明石海峡

    No.69.....2009年4月29日(水曜)


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柿本人麻呂の歌に次のものがある。

 天離(あまざか)る
 夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ
 恋ひ来(く)れば
 明石の門(と)より
 大和島(やまとしま)見ゆ    (3-255)

人麻呂が九州(大宰府か)に行き、使命を終えて都(藤原京)へ帰ることになった。その帰路に詠んだスケールの大きな歌である。

大宰府に行っていたとすれば、徒歩か馬で那の津(博多)へ行き→乗船して玄界灘に出て→関門海峡を抜けて瀬戸内に入り→山口県→広島県→岡山県の沿岸に沿って、風待ちをし、潮待ちをし、宿泊を重ねて兵庫県(播磨国)まで戻ってきた。

そこからは室生泊・韓泊・魚住泊といった古くからの泊(とまり)がある。 魚住泊を出ると、じきに明石海峡である。「明石の門」である。この海峡を過ぎようかというとき、東方に大和島が見えた。長い海路の旅のあいだ中、想いをつのらせていた大和にようやく戻ってきたのだ。


人麻呂の安堵した喜びが伝わってくるよい歌である。今でも明石海峡から大和島(見えるのは生駒山・葛城山などであろう)を遠望することができるのかどうか? 

確かめたくて明石に行ってきた。 人麻呂と同じ目線で大和島を見るには、海上に出ねばならない。2つの計画を持っている。

1つは明石海峡に架かる明石海峡大橋の上から見ることである。明石海峡大橋は自動車専用の道路なので、徒歩で渡ることはできない。調べると大橋の下部に「海上プロムナード」という遊覧のための通路が設けられていて、陸地から150mほど先の海上へ行けるそうである。ただし通路は海上47mの高さに設けれられているので、小舟に乗る人麻呂の目線よりも高い。


明石海峡大橋は神戸市垂水区舞子から淡路市岩屋に架かる世界一の吊橋である。橋の長さは3911m。ということは明石海峡の狭隘部は約4kmであることになる。JR山陽本線・舞子駅で降りた。

駅を出ると陸橋の上に出た。下は国道2号線が走っている。陸橋からは、淡路島に向かって伸びる明石海峡大橋が見えた。支柱は海面から297mの高さであるという。

その先に淡路島だ。


陸橋を渡って階段を下ると舞子公園であった。きれいな公園である。海峡大橋ができたのは1998年のことだから、この公園もその時分にできたのだろう。

クラシックスタイルの緑色の建物は孫文記念館(移情閣)。八角三層の楼閣である。説明板によると八角形の平面としたのは四方八方の眺望を得るためであるという。右隣の寄せ棟のルネッサンス様式の建物が母屋である。

橋の下近くまで来た。公園の先は階段状に下っていて、海釣りができるようになっている。

地図を見ると、この海岸は南東方向に向いている。ということは海岸線の延長上に見える町は、舞子より北西に位置する明石市であろう。

名張を6:56に出て、舞子駅に着いたのが9:10ころ。案外に早く着いたのだが、「海上プロムナード」は9:30から開館するそうなので、時間を潰している。

9:30になったので入場した。300円。

エレベーターで8階まで上り、出ると鉄骨の構造体である。写真の上部は自動車道。列車のような形をしているのが「海上プロムナード」である。これより下にも海面が透けて見える通路があるが、これは橋のメンテナンス用の通路だろう。

プロムナードから南東方向を見る。眼下に移情閣。

残念なことに今日は晴天ではあるが水蒸気が残っていて、霞んでいる。遠望は利かない。

もし見通しが利いたとしても、この正面は南東方向なので、おそらくは大阪府泉大津市・泉佐野市・岸和田市のあたりを向いているはずである。「大和島見ゆ」というわけにはいかない。

大和島は写真の左端よりもっと左側に見えるはずである。

(次図)西側を見る。西北西の方向か。写真右端にねぎ坊主の格好をした建物が見えるが、これは明石市立天文科学館の時計台である。 そこを基点にして左に目を移すと、海岸に緑の木立らしきものがある。地図には明石川を挟んで川端公園と望海公園があるので、その公園であろう。茶色の建物が林立しているのは「林崎」あたりだろうか。そうならその左の高いビルが建っていないところが「藤江」だろう。

方角からすれば、その先に加古川市や高砂市、さらには姫路市もあるはずだ。写真の左端のあたりには、竜野市の沖合いにある家島諸島、さらに東には小豆島があるのだろうが、こう霞んでいては想像するしかない。



人麻呂を乗せた舟は、向こうからやってきた。当時の船はどのようなものであったのか。外洋を渡る遣唐使船は1隻に100人〜120人ほどが乗船できる大きさで、推力として横帆を持っていたという。瀬戸内海を行く船は遣唐使船より小さい。帆を持っていたとしても、小さな船体には小さな帆しか張れないから、推力の多くは人力(櫂)に頼ったであろう。

櫂(かい)で船を進めるときの大敵は、@潮の流れ、A風の向きと風速、である。海水浴場でボートに乗って少し沖にでると、潮の向きによっては岸に戻ることができなくなることがある。沖に出るほど潮の流れは強い。また風が進行方向と逆に吹いていれば、いくら漕いでも進むものではない。海流や風に逆らって漕ぐことは難しい。ましてやここは明石海峡である。わずか4kmの海峡に潮が集まり、潮が引いていくのである。人麻呂が西から来て明石海峡を越えるには、引き潮を待つしかなかっただろう。引き潮に乗れば、櫂でせっせと漕がなくとも海峡を通過し、東に大和島を目にすることができる。

九州からの帰路、何度も潮を待ち、風の静まるのを待ちしてようやく「明石の門」を抜けたのである。須磨のあたりまで来ると大阪湾の全部が視界にはいる。ちょうど真東に見えるのは高安山かニ上山であろう。少し北には生駒山、少し南には葛城山・金剛山が見えよう。平城京時代の者なら生駒山を、藤原京時代の人麻呂なら葛城山を見て「大和島だ」と認めたと思われる。

プロムナードから大和島を望むことはできなかった。大和島を見る第1のプランは失敗した。次のプランは明石から淡路島へ渡るフェリーに乗って、海上から大和島が見えるかどうかを確認することである。



10:10ころにフェリーの発着地である明石に着いた。午後になれば少しは大気が澄んでくるかも、と期待して時間を潰すことにした。 明石には人丸神社があるようなので、まずはここを訪れる。写真は明石城の東側を北に向かっている。

柿本人麻呂を祀った神社は多い。人麻呂を主神とする神社は全国に50社近くあるようだ。内訳をざっと挙げれば、栃木県(4)、群馬県(1)、埼玉県(1)、東京都(1)、山梨県(1)、岐阜県(1)、愛知県(1)、京都府(1)、兵庫県(7)、奈良県(3)広島県(2)、山口県(13)、島根県(4)、愛媛県(2)、福岡県(4) のようになる。

山口県が13社、兵庫県が7社、栃木県・島根県・福岡県の4社が多い。これはどういうことであろうか。

柿本人麻呂が作った歌と明記されている歌(「或る本」は除く)は長歌17首・短歌58首の合計75首である。このうち詠まれた場所がはっきりしているのは、奈良県36首、兵庫県8首、島根県8首、滋賀県7首、香川県3首、三重県2首、1首のものは和歌山県・愛知県・大阪府・京都府、である(大雑把に調べた)。

奈良県が半数あるのは人麻呂が住んでいた地、出仕していた地であるから当然である。だが人麻呂を祀る神社の数は詠まれた地の数とは関係がないようである。詠まれていない山口県に13社があり、最も多く 詠まれた奈良県には3社しかないことを見ても明らかだ。
人麻呂を祀る神社の多くはかなり後(江戸期)にできたのではなかろうか。


明石市は思わぬことに丘が多かった。明石城の東側の道はなだらかな登り坂であったが、途中で東に向いて進むと、高低差の大きい丘が連なってた。丘を登ったり下ったりである。それも結構な勾配であるので、自転車に乗っては丘を越えることはできない。 自転車を押して道を登って来た女性に人丸神社の場所を尋ねると、結構ややこしい指示であった。

写真は坂の中途にある妙見社。道を教えてくれた人は、私が正しい方向に行けるかと危惧したのか、しばらく自転車を押しながら同行してくれた。


別れ際に「左にいって左ですよ」と念を押して、プロテスタント系の教会に入っていった。

教わった道筋は、信号のある大通りにでて左に曲がりさらに左に進め、ということであったが、坂を下る途中で左手に杜(もり)が見えた。神社のにおいがする。杜の右には天文科学館の時計塔の先っぽが見える。地図を見ると人丸神社と天文科学館は隣合わせである。

散歩しているらしい二人連れに尋ねると、その通りであるという。突き当たりに石段があるがこれは急であるので、その右にある道を行ったほうがよいとも教えてもらった。


杜の下に、「人丸山 月照寺」という看板と「すぐ人丸社」の石の道標が立っていた。どうやらこの丘は「人丸山」といい、月照寺と人丸神社の2つがあるらしい。

教えられたとおりに緩やかな道を進む。


最後に30段ばかりの石段を登ると月照寺があった。

山門前に案内板があって、この山門は1618年に明石城主の小笠原忠政が徳川秀忠から伏見城の薬医門を拝領し明石城の切手門とした。明治6年に移されて月照寺の山門なった。といったことが書かれていた。

明治初期(4年〜6年)に全国に残っていた各藩の城の多くは廃棄された(存続58城、廃棄144城)。この近辺でいえば姫路城は残り、明石城は廃城となった。門は伏見城にあったという由緒があるので寺の山門として移築されたのだろう。


山門の前は墓地である。そこに人麻呂の歌碑があった。

 ともし火の
 明石大門(おおと)に
 入(い)らむ日や
 漕ぎ別れなむ
 家のあたり見ず    (3-254)

ともし火は赤く明るいので明石の枕詞であろう。初めこの歌を知ったときは、明石海峡に向かって船を進めていると、明石大門の辺りに夕日が落ちようとしている。船を漕ぎ出して別れてきた家のあたりはもう見えない。という意味かと思った。

だが、中西進さんの「全訳注」では「入らむ日や」は「入る日にか」と読み下してあって、「明石大門に船が入る日には、漕ぎ別れていくのだろうか、家のあたりを見ずに。」と解釈されている。

月照寺の隣は人丸神社(柿本神社)である。

「入る日」の解釈のしかたである。斎藤茂吉の「万葉集歌」も、犬養孝の「万葉の旅(下)」も「入る日」とは舟が明石大門に入る日(時間)だと解釈している。万葉集の権威者たちがいわれるのだからそう解釈するのが正しいのであろうが、釈然としないところがある。

「入らむ日や」を「舟が明石大門に入る日」とするならば、この歌は少なくとも明石大門に来る2日か3日前に詠んだことになる。目の前に明石大門が見えているなら「入らむ時」になるだろうし、明日通過することがわかっていれば、不確かな日時である「入らむ日や」は使わないだろう。

次図の橙色の●は摂播五泊(とまり)である。@難波津(大阪)を出港して、A川尻泊(兵庫県尼崎市)で一泊する。ついでB大輪田泊(神戸市兵庫区)に泊まり、明石海峡を通過してC魚住泊(明石市)で泊まる。さらにD韓泊(姫路市)、E室生泊(竜野市)と停泊する。泊(とまり)から泊の間が順調なときの1日の行程である。

順調であれば明石大門を通過するのは、 @難波津を船出して、A川尻泊とB大輪田泊で2泊した後である。「入る日にか(入らむ日や)」と歌ったのは@難波津→A川尻泊の途中か、A川尻泊→B大輪田泊の途中だったことになる。そうなら、この歌には明石大門の情景は歌われておらず、まだ見ぬ明石大門を通過するときのことを想像して歌ったことになる。この歌から明石海峡をイメージすることはできないのである。

「ともし火」を明石の枕詞にしているから、夕暮れになると灯す漁火のイメージを抱かせる。船を漕いで明石大門の近くまでやってきたとき、夕日が赤々と海に沈んでいく。波はきらきらと黄金色に輝いている。振り返れば、薄暗くなった今では家のあたり(大和島)は見えない。明石大門を過ぎてしまえば日中でも家のあたりは見えなくなるだろう。明日からはいよいよ馴染みのない夷(ひな)に向かうのだ。このほうがイメージが広がる。



柿本神社の境内には3つの歌碑があった。うち2つは人麻呂の歌である。左の大きな歌碑は冒頭に掲げた「天離(あまざか)る  夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ  恋ひ来(く)れば ・・・・」 であり、真ん中の歌碑は、なぜかは知らねど

  大君(おおきみ)は
  神にし座(ま)せば
  天雲(あまくも)の
  雷(いかずち)の上に
  廬(いほ)らせるかも   (3-235)

だった。歌の内容からして、昭和の日支事変ころに建てられたものだろうか。

神社の由緒書きによると、1620年に明石城主であった小笠原忠政が人麻呂を歌聖として崇拝していたので、この神社を建て、祀った。というようなことが書かれていた。

人麻呂が明石を歌っているということだけが縁で、そのほかの人麻呂との繋がりはないようだ。ご利益は、学問・安産・火災除けだそうだ。「学問」はよいとしても「安産」はどこからきたのだろう。「火災除け」は知っている。人丸(ひとまる)は「火止まる」という語呂合わせができるので、このご利益ができたのである。

神門を出ようとすると、目の前に天文科学館の時計塔が傍若無人にのっそりと頭を出している。神社にとっては目障りな建物であろう。

天文科学館の時計塔は、東経135度の子午線下に建てられている。この子午線に太陽が南中したとき、日本全国は正午になる。

柿本神社の前は展望台になっている。ちょうど時計塔の裏側にあたる場所にモニュメント的な鉄柱が立っていた。名づけて「日本標準時子午線標示柱」と呼ぶ。説明板に面白いことが書いてあった。

おおよそは、 昭和3年に京大が観測したところ、東経135度線は月照寺山門を通っているとされ、写真の標示柱が立てられたが、昭和26年(1951年)に再観測したところ、11.1mほど東が正しい位置だとわかった。そこで月照寺山門からこの場所に移した。ということである。

てっぺんにトンボが止まっているのがよい。「うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は」である。

展望台には芭蕉の句碑もあった。

  蛸壺や
  はかなき夢を
  夏の月

うーん。字句からすれば、海底に沈めてある蛸壺に、タコがよい寝ぐらがあるとばかりに入り込んで眠っている。明日は引き上げられるとも知らないで、はかない夢を見ているのだろう。海上には夏の月が明るく照っている。ということか。

情景としては、月が波を照らしている。波は黄色く光っている。静かである。その波の下の海底はもっと静かである。海底には蛸壺が横に転がっていて、壺の中に蛸が眠っている。そういうイメージだろうか。俳句は17文字、短歌は31文字。言葉が少ないほど解釈するのは難しい。


(次図)展望台からの眺め。手前は天文科学館の屋上。少し先にJRの列車が高架の上を走っている。
明石市街のビル群が邪魔をして海は見えないが、その先に淡路島が見える。写真左端に明石海峡大橋がうっすらと見える。




人丸山を下る途中に人麻呂の歌碑があった。

  足ひきの
  山鳥の尾の
  しだり尾の
  ながながし夜(よ)を
  ひとりかも寝む

これは小倉百人一首に採用されている歌であるが、感じでは人麻呂の歌ではなかろう。小西進さんの「万葉集事典」によって、初句が「あしひきの」の歌を調べると、この歌は万葉集にはないことがわかる。

わが家にも百人一首のカルタがある。子供が小さいときに買ったもので安物である。思い出して探すと小物を入れるケースの奥にあった。箱には「特選絵入・小倉百人一首・朗詠カセットテープつき」と書いてある。

カルタは、読み札に(57577)の全句が書かれ、取り札には下の句(77)が書かれている。箱をあけてみると読み札に「あ」とか「わ」とかが子供の字で書いてあった。

通常なら、誰かひとりが読み札を見て読み上げ、下の句が書かれた文字だけの札を取り合うのだが、歌を覚えていない子供(をはじめ私も)は上の句を読んでいる最中に、下の句だけが書かれた札を取ることはできない。

そのためであろう、読み札を取り札としたのだ。テープが「あしびきの〜〜」と詠み始めたら、「あ」と子供が書いた読み札の「足ひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」を探したのである。

人丸山を降りた。ぴったりと背を合わすようにして天文科学館が建っている。 東経135度線は、北から南まで走っているのであるから、科学館はもっと北か南かの場所に建てればよかったのに。



11:00を少し廻ったところである。相変わらず晴天だが霞んでいる。明石城で時間を潰そうと寄ってみた。

司馬さんは「街道をゆくF」の「明石海峡と淡路みち」の章で、明石城について簡単に述べられている。おおかたをいうと、徳川家は明石を重要な拠点として明石に譜代大名を配置し、明石城を築城させた。これは長州の毛利・薩摩の島津に対する備えである。 敵が山陽道を東上してきたときは、姫路城で防ぎ、明石城で防ぐのである。明石城下の街道は騎馬なら一列縦隊にならざるをえないほど狭いので、『大手門から人数を押し出せば、理論的には一挙に海峡へ突き落とせるという地勢を占めている。』 なのだそうである。

石垣が低いのも「人数を押し出し」て敵を攻撃することに重点を置いていたためか。

本丸・ニの丸・三の丸は、さすがに石垣が高く積み上げられている。白く長い塀の両隅に櫓(やぐら)がある。天守閣はもともと建てられなかったそうだ。

元の城内は公園になっており、本丸の西には野球場と陸上競技場、北には球技場や図書館がある。野球場では試合が行われているらしく時おり大声援が聞こえてくる。

芝生の上ではボール投げをしたり、庭園の池では子供が網で魚をすくったりしていて、明石の人によい憩いの場を提供しているようだ。


大手門から出ると銅像が立っていた。「中部幾次郎翁銅像」とある。説明板を読むと、翁は幼少の頃から父の生鮮運搬卸業を手伝い、地方の一個人商店にすぎなかった林兼(はやしかね)商店を日本有数の水産会社に育てあげたとある。

林兼商店とかつての太洋漁業は同根である。中部(なかべ)一族が大株主であったはずである。(太洋漁業はニチロと統合して、マルハニチロ・ホールディングスとなっている)。林兼産業の本社は下関なので、マルハ太洋漁業の発祥地は下関だとばかり思っていたが、明石だったのか。

この銅像は、翁が学校建設に多額の寄付をしたり、水産会長を務め、明石市の発展に貢献した。よって昭和3年に作ったものである、とも書いてあった。

林兼商店は生鮮運搬と卸売りをしていたというのだから、明石で水揚げされた鮮魚を仕入れ、これを各地の消費地に運んでいたのであろう。そのうちに漁獲に乗り出して太洋漁業を作り、魚を原料にした食品(缶詰とか、魚肉ソーセージ)を作る林兼産業を作った、ということか。

司馬さんは、先の「街道をゆくF」で、明石の魚ノ棚(うおのたな)を訪れたことを書いておられた。芭蕉の「蛸壺」の句を見たり、中部翁の銅像を見たものだから、予定はしていなかったが私も行ってみることにした。

明石銀座商店街である。「海峡のまち」とある。まっすぐ進めば明石港。


メインの商店街は南北に通っているが、そこから東西に商店街が枝分かれしている。魚の棚商店街は上図の道から一本目の東西に走る商店街である。

アーケードの下には大きな大漁旗が吊り下げられている。「祝大漁 住吉丸」というのが多い。アーケードの支柱には赤いタコの絵が並ぶ。店先では「安いで、安いで」の掛け声。

明石で獲れた魚ばかりではないようだ。手前の店屋は、イカの塩辛・クラゲの粕漬け・辛子明太子を売っていた。

その向うの店は明石蛸の専門店で「たこのやわらか煮」を店先で販売している。いいだこもある。

明石鯛の専門店。「1匹 千二百円」の値札に混じって、「料理致します」の札が置かれている。

穴子の専門店もあった。店先ではあなごを焼いて、奥では穴子弁当をこしらえている。「地方発送承ります」の札も立ててある。


この店のメインは「干しだこ」らしい。八本足に串が通されて、奴凧(やっこだこ)状になったものが何十枚と吊り下げられている。タコの種類によるのか大小によるのか不明だが、安いものは1枚が500円、高いものは2500円。

明石のタコといえば、明石焼きである。明石では「明石焼き」とは言わずに「玉子焼き」というと聞いたことがあるが、この店では持ち帰りの店先には「明石焼き」、暖簾には「玉子焼き」と染め抜かれているから両方が使われているようである。「おだし付き」で550円。

帰宅して司馬さんの魚ノ棚の部分だけを読み返したら、4つの屋号が掲げられている。「魚兵」「松庄」「はちや」「鯨安」である。地図を見て、「はちや」を除く3つの店が今でもあることを知った。

司馬さんがここを訪ねられたのは昭和47年か48年のころであろう。今から36〜37年前のことである。当然に店は代替わりしているだろうが、店は残っているものである。うまいタコと鯛のお陰である。

明石焼き屋の前に食堂があったので昼食をとることにする。定食は「たこ定食」と「穴子天+たこ飯定食」があった。穴子のほうを選んだ。

手前左がたこ飯、真ん中はヒジキとたこの煮物、奥は味噌汁と穴子の天ぷら。

食べ終わってフェリーの時刻表を見ると12:15発がある。次は12:45である。急いでフェリー乗り場に行けば12:15に間に合うかもしれない。

「たこフェリー」というフェリーに乗れば、明石から淡路島の岩屋へ20分ほどで行けるらしい。片道は350円、往復だと700円だが、岩屋で下船せずに、そのまま明石に戻る「遊覧コース」があって、これは620円である。

フェリー乗り場はすぐにわかった。だが待合所のキップの自販機には「遊覧コース」のキップは無かった。ガードマンらしき人に尋ねると別の場所で売っているという。 そこへ急ぎ行き、遊覧キップを受け取ってギリギリ乗船できた。

(次図)明石港を出る。淡路島はすでにして近い。淡路島を瓢箪型とすれば、写真に見えているのは瓢箪の口部である。右側には瓢箪の上の丸みの部分が薄く見える。左側には明石海峡大橋。




中央やや右手に家屋が3つあり、その上に白い建物があるが、これは江崎灯台。そこから右に山は海に沈んでいくが、そのあたりが野島であろう。

 玉藻刈る
 敏馬(みぬめ)を過ぎて
 夏草の
 野島の崎に
 舟近づきぬ
        (3-250)

人麻呂はそう歌っている。中西進さんの「全訳注」によれば敏馬(みぬめ)は神戸市灘区の岩屋の近辺らしい。藻を刈っている敏馬を過ぎると、夏草の茂る野島に近づいた。

という意味だが、敏馬(みぬめ)が神戸市灘区岩屋だとすると、すぐには野島に近づけない。灘区岩屋は大輪田泊よりも東にあるし、野島は淡路島の西を少し南下したところにあるから、1日に航海できる距離よりもよほど長距離になる。 敏馬(みぬめ)は斉藤茂吉がいうように、大輪田泊のあった和田岬のあたりではなかろうか。

そうすれば、朝、大輪田泊を漕ぎ出してすぐに敏馬で藻を刈る人々を見て、須磨の浦→舞子の浜→明石海峡を淡路島に向かい→野島に近づく。これは大輪田泊→魚住泊と同じくらいの距離であるので、歌われている海路をとることが可能になる。



間もなく明石海峡大橋の下を通過する。

人麻呂は野島で、もう一首を詠んでいる。

 淡路の
 野島の崎の
 浜風に
 妹(いも)が結びし
 紐吹きかへす
        (3-251)

船出するとき、妻が再会を約束して結んでくれた衣の紐が、野島の崎に吹きつける浜風で、ひらひらと吹き反っている。妻を偲び、ひなびた地にいる心細さを歌ったものか。

人麻呂はなぜ淡路島に渡ったのであろうか。



岩屋に到着。遊覧コースなので、私は下船できない。ほかに3組の夫婦が船にとどまった。

野島をずっと南にくだった四国に近いところに慶野松原がある。人麻呂はこの土地についても詠んでいる。

 飼飯(けひ)の海の
 庭(には)好(よ)くあらし
 刈薦(かりこも)の
 乱れ出(い)づ見ゆ
 海人(あま)の釣舟
              (3-256)

飼飯の沖の海は穏やかであるらしい。刈った薦が乱れるようにあちらこちらに釣り舟が進んでいる。


明石港へ向かって出港。

歌の順番から推測すると、人麻呂は次のコースを辿ったらしい。

@大輪田出港→敏馬(みぬめ)を過ぎ(3-250)

A野島に上陸して、天候を待ち(3-251)

B野島から飼飯(けひ)の海へ向かう(3-256)

これは淡路島沿いに南下するコースである。九州へ行くのであれば、こういう海路は取らないだろう。

飼飯(けひ)の海から南下すればすぐに鳴門海峡である。おそらく海峡の西を通過して四国の讃岐に行ったのではなかろうか。

大橋下をくぐる。山は摩耶山・六甲山だろうか。山が海に沈んだあたりは須磨の「一の谷」であろう。

明石の時計塔が見える(写真中央)。

人麻呂は讃岐の狭岑島(さみね)で行き倒れの死人を発見し、長歌と短歌2首を詠んでいる。長歌は掲げないが、短歌1首は次のものである。


明石港に到着。

 沖つ波
 来よる荒磯(ありそ)を
 敷栲(しきたへ)の
 枕とまきて
 寝(な)せる君かも
           (2-222)

沖の波が打ち寄せる磯の岩を枕にして、横たわっているあなた。 (あなたの妻はこのことを知らない)

万葉集に人麻呂が詠んだ海路の旅の歌は10首あるが、シロートが考えるに、次の3つのコースを辿ったと思われる。

  1. 四国へ。難波津(3-249)→敏馬(みぬめ)(3-250)→野島(3-251)→ 飼飯(けひ)の海(3-256)→狭岑島(さみね)(2-220,221,222)

  2. 九州へ。難波津(3-249)→明石海峡(3-254)→藤江の浦(3-252)→印南野(3-303)→加古川(3-253)→不明(3-304)

  3. 九州からの帰途。明石海峡(3-255)
上記の多くの歌はすでに掲げたが、2.の九州へのコースの藤江の浦(3-252)、印南野(3-303)、加古川(3-253)はまだ掲げていない(難波津(3-249)、不明(3-304)も未掲載)。

山陽電車で明石から3つ目の駅で下車すると藤江の浦。

 荒栲(あらたへ)の
 藤江の浦に
 鱸(すずき)釣る
 白水郎(あま)とか見らむ
 旅ゆくわれを    (2-252)

藤江の浦を航海している旅人である私を、人は鱸を釣っている漁師だと思うだろうか。荒栲は粗っぽい布。藤にかかる(藤の蔓を剥いで布を織ると粗い布になるのか?)。

おそらく漁師の釣り舟の群れの中に人麻呂の乗る舟が通りすぎようとしたのだろう。岸辺から眺める人は私を漁師と思うだろうか?というのは漁師は一日が終われば家に戻れるのに旅人である私は戻ることはできない。この先さらに苦しい航海が待ち受けているのだがなあ、という思いか。


今日の藤江の浦は波静かである。沖に釣り船はないが、筏が点々と浮かんでいる。散歩している人に、何を養殖しているのかを訊くと、ワカメではないか、と言っていた。

人麻呂が乗る舟は櫂を漕いでの推進であるから、筏が浮かぶあたりを通過したのではなかろうか。


藻が打ち上げられている。砂浜の先の海底には岩があって、藻がへばりついているのであろう。よく知らないが海底が砂地であれば藻は生えまい。

人麻呂が石見国から妻と離れて上京するときに詠んだ長歌がある。一部を掲げる。

  つのさはふ
  石見の海の
  言(こと)さへく
  韓(から)の崎なる
  海石(いくり)にそ
  深海松(ふかみる)生ふる
  荒磯(ありそ)にそ
  玉藻は生ふる
  ・・・・     (2-135)

海石(いくり)は深い海底にある岩、ここに深海松(海草のミル)が生える。荒磯(ありそ)は岩でできている波打ち際、そこには藻が生えている。人は荒磯で玉藻を刈るのである。



(上図)東南を望むと淡路島がある。明石からは瓢箪の口先しか見えなかったが、藤江の浦からは淡路島の側面を斜めに見ることができる。瓢箪の上半分くらいは見えていると思う。

予定では、藤江の浦からさらに西に足を伸ばし、印南野(3-303)、加古川(3-253)を見るつもりだったが、時間が足りなかった。 JR西明石駅まで歩き、西明石(新快速)→大阪(環状線)→鶴橋(近鉄)を経て名張へ帰った。祝日であったが往復ともすべての電車で座ることができた。

写真は、「たこフェリー」のキップが入っていた封筒と乗船記念に貰ったタコのガム。

封筒やや厚手の紙で、タコのペーパークラフトができると書いてあった。切り抜いて作ったのが右。 タコは前面だけで、背面はない。よって4本足のタコである。

明石海峡から大和島根は見えなかったが、明石の紙のタコを得た。

今日の万歩計は16500歩だった。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 明石周辺地図...            執筆:坂本 正治