二上山と当麻寺

    No.73.....2009年7月25日(土曜)


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近鉄・当麻寺駅前。

前回のテクテクの続きで、大津皇子(おおつのみこ)の墓がある二上山に登ることにした。かつて二上山に登って墓を見てはいるのだが、当時は大津皇子・大来皇女(おおくのひめみこ)の歌を知ってはいなかった。

学校は夏休みにはいったというのに、なかなか梅雨明けとならない。今日は福岡県・山口県・広島県に大雨警報がでている。だが関西地方の天気予報は、曇りのち雨、降水確率は50%であった。

名張の空はところどころに青空が見えるほどであったので、早く出て早く帰れば雨にあわないかもしれぬと出かけることにした。念のために折りたたみ傘をバッグに入れておいた。

名張駅を6:56発の電車に乗って、大和八木、橿原神宮前の2つの駅で乗り換え、8:15ころに当麻寺駅に到着した。駅で「てくてくまっぷNo.17 當麻の里コース」の地図を貰う。久しぶりに「まっぷ」が示すコースを歩く。 「まっぷ」のコースは図の赤色。
  1. 近鉄・当麻寺駅
  2. 當麻寺門前
  3. 二上山登山口
  4. 祐泉寺
  5. 馬の背
  6. 二上山・雄岳
  7. 二上山・雌岳
  8. 岩屋
  9. 竹内峠
  10. 上ノ池
  11. 瓦堂池
  12. 當麻寺



当麻寺駅から西へ歩をとると、双子山である二上山が見えてくる。左の低い山が雌岳(474m)、右の高いほうが雄岳(517m)である。雌岳の左に麻呂子山(213m)があり、この裾に當麻寺がある。

二上山は、古くは「ふたかみやま」と呼ばれていたが、今では「にじょうざん」と呼ぶのが普通である。ついでにいえば當麻は古代は「たぎま」と呼ばれていたが、今は「たいま」である。

二上山は大和国と河内国の国境である。二上山の山稜は写真に見るように雌岳の南(左)でいったん低くなり、しだいに高まって岩橋山→葛城山→金剛山という金剛葛城連峰につながっている。そのいったん低くなったところ(上図のH)が竹内峠(たけのうち)で、ここには日本で最初の官道である竹内街道が通っている。(今は国道166号線になっている)

飛鳥京・藤原京の時代、大和から河内また難波津に出るには、竹内峠を越えるか、雄岳の北(右)の大坂越えをするかのコースをとっていたが、どちらにしても西を向いて、まずは二上山を目指したのである。

當麻寺の東大門。仁王像が立っているので仁王門とも呼ばれている。現在の當麻寺の正門である。今は寺には入らず、右折して寺の外塀にそって西に向かう。

686年10月3日、大津皇子は死を賜った。皇族であれば、生前住んでいたところ近くに殯宮(あらきのみや)が設営され、一定期間の殯(もがり)が行われた後に埋葬される。だが大津は謀叛の罪によって処刑された。殯はされることなくすぐに埋葬されただろう。

初めはどこに埋葬されたのかは不明であるが、大来皇女が詠んだ次の歌の詞書に、

『大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はぶ)るときに、大伯皇女(おおく)の哀傷(かな)しびて作らす歌2首』

とあるから、一度埋葬されていたものが二上山に移されたのだろう。それが今も残っている。

  うつそみの   人にあるわれや
  明日よりは   二上山(ふたかみやま)を
  弟背(いろせ) とわが見む

          (2-165) 大来皇女

當麻寺の寺域の北限にある奥院の塀に沿って歩く。桜並木である。

天武天皇の殯宮が営まれたのは、686年9月24日から688年11月11日まで2年3か月という異例に長い期間であった。この間、皇太子の草壁皇子は公卿・百官を率いて何度も何度も殯宮に参っている。国家的行事である。大津が処刑された10月3日はその最中のことだから、大津の殯宮が営まれたとは考えにくい。

挽歌は殯りのさ中に詠い上げられるのだが、大津の殯宮での歌は誰も詠っていない。大津の死を詠んだのは大来皇女だけであるが、その時期は『大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大来皇女、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時』であり、『大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はぶ)るとき』である。殯宮が営まれているときの歌ではない。


公園があって、大津皇子の歌碑が据えられていた。犬養孝さんの書になるものであるが、万葉仮名で書かれてある。

  足日木乃  山之四付二
  妹待跡    吾立所沾    山之四附二

読み下すと次のようになる。

  あしひきの     山のしづくに
  妹(いも)待つと  わが立ち濡れし
  山のしづくに    (2-107) 大津皇子

公園を過ぎて進むと、保養所のような施設に突きあたった。きれいに刈り込まれた松の木の前に歌碑らしきものがあった。大来皇女の歌であった。

  うつそみの   人なる我や
  明日よりは   二上山(ふたかみやま)を
  弟世(いろせ)とわが見む   (2-165)

私が憶えているのは、次のものである。

  うつそみの   人にあるわれや
  明日よりは   二上山(ふたかみやま)を
  弟背(いろせ)とわが見む   (2-165)

保養所(正しくは農業者健康管理休養センター)を通りかかった人に、二上山登山口への道を教わる。道を下ったところが登山口である。

犬養孝さんは、大津皇子の歌を万葉仮名で書かれていた。龍王山裾にある人麻呂の歌

  衾道(ふすまぢ)を   引手の山に
  妹を置きて       山路を行けば
  生けるともなし     (2-212)  人麻呂

も万葉仮名で書かれていたから、犬養さんは万葉仮名で書かれるのをスタイルとされているのかも知れない。

万葉仮名(原文)で書いておけば、上の(2-165)のように読み下し方による違いはでないが、結局は読み下して吟唱するのであるから、読み下したものが歌碑になっているほうがシロートにはありがたい。

登山口は公園になっていた。中ほどに細い川が流れている。初田川というらしい。二上山から流れ出してくる川であろう。 川には橋がなく飛び石がある。これが古代の石橋である。 人麻呂歌集に次の旋頭歌(せどうか)がある(7-1283)。

梯立(はしだて)の  倉椅川(くらはしがは)の 石の橋はも
男盛(おざか)りに  我が渡(わた)してし    石の橋はも

倉椅川の飛び石はどうなったのか? 若い頃私が作った飛び石は。


若者は川に入り、歩きやすい間隔に大きな石を動かし並べた。「男盛り」というから、それは作者の青春時代、恋人の家に通うために個人的に作った橋であったのであろうか。しかしそれも今では遠い昔のことである。

旋頭歌は短歌より古い形である。これを短歌にするには、ダブっている「石の橋はも」を省略すればよい。

  梯立(はしだて)の  倉椅川(くらはしがは)の
  男盛(おざか)りに  我が渡(わた)してし
  石の橋はも

こんもりした丘は古墳である。前に立つ説明板によれば「鳥谷口古墳」という方墳で、約1300年前のものであるという。石槨は二上山産出の凝灰岩が使われている、とあった。

いよいよ坂道となる。建物は寺で、「真言宗 二上山・大龍寺」とある。

道はセメントで舗装されていて、軽4輪が通れるほどの道幅である。


大龍寺から1Kmも行かないうちに「天台宗 祐泉寺」についた。小寺であるがきれいに手入れされた庭がある。

ここで登山道は二手に分かれる。左へ行けば岩屋峠→雌岳→雄岳のコースになり、右を選べば雌岳と雄岳の中間にある「馬の背」に着く。前回は岩屋のコースを登ったので、今日は馬の背コースにした。

馬の背コースのスタート地点には寺の門がある。この先の一部は寺の土地であるのかも知れない。

すぐにこのコースを選んでよかったことがわかった。道は渓流に沿って続いていた。

道は岩盤である。渓流も岩盤の上を流れている。「石(いわ)走る」である。同じ岩盤の上に道と川がある。水の流れで岩盤が少し掘られたところが川になっただけである。道にしゃがむと、川の水が掬えるほどである。


岩盤が盛り上ったところは、岩盤を穿って石段にしてある。この道を作ったのは大変な作業であったろう。岩盤が盛り上がっているところの川は小さな滝となる。

竹の樋が引いてあって水が落ちている。二上山の源流からの水であるので飲用できるらしい。コップが置いてある。

落ちる水を受ける竹筒は「鹿脅し」の仕様になっている。さきほどの岩盤の階段といい、この給水施設といい、二上山を整備し維持している多くの人があることがわかる。ありがたいことだ。

途中、3か所に給水設備があった。

渓流から離れて山道を登る。道は丸太で段がつけられているので歩きやすいが、それでも山道はしんどい。

万葉集の初期に編纂されたもの(巻1〜巻7)の多くは、物語の構成になっていると知ったのは、梅原猛さんの「水底の歌」を読んでである。そののち、まさに物語の視点から解釈した本があることを知った。伊藤博さんの「万葉集・釈注」である。 この本には多くのことを教えられた。

例えば大津皇子の歌である。大津の歌は4首残っているが、うち1首は『百伝(ももづた)ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠(かく)りなむ(3-416)』で、後人の作ったものではないかといわれているから実作は3首である。このうちの2首はほかの歌と組み合わさって、ひとつの物語になっている。

だいぶ登った。振り返ると畝傍山。その向うに多武峰、さらに奥に音羽三山が見える。

飛鳥京は多武峰の麓にあった。畝傍山の東の藤原京に遷都したのは694年のことであるから、大津(686年没)も皇太子草壁(689年没)も飛鳥京しか知らない。





次に(1-107)〜(1-110)の歌を掲げる。(1-107)は大津、(1-108)は石川郎女(いしかわのいらつめ)、(1-109)は大津、(1-110)は草壁皇子の歌でこの歌の並びには物語がある。(伊藤博さんの解釈によって述べる)


(2-107) 大津皇子の石川郎女(いらつめ)に贈れる御歌

あしひきの山のしずくが垂れているところで
あなたを待っていたので、すっかり濡れてしまった
その山のしずくに


伊藤博さんは貴人が山で人を待つ、しかも女性を待つというのは異常である。古代では待つのはもっぱら女であった。この男女は人目をはばからねばならなかった。女性は人妻だったのではないか。 と解釈されている。


(2-108)  石川郎女(いらつめ)の和(こた)へ奉れる歌

私を待ってくださって、あなたがお濡れになった
あしひきの山のしずくに
なることができればよいのに

答歌の作法に従って「待つ」「濡れる」「あしひきの 山のしずく」を織り込んでいる。この受け答えからして二人は親密な間柄であることがわかる。


(2-109) 大津皇子の密かに石川郎女(いらつめ)に婚(あ)ひし時に、津守連通(つもりのむらじとほる)のその事を占へ露(あら)はすに、皇子の作りませる御歌一首。いまだ詳(つばひ)らかならず。

大船の(枕詞)の 津守の占いによって
露見することは、まさに知った上で
われら二人は寝たのだ


大胆な歌である。津守連通は占星台の役人で占星術の達人である。役人である津守が二人の密通を暴露せねばならなかったのは、石川郎女の夫は高貴な人物であったからである。と伊藤博さんはいわれる。その夫とは誰であったのか。


(2-110)  日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の石川郎女に贈り賜へる御歌一首。

大名児(石川郎女)よ、遠くの野辺で
刈る萱の一束の、つかの間も
私はあなたを忘れてはいない

ここに至って石川郎女の夫は草壁皇太子であることがわかるのである。皇太子であるから妃や女は複数いた。石川郎女はそのうちの一人であろうが、草壁がつかの間も忘れないと特に名を挙げて詠っているのだから、魅力的な女性であったのだろう。

伊藤博さんは「彼方(おちかた)=遠い」で刈るとあるので、この歌が詠まれたときには、石川郎女の心は大津になびいていて、草壁からは遠い存在になっていたのではないか。それでも草壁は石川郎女に執心している。といわれる。皇太子の位を争った草壁と大津であったが、大津はその後謀叛の疑いをかけられて処刑されて敗者となった。しかし(2-107)から(2-110)を見ると大津は恋の勝者であったことがわかる。

このように歌を配置したのは万葉集の編者であったろう大伴家持である。

「馬の背」に着いた。馬の背中は、前足がある肩と後足がある腰との間のへこんだ部分である。つまり二上山の雄岳と雌岳の鞍部である。 彼岸、日は雄岳と雌岳のあいだに落ちるというが、その場所がここである。

道標には雄岳まで0.5Km、雌岳まで0.1Kmとある。

まずは大津皇子の陵墓がある雄岳へ向かう。道標には0.5Kmとあったが、平地の0.5Kmと登り道の0.5Kmでは、時間のかかり方が違う。登り道は平地の3〜4倍はかかるのではないか。

道は整備されていた。丸太を道の両脇に道に沿って縦に据えて、ここに線路の枕木のように横に角材を打ち込み、階段にしてある場所もあって歩きやすい。ここでも道を整備した人たちに感謝である。

20分ほどして山頂についた。

頂上部分は平坦である。それもかなり広い範囲にわたって平地になっている。

葛木坐二上神社がある。ブロック塀で風情はない。

前回来たときは、雄岳に登るには入山料を支払わなければならなかった。この辺りに入山料を徴収する人が座っていたと思うが、今日はいない。

二上山の山裾(北東)の香芝市にある「二上山博物館」を訪れたとき、ボランティアのガイドさんに雄岳の入山料徴収のいきさつを訊いたことがある。それを思い出すと、登山者のせいで二上神社が焼失した。そこで登山者を制限するために入山料をとることにしたのだが、ボランティアで山を整備していた人たちをも拒むことになった。わざわざ入山料を払ってまで奉仕する人はいなくなった。

神社側の方針の失敗である。たぶん今では神社は入山料の徴収をやめているのではなかろうか。


二上神社の南へ20mほどわずかに下ったところに大津皇子の陵墓がある。

折口信夫(しのぶ)の「死者の書」は、ここに眠る大津皇子の霊魂と二上山麓の當麻寺にいる中将姫との交感、中将姫の阿弥陀如来への憧れ、そのために當麻曼荼羅を織った、これらを主題とする幻想的な歴史小説である。

古代民俗学者である折口信夫の、とほうもない豊富な知識に基づいて書かれているから、奈良時代の言葉、歌、宗教、風習、風俗、制度、歴史などをも知ることができるのだが、逆にある程度の知識がないと古代世界のイメージが湧かず、読んでもよくわからないという厄介な小説でもある。

墓は円墳である。 大津皇子がここに埋葬されてから70年ほどたった天平宝字年間(淳仁天皇)のことである。「死者の書」は大津皇子の意識が戻り始めたところから書き始める。

『彼の人の眠りは、徐(しづ)かに覚めていった。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝ふように来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫(まつげ)と睫とが離れてくる。』

しだいに記憶がよみがえってくる。初めに思い出したのは耳面刀自(みみものとじ)、ついで大来皇女のことであった。

『此(この)おれは誰なのだ。其(それ)をすつかり、おれは忘れてた。 だがまてよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声(ね)を聞いたのだつけ。さうだ。訳語田(をさだ)の家を引き出されて、磐余(いはれ)の池に行った。堤の上には、遠捲きに人がいつぱい。・・・・皆が、大きな喚(おら)び声を、挙げていたつけな。』

『あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥の声だつた。今思ふと−−待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭(な)き声だつた気がする。−−をゝ、あれが耳面刀自。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は、急に締めあげられるやうな刹那を、通った気がした。』

磐余の池で処刑されたときの記述である。(右図は円墳)

円墳の後方から大和方面を見るが立ち木が茂っていて何も見えない。

『おれのこゝへ来て、間もないことだつた。・・・・かうつと−−姉御が墓の戸で哭き喚(わめ)いて、歌をうたひあげられたつけ。「厳石(いそ)の上に 生(お)うる馬酔木を」と聞こえたので、ふと、冬が過ぎて、春も闌(た)け初めた頃だと知つた。・・・・そのあと、「たをらめど 見すべき君が ありと言はなくに」。さう言われたので、はつきりもう、死んだ人間になつた、と感じたのだ。』

『うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山(ふたかみやま)を愛兄弟(いろせ)と思はむ
誄歌(なきうた)が聞えて来たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して、歌つてくれたのだ。其で知つたのは、おれの墓と言ふものが、二上山の上にある、と言ふことだ。』


馬の背へ戻る。茶店があったので、お茶とよもぎ餅を買った。

「死者の書」には、上記の大来皇女の歌(2-166)(2-167)のほかにもいくつかの歌がでてくる。大津皇子の(3-416)「百伝(ももづた)ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠(かく)りなむ」もある。

大伴家持は(14-3452)「おもしろき 野をばな焼きそ 旧草(ふるくさ)に 新草(にいくさ)まじり 生(お)ひは生(お)ふるがに」の歌を思い出し、藤原仲麻呂は山部赤人の(3-378)「古(いにしへ)の 古き堤は年深み 池のなぎさに 水草(みぐさ)生ひにけり」を吟唱する。

雌岳を登る。道標には0.1Kmとあったが、これは地図上の直線距離であろう。歩くと5〜6分かかった。

万葉集の歌だけではない。古事記に載る古歌もでてくる。仁徳天皇が女鳥王(めどりのみこ)に(古-67)「女鳥の わが 王(おおきみ)の 織ろす服(はた) 誰(た)が為(た)ねろかも」、これに女鳥が答えた(古-68)「高行くや 速総別(はやぶさわけ)の 御被服料(みをすひがね)」である。

この歌を理解するには、古事記の仁徳天皇の条の知識が要る。すなわち、天皇は女鳥王を妃に欲しいと思い、弟の速総別に仲介を頼んだ。 女鳥王はそれを拒絶し、逆に速総別の妃になることを望み、二人は夫婦となった。

天皇は速総別 から返事がこないので、女鳥王の家にいくと女鳥王は機を織っていた。「誰の衣服を織っているのか」と聞いたのが(古-67)である。女鳥王は「高く空を飛ぶ速総別の着物です」と答えたのが(古-68)である。ここで天皇は二人が契っていることを知る。

女鳥王は事を天皇にあらわにしたあと、速総別に(古-69)「雲雀(ひばり)は 天翔ける 高行くや 速総別 鷦鷯(さざき)取らさね」という。雲雀よりも高く飛べる隼(速総別)よ、鷦鷯(さざき)を殺してしまいなさい。仁徳天皇の名は大鷦鷯(おおさざき)である。鷦鷯はミソサザイのことで、雀よりも小さい。

これを漏れ聞いた天皇は二人を討つべく軍勢を出した。二人は逃げる。倉椅山(くらはしやま)をよじ登り、宇陀の曽爾(そに)まで逃げていったところで殺された。速総別は倉椅山を登るとき、2つの歌を詠っている。(古-70)「梯立(はした)ての 倉椅山を 嶮(さが)しみと 岩懸(か)きかねて 我が手取らすも」、(古-71)「梯立(はした)ての 倉椅山は 嶮(さが)しけど 妹と登れば 嶮(さが)しくもあらず」。

こういうことを知っていないと「死者の書」が表現している世界をイメージできない。


雌岳頂上には日時計があった。説明板に次の地図が掲げられていた。

説明では「北緯34度32分の線上に太陽崇拝および山岳信仰と何らかのつながりがある古代祭祀遺跡が並んでいる」そうである。 地図を見ると、なるほどそうである。東から西にかけて、
  1. 神島(答志島から見た)
  2. 斎宮跡(と伊勢神宮)
  3. 室生寺
  4. 長谷寺
  5. 三輪山
  6. 檜原神社
  7. 箸墓
  8. 二上山
  9. 大鳥神社




雌岳山頂に歌碑があった。

  大坂(おほさか)を    わが越え来れば
  二上(ふたかみ)に    黄葉(もみじば)流る
  時雨(しぐれ)ふりつつ  (10-2185。作者不詳)

二上山の北の大坂越えをしてくると、二上山の下の谷に黄葉が流れている。時雨はいつまでも降っている。そういう意味だろう。 この歌は山ではなく川を詠っている。雌岳山頂に据える歌碑ならば、次の歌のほうがよいかと思う。

  紀伊道(きぢ)にこそ   妹山(いもやま)ありといへ
  玉櫛笥(たまくしげ)    二上山も
  妹こそありけれ      (7-1098。作者不詳)

紀伊道には妹山(背山と対になって有名)があると人はいうが、二上山にだって妹山(雌岳)があるではないか。

「玉櫛笥」は「2(フ)」とか「3(ミ)」の枕詞である。櫛や化粧道具を入れる小箱には「蓋(ふた)」と「身(み)」がある。この歌の場合は蓋を思い浮かべて、玉櫛笥→ふたかみ山と続く。身を思い浮かべるときは、玉櫛笥→みもろの山と続く。


別に石碑があった。「おおさか山の日 制定記念」とある。大阪府は11月第2日曜日を山の日と定めて、府民が山に親しみ、山を守り、次世代に伝えていこう、という運動をしているようである。石碑の前に置かれている黒い石は二上山が産出するサヌカイトだろう。

「二上山」を詠った歌は万葉集には2つしかない、大来皇女の(2-165)とこの(7-1098)だけである。「二上」を詠んだものも2つしかなく、上の(10-2185)と次の(11-2668)である。

  二上(ふたかみ)に   隠らふ月の
  惜しけども        妹が手本(たもと)を
  離(か)るるこのころ

二上山に隠れてしまう月のように惜しいのだが、妹の手枕から離れているこのころである。

作者は二上山に隠れようとしている月を見て、妻か恋人の手枕を思い出したのであろうか、そういえば長く妻の許に通っていないな。あるいは賦役に駆り出されて地方から都に滞在していたのかも知れない。家を出てからずいぶんと時がたったことだ、ああ妻の手枕が恋しいと思ったのか。


昼時である。さきほど茶店で買ってきた草餅を食べる。草餅は100円、お茶も100円。

それにしても雌岳山頂には日時計あり、石碑あり、万葉の歌碑ありで賑やかなことだ。雄岳にあった石碑は「大津皇子御墓 東一丁」という道標だけであった。これは雄岳山頂近辺は神社の私有地であるせいであろうが、大阪府と奈良県の違いによるものでもあろう。

詳細な地図で見ると、雄岳山頂は奈良県である。雌岳山頂は大阪府・奈良県のどちらとも判断できないが、馬の背から雌岳に上ってきた整備された道は大阪府側にあるので、雌岳山頂付近の管理は大阪府がしているようである。


日時計の説明板には「雌岳は御来光を拝するのに格好の場所・・・」という文言があったが、ご来光(朝日)が見えるのは雌岳より西にある大阪府側である。奈良県側からは二上山に沈む夕日が見えるのである。日時計を設置したのは大阪府であることがわかる。

歌碑を建てたのも大阪府であろう。彫られていた歌(10-2185)に「大坂(おほさか)を わが越え来れば」と大阪が出てくるではないか。「おおさか山の日」の石碑は、いうまでもなく大阪である。3つのものはすべて大阪に関係するものである。雌岳山頂は完全に大阪府の管理下にある。



(次図)大和方面を望む。東南東方向である(東は木立が茂っていて見えない)。中央手前に畝傍山。その向うに多武峰、さらに奥に音羽三山(多武峰と音羽三山は近いので重なっている)。 右側の遠く高い山々は吉野の山であろう。



(次図)河内方面を望む。西南西である(真西はやはり木立が茂っていて見えない)。中央に富田林にあるPLの塔。手前の山裾の町は太子町である。盆踊りがあるのか、河内音頭がうるさいほどに聞こえてくる。




下山する。写真は雌岳を少し下ったところで南を向いて撮った。

最も奥の薄い山は金剛山、それとほとんど重なるようにあるのが葛城山。その手前の左右対称の姿をしているのが岩橋山。

山稜の右側は大阪府、左側は奈良県。

山と山の間の鞍部には道があることが多い。その道の最も高いところが峠である。手前からいうと、雌岳が落ち込んだところが岩屋峠。その次の山(左側から右下に下っている山)の向うに竹内峠。

中央の通信塔(その右にある赤白の送電塔ではない)が立っている山の向こうに平石峠がある。


岩屋への道は結構急な下り坂である。

アジサイが群生している。

ここにあるアジサイは、身近に見るアジサイ、すなわち青紫の小花がこんもりと密集し半球形になったものではない。中央部に小花があり周辺部に大花が咲いている。向日葵(ひまわり)のような形である。あとで調べたら「ガクアジサイ」であることを知った。

奈良県側から登ったときには見かけなかったアジサイである。大阪府が二上山の西斜面にアジサイを植えたのだろう。アジサイの木の周りの草が刈られているのを見ても、アジサイは意図して植えられたものであり、毎年その環境を保つ努力がなされていることがわかる。

岩屋の石窟寺院跡。




舗装されている広い道に出た。この道は太子町字山田の奥で、竹内街道から分岐し、先ほどの岩屋の石窟寺院跡の下を通って、雌岳の西側をぐるっと回って雄岳と雌岳の中間に出るようである。

この道を岩屋まで行き、そこから大和側に山道を下ると、今日の登山を始めた祐泉寺へ至る。 江戸期までは岩屋〜祐泉寺の間の道はある程度整備されており、竹内街道より北にある當麻寺や石光寺に行く近道であったという。

「おおさか山の日」を制定しただけあって、大阪府側の岩屋道はよく整備されている。途中に休憩所が設けられている。

腰掛けて休憩していたら、「石切場跡」の道標が目にとまったので、山道を登ってみた。

なるほど石が切り出されている。傍らに「石切場 高松塚」と書いた板が立っていた。ここから高松塚古墳の石槨が切り出されたようである。

石は凝灰岩なので加工しやすい。高松塚の石槨のほか、平城宮や法隆寺の基壇もおなじ二上山麓から切り出されたものであるということは、香芝市の二上山博物館で知った。 

岩屋道が終わったようである。ここで竹内街道に合流する。


国道166号線はだいたいが旧竹内街道と同じところを通っている。竹内街道と呼ばれるのは字「竹内」を通る道だからである。竹内の北隣が字「當麻」である。かつて竹内から166号線を歩いて「上ノ池」に行ったことがある。司馬さんが「街道をゆく(1)」でカミノイケについてユーモラスに書かれていたので実見したかったからである。

そのときの166号線は歩道がなく、脇を大型トラックがビュンビュンと飛ばしていくものだから怖かった。できれば上ノ池より上にある竹内峠まで行きたいと思っていたが、断念したことを覚えている。

こちら(竹内峠の西)側も歩道はないが、車線とガードレールの間が広いので助かる。向うの交通標識が立つところが竹内峠。峠を越えると奈良県になる。

竹内峠を越してすぐに「竹ノ内街道入口」の案内板があった。車は入れないようにロープが張ってある。これが旧街道であろう。


旧街道は166号線の南側に沿って下っていた。

ここで雨が降り始めた。幸いにして道の両脇には杉やら広葉樹やらが枝を広げているので、木の下にいれば雨に濡れることはない。座りこんで雨が止むのを待つ。

だが雨脚は一層激しくなり、枝葉からしずくがポタポタ落ちてくるほどになった。これはいかんと傘を広げる。そういえば前回竹内に来たときも雨にあって名前は忘れたが寺の軒先で雨宿りをしたことがあった。竹内では雨に縁がある。

小雨になったので傘をさして歩く。見覚えのある池に出た。上ノ池だ。

旧街道は上ノ池で166号線に合流し、再び歩道のない国道を歩く。

166号線と旧竹内街道の分岐点(合流点)にやってきた。旧竹内街道は黄色い道である。前回来たときは、その前日に舗装されたばかりのピカピカの道であった。

166号線はここから歩道がついているようだ。166号線をそのまま歩くことにした。

国道166号線から分岐する道があって、當麻寺まで0.9Kmと案内板があった。その道を進む。

見えてきたのは当麻の集落だろう。さすれば左の小山の向こうに當麻寺があるはずだ。



(次図)當麻寺が見える。手前の青い田んぼ、古い大きな農家。その上、麻呂子山の端を背景にして立つのは東塔である。塔の右に東大門の屋根が見える。東塔の上には雌岳、右に大きく雄岳が寺を圧している。

山々の谷あいからはさっき降った雨が山の地熱に暖められて靄となって立ち上る。



先の右大臣藤原豊成(とよなり)の屋敷は平城京の左京三条七坊にあった。当主の豊成は孝謙天皇のとき右大臣であったが、橘諸兄の子供の橘奈良麻呂の謀叛に加担したと疑われて、757年に太宰員外帥として左遷され、初めは筑紫にいたが、今は難波の地に戻っている。

豊成には娘がいた。家族の半ば、舎人たちの多くは豊成に従って任地に出向いていたが、この姫は平城京の屋敷に残っていた。あるとき豊成から称讃浄土経が姫のもとに届けられた。まだどの大寺にもない珍しい経であった。これを講義する僧はいず、よしいたとしても女の身ではそういう場所にいけなかった。姫は称讃浄土経の写経を始めた。その年の春分の日、姫が正座して西の空を見ていると、二上山の二つの峰のあいだに、ありありと荘厳な人の俤(おもかげ)が瞬間現れた。

姫は称讃浄土経を一千部写経する願を立てた。その年の秋の彼岸の中日にも同じように荘厳な人の俤を見た。そして昨日は春の彼岸の日であった。姫はひと月も前からこの日を楽しみに待っていた。「死者の書」はいう。


『朝から晴れて、雲雀は天に翔けり過ぎて、帰ることが出来ぬほど、青雲が深々とたなびいていた。郎女(いらつめ)は九百九十九部を写し終へて、千部目にとりついて居た。・・・・・経巻の最後の行、最後の字を書きあげて、ほつと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなつて居る。目をあげて見る蔀窓(しとみど)の外には、しとしとと−−音がしたゝつて居るではないか。姫は立つて、手づから簾をあげて見た。雨。』


あの方の俤を見ることができなかった。姫はその夜、三条七坊の邸宅を出て、雨の中を夜通し歩いて、ここまでやって来た。




なぜ「ここ」といえるのか。当時の當麻寺の正門は南大門であった。南大門を入ると左右に塔(東塔・西塔)があり、境内の中心に金堂が、その北に講堂がある、という薬師寺のような伽藍配置をしていたのである。

上の写真の道は東塔の位置からして、かつてあった南大門に通じていたと思われるのである。姫はこの道を歩み、南大門の前にやってきた。

『その女人は、日に向かつてひたすら輝く伽藍の廻りを、残りなく歩いた。寺の南境は、み墓山の裾から、東へ出てゐる長い崎の尽きた所に、大門はあつた。其中腹と、東の鼻とに、西塔・東塔が立つて居る。丘陵の道をうねりながら登つた旅人は、東の塔の下に出た。』

(「み墓山」とは麻呂子山のこと)

『何時の間にか、塔の初重の欄干に、自分のよりかゝつて居るのに、気がついた。さうして、しみじみと山に見入つている。まるで瞳が吸ひこまれるように。山と自分とに繋がる深い交渉を、又くり返し思ひ初めていた。』


現在の正門である東大門(仁王門)から入る。

ようやく寺では人の動きが繁くなり出し、姫は寺奴に見咎められた。寺は高貴な身分の姫が結界を破ったことに驚き、三条七坊の屋敷に使いを出した。屋敷からは留守を預かる長老や姫の乳母らが供を従えてやってきた。

寺の言い分は『貴族の姫で入らせられようが、寺の浄域を穢し、結界まで破られたからには、直にお還りになるやうには計(はから)はれぬ。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、その贖ひはして貰はねばならぬ』 であった。

現在は失脚しているとはいえ父は先の右大臣であり、藤原の氏上である。叔父は天皇を補佐するNo.1の職(大師)にある藤原仲麻呂である。寺をひと睨みするだけで、三条七坊の屋敷に戻ることはできる。だが姫は寺にとどまった。


境内。左に麻呂子山、右に二上山雌岳。中央の山は岩橋山の端山。

寺に駆けつけてきた姫の乳母や付き人を前にしていったのである。

『姫の咎(とが)は、姫が贖(あがな)う。此寺、此二上山の下に居て、身の償ひ、心の償ひした、と姫が得心するまでは、還るものとは思やるな。』

姫のために小さな庵が与えられた。庵には当麻の氏の語部(かたりべ)である老女がいた。老女から、その昔大津皇子が磐余の池で死に際に耳面刀自(みみものとじ)を目に止め、これがこの世に残る執心となっていること。耳面刀自は大職冠(藤原鎌足)の娘であったので、今でも藤原4家の中で一番美しい娘が、大津の霊魂には耳面刀自に見えること。その大津の執心に導かれて姫はこの当麻にやってきたこと、などを聞かされる。

麻呂子山の下に東塔が立つ。その下の白壁の建物は中之坊。中之坊には入ったことはないが、本堂は「中将姫剃髪堂」というから、姫がいた庵がのちに大きく建て替えられたのかもしれない。

左は金堂、右は講堂。正面が曼荼羅堂。

當麻寺の縁起は、推古20年(612年)に用明天皇の皇子である麻呂子親王が河内国山田の里に万法蔵院禅林寺を創建したのが初めである。

のちに麻呂子親王の孫である当麻真人国見(たぎまのまひと・くにみ)が現在の地に移し、681年〜685年にかけて伽藍を拡張して、寺号を當麻寺としたという。

大津皇子が亡くなったのは686年だから、大津はこの寺を知っていたであろう。


金堂(重文)は鎌倉期に再建。真ん中に塑造の弥勒仏坐像(国宝)、四隅に四天王立像(重文)が安置されている。この四天王像は実によい。

姫が庵堂に初めて泊まった夜、大津の亡霊が現れる。

『物の音−−つた つた と来て、ふうと佇(た)ち止まるけはひ。耳をすますと、元の寂(しづ)かな夜に、−−激(たぎ)ち降る谷のとよみ。
 つた つた つた。又、ひたりと止む。 この狭い庵の中を、何時まで歩く、跫音(あしおと)だらふ。
 つた。 郎女(いらつめ)は刹那、思ひ出して帳台の中で、身を固くした。次にわぢわぢと戦(おののき)が出てきた。』

ついに姫がいる帳台の帷帳(とばり)に手がかかった。


『郎女は目を瞑(つぶ)つた。だが−−瞬間睫(まつげ)の間から映つた白い指、まるで骨のやうな−−帷帳を掴んだ片手の白く光る指。
 なも 阿弥陀ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。
何の反省もなく、唇を洩れた詞。この時、姫の心は、急に寛ぎを感じた。』


講堂(重文)も鎌倉期に再建。丈六の阿弥陀如来(重文)をはじめ、4体の重文の像がある。

姫が二上山に見た俤びとではなかった。帷帳を掴んだ指は白骨のようであった。姫は仰ぎ寝ていた。そのとき俤びとを幻視する。

『明るい光明の中に、胸・肩・頭・髪、はつきりと形を現じた。白々と袒(す)いだ美しい肌。浄く伏せたまみが、郎女の寝姿を見下ろしている。かの日の夕(ゆふべ)、山の端に見た俤びと−−。乳のあたりと、膝元にある手−−その指(および)、白玉の指。』

皇子の亡霊は幾度か現れた。姫はあの音の歩み寄ってくる恐ろしい夜更けを待つようになっていた。骨が疼くような戦慄の快感を待っていた。だがその足音はしだいに間遠になっていき、ついには現れなくなった。

東塔(国宝)天平期。

姫を世話するために都から若者や若い娘が寺に呼ばれ、庵堂の傍に板屋を立てて仕えていた。ひと月ほど経ったとき、若者たちはつくねんと日を過ごすことに倦んで、蓮の茎から糸を紡ぐことを始めた。蓮糸のたばは日に日に増えて庵堂のなかにしだいに高く積まれていった。姫は若人らがする作業に見入っていた。

そういう中で、秋分の日がやってきた。姫は庵堂を抜け出して寺の門前に来た。浄域を穢して物忌みにこもっている身である。門の内には入らず、門の閾(しきい)から伸び上がるようにして山の際の空を見上げていた。

『雄嶽(をのかみ)と雌嶽(めのかみ)との間になだれをなした曲線(たわ)が、又次第に両方へ聳(そ)つて行つてゐる、この二つの峰の間の広い空際。薄れかゝつた茜の雲が、急に輝き出して、白銀の炎をあげて来る。・・・・肌 肩 脇 胸 豊かな姿が、山の尾上(をのへ)の松原の上に現れた。併し、俤に見つゞけた其顔ばかりは、ほの暗かつた。   今すこし著(しる)く み姿顕(あらは)したまへ−−』

西塔(国宝)天平期。

『しづかに しずかに雲はおりて来る。・・・・

庭の砂のすれすれに雲は揺曳(ようえい)して、そこにありありと半身を顕した尊者の姿が、手にとる様に見えた。匂ひやかな笑みを含んだ顔が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉ぢられた目は、此時、姫を認めたやうに、清(すず)しく見ひらいた。軽くつぐんだ唇は、この女性(にょしょう)に向うて、物を告げてゞも居るやうに、ほぐれて見えた。・・・・

あて人を讃へるものと、思ひこんだあの詞が、又心から迸(ほとばし)り出た。
 なも 阿弥陀ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。』

曼荼羅堂(国宝)天平期。中にある曼荼羅厨子と須弥壇も国宝。曼荼羅図は室町期に模写されたもので重文。(元本の曼荼羅図(国宝)は非公開)

それから姫はお付きの娘から機織りを習い、みずから機を織り始めたが、蓮糸を織ることは難しかった。

『郎女は、断(き)れては織り、織つては断れ、手がだるくなつても、まだ梭(ひ)を放さうともせぬ。
だが、此頃の姫の心は、満ち足らうて居た。・・・・
「此機を織りあげて、はやうあの素肌のお身を、掩(おほ)うてあげたい。」・・・・

  ちよう ちよう はた はた。
  はた はた ちよう...。』

行き詰ったときは、夢の中で当麻の語部の老女が尼の姿になって教えてくれた。姫は5反の布を織りあげた。

時節は次第に寒さを増していく。はやく衣服に仕立てなければならない。だが姫は裁縫の経験はなかった。切ったり解いたりしているうちに布はだんだん小さくなってくる。どうしたものか。 ここでも夢の中で当麻の語部に教えられた。

『何を思案遊ばす。壁代(かべしろ)の様に縦横に裁(た)ちついで、其まゝ身に纏(まと)ふやうになさる外はおざらぬ。それ、こゝに紐をつけて、肩の上でくゝりあはせれば、昼は衣になりませう。紐を解き敷いて、折り返し被れば、やがて夜の衾(ふすま)にもなりまする。』

2日もたたぬうちに大きな一面の布ができあがったが、それは殯(もがり)の庭の棺にかける布のようであった。回りの若者らは落胆したし、姫もこれではあまりに寒々としていると思った。

當麻曼荼羅。

姫は奈良の家にある唐から運ばれた絵具の数々を思い出した。使いをやって取り寄せた。

『姫は、緑青を盛つて、層々うち重なる楼閣伽藍の屋根を表した。数多い柱や、廊の立ち続く姿が、目赫(かがや)くばかり、朱で彩(た)みあげられた。むらむらと靉(たなび)くものは、紺青の雲である。・・・・

郎女は唯、先の日見た、万法蔵院の夕(ゆふべ)の幻を、筆に追うて居るばかりである。堂・塔・伽藍すべては、当麻のみ寺のありの姿であつた。だが、彩画(たみえ)の上に湧き上つた宮殿楼閣は、兜率天宮(とそつてんぐう)のたゝずまひさながらであつた。しかも、其四十九重の宝宮の内院に現れた尊者の相好は、あの夕、近々と目に見た俤(おもかげ)びとの姿を、心に覓(と)めて描き顕したばかりであつた。』

中将姫のブロンズ。蓮の花の上に立っている。

平安末期から鎌倉期にかけて阿弥陀如来を信仰の対象にする浄土教が大いに広まった。浄土教の経典はすでに白鳳期に日本に伝わっていたし、現に中将姫は称讃浄土経を写経しているが、広く民衆に伝わるにはいたらなかった。

浄土教は阿弥陀如来を観想し、阿弥陀のいる極楽浄土を想い、念仏を称えることによって極楽浄土に往生しようとするものである。そのはしりは市聖と呼ばれた空也(972年没)、「往生要集」を著した源信(1017年没)である。

平安末期になると、源信の書を学んだ融通念仏宗の良忍(1132年没)や浄土宗の法然(1212年没)が出、鎌倉期には法然の教えに連なる浄土真宗の親鸞(1262年没)、時宗の一遍(1289年没)が出る。鎌倉期には浄土信仰(特に念仏)がブームとなった。

極楽浄土を観想するには、視覚化できるイメージを持っていなければならない。そのイメージを表すものがあった。古く天平の時代から伝わる當麻寺の曼荼羅図である。中将姫が織ったという曼荼羅図は、密教の金剛界・胎蔵界を表す曼荼羅ではなく、浄土のありさまを描いた浄土変相図である。極楽をイメージ化したものである。ここに至って當麻寺の名はいやが上にも高まったのである。

一遍は當麻寺を訪れている。若き日の親鸞も二上山を越した河内にある太子廟を訪れているから、あるいはこの寺へ足を伸ばしたかも知れない。

近鉄・当麻寺駅プラットホームから二上山を撮る。

折口信夫さんが描く古代世界を表現する言葉を私は持っていないので、「死者の書」からの引用が多くなった。

雨に降られたが、中将姫が初めて當麻寺にやってきて見ただろう、雨上りの當麻寺を見ることができてよかった。今日の万歩計は28700歩だった。


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