寺川を下って聖林寺へ

    No.76.....2009年11月21日(土曜)


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今日のテクテクは何の予定もなかった。夜更かししたので朝8時ころに目覚めた。窓を開けるとやけによい天気である。テレビは、今日は紅葉の見ごろである。日曜日から天気は降り坂になるといっている。

テレビが映しているような紅葉(もみじ)はさほど見たくないが、万葉集に数多く詠われている黄葉(もみじ)を見たいと思った。小倉百人一首の


  奥山に      紅葉踏みわけ
  鳴く鹿の     声きくときぞ
  秋はかなしき    (猿丸太夫)


では「紅葉」と詠っている。鹿が踏み分けるのは紅葉したモミジである。だが万葉集で詠われているモミジは黄葉したモミジである。柿本人麻呂は紅いモミジは詠っていない。

テレビで煽られたので、出かけることにした。近場のモミジの名所といえば桜井市の談山(たんざん)神社であろう。そこは2002年11月に訪れている。

だがモミジを見るだけというのも面白くない。談山神社から寺川に沿って桜井市駅まで歩いてみてはどうか。図の番号の順に歩いた。
  1. 談山神社
  2. 不動滝
  3. 百市(もものいち。地名)
  4. 崇峻天皇陵
  5. 聖林寺(しょうりんじ)
  6. メスリ古墳
  7. 近鉄桜井駅


近鉄の駅は線路の北側にある。談山神社に行くバスは南側のJR桜井駅前から出ているので高架の通路を通って南側へ出る。

階段を下るとバスが待っていた。3人の奈良交通の職員が「談山神社行きのバスがもうすぐ出ますよ」とキップを手にして遊覧客に声をかけている。バスの中を覗うとすでに座席はふさがり、大勢がつり革を握って立っている。

談山神社だけを訪れる観光客も多いのだが、談山神社から飛鳥へハイキングする者もあり、熊ケ岳から音羽山へと登山する者もあるから、荷物をもっているバス客が多い。

前回きたときもそうであった。バッグを肩にかけたり背に負っている乗車客が山道のカーブのたびに押し合いへし合いして神社に着いたことを思い出したから、躊躇することなくキップを買って乗り込む。乗車客をすり抜けて運転手の背面に立つことができた。

(次図)写真を撮る間もなく、一足飛びに談山神社の駐車場に到着した。



(上図)駐車場から東に見える山々は音羽三山である。中央の左右対称の山が経ガ塚山(889m)、その右にある大きな山塊が熊ガ岳(904m)。写真の左側からなだらかに高まってピークをつけて経ガ塚山に並んだ山が音羽山(852m)。この3つの山を総称して「音羽三山」と呼ぶ。

右に山と川の位置関係を掲げる。人麻呂の時代の都は飛鳥京と藤原京である。飛鳥京(飛鳥浄御原宮)は672〜694年の22年間、藤原京は694〜710年の16年間が日本の首都であった。

飛鳥京から東を見ると、御破裂山(ごはれつやま・618m)を最高峰とする多武峰(とうのみね)が南北に連なっている。その東には寺川が流れており、そこから音羽三山が立ち上がっている。音羽山は三山の北端にあるので、飛鳥京からも見ることができるが、経ケ塚山はその一部が藤原京から見えるかどうかであり、熊ケ岳は多武峰に遮られて、飛鳥京からはもとより藤原京からも見ることはできない。

かねがね未見の熊ケ岳を見たいものだと思っていたが、あっけないほど簡単に見ることができた。私の知る限りでは熊ケ岳を詠んだ歌は万葉集にはない。京から見えなければ詠われる機会もなかったであろう。

音羽山を詠った歌はいくつかある。ただし万葉の時代には音羽山ではなく「倉椅(倉橋)山」と呼ばれていた。また音羽三山の山裾を流れている川(渓谷)は今では寺川という味気ない名前になっているが、当時は「倉椅(倉橋)川」と呼ばれていた。万葉集には倉椅(くらはし)の山と川を詠んだ歌が残っている。


駐車場から談山神社に向かう。土産物屋が10軒ほど軒を連ねている。桜井駅前からの定期バスは(土・日曜日)1日に8便ほどでしかない。観光客の多くは観光バスや車でやってくる。観光バスが着くと団体客が店頭に群れをなす。

その場で食せるものは、草餅・橡餅・もみじ煎餅・串刺しにしたこんにゃくの味噌田楽など。土産は山で採れるのだろう、黒ゴマ・むかご・ギンナン・本葛・きくらげ・山椒といった乾物。山ゴボウや山芋・百合根などの野菜も並べてある。

神社入り口にやってきたが、中に入るつもりはない。

談山神社は藤原鎌足を祀っている。中臣鎌足(614〜669年)は中大兄皇子(天智天皇・626〜671年)とともに飛鳥板蓋宮において蘇我入鹿を殺してクーデター(乙巳の変)に成功した。鎌足が32才、中大兄が20才のときのことである。

入鹿暗殺の手立てや蘇我氏なきあとの政治体制について、二人はなんども語り合ったであろう。その場所が談山神社があるあたりである。

クーデターには成功したが、その後の政治は緊迫した世界情勢の下で混乱する。同年皇極天皇の実弟の孝徳天皇が即位して難波に遷都するが、二人は天皇と対立し孝徳天皇を置き去りにして飛鳥へ戻っている。孝徳天皇は憤死した。

655年に飛鳥で皇極天皇は重祚して斉明天皇となる。2度の即位をした斉明は何を思ったか工事狂いをした。後飛鳥岡本宮を造営し、多武峰山頂に垣を巡らす両槻宮(ふたつきのみや)を作り、いまでも飛鳥に残っている大半の石造物を作らせ、石を運ぶための運河を掘らせた。

661年に斉明が崩御。中大兄皇子は663年に百済救援のために朝鮮に出兵したが白村江で大敗北を帰してしまう。667年に近江京に遷都し、翌668年に天智天皇として即位する。鎌足が亡くなる前年のことである。鎌足は病を得ていた。天皇は自ら鎌足を見舞った。さらには弟の大海人皇子を遣わして、鎌足に藤原の姓と大織冠を授けた。

天智は2年後の671年に崩御した。翌年672年に壬申の乱で大海人皇子が近江王朝を滅ぼして天武天皇になる。

(上図) 神社は山の南斜面に建てられているが、その南に小高い展望台というべき場所がある。

そこからは右のような談山(かたらいやま)の全景を見ることができる。

談山の右下の建物が本殿および拝殿で鎌足が祀られている。山頂の真下に十三重の塔。

神社境内には楓の木が多く植えられていた記憶があるから、もう少し赤みが強いかと思ってきたが、時期がやや遅かったのだろう。褐色・茶色・黄色・緑色が入り混じっている。

大津皇子が詠んだ次の歌がある。

  経(たて)もなく   緯(ぬき)も定めず
  少女(をとめ)らが 織れる黄葉(もみぢば)
  霜な降りそね     (8-1512)大津皇子

縦糸・横糸の色や模様を決めることなく、乙女(自然)が織りなした黄葉の錦である。褪色しないよう、葉が散らないように、霜よ降らないで欲しい。

よもぎ餅2つと橡餅1つを買った。1個100円。代金は「手前においてある白皿にいれてね」という。なるほど、餅を焼いている手で硬貨を受け取らないほうが清潔だ。

談山のモミジを見たのでこれで満足である。山を下る。この道は東大門に続く道である。

わかっているところでは、鎌足には2人の男児があった。長男は定慧(じょうえ)といい、遣唐使とともに唐へ渡って留学していた。鎌足の死後10年して定慧は帰国し、父の亡くなったことを知る。

鎌足は摂津の阿威山(あいやま)へ葬られていたが、定慧は父と縁の深い多武峰の地に改葬し、十三重の塔と講堂を建てて妙楽寺を開いた。(これは談山神社が伝える話である。665年に帰国してすぐに亡くなったという説もある)

もう一人の男児は藤原不比等(ふひと)である。いうまでもなく藤原京にあっては文武天皇擁立に尽力し、娘(宮子)を文武に嫁がせて首皇子(聖武天皇)を生ませ、その聖武にはこれまた娘(光明子)を嫁がせて天皇家と強力な血縁関係をもち、奈良・平安時代を通じて実質日本を統治した藤原摂関家の礎を作った人物である。

この不比等が701年に神殿を造り、鎌足像を安置したという。天下に並ぶ者がない藤原氏の元租鎌足を祀る寺である。都は京都に移っても、藤原氏から多くの援助がなされ、各地からは荘園を寄進されて、妙楽寺は隆盛を極める大寺になった。

両脇の石垣の上にはかつて僧坊が建てられていた。延々と続く石垣の数からして何十という僧坊が建っていたに違いないが、明治初期の廃仏毀釈によって、すべて廃墟となった。


談山神社への参詣道の出発地であったろう屋形橋まで下ってきた。橋の下を流れる川は寺川である。

「寺川」は妙楽寺の足許を流れていることから名づけられたのだろうか? あるいは下流にある聖林寺に因む名前なのか不明だが、「寺川」の名が定着した時代は新しい感じがする。

ここでは万葉の時代に呼ばれていた倉椅川(くらはしがわ)と呼ぶ。

バス道を下るとじきに「不動滝」のバス停があった。バス道は写真の左にあり、右に倉椅川が流れている。正面に桜井から盛り上がってきた音羽山の稜線が見える。音羽山も万葉の時代に戻って倉椅山(くらはしやま)と呼ぶことにする。

急に思い立ってきたから下調べはしていない。「不動滝」というのであるから、どこかに滝があって、その脇に不動尊が祀られているのだろう。滝に不動明王はつきものだ。

倉椅川はバス道から少し離れて流れている。バス道から見ると川に沿う道があり、その道の曲がり角に黄葉した木立がある。木立の左側に山へ入る枝道が別れている。木立の下には石碑があるようである。行ってみた。

(次図)渓流(倉椅川)の上に歌碑があった。前半は万葉仮名で、後半は読み下した歌が彫ってある。石碑の汚れを拭うと、次の歌であった。

  梯立ての  倉椅山は  嶮(さが)しけど
  妹(いも)と登れば     嶮(さが)しくもあらず

おおー。これは速総別王(はやぶさわけのみこ)の歌ではないか。 (倉椅山の山道は嶮(けわ)しいけれど、あなたと一緒に登れば嶮しいとは思わない)


この歌は、仁徳天皇の弟の速総別王と、仁徳天皇に求愛されていた女鳥王が、手に手を取りあって天皇の追っ手から逃げているときの歌である(No.73 二上山と當麻寺で書いた)。 古事記によれば、この歌の前に女鳥王が速総別に

  雲雀(ひばり)は   天(あま)翔ける
  高(たか)行くや   速総別(はやぶさわけ)
  鷦鷯(さざき)取らさね    (古-69)

「雲雀よりも高く飛べる隼(速総別)よ、鷦鷯(さざき・仁徳天皇の幼名)を殺してしまいなさい」と勧めた。これが天皇の耳に入り、仁徳は二人を追討すべく派兵した。

二人は倉椅山(くらはしやま)をあえぎながらよじ登り逃げようとした。そのとき速総別は

  梯立(はした)ての  倉椅山を  嶮(さが)しみと
  岩懸(か)きかねて  我が手取らすも  (古-70)

と詠い、ついで歌碑にある歌を詠った。


歌碑の左側にある小道に沿って渓流があった。倉椅川は歌碑の裏側の下を流れているのだが、そこへ渓流が滝となって合流している。3か所から水がほと走っている。結構な水量があって気持ちよい。


古事記では速総別王と女鳥王は名張市の南に接する曽爾(そに)で捕まり、殺されたという。おそらくは伊勢、あるいは伊勢を経て東国(尾張・美濃)へ逃れようとしたのであろう。桜井から伊勢へ行くルートはいくつかあるが、逃げる二人(従者がいただろうが)は発見されにくい山中のルート(桜井→宇陀→曽爾→美杉→多気→伊勢)のコース(のちの伊勢本街道)を行こうとしたのであろう。

桜井→宇陀へ向かう道もいくつかあるが、最も発見されにくいだろう倉椅山越えを選んだようである。すなわち、桜井を出て→倉椅川(寺川)に沿って上流を目指し→そこから倉椅山(音羽山)に登り→倉椅山を越えて東に降ったところが宇陀である。

地図を見ると、倉椅川に合流しているこの細流(滝)は熊ケ岳の南にある大峠の辺りを源流としている。渓谷に沿って山道を登ると熊ケ岳の南に出てしまうので、一行(二人と従者)はこのコースを辿ってはいまい。

ここから少し下流の下居(おりい)で倉椅山(音羽山)から流れてくる細流が倉椅川に合流しているから、おそらくはその細川に沿う道を登って倉椅山を越えたであろう。

だからこの場所に速総別の歌碑があるのは妙なのだが、3か所から水が噴出し、ドードーッと響き落ちる滝を見ていると、倉椅山への険阻な山道を二人があえぎながら登る姿を思い浮かべることができる。誰が決めたのかは知らぬが、この場所に歌碑を据えたのはよかったと思う。




滝が合流したすぐの倉椅川。水は清く水量も多い。

先の速総別が詠った2首は「梯立ての 倉椅山」から始まる。「梯立(はした)て」とは梯子を立て掛けるという意味である。

古代の倉は高床式の建物であった。湿気を防ぎ、ネズミや獣に貯蔵している米穀を食べられないように高く太い柱を立て、その上に家屋を造っていた。倉は高い位置にあるから梯子(はしご)を掛けて出入りする。ここから「梯立て」は「倉」の枕詞となる。

枕詞は歌を視覚化する。「梯立ての〜〜」と読み上げられたとき、聞き手は高い梯子を思い浮かべ、次に続くであろう倉椅山か倉椅川の名を期待するのである。

バス道(県道37号線)を下る。倉椅川は道路の右手に谷となって流れている。

枕詞は5音からなり、ある単語を修飾する言葉だが、ときに決まった地名だけを修飾するものがある(とシロートは思う)。例えば「隠口(こもりく)の 初瀬(泊瀬)」である。隠口は初瀬と密接に結びついている。

山名でいえば、「玉襷(たまだすき) 畝傍の山」(襷はうなじ(ウネ)に掛ける)であり、「子らが手を 巻向山」(手を巻く)であり、「梯立ての 倉椅山」(梯子を立て掛ける倉)である。「春揚(はるやなぎ) 葛城山」もそうだろう。揚の枝を輪にして「かずら」にするからである。

川縁りに楓の木が数本並んで川を覆うように枝葉を広げている。楓は山地の谷沿いに自生するというから、これも人が植えたものではなく自然に生えたものだろうか。談山神社の楓もそうだったが、この秋は寒くなかったためか、あるいは来た時期が遅いのか、あまり発色がよくない。

川にテラスをせり出した家屋がある。食堂のようである。ここでモミジを眺めながらウドンでもすすろうかと、橋を渡ってみたが無人の家であった。ガラス戸越しに中を覗うと座敷があったから、かつては食事処を営業していたようである。

12時である。ウドンがないとわかると急に腹がすいた。そうだ草餅を買っていたではないか。橋の上で紅葉を眺めながら、カン紅茶を片手にして草餅を食べる。うまい。カン紅茶を飲みきれなかったので、橡餅も食べた。


百市(もものいち)の辺りであろうか。農家が散見されるようになった。土手に生える柿木は一枚の葉とて残っていないが、柿の実が熟したままである。誰も採らないままに実は落ちるらしい。

柿の実を住人が食するのであれば、このように枝が高く伸びていくのを放置するわけはない。奈良の例えば山の辺の道を歩いていると柿畑を目にする。そこにある柿木は枝が横に伸び、伸びた枝を木の柱で支えている。枝を低くして実をもぎやすくしている。

振り返ると倉椅山は遠くなっている(中央奥の山並み)。

次に、気に入っている「梯立ての 倉椅山(川)」を詠った旋頭歌を掲げる。旋頭歌は5・7・7・5・7・7の6句からなる。中西進さんの「万葉集・全訳注(1)」によれば、旋頭歌は本来は集団で歌唱(輪唱)する歌であるらしい。前半の5・7・7を一人が歌い上げると、別の誰かが後半の5・7・7を歌い上げる。するとまた別の誰かが先の歌から連想した前半の5・7・7を歌い、これを受けて誰かが後半の5・7・7を歌うということを繰り返すのである。

読み上げる歌はその場で思いつくものもあるだろうが、多くは世間で歌い継がれてきた歌だったろう。掲げる歌も歌い継がれてきた民謡だろうと思うが、並ぶ順がよいために物語性を持っている。


梯立ての倉椅山に白雲が湧き立っている。
ちょうど見たいと思っていたところに、白雲が湧き立った。


梯立ての倉椅川の石の橋はどうなったろう。
私が若い頃に渡した石の橋はどうなったのであろうか。



梯立ての倉椅川にしず菅が生えている。
私が刈ったが、笠には編むことができずに終わった川のしず菅なのだ。

1首目(7-1282)の「立てる白雲」はいとしい人のおもかげである。家で留守を預かっている妻なのか、しばらく逢っていない恋人なのか、あるいは先に亡くなった妻であるのか。逢いたいと思っているときに倉椅山に白雲が立ったではないか。ああ逢いたい。

2首目(7-1283)は倉椅川の石の橋を思い出している。あの石の橋はどうなっているのだろうか。私が若い頃に石を動かして渡りよくし、恋人の許に通った石の橋はどうなったのか。

石の橋は図のようなものであったろう。飛び石である。なお「我が渡してし」ではなく「我が渡りてし」と読み下すこともあるが、それだと、「私が若いころに渡って通った石の橋」となる。これでは面白くない。恋人に逢うために苦心して渡した石の橋だからこそ、そこにかけた若き日の情熱が聞き手に伝わるのである。

正面に三輪山が見えてきた。

3首目(7-1284)は倉椅川に生えている「しず菅」を見て思い出したものである。「しず菅を刈る」というのは「女を我がものにする」という暗喩である。2とおりの解釈ができる。1つは「私が刈ることも、笠に編むこともないしず菅よ」であるが、これだと作者は傍観者としての立場である。しず菅を遠目にみているだけである。

2つには「私が刈ったのだが、笠に編むことができなかったしず菅よ」である。いったんは心を許し合った仲となった娘であったが、結ばれることがなかったのである。結ばれることができない事情があって別れたのか、あるいはその娘が死んでしまったからなのか。結婚することはなかった。

さらには左手に二上山が姿を現した。

そうなると、1首目で恋人のおもかげを思い出し、2首目で自分の若かりしころのことを思い出し、3首目で諦めとともに亡き恋人を偲ぶ、という物語性のある歌になる。

掲げた3首は柿本人麻呂歌集に収められていた歌である。人麻呂が採集してこの順番に並べたのだろうが、ひょっとすると人麻呂が3首を連作してひとつの物語としたのかも知れない(人麻呂は山と川を取り込んで故人を偲ぶ歌をいくつか詠っている。後で掲げる)。

「倉橋」まで下ってきた。地名から想像するにここが倉椅(くらはし)の村落の中心部であり、そこに聳える山を倉椅山と呼んだのであろう。

ここから見る方角(南東)は音羽三山が並ぶ方向とほぼ一致しているので、北端にある倉椅山(音羽山)だけが見えている。経ケ塚山・熊ケ岳は倉椅山の向うに隠れて見えない。この位置からの倉椅山は左右対称の均整のとれた姿である。

山全体をカメラに収めようと、分譲地の造成工事現場に入りこんだ。 遠くでショベルカーやブルドーザーが動き回っている。そのうちこの角度から見る倉椅山の麓には新しい住宅が並ぶことであろう。工事現場の一画にプレハブの事務所が建てられてあって、壁に「卑弥呼の庄(開設準備室)」とある。アホらしい。なんで卑弥呼であるのか。

倉橋は古代(587年)崇峻天皇の倉梯宮(くらはしのみや)があったところである。この崇峻天皇は臣下の蘇我馬子によって殺害されたという前例のない天皇である。

蘇我氏は29代欽明天皇のときに頭角を現し、35代皇極天皇までの約100年間、絶大な権勢をふるったのだが、そのスタートは蘇我稲目(いなめ)が、娘の堅塩媛(かたしひめ)とその妹の小姉君(おあねのきみ)の二人を欽明天皇の妃にしたことである。

欽明の皇后は28代宣化天皇の皇女の石姫である。石姫が生んだ男児は30代敏達天皇になる。血筋からしてもっともな即位である。敏達天皇の皇后は広姫といい、押坂彦人(おしさかのひこひと)皇子を産んだが、皇后は早世した。


妃となった二人の娘のうち姉の堅塩媛は13人の子を産んだといわれているが、その男児は31代用明天皇になり、女児の炊屋姫(かしきやひめ)は30代敏達の皇后(ただし後添え)になった。 妹の小姉君は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女、泊瀬部皇子、穴穂部皇子を産んだ。穴穂部皇女は姉の子である31代用明天皇の皇后となり、厩戸皇子(聖徳太子)を生んだ。

敏達天皇が亡くなったとき、嫡子の押坂彦人皇子は年少だったためか、堅塩媛の子が31代用明天皇として即位する。皇后は小姉君の子の穴穂部間人皇女であるから、蘇我馬子は天皇・皇后のオジになった。だが用明は即位して2年目に亡くなってしまう。

小姉君の子の穴穂部皇子は物部守屋と組んで皇位を狙ったが、馬子はこれを討ち、竹田皇子(炊屋姫の子)・厩戸皇子(穴穂部間人皇女の子)・泊瀬部皇子(小姉君の子)を統率して物部守屋を滅ぼす。蘇我氏のライバルは皆無となった。馬子は年長の泊瀬部皇子を32代崇峻天皇として即位させた。


崇峻天皇は馬子の甥にあたるから、馬子も御しやすいと思ったのだろうが、そうではなかった。崇峻は次第に馬子に反感を抱く。即位して5年目に馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたい・こま)に命じて天皇を殺害する。臣下が天皇を殺すという空前のことをなしたのである。

崇峻は直ちに埋葬された。それがこの崇峻天皇陵である。 妙な御陵である。御陵正面の鳥居の向うに杜があるが、近づいてみると平地である。普通なら棺を納めて土を盛り上げた円墳があるはずだのに、それがない。円墳を築く時間さえなかったのか、あるいはごく小さな墓であったのか。

馬子にとっては持ち駒はいくらでもあった。明日香の甘樫丘の裾にある豊浦宮で炊屋姫を第33代推古天皇として即位させ、20才の厩戸皇子を皇太子とした。崇峻天皇の倉梯宮があり、天皇陵がある倉橋は捨てさられた。

それまでの宮(都)は多くは桜井市の磐余(いわれ)の近くにあった。29代欽明は磯城島金刺宮(しきしまのかねさし・桜井市)、30代敏達天皇は百済大井宮(くだらのおおい・広陵町)、31代用明天皇は池辺双槻宮(いけへのなみつき・桜井市)、32代崇峻天皇の倉梯宮(くらはし・桜井市)などなどである。馬子が決めた豊浦宮から飛鳥に都が置かれることになる。


御陵の横に倉椅川が流れている。水は清い。ゴミもない。掃除がされているのは天皇陵があるお陰であろう。

推古天皇の在位は長く36年間ある。このうち30年間は厩戸皇子と馬子が共同して政治を執ったが、太子は推古30年に没し、34年に馬子も亡くなる。この間に推古の子である竹田皇子も亡くなっている。

馬子の跡目は蘇我蝦夷(えみし)が受け継いでいた。推古の次の天皇に、蝦夷は血縁のある太子の子の山背大兄王ではなく、敏達天皇の孫の田村皇子を第34代舒明天皇として即位させた。舒明の皇后には敏達天皇の曾孫の宝皇女がなった。天皇も皇后も蘇我氏との血縁はない。ただ馬子の娘が舒明の妃となって古人大兄皇子を生んでいる。


倉椅山の横腹が見える。手前の深緑の山は多武峰の北端。

舒明が亡くなったとき、皇位継承の候補者としては、@中大兄皇子、A古人大兄皇子、B山背大兄王があった。身分からは天皇・皇后の嫡子である中大兄皇子、年齢からは山背大兄王、力からは蘇我氏をバックにもつ古人大兄皇子である。

混乱を避けるために皇后は即位して35代皇極天皇となった。大臣は蝦夷であったが、実権は次第に入鹿に移っていった。

入鹿は古人大兄皇子を即位させようと図り、まずは山背大兄王を攻めて自刃させた。次は中大兄皇子が狙われるであろう。当然に蘇我氏と反蘇我勢力との対立は緊張度を増した。

645年、中大兄皇子や中臣鎌足・蘇我石川麻呂らによって乙巳(いつし)の変が起き、入鹿は大極殿中で惨殺された。蝦夷は甘樫丘の屋敷に火をかけて死んだ。古人大兄皇子は直ちに出家した。

皇極天皇の実弟の軽皇子(乙巳の変の陰の仕掛け人ではないかと言われる)が即位して36代孝徳天皇になった。中大兄皇子は皇太子になり、蘇我石川麻呂は右大臣となり、中臣鎌足は内臣(うちつおみ)になった。

崇峻天皇を殺害した蘇我本家は滅びた。その蘇我氏を討ち取る計画は、崇峻天皇陵の脇を流れる倉椅川を遡った談山(かたらいやま)で練られた。崇峻天皇が殺されて53年後のことであった。

バス道はゆっくりと下っている。「倉橋」を過ぎて「下(しも)」という地区に入ったようだ。左手の小山の麓に甍が見えた。聖林寺(しょうりんじ)であろう。小山は多武峰の北端の端山か。

聖林寺にあった案内板に、この端山は小倉山(おぐらやま)と呼ばれていたと書いてあったが、古い本(「大和志」)には「倉椅村上方の峯名小倉」とあるそうだから、崇峻天皇陵のあるあたりの山がそうだったのかも知れない。

舒明天皇の歌に次のものがある。

  夕されば       小倉の山に
  鳴く鹿は       今夜(こよひ)は鳴かず
  い寝(ね)にけらしも      (8-1511)

坂道を登ると、寺の駐車場があった。「倉敷芸術大学」と書かれた観光バスが止まっていた。長皇子の歌に

  秋さらば        今も見るごと
  妻恋(つまご)ひに  鹿(か)鳴かむ山ぞ
  高野原の上         (1-84)

がある。また冒頭に掲げた猿丸太夫の歌も鹿が鳴くのを素材にしている。「鹿」とくれば「鳴く」である。なぜ鳴くのか。それは「妻恋い」のためである。

そうすると舒明天皇の歌は、いつもなら夕方になると小倉の山で鹿が鳴くのに今夜は鳴かない。ああ妻に逢えて一緒に寝てしまったのだなあ。という鹿を思いやる歌なのであろう。


聖林寺は談山神社の下に立ち並んでいたであろう僧坊のように石垣の上に建っている。 寺で貰ったパンフレットによると、聖林寺は談山妙楽寺の別院として奈良時代(712年)に建てられたものであるらしい。談山神社は多武峰の南斜面にある。この地は多武峰の北端であって、神社への登り口であるから別院を建てたのだろうか。

聖林寺を有名にしているのは、国宝の十一面観音があるためである。だが観音はもともと聖林寺にあったものではなく、明治初年まで三輪神社の神宮寺だった大御輪寺にあった。

神仏分離の際、寺(神宮寺)を持っていた多くの神社はこれを捨てた。談山神社がそうである。三輪神社もそうであった。観音は大御輪寺の縁の下に置かれていたという。その天平期の作とされる観音をフェノロサが発見する。これは大変な仏像である。このまま放置していてよいものか。

寺の関係者が相談した結果、聖林寺が引き受けることになった。観音像は荷車で運ばれた。フェノロサは荷車に付き添った。そういったことを、白洲正子さんが住職から聞かれて「十一面観音巡礼」で書かれている。

山門に通じる石段の許に歌碑があった。

  椋橋(くらはし)の   山の高みか
  夜ごもりに       出(い)で来る月の
  光乏(ひかりとも)しき

       (3-290)間人大浦(はしひとのおおうら)

倉椅山が高いからか、夜遅く出てくる月の光が薄いなあ。
本堂には石造の着色された地蔵菩薩坐像があった。丈は1丈6尺。丈六仏である。 はじめ聖林寺には十一面観音像のほかに地蔵菩薩立像も移されたのだが、聖林寺にはすでにこの地蔵菩薩が本尊としてあったので、のちに法隆寺に移されたそうである。地蔵菩薩立像は法隆寺の大宝蔵院で見ることができる。国宝である。

脇間には阿弥陀如来があって、倉敷芸術大学の学生であろう、それぞれの仏像を前に5〜6人がスケッチしている。立っている者もあれば、スケッチブックを板間に置いて俯いて描いている者もある。

普通は堂内では写真の撮影やスケッチは禁止しているものだが、聖林寺は鷹揚だ。学生であってもちゃんと申し込めばスケッチの許可を出すらしい。

本堂から山斜面に沿って、長谷寺の渡殿(登廊)といった屋根つきの階段が作られている。階段は観音堂へ通じている。30段ほど上ると右手にいきなり十一面観音が現れた。驚いた。

聖林寺の十一面観音(国宝)は、おそらく我が国の十一面観音のうちで最高レベルのものであろう。「古寺巡礼」(和辻哲郎)は写真つきでこの観音を語ったし、「十一面観音巡礼」(白洲正子)は第一章目に記述する。特に白洲さんがよいと思われた観音6体が、巻頭のグラビアにまとめてあるが、その1枚目が聖林寺の観音である。

何度も写真で見たことがあるが、はじめて実見する。それもいきなりに姿を現したものだから、「おおー」と思わず声が出た。ここは堂内ではないからよかろうと、堂前から写真を撮ったがよほど興奮していたようだ。写真は大きくブレている。

本堂に戻り張り出している廊下に出た。寺からの眺望はすばらしい。廊下でも男子学生が座って景色をスケッチしていた。 おせっかいながら教えてあげることにした。

「正面の頂上が丸い山が三輪山、そこから左にゆったりと伸びている山が巻向山。その最も高いところが弓月が岳。三輪山の左手にちょっと頭を出しているのが龍王山。」

学生は「すみません。何も知らないんです」とやや腰を引いた。これはスケッチの邪魔をしてしまった。

集合時間になったようで、ほどなく学生たちは寺を出た。私は受付に瓦寄進の貼り紙があったので、心ばかりの寄進をして門を出ると、さきほどの学生が友達を待って立っている。 食べきれなかった草餅がバッグにあることを思い出したので、学生にやると、このときばかりは嬉しそうに礼をいった。

(次図)寺からの坂道を倉椅川まで下ると、南に倉椅山がある。倉椅山(852m)は桜井から近くに見える山々の中で最も高い山であろう。

近鉄桜井駅のあたりから、東に見える外鎌山(忍坂山)はわずかに292m、南東にある鳥見山は245m、南にある多武峯は607m。北東にある三輪山は467m、その奥に見える巻向山は567mである。

西をはるかにのぞむと二上山(517m)、南西に見える葛城山(959m)や金剛山(1125m)は高いが、それらは遠くに薄く見える山である。

だからこそ倉椅山は「椋橋(くらはし)の 山の高みか  夜ごもりに ・・・・」と詠われ、親しまれたのである。

駅まであと2kmほどであろうか。三輪山と巻向山が並んでいる。二つの山は別々とは見えない。まことに、

 三諸(みもろ)の
 その山並みに
 子らが手を
 巻向山は
 継(つ)ぎのよろしも
  (7-1093)

である。 この姿と山の名前から、「子らが手を」が「巻向山」の枕詞になったことは先にいった。おそらく人麻呂が考え出した枕詞であろう。


いとしい子の手を(枕に)巻くという巻向山は変らずにあるが、死んでいった妻に逢って、その手を枕にすることができようか(もうできない)。

1句と2句では、女性がやわらかな腕を伸ばしそれを枕にしているイメージを想起させる。しかし3句目で、そういう姿をした巻向山は「常にあれど」と逆接の「ど」がでてくるので、おや幸せな歌ではないのかと思わせる。4句目では「過ぎにし人に」といって、その妻は亡くなっていることが判明する。結句の「行きまかめやも」は、妻に逢いに行って、1句2句で詠った妻の腕を枕に巻くという行為ができようか、できはしない。となる。



前半の「子らが手を巻く」と後半の「過ぎにし人に(行き)巻かめやも」は表現するものがまるで異なっている。さみしいが悲しくはない。諦観の歌である。わずか5句の言葉からなる歌であるが、心に滲みる。

メスリ古墳に行った。最近この古墳の後円部を発掘したところ、石室の周りに太い丸太が何本も打ち込まれて、石室を厳重に取り巻いていた。という新聞報道を見ていたからであるが、実際のところ古墳は見て面白いものではない。図は柿畑(一部はみかん畑)になっている前方部に登って巻向山を望んだもの。

先の歌は山を素材にして無常を詠ったものであるが、その次の歌は川を素材にして無常を詠ったものである。


巻向の山辺を響かせて流れて行く水の川面に浮かぶ泡のようなものだ。この世にある私は。


先に掲げた倉椅山と倉椅川の旋頭歌が、山と川という対称的なものを素材にして、同一のテーマ(若き日の思い出)を詠っているのと同じ構成である。

優れた歌は、私のようなシロートにでもはっきりとイメージすることができる歌である。「愛する人の手を巻いて枕にするような山」、「どうどうと瀬音を響かせて流れる川の面に、瞬間生まれては消えていく水の泡」。その情景は作者がいだいた感情や思いを託しているのである。それをありありとイメージさせる歌は人を共感させ、共鳴させ、余韻を残す。

川は寺川(すでに市街地に入っているから倉椅川とは呼ばない)。当然のことに川は濁ってくる。


桜井駅から電車に乗って名張に帰る途中、榛原駅を過ぎたあたりで額井岳(ぬかいだけ)が見えた。全山が褐色に黄葉している。

ああ、私はこのような黄葉が見たかったのだ。人麻呂の挽歌「軽の路」の反歌として次の歌があった。

  秋山に        黄葉(もみじ)を茂み
  迷(まと)ひぬる   妹(いも)を求めむ
  山道(やまぢ)知らずも     (2-209)

死者が道に迷うのは、紅いモミジの中ではなく黄色いモミジの中でなければならない(イメージが異なる)。

今日の万歩計は22700歩だった。



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