三重県・答志島

    No.70.....2009年5月23日(土曜)


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今年は12年ぶりに町内会の世話をすることになった。ほとんどすべての日曜日は何らかの仕事があるので、今年はテクテクに出かけられるのは土曜日だけである。

朝早く目覚めた。昨日は雨であったのでテクテクに出かける予定はなかったのだが、日が昇ってくると西の山の際がくっきりと見える。今日は遠くがよく見えそうだ。

どこへ行くか。前回大和島が遠望できなかった明石へもう一度いくか? 宇陀の安騎野を再訪するか? 思い切って鳥羽に行こうか?

迷った末、鳥羽に行くことにした。目的地は鳥羽市に属する答志島(とうしじま)である。鳥羽市街は観光しない。6:00ころからインターネットで答志島についての資料を集め、印刷して綴じると40頁ほどになった。これは電車の中で読むことにする。


名張を7:42の鳥羽行き特急に乗り、到着したのが8:46である。乗車券が1200円、特急券が1280円。鳥羽は初めて訪れる。知らない土地は遠く感じるものだが、鳥羽もまさにそのとおりで、わずか1時間で行けるとは思わなかった。

資料によると、近鉄・鳥羽駅から徒歩5分のところに佐田浜という港があり、ここから答志島へ鳥羽市営の定期船がでている。時刻表を見ると1日に10便あって、今からだと9:20の便がある。


佐田浜港には2艘の遊覧船が係留されていた。一艘は花と虹を船体に描いた西洋風の船で、船上にはマーメイド、その後ろには大きな鴎が翼を広げている。

右の船は竜宮城である。青い瓦・丹の柱・白い壁の建物を乗せている。3層目の屋根には金のシャチホコ、その下にある切妻破風はご愛嬌であろう。船首には金色の浦島太郎が亀に乗っている。

これらの船を見るだけでも鳥羽は華やいだ観光の町であることがわかる。





万葉集の巻一に、「伊勢国に幸(いでま)しし時に、京(みやこ)に留(とど)まれる柿本朝臣人麻呂の作れる歌」として3首の歌が掲げられている。その次に人麻呂とは別の2人が詠んだ2首が続いている。この合計5首は、持統6年(692)に伊勢行幸が行われたときの歌である。

当時の都は飛鳥京である。伊勢に行くには上図の3つのルートがあった。B和歌山街道(江戸期の名前)は、奈良県と三重県の境にある台高山脈(池木屋山(1396m)、高見山(1248m)、三峰山(1235m))の山あいを突っ切っていかねばならない険しい街道である。A伊勢本街道(江戸期の名前)も高い山々(三郎岳(879m)、住塚山(1009m)、古光山(953m)、大洞山(985m)の麓を通る険阻な道である。ただし伊勢までの距離は短い。

@初瀬街道はABに比べると楽な道である。初瀬川→宇陀川→名張川→青山川と川沿いに道がある。一番の難関は青山高原を越えるときであろう。ここを越せばまた雲出川があり、川に沿って下れば平野部に出る。飛鳥京と伊勢・美濃・尾張を結ぶメインの道である。 この初瀬街道を通って伊勢行幸をしたようである。旧暦3月6日から3月20日までの15日間、伊勢・志摩・渥美半島などを巡っている。伊勢では神事が行われたであろうが、それ以降はいわば行楽の旅であったようだ。人麻呂は行幸に従駕せず、飛鳥浄御原京にあって、次の歌3首を詠んでいる。



あみの浦で船遊びをしようとしている乙女たちの裳の裾に、潮が満ち寄せていることだろうか。


腕輪をつけたように美しい手節(答志島)の崎で、今日あたりは大宮人がきれいな藻を刈っているだろうか。


潮のざわめく伊良湖岬の辺へ漕ぐ船に、私が思う人が乗っているのだろう、波風の荒い島のあたりを。


出港まで20分ほどある。

地図を見ながら島々の確認をする。 港の北方やや西寄りに見えるのは三ツ島であろう。無人であると思われる小島が一列に3つ並んでいる。三ツ島の後ろの大きな島は浮島。右手から伸びているのは答志島の岬(島ケ崎)。

第1首目(1-40)は、あみの浦での舟遊びを詠んだ歌である。あみの浦は三ツ島の左手にある小浜地区であろうとされている。

「船乗りすらむ」は多くは「舟遊びをしているだろう」と解釈されているが、「まさに船に乗り込もうとしている」としたほうがよいのではないか。

すでに海上に出て舟遊びをしているとすれば、この歌の焦点である「珠裳の裾に 潮満つらむか」が意味を持たなくなる。裳裾に潮が満ちてくるのであるから、砂浜→寄せる波→白い足→濡れる裳裾となるわけで、これから船に乗ろうとしていると解釈するほうがよいだろう(シロートの考えである)。

三ツ島の右手の大きな島(1/4ほどが見える)が答志島である。定期船が近づいてきた。さあ私も船乗りしよう。
今日訪ねたのは図のとおり。
  1. 佐田浜港→和具港(18分)
  2. 和具港→答志港(7分)。ここで下船。
  3. 答志見物(1Km)→和具へ徒歩(1Km)
  4. 和具→桃取へ徒歩(6Km)
  5. 桃取港→佐田浜港(12〜15分)
伊勢湾にある有人の島は4つあるそうである。鳥羽に近いほうから、@坂手島(さかて)、A菅島(すが)、B答志島(とうし)、C神島(かみ)。

おそらくこれら4つの島と渥美半島を結ぶ線が伊勢湾と太平洋の境目であろう。鳥羽から伊良湖岬までの直線距離は約20Kmである。内訳は、@鳥羽→答志港が7.6Km、A答志港→神島港が7.9km、B神島港→伊良湖港が5.5Km。

人麻呂は伊勢に来たことがあったに違いない。伊勢行幸のスケジュールを聞いて、@あみの浦で乙女らが船乗りする→A答志島で大宮人が藻を刈る→B伊良湖岬近くで島めぐりをする、という情景を想像して詠っている。この3つの土地は鳥羽から順に遠ざかっているが、互いに視界のきく範囲である。このことを知っていたのだ。

出港。

定期船から三ツ島までの距離は300〜400mほどか。島の向こうが古代のあみの浦である。

古代のあみの浦が私が想像するような砂浜であったかどうかはわからないが、あみの浦から答志島はきわめて近い。


答志島は人魚のような形をしている。頭は北東にあり、腕が2本出ている。左腕は平手崎であり、右腕は築上崎(つかげさき)、大きな尻尾の先が島ケ崎。

今は尻尾の部分を過ぎようとしている。右端の小山は築上崎(つかげさき)。

右に築上崎。岬の左の低い土地が和具港。


築上崎を目前にして船は左に進路を変えた。和具港へ入港するためである。

右舷から神島が見えた。三角錐の形をするこの島は、三島由紀夫の「潮騒」の舞台となった。

神島の後ろ、左にぺったりと伸びる島は伊良湖岬である。愛知県にある岬がこれほどよく見えるとは思っていなかったので感激する。思っていた島が海上のかなたに見えただけでオーッと声が出た。見えることは実にすばらしいことである。ましてその島が故郷であれば、その感激はひとしおであろう。


和具港で10人ほどが下船して、すぐに出港。

人麻呂は、明石海峡で

天離(あまさか)る
夷(ひな)の長道(ぢ)ゆ
恋来れば
明石の門(と)より
大和島見ゆ

と詠った。


前回のテクテクで明石海峡から大和島(生駒山)が見えるかを確かめに出かけたが、春霞で見えなかった。 明石海峡から大和島までの距離は約60Kmある。大和島が見えたとしても、その島影はかすかであろう。だが視界に入ったからには故郷に帰ってきたのである。人麻呂はここで「明石の門より 大和島見ゆ」と帰郷の感情を爆発させたのだ。


和具港から鳥羽方面を見る。

中央の小島は坂手島。右は答志島の大崎。間に鳥羽の佐田浜の建物が見える。左の大きな島は菅島(すがしま)。

和具港を出て築上崎を廻りこむと、小さな岬がある。八幡崎である。岬に見えるが本島からわずかに離れた小島である。この小山の上に八幡神社があるという。

八幡崎の左の建物群は答志東漁港。

答志港に入港。

資料を見ると答志島には答志町と桃取町の2つの町がある。答志町には答志地区と和具地区の2地区があり、桃取町と合わせて3つの地区に人家が集まっているようである。

人口は答志地区が約1450人、和具地区が540人、桃取町が970人ほど。写真にあるあたりが答志島第一の繁華街である。

9:50ころ上陸する。

答志地区のメインストリートである。道路の左側には小さな旅館、喫茶店、干物屋、セルフのガソリンスタンドなどが建ちならぶ。右側(海側)には漁協、魚市場、漁港が続く。

漁港の岸に鯉幟の高い柱が数本立ち、それぞれに鯉が風を孕んで勢いよく靡いている。

鯉は大きく、色鮮やかである。上に吹流し、黒い真鯉と緋鯉は親鯉。ウロコが金色で縁取られているから、光が反射してキラキラ光り、派手である。子鯉は青色・緑色・紫色。5人家族なのだ。

風は海から吹いている。海風であるから陽射しが強いわりにはさわやかである。ただし風は強い。柱はたわみ、矢車は高速回転をしている。鯉は水平に靡くどころか尻尾のほうが高く舞い上がったりしている。 5月の青空を鯉がぐいぐい泳いでいるのは気持ちがよい。

海辺の漁師町であっても淡水魚の鯉幟なのだな。 鯉は天上に昇って龍になるそうだから、子供の成長を願う親にしてみれば、ブリや鯛、ヒラメの海水魚の幟ではまずいのだ。

向こうのトンネルを抜けると大答志浦(おうどうし)、大答志漁港があるそうだが、そこへは行かない。トンネルの右はオードーシ鼻という小さい岬である。

トンネルの手前に西行法師の歌碑があるそうなので向かっている。


市営定期船の乗り場の隣は「前の浜」と呼ばれ、答志漁港がある。写真の左の小山は八幡崎。

漁港の端まできたが歌碑は見つからなかった。すでにオードーシ鼻の根元に来ている。作業小屋で玉葱を選別しているおばあさんに案内書を見せて歌碑の場所を尋ねると、見過ごして来たようだ。

ここまで来たのだから、ついでにオードーシ鼻から神島と伊良湖岬を眺めることにする。

冒頭に掲げた3首目の歌(1-42)を再び掲げる。

  潮騒(しほさゐ)に
  伊良虞(いらご)の島辺(へ)
  漕ぐ船に
  妹乗るらむか
  荒き島廻(み)を


三角の神島と背後に伊良湖岬。

歌の「伊良虞(いらご)の島」とは伊良湖岬のことである。潮が騒がしい。伊良湖岬の辺りを漕ぐ船に、私が恋する人が乗っていることだろう。舟は波風の荒い島の辺りを巡る。

「荒き」の解釈は分れる。1つは荒々しい姿をした島(岩礁がある島)とする。2つは荒々しい波風が吹いているとする。

「島廻(み)を」も2つの解釈がある。1つは「島巡り」(中西進)で、2つは「島のあたり」(伊藤博)とする。

私は伊良湖岬に行ったことがないから、岬が荒々しい姿をしているかどうかは知らない。地図でみる限りでは一部に岩礁があるようである。小さい岩が海岸線すぐ近くに点在しているようだ。だが大きな岩礁はなく、半島のほとんどは砂浜のようである。だから荒々しい姿の島ではなかろう。 1句と2句の「潮騒の伊良虞の島」と5句の「荒き島」が対応しているとするならば、「潮が騒がしい」と「波風が荒い」とするのがよいかと思う(シロート考え)。

そうなのだが、イメージとしては、潮騒が鳴る伊良湖岬の少し沖を、舟が波に揺られながら漕ぎ進んでいる。島の際は岩壁である。海には岩礁がそこここに突き出ている。頼りない舟足だが大丈夫であろうか? としたしたほうが面白い。潮音騒がしく、波荒く、風強い。上陸する岸辺はない。廻りは岩場である。このほうが絵になる。


西行の歌碑が見つかった。次の歌が書いてあった。

  さきしまの
  小石の白を
  高波の
  答志の浜に
  うち寄せてける

さきしまにある白い小石を、高波が答志の浜に打ち寄せたのだな。だから答志の浜は白い石で敷き詰められているのだ。

それでは「さきしま」とはどの島のことなのか。案内書にも持ってきた資料にもそのことは書いてない。白い石を産する島であることは確かである。答志島にある白い石は打ち上げられたものだから、白い石は答志島では産しない。西行の時代(平安末期から鎌倉初期)には白い石を産することで有名な島があったのであろう。 例えば碁石である(すでに平安期には囲碁があった)。黒石は熊野の那智黒、白石はさきしまのものがよいという評判があったとか。

八幡神社への橋。橋の下は海(漁船が通過する)。

持ってきた資料によると、西行は答志島の対面にある菅島(すがしま)について詠っている。

  菅島や
  答志の小石
  わけかえて
  黒白まぜよ
  うらの浜風

菅島の浜辺は黒石ばかりだそうである。西行は答志の浜の白石と分け変えて、白石を黒石に混ぜてくれ、と浦の浜風に声かけたのである。ということは西行の頭には碁盤上にならぶ碁石のイメージがあったのであろう。

八幡神社の鳥居の脇に人麻呂の歌碑があった。無論、答志島を詠ったものである(1-41) 。

 釧(くしろ)着く
 手節(たふし)の崎に
 今日もかも
 大宮人(おおみやびと)の
 玉藻刈るらむ

「釧」とは腕輪のことである。手に着けるから「手」の枕詞になる。答志島は「手節の崎」と詠われている。

腕輪を着けたように美しい答志の崎で、今日あたりも、大宮人たちが藻を刈っていることだろう。

石段を登ると社があった。小島の上にある神社であるから境内は狭い。右に囲いがない拝殿があり、賽銭箱が置かれ、その手前に茣蓙が敷いてある。左に神殿。神明造りであるのはさすがに伊勢国である。

境内は一面に白い玉石が敷き詰められている。西行のいう答志の浜の白石を運んだものか。

資料によると1月に八幡祭りがあって、神社で弓引神事が行われるそうである。何人かの男性が的をめがけて弓を引き、射て、この年の大漁、海上安全を祈るのだそうだ。

消し炭をスリコギで潰し、フノリを混ぜて墨にして、紙に丸に八の字を書き、これを弓矢の的とする。丸八は八幡神社の神紋である。

神事が終わると、氏子らは的を書くのに使われた消し炭を貰い受け、おのおのの家の戸や壁に丸八のマークを書く。護符のようなものである。写真の建物の引き戸にも丸八が書かれている。

地図を見ると、八幡神社は答志地区、和具地区、桃取町の3つの地区にそれぞれあるようである。桃取町の八幡神社の神紋は丸に四つ菱であるそうだから、桃取町では丸八のマークは書かないはずだ。

八幡神社の南に答志東漁港がある。答志漁港の1/3か1/4ほどの規模である。

おばあさんが海草を干していた。何かとたずねるとヒジキであるという。 ヒジキは磯に生えている。潮が満ちたときは水の下にあり、潮が引いたときは水の上に出てくるので、干潮時に岩場に生えているヒジキを刈るのである。これは女性でもできる。

(1-41)答志の崎で、「大宮人(おおみやびと)の玉藻刈るらむ」の玉藻とは、ヒジキのように潮間帯(満潮時の水位と干潮時の水位の間)に生息する海草なのである。

ワカメは常に水面下に生息する。潮が引いてもワカメが現れることはないから、「玉藻刈る」というわけにはいかない。

おっ。蛸壺だ。ここの蛸壺は丸くなく、片面は平坦になっている。蛸壺を積み重ねて保管するためであろう。

私は万葉集を読むとき、中西進さんの「万葉集 全訳注」(1〜4)を定本としている。判らない言葉があったり解釈できないときはこの本に頼っている。大変な労作である。4500首について、@原文(万葉仮名)、A読み下し文、B口訳、C語句の注 が掲げられているので、1首ごとの意味はわかるのだが、関連のある歌全体の解釈はされていない。例えば今回の伊勢行幸の3首ないし5首はワンセットの歌であるが、この5首を歌群として解説されることはない。

それは本の狙いが「全訳注」なのでしかたがなく、現に中西進 さんは「柿本人麻呂」で、伊勢行幸の3首に共通するものは次のものであると解説されている。

  1. (1-40)はあみの浦、(1-41)は答志島、(1-42)は伊良湖岬、と地名を詠み込んでいる。詠われた土地は順に都から遠ざかっている。

  2. 主体は、(1-40)が乙女、(1-41)が大宮人、(1-42)が妹(いも)である。乙女→大宮人→妹と主体がしだいに絞られている。

  3. 「らむ」が共通する。(1-40)は「潮満つらむか」、(1-41)は「玉藻刈るらむ」、(1-42)は「妹乗るらむか」で、人麻呂が宮女たちがすることを想像している。

  4. シロートがさらに追加すれば、(1-40)は潮が満ちるとき、(1-41)は潮が引いたとき、(1-42)は潮がうねっているときの歌である。

人麻呂は次の順に詠って、ひとつの物語を作っている。3首ともイメージ豊かな歌である。
  1. (1-40)あみの浦で、嬉々として舟に乗り込む官女らの足もとに潮が満ちている華やかな情景

  2. (1-41)答志島の磯で潮が引いたときに、官女らがおそらく初めての経験であろう玉藻を刈る情景

  3. (1-42)再び舟に乗ってうねる波間を伊良湖岬に向かう情景
答志東漁港にも鯉幟が泳いでいた。答志島はよほど鯉幟が好きなのだと軽く思っていたのだが、吹流しの口先に文字が書いてあるのを見つけた。

風にくねっている吹流しの文字をなんとか読み取ると「雄」と「史」である。ああっ、これは名前ではないか。右から読むと「史雄」である。フミオだ。この1年に生まれた男児の成長を願って鯉幟を立てているのだ。

ちょうどやってきた老人に尋ねると、そうであるという。鯉幟ではなく「初幟」というのだそうである。むろん男児が誕生したときだけである。これまで見てきた鯉幟がいずれも新しいわけが判った。老人は「結構高いで」。桧の柱を立てれば大変な費用であるともいっていた。

和具漁港へ向かっている。答志と和具の間には築上崎(つかげさき)という岬があるので、低い山を越さなければならない。

途中に美多羅志(みたらし)神社とか潮音寺とかがあったので寄ってみたが、特段のことはなかった。神社は神明造りで白い玉石が敷いてあったのは八幡神社と同じ。

潮音寺は名前がよいので訪ねたが、曹洞宗の普通の寺であった。山門の上にシャチホコが載っているのは珍しかった。

潮音寺裏に蟹穴古墳があり、ここから重文の長首の瓶子が出土したと資料にあったので草を掻き分けて行ってみたが、横穴式古墳の天井は落ち、周りの石も崩れ、雑草が生い茂る単なる四角な箱型の窪みであった。

峠に達したらしい。下の集落は和具であろう。先に浮かぶ島は菅島である。

峠を越えたので、道は下り坂になる。途中の民家で珍しいものを見つけた。「蘇民将来」の護符が玄関の軒下に飾られている。話には聞いていたが、見るのは初めてである。

スサノオが旅の途中で宿を乞うた。このとき弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は断り、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しいなりにもてなした。ためにスサノオは巨旦将来一族を滅ぼし、蘇民将来一族は疫病に罹らぬようにした。

スサノオは疫病神とされている。スサノオを祀る八坂神社の祭りである祇園祭も疫病除けのための祭りである。ならばスサノオの護符を貼ればよいと思うのだが、畏れおおいためか、効き目がありすぎるのか。そうはしないで、スサノオに罹病しないことを保証された蘇民将来の護符を貼るのである。


和具漁港に着いた。ここにも2つの鯉幟が立つ。和具地区には2人の男児が生まれたわけだ。

蘇民将来の護符はどの神社で貰うのであろうか。八幡神社は応神天皇を祀るから違うであろう。丸八と蘇民将来はそれぞれ異なる由来である。蘇民将来の護符は、スサノオを祀る神社が配っているはずだ。

八坂神社が和具にあるのかと地図で探したら和具の八幡神社の近くに天王社があった。スサノオは神仏習合では牛頭天王でもあるから、ここが護符を出しているのだろう。(天王社は訪れなかった)


和具漁港の西隣は海水浴場になっている。サンシャインビーチという。ここにも鯉幟が1つ。

左の大きな島は菅島。右端の岬は答志島の大崎か。大崎と菅島の間にある小島は坂手島。その向うが鳥羽。

海水浴場には、シャワールームやトイレ、子供用のプール、海の家、監視台などの設備のほか、休憩所やベンチもあって夏のシーズン以外でも公園として利用されているようだ。

(次図)和船が2艘展示してあった。傍らに立つ説明板には「サッパ船」だとある。 この程度の大きさの船は、今はグラスファイバー製になっている。このような本格的な和船はなかなかお目にかかれない。

船についての本を1冊でも読むと、船というものはものすごい発達を遂げてきたことを知る。例えば推進力だけに注目しても次のように発達している。

@手で水を掻く
A櫂(パドル)で水を掻く
Bオールで水を掻く
C櫓で揚力を得る(揚力)
D横帆で風下へ進む
E縦帆で風上へ進む(揚力)
F蒸気機関の発明によって外輪船ができる
Gスクリューの発明(揚力)

@ABFは水を後方へ押しやって、この反作用によって進む。Dも風に押されて進むのだから、これらは「力まかせ」による推進力である。


CEGは揚力を推進力とする(揚力も反作用のひとつではあるが)。断面が弓型のもの(例えばカマボコ)を水中で水平に動かすと、断面が丸いほうへ働く力が発生する。これが揚力である。飛行機の翼がそうであり、ヨットの帆がそうであり、櫓がそうである。カマボコの真ん中を軸にして回転させるとスクリューになる。

櫓(ろ)は櫂(かい)とは違ってに常時水中にあるので効率がよい。また疲れない。しかし立って漕ぐために不安定であるし、カマボコを斜めに水中に入れているので推進力は劣る。

櫓を漕いでスピードを上げるには、櫓の本数を増やせばよい。展示されている船は8本の櫓で漕げる(八丁櫓)ようになっていて、時速18Km(約10ノット)が出るそうである。

海水浴場の端に小さな岬があって岩礁が見える。玉藻を刈るとすればそういう場所だろう。

あの岩場の上や波打ち際で大宮人が玉藻を刈るのである。供奉していた男性もいたであろうが、持統天皇および皇女ら、それを世話する官女たちが、歌の主役である。

身分の高い女性は高松塚古墳内に描かれているような衣装をまとっていたのか。 中西進さんは官女らは白い上着に赤い裳を着けていたといわれている。岩場のまわりで、三々五々、喜々として玉藻を刈っている官女たちの姿を想像することはたやすい。

この時間は引き潮である。岩場には海草が生えている。水中にあるのは、答志東漁港のおばあさんが干していたヒジキではなかろうか。

「沖つ藻の靡きしヒジキ」である。



答志中学校。ここまでは答志島の南側を歩いてきたが、ここより島を縦断して、北側にある桃取町へ向かう。

答志港へ2.5Km、和具港へ1.5Km、桃取港へ5Km という案内板が立っている。 山越えをすることになるのだが、答志島で最も高い山は標高167mであるから、山越えの道路(答志島スカイラインという)は高いところでも100mほどではないかと思っている。

実は今日は突然に思い立って出かけてきたものだから、万歩計を忘れてきた。私は携帯電話を持たないので、時間を知るのは万歩計についている時計によっているのだが、今日はそれができない。

あほらしいことに、先日通販で購入したバードウォッチング用の双眼鏡を持ってきている。もしも伊良湖岬が見えないようであれば、これで見えるかと用意したのだが、使う機会はなかった。重いだけである。

ゆっくりとだが登り道になる。道路の両脇は崖あるいは木立が茂り景色は見えない。

5分ごとに2〜3台の車がやってきたり、追い越していったり。クロネコヤマトも走っていた。

人麻呂が詠んだ歌3首(1-40)あみの浦、(1-41)答志島、(1-42)伊良湖岬 に続く歌は次の2首である。人麻呂の3首とこの2首はいずれも伊勢行幸のときに詠まれた歌である。

わが夫はいまごろどこを行っているのであろうか。沖つ藻が水の下に隠れているように、隠っているという名張の山を今日あたり越えているのだろうか。

わが妻をいざ見ようという「いざ見の山」が高いからか大和が見えない。それとも国を遠ざかってしまったからか。

たぶん山越えのピークであろうところから南(やや西より)方向に鳥羽が見えた。

飛鳥京にいる当麻真人麿(たぎま まひと まろ)の妻が、伊勢行幸に従駕している夫を偲んで、 「名張の山を 今日か越ゆらむ」と詠ったのは、古代の名張は畿内の東のはずれとされていたからである。名張を過ぎれば異国になる。

孝徳天皇が646年に出した大化改新の詔の第2条に畿内の四至(しいし)が次のように決めてある。

  東は名張の横河
  南は紀伊の背山(せのやま)
  西は明石の櫛淵
  北は近江の楽浪の逢坂山

人麻呂が「明石の門(と)より 大和島見ゆ」と詠ったのは、明石が畿内の西のはずれであり、明石までくれば畿内に戻ってきた、という思いがあるからでもある。

下り坂になる。山越えをしたらしい。 道路の右手に海が見えてきた。答志島の北側の海である。

5首目の「吾妹子を いざ見の山を」のいざ見山は高見山(1248m)であるとされている。冒頭の地図にあるように高見山はこのたびの伊勢行幸のコースにはない。

ないが高見山は大和と伊勢を隔てる国境の山として名高かったらしく、伊勢から大和は見えない理由のひとつとして高見山を歌ったのであろう。

伊勢行幸の5首は、全部が想像して詠われたわけだ。行幸に 従駕した大宮人は石上大臣を除いて、たいした歌を作れず、都で詠まれた歌のほうがよほど優れていたのである。

景色のよいところがあった。地図を見ると、この湾は刈谷湾である。大きな岬は平手崎。

湾内に小さい岬と岩礁が突き出ている。答志島の北部はリアス式海岸なのだ。

平手崎の先の向こうにかすかに島らしいものが見えるが、方角からすると知多半島であろう。

愛知県の2つの半島を見ることができた。

あとは下るだけである。下り切ったところに田んぼがあった。広さからして売るほどの米は収穫できまい。自家消費のために作っているらしい。

海では魚を捕り、陸では米を作る。自給自足が完結するわけだ。

桃取町から北を見ると、そこは多島海といってよいほどである。視界の中に島々が点在する。

写真は牛島。右と左の島は別々ではなく繋がっている。

地図をみると「人」の文字の形をしている。「八」の字がくっついたところが最も低い。沖合いではワカメを養殖しているようだ。

右のボコボコした島は牛島の「ノ」の字の島である。

それに向き合う左の島は浮島。中間にあるごくごく小さい島は屋島。

家の前にでていた老人に島の名前を確認した。どこから来たのか?1時30分の船で帰るのか? と逆に訊かれる。時刻を訊くと1時15分である。

定期船の時刻表を見ると、次の便は15時10分だった。13時30分に間に合うよう急いで港にやってきた。鳥羽(佐田浜)までは430円、所要時間は15分である。

答志島に来るとき、乗船客のほぼ全員が客席に座ったが、私と中年男性の二人はデッキにいた。この男性から菅島、神島、伊良湖岬を教わった。帰りの船でも同じように男性がデッキにいて、この人から島の名前を教わることになった。答志島の人は皆親切である。

船は旋回して桃取港を出ようとしている。

右のボコボコした島は牛島。左の小島は屋島。

小島(という島)。

岩礁に松がへばりつくように生えている。

弁天島。

弁天島の背後にある島はイルカ島。


15分の船旅である。正面は鳥羽の佐田浜。右の島は三ツ島のうちの1つ。

佐田浜港へ戻る。

あみの浦は現在の小浜地区にあったという。船で戻る途中で、デッキの男性から「あれが小浜地区」だと教わっていた。

あみの浦を見れば人麻呂の伊勢の歌3首に出てくる土地を全部見たことになるのであるが、地図で確認すると片道2Kmほどの距離があった。

今日はなにしろ答志島を縦断したので疲れた。あみの浦は断念する。

定期船の待合所にみやげ物屋があった。「鳥羽一郎」と名づけたイワシの佃煮を売っている。「この棚のものは、2つで1000円」と貼り紙がしてあったので、鳥羽一郎(イワシ)とちりめんじゃこの山椒煮を買う。

鳥羽発の特急電車の乗客はわずかであった。私の座る車両には私しかいない。イワシをアテにして水割りを飲むと、「波の〜〜 谷間に〜〜 二つの花が〜〜 」。うろ覚えの鳥羽一郎の歌が口に出てきた。(人麻呂の歌ではなかった)

万歩計を忘れたので細かな歩数は不明だが、今日のテクテクは推定で20000歩というところか。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 答志島近辺...            執筆:坂本 正治