姉も2004年に死んだ。ために1周忌・3回忌に呼ばれた。この間に母親の13回忌・17回忌、父親の何回忌だかの法要があったので、三原へ行く回数はいやがうえにも増した。


今日は姉の7回忌の法事のために三原へ行く。

名張から三原へは、電車の乗り継ぎがうまくいけば3時間10分で着く。これまでは、だいたい11時に法要→12時から食事→3時ころに帰りの電車に乗るというスケジュールであったので、三原駅前周辺しか歩くことできなかったが、今日の法事は12時からであるという。法要の前に2時間くらいの時間が作れるのではないか。

調べるてみると名張を6:42の近鉄に乗れば、三原(「こだま」が止まる)に10:05に着く便があった。2時間近く三原見物ができそうである。


何しろ三原に住んでいたのは、生まれてからの15年間でしかない。昭和20年代から30年代の記憶があるだけある。その後30年間のブランクがあったから、30年ぶりに三原にやってきたときは、その変貌に驚いた。町並みがきれいになっている。駅前には百貨店やスーパーのビルが建っている。名張よりもよほど都会であった。

一方、当時は帝人の工場があったために三原で最も賑わっていた「帝人通り商店街」は、帝人が工場を閉鎖したために、店を閉める商店もあってうらさびれていた。

変化は来るたびにあった。数年前に駅前にあったスーパーのニチイが無くなり、今日着いてみると天満屋百貨店がない。更地になっている。駅前の再開発をするのであろうか。


三原市歴史民俗資料館のHPを見ると、右のような写真が掲載されていた。三原城を海上から撮影したもので、明治43年頃のものだとある。

小学4年から6年の3年間はY先生が担任であった。この先生は歴史が得意(体操も得意だった)で、@三原城は小早川隆景が築城したもので、A海にせり出していた、B海上から見ると海に浮いているようであるので「浮城(うきしろ)」と呼ばれていた。といったことを教わっていた。

だがその当時、城は駅の北側に天主台があるだけで、長々と続く石垣はすでになかった。海際には三原港があって、城郭の痕跡はなかったので、饅頭の包装紙や煎餅の焼き印に描かれた城の絵から想像するだけであった。

その城の写真があった。明治4か5年に廃城の命令が出たから、城内の館や櫓は取り壊されたが、石垣は残っていたのだ。まことに海にせり出ている。浮城である。


さらに探して見ると、三原城の絵図も掲載されてあった(後に掲げる)。

現在の三原市街の地図に往時の城の縄張りを重ねると右のようになる。赤色線が石垣である。現在は三原駅になっているが、駅の北から南にかけて台形の石垣が築かれていた。本丸である。

本丸の北西の先端は本丸の石垣より高い石垣(Aの部分)がある。これが天主台である。子供のころに入り込んで遊んでいたのが天主台であった。

本丸の西側と東側には水路があり、(f)石垣で四角に囲まれているのがニ之丸、(d)が三之丸のようである。三原城は本丸を中心にして5つの城郭で構成されていたらしい。 上の写真は(B)または(i)のあたりから(j)(k)を向いて写したものだと思われる。

明治43年当時、石垣はまだ海水で洗われていた。地図にある三原市役所・国道2号線・トスコのある場所は海の底だったのである。


これらの石垣はどうなったのか。少なくとも石垣は満潮時の海面から4mや5mは高くないと城壁としての役目は果たせないだろう。石垣は結構な高さであったはずである。その石垣はどこにいったのか。

さらに調べてみると、地図の(B)(C)に石垣の一部が残っていることが判った。(A)は小学校から近いので、しばしば遊んだ場所であるし、(C)は小学校の時分に一度だけ見たことがある。(B)だけはどうにも記憶がない。

まずは(A)の天主台へ行く。写真は新幹線の上りホームから北を向いて撮ったもの。立木や植え込みがあるところが天主台である。

もともと本丸があったところにJR三原駅を作り、駅前広場を作ったので、本丸の大部分は無くなったのだが、まだ天主台側の本丸の一部は残っていた。

ところが新幹線を駅の北側に通すことになったので、新幹線の高架(とプラットホーム)の幅だけ、わずかに残っていた本丸部分を線路が侵食してしまい、図のように、かろうじて天主台が残った。

図は西側から撮ったもの。 三原城は1567年に小早川隆景が築城したものだが、その後広島城主になった福島正則が三原城を支城(城主は福島正之)とし、拡張工事をしたらしい。 福島正則が改易になった後、広島城主になったのは浅野氏で、浅野の筆頭家老の浅野長吉が三原城主となった。

図は東側から北向きに撮ったもの。 本来、天主台は本丸の中にあって天守閣を立てるための石垣であるから天守閣の大きさによって規模が決まるものである。

隆景の時代は、山城から平城に移る過渡期であった。隆景は三原市に流れ出る沼田川(ぬたがわ)の上流に築いていた新高山城(しんたかやま)という山城の城主であった。それが河口の三原に出てきて海城を築城したのである。

初めて天守閣を建てたのは、三原城が築城された10年後にできた織田信長の安土城であるそうである。隆景が三原城を築いたときには天守閣を建てるという考えはなかった。隆景がこれほど広い天主台を築いたのは、山のてっぺんに城砦があったように、高い城砦が欲しかったのだろうか。案内板には「広島城の天守閣なら6つも入る広さである」とあったが、もともと天守閣を建てる予定はなく、天主台と呼ばれてはいなかったろう。

天主台の北・東・西は堀で囲まれている。今は堀になっているが、往時は海と繋がっていて、海水が満ちており、ここまで舟が出入りできた。

小早川隆景は毛利元就の3兄弟の三男坊である。三原市の隣にある竹原の小早川家の養子となって竹原小早川の当主になり、ついで小早川の本家筋にあたる沼田(ぬた)小早川の当主となって、小早川は1つにまとまった。

竹原小早川は水軍を持っていた。毛利の水軍は小早川が担当していたのだが、山深いところにある山城の新高山城に移ったために、水軍の指揮ができない。そこで三原に海城を築いたのであろう。三原城は城であり、軍港の役目を果たしていたようである。

三原市歴史民俗資料館のHPには、右の写真もあった。城の北にある桜山から南を向いて撮ったもので、明治23年ころの三原城である。

図に(a)〜(k)の符号を振ったが、これは次図の三原城絵図に振ったものに対応している。

(a-b)が天主台である。そのすぐ南には汽車が白い煙を上げながら西に向かって走っている。汽車はちょうど鉄橋を渡り始めたところである。

右の絵図の青色線は汽車の線路である。

写真で見る鉄橋は案外に長い。15mほどはありそうだ。 鉄橋の南に架かっている橋は(f-e)の橋だろう。(e)が本丸の中門である。

橋の先は海である。小舟も写っている。海水は(f-e)の橋の下、鉄橋の下、天主台の周り、そして(c)から(k)の水路に満ちているのである。これはすごい。

城郭を取り巻くのは堀ではなく海なのである。海の中に城郭があった。舟に乗ってすべての城郭の周りを巡ることができたのだ。

城郭と城郭の間の海を水路と呼ぶことにする。この水路は舟泊まりの役目をしたのであろう。城の西端にある(l)や東端にある(m)は防波堤だろう。水路と防波堤の内に舟を係留するならば100艘や200艘の舟を集めることができただろう。これこそが三原城を築城した隆景の最大の目的であったように思われる。


せっかくなので、天主台に上って見た。昔は石垣の上に柵はなく、堀を覗き込むと転落しそうで怖かった。今は柵を設け、日本で最も広いだろうといわれている天主台の上には、芝生が敷かれ、桜やつつじの木を植えて公園として整備されている。

右の小山は桜山。その左下に白く長い建物があるが、これは私が6年間通った三原小学校。当時は木造2階建てだった。コンクリート造の建物は図書館だけだったが、その図書館は古くなったためか、無くなっているようである。


西を見ている。新幹線の高架に沿う道路に面して4階建ての白いビルがある。その少し先に、小学3年生から中学3年までの7年ほどを過ごした我が家があった。今は新幹線の高架下になって、跡形もない。近所の人たちも立ち退いてチリヂリバラバラになってしまい、訪ねるべき知人はいない。

眼下にある小公園には小早川隆景の銅像がある。この場所は少年時代には民家が立ち並んでいて、むろん銅像もなかった。(この小公園は「隆景公園」という名だったと思う。)

本能寺の変が起きたのは1582年のことである。秀吉は備中で毛利軍と対峙しながら高松城の水攻めをしていた。いち早く信長の死を知った秀吉は毛利軍と講和し、「中国の大返し」といわれるすばやさで京に向かって反転進攻する。

講和の直後、毛利軍も信長の死を知った。次男の吉川元春は秀吉を討つ好機と見て秀吉軍を追撃することを主張したが、三男の小早川隆景は、秀吉はゆくゆくは天下を統一するであろう、追撃せずに秀吉に恩を売って毛利の地位を磐石なものにしたほうがよいと判断し、毛利軍は追撃しなかった。 秀吉は後にこのことを知って「中国者は律儀である」と隆景に恩義を感じ、人物を信用し、能力を高く評価した。

秀吉は山崎で明智光秀を討ち、翌1583年に越前の柴田勝家を滅ぼし、1584年には徳川家康と講和して、旧主信長の後継者となった。



1585年、秀吉は四国を攻める。隆景も出陣し、その手柄で伊予35万石を毛利本家とは別に貰っている。1585年秀吉は関白となる。1587年、九州の役で島津を屈服させ、西日本の全域を支配下に入れる。隆景は筑前37万石を与えられた。

秀吉は1590年に小田原城を攻めて、北条を屈服させた。小田原の役の間に東北の伊達政宗らも秀吉に恭順していたから、ついに天下が統一されたのである。

しかしその権力は絶対的なものではなかった。 京・大阪に秀吉があり、関東には250万石の徳川があった。西国には、山陽山陰に120万石の毛利と筑前37万石の隆景があった。あわせて毛利は160万石ほどである。

秀吉は5大老を指名し、秀吉亡き後は合議して子の秀頼を支えてくれるよう願った。当初の5大老は、徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家である。


司馬さんの「豊臣家の人々」は豊臣秀吉の縁者9人についての短編小説を集めたものである。このうちの5人は秀吉の養子・猶子である。養子になった順から小説名と人物を挙げると、@「殺生関白」(羽柴秀次)、A「金吾中納言」(羽柴秀秋)、B「宇喜多秀家」(羽柴秀家)、C「結城秀康」(羽柴秀康)、ここまでが養子。D「八条宮」(智仁親王(としひと))、これは猶子。

秀吉は実子に恵まれなかった。後継者として@姉の子供の秀次を、A妻(ねね)の弟の子供の秀秋を養子にした。B秀家は備前宇喜多家の当主でありながら秀吉の養子になり、C秀康は徳川家康の長子でありながら人質的に養子になった。この2人の養子は政略的なものである。

地図の(B)のところにやってきた。三原駅から歩いて3〜4分のところ。左の石垣が本丸の一部。往時はもっと高く積み上げられていたはずだ。堀の幅はひどく狭い。先に掲げた明治23年の写真からすると、往時はこの10倍の幅があったと思う。

1593年に側室の淀殿が秀頼を出産すると、養子たちの運命は一転する。邪魔になったのである。@秀次は高野山で切腹させられ、C秀康は関東の結城家(5万石)を継ぐことになる。B秀家は宇喜多の当主であるから秀頼の家臣になるので問題はない。問題はA秀秋の処遇であった。

司馬さんの「金吾中納言」によると、秀吉が長浜城主であったとき、ねねの弟夫婦から生まれたばかりの赤子を貰い受けたのが秀秋である。 幼少の折は利発そうに見えたが、長ずるにつれて凡庸になり、「あほうさま」と陰口されるほどであった。

わずかに残った本丸の石垣に沿って南下すると、じきに石垣は途切れた。ここが本丸の南西隅である。城郭の隅々には櫓を築くのが普通である。石垣の高さは今の3倍はあって、そこに隅櫓が建っていたのであろう。 私が今立っている道路は海だった。

秀秋の処遇に気をもんでいた秀吉の意を察したのが黒田如水である。毛利輝元には世継ぎがなかった。ここへ秀秋をやればどうか。如水は毛利家の代表者である小早川隆景に打診した。

隆景は内心おおいに驚いた。鎌倉以来の名家である毛利家を、氏素性の明らかでない、しかもたわけ者である秀秋に呉れてやることは許せない。だが事は進行しつつあるようだ。秀吉の口から「秀秋を毛利の養子に」の言葉が出たなら、毛利はこれを受けざるを得まい。

本丸の南端を東に向かって歩いている。道の左に本丸の石垣が築かれ、海の波が石垣を洗っていた。

隆景は秀秋を自分の養子としたいと秀吉に申し出た。わが身を犠牲にして毛利を守ろうとしたのである。秀吉は「小早川家を継げるとは、秀秋めの名誉である」と縁組を許した。

隆景は秀秋を養子とした後は隠居するつもりであった。秀吉は隠居城として三原城と3万石を与えた。(一説には筑前に5万石ともいうから、筑前に5万石を加増し、三原の3万石を新規に与えたのかも知れない)普通隠居料は3千石であるという。3万石は法外な隠居料であったが、秀秋縁組の引き出物の意味もあったのだろう。それほど秀吉は喜んだ。

交差点に出た。北に三原駅がある。高架は在来線のもので、その北隣に新幹線の高架があり、その奥に天主台がある。私が立っているところまでがかつての本丸である。

隆景は、1594年に羽柴秀秋を養子に迎え、翌年1595年に三原城に移り隠居した。その三原城はかつて自からが地割りし、石垣を積み上げ、州を埋め立て、築いた城であった。隆景は三原城に愛着があったのであろう。晩年に故郷へ戻ってきたのである。

1597年、隆景はこの三原城で亡くなった。66才であった。秀秋は筑前国その他を含めて52万石を相続した。秀吉も翌1598年に伏見城で亡くなった。


地図の(C)に向かっている。(B)から真っ直ぐ東に向いて歩いている。道路の左の家並までが本丸であったろう。正面に石垣が見える。このあたりは昔は歓楽街であった。子供がこの一画へ行くのは「不良」であると思っていたものだから、足を向けることはなかったが、一度だけ迷い込んだことがある。家並みの中に突然高い石垣が現れたので驚いた覚えがある。

小早川家を相続した秀秋は、司馬さんに言わせれば「なにぶんのあほうである」。1600年の関が原の戦いで、西軍を裏切って東軍の勝利の第一番の功労者となったが、それは実家である豊臣家をつぶす役目でもあった。家康は秀秋に備前・美作50万石を与えた。秀秋は日夜酒に酔っては狂態を演じ、1602年に病死した。 秀秋には子がおらず小早川家は改易された。小早川家は断絶した。

思っていた以上に石垣が残っていた。高さは5〜6mほどか。古絵図によると(C)の石垣は南東に向いて突き出ている。本丸から飛び出た半島のような格好である。突き出た部分が写真のやや長い石垣である。

私が立っている場所はかっては海であった。突き出た石垣は本丸の南東の隅である。この石垣の上には舟入櫓とよばれた櫓が建っていた。

石垣の裏側には水路があり、舟は舟入櫓の下を通過して水路に入り、その水路を通って天主台まで行くことができたようである。


舟入櫓の先端の石垣から奥(北)を向いて撮る。

三原市歴史民俗資料館のHPには次図のような写真(明治43年)も掲載されてあった。どうやら舟入櫓の石垣の沖から撮ったもののようである。手前の石垣の右側に一段と飛び出た石垣があるのは、右図と同じである。



その舟入櫓の右側(東面)に回り込むと、長い石垣が続いている。石垣の下には狭い掘があるが、往時はこの何十倍の幅の水路があって、海水が石垣を取り巻いていたのだ。

石垣はどこまで伸びているのか。尽きるところまで辿ってみる。

ここが石垣が途切れたところ。石垣は舟入櫓の石垣の半分ほどの高さになっている。これが往時の本丸の石垣の高さだったのだろうか。

堀の幅はスタートしたところの5倍ほどの幅に広がり、最後は10倍ほどの幅になって行き止まりとなった。少なくとも往時の水路の幅は、写真の右の石垣から写真左下の掘まではあったようである。

石垣の長さは目測で100mほどと見たが、帰宅してマピオンの「距離測」で測ると140mほどあった。


湧原川(わくばら)の流れに沿った道路を北上する。道は拡張されてずいぶんと立派になっている。交差点の右に緑色の橋の手すりが見える。神明大橋(しんめい)である。

停車している赤い車の右に向こう行きの道路があるが、元の道幅はその1車線だけであったのではないか。赤い車の道も含めて左の3車線は拡張されたものだろう。

というのは、私が5才から9才(幼稚園〜小学3年)まで住んだ家が拡張された道路の下にあったはずだからである。15年前に30年間のブランクを置いて三原にやってきたとき、そこを訪ねたことがある。2階建てで3棟が並んだ家だったが、それはまだ残っていた。だが今日見るとなくなっている。

神明大橋の上から上流を見る。防砂堤があるのは子供のときと同じだ。左手前の土手は三角形になって川に張り出している。水の流れを緩めるためであろうか。

川はさほど深くなかったから降りて遊ぶこともあった。橋の名前が「神明大橋」とは知らなかったが、川底に石橋の一部が転がっているのを発見したことがある。「おほはし」と彫ってあった。昔のひとは「おおはし」とは言わないのか、と小学生の私は不思議に思ったこともあったな。

この川の右側は「東町」で、左側は「館町」である。館町には武家屋敷があった。東町は町人の町である。湧原川は三原城下にとっては外堀の役割りであった。土手の高さは館町側の土手は東町側の土手よりも高くなっている。よって川が氾濫したときは、東町側に水があふれ出るのである。


交差点を左に曲がり、西を向いて撮る。道路の右の石垣は武家屋敷があった一角で、私が子供のころから広島大学付属小学校・中学校・幼稚園になっている。私は三原小学校の児童であったから、写真の道をドンドン歩いて、突き当たりを右に曲がるというのが通学路であった。

道路の左側には家が立ち並んでいたが、そこより南は往時は水路であったはずである。

江戸期の三原城主は安芸浅野家の筆頭家老であった浅野長吉であったことは先にいった。三原は備後国だが、安芸浅野家の支城となった。普通は1国1城とか1藩1城といわれるように、1つの藩には城は1つに限るのが徳川幕府の方針である。だが浅野藩は広島と三原に2つの城を持つことを許されていた。

昔の通学路を西に進み突き当たりの手前に天主台と堀が見える。これで本丸を一周したことになる。

なぜ三原城が廃城にならなかったのか? 海城であり軍港であったというのが最大の理由であろう。徳川幕府の仮想敵国は長州の毛利と薩摩の島津であった。島津の隣には細川を、毛利の隣には浅野を配し、山陽道の要所には譜代大名を配してこの2国が江戸に攻め上ることを妨げるのである。

街道筋はこれでよい。だが長州や薩摩が海路で攻め上ったときはどうするのか。水軍でもって防がねばならない。三原城は水軍の拠点となる海城である。これを潰すのは惜しい。そういうことだろう。(シロート考えなのでアテにしてはならないが)

11:30になった。法要は12:00から始まるから10分前には正法寺に着いていなけばならない。残された時間はあと20分である。3つばかりの寺を見たいと思っている。さいわいこの3か寺は互いに近いところにある。正法寺もまた近い。駅前からタクシーに乗って巡ることにした。

まずは大善寺へ。ウィキペディアで「三原市」を調べると、3代将軍徳川家光の娘であった月渓院の墓所寺が大善寺であるとあった。三原浅野家は安芸浅野の家老でしかない。大名ではない。一大名の家老のもとに将軍の娘を嫁がせるとはどういうことであろうか。

羽柴秀秋が小早川の養子になったとき、稲葉正成が秀秋に付き添って三原に来た。その妻は後に3代将軍家光の乳母になった春日局であった。若き日の春日局は三原に住んでいたのである。


春日局は家光を育て、大奥を取り仕切り、発言力があった。その家光の娘であり、春日局も住んだことのある三原である。そういうことから家老へ将軍家の姫様が輿入れするとなったのであろうか。化粧料は5千石であったという。

大善寺は寺紋に「三つ葉葵」を使うことを許されていたそうである。なるほど丸瓦に三つ葉葵の紋が入っている。

本坊であろう。入母屋造のように見えるが、切妻造であろう。屋根の下に裳階(もこし)が付けられている。一重一層。切妻は白壁で塗りこめられている。庇の上を見ると、束の上に舟肘木が置かれ梁を支え、その上にまた束と舟肘木が梁を支えている。三段目の中央には蛙股がある。庇の下も白壁である。縦横の材で区切られていて、端正なよい建物である。

将軍家の姫様の菩提所であるからには、宗旨は浄土宗でなければならない。タクシーの運転手さんに尋ねると観光客用に作られたものであろう、寺院一覧表をめくって「そうです。浄土宗です。」


本堂。正面上に「増上山」の額が掲げられている。将軍家の菩提寺の芝の増上寺から許された山号であろう。

屋根は入母屋造である。軒下を見ると組み物が支えている。本堂は縁で取り巻かれ、縁先には欄干。扉は格子。繊細な造りである。さすがに将軍家の姫様の菩提寺である。三原にはこのようなよい寺があったのだ。

大善寺から2分とかからぬところに香積寺(こうじゃくじ)がある。この寺は小早川隆景が本郷にある新高山城を出て三原城を築城したとき、ともに本郷から三原に移ってきた寺のひとつである。

香積寺は三原城の北西に位置する。山の緩やかな斜面に建てられているから西側は高い石垣が積んである。いったん事 あれば香積寺を北西方面の砦とする意図があったそうである。

香積寺の山門を出たすぐに3軒長屋といったふうの家があるが、ここが私の生家である。5才まで居た。 私と今日法事をする姉とその近所の友達の3人が、香積寺の山門の石段に腰掛けて歌を歌っている写真が残っていたはずだ。(今探してみたがアルバム帳じたいが見つからない)

本堂はなにやら禅宗風である。屋根は寄せ棟のようだ。これが身舎(もや)で、2間幅の裳階(もこし)が巻かれている。裳階の庇の瓦は2段になっているのは珍しい。

この寺も白壁だ。そこに左右に2つずつの花頭窓が開けられている。正面の出入り口はガラス戸になっているが、その両脇に折られた板戸は桟唐戸ではあるまいか。

タクシーの運転手さんに調べてもらうと曹洞宗の寺であった。

山門を出た。写真の左は香積寺の敷地。クリーム色の建物は香積寺が経営する保育所である。写真右側の3軒長屋の一番奥が私の生家である。60何年前に私が生まれたのであるから、家はもっと古い。今ある長屋はおそらく建て替えられたものであろうが、生まれた場所はここである。

奥は墓地になっている。香積寺のものだろう。当時は墓はなく、この斜面には山道がつけられていたのではないか。 死んだ母親が、次のような思い出話をよくしていた。

山道の上り口のところに祠があって柘榴(ざくろ)の木が立っていた。私が赤児のころ、父親が柘榴の木を切って竈の炊きつけにしたらしい。そのすぐあと私の尻に腫瘍ができて長く病院に通ったという。「デキモンができたのは木を切ったバチがあたったんじゃろう」

今思うに、父親のバチではなく、母親が洗うオシメが不衛生だったのではないか。 時間がないので今でも祠があるのかどうかを確認することはしなかった。

みたびタクシーに乗ってやってきたのは宗光寺(そうこうじ)である。 この寺も香積寺と同じく、隆景とともに本郷から三原に移ってきた寺のひとつである。

三原城を築くとき、木材や巨石は新高山城から運んだという。その新高山城にあった城門を運んで宗光寺の山門にしたそうである。よって山門は大きい。国の重文である。


宗光寺も曹洞宗である。本堂は切妻造に裳階(もこし)。白壁に花頭窓。

3つの寺を訪ねたがどの建物もきれいである。特に白壁がよい。三原の寺はなかなかの粒ぞろいである。

宗光寺からは歩いた。5分ほどで正法寺に着いた。

正法寺は真言宗である。隆景が三原に出てくる前からあった寺である。鎌倉期に書写された600巻の般若経(重文)を蔵する古い寺である。

私が理解しているところでは、徳川家は浄土宗、武士は禅宗、農民は浄土真宗、商人は日蓮宗が多い。これらは顕教である。密教は、四国八十八か所のように庶民も信仰したが、同時に天皇・貴族の宗旨でもあった。例えば一番古い門跡寺院である仁和寺は真言宗であり、醍醐寺もそうである。

正法寺は真言宗御室派である。本山は仁和寺。本堂の外陣の長押に「雨洗風磨」の額が掲げてあった。読経の間、額を見ていた。「雨は洗い風は磨く」。洗われ磨かれるのは石であろう。仁和寺門跡・何某(字が読めなかった)とあった。

読経が終り、「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」(これは薬師如来の真言)とか「おん あびらうんけん ばざら だとばん」(大日如来の真言)とかの真言を3度ずつ唱和して、法要は終わった。

墓地は本堂の裏手にある。本堂は山を切り開いて建てられているから、背後の東・北・西は急な斜面になっている。そこに階段状に石垣が積まれて墓所になっている。

うちの墓は奥の北斜面の崖の下にある。崖の上には桜の木が何本か植えられているので、4月になると桜の花びらが墓に舞い落ちてくるのだろう。

命日(1月・2月・6月)の関係で桜が咲く時期に法事をしたことがなく、想像するばかりであったが、 珍しいことに今日は、墓所入り口の小さな桜木が7分程度の花をつけていた。

今日の万歩計は16200歩だった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 三原市街図...            執筆:坂本 正治