高円山と田原西陵

    No.74.....2009年8月29日(土曜)


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万葉集に、志貴皇子(しきのみこ)が作った歌が6首ある。(1-51)、(1-64)、(3-267)、(4-513)、(8-1418)、(8-1466)だが、どれもよい歌で、「万葉秀歌」(斎藤茂吉)ではこの6首すべてを優れた歌であるとして取り上げ誉めている。 今日は、志貴皇子にゆかりのある場所を訪ねた。

奈良時代は、小野老が詠った 「あをによし 寧楽(なら)のみやこは 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」(3-328) から連想すると、華やいだ活力ある時代であったかに思われるが、実は政治は安定せず、何度も謀反が起きかけている。迷走する「天平の甍」であった。

西大寺駅を出るとすぐに平城宮跡に入る。2010年は平城遷都1300年だが、これを目指して大極殿が復元されている。電車から眺めると、それまで覆われていた工事用の外壁が半分ほど取り壊されて、大極殿の半分が姿を現していた。 

次のようなコースを辿った。
  1. 徳融寺・誕生寺・高林寺
  2. 崇道天皇社
  3. 新薬師寺
  4. 白毫寺(びゃくごうじ)
  5. 田原西陵(春日宮天皇陵)
  6. 飛火野












(次図)近鉄奈良駅前広場。行基像が立つが、今日はやけに人出が多い。


志貴皇子は天智天皇の第7皇子である。生年は不明だが、「万葉集釈注」の伊藤博さんは659年くらいだろうと推定されている。壬申の乱が起きた672年当時は14才であったことになる。

679年、天武天皇と鵜野皇后は、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子を伴って吉野宮に行き、後継争いをすることなく、協力しあって天武朝を支えていくことを約束させた。いわゆる吉野の6皇子の盟約である。

この6皇子のうちで最も長生きしたのが志貴皇子である。没年の早い順に掲げると、@大津皇子(686年)、A草壁皇子(689年)、B川島皇子(691年)、C高市皇子(696年)、D忍壁皇子(705年)、E志貴皇子(715年)となる。


東向商店街を三条通りまで下ると、出口西側角に長野宇平治が設計した南都銀行がある。


志貴皇子は天智天皇の子であるから、天武朝においてはたいした役職につけていない。持統3年(689年)に撰善言司(せんぜんげんし)という役所の長官に就いているが、それは大津皇子が死を賜り、皇太子草壁皇子が亡くなった後のことである。皇子らが減ったために志貴皇子が役職に就けたといった感じである。

この役所は、よき歌・言い伝え・物語などを収集するのが役目である。現在でいえば文化庁長官ということか。政治的にはなんらの影響力も持たない役所であった。

だがこの役職は志貴皇子にとっては大きなプラスになっただろう。撰善言司時代に学んだことが教養となって、6首の秀歌を生み出したのではないかと思うのである。



東向商店街を通り抜けると、はす向かいに「もちいどの通り」が南に向かって伸びている。「もちいどの通り」は餅飯殿町を通る商店街である。東向商店街に比べると下町風の商店が並んでいる。


いまでは道幅のせまい通りであるが、おそらく平城京時代には、外京の東六坊大路であったはずである(次図)。

平城京における位置(場所)は「×条○坊」で表す。例えば興福寺は南北は二条大路と三条大路の間、東西は東六坊大路と東七坊大路の間にあるので、興福寺は三条東七坊にあるという(数字の大きいほうを採用する)。

大路で四方を囲まれた1区画を1坊(面積の単位)という。1坊は530m×530mの広さである。大変広い。1坊には東西・南北にそれぞれ3本の小路が走っているので、16区画に分けられていた。1つ(1坊の1/16)の区画を1坪という。1坪の広さは125m×125mであるので、これでも大変に広い。



図の長屋王(高市皇子の子)の屋敷は4坪分あるので250m×250mの面積である。よほどの身分でない限り、4坪分の広さの屋敷は持てない。

藤原不比等は、元明天皇を補佐して平城京を作った本人であるが、その屋敷は法華寺とその北にある海龍王寺の場所にあった。12坪(3/4坊)という広大な屋敷であったらしい。

中将姫の父親である藤原豊成(とよなり)の屋敷は、図のa,b,c のいずれかにあったようである。

豊成は藤原4家の筆頭である南家の当主である。弟の藤原仲麻呂の屋敷は図の黄色の場所にあって、8坪の広さであったから、豊成の屋敷も8坪、最低でも4坪の広さであったと思われる。

中将姫はそこを抜け出して、当麻寺に行き出家したことは前回の「二上山と當麻寺」のテクテクで言った。




「もちいどの」の商店街が尽き、店舗が少なくなる。 シロートが推測していることだから、アテにはならないが、たぶん次の信号機のある左右の道が昔の四条大路ではなかろうか。

仏具屋があった。店先にピカチュウの提灯が展示されている。仏具屋で売っている提灯だから、お祭り用のものではなかろう。奈良の風習は知らないが、お盆とか地蔵盆とかに飾るのだろうか。

地蔵盆に飾るのであればよいが、初盆に飾るのであれば、幼い子が亡くなったわけで、これはせつない。

なおドラエモンの提灯もあった。

鳴川町の表示がある古い家並みの先は少し下り坂になり、再び上り坂になっている。上の地図の(b)の辺りである。

低地からやや上ったところに徳融寺がある。境内には藤原豊成・中将姫の墓がある。2004年1月に奈良町を巡っているときに、道に迷い、偶然にこの寺を見つけた。

門前に立つ案内板によると、寺はもと元興寺の境内にあって、別時念仏の道場であったが、室町期の土一揆によって元興寺が罹災したために、この場所に移った、とある。

また、『平城京の外京の六坊大路にあたり、藤原不比等の孫、右大臣・横佩(よこはき)豊成の宅跡とされる。』ともある。

これを信じると、藤原豊成の屋敷は低地にあったことになるが、4坪の広さとしても250m×250m、藤原仲麻呂と同じ8坪とするならば530m×250mの広さであるから、この低地が含まれていても不思議ではない。低地は苑池になっていたのかも知れない。


右の石塔が豊成の墓とされている。左は四方石仏で、正面は薬師如来、右回りに釈迦、阿弥陀、弥勒が彫られている。鎌倉中期の作であると、説明があった。

中将姫の石塔は木が茂ったところにあって、写真には写っていない。

徳融寺は融通念仏宗の寺であった。寺門の前に石灯篭があって、「豊成山徳融寺」と彫られていた。徳融寺の「融」は融通念仏のそれであった。

徳融寺のはす向かいに誕生寺がある。ここで中将姫が生まれたと伝えられている。

誕生寺から少し東に行くと、中将姫が修行をしたという高林寺もある。この辺一帯は中将姫ゆかりの寺が集まっている。

志貴皇子のことである。志貴は成人してから、天武・持統・文武・元明の4天皇の時代を生き、715年に亡くなるのだが、この間に都が3つ変っている。

天武・持統期は飛鳥浄御原(672年〜694年)に都があり、ここで22年を過ごした。次に持統期(694年)に藤原京に遷都し、710年までの16年間、持統・文武・元明天皇に仕えた。709年には橡姫(とちひめ)との間に男子(白壁王)をもうけている。ついで元明期(710年)に平城京遷都があり、皇子は奈良に在って5年目の715年に亡くなった。壬申の乱のとき、志貴皇子が14才であったとすれば、没年57才であったことになる。この直後に元正天皇が即位している。

崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)が見えた。

皇子が住んだところは、幼少のころ飛鳥で9年間、近江京で5年、飛鳥京に22年間、藤原京に16年間、平城京に5年間であるから、飛鳥京・藤原京に最も愛着を持っていたはずである。

志貴皇子が亡くなってから歴代の天皇は、44代・元正(女帝)→45代・聖武→46代・孝謙(女帝)→47代・淳仁→48代・称徳(女帝)と変ったが、48代目でついに天武の皇統は途絶えた。

49代・光仁天皇として即位したのは、志貴皇子が晩年にもうけた白壁王であった。770年のことである。生年が709年だから、62才で即位したわけである。奈良時代はこの光仁天皇をもって終焉する。


光仁の子が第50代・桓武天皇である。この後、桓武の第1皇子が51代・平城天皇となり、第2皇子が52代・嵯峨天皇になり、第3皇子が53代・淳和天皇となって、志貴皇子の血統(ということは天智天皇の皇統)が現在の天皇まで続くことになる。

第50代・桓武天皇が即位したとき、同母弟の早良(さわら)親王を皇太子としていた。 桓武天皇は784年に平城京から長岡京へ遷都するのだが、遷都の翌年、都の造営を担当していた藤原種継が暗殺されるという事件が発生する。すぐに大伴の一族が計画していたと判明した。大伴家持は事件の20日前に死んでいたが、天皇は家持の官位(従三位)を剥奪するなど大伴一族を厳罰に処した。

その一味の中に早良皇太子の側近の者がいたことから、皇太子も疑われ、皇太子を廃された。早良親王は幽閉中に無実を訴え続け、絶食し、衰弱して死んだ。


そのときから桓武天皇の身のまわりでは忌まわしい出来事が多発する。陰陽師は早良親王の祟りであると告げた。天皇は怨霊に怯え、長岡京を捨てて794年に平安京に遷都する。

それでも早良親王の祟りから逃れることはできなかった。800年、天皇は早良親王に崇道天皇を追号し、霊を祀り、大伴一族の名誉を回復するなどするのである。怨霊の祟りを鎮めるために造られたのがこの崇道天皇社である。 本殿は重文であるそうだが、拝殿や玉垣で遮られていて見えない。

この崇道天皇社は、桓武の子の平城天皇のときに祀られたそうである。 また桓武天皇の死後、天皇の遺詔によって大伴家持の官位は復された。


奈良市東部の山の地図を掲げる。山の名前はだいぶ混乱して使われている。例えば、東大寺の東にある若草山は、三笠山とも呼ばれている。また地図では春日大社のすぐ東の小山を春日山(297m)としているが、別の地図では御蓋山(みかさやま)となっている。花山(498m)を春日山と呼ぶこともある。

つまり若草山→三笠山、御蓋山→春日山、花山→春日山と呼称が混乱しているので、「昨日ミカサ山に登ってきた」といわれても、若草山なのか御蓋山(地図では春日山)なのかわからないことになる。

万葉の時代は、若草山・御蓋山(地図では春日山)・花山をまとめて春日山と呼んでいたらしい。万葉集で詠まれているのは、春日山・春日野・御蓋山であり、若草山という山名を詠ったものはない。

そこで、ここでは山塊全体を春日山と呼び、春日山のうちで最高峰の山を花山とする。また春日大社の背後の小山を御蓋山と呼ぶことにする。

春日山の南隣にあるのが高円山(432m)である。2つの山の間には能登川が流れている。高円山は今では「タカマド」と濁音で言われているが、万葉の時代には「タカマト」と清音で呼ばれていた。

2つの山にこだわるのは、志貴皇子の屋敷がこの2つの山裾にあったからである。

崇道天皇社から東に向かうと、山が2つ見える。道路の右側の山が高円山、左が春日山(最高峰が花山)。写真は紀寺交差点の陸橋から撮った。

49代・光仁天皇が即位したことによって志貴皇子は天皇の父親となった。そこで志貴皇子は春日宮天皇と追尊された。文武天皇の父親の草壁皇子に岡宮天皇の尊号が追贈されたのと同じである。

春日宮というのだから生前の屋敷(宮)は春日山の山裾にあったのであろうが、その場所は不明である。

皇子は高円山麓に別荘(離宮)を持っていた。皇子の死後、別荘は白毫寺になった。

木立が邪魔をして高円山の全体が見えないので、奈良教育大の校内からなら見通しがよいかと校門を入ってみたが、逆にキャンパスの木々で見えなかった。

万葉集20巻のうちで中核となるのは巻1と巻2である。巻1は雑歌(ぞうか)で、行幸・遷都など宮廷に関する公的な性質を持つ歌が収められている。巻2には相聞歌と挽歌が収められていて、巻1と巻2でワンセットとなっている。

巻1には、1〜84の歌があるが、詠まれた時代を分類すると、1〜21が壬申の乱より前の時代の歌、22〜50が飛鳥京時代の歌、51〜75が藤原京時代の歌、76〜84が平城京に遷った直後の歌、である。

藤原京時代の最初の歌の51は志貴皇子が詠んでいる。

明日香宮より藤原宮に遷(うつ)りし後に、志貴皇子の作りませる御歌

采女の袖をはたはたと吹き返していた
明日香の風だが、都が遠くなった今では
むなしく吹くばかりである。

各国・各郡の次官以上の子女のうちで、特に容姿が優れている者を天皇に献上せよという決まりがあった。それが采女である。美人である。高松塚古墳に描かれているような衣装をまとっていたのであろう。飛鳥に都があったときは大勢の采女たちの袖をひらひらと吹き返していた風なのに、いまや采女たちは飛鳥を去って藤原京に移っていってしまった。


694年、持統天皇は藤原京に遷都し、天皇・皇族・百官・舎人たちはこぞって飛鳥から藤原に移った。

皇子は、壬申の乱以後、飛鳥浄御原京(672年〜694年)に22年間暮らしていたのである。少しあとに故郷を懐かしんで飛鳥に足を伸ばしたのであろう。だがそこには人影はなく、風が空しく吹いているばかりであった。

奈良教育大学の塀にそって北に歩を取る。新薬師寺に向かっている。

持統天皇は697年に文武天皇に譲位し、702年に亡くなる。706年、文武天皇は難波に行幸するが、志貴皇子はこれに随行し、次の歌を詠っている。秀歌である。


葦辺に浮かぶ鴨の羽に
霜が降りている。このように寒さが身に滲みる夕べは
故郷の大和が思われてならない。

「夕」とは昼の終りであり、「夕べ」とは夜の始まりである。当時は、男は夕べになると妻のもとへ出かけていって夜を共に過ごし、アカトキに帰っていったのである。「夕」ではなく「夕べ」というときは妻のことを考えているのである。

月が青白く光っている。枯れた葦の下に浮かぶ鴨の背中に霜が降りているではないか。寒いはずである。この寒い夕べには、大和のこと(妻のこと)が思われてならない、ということだろう。

新薬師寺を目指して東上する。向うの山は春日山。

高円山が見えた。手前に広がっている緑色の山裾のあたりに白毫寺があるのだろう。

天武天皇の子の長皇子(ながのみこ)も志貴皇子と同じく難波行幸に随行しており、次の歌を詠んでいる。

  霰(あられ)打つ   安良礼(あられ)松原

  住吉(すみのえ)の  弟日娘(おとひをとめ)と

  見れど飽かぬも     (1-65)

あられが降っている安良礼の松原を、住吉の弟日娘と一緒にながめると、いつまでも見飽きることがない。

この歌は、志貴皇子と長皇子が宴に同席して詠んだものであろう。志貴皇子がふるさとの大和とそこに残る妻を詠い、長皇子は現地の住吉と饗応役として仕えただろう弟日娘を詠っている。また志貴皇子が霜を詠うと、長皇子は霰を詠っている。(1-64)は望郷の歌であり、(1-65)は異郷のよさを詠うものである。この2首で旅の歌が完成する。


志貴皇子と長皇子の歌はワンセットになっている。そういう例は巻1の「雑歌」の最後の歌にもある。雑歌の最後の歌(1-84)は、長皇子の歌であるが、詞書きに『寧楽(なら)の宮 長皇子、志貴皇子と佐紀の宮にしてともに宴する歌』とあって、次の歌が載っている。


秋になったら 我々が今見ている(絵の)ように
妻恋いをして鹿が鳴く山ですよ
あの高の原の上は

続いて『右の一首は長皇子』とあって、巻1の雑歌の部は終わるのである。しかし、前書きに『寧楽(なら)の宮 長皇子、志貴皇子と佐紀の宮にしてともに宴する歌』とあるのだから、この後に志貴皇子の歌があって当然である。また当初から長皇子の歌だけを載せるのであれば、後書きの『右の一首は長皇子』は不要である。

万葉集は筆写されて、各種の校本が残っているのだが、例えば「紀州本」や「元暦校本」には、この歌の次に『志貴皇子御歌』の詞書きがある(歌は載っていない)そうである。「万葉集釈注」の伊藤博さんは、やはり(1-84)の次には志貴皇子の歌があったに違いない、その歌は次に掲げる(8-1418)ではないかと提起されている(異論もある)。


岩にぶつかって水しぶきをあげている小滝の上に
蕨が芽を出している
ああ、春がやってきた

この歌があれば、(1-84)とワンセットで収まりがつくことになる。長皇子は「秋」と「山」と「鹿(動物)」を詠い、志貴皇子は「春」と「滝(川)」と「蕨(植物)」を詠って、合わせて春秋・山川・動植物を詠うことになるのである。

伊藤博さんの考えは正しいと思う。ではなぜ志貴皇子の歌が漏れたのか?である。(8-1418)の「萌えいづる春」の歌は、巻8の最初の歌である。巻8は49代・光仁天皇の時代に編集されたと考えられている。志貴皇子は光仁天皇の父親であるから、巻8の巻頭にこの歌が置かれたのは当然だろう。つまり巻1の最後にあった歌を移したために、(1-84)の次にあった歌が消されたと考えるのである。

もし(8-1418)が巻1の最後の歌であったとすれば、志貴皇子は(1-51)で藤原京遷都の直後に詠んだ歌、(8-1418)で平城京に遷都した直後の歌と、都が代わる重要な節目で2つの歌を詠んでいることになる。万葉集は古い家に次々に増築していったように何度も編集されているが、その時期時期の編者は、誰もが志貴皇子の歌を重視していたわけである。



新薬師寺に着いた。図は南門。鎌倉期のもので重文。

寺で貰ったパンフレットによると、747年(天平19年)に聖武天皇の眼病平癒を祈願して、光明皇后が建立したものだという。元は4町四方に七堂伽藍が建ち、1000人を超える僧がいたという。4町四方というから、約1坊の広さで、薬師寺と同じくらいの規模だったのだが、今は小じんまりとした寺になっている。

奈良時代は、藤原氏と反藤原勢力の抗争の時代でもあった。天武天皇以来、皇族が政治を司るという皇親政治を基本方針としていたのだが、それには有能な皇族が輩出すること、野心のない補佐役がいることが必須条件である。

だがそう都合よくことは進まない。時代を経るに従って、政治に不向きな天皇がでるだろうし、これを操ろうとする臣下も出てくる。


本堂。天平期のもので国宝。

建立時には大規模寺院であったが、33年後(光仁天皇の時代)に落雷し、この建物(当時は食堂であった)を残して、ほかはことごとくが焼け落ちた。

(最近、奈良教育大学の敷地から元の本堂の遺構が発掘されたという報道があった)


当時の政府の職階では、@太政大臣、A左大臣、B右大臣、C大納言の順に権力があった。持統天皇以来の政府のトップを掲げると次のようになる。
  1. 持統天皇(686〜697年)

    @(太)高市皇子 (右)多治比嶋 (690年)

  2. 文武天皇(697〜707年)

    @(右・左)多治比嶋(たじひのしま) (697年)
    A(右)阿部御主人(みうし) (702年)
    B(加太政官事)刑部親王 (右)阿部御主人 (703年)
    C(加太政官事)刑部親王 (右)石上麿 (704年)
    D(加太政官事)穂積親王 (右)石上麿 (705年)

  3. 元明天皇(707〜715年)

    @(加太政官事)穂積親王 (左)石上麿 (707年)
    A(加太政官事)穂積親王 (左)石上麿 (右)藤原不比等 (709年) −−−不比等は光明皇后の父

  4. 元正天皇(715〜724年)

    @(左)石上麿 (右)藤原不比等 (715年)
    A(右)藤原不比等 (718年)
    B(加太政官事)舎人親王 (右)藤原不比等 (720年)
    C(加太政官事)舎人親王 (右・左)長屋王 (721年) −−−長屋王は高市皇子の子

  5. 聖武天皇(724〜749年)

    @(加太政官事)舎人親王 (左)長屋王 (724年)
    A(加太政官事)舎人親王 (730年)
    B(加太政官事)舎人親王 (右)藤原武智麻呂(734年) −−−武智麻呂は不比等の子
    C(右・左)藤原武智麻呂 (736年)
    C(加太政官事)鈴鹿王 (右・左)橘諸兄 (738年)  −−−鈴鹿王は高市皇子の子(長屋王の弟)
    D(左)橘諸兄 (746年) −−−橘諸兄は橘三千代(文武天皇の乳母・後に不比等の妻)の子・光明皇后の異父兄

  6. 孝謙天皇(749〜758年)

    @(左)橘諸兄 (右)藤原豊成 (749年)        −−−豊成は藤原武智麻呂の長男・中将姫の父
    A(左)藤原豊成 (紫微内相)藤原仲麻呂 (757年) −−−仲麻呂は藤原武智麻呂の次男

  7. 淳仁天皇(758〜764年)

    @(大保)藤原仲麻呂 (758年)
    A(大師)藤原仲麻呂 (760年)

  8. 称徳天皇(764〜770年)

    @(大師)藤原仲麻呂 (右)藤原豊成 (764年)
    A(太政大臣禅師)道鏡 (右)藤原豊成 (765年)
    B(太政大臣禅師)道鏡 (左)藤原永手 (766年)
    C(左)藤原永手 (右)吉備真備 (767年)

  9. 光仁天皇(770〜781年)

  10. 桓武天皇(781〜806年)


本堂の側面(妻側)に見学のための入り口がある。

光明皇后は聖武天皇の皇后であるが、父は藤原不比等・母は橘三千代である。さらに聖武天皇の父は文武天皇であるが、母は藤原不比等の娘の宮子である。つまり聖武天皇の母も妻も不比等の子であったのである。これだけの閨閥を作れば藤原氏が第一の統治者になるのは当たり前である。

これに対抗する反藤原勢力が3度ほど現れたがいずれも失脚した。すなわち@長屋王、A橘諸兄、B道鏡である。藤原永手が光仁天皇を擁立したことから、それ以降は藤原氏でなければ政治に参画できなくなるのである。


本堂には薬師如来(平安期・国宝)を中心にして、十二神将が側面・背面を護っている。十二神将は12体揃っているが、うち1体は江戸末期の地震で壊れ、昭和に入って補作されたそうである。11体は天平期のもので11体がそれぞれ国宝に指定されている。

国宝の本堂に、薬師如来と11体の神将、つごう12体の国宝が詰まっているのはここだけであろう。

薬師如来は木像だが、十二神将は塑像である。つまり粘土でできた像である。粘土であるから、貼り付けたり削ったりすることが可能である。腕さえあれば写実的な像を作ることができる。だが脆いという致命的な欠点がある。立像が倒れると砕けてしまうだろうし、乾燥すればひびが入る怖れもある。水に浸かると融けてしまう。

この塑像を維持していくことは並大抵なことではない。坊主頭の受付の方に尋ねたら、須弥壇(しゅみだん)からほどほどの湿気が上ってくるので、過度に乾燥することがないそうである。

写真は絵葉書を収めた箱に印刷されている図を写した。

最も有名なバサラ大将(国宝)。

それにしても聖武天皇・光明皇后、その子の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)は大寺を数多く造ったものである。 聖武天皇はいわずと知れた東大寺の大仏を造った(749年)。聖武天皇の死後(756年)も東大寺の造営は続けられ、大仏殿(757年)、続いて講堂、2つの七重塔などが建てられ、東大寺が完成したのは789年のことである。奈良時代が終わるまで東大寺を造り続けたのである。今も残る興福寺の東金堂や五重塔を建立したのも聖武天皇と光明皇后である。

光明皇后は大仏造立よりも早く大寺を造っている。741年に諸国に国分寺・国分尼寺を建てるよう詔が発せられ、金鐘寺(こんしゅじ)を金光明寺(後の東大寺)と改めて総国分寺とした。総国分尼寺は法華寺と決められたが、これは光明皇后が父の藤原不比等の邸宅跡に建立した寺である。この寺も七堂伽藍が整った大寺であった。さらに光明皇后は、一町四方だったという新薬師寺を建立している。

娘の称徳天皇も負けてはいない。765年から西大寺の建立に取り掛かり15年を費やして780年に完成させている(称徳は770年に没)。先に掲げた平城京の地図を見ると西大寺の寺域は興福寺・元興寺よりも広い。この3人で奈良時代の国力を使い果たしたといってもよい。

だがそのおかげで、平安遷都後の奈良は、観光の町として飯を食ってこれた。私は薬師寺のほうが好きだが、東大寺の大仏がなければ各地からの観光客を引きつけることはできなかったろう。


本堂を出ると雨になっていた。それも夕立で大粒の雨が激しく落ちている。折りたたみ傘を持ってはきたが、この激しさでは役立たないであろう。また傘をさしつつ写真をとることは難しい。幸い空は明るいので雨宿りをしていれば、そのうち止むだろうと判断した。

本堂は基壇の上に建っている。基壇に腰を下ろして南門を眺める。この門は鎌倉期のもので重文であることは先に言った。このほかに鎌倉期に建てられた重文の建物が3つある。写真の右側の高い庭木の中に観音堂があり、左側の立木の中に鐘楼がある。本堂の東側に東門があって、南門を含めて4つの建物が重文に指定されている。

これら重文建物を建てたのは明恵上人と解脱上人であるという。そういえば新薬師寺は華厳宗である。同じ宗派であるから明恵が再建に手を貸したのであろう。解脱は明恵に仏舎利を譲ったほど仲がよかったから、明恵のまた手助けをしたということだろうか。


次に訪ねる白毫寺の場所を地図で確認し、最後に訪れる田原西陵へのバスの時刻をチェックする。

田原西陵は遠い。近鉄奈良駅から田原御陵バス停までの所要時間は25分で、590円とある。ただ便数が少ない。特に田原御陵から戻ってくる便が少ない。午後の時刻表では12時26分、14時46分、17時21分、18時19分の4本しかない。

帰りのバスに間に合うための近鉄奈良駅発の時刻表は、11時14分があるが、すでにその時間は過ぎている。次は13時34分がある。これに乗ると13時50分頃に着くので14時46分の帰りのバスに間に合う。

白毫寺を訪ねて、13時34分のバスに乗るには、新薬師寺を12時には出なければならないだろう。今は11時30分であるから、あと30分ほど雨宿りすることを決めた。

じっとしていてもしかたがないので、基壇をぐるりと回って本堂の外を何周かした。基壇の下には萩が植えられていることに気づいた。本堂の正面には石段があるので植えてはいないが、そのほかは本堂を取り巻くようにして萩が植えられている。


再び本堂に入って、先ほど塑像について教えてもらった受付の方に、萩について尋ねると、新薬師寺は「萩の寺」と呼ばれており、400株の萩が植えられているそうである。

ついでに写真中央の高い木は何かと尋ねると、菩提樹であるという。西大寺で見た菩提樹とは違うような気もするが、寺の人が言うのだから確かであろう。

この方は親切であった。本堂の出入り口近くに、線香やローソクなどの備品を入れるような長い引き出しが何段か備え付けられていたが、そのひとつからローソク箱を取り出し、箱の蓋を開けられた。

「これが菩提樹の葉です。」といって見せてもらったのが次図のもの。

葉の葉脈(主脈)の根元と葉先への1/3のところから茎が伸びていて、その先に実をつけている。「こうするんです」といって上に放り上げると、実を下にして葉がクルクル回りながら落下した。竹とんぼのようである。葉が適当に曲がっている上に、1/3のところに実をぶら下げているから、クルクルまわるのだろう。 それにしても、葉と実がくっついているとは、妙なやつですな。

ローソク箱には20個ほどの葉と実が入っていたが、私があまりにも喜んだためか、箱ごと差し上げるといわれる。私はそれほどずうずうしくはない。1つだけ頂戴した。しばらくは基壇の上で何度も放り上げて遊んだ。国宝の建物を背にして、菩提樹の葉で遊べたとは贅沢なことである。

雨脚は弱くなって小雨になった。時限の12時になったので傘をさして新薬師寺を出た。高円山から靄が立ち上っている。

万葉集の巻1にある志貴皇子の歌は(1-51)と(1-64)の2首であるが、おそらく(8-1418)が巻1の「雑歌」の最後を締めくくっていたのではないか、ということは先に述べた。 巻2の「相聞歌」「挽歌」の部には志貴皇子の歌は載っていないが、志貴皇子を葬送したときの歌がある。次の詞書の後に笠金村(かさのかなむら)の長歌と短歌があって、巻2の「挽歌」の部は終わっている。

『霊亀元年(715年)歳次乙卯(いつぽう)の秋九月に、志貴皇子の薨(かむあが)りましし時の歌一首あわせて短歌』


あずさ弓を手にとって
ますらおが矢を脇にはさみ
立ち向かう的(と同じ名前)である高円山に

春の野焼きの炎と見まごうほどに
燃えている火を、何かと問うと
玉鉾の(枕詞)道を来る人が

涙を小雨のように流して
白い衣を濡らし
立ち止まって、私に語った。

どうしてみだりに声をかけるのか
声をかけられると、また泣けてくる
わけを話せば、心が痛む

あれは天皇の神の御子の
ご葬列の送り火が
こんなにも照らしているのです。

若草山の山焼きは、1月の成人の日の午後6時から焼き始め、9時に消火するそうである。私は実見したことはないが、闇の中を赤い炎の列が山頂に向かって燃え登っていくのをテレビで見たことがある。

高円山の山裾に、まるで山焼きをしているかのように炎が列をなして揺らめいている。ちょうどやってきた人に何の火なのかと尋ねたら、泣きながら、志貴皇子さまの送り火です、といった。葬列の人々が手に松明を持って歩んでいたのである。

題詞には、皇子が亡くなったのは霊亀元年(715年)とあるが、続日本紀には716年の8月11日に薨去したとあるそうである。この違いについて、「万葉集釈注」の伊藤博さんは、715年が正しく、716年は1周忌に本葬した年であると言われている。

皇子は715年8月に亡くなった。当時は、現在でもそうであるように、七七日(49日)の供養をすませてから本葬するというのが通例であった。ところがその年、元明天皇は元正天皇に譲位した。9月には元正天皇の即位の儀式が盛大に行われるのである。

このような時期に大々的な七七日(なななぬか)の供養や数多くの送り火を灯して、野辺の送りをすることは憚られたであろう。おそらく密葬され、翌716年の1周忌に本葬されたのではないか。そのときはすでに屍は密葬されているのだから、送り火もなかったはずである。この歌は充分な葬儀ができなかった家族が1周忌の折に、このような送り方をしたかったという願望を笠金村に詠んでもらったものであろう。といわれている。

なるほどなあ。通常であれば皇子の身分であるからには、それなりの葬儀が行われ、それなりの規模の野辺の送りがされたのだろうが、タイミングが悪かった。皇子であるだけに天皇の即位儀式の時期に弔いをすることができなかったのだ。 次の2首は長歌に対する短歌である。


高円の野辺の秋萩は
むなしく咲いては散っていることだ
見る人がいないので


御蓋山の野辺を通る道は
こんなにもひどく荒れたことだ
(皇子が亡くなられて)まだそれほど長くは経っていないのに


振り返ると御蓋山が小雨にけぶっている。

上記の短歌2首の次に、『或る本の歌にいわく』の題詞があって、2首によく似た(2-233)(2-234)の短歌が載せられている。(2-234)だけを掲げると

  御笠山       野辺ゆ行く道
  こきだくも     荒れにけるかも
  久(ひさ)にあらなくに

巻2の「挽歌」の部は志貴皇子への挽歌で終わる。巻1の「雑歌」の部も本来なら志貴皇子の「さ蕨の 萌えいづる春に なりにけるかも」で終わっていたはずなので、志貴皇子は巻1・巻2において重要な位置を占めていることがわかる。

橋があった。高砂橋とある。川は春日山と高円山との間を流れている能登川である。 橋詰に歌が掲げられていた。

  能登川の     水底(みなそこ)さへに
  照るまでに    三笠山は
  咲きにけるかも    (10-1861)読人不詳

能登川の水底まで輝くほどに、御蓋山に花(桜であろう)が咲いていることだ。

ところどころに、白毫寺への案内板があって、「↑白毫寺 600m先」のように方向と距離が書いてあるので、道に迷うことはない。

「万葉集釈注」の伊藤博さんの分類によれば、万葉集の巻1・巻2は「中核的古撰集」であり、巻3・巻4は「拾遺的後撰集」であり、巻5・巻6は「天平雑歌集」であるとされる。

巻1〜巻6の特徴は、@原則として作者名を明記し、A部立ごとにだいたい年代順に歌を配列してある。B著名な歌人の作品や歴史的事件にかかわる歌が多い。

その成り立ちの時期であるが、巻1は(1-53)の藤原京を褒め称える歌までが原本であり、持統上皇の時代にできたと推定されている。 巻2は巻1の姉妹編で、作者や収録した時期がほぼ同じである。元明上皇の時代にまとめられたようである。


白毫寺(びゃくごうじ)に着いた。「ながめのよい花の寺」と書いた看板が立っている。小雨はまだ止んでいない。

志貴皇子の別荘があった場所である。(犬養孝さんは、別荘ではなく、ここに春日宮があったといわれている)

志貴皇子の歌は当初の万葉集では(1-51)の一首だけが載っていたらしい。その後巻1に(1-52)〜(1-85)が追加された。(1-85)は「さ蕨の 萌えいづる春」だったろう。

ところが、光仁天皇が即位した770年ころに巻8が編集されて、「さ蕨の 萌えいづる春に なりにけるかも」が(8-1418)として巻8の巻頭に置かれた。また巻2の「挽歌」の最後に志貴皇子の死を悼んだ笠金村の長短歌が追加された。ということを伊藤博さんは言われている。そのように編集したのは大伴家持である。

石段を20段ほど登り、向きを変えるとまた石段である。これは長い。石段の両脇には萩が植えられていて、両方から石段に向けて枝を伸ばしている。小雨に濡れた枝葉がズボンを撫でて裾を濡らす。

石段の長さといい、石段に沿って植わっている萩といい、さすがに「みはらしのよい花の寺」である。

本堂。高円山・白毫寺は真言律宗である。

715年に志貴皇子が没して、残された家族が菩提を弔うために寺を建立したのかと思っていたが、寺でもらったパンフレットによれば「天智天皇の御願によるもの、勤操(ごんそう)の岩淵寺の一院とするものなど諸説あるが定かではない。」とある。

天智天皇は近江京で亡くなったのだから、天皇の勅願寺ではあるまい。また勤操が開基したのであれば、時代は奈良末期か平安初期だろうから、715年に志貴皇子が没してすぐに寺ができたのではない。

本堂の縁側に腰掛けて庭を眺める。白毫寺は「関西花の寺・第18番札所」であるとパンフレットに書いてある。そういえば南山城・当尾の岩船寺や浄瑠璃寺も「関西花の寺」のひとつではなかったか。奈良の般若寺もそうであった。 帰宅して「関西花の寺(25寺)」を調べると、結構訪ねていることがわかった。以下である。
  1. 岩船寺(南山城当尾 )アジサイ
  2. 浄瑠璃寺(南山城当尾) カキツバタ・馬酔木・もみじ
  3. 般若寺(奈良) コスモス
  4. 長岳寺(天理) つつじ
  5. 石光寺(當麻) 寒牡丹
  6. 西南院(當麻) しゃくなげ
  7. 観心寺(河内長野) もみじ・つつじ
  8. 白毫寺(奈良) 萩

雨がようやく止んだ。傘をバッグにしまって庭に出た。

桔梗が咲いている。ほうずきも赤くなっている。

庭に笠金村の歌碑があった。(2-231)の歌である。

  高円(たかまと)の  野辺の秋萩(あきはぎ)
  いたづらに      咲きか散るらむ
  見る人なしに     (2-231)

この歌によって、白毫寺は萩の寺とすべく萩を植えたのであろう。

ピンク色の花をつけた立木があった。夏に花をつける木は珍しい。受付の方に何の木かを問うとサルスベリであるそうだ。

受付の女性は、「この時期はアジサイも終わって、あまり花はありませんが、珍しい花が咲いていますよ」と、本堂前の池の傍に導いてくれた。この人が草を掻き分けて、小さな薄紫の小花を指さした。

「ナンバンキセルといいます。花の形がパイプのように見えるでしょう?」

萱に寄生する草であるそうである。

白毫寺は荒れ寺風であると聞いていたが、きちんと清掃されていて、境内はなかなかきれいである。

「関西花の寺」で思い出した岩船寺も白毫寺と同じ真言律宗である。岩船寺の本堂には西大寺の興正菩薩・叡尊の坐像があった。その興正菩薩像は煤で真っ黒になっていたが、本物ではなくコピーされたものであった。また般若寺にそれと同じ叡尊の坐像があった。真言律宗の寺にはたいていコピーされた興正菩薩像が祀られているらしい。

写真の左側の建物が宝蔵である。ここにも叡尊の坐像があった。ところが像の横に「重文」の札が立てられてある。コピーの叡尊像の顔は一目でわかる特徴がある。その眉毛がまったくの「八」の字なのである。おおっ、その八の字眉の叡尊ではないか。 白毫寺の叡尊がオリジナルであったのである。


(次図)「ながめのよい寺」である。向うの山は生駒山。




少し北に目を向けると、ああ、興福寺の五重塔が見える。

志貴皇子は平城京で暮らすこと5年であった。亡くなった715年には、まだ興福寺の五重塔はなかった。平城京そのものが完成していなかった。各地から人々が都の造営のために徴用され、使役された。

当時の税制は「租・庸・調」の3本柱である。租は収穫した米を一定の割合で納付する税である。国家の基本的な税である。調は主に布(あるいは地方の特産物)を納付する税で、役人の給料に当てられた。

13:00になった。白毫寺を出て次の目的地に向かうことにする。目的地は、志貴皇子が埋葬されている田原西陵である。

きつかったのは庸である。21才〜61才の男性に京に上らせ労役を課したのである。むろん全員ではないが、庸に当った人民は旅費は自前で京に上り、無償の労働をさせられた。労役の期間が終わっても故郷に帰る旅費を持たない多くの民が 流民となった。これを救おうとしたのが行基である。

行基は流民のために各地に布施屋を設け、飢えと病気を救おうとした。本来は国家が行わねばならぬことである。初めは行基は国家に逆らう犯罪者とされた。だが国が迫害しても、民衆の支持があれば国の方針は変わる。聖武天皇は大仏建立のためには従来のやりかたでは不可能であることを知り、行基に助けを請うた。


行基の考え方や行基を支持する民衆の力がなければ東大寺の大仏はできなかったであろう。支配者は何でもできると過信したときが転落の始まりである。聖武天皇はギリギリではあったが行基の考えを政治に取り入れることによって天武以来の命脈を途切らすことを免れたのである。

白毫寺バス停。田原御陵への便の時刻は13:45だった。

いつでもその一族の繁栄を終焉させるのは、創業者の苦労を知らない世代になったときである。天武天皇以来の天皇で壬申の乱を知らない世代は聖武天皇からである。

持統天皇は天武と共に壬申の乱を戦い抜いているし、草壁皇子も天武・持統と共に吉野を出て挙兵している。草壁の子の文武天皇は乱の当事者であった持統から創業時の話を聞かされていたであろう。元明天皇は草壁の妃であったし、元正天皇は文武の姉である。

ここまでの天皇は、次に掲げる天武の吉野逃避行の歌を実感できる世代であった。

  み吉野の       耳我(みみが)の嶺に
  時なくそ        雪は降りける
  間なくそ        雨は零(ふ)りける
  その雪の       時なきが如(ごと)
  その雨の       間なきが如(ごと)
  隈(くま)もおちず   思いつつぞ来(こ)し
  その山道を       (1-25)

聖武天皇の時代には、壬申の乱を知る忍壁皇子や志貴皇子はなく、天武の子の長皇子もすでになかった。天武がいかにして権力を得、国をどう治めればよいかを考え抜いたかを、伝えることができる者はもういなかったのである。


バスは水間(みま)行きである。水間はどのようなところなのかは知らない。白毫寺から2つ目の奈良春日病院前のバス停からバス停間の距離が広がった。下車するバス停を1つ間違うと何Kmも歩かねばならない。何kmも歩くはめになれば予定がめちゃくちゃになる。なにしろこの時刻からは奈良市内に戻るバスの便はあと3便しかないのである。

緊張しながら次のバス停の案内に耳をすませていたのだが、運転手の言葉が聞き取れなかった。後ろの座席に座る老人に「田原御陵は、次でしょうか?」と尋ねると、光仁天皇陵なのか春日宮天皇陵なのかと聞き返された。「春日宮のほうです」。「じゃあ次だ」。親切にもバスの降車ボタンを押してくれた。 だが次のバス停は「田原御陵」ではなかった。

新しいバス停が設けられたようである。老人は運転手に「間違えました。その次です」。おかげで 無事に田原御陵バス停で下車できた。白毫寺からのバス料金は480円。

バスを降りるとすぐ、田原御陵の入り口である。田原はタワラと呼ぶ。老人が聞き返したのは、田原には2つの天皇陵があるからである。

1つは志貴皇子の墓で「田原西陵」と呼ばれている。さらにこの先に志貴皇子の子である光仁天皇の「田原東陵」があるのである。「田原東陵」の近くには古事記を編纂した大安万侶の墓もある。多くの観光客は田原東陵・大安万侶のほうを訪れるようだ。


田原西陵への道は、丘を切り通して平らな、真っ直ぐの道である。正面に陵が見通せる。

切り通しの下部には石が積まれ、上部の土の部分もきれいに草が刈られている。

聖武天皇に影響を与えた行基も749年に82才で亡くなった。同じ年に聖武は、娘の孝謙天皇に譲位したから、孝謙天皇は行基の教えを学ぶこともできなかった。孝謙(称徳)は思うがままの政治をし、天武の遺産を食い潰して奈良時代の幕引き役になるのである。

世代でいえば、@天武天皇から→持統天皇→A文武天皇→元明天皇→元正天皇→B聖武天皇→C孝謙天皇(称徳天皇)、となる。4代目で潰したわけだ。

切り通しを抜けると、今度は堤である。左右の田んぼから5mほどの高さに土が盛られ、切り通しと同じ高さの道を維持している。入り口から御陵まで、高低差なく一直線に参ることができるようになっている。

志貴皇子は現在まで続いている天皇家の皇統が天武から天智に変わった分岐点である。たぶん尊王の気運が高まった幕末か明治維新のころに道が整備されたのではなかろうか(推測である)。

それにしてもこの御陵はきれいだ。堤の両側につつじが植えられているが、丁寧に丸く切り揃えてある。堤の雑草も根元から刈られている。これは宮内庁の仕事ではなかろう。おそらくは地元民の手によるものであろう(宮内庁が住民に委託しているのかも知れない)。

御陵の左側には茶畑が広がっていた。茶畑自体が庭木のように美しい。

大安万侶は712年に古事記を撰上し、10年後の722年に死んでいる。大安万侶の墓がこの近くにあるのは、あるいは志貴皇子の墓があったためかも知れない。もと撰善言司であった志貴皇子と安万侶は話が合った可能性がある。

光仁天皇の墓は当初は奈良市広岡町(笠置山の近く)にあったが、すぐ後(786年)に田原に改葬されたという。これは父親の志貴皇子の墓の近くに、ということだろう。

志貴皇子が光仁天皇、大安万侶を呼んだといってよいかも知れない。

陵墓は円墳である。だいたい直径40mほどであるという。

志貴皇子はなぜこのように奈良から離れた場所に埋葬されたのであろうか。

考えるに、志貴皇子はこの辺りに食封(じきふ・へひと)を与えられていたのではないか。食封というのは一定の地域の戸を与えられ、そこからあがる租の半分と庸・調を自身の収入にできる仕組みである。

日本書紀によれば、例えば691年当時、高市皇子は5000戸の食封を持っていた。志貴皇子と同じく天智天皇の子である川島皇子は500戸であったから、志貴皇子も300戸程度は与えられていたのではないか。それが高円山の南東にあるこの地(矢田原町)ではなかったかとシロートは思うのである。

持統天皇が亡くなったあとの704年に、文武天皇は以下のように皇子らに食封を与えている。
  1. 二品・長皇子、舎人皇子、穂積皇子に200戸を増加
  2. 三品・刑部(忍壁)皇子に200戸を増加
  3. 三品・新田部皇子に100戸を増加
  4. 四品・志貴皇子に100戸を増加
  5. 右大臣・従二位・石上麻呂に2170戸を増加
  6. 大納言・従二位・藤原不比等に800戸を増加
二品(にほん)とか三品というのは親王の位である。一品が最高位で、臣下に与えられる位の最高位の正・従一位に相当する。四品は最下位で正・従四位に相当する。志貴皇子はかなり冷遇されていたことがわかる。

バス停まで戻る。降りたときは気づかなかったが、木立に埋もれるようにして歌碑があった。志貴皇子の(8-1418)である。私が憶えている歌とは読み下しかたがやや違っている。

  石ばしる   垂水がおかの
  さ蕨の    萌え出づるころに
  なりにけるかも

天武系の時代には冷遇された志貴皇子であったが、子の光仁天皇が即位してからの陵墓は、どの皇子よりも手厚く守られていくことになる。

(次図)それにしても、よい御陵である。志貴皇子は南を向いて葬られている。右に茶畑、左に稲穂が実る田んぼに挟まれて、静かに眠っている。




14時46分の帰りのバスに乗ると、来るときに降車ボタンを押してくれた老人が乗っていた。私が挨拶して最後部の席に腰掛けたら、老人は席を移して私の横に座った。

物知りな人であった。50年ほど前から高円山の山頂付近で大文字の送り火がなされていることを教わった。何度も高円山を眺めて、山頂付近の一画の木が切られていることには気づいていたが、それは「大文字」のためだったのだ。高円山は送り火が似合う山のようである。

奈良公園近くまで戻ってきたとき、飛火野(とびひの)から春日山・御蓋山・高円山がきれいに見えることがわかった。慌てて下車して撮ったのが次図(2つを合成した)。

今日の万歩計は20000歩だった(新型の万歩計に買い替えたので歩数が減った)。





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