桜井市・池之内

    No.72.....2009年7月13日(日曜)


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今年は町内会の緑化実行委員という役目をおおせつかっている。「緑化」とは公共の地の草刈と植樹をするのが仕事であり、「実行」とは夏祭りの準備と催しをするのが仕事である。

夏祭りは7月18日(土曜)に団地の中にある公園で行われる。7000人ほどの規模の団地であるからそうタイシタことはしないのだが、それでも盆踊り、夜店(住人が出す)、花火大会の3つを実施するので、この準備は結構大変である。

祭りが終わるまでは実行委員には毎週のように召集があって男性でもいやがる役目なのだが、今年の実行委員長はなんと女性である。奇特なことだ。これは盛り立てていかねばならないと、私は招集日には必ず出向いている。

例えば7月第1週の土曜日には公園の草刈をし、第2週は盆踊りおよび夜店の設備の準備をした。第3週は祭りの当日であるから、この日は早朝から盆踊りのヤグラから八方へ提灯を引っ張り、テントを張り、鉄板・水槽などの夜店の設備を整えねばならない。

写真は第2週の早朝。すでに先週草刈は終えてある。先週は公園内の平地の草は各町会(約100人)にまかせて、緑化実行委員は奥にある山の斜面の草を刈った。 特にどの区域を刈るという割り当てはないので、私は斜面の最も高い部分を刈ることにした。写真の左側の木立の部分は地元の人が持つ私有地である。開発業者が団地を作るときに小山の中腹から下を買い取って公園としたようである。私有地と公園域の境には金網の柵があって、柵より向うは雑木や蔓草が野放図に茂っている。

柵を越えて伸び、枝葉を広げた雑木の下の草を刈っていたら、首筋や肩・背中に枝先の葉々からしずくがポタリポタリと落ちてくる。はじめは何が落ちてきたのかと驚いたが、しずくであることがわかった。 ははあ、これが「山のしずく」だな。大津皇子が詠んだ次の歌を思い出した。

  あしひきの
  山のしづくに
  妹(いも)待つと
  わが立ち濡れし
  山のしづくに    (2-107)

見上げるとアケビが青い実をつけている。それもたくさんある。これは秋が楽しみだ。

アケビではないが、馬酔木(あしび)を詠んだ大来皇女(おおく。大伯皇女ともいう)の歌があったはずだと、帰宅して調べると、次の歌であった。

  磯の上に
  生(お)うる馬酔木(あしび)を
  手(た)折らめど
  見すべき君が
  ありと言はなくに   (2-166)

大来皇女と大津皇子は同母姉弟である。この歌は大津が謀叛の疑いをもたれ、磐余(いわれ)の池の堤で処刑され、二上山に葬られたとき、大来皇女がそれを悲しんで詠ったものである。そうだ明日は大来皇女と大津皇子にかかわりのある土地を訪ねよう。

二人にかかわりのある土地は、
  1. 大津皇子の屋敷があった桜井市の訳語田(おさだ)

  2. 処刑されたという磐余(いわれ)池の堤

  3. 埋葬された二上山(雄岳)

  4. 大来皇女が斎王をつとめていた伊勢神宮

  5. 伊勢神宮に行く前に身を清めたという初瀬にある旧斎宮跡

  6. 大来皇女が創建したという名張の昌福寺跡(夏見廃寺)
これらを数え上げることができるが、一日ではとても巡れない。今日訪れたのは、桜井市にある@訳語田(おさだ)、A稚櫻(わかざくら)神社、B御厨子(みずし)神社の3か所と、橿原市の近鉄百貨店からC二上山を遠望し、D名張に帰って夏見廃寺、のつごう5か所である。

大津皇子の邸宅があった訳語田(おさだ)という地名はもはや残っていないが、戒重(かいじゅう)という地区がそれであるとされている。地図を見ると近鉄の線路に沿って6〜700mほど西に行ったところにある。近道して細い路地を歩く。

大来皇女と大津皇子の父は大海人皇子(天武天皇)、母は大田皇女(おおたのひめみこ)である。大田と鵜野皇女(うの。持統天皇)は父(天智天皇)も母も同じ生粋の姉妹であり、ともに大海人皇子の妃になっていた。

大田は大来皇女(661年生)と大津皇子(663年生)を生み、鵜野は草壁皇子(662年生)を生んだ。大津皇子が不幸であったのは、大田が早世したことである。没年は不確かだが667年以前に亡くなっていたらしい。大津が4才か5才のころだろう。667年には天智天皇は飛鳥京を出て近江の大津京に遷都している。

桜井駅から300mほど離れただけなのに田んぼがある。北東方向に三輪山。右に巻向山が伸びる。左は龍王山。

遷都に伴って、大海人皇子の一族も近江に居を移したから、大来・大津の姉弟は近江で育てられた。大津は幼いときより利発で天智天皇に可愛がられていたという。

671年11月、大海人は皇太子の位を辞退して吉野宮に逼塞する。従ったのは鵜野皇女・その子の草壁皇子など数十人であった。

671年12月、天智天皇が薨去、その子の大友皇子が近江朝を受け継いだ。翌672年6月大海人皇子は吉野宮を出て挙兵した。壬申の乱の始まりである。大津や乱で最も活躍した高市皇子らは近江京にいたが、大海人が挙兵した2日後に近江を抜け出して鈴鹿で合流した。

乱は大海人皇子の勝利に帰し、大海人は飛鳥に戻って、即位して天武天皇となる。皇后は鵜野皇女がなった。 大田皇女が存命していれば大田が皇后になり、大津は皇太子の最有力候補となっていたことであろう。だが大田はすでに亡かった。鵜野皇女が皇后になり、その子の草壁が大海人と共に吉野宮に入ったことからしても、草壁皇子が皇太子になることは当然のことであった。大来皇女が12才、草壁が11才、大津が10才のときのことである。

吉野の盟約がなされたのは679年5月である。天武・鵜野皇后と6人の皇子が吉野宮に集い、皇位継承の争いをしないことを6皇子に約束させた。たぶんこれは皇后の大津に対する牽制がその目的であったろう。草壁に匹敵する皇位後継者は大津のほかにいなかったからである。大津16才のときである。


皇后の子供の草壁は凡庸であったという。一方大津は「風貌・体格ともにたくましく、文武両道に秀で、多く人望を集めていた」(歴代天皇総覧(笠原英彦)。

681年、草壁は皇太子となる。皇后の願いが実現した。だが日本書紀は、683年2月に大津が初めて朝政を執ったと記述している。

天武朝は役人に政治を委ねなかった。天皇・皇后・皇太子・諸皇子らによる皇親政治であった。大津を参政させたのは、皇太子は政治的能力が乏しいと天皇が判断したためかも知れない。大津はその能力によって政治の表舞台に出た。このとき大津は20才であった。

このことは皇后にとっては大いに警戒すべきことであった。 近江京時代、大海人は皇太子として天皇の補佐をしていたが、天智は子供の大友皇子を太政大臣に任命した。大海人の権力を太政大臣に移譲するためである。このとき大海人はわが身が危ういと知ったのである。そこで大海人は皇太子を辞して吉野へ逃避した。それと同じことが起きようとしているのではないか。大津は実力で草壁を超えてしまうのではないか。そういう思いがあったかと思う。


こんもりとした杜が春日神社であるらしい。市街地の戒重(かいじゅう)には白鳳期のなごりは残っていないであろうが、神社にはかすかにでも匂いが残っているかと、地図で探して目当てにして来た。

草壁が皇太子となって5年後の686年5月、天武は重病に陥り、9月9日に崩御する。皇后は大津を怖れたであろう。天武の権威のもとに皇后の権威があり、皇后の権威のもとに草壁皇太子がなりたっているのである。天武亡きあと、能力すぐれ人望のある大津が草壁に取って変らない保証はない。

10月2日、大津皇子の謀叛の噂が広まった。露見したのは、近江京以来大津とは莫逆の仲であった天智の子供の川島皇子の密告があったためともいう。皇后は大津を捕え、翌3日皇子の訳語田邸で死を命ずる。大津は磐余(いわれ)池の堤で死を賜った。大津が24才のときである。


春日神社。地図で見つけて予備知識なしにやってきたのだが、この神社は実は大変な由緒をもつ神社であることがわかった。神社の前の説明板は、この地は敏達天皇の訳語田幸玉(おさだ・さきたま)宮があったところであるという。また明治以前には戒重の小字に「他田(おさだ)」があって、春日神社は他田宮と称していたそうである。

桜井市の初瀬とか磐余(いわれ)は、飛鳥時代より前の歴代天皇の皇居があったところであるから、敏達天皇の訳語田幸玉宮があっても不思議ではない。それよりもこの場所がかつての訳語田であったことがはっきりしたのが嬉しい。

おそらくこの近くに大津皇子の邸宅があったのであろう。日本書紀には、「10月3日、大津は訳語田の舎(いえ)で死を賜わった。時に24才。妃の山辺皇女は髪を乱し、裸足で走り出て殉死した。見る者は皆すすり泣いた。」とその日の出来事を記している。


はて? 書紀は、訳語田の舎(いえ)で死を賜わったと記述し、磐余の池の堤で死んだとは書いていない。山辺皇女が裸足で飛び出したというのも処刑の場所は邸宅の敷地内か極めて近いところだったろう。私は、大津は訳語田の邸宅で罪を宣告され、磐余の池の堤で死んだと思い込んでいたが、書紀には池のことはいっていない。なぜ池の堤で死んだと勘違いしたのだろうか。

春日神社は国道169号線に面していて、子供らの遊び場になっているためか、境内の手入れは充分ではないようである。玉砂利は敷いてなく地面が露出している。朱に塗られた本殿は小さい。いけないのは別の祠をコンクリート塀で囲っている無感覚さである。境内にそびえるせっかくの古木がこれでは台無しである。

これまで読んだ本をあれこれとひっくり返して調べたところ、勘違いの元は万葉集にあった。次は大津皇子の辞世の歌であるが、その詞書(ことばがき)に、

『大津皇子、死を被(たまは)りし時に、磐余(いはれ)の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首 』とある。これを見て私は池の堤の上で、大津は自刃したか斬首されたかと思い込んでいたわけだ。



百伝う(枕詞)  磐余の池に
鳴いている鴨を  今日を限りに見て
死んでいくことだ


大津が磐余の池の堤で処刑されたのではないとしても、上の一首が詠まれているのであるから、死ぬ前に大津は池を目にしていたはずである。磐余の池は今はない。溜め池は多くあるがすべて後代のものであるという。だがそれを探しに行こうと思っている。

近鉄電車のガード下を抜けて南下する。向かうのは「池之内(桜井市)」「東池尻町(橿原市)」という「池」に関係する地名である。

「飛鳥−水の王朝」(千田稔)によると、磐余には次の宮(皇居)があったそうである。
  1. 磐余若櫻(わかさくら)宮  履中天皇(5世紀前半)
  2. 磐余甕栗(みかくり)宮   清寧天皇(5世紀末)
  3. 磐余玉穂(たまほ)宮    継体天皇(6世紀前半)
  4. 磐余池辺双槻(いけのべのなみつき)宮  用明天皇(585年〜587年)
特に用明天皇の磐余池辺双槻宮は、「池のほとりの2本の槻の木がある宮」ということであろうから、池のそばに皇居があったのだろう。また日本書紀に、履中天皇は磐余若櫻宮で即位し、翌年磐余池を作った。その翌年に市磯池(いちしのいけ)に両股船(ふたまたふね)を浮かべて遊んだという記述もある。 磐余のどこかに池があったことは確かである。その場所は「池之内」「東池尻」のあたりであろうというのが現在の通説である。


国道169号線を南下している。西には耳成山(中央の三角の小山)が見える。

大海人は吉野宮を出て挙兵した3日目に、朝明郡(あさけ。三重県三重郡)で天照大神を遥拝し神の加護を頼んだ。首尾よく戦さに勝利した天武天皇は、自分を加護してくれた伊勢神宮を国家の守護神として手厚く祀るのである。

即位した翌年673年に、数いる未婚の皇女のうちから大来皇女を選び、斎王となって伊勢神宮に仕えることを命じた。大来皇女が14才のときである。 大来は同年4月から初瀬の斎宮に移り身を清めて、翌674年10月に伊勢神宮に行く。大津が死を賜ったとき、大来は26才であった。天武朝の名代として神に仕えること12年間が過ぎていた。


北東には三輪山、その左に龍王山。

天武天皇には多くの妃があった。天武の子供たちは宮殿で共に育てられるのではなく、それぞれの妃の手許で養育される。大来・大津の母親の大田皇女は若くして死んだ。そういうときは大田の実家が育てるのであるが、ここにも不運があった。大田(鵜野も同じ)の母親は蘇我石川麻呂の娘の遠智娘(おいち)であった。

石川麻呂は大化改新のあと右大臣の位にあったが、649年に冤罪をかけられ失脚、自殺している。遠智娘も「遂に心を傷(やぶ)るに因(よ)りて死ぬに至りぬ」と書紀は述べている。大来・大津姉弟には手助けできる母方の実家はなかった。

こういう境遇にあっては、姉弟は互いを頼みとし、思いやる心が強く、強い絆で結ばれていただろうことを想像するに難くない。


南には多武峰(とうのみね)が見える。飛鳥京はこの麓にある。

国道169号線は飛鳥・奈良時代には「上ツ道」と呼ばれていた。 写真に交通表示板があるところが「阿部」の交差点である。ここを左に曲がれば初瀬街道である。初瀬街道は桜井→初瀬→榛原→名張→青山峠をへて伊勢に通じている。

交差点をまっすぐ進むと、道はゆっくりと右に曲がり、ついには東西を向いた道になる。往古は「阿倍山田道」と呼ばれていた。この道は飛鳥京の北限、藤原京の南限を通っている。天武存命中、大津は訳語田の館を出て、上ツ道→阿倍山田道を通って飛鳥京に出仕していた。

阿倍交差点の次の信号で西折れした。池之内にある稚櫻(わかさくら)神社に向かっている。

天武天皇が薨去したのは9月9日であったが、大津は9月24日から26日にかけて(「万葉集・釈注」伊藤博による)伊勢にいる大来に会いに行っている。天武亡き後の己の行く末を考えたとき、おそらく皇后によって抹殺されると感じ、姉に別れの挨拶をしたのか。やられる前に謀叛を起こそうと、国の守護神に仕える姉を頼ったのか。それはわからない。

大津と会談した後、大来皇女は次の2首を詠んでいる。


わが弟を大和へ帰らせたあと
明け方近くまで立ちつくしていたので
すっかり露に濡れてしまった。


二人で行っても行き過ぎがたい
秋の山だのに、どのようにしてあなたは
一人で山を越えているのだろうか。

大津の処分は軽くて蟄居か出家、重ければ抹殺されるであろうことを大来は予感していたに違いない。弟を大和に帰したあと、皇女は弟の身を心配し案じて、見送った場所にいつまでも立ちつくしていた。気がつけば暁方である。衣も裳も夜露にびっしょりと濡れていることにようやく気づいた。

さらに思う。大津は一人で伊勢を訪ね、一人で帰っていった。おそらくは大和に戻ったとて、大津に味方する者はいないであろう。それほど皇后の力は強いのである。大津の身をいくら案じても私にはどうすることもできない。

すぐに田んぼになった。「磐余・風致地区」という標識が立っている。このあたりはかつて磐余と呼ばれ、飛鳥時代以前に多くの天皇が皇居を構えたところである。いよいよ磐余池があったであろう地にやってきた。

南にこんもりと木が茂っている丘がある。2本の木だけがやけに高いのは、その木が古木だからであろう。木を伐採することなく保存しているのは神社であるからであろう。

案内板はどこにも立っていないが、地図を見るとどうやら稚櫻(わかさくら)神社のようである。

その丘の下まで行ったが神社の鳥居が見当たらない。道なりに進む。

丘を半周したところに鳥居があった。「稚櫻神社」の額が掲げられている。

鳥居下に案内板があって、おおかた次のようなことが書かれていた。

履中天皇は、履中3年冬11月6日に市磯池(いちしのいけ)に両股船(ふたまたふね)を浮かべて遊ばれたときに、膳臣(かしわでのおみ)が酒を奉った。その盃に散ってきてきた桜の花びらが浮かんだ。時期外れの桜花を不思議に思われ、家臣にどこに咲いているのかを調べさせると、御所の室山に咲いていた。珍しさに喜ばれて宮の名を磐余稚櫻宮とされた。

神社の付近に履中天皇の皇居があったのであろう。

市磯池(いちしのいけ)は稚櫻神社の東側にあったとも書かれてあった。東側ならさっき通ってきた道沿いである。だがこの辺りの土地はやや西に向かって傾斜しているから、もし池を作るのであればそこそこの規模の堰堤を築く必要がある。

堰堤を築くことは当時の土木技術があれば容易であろう。崇神天皇陵は龍王山の裾の斜面に作られているが、周壕を作るために高さ7〜8mの堰堤を築いているし、応神天皇が作ったという橿原市の剣池も5〜6mの堰堤を築き水を貯めていた。

市磯池(いちしのいけ)は磐余池と同じ池であろうか? もし市磯池が灌漑のための溜池であるならば、池は高い土地に作ったほうがよいが、皇居の苑池であるならば平坦な地に作ったほうがよい。

千田稔さんは「飛鳥−水の王朝」の中で、磐余池は宮と一体になっていた可能性が高いといわれている。池は溜池ではなく苑池であろうとされている。そうなら池は平坦な地にあったことになる。

丘の上はそこそこの広さのある境内である。ただ祭神が履中天皇、神功皇后では、神社もそのご利益を伝えようがなく、地元の氏子は別として参詣する者も少なかろう。やや荒れた感じであった。

稚櫻神社の横の道を西に下る。そこまでの田んぼは段差は低いながら棚田風であったが向こうに見える田んぼは一面が水平である。この土地で最も低い場所だと思われる。

振り返って稚櫻神社を撮る。小山に2本の木が飛び出ているのが神社である。その背景の山は音羽山。

稚櫻神社のある丘は高い位置にあり、神社からここまで土地は傾斜して下がってきていることがわかる。


最も土地が低いと思われる田んぼにやってきた。南を臨むと平地である。やはりここが磐余池の候補地のひとつであろう。

(次図)地図を見ると、そこから少し北に小さな溜池があるようなので30mほど歩いた。地名は桜井市池之内から橿原市東池尻町に変る。名前からすれば、昔の池之内は磐余池の池底であり、東池尻は池の際があった場所と考えるのが素直である。

溜池は葦で覆われていた。鳥の鳴き声や蛙が飛び込む音がするから、涸れてはいないようだが、水面は見えなかった。

中央の平たい小山は鳥見山(245m)であろう。その右に三角の小山とそれを包む三角の山が見えるが、手前の小さな三角の山は外鎌山(292m)、昔の忍坂の山である。

  隠口(こもりく)の   長谷(はつせ)の山

  青幡(あおはた)の  忍坂(おさか)の山は

  走出(はしりで)の  宜(よろ)しき山の

  出立(いでたち)の  妙(くは)しき山ぞ

  あたらしき  山の  荒れまく惜しも

            (13-3331) 作者未詳

溜池の横に「御厨子観音」の案内板が立っていた。清寧天皇の磐余甕栗(みかくり)宮跡は、御厨子(みずし)神社となっていると聞いている。「観音」とあるが近くに神社もあるだろうとして、そこへ向かう。

向こうの丘に御厨子観音か御厨子神社があるのだろう。丘の下には結構な広さの駐車場がある。

「一願成就・御厨子観音」の石柱がある。左の車が通れる道は観音への道、右が御厨子神社への道であろう。観音のほうは道が立派である。

観音と神社の分かれ道から南東を向いて撮る。正面は多武峰。手前の耕作地は先ほど見当をつけた磐余池だったろうと思われる場所である。

真東を向いて撮る。正面のゆったりしたカーブを描くのは音羽山。その少し右の三角は経ケ塚山。右は多武峰。手前に八釣山が重なっている。


歌碑があった。犬養孝さんの書になるもので、

  百伝ふ
  磐余の池に
  鳴く鴨を
  今日のみ見てや
  雲隠りなむ   (3-416)

である。説明板には、「この碑の東側に磐余の池があったと使えられています。」と書いてある。やはり上図の場所に池があったようだ。

大津皇子は訳語田の館から、この場所に移送されて、堤の上で死んだといわれているが、日本書紀にはそのような記録はないということはすでにいった。


御厨子神社へ登ってみた。

万葉集の詞書の『大津皇子、死を被(たまは)りし時に、磐余(いはれ)の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首 』からすれば、この場所で死を迎えんとしたときの辞世の歌と受け取るのが普通である。だが訳語田からここまでだいたい2.5〜3kmの距離があるだろう。わざわざ磐余の池までやってきて処刑した理由がわからない。

この歌は大津皇子の詠ったものではないのではないか、と疑問を提起する学者は多い。 中西進さんは、この当時、辞世の歌を詠むという習慣はなかったといわれる。伊藤博さんは「雲隠る」という言葉は貴人の死を遠まわしにいう言葉であり、本人が使う言葉としては不自然であると指摘されている。

御厨子神社もやや荒れていた。清寧天皇の磐余甕栗(みかくり)宮跡だろうと推定されている神社であるが、それについての説明はなく、祭神の案内もなかった。

伊藤博さんは歌心がよくわかる人であろう。次のように言われている(「万葉集・釈注」)。

『一首を後人仮託の歌とする見方がある。これはおそらくあたっている。しかし後人の仮託などとは決して思いたくないような、これはどうしても皇子のじかの声であってほしいような魅力がこの歌にはある。』

私も同感である。

これで3つの神社を見た。近鉄電車の線路からずいぶん南に下ってきている。近鉄電車が走っている北に向かって戻ることにした。

大来皇女は伊勢で弟を見送ったその数日後に、大津が死を賜ったという連絡を受けたはずである。母はすでにない。父の天武は薨去したばかりである。そこへ唯一の肉親である弟までが殺されてしまった。自分ひとりが取り残されたのである。

大津が処刑された日から1か月半の後、大来は弟の罪のために伊勢の斎王の任を解かれ、飛鳥京に戻った。

(次図)御厨子神社(右端の丘)をやや北に来たところ。右に音羽山・経ケ塚山。左は多武峰。多武峰の境目に熊ケ岳が見える。手前の田んぼまで磐余池があったのかどうかは不明。



田んぼに鷺がいた。首は白いが背が灰色なのでアオサギのようである。

任を解かれた大来皇女が飛鳥に戻る途中に詠った歌がある。詞書に、

『大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大来皇女、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首』

とある。詞書を付けた万葉集の編者は、伊勢から飛鳥京までの道中で詠ったと推定したようだが、都にある大津の館にやってきたときに詠ったと考えてもよい。


神風の吹く  伊勢の国に
おればよかったものを、どうして大和に帰ってきたのだろう
わが弟はもういないのに


逢いたいと思っていた弟もいないのに
どうして大和に帰ってきたのだろうか
馬が疲れるだけなのに

近鉄電車の線路に突き当るまで北上している。

上の二首のどちらの歌にも「なにしか来けむ」と(弟が)「あらなくに」を使っている。京へ帰る途中で弟はもういないことを思って詠んだのではなく、京に戻って、現実に弟はもういないことを痛切に感じたのだろう。

弟がいない京になぜ帰ってきたのか、自分がノコノコと京に戻ってきたことすら腹立たしい。馬が疲れるだけであるとまでいう。自分が弟を支えてやることができなかった無力さへの腹立ちか。あるいはこのような仕打ちをした皇后に対しての怒りなのであろうか、大来の感情が激しく吐露されている。

(次図)大きな溜池があった。鴨はいなかった。ここは橿原市膳夫(かしわで)町である。先の稚櫻神社の説明板に、履中天皇が両股船に乗って遊んだとき、膳臣(かしわでのおみ)が酒を奉った、という記述があったが、膳臣はこの辺りを地盤にしていたのかも知れない。橿原市とか桜井市は古い時代の地名が多く残っている。



近鉄耳成駅からひと駅だけ電車に乗って、大和八木駅に着いた。

大和八木駅は橿原市のメインターミナルである。駅前広場には、神武東征にちなむ金鵄のモニュメントがある。右の緑色の建物は駐輪場だが、その壁面には遣唐使船のレリーフがある。

大和八木駅のすぐ近くに近鉄百貨店がある。この屋上からの眺望はすばらしい。


(次図)近鉄百貨店の屋上から二上山を遠望する。真ん中の双子山が二上山。左の低いほうが雌岳、右の高いほうが雄岳、2つあわせて二上山である。



大津が死を賜ったのは686年10月であった。鵜野皇后がそれほどまでして皇位につかせようとした草壁皇太子は689年4月に病死する。皇后はこれを大津の祟りだと怖れたのだろうか、大津皇子を二上山に移葬することを命じた。大来皇女がそのときのことを詠った歌が2首ある。


この世の人である私は
明日からは、二上山を
わが弟と思ってみよう


岩のほとりに生えている馬酔木を
手折ろうとしたが、それを見せるべき君が
この世にいるとは、誰も言ってくれない


屋上から次の階へ降りて、ビヤレストランに入る。ここでは食事をしながら二上山を見ることができるのである。

二上山は飛鳥京からは西北西方向、藤原京からはほぼ真西にある。西を向けばいやでも目にはいる山である。山の頂上(雄岳517m)に円墳が築かれ大津皇子は葬られている。

(2-165)の歌では、大来皇女は諦観している。二上山の山頂に眠る弟よ、私はいつでもあなたのことを想っている。見守るのは私しかいないから。

馬酔木は2月から5月にかけて開花する。枝先に、小さい壺形の白い花が房になってびっしりと咲く。その時期に大来は馬酔木を見つけたのであろう。つい手折って持ち帰ろうとしたが、見せるべき弟はいない。それどころか、誰も「大津皇子を見かけましたよ」と、慰めの言葉をかけてくれない。

当時は死者を出した家族に、どこそこで亡き人を見かけた、霊魂は残っていますよ、と慰めるのが風習であったという。 柿本人麻呂も、引手山の長歌(2-210)で、

  大鳥の     羽易(はがひ)の山に
  わが恋ふる   妹は座(いま)すと
  人の言へば  石根さくみて  なづみ来(こ)し  ・・・・

知人が「羽易(はがひ)の山で、あなたの奥さんを見かけましたよ」と言ってくれたので、ゴツゴツとした岩を踏み分け、難渋しながらその山(引手山)に来てみたが・・・・と詠っている。

大津皇子は犯罪者であった。大来皇女は斎王の任を解かれて都にあるが、誰も世間をはばかって声をかけてくれない。だが私は弟を信じている。私だけが二上山にいる弟を見守っていくのだ。そういう2首であろう。


今日は蒸し暑かった。タコの揚げ物をアテにしてビールを飲む。

春分・秋分の日には、雄岳と雌岳の間に日が落ちるそうである。春秋の夕刻、この座席に座ってビールを飲んでいればそれを体験できるかと、ここへ来るたびに思うのだが、いまだに実現していない。

大来皇女が残した歌は、今日掲げた(2-105)(2-106)(2-163)(2-164)(2-165)(2-166)の6首だけである。全部が大津皇子を詠ったものである。

大来皇女のその後の消息は日本書紀には出てこない。続日本紀に、701年12月27日に大伯(大来)内親王が薨じた。と出ているだけである。

近鉄八木駅から特急に乗って名張へ戻ってきた。

名張には夏見廃寺跡がある。この寺は大来皇女の発願によるもので、当時は昌福寺と呼ばれていたという。

かつて訪ねたことがあるが、大来皇女の知識がなかったので、さほどの印象は残っていない。そこで再訪する。

「夏見(なつみ)」という地名は、おそらく古くは「菜摘(なつみ)」であったろうと思われる。前回訪ねた吉野町にも菜摘の地名があり、事実、正月に菜を摘んで神饌として供えたようである。夏見も菜を摘む清浄な土地とされてきたのではないか。

そうだからこそ、大来はこの地に昌福寺を建立したのだろう。寺は名張川に面した丘の南斜面に建っていた。


夏見廃寺のある場所はバス路線からずいぶん奥まったところなので、駅前からタクシーに乗ってやってきた。写真は展示館。入場料は200円。

貰ったパンフレットによれば、「薬師寺縁起」に以下のことが記されているそうである。

『大来皇女、最初斎宮なり。神亀2年(725年)を以って、浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。もと伊賀国名張郡にあり。』

発掘したところ、礎石や掘立て柱の穴が見つかり、寺の平面がわかったのだが、この寺の伽藍配置は異形である。中央に金堂があり、向かって左に講堂があり、右には掘立て柱の建築物があり、金堂の右に並んで三重塔があった。

掘り出されたものは、瓦とセン仏(せんぶつ)の破片、塑像の一部であった。

大来皇女は701年に死んでいるから、「薬師寺縁起」にいう725年にできたという寺より先に小規模な寺があったのではないか。どうも金堂が初めに建てられ、その後講堂と三重塔が725年に完成したのではないか。というのが名張市教育委員会の見立てである。


実際のところ、裏に694年を指す年号が彫られているセン仏が出土しているので、大来皇女は694年に金堂だけを建立したらしい。

写真は金堂跡。斜面の高いほうに向かって石段がつけられ、その上に河原石を積んだ基壇がある。礎石からすると、内陣(身舎。もや)が間口3間、桁行2間。外陣(庇)も間口3間、桁行2間である。こじんまりした建物である。

金堂跡から出土したのは多くのセン仏(タイル状の仏像のレリーフ)の破片であり、仏像はなかった。そこで金堂の本尊は仏像ではなく、セン仏を壁に嵌め込んだものではないかと推定し、金堂を復元したのが、(次図)のものである。(パンフレットを写した)

間口は3間である。中央の1間が扉になり、脇の間は連子窓になっている。中に入ると内陣の正面に金色に輝く大小のセン仏が嵌め込まれている。これが本尊である。

これはいい。奈良の例えば薬師寺の金堂には薬師如来を本尊として両脇に日光・月光菩薩が立っている。興福寺の東金堂はとても大きいのだが、薬師如来・日光菩薩・月光菩薩・四天王像・十二神将像など多くの仏像が安置してある。

仏像が一体もないというのはシンプルで、とてもエレガントである。大来皇女らしいではないか。


金堂のセン仏を復元したもの(パンフレット)。

中央に52cm×52cmの大きなセン仏が嵌め込まれている。中央に阿弥陀如来が座り、両脇に菩薩が立ち、周りを羅漢達が囲んでいる。この大型セン仏を縁取るかのように取り巻くのが、おそらく2.5cm×6cmほどの小型セン仏である。ここには如来だけが座っている。小型セン仏の数は約500枚。

外周部には中型のセン仏が嵌め込まれている。図は如来と2菩薩像の三尊である。その数は約100枚。 合計してザッと600枚のレリーフが壁に嵌め込まれ、上に金箔を貼って荘厳さを出している。

これを本尊とし、これに向かって大来は経を誦したのである。 大来皇女は生涯独身であったろう。父天武天皇の菩提を弔うといえば、朝廷もこれを援助しないわけにはいかなっただろう。だが大来が一番に弔いたかったのは弟の大津であったに違いない。

大来皇女の歌碑が据えられていた。歌は(2-166)であった。

  磯の上に
  生(お)うる馬酔木(あしび)を
  手(た)折らめど
  見すべき君が
  ありと言はなくに     (2-166)

説明板には、「大小2つの石があたかも大来皇女と大津皇子のように寄り添いたたずむデザインは、不遇な死をとげた弟への哀切の感が胸に迫る歌をイメージしています。」とあった。名張市教育委員会もなかなか考えている。

名張に菩提寺を建てたのは、名張が畿内の東の果てであり、伊勢に向かっての出発点であったからでもあろうが、それだけなら大来皇女が特に名張に愛着を持つわけはない。大来は14才までは近江京・飛鳥京におり、26才までの12年間は伊勢にいたのである。しばしば名張を訪れたとは考えにくい。

天武天皇の菩提を弔うのであれば大和に寺を建てるほうがよいし、大津を弔うのであればなによりも二上山が見える場所に建てねばなるまい。

シロート(私)の勝手な憶測だが、大来皇女は名張の地に食封(へひと)100戸とか200戸とかの食い扶持を朝廷から与えられていたのではないか。大来皇女にとって、名張の一部(特に夏見の近辺)は自分の土地のようなものであったのではないかと思うのである。

大来は701年に40才で亡くなるのだが、おそらく日頃は京に住んでおり、時折ここにやってきたのだろう。父の命日が9月9日、弟の命日が10月3日であるから、秋になると夏見にやってきて供養をしたのではないか。

大来皇女の歌を吟詠しながら駅まで歩いた。今日の万歩計は22700歩だった。


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