吉隠から長谷寺へ

    No.75.....2009年9月13日(日曜)


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近鉄大阪線・榛原(はいばら)駅から大阪に向かって次の駅である長谷寺駅まで歩いた。(写真は榛原駅前)

3年ほど前、宇陀郡にある榛原町・大宇陀町・菟田野町(うたの)・室生村は合併して宇陀市になった。西は奈良県桜井市に隣接し、東は三重県名張市に接している。

名張から大阪方面に向かう近鉄電車の駅を掲げると、名張→赤目口→三本松→室生口大野→榛原→長谷寺→朝倉→桜井 となる。名張からは15分〜20分で榛原にゆける。

2003年3月に榛原を訪ねた折は、@墨坂神社、A宇陀水分神社、B鳥見山登山、C下山途中に春日宮天皇妃陵に行ったが、今日もだいたい同じところを巡る。違っているのは、その後に増えた知識である。当時は万葉集に親しんでいなかった。

図の番号の順に歩いた。
  1. 墨坂神社
  2. 下井足(しもいだに)
  3. 西峠
  4. 春日宮天皇妃御陵
  5. 吉隠(よなばり)
  6. 与喜浦(よきうら)
  7. 長谷寺
  8. 長谷山口坐神社
古くから文献にでてくるような土地の名前は妙な読み方をするものが多い。例えば上記の「下井足」は(しもいだに)と発音する。 「吉隠」は(よなばり)である。吉隠の隣の地区は「角柄」であるが、(つのがわら)と読む。

吉隠・角柄・下井足はすでに訪ねているが、万葉集を読んでいくうちにこれら土地を詠った歌があることを知った。それもよい歌がいくつかあるのである。万葉集の歌を知って訪れると、また別の感興が湧くはずである。

榛原駅の南に宇陀川が流れている。音羽山・経ケ塚山・熊ケ岳(音羽三山)から流れ出る水が集まって、大宇陀の地で川幅5mほどの川になり、榛原で笠間川や芳野川と合流して、写真のような川幅20〜30mの川になる。

宇陀川は流れて名張で名張川と名を変え、京都府に入って木津川になり、最後には天王山の麓の山崎で淀川に合流し、大阪湾にそそぐ。

赤い橋は、向こう岸にある墨坂神社へ参るための橋で、宮橋という。

第10代・崇神天皇のとき、多くの災いが発生した。疫病や謀叛の動きである。これを避けるために天皇は、@豊鍬入姫(とよすきいりひめ)を斎主として天照大神を祀り(檜原神社・ひばら)、A淳名城入姫(ぬなきいりひめ)を斎主として倭大国魂(やまとのおおくにみたま)を祀った(大和神社・おおやまと)。崇神6年のことである。

しかしなお災いは去らなかった。同じ年11月に、B大田田根子(おおおた たねこ)を斎主として大物主を祀らせる(三輪神社)と災いは去った。よってこの3つの神社は日本最古の神社である。ということをNo.68「巻向山と龍王山」で言った。

それから2年ほど経った崇神9年3月、天皇の夢に神が現れ、『赤の盾を8枚、赤の矛(ほこ)を8本供えて墨坂の神を祀れ。また黒の盾を8枚、黒の矛(ほこ)を8本供えて大坂の神を祀れ』と教えた。

天皇は夢のお告げによって2つの神社を建てた。それがこの墨坂神社である(もうひとつは大坂神社)。だから墨坂神社は日本で4番目に古い神社であることになる。(今まで読んだ本や案内板のどこにもそうは書いていないが、日本書紀の記述からはそうなる)

墨坂神社が創建されたのは現在の地にではない。後で訪ねる「西峠」は往古は墨坂と呼ばれていた。そこに墨坂神社があったが、幕末(1864年)に、ここへ移ったそうである。

墨坂神社の鳥居を透かして見える山は鳥見山(とりみやま)。やや雲がかかっている。その手前に緑色の丘があり、そのすぐ左に住宅が並んでいるが、そこが西峠である。

(次図)墨坂神社から榛原の山を遠望する。



上図、右の三尊形の姿よい山は額井岳(ぬかいだけ・816m)、中央の山頂にやや雲がかかっているのが貝ケ平山(かいがひら・822m)。この山は大和高原のうちの最高峰で、桜井市からでも三輪山・巻向山の上に見とめることができる。左は鳥見山である。

墨坂神社に行ったのは、上図の山々を眺めるためであった。神社を出て宇陀川の上流に向かって歩いている。

(上図の続き)手前の緑色の丘がじゃまして見えないが、その裏には「萩原」と呼ばれる地区がある。鳥見山の裾野を構成する地区名を挙げると、南東が「萩原」、南が「角柄」、南西が「吉隠」の3つ(「吉隠」の西が「初瀬」)。

奈良時代、この地は「跡見の庄(とみのたどころ)」と呼ばれ、大伴氏が所有する耕作地であったらしい。大伴一族がこの地を詠んだ歌がいくつか万葉集に載っている。

目的地の下井足(しもいだに)に着いた。橋は榛原大橋である。ここで宇陀川と芳野川(ほうのがわ)が合流している。右側が宇陀川で大宇陀町から流れてきている。左側が芳野川で菟田野町(うたの)から流れてきている。

前回訪れたときは芳野川の上流に向かって歩いて宇陀水分神社(うだみくまり)に行った。当時は水分神社についての知識がなかったから「分水神社」だと勘違いしていて、ワケミズ神社とかブンスイ神社とかを言って道を訊ねた。もっとも教えてくれた人も「ああスイブン神社」と言っていたから、知識がないとミクマリと正しく読むのは難しい。

宇陀川と芳野川に挟まれた場所(写真中央の家の背後)は、昔は猟路野(かりじの)と呼ばれていたらしい(異説もある)。ここで長皇子(ながのみこ)が狩猟をしたとき、これに随行していた柿本人麻呂が長歌と短歌を詠んでいる。


橋を渡って宇陀川の右岸を歩く。田圃がある。奥には丘がある。

歌の題詞には『長皇子の猟路(かりぢ)の池に逝(い)でます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首、あわせて短歌』とあるので、昔は池もあったのだ。2つの川に挟まれているから湿地帯であったのだろう。丘があり林があり池があれば、鳥や獣は多かったであろう。

人麻呂は大宇陀の安騎野(あきの)で、軽皇子(のちの文武天皇)の狩に随い、ここで有名な「東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見へて 返り見すれば 月かたぶきぬ」の歌を詠っている。宇陀市には、安騎野・猟路の2か所に朝廷の猟場があったようである。


あまねく天下をお治めになる、わが大君
高く輝く日の神の御子が
馬を並べて狩りをされている
(若薦を刈るという)猟路の野では
鹿が拝むように膝を曲げてお辞儀をしている
鶉(うずら)はおそばをうろうろと這い回っている

鹿が伏して拝むように
鶉が御子の周りから離れないように
我らは畏れ多いことながらお仕え申し上げ
遠くにある天を見上げるかのように
澄んだ鏡(のような御子)を仰ぎ見るのだが
萌え出る春草のように慕わしい
我が大君である。


はるか彼方の天を渡る月を
(狩猟用の)網で捕えて、わが大君は
蓋(きぬがさ)になさっている。

蓋(きぬがさ)とは、天皇や皇族が歩くときに、側に仕える者が差し出してかざす大きな傘である。狩が終わって、現地で宴がもようされたのだろう。日が落ちて月が昇って、ちょうど長皇子の頭上にあったときである。人麻呂はああ、月が蓋(きぬがさ)のようではないかと思った。 このまま皇子の頭上にあってくれればよいのにという思いが、皇子が天空を渡る月を網に捕えて、蓋(きぬがさ)にされている、と皇子を褒め称える歌にしたのだろう。

この歌がいつ詠われたのかは不明であるが、安騎野での歌は持統天皇6年(692年)10月のことだから、
それより後の歌であろう。


往古の猟路の池は今では田圃になっている。

人麻呂は宮廷歌人であったから、天武の皇子・皇女を讃仰した歌や挽歌を多く作っている。
  1. 草壁皇子への挽歌(689年)
  2. 持統天皇への讃仰歌(690年、691年)
  3. 川島皇子が没したときに初瀬部皇女・忍壁皇子に奉る歌(691年)
  4. 軽皇子(文武天皇)が安騎野で宿ったときの歌(692年)
  5. 新田部皇子への讃仰歌(不明)
  6. 長皇子が猟路野で狩をしたときの歌(不明)
  7. 高市皇子への挽歌(696年)
  8. 明日香皇女への挽歌(700年)

宇陀川を渡って、次の目的地である西峠に向かう。

天武天皇の皇子の皇位継承の序列は、@草壁、A大津、B舎人、C長、D穂積、E弓削、F新田部、G高市、H忍壁、I磯城 であったといわれている。このほかに天智天皇の皇子であるJ川島、K志貴 が宮廷にあった。

掲げた10皇子のうち政治の中枢に入れなかったのは、C長皇子、E弓削皇子、F新田部皇子、I磯城皇子である。

C長皇子とE弓削皇子の母は天智天皇の子の大江皇女である。持統天皇も天智天皇の子である。持統天皇は自分の子の@草壁皇子を皇太子にするために、姉の子であるA大津皇子を葬っている。 同様に天智天皇の子である大江皇女の子のC長皇子、E弓削皇子を警戒したに違いない。

近鉄電車の踏み切りをわたって北上する。

持統天皇を補佐したのは、皇位継承の序列が低いG高市皇子であった。次に政務を執ったのはH忍壁皇子(文武)であり、D穂積皇子(文武・元明)であった。C長皇子とE弓削皇子は、その母の身分が高かったがゆえに政治的に干されたのであろう。

B舎人皇子(元正・聖武)の母も天智天皇の子の新田部皇女であったが、政治の中枢に座ることができた。720年当時には、すでに持統はなく元明は退位していたうえ、10皇子のうち存命中なのはF新田部くらいであったからである。 天武朝は天皇や皇族が政治を執るのが基本姿勢であった。だが735年に舎人皇子が没した後は皇族が政治に参加することはなかった。

西峠に向かっている。この10年か20年の間に開発されたのだろう住宅地の中の道路を北上する。

左は鳥見山(734m)。その右が貝ケ平山(822m)、その右が香酔山(こうずい)。 おそらく人麻呂は10皇子らと接触があったはずで、特に歌に詠ったり、歌を捧げたりした忍壁皇子・長皇子・弓削皇子・新田部皇子とは結びつきが強かったのだろう。

父が天智天皇であったために政治的に不遇であったK志貴皇子(春日宮天皇)と、母が天智の娘であったC長皇子は仲がよかったのであろう。志貴皇子が(1-64)「葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ」と詠めば、長皇子が(1-65)「霰打つ 安良礼松原 住吉(すみのえ)の 弟日娘(おとひをとめ)と 見れど飽かぬも」と返している。

また長皇子が(1-84)「秋さらば 今も見るごと 妻恋ひに 鹿(か)鳴かむ山そ 高野原の上」と詠めば、志貴皇子が(8-1418)「石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも」と返して、息の合ったところを見せている。

このことは前回のNo.74「高円山と田原西陵」で言った。

宇陀市榛原町は高い位置にある。名張を近鉄電車に乗って桜井に向かうと、室生口大野を過ぎたあたりから明らかに電車が登っていることが判る。榛原を過ぎると今度は下り坂である。電車はゆっくりと沈むようにして坂を下る。

名張の山を雪がうっすらと白く覆った日に、榛原に行くと10cm以上も雪が積もっていたことがあった。名張と榛原とではかなりの標高差がある。


西峠に着いた。手前から奥に伸びる道路は国道165号線である。信号の標識としては次の信号に「西峠」とあったが、この辺りが昔は墨坂と呼ばれた土地である。

日本書紀によれば、神武東征の折、天皇は熊野から宇陀にやってきたものの、なかなかヤマト(磐余)に入ることができなかった。国見丘、磯城邑、葛城邑に八十梟帥(やそたける)がそれぞれにいて、行く手を阻んでいたからである。

国見丘の八十梟帥は女坂(めさか)に女軍を置き、男坂(おさか)に男軍を置き、墨坂では起こし炭を置いて防衛していた(炭をおこしてバリケードにしていたのか?)。 結局は神武軍は「墨坂」の兵を破り、No.67「桜井市・初瀬から忍阪」で訪ねた「忍坂(おさか)」で敵兵を破ってヤマト入りすることができたのだが、その墨坂がここである。

上図では西峠は平坦の地であるように見えるが、それは登り切ったところのほんの一部である。東(名張側)を見ると、車が坂道を登ってきているのが認められる。(次図)次の信号まで行って西(桜井側)を見ると延々と続く下り坂である。

この西峠に、先に訪ねた墨坂神社があった。崇神天皇が赤の盾を8枚、赤の矛(ほこ)を8本供えて墨坂の神を祀ったのは、神武東征のくだりにもあったように、ここが要害の地であったからである。

ついでにいうと、黒の盾を8枚、黒の矛(ほこ)を8本供えて大坂の神を祀った「大坂」は二上山の麓にある。

墨坂を詠った歌がある。題詞に『柿本人麻呂朝臣の妻の歌一首』として次の歌が掲げられている。



  君が家(いへ)に   我が住坂(すみさか)の
  家道(いへぢ)をも  我れは忘れじ
  命死なずは       (4-504)

あなたの家に私が住みたいと思う墨坂への道も(あなたも)、私は忘れない。命のある限り。といった意味か。だがこれだと人麻呂の家は墨坂にあったことになる。墨坂から飛鳥京や藤原京に出仕することはできないであろう。京から遠すぎる。

この題詞は間違いで、人麻呂の妻が歌ったのではなく、人麻呂自身が歌ったのではないかの意見もある。それだと、墨坂に住んでいるのは妻で、人麻呂がここへ通ったことになる。京からしばしば通うのは難しかろうが、たまになら妻の家に通えただろう。

西峠から西(桜井側)へ下る。向かっているのは春日宮天皇妃陵である。前回榛原に来たとき、鳥見山に登った。その帰り道に「春日宮天皇妃陵」の道標があったので、春日宮天皇妃を知らないままに寄り道をして訪ねた。ところがその道はほとんど手入れされていない獣道のような小道であった。

難渋してようやく辿りついた。同じ道を引き返すことは嫌であったので、別の道を下った。この道も途中までは細い山道であったが、途中から舗装された林道になって国道165線に出ることができた。そこが角柄(つのがわら)という地名であった。このとき西隣が吉隠(よなばり)であることも知った。

行きたいのは吉隠の里なのだが、春日宮天皇妃陵がすぐ近くにあるので、今日も寄り道をする。


穂積皇子も志貴皇子・長皇子と同じくなかなかよい歌を残している。4首あるが次の歌が最も有名である。


降る雪は、そんなに降らないでくれ
吉隠の猪養の岡が
寒いだろうから

題詞に『但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕(ひしやうりうてい)して作らす歌一首 』とあるので、但馬皇女(たじまのひめみこ)が吉隠の猪養の岡に葬られていることがわかる。雪よそんなに降るな。猪養の岡に眠っている但馬皇女が寒いだろうから。という悲しくも思いやりの深い歌である。

猪養の岡がどこだったのかは、今では不明であるが、春日宮天皇妃陵の近くではないかといわれている。


穂積皇子と但馬皇女は異母兄妹である。万葉集には先の穂積皇子の歌の少し前に但馬皇女の歌3首が掲げられている。

『但馬皇女、高市皇子の宮に在(いま)す時に、穂積皇子を思(しの)ひて作らす歌一首』

  秋の田の    穂向きの寄れる
  片寄りに     君に寄りなな
  言痛(こちた)くありとも    (2-114)但馬皇女

秋の田圃の稲穂がひとつ方向に片よっているように、あの方に寄り添いたい。どれほど噂されようとも。


見覚えのある地蔵があった。そうだ前回は春日宮天皇妃陵からここへ降りてきたのだ。

題詞からすると、但馬皇女は高市皇子と同居していたようである。「君に寄りたい」君とは穂積皇子のことである。つまりは密通である。

当時の高市皇子は、草壁皇子亡き後、孫の軽皇子の成長をひたすら願っている持統天皇を補佐する太政大臣である。大物である。高市皇子は幾人かの妃を持っていたようだが、そのうちの一人(しかも皇女)が、他の皇子と親密な関係になったのである。 噂は一気に広まっただろう。

持統天皇は二人を引き離したかったのか、穂積皇子を近江の崇福寺に勅使として送ることにした。「万葉集釈注」の伊藤博さんは、一時的な幽閉であったろうといわれている。


かつて下った山道を今日は登る。

『穂積皇子に勅(みことのり)して、近江の志賀の山寺に遣(つか)はす時に、但馬皇女の作らす歌一首』

  後(おく)れ居て   恋つつあらずは
  追ひ及(し)かむ   道の隈(くま)みに
  標結(しめゆ)へ我が背    (2-115)但馬皇女

あとに残されて恋焦がれていないで、追いかけて行こう。だから道の 曲がり角ごとに目印をつけておいて下さい。わたしの愛する人よ。むろん追いかけて行くことはかなわない。ついていきたい、追いかけたい、の思いである。

『但馬皇女、高市皇子の宮に在(いま)す時に、密かに穂積皇子に接(あ)ひ、事すでに形(あら)はれて作らす歌一首』

  人言(ひとごと)を   繁み言痛(こちた)み
  おのが世に       いまだ渡らぬ
  朝川渡る         (2-116)但馬皇女

人の噂がたいそううるさいので、わたしが生を受けて初めて、渡ったことのない川を夜明けに渡るのだ。

時間の順からすると(2-114)(2-116)(2-115)だろう。(2-114)ではまだ噂の段階であり、(2-116)によって恋が成就し、(2-115)で穂積皇子と切り離されたということか。


道はコンクリートで舗装された林道であるので、そう勾配はきつくない。10mほど先に子犬のようなものが右から左へ横切った。だが犬にしては少し太っている。あれっ、猪の子供ではないか。縞模様は暗くて見えないが「ウリボウ」だ。

写真を撮ろうとしたとき、親猪がもう一匹の子供を連れて現れた。むこうも驚いたのだろう。こちらを向いて立ちすくんだ。そのとき道の右側の山の斜面でザザーッという音がした。振り向くと、おそらく父親猪だろう。山の斜面を登って逃げようとしたらしい。だが昨日の雨で斜面は濡れている。猪がすべり落ちた音だった。父親猪は焦りながらも斜面をよじ登った。

正面に立ちじっとこちらを見ていた母親猪は、父親猪が逃げたのを見て、山の茂みに走って逃げた。2匹のウリボウも親のあとを追った。


やれやれである。子供を持つ動物は凶暴になるというから、もし突進してきたらどうしようかと思っていた。だが猪一家は逃げ去ったのではなかった。茂みの中に潜んで「ブフッ、ブフッ」と鳴いて、私を威嚇した。

長居は無用である。追いかけてくることはあるまいが、もしかのときに備えて、落ちてた杉の枝を拾って、振り回しながら歩く。 まあ猪はちょっとした田舎の山にならどこでもいるが、思いがけず猪に遭遇したので、ここら辺が「吉隠の猪養の岡」であったに違いないと妙な確信を得た。

696年に高市皇子が没した後、但馬皇女が穂積皇子と結ばれたのかどうかは不明であるが、705年から穂積皇子は文武・元明天皇を補佐する皇族のトップの地位にあったから但馬皇女を妃にしようと思えばできたはずである。

山道は雑草に覆われていて、葉にたまった露がズボンをぐっしょりと濡らす。

だがおそらくは、二人は結ばれなかったのではないか。

皇女は708年6月に亡くなった。先に掲げた穂積皇子の歌(2-203)はその年の冬に読まれたものであろうか。伊藤博さんは但馬皇女の没年を37〜8才ではないかと推定されている。 穂積皇子との噂が立ったのが皇女の20才ころとすれば、穂積皇子は17〜18年前に愛した皇女を想って詠ったことになる。

あるいは大伴坂上郎女は穂積皇子の晩年の妃(の一人)であったから、大伴氏が所有する吉隠の猪養の岡が会話の端にあがり、皇子はああそうだったと思い出して詠ったのかも知れない。そうなら708年よりのちの歌であることになる。

穂積皇子が皇族ナンバーワンの地位についてからだろうと思うが、宴席では次の歌をよく読み上げていたそうである。


家にあった櫃(ひつ)に鍵をかけて
しまっておいた恋の奴めが
つかみかかってきてなあ

『右の歌は一首は、穂積皇子の、宴飲(うたげ)の日に、酒たけなはなる時に、 好みてこの歌を誦(よ)みて、以ちてつねの賞(めで)としたまひき。』

こういう恋はしてはいけないと、櫃(ひつ)に閉じ込めて鍵さえしていたのに、恋の奴めがつかみかかってくる。これに逆らうことができずに皇女と関係をもったことの思い出か。あるいは不倫の恋心を抑えるのに苦しんだ思い出か。この歌はだいぶあとで作った歌だろう。但馬皇女と恋愛した青春時代を懐かしんでいる歌であるならば、やはり二人は結ばれなかったのだろうとシロートは思う。初恋は成就できないがゆえに、いつまでも思い出として残る。


ようやく「春日宮天皇妃陵」の道標があった。登山道には道標を多く立てて下さい。宇陀市の観光課の担当者さん。165号線の地蔵のところから2200歩、約1.2km登ったようである。登り初めは角柄(つのがわら)であったが、春日宮天皇妃陵は吉隠(よなばり)にある。

大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は穂積皇子のもとへ嫁いだのが初婚である。穂積皇子が亡くなった(715年7月)後は、藤原麻呂と恋愛し、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となって2人の娘を産むが、宿奈麻呂とも死別し、大伴一族の家政を取り仕切る立場になった。大伴旅人の異母妹、家持の叔母、稲公(いなきみ)の姉である。

おそらく大伴一族の家政を取り仕切るようになってからであろう、『大伴坂上郎女、跡見(とみ)の田庄(たどころ)にして作る歌二首 』として次の歌を詠んでいる(1首は省略)。



  吉隠(よなばり)の   猪養(いかひ)の山に
  伏す鹿の        妻呼ぶ声を
  聞くが羨(とも)しさ    (8-1561)坂上郎女

吉隠(よなばり)の猪養(いかひ)の山に住む鹿の妻を呼ぶ声を聞くのは羨ましいことだ。

「吉隠の猪養」とくれば、当時の人は穂積皇子の歌を思い浮かべたであろう。その吉隠の猪養の丘は郎女の弟の大伴稲公(いなぎみ)の土地である。坂上郎女はここを訪れて、穂積皇子のことを思い出したのだろうか。

御陵への石段は長い。勘定しながら登ると250段あった。


円墳のようである。直径30mというところか。

志貴皇子は皇子としては不遇な生涯を送り715年に没したが、709年に橡姫(とちひめ)との間に男子(白壁王)をもうけた。その子が770年に49代・光仁天皇として即位した。このとき志貴皇子は春日宮天皇と追号され、陵墓も手厚く守られることになる。これは前回のテクテクで言った。

橡姫は春日宮天皇妃となった。皇子や皇女であってもその墓は今ではほとんど不明である。但馬皇女の墓はどこにあるのかわからない。「二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)とわが見む」の大来(おおく)皇女の墓も不明である。

皇女でもなかった橡姫だが、春日宮天皇妃となったため、墓がこうして守られて残った。今は宮内庁が管理している。 

陵墓の前から南を望むと、木立の先にわずかに宇陀の山々が見える。御陵がある山は鳥見山の支峰であろう。鳥見山がしだいに低くなり、そこから再び盛り上がって小山となったその山頂に御陵がある。円墳の周りを一周してみたが、円墳は周りの地より高い位置にあった。

志貴皇子の墓は奈良市街から離れた田原にあった。奈良の中心から約10kmの距離である。これでも皇子の身でありながら、なぜこれほど遠くに埋葬されたのかと驚くほどだが、高円山裾に別荘があったから、その山の裏側の地に埋葬したといわれればまあ納得できる。

だがその妻の墓のありかはそれどころではない。平城宮から約30kmほど離れている。しかも後半10kmは登り坂であるから、平城京に住んでいたと思われる遺族が日帰りで墓参りできるところではない。

165号線まで下ってきた。

但馬皇女の墓の場所は不明だが、吉隠の猪養の丘に埋葬されたことは穂積皇子の(2-203)の歌から確かである。皇女が亡くなった708年当時、10皇子のうちで世代の近い皇子は、志貴皇子・長皇子・穂積皇子の3人であったかと思われる。

この3人がそれぞれによい歌を詠んでいることは、当時の皇族の知的レベルが非常に高かったことを証明している。おそらく誰かが詠んだ歌を、ほかの者がそれを批評しあったり、ああそんな視点からも詠めるなと啓発されたりしたことであろう。人はよきライバルがあればどんどん向上できる。

穂積皇子が詠んだ「吉隠の猪養の丘」の歌は秀歌である。おそらく橡姫は、志貴皇子の口から、このような優れた歌があると教えられたであろう。

「雪に言ってみても詮方ないことだが、せめて降る雪を少なくしてくれ。墓に眠る人が寒いだろうから」と、死後も思いやってくれる人が残っているのである。これは女性にとっては特に嬉しいことであろう。橡姫が死んだら吉隠の猪養の丘に埋葬されたいと願っても不思議ではない。

165号線を西に下る。角柄のバス停を過ぎたところだからまだ宇陀市である。165号線の右側は山である。耕作地はない。かろうじて左手にわずかの棚田がある。

左手の一番遠い山は音羽山であろう。

吉隠(よなばり)に入る。ここからは桜井市である。国道を離れて旧初瀬街道を歩くと小さい集落があった。ここが吉隠の中心であるようだ。

吉隠を詠った歌は万葉集に5首載っている。すでに掲げた穂積皇子の(2-203)と坂上郎女の(8-1561)の2首。残りの3首は巻10に載っているがどれも作者不詳である。

  わが門(かど)の   浅茅(あさぢ)色づく
  吉隠(よなばり)の  浪柴(なみしば)の野の
  黄葉(もみち)散るらし   (10-2190)

  わが屋戸(やど)の  浅茅(あさぢ)色づく
  吉隠(よなばり)の  夏身(なつみ)の上に
  時雨(しぐれ)降るらし  (10-2207)

吉隠のバス停を過ぎたところ。ご覧のように国道の右側は山で、左手に棚田が続いている。1枚の棚田は次第に広くなってきた。

上の2首はよく似ている。違うのは「浪柴(なみしば)の野の  黄葉(もみち)散るらし」と「夏身(なつみ)の上に  時雨(しぐれ)降るらし」で、どちらかを本歌として、地名と詠う対象(もみじ・しぐれ)を入れ替えただけのものである。

(10-2190)は、わが家の浅茅が色づいた。吉隠の浪柴の野のもみじは散っていることだろう。

(10-2207)は、わが家の浅茅が色づいた。吉隠の夏身にはしぐれが降っていることだろう。

吉隠の浪柴とか吉隠の夏身とか小さな地名を詠んでいるから、一度は吉隠を訪れたことがあるのだろうが、どちらも現地に立って詠ったものではない。 京にいて吉隠を思うのは、穂積皇子の(2-203)の歌の影響があったのだろう。

さらに進むと、田圃に降りる農道があったので棚田に下りてみた。あいかわらず国道の際まで山が迫っているが山は低くなった。丘の上に頭を出している青い山は初瀬の与喜山(よきさん)か。(与喜山は天神山とも呼ばれている)

吉隠(よなばり)ではないが、私が住む名張について長皇子(ながのみこ)が詠んだ歌がある。  


宵に逢って(共寝して) 次の朝には(恥ずかしくて)顔を隠す(という)
名張の地に、私の妻は長いあいだ
仮の廬を結んでいたのだなあ

なぜ妻が名張で仮の廬を結んでいたかだが、シロートが思うに2つの考え方がある。1つは妻がなんらかの行事(例えば大来皇女が天武天皇の菩提のために、名張に建立した昌福寺の落慶法要があったとか)で名張に行き、仮の廬で何泊かしたという考え、2つは夫が旅(例えば伊勢とか東国)に出ていて、出迎えのために名張で仮の廬を結び、夫の旅の無事を祈りながら待っていた、という考えである。 たぶん前者の理由だとは思うが、皇子の妃が何日も名張で宿泊しなければならないことがあったのかとなると、昌福寺(夏見廃寺)くらいしか思いつかない。

この歌の面白さは、長皇子が「名張」と聞いて、隠(なばる)→隠れる→顔を隠す→それは恥ずかしいから→宵に共寝したから、と連想し、歌にはこの逆の順序で名張を引き出していることにある。

宵に逢って翌朝恥ずかしくて顔を隠すのは廬を結んでいた妻ではないが、この歌が読み上げられたとき、恥ずかしくて袖で顔を隠すしとやかな女性をイメージし、その女性が仮の廬にいることを想像するのである。

巻向山(まきむく)が見えてきた。ここはもう初瀬であろう。

今日の目的は人麻呂が詠んだ猟路(かりぢ)の野と穂積皇子が詠った吉隠を見ることであったが、国道165号線沿いの吉隠には見るほどのものはなかった。

あとは近鉄長谷寺駅から名張に帰ることだが、まだ12:00である。榛原駅には8:10に着いたから4時間近く歩いた勘定になるが、4時間分の見物をしたとは言いがたい。不完全燃焼である。

こういうこともあろうかと思って、今日のコースを地図で検討した際に、まだ訪ねたことがない化粧坂(けわいさか)をチェックしていた。「十一面観音巡礼」(白洲正子)によれば、その坂を上ると斎宮跡といわれる場所があるそうである。

化粧坂は長谷寺の門前にある天満宮下から始まり、与喜山から伸びた低い尾根の峠で終わる。この峠に斎宮跡があるらしい。峠を下ると与喜浦に出て来る。

与喜浦の集落が見えた。詳細な地図にあるとおり、集落の中に通じる道がある。今日は与喜浦から峠を越えて化粧坂を下るという白洲さんとは逆のコースをとる。

崇神天皇は、豊鍬入姫(とよすきいりひめ)を斎主として天照大神を檜原神社に祀ったことは先に言った。次の11代・垂仁天皇は豊鍬入姫に代えて倭姫(やまとひめ)を斎王として磯城の神木(厳橿・いつかし)の本に祭ったが、その後、倭姫は「伊勢の国にいたい」という天照大神の神示を得たので、伊勢に天照大神を遷座した。そういったことが日本書紀に書いてある。


もし化粧坂の上に斎宮跡があれば、それが元伊勢ということになる。

与喜浦で男性が家の前に出ていたので、長谷寺への近道はありませんかと訊ねると、「ある。その坂道を登ると、あの家の前に出る。その家の裏にも道があるので、それを上ればいい」ということだった。ついでに「斎宮跡がありますか?」と訊いたが知らなかった。男性は家に入って家人に尋ねてくれたが誰も知らなかった。

なにしろ倭姫は厳橿の下にある斎宮に約8年間いたし、大来皇女が天武天皇の命を受けて伊勢神宮の斎王になる前の1年半を過ごしたのも初瀬にあった斎宮である。同じ場所ではなかろうが、どちらかの跡のカケラが残っていればラッキーである。だが土地の人が知らないのでは期待できまい。


山道を登りだしたが、あっけないほどすぐに峠に着いた。峠には小さい祠があり、その横に名前は知らないが岩磐にまたがって根を張った木が生えている。この木が厳橿(いつかし)であろうか。

それにしてもこの場所は狭い。建物が建てられる広さではない。(落胆してカメラを向けたので、写真がブレている)

祠のやや下に竹やぶがあった。そこは20坪ほどの広さの平坦な地であるから、祭祀場くらいなら作ることができたかも知れないが、神社を建てることは無理である。ましてや斎王が起居する建物もいるから、この場所を斎宮跡とすることは無理であろう。

ひょっとしたらまだ山の奥に道があるのかとも思ったが、峠を越えて下り始めたところに「化粧坂(けはいざか)」の道標が立っていた。この道でよかったのだ。

化粧坂は鎌倉にもある。たぶんこの名は地方から鎌倉に上京してきたとき、都に入る前に汗をぬぐい、顔を拭き、女性であれば化粧をした坂だったからつけられたのだろう。

ここの化粧坂は、白洲さんは倭姫が化粧をしたという言い伝えがあるといわれているが、そうではあるまい。東国(伊賀・伊勢・美濃・尾張など)から長谷詣でにやってきた旅人が、長谷寺に向かう前に身だしなみを整えた坂であったからであろう。長谷詣が盛んになった平安期以降に名づけられたのではないか。

化粧坂から長谷寺が見えた。

よい眺めである。山裾に仁王門、山の中腹に本堂、その左には同じ高さで五重塔が見える。五重塔の左下にある建物は、春には牡丹が咲きそろう本坊であろう。

長谷寺には何度か参っているので、今日は行く気はなかったが、堂々とした本堂の甍を見ていると気が変わった。


化粧坂を下り切ると橋がかかっていた。橋の名は天神橋、川は初瀬川である。No.67「桜井市・初瀬から忍阪」で、初瀬川を詠った次の歌を掲げたが、これは紀鹿人(きのかひと)が、跡見(榛原)にある大伴稲公(おおとものいなきみ)の荘園を訪ね、その帰りに初瀬川を見て、川をほめた歌である。

  石走(いはばし)り     たぎち流るる
  泊瀬川(はつせがは)   絶ゆることなく
  またも来て見む       (6-991 ) 紀朝臣鹿人

泊瀬川を入れ替えるとどの川でも褒め上げられる便利な歌である。「吉野川」でも「名張川」でも「宇陀の川」でもよい。それだけに初見したときはたいした歌ではない印象を持ったが、旅先では現地の山・川・風景を褒め称えるのが古代の礼儀であることを知ると、これでよいのだと思う。

登廊(のぼりろう)を登って本堂へ。低い石段を登っているあいだじゅう、長谷寺についての案内の放送が流れているから、登廊を登り切ったときには長谷寺についての知識が持てるようになっている。ただしすぐに忘れる。

本堂に到着。予定していなかった長谷寺詣でとなったのは、化粧坂から見た本堂の容姿が異形に思えたからである。建物は複雑である。本堂は基本は入母屋造であるが、納める十一面観音の背丈が高いために、入母屋の上にさらに屋根を置き、高い空間を確保している。よって二層の建物に見えるが実は一層(1階建て)である。

一層目の屋根の上に乗る(二層目と見える)屋根は妻(屋根の△)の方向が下層の妻の方向とは90度違っている。つまり棟(むね・屋根のてっぺんの水平な部分)の方向が十字型になっているのである。これが本堂を複雑に見せている。

本堂には十一面観音が安置されている。身の丈が3丈3尺(10m)。これに光背がつき、大岩盤の上に立っているというから、12〜13mほどの高さの観音を見上げることになる。

十一面観音の多くは、左手に蓮華を挿した瓶(びょう)を持ち、右手を垂れて掌を正面に向け(施無畏印という)ているが、長谷寺のこの観音は右手に錫杖(しゃくじょう)を持っている。

錫杖を持つのは地蔵菩薩である。地蔵は杖をつきながらどのようなところへでも出向いていくからである。長谷寺の観音は地蔵のようにどこへでも現れ、救いの手を差し延べるありがたい観音であるということか。

本堂の前に礼堂(らいどう)がある。板張りの間である。大きな法要があるときに使われるのだろう。

本堂と礼堂は別々の建物であるが、屋根は繋がっている。上の本堂の写真の二重になった屋根の左の下に、一重目の瓦の一部が丸瓦でなく平瓦になっているのが見とめられる(縦に筋を引いているところ)。ここが本堂と礼堂の継ぎ目である。2つの建物(堂)を繋いだものを双堂(ならびどう)という。

もともと本堂と礼堂は別の棟であるから、建物と建物の間は空いている。この空間が拝観する場所である。観光客は礼堂と本堂の間にある土間を歩き、本堂の正面に行って十一面観音を仰ぎ見るのである。

礼堂の前には舞台がせり出している。清水寺と同じく懸(かけ)造りである。 東に見える山は与喜山(455m)。この山は往古は特別な山であった。日本書紀に雄略天皇が詠った次の歌が掲げられている(雄略6年2月4日の日付まである)。

  隠国(こもりく)の    泊瀬(はつせ)の山は
  出(い)で立ちの    よろしき山
  走(わし)り出の    よろしき山の
  隠国(こもりく)の    泊瀬(はつせ)の山は
  あやにうら麓(ぐは)し あやにうら麓(ぐは)し

「出(い)で立ちの よろしき山  走(わし)り出の よろしき山の」はNo.67「桜井市・初瀬から忍阪」で掲げた忍坂の山の歌とほぼ同じである。与喜山の名は「よろしき山」からきたのであろう。

山をほめる古い民謡があって、これを雄略天皇の歌としたようであるが、どの山についても褒めるわけではない。古代、与喜山は天照大神の神体山であると考えられていたそうである。

「飛鳥大和・美の巡礼」(栗田勇)の「はつせ・こもりく」の章によれば、天照大神が与喜山が発する光を見て、手力男命(たぢからおのみこと)に、「この山は私の山である。お前は永くこの地に居るがよい。後に下人が訪ねてきてこの山を開くであろう。そのときは力を合わせて国を治めよ。」こういうことを命じたので、手力男命はここに住みついた。長谷山口坐神社がその場所である。

「後に下人が訪ねてきてこの山を開く」というのは、天武期(686年)に道明上人が長谷寺を開き、聖武期(727年)に徳道上人が十一面観音を祀ったことをさす。

写真は長谷山口坐神社を見て帰る途中で撮ったもの。神社の立地がよくわかるので先に掲げる。

長谷山口坐神社は与喜山から伸びた低い尾根の先っぽの丘の上にある。左端の山が与喜山で、中央の丘の上に長谷山口坐神社が建つ。 写真では川筋は1本になっているが、丘の両側に川があって、丘の下で合流している。丘の左の赤い橋(神川橋)を流れているのが初瀬川。丘の右側を流れてきたのが吉隠川である。

山口神社は山を祀る神社である。名前のごとく山の入り口にあることが多い。与喜山は大泊瀬と呼ばれ、長谷寺が建っている山は小泊瀬と呼ばれているから、長谷山口坐神社が祀る山は与喜山であろう。写真を見れば、天照大神(与喜山)に従う手力男命(長谷山口坐神社)という関係がよくわかる。

栗田さんは、隠国(こもりく)という名は天照大神が天の岩屋戸に隠れた伝説を暗示していると言われている。すでに手力男命は出てきた。天の岩屋戸神話に必要なもう一人は天宇受売命(あめのうずめ)である。

これについては、長谷寺には舞台があって芸能との関係が深い。例えば能の観世流の観世は長谷寺の観音からつけた名である。その芸能の始まりは天宇受売命(あめのうずめ)である、といわれる。ここで天の岩戸神話の出演者がそろった。天の岩戸神話は有名である。古事記は次のように伝えている。

須左之男命の乱暴なふるまいに怒った天照大神が天の岩屋に隠れると天高原も葦原の中つ国も暗闇となった。八百万の神は天安河に集まり善後策を相談した。

天宇受売命は天の香具山のヒカゲ葛を襷にかけ、マサキの葛を髪に捲き、笹を束ねて手に持ち、天の岩屋の前に桶を伏せてこの上に乗って踏み鳴らしながら踊った。 踊りに没頭するとエクスタシーに陥る。天宇受売命は衣から胸乳を掻きだし、裳の紐を陰部までずり下げた。八百万の神々はどっと笑った。

天照大神は岩戸を少し開けて、「世界は暗闇になっているはずなのに、なぜ天宇受売は楽(あそ)びをし、神々は笑っているのか?」と訊いた。

天宇受売命は「あなた様にまして貴い神がおいでになるので、皆が喜び、笑い、楽(あそ)んでいるのです。」と答えた。このとき天児屋命(あめのこやね)と布刀玉命(ふとだま)が岩戸の前に鏡を差し出した。

鏡には天照大神の顔が映っていたのだろう。天照大神がよくよく見ようと戸を開いたときに、戸の横に潜んでいた手力男命が天照大神の手を取って岩屋から引き出した。すぐに布刀玉命は岩戸に注連縄を張って、天照大神が再び岩屋に戻れないようにした。

古事記はいう。『かれ、天照大神出でましし時、天高原も葦原中国も自(おのづか)ら照り明りき。』

赤い橋を渡ったところに石碑があって、「元伊勢・磯城伊豆加志(厳橿)本宮伝承地域」とある。「伝承地域」なのだから長谷山口坐神社を厳橿宮の跡であると特定しているのではない。「元伊勢」は与喜山の山裾か長谷寺のある小初瀬のどこかにあったのである。

そこで思い出すのはNo.73「二上山と當麻寺」で二上山の雌岳山頂に登ったときにあった「北緯34度32分の線上に並ぶ古代の祭祀遺跡」の地図である。この線上にある遺跡や山の北緯を国土地理院の2万5千分の1の地図で調べてみた。
  1. 伊勢神宮内宮(34度27分18秒)
  2. 斎宮跡 (34度32分26秒)
  3. 室生寺 (34度32分16秒)
  4. 春日宮妃陵 (34度32分21秒)
  5. 与喜山 (34度32分21秒)
  6. 長谷寺 (34度32分 9秒)
  7. 巻向山 (34度32分30秒)
  8. 三輪山 (34度32分 6秒)
  9. 檜原神社 (34度32分18秒)
  10. 箸墓    (34度32分21秒)
  11. 二上山雄岳 (34度31分33秒)
  12. 大鳥神社 (34度32分11秒)
伊勢神宮(内宮)を除いて、どれも北緯34度32分に近い位置にある。 山は自然が作ったものだから、この位置は人間がどうこうすることはできない。人間が特定の山を規準にして同じ緯度上に神社や墓を作ったのである。 ではどの山を規準にしたかであるが、それは与喜山(34度32分21秒)だろう。ピッタリ同じ緯度のものがある。C春日宮妃陵とI箸墓である。

地球の円周を40000kmとすると、1度の距離は111.11km、1分は1850m、1秒は30.8mとなる。緯度が10秒違うと308mの差があることになる。これは赤道上での距離である。北緯34度のあたりの円周は赤道の0.829倍(cos(34度)=0.829)になるので、1度のズレは92.11km、1分は1533m、1秒のズレは25.5mとなるはずだ。

ピッタリのC春日宮妃陵とI箸墓に、ズレが±5秒以内(誤差が127.5m以内)のものを追加すると、A斎宮跡、B室生寺、H檜原神社の5つが与喜山と同じ緯度上にある。

±5秒の違いまでを同一の緯度上にあるものとすると、 G三輪山と同じ緯度にあるのはE長谷寺とK大鳥神社の2つであり、F巻向山と同じ緯度にあるのはA斎宮跡だけ、J二上山と同じ緯度にあるものはない。また@伊勢神宮(内宮)の緯度と同じものもない。明らかに与喜山が規準になっている。

この5つに共通するのは、全部女性に関係するということである。まずD与喜山は天照大神の神体山であり、H檜原神社は初めに天照大神を祀った神社であり、I箸墓は大物主の妻であった倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の陵墓である。A斎宮跡は天皇の名代として伊勢神宮に仕える斎王が住む宮の跡であり、B室生寺は女人高野であり、C春日宮天皇妃陵は橡姫の陵墓である。

特にH檜原神社とA斎宮跡は、天照大神を祀り仕える斎主(斎王)がいた場所である。ここが重要なところであろう。

天武天皇が即位したのは673年2月27日である。天武が即位してまず行ったことは、壬申の乱における論功行賞であるが、次にしたことは伊勢神宮へ初めて斎王を遣わしたことである。天照大神を天皇家の守護神としたのである。

即位の日からわずか1か月半の後に、日本書紀は次のような記述をしている。『春4月14日、大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここはまず身を潔め、次第に神に近づくためのところである』

今日のテクテクを終わる。帰ろう。

天武3年(674年)に『冬10月9日、大来皇女は泊瀬の斎宮から伊勢神宮に移られた』と書紀は伝えるから、大来皇女は1年数か月を初瀬で過ごしたわけである。おそらくこの期間中に天武は伊勢神宮の拡張や整備をし、伊勢に斎宮を建てたのだろう。

なぜ大来皇女が初瀬で斎戒沐浴せねばならなかったのか。それは当時、三輪山(467m)が大物主命であったように、与喜山(455m)は天照大神であると考えられていたからであろう。

倭姫が8年間居たという厳橿の下にあった斎宮や大来皇女が天武天皇の命を受けて伊勢神宮の斎王になる前の1年半を過ごした斎宮は与喜山と同じ緯度、すなわち与喜山山頂が真東に見える場所で、初瀬川に近いところにあったのではないか? それに該当する場所は、長谷寺より北方370mのところにある長谷川上町であろう。

近鉄長谷寺駅は初瀬川から100mくらい高いところにある。坂道をだらだらと登る。振り返ると奥に初瀬山が見える。その左は巻向山(弓月が岳)。長谷寺が建つ小初瀬は右側手前にある黄緑色の山の向こう側である。 与喜山はその山のもっと右側にある。

与喜山と同じ緯度にある5つの遺跡の中で最も古い遺跡は箸墓である。箸墓は卑弥呼の墓ではないかとも言われている。

そうなら倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が卑弥呼であることになるのだが、この箸墓が与喜山とピッタリ同じ緯度にあるのは、もともと卑弥呼ないしはその祖先のふるさとが初瀬であったからではないか。

初瀬においては与喜山が最も神聖な山であったから、卑弥呼が死んだとき与喜山が真東に見える場所に箸墓を作ったのではないか。のちに天皇家が天照大神を祀るようになったとき、神聖な与喜山が天照大神であるという変移があったのではないか。

左手前の深緑色の山のバックにある黄緑色の山が与喜山。その右の緑色と黄緑色がまだらになった山および山裾が吉隠(よなばり)。その奥の丸い山頂を持つ青色の山が榛原にある鳥見山。

こうして見ると、与喜山と吉隠の山は繋がっている。但馬皇女や橡姫(春日宮天皇妃)が吉隠の山に葬られたのは、天照大神の神体山である与喜山に繋がっているからかも知れない。

吉隠の山に葬られた橡姫は、770年に追号されて春日宮天皇妃となったとき、与喜山と同じ緯度である現在の場所に改葬されたのではないか、とシロートは勝手に空想するのである。

今日の万歩計は26600歩だった。


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