宇治川と平等院

    No.77.....2010年3月13日(土曜)


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京阪宇治駅。2008年12月から万葉集を読み始めて1年余りが過ぎた。私にとっては無縁の存在であると思っていた万葉集に親しむようになったのは「水底の歌−柿本人麿論」(梅原猛)を読んだのがきっかけである。この本の中に、宇治川を詠んだ次の歌があった。
    もののふの      八十(やそ)うじ河の
    網代木(あじろぎ)に いさよふ波の
    行く方知らずも    (3-264) 柿本人麻呂
当時は無知であったので、この歌がどれほど有名であるのかは知らなかったのだが、シロートなりに、声を出して読み上げると実にリズムがあった。調子がよく、余韻が残る歌であると思われた。最初に意識して覚えたのはこの歌を含む(3-263)〜(3-267)の5首である。今日は(3-264)の宇治川を訪れた。

宇治橋。左が上流。右が下流。いうまでもなく宇治川は琵琶湖から流れてくる。流れ出たときは瀬田川と呼ばれ、京都府(山城)に入ってからは宇治川と名を変える。

昨年は人麻呂が詠みあげた土地(11か所)をテクテクで訪ねた。その場所の多くには歌碑があって、ここで犬養孝さんを真似て歌を朗々と読上げるとよい気分となるのである。

早くから宇治川をテクテクすることは予定していたのだが、3月の第1週と2週は雨だった。川の水が濁っていては面白くない。3度目の土曜になったが、名張の空は曇っている。翌日の日曜日は晴れるという予報だったが、その日は自治会の会合があるので行けない。

午後は曇りのち晴れということだったので、晴れることを期待してやってきた。名張を7:27の特急に乗って、京阪電車に乗り換えて、宇治に着いたのは9:15ころだった。宇治も曇っていた。



(上図)宇治橋から上流を望む。宇治川は結構な川幅がある。宇治橋は155mの長さであるというから、川幅もそれに等しい。川の左岸に近いところにもとは砂州であったろう島がある。島には右岸からも左岸からも橋が架かっていて、宇治川を渡ることができる。左岸(図では右側)には平等院、右岸(図では左側)には宇治神社がある。

まずは左岸にある平等院へ。ここで1時間ほど時間を潰していれば、日が射すようになるかも知れぬという、平等院にとってはまことに失礼な動機による訪問である。

9:30ころなのでまだ観光客は少ない。拝観料は600円。境内には別の受付があって、300円の志納金を払えば鳳凰堂内の拝観ができるそうである。 さっそく受付に申し出ると、定員50人ずつで堂内に入りガイドさんの説明が聞けるということであった。

次は9:50からの拝観なので、「9:45にはここ(受付)に集合して下さい」。 「9時50分」と24ポイントほどの活字で印刷された入場券を手渡された。


平等院は1052年に藤原頼通によって創建された。阿弥陀堂(鳳凰堂)はその翌年の1053年に建立されている。

京都には古い寺はあまり残っていない。東寺は平安京ができた当初に建てられた。だが都内にあれば戦禍や火災に遭うことが多く、古い建物は残りにくい。 京都にある古い建物を順に挙げると、

@醍醐寺の五重塔(952年)
A下鴨神社本殿(1036年)
B平等院鳳凰堂(1053年)
C浄瑠璃寺本堂(1107年)
D醍醐寺薬師堂(1121年)
E三千院本堂(1148年)
F宇治上神社本殿(平安後期。1100年代)
G醍醐寺金堂(平安後期。1100年代)

たぶんこの8つが京都に残る平安期の建築物である。

宇治に鳳凰堂と宇治上神社が残り、宇治の隣の伏見区醍醐に醍醐寺の五重塔・薬師堂・金堂(ただし和歌山の湯浅から移築されたもの)が残っている。この5つは全部国宝である。古いものは都の周辺部に残る。


拝観の時間になった。時間が早いからであろう、集合した観光客は20人ほどだった。鳳凰堂に渡る朱塗りの橋の前に集められて、ガイドさんの注意を聞くことになる。

鳳凰堂は、そのことごとくが国宝であるから柱や扉に触れることは禁物である。「バッグが当たらないように注意して下さい。杖や傘などの長いものは建物を傷つける恐れがあるので持ち込んではいけません。堂内での写真撮影は禁止です。」そういったことをクドクドと注意して、中堂のガイドが始まった。(図は絵葉書を撮ったもの)

中堂には、平安期を代表する仏師である定朝(じょうちょう)が彫り上げた阿弥陀如来(国宝)がデンと座ってある。丈六仏である。立ち上がれば1丈6尺の高さになる。1丈=10尺だから、身長は16尺=4.8あるという想定であるが、如来は座っているので、座高は1丈(3m)である。

金箔はくすむことなくキラキラしい。

平安期の仏像は「まるっこい」というのが印象である。顔は丸いし、肩もなで肩である。衣の襞は浅くやわらかな曲線を引く。どこも優しい。このスタイルを始めたのはまさしくこの阿弥陀仏を作った定朝である。

ガイドさんは、@阿弥陀仏は寄木造(よせきづくり)であること、A漆を塗った上に金箔を置いているので継ぎ目はわからないこと、B眉間にある白毫(びゃくごう)は水晶だが奥には銀箔が張ってあるので、正面から見ると白く見えること、C定印(じょういん)を組む手の指のあいだには鳥の水掻きのような膜があること、D天蓋(てんがい)は丸と四角の天蓋を重ねた二重天蓋であること、などシロートが「ほうほう」とうなずける程度のことをガイドした。


ついで、長押(なげし)の上に置かれた雲中供養菩薩の一体に局部的に照明を当てたので、観光客はいっせいに首を起こして長押の上を見上げる。

雲に乗った菩薩像は壁に取り付けられたフックに架けられているようだ。ところどころ菩薩像がはずされてフックが現れている壁面がある。「北面に26体、南面に26体の菩薩がありますが、うち26体は取り外されて「鳳翔館」に展示してあります。」ということらしい。

ガイドさんは中堂の扉絵についての説明は簡単にすませた。わたしの目当ては阿弥陀仏ではなく、扉に描かれた平安期の宇治の風景(宇治川の網代木(あじろぎ)の絵)だった。

柿本人麻呂が詠った冒頭の(3-264)の「網代木」の歌を知ったときに、その情景をたやすく浮かべることができたのは、中堂の扉絵を知っていたからである。

平等院にはこれまで2度来ている。網代木の絵を堂内で見たのか、宝物館で見たのか、あるいはテレビで見たのか、とにかく扉絵に描いてあったことは確かである。だが今日中堂に入ってみると、堂内は暗く、扉の絵は褪色し、塗料は剥落している。どこに網代木の絵があるのかはわからない。復元した扉絵は鳳翔館に展示してあるらしい。


鳳凰堂は真東を向いて建つ。阿弥陀仏を納める中堂の左右には翼廊(よくろう)と呼ばれる渡り廊下が南北に伸び、それぞれの先に隅楼(すみろう)が建つ。

中堂の後方(西)には尾廊(びろう)が伸びる。平面は、中堂を頭部と腹部にし、両翼と尾をもつ鳳凰の姿をしている。

中堂以外は実用の建物ではない。翼廊は細かくいえば、一重ニ層である。一重とは屋根がひとつ、二層とは2階建てということだが、1層目は柱が立つだけの吹き放しである。その上に屋根つきの渡り廊下がある。この渡り廊下は極めて低く、人が歩ける高さではない。

隅楼は「コ」の字型に曲がった翼廊の上に建つ。二重三層の建物である。これも鳳凰の翼を高く広げた姿を表現するためのものである。要するに鳳凰堂は五重塔と同じく、外から眺めるべき建物である。


中堂は二層に見えるが、一重一層(1階建て)の建物である。中堂は桁行3間・梁間2間である。これが身舎(もや)で、正面と側面に1間の裳階(もこし)がつけられているから、正面は5間・側面は3間となっている。

寺院建築は、身舎が仏をまつる内陣となり、裳階による庇(ひさし)がお経をあげる外陣となるのが普通である。 だが鳳凰堂の裳階には壁がない。柱が建っているだけの吹き放しである。

裳階は室内の空間を確保するためにではなく、長い庇を出すために付けられているのである。デザイン優先の建物である。 正面中央の1間の上の庇はおそらくクチバシであり、左右の庇の下の柱は鳳凰の足を表現しているのだろう。

翼廊の一層目が柱だけであり、向うが透けて見えるのは、翼が空中に浮いていることを表現しているのだ。


だいぶまえだが、前回来たときは鳳翔館(ほうしょうかん)はなかった。今は池(阿字池)の中に島を築き、ここに鳳凰堂が建つ、という格好になっているが、その頃は右の翼廊の周りには池は穿ってなく、南翼廊は庭園と繋がっていたのではなかったか。

南翼廊のそばには阿字池とは違う池があって、鯉が泳いでいた。その傍に宝物館といった建物があって、諸仏や扉絵などが展示されていたような記憶があるが、定かではない。

鳳翔館は半地下の建物であるようだ。いよいよ「網代木」の扉絵を見ることができるぞ。

宇治川に設けられた網代は、中堂北面の2面の扉絵の中にあった。図はその絵の一部分(2枚の扉全体の右下1/4)。右上に宇治川の流れが白く描かれ、この流れを堰き止めているのが網代である。

網代は木の皮や割り竹を板状に編んで簀(す)にしたものである。川瀬に木杭を打ち、網代を杭に結んで川に立て並べておくと、川魚は網代に囲まれた水路に迷い込む。宇治の漁師はこれを捕獲する。

網代は宇治川の名物であったらしく、万葉集にも宇治の人を「網代ひと」と詠った歌(7-1135)がある。むろん宇治川と網代木を結びつけたのは、冒頭の人麻呂の歌(3-264)が初めであろう。


網代木の絵を確認して、第一の目的は果たせたのだが、鳳翔館には驚くべきものが展示されていた。雲中供養菩薩(うんちゅうくようぼさつ)である。 中堂で、長押の上に52体の雲に乗る菩薩像があるとのガイドは受けていが、高い位置にあったし、堂内が暗くてよく見えなかったので、諸菩薩像はレリーフ(浮き彫り)だろうと思っていた。だがそうではなかった。 展示されている菩薩像は感動的な立体彫刻であった。



(上図)楽器を奏するものが多い。笙を吹く菩薩があり、縦笛や横笛を吹く菩薩もある。琵琶を奏でる菩薩、小さい琴を弾く菩薩、鉦を叩く菩薩、鼓を打つ菩薩、上図左のように太鼓を叩く菩薩もいる。極楽浄土のオーケストラだ。菩薩の今にも太鼓を打とうとしているポーズはどうだ。展示ケースの前で腕を上げてポーズを真似てみる。

幡(ばん)を持つ菩薩がいる。踊りを舞う菩薩もある。上図中央の菩薩の体をひねり右足を少し上げた姿は実に優雅である。足をあげたときのポーズなのか、それともこれから足を下ろす瞬間であるのか。私も同じようにしてみた。片足を上げてポンと下ろしたとき、ググーっと胸が詰まり、涙が出てきた。仏像を見てこれほど感激したのは初めてだ。

上図右の菩薩のチャーミングな顔立ちはどうだ。平安期の美女は、引き目・かぎ鼻・おちょぼ口・下ふくれの顔だというが、このこの菩薩は違う。

現存する52体の菩薩は国宝だそうだが、もっともなことである。52体の国宝をこれまで知らなかった自分が恥ずかしい。

(写真は鳳翔館で買い求めた「平等院・雲中供養菩薩」の本から撮った)

平等院を出た。まだ曇り空である。平等院の前の宇治川には2つの島ができている。上流のものは塔島、下流のものは橘島と呼ばれ、公園(宇治公園)になっている。

左岸から上流の塔島には喜撰橋(きせん)が架かっていて塔島に渡ることができる。塔島と橘島の間にも小橋が架けてあって2つの島を行き来できる。橘島には左岸からの橋と右岸に渡る朝霧橋が架かっている。

写真は上流を向いて撮ったもの。橋は喜撰橋。ここを渡って塔島に行こうとしている。

喜撰橋のたもとに「あじろぎの道」という石碑が立っていた。観光客向けに、宇治川に網代木が設置してあるかと少しは期待していたのだが、川の水量が多すぎる。今日は上流にある天ケ瀬ダムが貯水していた水を放流しているらしい。

鳳翔館で見た「網代木」の絵の川の深さは1mほどと想像できる。その程度の水量でないと、網代は水の勢いに流されてしまうだろう。この時点で網代木を見ることは断念した。

塔島と呼ばれているのは、西大寺の叡尊が建てたという十三重石塔が立っているからである。

正面に見える山は、十三重石塔の左側が仏徳山、右側が朝日山。

平等院は「朝日山」という山号である。朝日山は鳳凰堂の真東に位置する。鳳凰堂はこの山に向かって建てられているから、春分秋分の日には朝日山の山頂から日がのぼり、朝一番の光が鳳凰堂を照射するのであろう。実見したことはないが、地図上の位置関係からはそうなるはずである。


シチリキ(だと思う)らしい小さな縦笛を吹いている人があった。笛にはリード(弁)がついているらしく、ビーーという音を発している。雅楽のアレである。さきほど見た雲中供養菩薩に縦笛を吹く菩薩があったが、このような音階律で、このような音色を出すのだろう。

定朝の下には20人の大仏師がおり、それぞれの大仏師は5人の小仏師を抱えていたという。大工房である。52体の菩薩は、定朝がプロデュースし、傘下の大仏師が各菩薩をデザインし、それを小仏師が彫り上げたのだろう。最も下っ端の小仏師は菩薩が持つ楽器・幡などの部品を担当したのか。

小仏師らは、琵琶・笙・縦笛・鼓・鉦はどのようなものかを調べ、奏者が楽器を鳴らすのを見て菩薩のポーズを決めて、あの優美な供養菩薩ができたのだ。平安期の仏師らが聞き、手にとってみた笛の音が宇治川の河畔に流れている。

それにしてもすごい水量である。台風が過ぎた後の増水した川のようだ。水は網代木に「いざよう」ことなく、下流に向かってゴーゴーと流れている。 万葉集に次の歌がある。

  宇治川は       淀瀬(よどせ)なからし
  網代人(あじろひと) 舟呼ばふ声
  をちこち聞こゆ     (7-1135)

  宇治川には歩いて渡れるような川瀬はないらしい。網代を仕掛ける漁師たちの舟を呼ぶ声があちこちで聞こえる。網代は漁師たちが幾艘かの川舟に乗って、協同して設置したようだ。

橘島へ渡ると人麻呂の歌碑があった。

  もののふの       八十(やそ)宇治川の
  網代木(あじろぎ)に  いさよふ波の
  行く方知らずも    (3-264) 柿本人麻呂


もののふ(文武百官)には八十(多く)の氏(うじ)があるが、その宇治川の 網代木にいざよっている波は どこへ流れていくのであろうか

例によって歌碑の前で、声を出して歌を読上げた。近くで携帯で写真を撮っていた人が「変なやつ」といった顔つきで、私を見た。

朝霧橋を渡って宇治川右岸にある宇治神社へ向かう。橋の正面左に宇治神社の鳥居が見える。宇治神社を訪ねるのは初めてである。

最近は万葉集のほかに古事記も読んでいる。このきっかけも「古事記」(梅原猛)が与えてくれた。梅原さんの著作は私の興味の方向を決定する強力な磁力を持っている。

梅原さんの「古事記」は口語訳されたものである。原文(読み下し文だが)を読みたかったので「古事記(上中下)」(次田真幸)を購入したのだが、これがまたよい本であった。

古事記にある物語あるいはエピソードが充実しているのは中巻の応神天皇、下巻の仁徳天皇と雄略天皇であろう。その応神天皇と仁徳天皇は宇治に縁がある。

宇治神社。この奥に宇治上神社があって、昔は2つの神社はひとつであったという。

応神天皇は5世紀初めの天皇である。多くの妃と子供があった。主な妃とその子供(皇子・皇女)を掲げる。
  1. 高木入姫(たかきいりひめ)
    子に大山守皇子(おおやまもり)。
  2. 仲姫(なかつひめ)
    子に大雀皇子(おおさざき)・後の仁徳天皇。
  3. 宮主宅姫(みやぬしやかひめ)
    子に菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ)・矢田(八田)皇女、雌鳥皇女(めとり)。
  4. 糸姫(いとひめ)
    子に速総別皇子(はやぶさわけ)。


宇治神社本殿。鎌倉期のもので重文。3間社の流造り・桧皮葺である。祭神は応神天皇の子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ)。

応神天皇は皇子のうちで、宮主宅姫(みやぬしやかひめ)が生んだ菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を最もかわいがっており、この皇子を跡継ぎにしたいと思っていた。

あるとき応神天皇は、大山守皇子と大雀皇子に「おまえたちは、年上の子と年下の子とではどちらがかわいいと思うか?」と尋ねた。大山守は年上のほうであると返事した。大雀は天皇が年少の菟道稚郎子を皇太子にしたいの思いを持っていることを察して「年上の子はすでに成人しているので心配はないが、年下の子はかわいがらねばなりません」と答えた。

宇治神社を出ると、隣に宇治上神社がある。

天皇は我が意を得たりとして、年長の大山守皇子には山と海の部(べ)を管理するよう命じ、次兄の大雀皇子には国を統治するよう命じ、弟の菟道稚郎子を皇太子とした。

応神天皇が崩御した後、大山守皇子は兵を集めて宇治を攻め、菟道稚郎子皇太子を討とうと計画した。大雀皇子はこれを知って宇治にいる菟道稚郎子に通報する。皇太子は兵を宇治川の付近に隠し、自らは船頭に化けて船上で待った。

大山守軍が宇治川にやってきた。大山守は渡河するために皇太子が化けた船頭の舟に乗った。皇太子は舟を出し、川の半ばにきたとき舟を傾けて大山守を川に落とした。そのとき隠れていた皇太子軍が現れ、矢を射かけて大山守を殺した。

宇治上神社の拝殿。鎌倉期のもので国宝。

皇太子の菟道稚郎子はよほどこの戦いを嫌悪したのであろうか、天皇に即位することを拒んだ。皇太子の位を放棄して大雀皇子が天皇になることを願った。だが大雀皇子は応神天皇の遺志であるとして、これを受けなかった。3年にわたる天皇空位の時期があった。

古事記では、その後菟道稚郎子が亡くなったので大雀皇子が即位して仁徳天皇になったといい、日本書紀は天皇の位を仁徳に譲るために皇太子は自ら命を絶ったという。

菟道稚郎子の宮は、宇治上神社・宇治神社近辺にあって、皇子がここで起居したことは確かだろう。そうでないと皇子に菟道(うじ)の名がつくはずがない。

宇治上神社の本殿。正面は5間・側面は3間、一重の流造りである。これは覆屋(おおいや)で、この中に1間社流造りの内殿が3つ並んでいる。現存する最古の神社建築物で、国宝。 3つの内殿には、中央に応神天皇、右に菟道稚郎子、左に仁徳天皇が祀られている。

万葉の時代、菟道稚郎子は悲劇の皇子として知られていたようである。「宇治の若郎子(わきいらつこ)の宮所(みやところ)の歌一首」の題詞がついた次の歌がある。


  妹(いも)らがり  今木(いまき)の嶺に
  茂り立つ      夫(つま)松の木は
  古人(ふるひと)見けむ    (9-1795) 人麻呂歌集

いとしい子のもとに「今来た」という今木の嶺に、枝葉を繁らせて立っている「夫を待つ」松の木を、いにしえの人も見ただろう


菟道稚郎子は万葉の時代より200年以上昔の人であるが、それに因む宮とか離宮があったのだろう。人麻呂より少し早い時期に額田王が斉明天皇に代わって詠んだとされる歌がある。

  秋の野の     み草刈り葺(ふ)き
  宿れりし     宇治のみやこの
  仮廬(かりいほ)し思ほゆ      (1-7)

斉明天皇は「宇治のみやこ」に宿泊している。天皇が宿泊するのであるから粗末な建物ではない。行幸のためにすでにある建物(宮)の屋根を新たに葺いたのだろう。

「今木の嶺」は今はわからない。宇治上神社の背後にある仏徳山だろうか。その東に連なる朝日山か。 地図を見ていて、その仏徳山(ぶっとくさん)に登ってみようと思いついた。

仏徳山の標高はわずかに131mである(隣の朝日山は124m)。地図には、宇治上神社から仏徳山山頂までウネウネとした道が表示されている。山の高さに比べて道が長すぎる。どうやらその山道は勾配が小さく、ラクに登れそうなのである。

写真は登山道のスタート地点。山頂まで1.1kmと案内板があった。写真左の石碑は源氏物語の宇治十帖のひとつ「総角(あげまき)」に因む古跡だという。私は源氏物語には興味はない。

今日のテクテクの目的は、@宇治川の網代木を見る、A宇治上神社を訪れる、B木幡(こはた)から巨椋池(おぐらいけ)があったところを眺める、の3つである。@Aはすでに終えたが、残る「巨椋池」が問題である。

巨椋池はすっかり埋め立てられて、現在は住宅地や工場地になっているらしいが、元は池(湖沼)であるから土地は低いはずだ。巨椋池を偲ぼうとするなら高い土地から見下ろさねばなるまい。ここへくる途中、京阪電車の車内から木幡駅あたりを眺めたが、眺望がきくような場所はないようであった。

できれば木幡の小高い丘の上から昔の巨椋池を眺めたいのだが、木幡に行って見られなかったときはショックである。木幡からは少し離れているが仏徳山からでも巨椋池が見えるのではないかと思いついたのだ。

15分ほど歩くと展望台があった。さらに上り道があったので山頂より少し手前のようであるが、視界が開けている。

三脚に望遠レンズを付けて鳥を撮ろうとしている3人の家族と一人で体操をしている老人がいた。

展望台の正面は南東方向である。見下ろすと朱に塗られた朝霧橋がある。橘島の向うに鳳凰堂。


(右図)私のデジカメは古い。3倍までしかズームできない代 物であるし、手ブレ防止機能もついていない。ポンコツデジカメで鳳凰堂をズームアップしてみた。中堂の入母屋の屋根、庇、正面の扉が見える。左右の翼廊も隅楼も見える。

(次図)真西方向を撮る。左下に宇治橋がある。その向うの鉄橋はJR奈良線であろう。鉄橋の右に京阪宇治駅がある。中央に立つ2本の煙突はユニチカだろう。その先は昔巨椋池があった場所である。宇治川はここへ注ぎ込んでいた。

それにしてもこの天候が恨めしい。靄っていなければもっと眺望がきいたのに。だが鳳凰堂を遠望できて結構満足である。



京阪宇治駅まで戻る。駅の左側に宇治川が流れている。その土手を下流方向に歩いてみる。網代はなくとも川に木杭が並んでいるかも知れない。

堤の上にある道路は工事中なので立ち入り禁止の看板が立っていたが、地元の人が自転車を押したりして行き来しているようなので、私も入り込んだ。堤の下にも散歩道がある。工事の邪魔になるようであれば下の道を歩けばよい。

これほど大きな川である。下流にいけば川幅が広がり、ところどころに中洲があるのではないか。そういうところに網代人は網代木を設置していたのではないか、と勝手に思っていたのだが、ダムの放水量は半端ではない。中洲に自生した木が水没している。

おや。水没している中洲の木の周りに鳥が浮かんでいるようだ。それも群れている。近くには下の道に下りる階段はなかった。土手をすべるようにして降りた。

鴨だ。上流を向いて浮かんでいる。だが流れは結構きつい。2〜30mほど下流に流されては飛び立って、もと居た位置の川面に戻るということを繰り返している。

土手道に戻って先に進んでいると、ここでも望遠レンズつきカメラと三脚を抱えた3人組に出逢った。この人たちも鳥を撮影に来たらしい。「浮かんでいる鳥はカモですか?」と訊ねると「コガモです。鴨より小さいから小鴨」。


川にいるのはコガモだけではない。中洲の立木の枝々に小鳥が止まって、うるさいほどにチーチー・チュッチュッと鳴いている。 山部赤人の歌がある。

  み吉野の       象山(きさやま)の際(ま)の
  木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ
  鳥の声かも       (6-924)山部赤人

「ここだも」の言葉が面白いので憶えていたが、まさに「ここだも騒ぐ 鳥の声」である。真似してみたのが次の歌。

  宇治川の        中州に立てる
  木末(こぬれ)には   ここだも騒ぐ   鳥の声かも

ここだも騒ぐ鳥は何であろうか。

テクテクを始めて8年になるが、ときどき間近に鳥を見ることがあった。鳥の名前を知りたいと思って、薄い鳥類図鑑2冊を揃えた。テクテクで鳥を見つけると必ず写真を撮るのだが、小鳥は小さくしか写っていない。だから図鑑を調べても小鳥の名前が判明することはほとんどない。大きな鳥は大きく写っているので調べやすい。白鷺とか青鷺は図鑑で確認できた。

鳥に興味が出てくると、自宅の近所にもいくつかの名を知らない鳥がいることに気づいた。手許に図鑑があるのですぐに調べることができるではないか。バードウォッチング用の双眼鏡を通販で買って、机の横の書類ケースに入れている。ときどき窓の外に目を向けて、電線に鳥が止まっていたならば、これを取り出して鳥を見るのである。


だが案外に鳥の姿は記憶できない。図鑑を出しても「はてどのような形をしていたのか」、思い出せないのである。 @目の周りの色、A体の色、B頭の色、Cクチバシの色、D足の色、E尾の色、F尾の長さ、G鳥の大きさ、といった特徴を一見して記憶することは難しい。ひとつの鳥の名すら長いあいだつきとめることはできなかった。

昨年の秋、よく見かける鳥はヒヨドリであることをようやく突き止めた。名前は知っていたが、あれがヒヨドリなのか。ヒヨドリに 声をかけてやりたいほど親しみを感ずるようになった。次にムクドリを知った。これは4〜5羽でやって来るので、1羽が動いても別の1羽を観察すればよい。特徴をつかむことができて、すぐに名前が判明した。

図の小鳥は、最近隣の空き地によくやってきている鳥である。先日たまたま写真を撮ることができた。写真に撮ってあれば調べやすい。チゴモズのようである。


土手の下に茶畑がある。その向うの杜は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓である。

京阪宇治の隣の三室戸(みむろど)駅の近くまで歩いてきた。相変わらず靄っている。

天気予報では午後には晴れるとあったので、西国33か所観音巡礼の第10番札所である三室戸寺(右図)を訪ねて時間を潰したが、万葉集には関係がないので省略する。


木幡は宇治市に属する。京阪木幡駅は宇治駅から→三室戸→黄檗→木幡と3つ目の駅である。 「木幡」の地名は古くからある。万葉集に詠われているので、一度は訪ねてみたかった土地である。

京阪電車が走っているあたりは低地でマンションや工場が立ち並び下町ふうであるが、東に向いて土地は次第に高くなっていて、そこは住宅地になっているようである。できるだけ高くまで丘を登ってみようと思っている。


大和(桜井)から近江また北陸へいくには、@桜井→A奈良→B木津川を渡る→C南山城を北上して→D宇治川を渡る→E巨椋池に沿って六地蔵に行き→F山科を通って→G逢坂越えをして→H大津に出る。というのがルートであった。現在の交通路でいうと、@桜井〜A奈良はJR桜井線、A奈良〜E六地蔵は JR奈良線、E六地蔵〜G逢坂は旧奈良街道、G逢坂〜H大津は国道1号線。この線路や道路が往古の街道であったようである。

右の地図で、奈良から北上してきたJR奈良線は、小倉で東を向き、宇治川を渡ってから再び北上する。そして六地蔵から今度は西向きに方向を変える。小倉駅からグルッとJR線路が迂回しているのは、JR線路を敷設するとき、JR線の西側には巨椋池(おぐらいけ)があって、そこは沼沢地ないし低湿地であったからである。

人麻呂の時代、巨椋池には北から桂川が、東から宇治川が、南から木津川が注ぎこんでおり、いったん巨椋池にプールされた水が淀川となって大阪湾へ流れ出ていた。「池」と名づけられたのは後代であろう。当時は「入り江」のような景色であったようである。

往時の宇治川は宇治橋か三室戸のあたりで巨椋池に注ぎ込んでいたのではないか。つまり宇治川はそこで終わっていたと思われる。宇治川は土砂も運んでくるから、池はしだいに埋まっていったのだろうが、大水が出るたびに広い沼沢地に水がたまるので、巨椋池は乾上ることはなかった。池を干上がらせるには川と池を分離すればよい。そのためには宇治川の川筋を決め、川の両側に堤を築き、川水が池に注ぎ込まないようにすればよい。

豊臣秀吉が伏見に隠居城を作ったとき、それを行った。太閤堤と呼ばれる堤である。宇治橋より下流にある宇治川の川筋は秀吉が決めた。秀吉が作った川であるといえる。

東に向かって歩いている。緩やかながら登り坂である。JR奈良線の踏切りに当たった。おそらく応神天皇の時代や人麻呂の時代の古道は、このJR線路かその先に見える府道7号線がそれであったろう。

古事記に次のようなくだりがある。 応神天皇が近江に行こうと、宇治川を渡り、巨椋池にそって木幡(こはた)にやって来たときのことである。天皇は道で美しい娘に出会った。天皇が名を尋ねると和珥(和邇・わに)氏一族の宮主宅姫(みやぬしやかひめ)であると答えた。天皇は近江から帰る途中で、おまえの家に立ち寄ろうと告げた。

娘から話を聞いた親は、まさしくそれは天皇に違いないと、ご馳走を用意して待った。天皇は木幡の家に立ち寄られ饗応を受けた。姫が天皇の盃に酒を注ごうとしたとき、天皇は料理を見て次の歌を詠われた。


この蟹はどこの蟹か? 
多くの土地を伝い歩く 敦賀の蟹である。
横歩きしてどこへ行く。

イチヂ島やミ島に着くと
ニホ鳥が水に潜っては、浮かび上って息づいている。

そのようにして、歩きにくい楽浪(ささなみ)の道を
どんどん私が歩いていると、
木幡の道で乙女に出逢った。

乙女の後ろ姿は楯のようにすらっとしている。
歯は白く、椎や菱の実のように美しい。

櫟井(いちひゐ)の和邇坂の土は
上の土は赤いし、
下の土は赤黒いので、
(栗の実が3つ並ぶ)中の土を取って
強い火には当てずに弱火で焼いて
(その土で)眉をこのように描いている

乙女に出逢った。 こういう子がいればと、
私は思っていた。こういう子がほしいと
私が思っていた子に、まさしく
向かい合っている。寄り添っているのだ。

詠われた土地は、@敦賀から蟹が横伝いして、A琵琶湖北部に出て(不明な)島に着く。Bニホ鳥が潜ったり浮かび上ったりしているのは琵琶湖西岸の高島市あたりか。C楽浪の滋賀の道を通って(逢坂を越え)、D木幡ですばらしい乙女に出会った。Eその乙女は櫟井(いちひゐ)の和邇坂の土を焼いて作った墨で眉をくっきりと描いていた。天理市に和爾下(わにした)神社があるが、この地は和邇氏の本貫の地である。応神天皇の勢力下にあった敦賀→近江→木幡→大和を順次歌ったわけだ。


天皇はこうして木幡の娘を妃に迎え、生まれた子供が@菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子、A八田(やた)皇女、B雌鳥(めとり)皇女の3人である。

どうやらミヤヌシヤカ姫の血筋は美男・美女を輩出したようである。

兄妹である大雀(おおさざき・仁徳天皇)は皇后の磐姫(いわのひめ)の嫉妬に悩まされながらも八田皇女を妃とし、さらに妹の雌鳥(めとり)皇女をも妃にしようと思ったほどであった。

(速総別皇子と雌鳥皇女の倉椅山逃避行はNo.76 桜井市・寺川を下って聖林寺へで書いた)



行くあてがあるわけではない。とにかく小高く眺望が開けている場所がないかと探しながら坂道を登っている。木幡を詠んだ歌がある。

  山科(やましな)の   木幡(こはた)の山を
  馬はあれど       徒歩(かち)ゆ我が来(こ)し
  汝(な)を思ひかね    (11-2425) 人麻呂歌集


山科の木幡の山道を、
馬はあるのだが、歩いてやってきた。
あなたのことを思うとじっとしておれなかったのだ。

(次図)自動車がすれ違いできないほどの狭い道には民家が立ち並んでいる。だいぶ高いところに登ってきているはずだが、家並みが邪魔して眺望がきかない。脇道に入ってみたら、うまい具合に空き地があった。下は崖になっていて、伏見が見えた。



真西を向いているようだ。電柱がじゃまだが、電柱の左に鉄橋がある。観月橋だろう。写真右にある小山の連なりは伏見桃山御陵がある丘だろう。正面に数本の給水塔を立てたマンションの住所は桃山町大島だろう。ここも往古は巨椋池であった。電柱より左側は向島か。そこも巨椋池であった。

木幡から伏見を眺めたかったのは、次の歌があるからである。


巨椋の入り江がざわめいている
(射目人が伏す)伏見の田んぼに
雁が飛び移るらしい


入り江に響いたのは、雁の群れの羽音であり鳴き声であろう。静かだった入り江が急にざわついたかと思うと、雁の群れが伏見の方向に飛んで、次第に小さくなっていった。伏見のほうへ飛んでいったのを目撃しているのだから、伏見の地が見える場所で詠んでいるわけだ。おそらく木幡から見た情景であろう。斉藤茂吉も伊藤博さんも中西進さんも、声をそろえて「秀歌である」といわれている。

特に「入江響(とよ)む」の句がよい。人麻呂歌集に次の歌がある。


  巻向の      山辺響(やまべとよ)みて
  行く水の     水沫(みなは)のごとし
  世の人われは    (7-1269) 人麻呂歌集


この歌では「山辺」が響(とよ)んでいる。これもよい歌である。



秋風が吹いている。山吹の瀬の瀬音が響くなか
天空に雲の彼方を飛び渡る
雁の群れをみたことだ。

山吹の瀬は不明であるが、題詞に「宇治川にて作る歌2首」とあるので、宇治川のどこかであろう。川底が深ければ瀬音はしない。宇治川が巨椋池に注ぎ込む河口では川幅が広くなって瀬音が響いていたのか。


  あしひきの     山河(やまがは)の瀬の
  響(な)るなへに  弓月が岳に
  雲立ち渡る     (7-1088) 人麻呂歌集


どちらも川の瀬音を聞いているとき、空を見上げて発見する。ひとつは天を飛ぶ雁であり、片ほうは弓月が岳に立ちのぼる雲である。まず響く音を思い、ついでスケールの大きい情景を想起させるよい歌である。人麻呂歌集の歌であるが、この4首は人麻呂でなければ作れまい。


今日予定していた場所は全部訪れた。 今度来るときは、晴れた日で、天ケ瀬ダムが放流していない時期を選ばねばならないな。近鉄・丹波橋から近鉄特急で帰宅したが、帰りの電車の時刻(2:50)になって日が射してきた。

天候は味方してくれなかったが、時間つぶしで訪れた平等院・鳳翔館の雲中供養菩薩(うんちゅうくようぼさつ)を見ることができた。感動的であった。また予定していなかった仏徳山からの眺望もよかった。

天ケ瀬ダムの放流によって宇治川は増水していたが、小鴨を観察できたのはダムのお陰であるともいえる。



宇治神社を訪ねた折、桧皮葺の費用の奉賛のお願いが貼られてあったので、わずかばかりのことを申し出た。 神主さんはこれから何かの祝詞をあげるようで、白衣に青袴を着けて急がしそうであったが、「撤饌(てっせん)、撤饌」とつぶやきながら、お下がりものを下さった。

うちに帰って撤饌を開いてみると「五穀米(古代米)」が入っていた。五穀とは黒米・赤米・玄米・もち米・押し麦だと書いてある。この「30gを白米3合に混ぜて炊いて下さい」とあったので、早速炊いてみた。

小豆は入っていないが、赤飯の食感に近い。人麻呂も食べたかもしれない五穀米を食すると、ああ日本は古い国である。伝統が受け継がれているよい国である、と思うのである。

今日の万歩計は23200歩だった。


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