吉野川・宮滝

    No.71.....2009年6月21日(土曜)


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吉野といえば、観光客の多くは吉野の山を訪れる。下千本・中千本・上千本・奥千本に植えられている桜は、山の麓から上方にかけて順次開花し、長く桜を楽しめるという。

そればかりではない、ここには修験道の根拠地である金峯山寺があり、南北朝時代の南朝の皇居であった吉水神社があり、中千本には後醍醐天皇の陵墓と勅願寺である如意輪寺があり、上千本には吉野水分(みくまり)神社がある。

だが吉野山へ参詣あるいは遊山するするようになったのは平安期からである。

飛鳥京・藤原京・平城京の時代に吉野へ行くといえば、吉野川上流にある宮滝(みやたき)がその目的地と決まっていた。そこには吉野離宮があったからである。

吉野宮は天武皇統の諸天皇(天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁)にとっては、創業の地であり、霊地であった。



川へ行くのだから天候は晴れていたほうがよいが、そうだと暑い。梅雨どきであるからいつ大雨が降ってもおかしくはない。雨が降れば川の水は濁るだろう。幸い今年はまだ大雨はない。 天気予報は土曜日は一日中曇り空であるという。訪ねるチャンスである。暑くもないし川の水も澄んでいるだろう。

宮滝に行くには、近鉄電車に乗って名張→大和八木(乗り換え)→橿原神宮前(乗り換え)→大和上市で下車、そこから20分ほどバスに乗って宮滝へ、というコースをとる。

宮滝には行ったことはないが、梅原猛さんは「水底の歌・柿本人麿論」のなかで、『大和に近いところで最も仙境を思わせる』聖地であるといわれているから、交通が便利なところではなかろう。

奈良交通のバスの時刻表を調べると日に10本の便があった。大和上市を9時3分発の便に間に合うよう7時ころ名張を出た。

橿原神宮前で乗り換えしようとしていたら、駅の外に山伏がいた。大峰山へ行くのだろう。







8:20ころ大和上市に到着。ここより東は吉野町である。吉野は木材の産地だけあって、さすがに駅舎は木造だ。







(次図)駅は吉野川沿いではなく、川から少し離れた山裾にある。よって川は見えないが遠くの山々が見える。

数人がバスを待っていた。バス会社の人と親しく話している老人は地元の人のようであったので、遠くに見える三角形をした高い山は何であるのか尋ねた。

老人は知らなかった。やや耳が遠く私が何を尋ねたのかがわからなかったのかも知れない。

私が指差している方向を見て、「蔵王堂や」と答えた。

本当だ。三角に尖った山の左下に茶色い屋根が見えるではないか。吉野山は吉野川からこんなにも近いのだ。


金峯山寺(きんぷせんじ)の蔵王堂は東大寺大仏殿についで大きな建築物である。屋根は入母屋造りの桧皮葺きであるから茶色に見える。

なお後で地図で確かめて、
  1. 蔵王堂の右奥の尖った山は百貝岳(ひゃっかい・860m)

  2. 蔵王堂の左奥の盛り上がった山は青根ガ峰(あおねがみね・858m)
であることを知った。

バスの発車時刻まで30分ほどあるので、駅舎から坂を下って吉野川に出てみた。

吉野川の上流方向。川幅は広いが、その1/4か1/3ほどしか水は流れていない。

鉄橋が架かっている。手前に大和上市駅があり、電車は駅を出るとすぐに90度右に曲がって、この鉄橋を渡る。行く先は吉野神宮駅→吉野駅。吉野駅からロープウェイに乗れば、上図の蔵王堂近くに着く。


下流方向。水量は少ないが、川の傾斜はゆるやかなのであろう、ゆったりと川は流れている。河原は砂利ではなく小石である。

川で小石を袋に詰めている老人がいた。上流にある小山が「妹山(いもやま)」であるのかを確かめると「そうや」という。川の反対側に「背山(せやま)」という山があるはずだが「ここからは見えない」という。

人麻呂の時代、女性は「妹(いも)」といい、男性は「背(せ)」あるいは「背子」といった。女山と男山である。 二上山は双子山だが、やや低いほうを雌岳、高いほうを雄岳と呼んでいる。妹山と背山のほうが名づけられた時代が古いはずだ。

バスは24〜25人分の座席があったが、私を含めて3人が乗った。ひとりは蔵王堂を教えてくれた老人で、もう一人は中年男性でハイカーの格好をしている。

バスは駅から坂道を下って吉野川に沿って伸びる国道169号線を走る。老人は3つ目くらいのバス停で降りた。

妹山(川の左の小山)と背山(川の右の三角山)が見える。川を挟んでというのは、七夕のようでありますな。

20分ほどで宮滝バス停に着いた。バス賃は360円。ハイカーも降りたので、バスの乗客は無人となる。

予想とは違って、宮滝の集落は大きかった。郵便局、ガソリンスタンド、醤油のメーカー、タクシー会社が169号線沿いに並んでいた。ただし物を売る店は無い。





(次図)バス停のそばに地図があったので、山の名前と見るべきところをチェックする。

  1. ここから近いところに「柴橋」という橋があって、吉野川を渡ることができる。

  2. 橋の左(上流)は「滝つ河内」と呼ばれている。

  3. 橋の右下(右岸)には「中岩」と呼ばれる岩があり、

  4. 橋の右(下流)に「象(きさ)の小川」が吉野川に注ぎこんでいる。

  5. 注ぎこんだその場所は「夢の和田」と呼ばれている。

  6. 「象(きさ)の小川」を挟む左の山は「三船山」で、右が「象山(きさやま)」である。

  7. 吉野宮はこのバス停を中心にした一帯にあったようである。


169号線を離れて、吉野川の方に向かうと、向うに鉄橋が見えた。柴橋だろう。

左右に山がある。左側は三船山、右側は象山(きさ)。奥の峰は吉野山。

吉野山という固有名詞を持つ山はない。中千本→上千本→高城山(649m)→青根ガ峰(858m)と連なる峰を総称して吉野山と呼んでいる。地図に吉野山と表示するときには、中千本あたりに山の▲マークをつけたり、高城山を吉野山としたり、連峰で最高峰の青根ガ峰を吉野山としたりで、一定していない。


柿本人麻呂の歌碑があった。ずいぶん古くに建てられたようだ。字の彫りが浅いので風化しかけており読みづらいが、どうやら巻1-36の長歌であるらしい。

持統天皇は在位11年間のうちに、31回の吉野行幸をしている。持統元年と2年は、天武天皇の殯(もがり)の期間であったので、この間の行幸はない。初めて吉野行幸をしたのは持統3年(689年)の正月である。以来、多いときは年に5度、少ない年でも2度の行幸をしている。吉野には強い執着があった。

人麻呂はどの行幸のときに従駕して(1-36)の歌を詠ったのかは不明だが、吉野讃歌の2つの歌群の次に、「伊勢の国に幸(いでま)す時に人麻呂が作る歌」が乗っている。伊勢行幸は持統6年(692年)のことであるから、689年〜691年のうちのどれかとなる。

「万葉集・釈注」の伊藤博さんは、(1-36)(1-37)は初めての行幸(689年1月)のときのものであり、(1-38)(1-39)は、持統天皇として即位した直後の行幸(690年2月)のことではないかと言われている。



あまねく国を支配されているわが大君が
治められている天下に

国は数多くあるが
山と川が清らかであると

心をよしとされる吉野の国の
美しくも花の散る秋津の野のほとりに

太い宮柱をお建てになったので
ももしきの大宮人は

朝には船を並べて川を渡る
夕には舟を競って漕いで川を渡る

この川が絶えることがないように
この山が高いように、高く君臨されている

流れの激しいこの滝の都は
いつまで見ても見飽きることがない


いくら見ても見飽きない吉野の川の
滑めらかさは永遠であるように、絶えることなく
繰り返し見よう。



人麻呂の歌碑を過ぎると中荘小学校がある。校庭にはプールがある。グランドでは子供らがサッカーの試合をしている。

左側は吉野川である。この辺りは「宮滝遺跡」といって縄文時代の土器や石器が出土するそうである。川に近く、川より高い平坦な地であれば、縄文人以来住居をかまえる適地であったろう。


柴橋に出ると、谷底が見えた。高さは10mほどであろうか。川岸は岩壁である。激しい水流が時間をかけて穿った岩壁である。

下流を撮る。ちょうど上下半分のところが瀬で、流れはやや急になって白い飛沫を上げている。瀬はすぐに淵となり水はエメラルド色となる。「夢の和田」である。

写真では見えにくいが、「夢の和田」に左手の岩壁の下方から細い滝のようになって水が注いでいる。これが「象(きさ)の小川」である。

人麻呂の時代には、もっと水位は高かったはずだ。でないと舟を浮かべることができない。川底から少なくとも1〜2mの水位はあったのではなかろうか。


橋の中ほどから下流を撮る。

かつては水面より頭を出していただろう巨岩が完全に干上がった状態に置かれている。水が激しくぶつかっている岩がよいのであって、ゴロリと全体を現した岩では興が薄れる。

先の人麻呂歌碑の前に立って(1-36)の歌を声をだして読んでいたら、地元の老人がやってきて「どこから来たのか」と問われた。名張からだと答えると「ああそうか」、名張と宮滝はよい道が通じているのである。

何のために来たのかと問うので、吉野川を見にきたと答えると、申し訳なさそうな顔をして「水がもうちっと流れてたらええのになあ」という。




橋の反対側から上流を撮る。こちらは川幅いっぱいに川が流れていて、「滝つ河内」と呼ばれている。

この滝というのは高低さがある滝ではなく、「激(たぎ)つ」という意味で、水流が激しい場所をいうのである。ところがこの水量であるので、いまではとてもタギツとはいえない。

吉野川は日本で最も降水量が多いとされる大台ケ原を源流としているそうである。よって下流の水量はこれほど少ないはずはないのである。

少ない理由の1つはダムである。上流にある大迫ダムで水量を調整している。さらに下流に堤高100mという巨大な大滝ダムができている(まだ貯水はしていないようだが)。



2つには発電所に水を分流していることである。地図をみると宮滝より下流に吉野発電所、上流に樫尾発電所があって、大滝ダムのあたりから、吉野川とは別の直線的な水路を作り、ここから水を引いて発電しているようである。ますますもって吉野川を流れる水量は貧弱になっている。

橋の上から見る限りでは、川底に降りられる道はないようである(道があればまた景観を壊すのだが)。いったん引き返すと169号線の南に旧道らしい道があって、ちょっとした街道筋の風情がある。旧伊勢街道であろう。家の前に立っていた老人に、川に降りる道はないかと尋ねると、小学校の裏から降りることができるという。





だが道は途絶えた。ちょうど右の畑を手入れしている老人がいたので尋ねると、その先の林を抜けると岩場がある。岩場を伝って降りるとよいと教えられた。

マムシが這い出てくるのではないかと思われる荒地を踏み分け、続いて林の中に人が通ったらしい地道を見つけて、20mほど坂道を下る。

持統天皇が初めて吉野宮に来たのは天智4年(671年)10月のことである。晩年病床にあった天智天皇は、わが子大友皇子に皇位を譲りたいと思ったが、そのときの皇太子は弟の大海人(おおあま)皇子であった。

天皇は大海人を呼び、大海人に譲位しようと告げた。しかし大海人皇子はこれは天智のワナであると知っていた。譲位を受ければ抹殺されるであろう。

大海人は出家すると告げ、その日に髪を剃り、翌日は近江京を出た。大海人には多くの妃があったが、これに従った妃は鵜野(うの・後の持統天皇)皇女だけであった。近江京を出たその日に飛鳥の嶋宮に入り、翌日は吉野宮入りしている。吉野宮は天智・大海人皇子の母である斉明天皇が造営したものである。

近江京から急ぎ吉野入りしたのは、近江朝が追っ手を出すことを恐れたのであろう。大海人皇子(後の天武天皇)は41才、鵜野皇女は28才であった。




川が見えた。川底まで3〜4mほどの高さがある。ヘッピリ腰で岩を伝って川底に降りた。

天武天皇はこの逃避行を思い出して次の歌を詠んでいる。

 み吉野の耳我(みみが)の嶺に
 時なくそ雪は降りける
 間なくそ雨は零(ふ)りける
 その雪の時なきが如(ごと)
 その雨の間なきが如(ごと)
 隈(くま)もおちず思いつつぞ来(こ)し
 その山道を      (1-25)



吉野の耳我の山に、時知れず雪が降っている。絶え間なく雨が降っている。雪が定めなく降るように、雨が絶え間なく降るように、道を曲がるごとに絶えず物思いに沈みながら、その山道をやってきたのだ。

飛鳥の嶋宮からのコースは図のようであったらしい。嶋宮は飛鳥川の近くにある。ここを出て、飛鳥川を上流に向かって→稲淵→柏森と進む。さらに山を登ると明日香村と吉野町の境にある芋ケ峠に着く。詳細な地図を見ると、峠の前後の道はつづら折れというか、非常な屈曲を繰り返している。

吉野の「耳我の山」はどの山なのかはわからないが、「み吉野の」とあるから芋ケ峠を越してからある山だろう。 大海人皇子の一行はおそらくは100名程度であったろう。雨が降っている。雨は時に雪に変わり、またみぞれとなる。一行は黙々として屈曲を繰り返す山道を進む。冷たいみぞれが衣服を濡らす。空も暗いが心も暗い。

追っ手がやって来るかも知れない。吉野宮に逃避したとして、その先にはどうなるのか。大海人は道のどの隈(曲がり角)を過ぎるときにも物思いに沈んでいた。

吉野宮に着くと舎人(とねり)の半数を京に戻した。たぶん吉野宮では50名程度の人間が起居したのではなかったか。

12月に天智天皇が崩御し、大友皇子が弘文天皇として即位する。


川底は無残である。かつては激しい水流に洗われていたであろう岩場には水がなく、草むしている。

翌年(672年)6月、大海人皇子は吉野を出て挙兵した。近江朝の不穏な動きを見て先手を打ったのである。日本書紀によれば大海人に付き従って吉野宮を出たのは、草壁皇子・忍壁皇子を含めて20人あまり、女官10人あまりであったという。

壬申の乱の始まりである。血で血を洗う血族同士の戦いであった。弘文天皇の皇后は大海人と額田女王の子である十市皇女であった。弘文天皇は鵜野皇女の弟である。この戦いは1か月間にわたる一進一退を繰り返した後に大海人軍が勝利して終わった。

大海人皇子は飛鳥京に凱旋し、即位して天武天皇となる。鵜野皇女は皇后になった。30名ほどで挙兵して、次第に味方を増やし、朝廷軍を打ち破ったのである。天武天皇は稀代の英雄となった。


天武は着々と支配体制を固めていった。皇后もそのプランに積極的に関与したらしい。

体制が固まると、後継者のことを考えならねばならない。皇太子は皇后との子供である草壁皇子がなることはほとんど決まっていただろう。だが現実に、自身は兄の天智の子供から権力を奪取したのである。天武亡きあと多くの皇子たちのうちから謀反する者がでないとも限らない。

679年5月、天武天皇は皇后と草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴の6皇子を従えて吉野にやってきて、継承の争いを起こさぬことを誓わせた。「吉野の6皇子の会盟」である。吉野は天武朝の創業の地である。どん底から這い上がって天下を得た記念すべき地である。ここで盟約させることが必要だった。


下流方向を撮る。

2年後の681年2月に草壁は皇太子になる。 686年9月天武天皇が崩御。皇后は2年3か月という長い殯(もがり)を営み、688年12月に天武を大内陵に葬った。

689年1月皇后は天武亡きあと初めて吉野行幸を行う。皇后と皇太子の二人で天武朝を継承していくはずであったが、その3か月後皇太子は急死する。7才になる草壁の子の軽皇子(後の文武天皇)が残された。

690年、皇后は持統天皇として即位する。軽皇子が成人し天皇に即位するまでは、なにがなんでも天武から受け継いだ支配体制を維持しなければならない。

そのためには、繰り返し創業の地に行幸し、諸皇子や臣下らにこの支配体制は天武と持統が創ったものであるということを知らしめることが必要であった。次に、天皇は現人神であるから権力を奪い取ることはもちろん命令にはそむけないのだという考えを浸透させることが必要であったかと思われる。そのためには厳粛な儀式と行事のたびに歌い上げられる歌がいる。柿本人麻呂は天皇を礼讃する歌の作者としてうってつけであった。次は伊藤博さんがいわれるところでは、持統即位直後の吉野行幸に従駕した人麻呂の歌である。



あまねく国をお治めになるわが天皇は
神のままに神々しくおられるので
吉野川の激しく流れる河内に
宮殿を高くつくられ

そこに登り立って、国見をされると
幾重にも重なる青垣のような山々の
山の神が、天皇に奉る貢物として

(大宮人が)春には花を髪にかざし
秋になると紅葉を髪にかざしている。

宮殿に沿って流れる川の神も
天皇の食膳に奉仕しようと
(大宮人が)上流で鵜飼をし
下流では網をしかけている。
山も川も心服して仕える

神である天皇の御代である。


伊藤博さんの「万葉集釈注(一)」によれば、先に掲げた歌(1-36)とともに、「山」と「川」の対比の構造を持つが、(1-36)は対比にやや不備がある。吉野讃歌では、山と川を詠まねば吉野をほめたことにならないという慣例を作ったのは人麻呂であるそうである。

それを頭にいれて(1-38)を読むと、「畳(たたな)はる 青垣山」と「行き沿(そ)ふ 川の神も」と対比し、「山」の叙景では「春へは 花かざし持ち」と「秋立てば 黄葉(もみじ)かざせり」と詠って「春」と「秋」を対句としている。「川」の叙景では「上つ瀬に 鵜川(うかわ)を立ち」と「下つ瀬に 小網(さで)さし渡す」と詠い、「上つ瀬」と「下つ瀬」を対句としている。大きく「山」と「川」、小さく「春」と「秋」、「上つ瀬」と「下つ瀬」の対比があって完璧である。

(1-36)と(1-38)が大きく異なるのは、(1-36)の最後の3句は「水激(たぎ)つ 滝の都は 見れど飽かぬかも」であり、褒め称えているのは「滝の都」である。もちろんこの都を作った天皇をも讃仰しているのであるが、どちらかといえば吉野の山・川・宮殿をほめる歌である。

(1-38)は天皇を神と称える歌である。1句目から「やすみしし わが大君 神ながら 神さびせすと」と持統天皇は神であるという。ついで、山の神が貢物として、春には花を秋には紅葉を捧げるといい、川の神は天皇の食事のために鵜飼あるいは網によって獲れる魚を提供するという。ここでは山の神・川の神は現人神である天皇に奉仕するのである。最後の3句で「山川も 依りて仕ふる 神の御代かも」と現人神の御代であると、天皇を神として褒め上げている。


「夢の和田」に来た。正面の細い小滝は「象(きさ)の小川」の注ぎ口である。象川は象山と三船山の間を流れて来る細い川であるが、時として増水し激しく吉野川に流れ落ちることがあるのだろう。このあたりは滝壺のように深くえぐられて淵になっている。

大伴旅人(たびと)は724年に聖武天皇の吉野行幸に付き添い、次の歌を詠んでいる。

  昔見し
  象(きさ)の小川を
  今見れば
  いよいよさやけく
  なりにけるかも   (3-316)

昔見たというのは、持統天皇の行幸のときであろう。そのときよりもいよいよ清らかになっているという。旅人60才のときの歌。



この後(728年)旅人は大宰府長官となって九州へ赴任する。吉野を思い出して次の2首を詠っている。

  わが命(いのち)も
  常にあらぬか
  昔見し
  象(きさ)の小川を
  行きて見むため   (3-332)

私の命はいつまでもあってほしい、昔見た象の小川をもう一度見たいがために。

  わが行きは
  久(ひさ)にはあらじ
  夢のわだ
  瀬にはならずて
  淵にしありこそ   (3-335)

私の筑紫滞在はそう長くはなかろう、吉野の夢のわだは浅瀬にならずに深い淵のままであってほしい。




柴橋の近くまで来て引き返す。

旅人の2首(3-332)(3-335)は(3-328)〜(3-351)まで筑紫で詠われた24首の歌群の中にある。(3-328)は小野老(をののおゆ)朝臣の有名な歌である。

  あをによし
  寧楽(なら)のみやこは
  咲く花の
  にほふがごとく
  今盛りなり   (3-328)

(3-337)は山上憶良のこれまた有名な歌である。

  憶良(おくら)らは
  今は罷(まか)らむ
  子泣くらむ
  それその母も
  我(わ)を待つらむぞ (3-337)

憶良どもはこれで失礼いたします。家では子供が泣いておりましょう。その子の母も私を待っているでしょう。

伊藤博さんは、この歌が729年に詠われたものであるとすれば、憶良は71才であったはずで、泣く子を持ってはいず、ましてや若い妻がいたはずがない。年老いた憶良が、そのような子供と妻がいるかのように詠うところに面白さがあって、じゃあこれで宴はお開きにしましょうということになる。といわれている。フームと感心する。

山上憶良は筑前国守であった。この時期筑紫には、大伴旅人・山上憶良・小野老・大伴四綱(よつな)といった万葉集に歌を残す有名歌人が集っていた。 旅人は730年に大納言となって都へ帰るが、翌年731年に亡くなる。都へ帰ったときはすでに66才であった。死ぬ前に筑紫で恋い焦がれた吉野へ行けたどうかはわからない。



河原から戻ってきた。先ほど農作業をしていた老人はもういない。

畑に段差があるのは河岸段丘であるからであろう。この段丘に縄文人・弥生人が住んでいたのだ。そしてもう少し上の平らなところに斉明天皇が造り、持統天皇がさらに大きくした吉野宮があった。聖武天皇の時代には旧吉野宮の左側に、大きな吉野離宮があったという。


「史跡 宮滝遺跡」の石柱が畑の柵の支柱として利用されている。



169号線の少し(100mほど)北にある吉野歴史資料館を訪ねた。入館料は200円。

宮滝遺跡から発掘された石器・土器が陳列されていたが、これはたいして面白くはない。吉野離宮の瓦(軒丸瓦と平瓦)があり、吉野宮および吉野離宮の復元模型があった。これはよかった。

歴史資料館の性格からか、万葉集についての資料は何もなかった。吉野を詠んだ歌をすべて集めて、三船山の歌、象山の歌、菜摘の歌、象川の歌などに分類し、現地写真をパネルにして展示すればよいだろう。

歴史資料館は宮滝山の麓にある。位置が高いので吉野川の南の山がよく見える。資料館の横の公園にベンチが置いてあって、脇に青根ケ峰についての説明板が立っていた。


『青根ケ峰(あおねがみね)は、古代から神聖な山とされ、人びとの信仰をあつめていました。宮滝はこの峰をあおぎ見ることができる場所だったので、斉明天皇や持統天皇が吉野宮を造営したと推定されています。青根ケ峰はちょうどこのあたり南に見ることができます。』

とあった。確かに象山と青根ケ峰は見えるが、三船山は立ち木の枝がじゃまをして見えない。案内板を立てたときは立ち木はまだ低かったようである。東に移動して眺める。

左が三船山、右が象(きさ)山。奥の山並みは吉野の山。象(きさ)山との境目にある三角の高い山が青根ケ峰(858m)。吉野山のうちの最高峰である。

菜摘(なつみ)に向かう。地図でみるようにこの辺りは川が蛇行している。宮滝付近では川は北から南へ流れ、次に南から北に方向を転換する。その上流の菜摘のあたりでも同じことを繰り返してして南から北に流れたかと思うと、流れはUターンして北から南へと流れている。

吉野川の右岸にある370号線を少し登り、図の(C)の橋を渡って左岸を下って宮滝に戻るというコースを歩く。

672年に吉野宮に逼塞していた大海人が30名ほどの手勢を率いて、吉野宮を出て向かったのは関が原である。日本書紀は、@出発したその日、宇陀の安騎野(あきの)で村人に食事の饗応を受けた、A大野(宇陀市)に至って日が暮れたので村の家の垣根を壊して灯火にした、B夜半に名張に着いて駅家を焼いた、C名張川に着こうかというとき黒雲が広がったので、大海人は占いをし「最後には自分が天下を取るだろう」といった、と記述する。

大海人皇子が辿った道は、地図の国道370号線とほぼ同じであろう。370号線は図の(A)の地点で169号線に合流して終わる。(A)から169号線を南下すると、大滝ダムや大迫ダムを過ぎ、大峰山脈の少し東側を通って、上北山村に至る。上北山村には8年前に死んだ家内の実家がある。

名張から車で家内の実家に行くには、@名張で165号線を進み、A大野を過ぎて榛原に行き、B370号線に入って南下し、C宮滝で169号線に入って南下を続けるのがわかり易いルートである。だが家内は道路地図帳を調べて、図の(B)の場所に橋があることを知っていた。370号線から(B)の橋を渡って169号線に入っていたのである。よって宮滝は通過しなかった。

梅原猛さんの「水底の歌・柿本人麿論」を読んで、宮滝の位置を地図で調べたとき驚いた。宮滝は目の前にあったのである。白鳳・天平期の天皇が吉野へ行幸していることの知識はあったが、吉野宮は吉野山か吉野神宮あたりにあったものだと思っていた。まさか吉野川沿いにあるとは思いもよらなかった。

「菜摘」へやってきた。370号線はあまり車は走っていない。「菜摘」とは、文字通り菜を摘む場所ということであるが、食料にするために菜を摘むのではない。初春(正月)に神前に捧げるための菜を摘むのである。神社は摘んだ菜を神饌として捧げて、今年の豊作を祈念するのである。


神饌とする菜であるから、清浄な地に生えている菜でなければなるまい。おそらくこの地がそれにふさわしいとされてき、「菜摘」の名前が残ったのではないか。

左岸に渡る橋があった。手前の広場は夏には駐車場になるようである。「1日千円」の立て看板が立っている。ボート(写真の白い船)も引き上げられている。夏には川に浮かべるのだろう。

菜摘のあたりの吉野川はキャンプができるようである。


橋の名は菜摘大橋である。上流を向いて撮る。

このあたりは川幅が広く、川底に岩がない。河原である。水量が多かった往古でも宮滝のように水は「激(たぎ)つ」流れることはなく、ゆったりと流れていたのであろう。人麻呂が(1-36)で、

  百磯城(ももしき)の 大宮人は
  船並(な)めて     朝川渡り
  舟競(ふなきほ)ひ  夕河渡る

と詠ったのは、このあたりの情景であろう。(1-38)で、

  上つ瀬に 鵜川(うかわ)を立ち

と詠った場所もここであろう。川の流れが早くては鵜飼はできまい。


下流を向いて撮る。正面奥の山は宮滝山。左手にせり出しているのは舟張り山。川は舟張り山を右に迂回して、左向きに向きを変えて宮滝に流れる。舟張り山を半周するわけである。 湯原王が次の歌を詠んでいる。

  吉野にある
  菜摘(なつみ)の川の
  川淀(かはよど)に
  鴨ぞ鳴くなる
  山陰(やまかげ)にして  (3-375)

菜摘の川はこの辺りの吉野川の名前である。山陰の山とは舟張り山であろう。 淀んだ菜摘川から鴨の鳴き声が聞こえるが、山陰になっていて姿は見えない。菜摘のカわの→カわ淀に→カもぞ鳴くなる、と「カ」が連続しているのでテンポのあるよい歌だとシロートは思う。

橋を渡り、吉野川の左岸に出る。ここも菜摘である。

湯原王の父は志貴皇子である。皇子は679年5月の「吉野の6皇子の会盟」に臨席しているが、天武の子ではなく、天智の子である(川島皇子も同じ)から、天武朝においてはよい役職にはつけなかった。だがよい歌を残している。志貴皇子は次の歌を詠んでいる。

  葦辺(あしへ)行く
  鴨の羽交(はが)ひに
  霜降(ふ)りて
  寒き夕(ゆふへ)は
  大和(やまと)し思ほゆ   (1-64)

親子ともどもで鴨を詠ったわけだ。


右手に吉野川があるはずだが、川は見えない。道と川の間にはやや広い畑があって、農家のおばあさんが梅の実をもいでいた。

今年はあまり実がつかなかった。5升ほどしか取れなかった。といっていた。この辺一帯は梅畑であったが、10年前の台風で梅ノ木が倒れてしまったそうである。

栗の木が数本あった。梅よりも栗の木のほうが強いらしい。おばあさんは「栗の花は甘い匂いがするよ。歌にもあるでしょう」といって歌謡曲を口ずさんだが、古い歌なので私は知らなかった。


道は下り坂になり、川に近づいた。河原に下りることができる道があったので降りてみた。

キャンプができそうな場所である。ただ河原の小石がやけに白い。よく見ると粉状のものが小石に付着している。泥が乾燥したようである。

ダムは水を貯めるが、土砂も溜まる。そこで時々ダムの底に堆積した泥を吐き出させるために「フラッシュ放水」ということをするそうである。ダムの下部にある放水口を開いて、水と一緒に泥を吐き出させるのである。

河原の石が白く粉を吹いたようになっているのは、上流のダム(大滝ダムか大迫ダム)でフラッシュ放水を行ったためではなかろうか。


道に戻る。

下草がなく、適当な間隔で植えられている立ち木に挟まれたこの道は、公園の散歩道のようである。土地の人がちゃんと手入れをされているのだ。


宮滝大橋(169号線)の下をくぐると車道に出た。


500mほど歩くと見覚えのある信号機が立っている。柴橋の南詰めである。柴橋は渡らずに真っ直ぐ進む。


柴橋の左の崖の中段から上に10数本の松の木が生えている。「中岩の松」と呼ばれているそうである。 案内板におおよそ次のことが書かれていた。

吉野山に南朝の皇居があったころ、幼い寛成親王(のちの長慶天皇)が供を連れて狩にやってきた。この河岸に立つと、水面に松が映りきれいであった。親王は「この松を岩ごと持ち帰って後村上天皇に奉ろう」とダダをこねた。

そういう松であるらしい。


喜佐谷という地区である。キサとは象(きさ)山・象(きさ)川のキサである。往古の象(きさ)川は、今では喜佐谷川と呼ばれている。

写真の横断歩道の辺りは、そうは見えないが橋である。象(きさ)川は、橋の下を流れて「夢のわだ」に注ぎ込んでいる。

右のガードレールは直角に曲がっているが、曲がった道はおおむね象川に沿って伸びている。これを進む。


右の山は象山、左は三船山。持統太上天皇は701年2月に最後の吉野行幸をしている。このときは文武天皇と一緒であった。次はこれに従駕した高市連黒人(たけちのむらじ)が詠んだ歌。

  大和には
  鳴きてか来(く)らむ
  呼子鳥(よぶこどり
  象(きさ)の中山
  呼びぞ越ゆらむ   (1-70)

大和にはもう来て鳴いているだろうか、呼子鳥が呼びながら山を飛び越えている。呼子鳥は誰を呼んでいるのかである。中西進さんは「人」を呼ぶとされ、伊藤博さんは「妻」を呼ぶとされているが、妻のほうがよいとシロートは思う。


500mほど進むと道路に沿って駐車場(5台程度駐車できる)があり、川の向うに桜木神社が見えた。駐車場の柵の外に木製の歌碑があって、上記の黒人(くろひと)の歌が書かれてあった。




桜木神社に行くには写真の屋形橋を渡る。橋の入り口に2つの石柱が立てられていて、1つには「木末(こぬれ)橋」、いまひとつは「象(きさ)の小川」と彫ってある。

志貴皇子の次の歌は、私の好きな歌である。

  むささびは
  木末(こぬれ)求むと
  あしひきの
  山の猟夫(さつを)に
  あひにけるかも  (3-267)

持統天皇の吉野行幸に従って吉野宮に滞在していたときに、猟師がムササビを捕えるのを目撃したのだろう。その場所は象山あるいは三船山ではなかったか。勝手な推理である。


木末橋は岸より一段低く架かっている。渡ると石段があって鳥居。正面に拝殿、拝殿の先は石垣があってその上に本殿がある。


本殿は大きくはないが立派なものである。両妻に千木、棟には5本の鰹木がつく。正面に破風があるが、ごていねいなことに破風にも千木がついている。破風に千木がついているのは珍しいのではないか。


山部赤人の歌碑があった。

  み吉野の
  象山(きさやま)の際(ま)の
  木末(こぬれ)には
  ここだも騒く
  鳥の声かも   (6-924)

吉野の象山のあたりの梢では、まことにたくさんの鳥が鳴き騒いでいることだ。

志貴皇子も赤人も「木末(こぬれ)」を詠っているが、猟師に射られるムササビの歌よりも、象谷で鳥が鳴き騒ぐ歌のほうを、桜木神社は好んだのだろう。「木末橋」は赤人の歌からつけた名であろう。


神社境内から象川へ降りられるようになっていた。水は清い。神社が管理しているとみえてゴミはない。倒木もない。

流れは小さな滝のようになっている。志貴皇子の次の歌は、このような清浄な川で詠まれたものでなければなるまい。

  石(いは)ばしる
  垂水(たるみ)の上の
  さ蕨(わらび)の
  萌え出づる春に
  なりにけるかも   (8-1418)




柴橋に戻ってきた。おっ、柴橋は車のラッシュではないか。何事ならん。

わけはすぐにわかった。中荘小学校のサッカーの試合が終ったので、親が迎えにきていたのだ。「誰か水筒を忘れていませんかあー」「どんな色?」といった声が飛び交っている。




だいたい今日見るべきものは見た。

宮滝バス停に戻ってきた。午後1時を少し回っている。13時と14時台のバスの便はないことは知っていた。だが宮滝タクシーというタクシー会社がバス停の近くにあることも知っている。タクシーで帰ればよい。

バス停のすぐ手前に醤油メーカーがある。169号線をはさんだ手前の空き地もメーカーが所有する土地らしいのだが、この空き地から聖武天皇時代の吉野離宮の遺構が出てきたらしい。

(次図)時間はいくらでもあるので、最後にもう一度象谷を見ようと、宮滝山の裾まで登った。


人麻呂は「溺れ死にし出雲娘子(いずものおとめ)を吉野に火葬(やきはぶ)る時」の2首の歌を詠っている。

  山の際(ま)ゆ
  出雲の子らは
  霧なれや
  吉野の山の
  嶺にたなびく   (3-429)

  八雲さす
  出雲の子らが
  黒髪は
  吉野の川の
  沖になづさふ   (3-430)

溺れたのは吉野川であろう。出雲の娘子というのだから、出雲の国か郡から宮中に差し出された采女(うねめ)であったのだろう。なぜ水死したのか、事故なのか。伊藤博さんは「采女に負わされた禁忌である、男との密会があらわれて、入水を遂げたのであろう」と言われる。

(3-429)は、山の際から湧き出ずる雲のようであった出雲の娘は霧だったのであろうか、吉野の山の峰に霧となってたなびいている。


タクシーに乗って大和上市に戻ってきた。途中で車を止めてもらって、妹山と背山を撮る。

(3-430)は、むくむくと湧き上がる雲のようであった出雲の娘、その黒髪が吉野の川の沖に藻のようにゆらめいている。

采女の死を悼む挽歌であるが、人麻呂は(3-429)では吉野の山、(3-430)では吉野川を舞台にして、山川の対比をしつつ出雲の乙女の鎮魂を歌っている。吉野は山と川があっての吉野なのである。

この後再びタクシーを走らせて吉野神宮に行ったが、テクテクとは関係がないから省略する。

今日の万歩計は28100歩だった。



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