巻向山と龍王山

    No.68.....2009年4月11日(土曜)


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前回のテクテクは近鉄・長谷寺駅をスタート地として、初瀬川と平行して走る国道165号線あるいは旧初瀬街道を、北に初瀬山・巻向山・三輪山と連なる山塊を見ながら歩いた。ゴールは忍坂の山(外鎌山)であった。

今日は三輪山・巻向(まきむく)山の北側に流れる巻向川に沿って歩く。行った先は、次の順となった。
  1. 箸墓をスタートして
  2. ホケノ山古墳、
  3. 巻向川に沿って車谷部落を過ぎ
  4. 檜原(ひばら)神社に寄り道をし
  5. 巻向川の源流を極めて、引き返し

  6. 穴師兵主(あなしひょうず)神社
    その隣の相撲神社で昼食
  7. 景行天皇陵を過ぎ、
  8. 崇神天皇陵を過ぎ、
  9. 長岳寺を過ぎ、
  10. 人麻呂の「衾道を 引手の山に・・・」の歌碑をゴールとする。

  11. 時間があったので大和神社を訪れた。
@〜Eは桜井市、F〜Jは天理市である。C→B→F→G→H→Iは「山の辺の道」沿いにある。



娘に近鉄名張駅まで送ってもらうと、駅前の桜は満開だ。

万葉集に「柿本人麻呂歌集にいづ」の付記がある歌で、今日眺める予定の三輪山・巻向山・巻向川と檜原(ひばら)についての歌を探すと16首あった(見落としもあるだろうが)。

この16首で歌われている山川の名ごとに集計すると、
  1. 巻向山(弓月が嶽)が7度
  2. 巻向川(穴師川)が6度
  3. 檜原が5度
  4. 三輪山が2度
である。「檜原」は地名でもあるが、巻向の檜原とか三輪の檜原、泊瀬の檜原のように、桧の林をさす普通名詞としても使われているので、地名の檜原が5度出てくるわけではない。




人麻呂歌集は、@人麻呂が詠んだ歌、またはA人麻呂が採集した歌であるので、どちらにしても、巻向山と巻向川は人麻呂の好みや思い入れのある場所であったようだ。

8:10ころに桜井駅に着いた。ちょっと早すぎた。桜井駅近くから三輪山は東北方向にあるので、写真を撮る際に逆光とはならないが、今日のテクテクのスタート地点としている箸墓(はしはか)から巻向山の方向は真東、三輪山はやや南向きになる。 この時刻では完全に逆光にあり、山々は黒い塊にしか写らないだろう。

ローソンで朝食用のパンとミルク、昼食用のおにぎり弁当を買った。どこかで腹ごしらえして時間をつぶそう。


駅前からタクシーに乗った。国道169号線を走ってじきに箸墓に到着。1270円。


箸墓は山の辺の道 A日目(2002.10. 5)で訪れている。箸墓は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の陵墓とされている。日本書紀の崇神天皇の条に、
  1. 疫病が流行って民の半数が死に、百姓が流離し、あるいは反逆をしたので、天照大神と倭大国魂(やまとのおおくにみたま)の2神を祀ったが、災害は治まらなかった。

  2. そこで天皇は八十万(やそよろず)の神々をお招きし占いをされると、ある神が天皇のおばである倭迹迹日百襲姫に神懸りして、「わが名は大物主神である。わが子の大田田根子(おおおた たねこ)に祀らせれば国が治まるであろう」といわれた。祀ったのが三輪神社である。



    箸墓に沿って道路がある。手前は前方部、向うは後円部。

  3. モモソ姫は三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)の妻となったが、大物主は夜にしか訪ねてこない。昼の明るいうちにその顔・姿を見たいものだと思い、大物主に願ったところ、「そのとおりである。ただ私の姿を見て驚くな。」といわれた。

    明るくなって、見た大物主は衣紐ほどの長さの小さな蛇であった。モモソ姫は驚き、叫んだ。蛇の大物主は恥じて人間の姿に戻り、怒って三輪山に帰ってしまった。 モモソ姫はこれを悔いて、どすんと座り込んだとき、箸が陰部(ほと)に突きささり死んでしまわれた。

  4. 姫は大市(おおち)の地に葬られた。墓は昼は人が作り、夜は神が作った。墓はこのために「箸墓」と呼ばれる。




箸墓を過ぎると、今日目指す山々が見える。ここから見る巻向山は三輪山の奥にあって、まったく別の山であるように見える。

巻向川は巻向山と龍王山との谷間に源流があり、巻向山の支峰である三輪山と龍王山の支峰である穴師山の山裾を流れ下って平地に至り、箸墓の傍を流れ抜けて初瀬川に合流している。

左図は、前回の初瀬のコースで、長谷寺駅から見た巻向山と三輪山。巻向山と三輪山は一体であるかのように連なっている。

次の歌がある。

 三諸(みもろ)の
 その山並みに
 子らが手を
 巻向山は
 継(つ)ぎのよろしも

 (7-1093 人麻呂歌集)


神の山(三輪山)に並んで、まるで乙女の手を枕にするような巻向山はその続き具合のなんとよいことか。

子らが「手を」→「巻く(枕を連想)」→「巻向山」と掛かる。手を巻くとは乙女の手を枕にするということだそうだ(「全訳注・万葉集」中西進)。

右手に少し行ったところに小川があった。これが今の巻向川である。農地の中を流れているので、土手は石垣で固められている。まあ何の風情もない。

巻向川に沿った道を上流を目指して歩く。右は三輪山。ほかにも、

 子らが手を    巻向山に
 春されば     木の葉しのぎて
 霞たなびく   (10-1815 人麻呂歌集)

という歌がある。「子らが手を」は巻向山の枕詞であるらしい。「子らが手を巻」くと詠まれたとき、娘か妻かの手枕を連想するのであるから、それは、柔らかで、ふくよかで、優しい山の姿であらねばならない。巻向山は上の写真ではそのような山容をしている。

手枕をされているのは、添い寝している男である。この場合は三輪山が巻向山の手枕に頭を載せているということであろうか?


川は蛇行している。向こうの山は龍王山。

人麻呂は、その妻に対する挽歌を2つ歌っている。ひとつは橿原市・大軽町から甘樫丘(2009.3.7) で訪ねた「軽の市の妻」の歌であり、いまひとつは「引手(ひきて)の山に葬られた妻」の歌である。

「引手の山」の歌碑は龍王山の麓にあって、今日のゴールとなるので、そこで長歌を載せるが、その出だしの部分を先にいうと、次のものである。

 うつせみと      思ひしときに
 たづさへて      わが二人見し
 走出(はしりで)の  堤に立てる
 槻(つき)の木の   こちごちの枝(え)の
 春の葉の       茂きが如く
 思へりし        妹(いも)にはあれど
 たのめりし      児(こ)らにはあれど
 ・・・・・

妻が生きているころ、手を携えて近くの堤に立つ槻の木を二人で見た。どの枝々にも若葉がびっしりと茂っているように、私は妻を思っていたし、末長く頼んだ女性であった。それなのに・・・・と続く。

二人が手をつなぎ、堤に立っている槻の木を見たのは、写真のような場所であったのか。

木には葉が繁り、野には草花が咲いている。人麻呂とその妻も若かったのであろう。春の色は青(古代は緑色を青色といった)である。青春である。輝くような二人の姿がイメージできる。

車谷の村落に入ったかと思われるところで、ふと道路下の川筋に目をやると、道路から一段低いところに歌碑が据えてある。降りて見ると、棟方志功の揮毫による人麻呂歌集の歌である。


  痛足河(あなしがは)  川波立ちぬ
  巻目(まきもく)の     由槻が嶽(ゆづきがたけ)に
  雲居立てるらし     (7-1087)

痛足河は「穴師」のあたりを流れる巻向川のことである。巻目は巻向と同じ、由槻が嶽は弓月が嶽と同じ。弓月が嶽は巻向山の最高峰(567m)。

穴師川の流れが急になって瀬音が大きくなったので、弓月が嶽に雨雲が立っていることだろう。


万葉集には同じような歌が続いている。

  あしひきの     山河(やまがわ)の瀬の
  響(な)るなへに  弓月が嶽(ゆづきがたけ)に
  雲立ち渡る     (7-1088)

川の水量が増して、川は響くような音を発している。この川の上流に聳える弓月が嶽には雨雲が掛かり、すでに雨を降らせているのであろう。

まっすぐ登って行けば、巻向川の源流に着くはずであるが、右に折れて檜原神社に寄り道する。

(次図)檜原神社への途中に歌碑があった。


  神山(みわやま)の  山辺(やまべ)真麻木綿(まそゆふ)
  みじか木綿(ゆふ)  かくのみからに
  長くと思ひき     (2-157)

この歌はシロートには手が余る。高市皇子(たけちのみこ)が異母兄妹の十市皇女(とをちのひめみこ)が亡くなったときに詠んだ3首のうちの1首である。

「秘められた挽歌・柿本人麻呂と高市皇子」(末田重幸)によると、三輪山の山辺のまじりものがない木綿、その短い木綿のように美しい(ひと)、それだけにもっと長く生きていて欲しかった。という意味であるらしい。
十市皇女の母は額田女王である。十市皇女は天智天皇の子の大友皇子の妃となっていた。天智天皇が亡くなって半年後、父の天武と弟の高市皇子は近江朝を攻め、大友皇子(後に弘文天皇)を討ち破った。壬申の乱である。

近江朝が滅びたあと、十市皇女は飛鳥京に戻ったが、そこには夫の仇である父と弟がいる。十市皇女は父や弟に対して堅く心を閉ざしていたことは想像に難くない。

日本書紀に、天武天皇7年4月7日、十市皇女は急病に陥り、宮中で薨じられ、14日に皇女は赤穂に葬られた。30才であった。天皇は葬儀に臨まれ、声を出して泣かれた。とある。

天武も高市皇子(25才)もいくぶんかの贖罪の意識があり、十市皇女を不憫に思われたのであろう。

箸墓のところで、多くの災いを避けるために、天照大神と倭大国魂(やまとのおおくにみたま)の2神を祀ったといった。 詳しくいうと、天照大神は豊鍬入姫(とよすきいりひめ)を斎主として、倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら)に祀った。それがこの檜原神社である。

それでも災いは去らないので、三輪神社を建て、大田田根子(おおおた たねこ)を斎主として大物主を祀らせた。また淳名城入姫(ぬなきいりひめ)を斎主として、倭大国魂(やまとのおおくにみたま)を市磯邑(いちしのむら)に祀ったところ、天下が平いだという。

倭大国魂を祀った神社は今日の最後に訪ねた大和神社(おおやまと)神社である。

檜原神社の周りに植えられている木の多くは松であるが、人麻呂の時代、ここ檜原の地には桧林があったようである。

人麻呂は、おそらくは自身がこの近くに住んでいたか、あるいは妻の家があってここへ足しげく通っていたのであろう。巻向川・巻向山・弓月嶽・檜原について多くの歌を残している。

  古(いにしへ)に   ありけむ人も
  わが如(ごと)か   三輪の檜原に
  挿頭(かざし)折りけむ   (7-1118)

檜原を通りかかったとき、桧の小枝を短く折り取って頭髪に挿すのは、樹木の生命力を身体に注ぎ込むためか。あるいは天照大神を祀る檜原神社の霊力を身に受けるためか。

たぶん妻(通い婚)の家を訪ねるときに詠んだものであろう。桧の小枝を髪に挿して、生命力を授かって、さあ元気よく行こう。昔の人も私と同じように、人を恋し、桧を手折ったのだろう。という生き生きとしたイメージである。


巻向川に引き返す。左手に車谷の集落、その背後に穴師山。正面奥は巻向山(たぶん最も高いところが弓月嶽であろう)。

同じころに詠んだと思われる歌がある。


 巻向(まきむく)の
 檜原(ひばら)に立てる
 春霞
 おぼにし思はば
 なづみ来(こ)めやも

    (10-1813)

「おぼに」は、「おぼろ(月)」と同じで、ぼんやりと、不明瞭な、いいかげんな、といった意味。「なづみ」とは、難渋して、苦労して、という意味である。

巻向の檜原に立つ春霞のように、ぼんやりとした恋心であるなら、どうして苦労してここまで来ようか。

人麻呂の歌であるなら、人麻呂が妻の許へ通い始めたばかりの時期の歌であろう。「なづみ来る」のだから、よほど遠方からやってきていたのか。通い婚は「ゆふべ」にやって来て「あした」に帰っていくそうだから、暗くなりかけた山道を進むのは難渋したのだろうか。




巻向川(このあたりは昔は穴師川と呼んだ)に戻った。2連の水車があったが巻向川の水は利用していない。巻向川に注ぎ込む山の湧き水をパイプで引いて水車を回している。

歌の順番は、通い始めた時期(10-1813)→通い慣れて満ち足りた時期(7-1118)だろう。

しかし幸せな日々はいつまでも続かなかった。

  往く川の     過ぎにし人の
  手折らめば    うらぶれ立てり
  三輪の檜原は   (7-1119)



車谷を流れる巻向川の水は澄んでいる。

流れていく川のようにこの世を去っていった人が手折らないので、檜原の桧は淋しそうに立っている。

当然に、桧が淋しいのではない。過ぎにし人とはおそらく人麻呂の妻であろう。「走り出の堤に立つ槻の木を、手をたづさへて 二人で見た」という長歌の一部を先に掲げたが、おそらくここ檜原にも二人でやってきて、互いに桧の小枝を髪に挿し合ったこともあった。その妻はもういない。

だがこの歌には、妻が亡くなった時に嘆き悲しんだ悲痛の表現はない。人麻呂は、妻の死後かなり時間が過ぎてから、思い出のある檜原にやってきたのではないか。あるのは寂しさばかりである。


巻向川の上流を目指して進む。川の傍には舗装された林道があって、川は道の右側を流れたり左側を流れたりしている。

この辺りはまだ道路と川の段差は小さい。道から川辺に降りることができる場所があったので降りてみた。

現在の川は汚い。特に川に沿って道があるところはいけない。空き缶やペットボトル、弁当殻、菓子袋、果てはタイヤ、ビニールパイプが散乱している。あの飛鳥川の汚さには驚いたが、万葉人が好んで歌った巻向川も同じである。

万葉集に歌われている川も文化財である。どうして自分たちの自然と歴史を汚すのか。自ら品性を貶めて恥じない馬鹿な人間が多すぎる。

人麻呂歌集に次の歌がある。

  巻向の     山辺響(と)よみて
  行く水の    水沫(みなは)のごとし
  世の人われは   (7-1269)

川は巻向山を巡ってざわざわと響きながら流れていく。その水に浮かぶ泡のようなものだ。生きている身の私は。

推察するに、(7-1119)と同じ時期の歌だろう。妻は過ぎて往ってしまって、私だけがとり残された、という思いではないか。

それにしても、もし人麻呂がこの川の有様を見たならば興ざめして、この歌は詠めなかったに違いない。



岩が水を堰き止めて、小さい滝のようになったところもある。 志貴皇子(しきのみこ)の有名な歌がある。

  石(いは)ばしる   垂水(たるみ)の上の
  さ蕨(わらび)の   萌え出づる春に
  なりにけるかも    (8-1418)

岩の上をほとばしる滝のそばに、蕨が萌え出ている。春になったことだ。

巻向川には1m位の段差があって、「石走る垂水」があるかと期待してきたのだが、川岸はコンクリートか石垣で固められていた。滝はない。


林道はいつのまにか路幅が広がり、県道50号線になっている。 ガードレールがついているのは、川が道路から5mほど低いところを流れているからである。

川を見下ろしながら歩いていると、動物の死骸が転がっている。傷はないから車にはねられたのではない。イタチであろうか。ことによったらムササビかも知れない。

同じ志貴皇子(しきのみこ)がムササビを詠んだ歌がある。

  むささびは   木末(こぬれ)求むと
  あしひきの   山の猟夫(さつを)に
  あひにけるかも     (3-267)


むささびは、葉が茂っているところや木の洞に潜んでいれば見つからないのに、遠くへ飛ぼうとして高い木の梢まで登る。そこには隠れ場所がないから、猟師に見つかって弓で射られてしまうのである。

志貴皇子は天智天皇の第7皇子であるが、壬申の乱では同じ天智天皇の皇子である川島皇子とともに天武方に組した。

壬申の乱以降、第40代・天武天皇から第48代・称徳天皇(孝謙天皇が重祚)まで8人の天皇は全部天武の皇系であった。

しかし女帝である称徳天皇で天武系は絶え、志貴皇子の子供である第49代・光仁天皇が即位する。以来天皇家は天智天皇の皇系が続いている。


(上図)右側は巻向山の山裾。道は平坦になった。峠までやってきたのかも知れない。巻向川は道路から10mくらい下をザワザワと音を発して流れていたが、いまや瀬音は聞こえない。

巻向川の源流は過ぎたのではなかろうか。このまま進んでもしかたがない。万歩計を見ると11000歩歩いている。時刻は11:00を少し回っていたので、引き返すことにする。

帰る途中で川辺に降りられるところがあった。まあ源流に近いところであろう。だが、ここも汚い。

(次図)帰り道は味気ない。巻向の山と川の歌を暗誦できるように歌を憶えようと思って、歌をまとめた紙を見つつ、読み上げながら下っていた。突然、甲高く「ワン」と吠えられた。紙から目を離すと、中型の白い犬がガードレールの下にいる。


犬は寝そべって日向ぼっこをしていたようだ。そこへ闖入者がやってきたので威嚇のために吠えたらしい。弱ったな。凶暴な犬だったらどうやって闘うか。

犬は吠えてから立ち上がったのか、立ち上がってから吠えたのか。ともかく立ち上がったのだが、その拍子に後足を滑らせた。体の半分が道路から川に落ちかけている。犬は必死の形相で前足を張り出して落下を食い止めようとするが、犬の足は物を掴めるようにはできていない。ずるずると川に落下していった。

ガードレールから川を覗き込むと、3mほどの高さである。犬は川底の石に足をぶつけたのか、ひょこひょこと川底を歩いている。志貴皇子のムササビと同じである。余計なことをするから自分を窮地に追い込むことになる。


檜原神社へ通じる道(山の辺の道)まで戻ってきた。さすがに山の辺の道はハイキングコースである。人が多い。

左の道は檜原神社→三輪神社への道。まっすぐ下ると車谷(くるまだに)の集落がある。

巻向川の源流まで行ってみようというのは失敗だった。当然に歩く人はいなかったし、巻向川は汚れていた。

私も志貴皇子のムササビと同じである。巻向川の源流がよいところであれば、観光案内があるであろう。だが私の悪い癖で、案内が無いのだから「知る人ぞ知る穴場」があるかもわからないではないかと妙な欲を出したのだが、疲れたばかりであった(犬にも吠えられたし)。

道の左下に巻向川が流れている。歌碑があった。

 巻向の
 山辺響(と)よみて
 行く水の
 水沫(みなは)のごとし
 世の人われは   (7-1269)

である。車谷は美しい集落である。川にゴミがひっかっているところはない。おそらく集落の住民が定期的に川の掃除をされているのであろう。

車谷から下流の巻向川は、川底に岩はないから「山辺響(と)よみて」というわけにはいかないが、川がきれいなのが救いである。歌碑もここにあるほうがよかろう。

振り返ると三輪山。煙出しのついた旧家がある。

いったん穴師山の麓まで下りて、山裾に沿って北上する。

山の辺の道とはいうけれど、農耕地の道は古代の山の辺の道であったかどうかはわからない。 道が分岐していて、どちらの道を進めばよいのか判断できないときは、農作物の無人販売の小屋(棚)があるほうを選べばよい。山の辺の道を散策するハイカーに買ってもらおうと近所の農家が採れたての農作物を並べている。

多くは100円均一、量が多いものは200円。今の時期は青菜や玉ねぎ、はっさくなどだが、秋になれば柿・みかんなどの多くの種類の果物が並ぶ。前回一人で来たとき、檜原神社の近くでアケビを食べた。その前は15年も前のことだろうか、家族5人でやってきてイチゴを食べた。

穴師の集落。ここからは登り坂になる。振り返ると三輪山。

(次図)道を登っていくと見晴らしのよい場所にでた。ここで国見をする。


家並みは穴師の集落である。その先に箸墓、左に耳成山。さらに左に畝傍山。その背後には葛城山と金剛山が霞む。香具山は左端の緑色の端山の陰に隠れて見えない。

穴師兵主(ひょうず)神社へ向かっている。

左の山は穴師山。まあ、ここら一帯の山は穴師山であるが、その中で最も高い山を「夏至山」(409m)と呼ぶそうだ。車谷を下る途中でお茶を買った店のおばあさんがいっていた。夏至の日、太陽は夏至山の頂上から昇るそうである。

兵主神社を訪れるつもりはなかったが、その手前に兵主神社の摂社である相撲神社がある。前回のテクテクで、当麻蹴速(たいまのけはや)と対戦した野見宿禰(のみのすくね)の出身地は島根県の「出雲」ではなく「泊瀬の出雲」であったことを知ったので、遠回りになるが相撲神社にやってきた。

まっすぐ行けば兵主神社、桜が咲いているのが相撲神社。

相撲神社は桜が満開である。前回来たのは秋であったから、これほど桜木が植えられていたとは気づかなかった。

ピクニックにきて、ここで弁当を食べている家族が2組あった。どちらのお父さんもシートの上に寝転んでいる。子供はタンポポを摘んだり、キャッチボールをしたり。

第11代・垂仁天皇(すいにん)の7年7月7日、ここで当麻蹴速と野見宿禰が相撲を取ったのである。始めての相撲であるからルールは無かったのだろう。

日本書紀には、@二人は向かい合って立った、A互いに足を挙げて蹴り合った、B野見宿禰は蹴速のあばら骨を踏み砕いた、Cまた腰を踏みくじいて殺した、D蹴速の土地は没収されて野見宿禰に与えられた、とある。

@立会いはよいとしても、A蹴り合う、B倒れていても踏みつける、C殺す、D敗者の土地は没収され勝者のものとなったのだからというのだから、今の相撲とはまるで違う。

この場所は土俵があったらしく思われる。というのは、昭和37年(1962年)の秋、時津風理事長(双葉山)を祭主として、大鵬・柏戸の2横綱以下幕内の全力士が集合して大祭が行われ、写真の場所で手数入りが奉納された、と手書きで説明した紙が貼られていたからである。

かつて大鵬・柏戸が土俵入りしたであろう場所に地図を広げてシートの替わりとし、ローソンで買ってきた「おにぎり弁当」を食べた。元土俵は散った桜の花びらで覆われてピンク色である。

神社境内の隅に歌碑があった。人麻呂歌集の歌である。

 巻向の
 檜原もいまだ
 雲居ねば
 小松が末(うれ)ゆ
 沫雪(あはゆき)流る   (10-2314)

巻向山の檜原の上にはまだ雲がないのに、小松の梢を雪が流れている。沫雪は淡雪ではなく細かな雪のことらしい。

今日は桜の花吹雪だ。

相撲神社に歌碑があったので、本社である兵主神社へも行くことにした。この神社はいつでもきちんと掃除がされていて清々しい空間を提供してくれる。

時津風のことである。初代は「角聖」といわれた双葉山、2代目は大関豊山である。だが3代目はひどかった。新弟子をしごき殺したとして逮捕された。

時つ風とは、潮が満ちてくるときに吹く風のことである。 時津風が吹くにつれて潮が満ちてくるのである。上げ潮である。まことに縁起のよい名前であるはずだが、時津風部屋は凋落の一途を辿っている。

やはり歌碑があったが、人麻呂あるいは人麻呂歌集の歌ではなかった。万葉集に「時つ風・・・」で始まる歌は3首あるので、替わりに掲げる。

 時つ風
 吹くべくなりぬ
 香椎潟(かしひがた)
 潮干(しほひ)の浦に
 玉藻刈りてな  (6-958)

小野老(をののおゆ)朝臣の歌である。時つ風が吹きそうだ。潮が満ちてくる前に、香椎潟の潮干の浦の玉藻を早く刈ってしまいたい。

小野老は次の有名な歌を詠んでいる。

 あをによし
 寧楽(なら)のみやこは
 咲く花の
 にほふがごとく
 今盛りなり   (3-328)

この歌は奈良にいて詠んだのではなく、大宰府にいて詠んだのだという記憶がある。先の香椎潟は福岡県の香椎であろうから、大宰府からちょっとした遠出をしたときに詠んだのだろう。


坂を下る。右手に見える木立は第12代・景行天皇の陵墓である。左が前方部、右が後円部。景行天皇陵からは天理市に入る。


平地に降りて、田んぼの中の山の辺の道を往く。振り返ると歌碑があって、後方に三輪山。

歌碑は額田女王の長歌と短歌であった。

 味酒(うまさけ)  三輪の山
 あをによし     奈良の山の
 山の際(ま)に   い隠(かく)るまで
 道の隈(くま)    い積(つも)るまでに
 つばらにも     見つつ行かむを
 しばしばも      見放(みさ)けむ山を
 情(こころ)なく   雲の
 隠さふべしや     (1-17)

三輪山が奈良山の山際に隠れるまで、道が幾重にも折り重なるまで、じっくりと見ながら行きたいのに、何度も見たい山なのに、心無い雲が隠そうとしてはならない。

天智天皇が飛鳥京を置いて近江京に遷都するときの歌である。



この柿の木は前回来たときに写真を撮った記憶がある。あのときは秋だったので赤い柿の実がなっていた。

上記の長歌に対する反歌も書いてある。

 三輪山(やま)を
 しかも隠すか
 雲だにも
 情(こころ)あらなむ
 隠さふべしや   (1-18)

三輪山をこのように隠すのか? せめて雲だけでも心があってほしい。隠さないでくれ。

近江京へ出立した日は曇っていたようである。毎日飛鳥京から眺めていた三輪山である。今日が見納めだというのに、雲は心なくも三輪山を隠しているのである。



景行天皇陵を過ぎると、穴師山は途切れ、龍王山が見えてくる。

龍王山の山裾には天皇家につながる大きな古墳が点在している。北から挙げると、

@手白香皇女陵、 A中山大塚古墳、
B黒塚古墳、
C崇神天皇陵、
D櫛山古墳、
 穴師山の裾に
E景行天皇陵、
 三輪山の裾に
Fホケノ山古墳、
G箸墓 などである。

龍王山と穴師山の谷間から山の中腹にかけて、6〜8世紀に作られた約600の古墳が集まっていて龍王山古墳群と呼ばれている。この古墳は王族のものではないので、半数は未発掘であるという。

「火の路」(松本清張)で清張さんはこの古墳群を「死の谷」と呼ばれていた。





崇神天皇陵の後ろの路傍に歌碑があった。人麻呂歌集にある歌であるが、石碑には作者不詳とされていた。

 玉かぎる
 夕さり来れば
 猟人(さつひと)の
 弓月が嶽に
 霞たなびく   (10-1816)

玉のようにほのかに輝く夕方になったときに、弓月が嶽を見ると霞がたなびいている。

春の歌である。猟人は弓を持つから、弓月が嶽に繋がる。中西進さんは猟人(さつひと)=幸(さち)を取る人であるといわれている。

この歌を聞いたとき、玉かぎる夕方の薄赤い空をイメージし→次に猟人が猟をしているだろう弓月が嶽を思い浮かべ→そこにたなびく春霞を想い描くのである。

崇神天皇陵の後円部に沿って丸く廻って、右に進めば長岳寺に着く。今日は寺には入らず通り過ぎる。




(次図)長岳寺を過ぎてしばらくしたころ南東方向を振り返って撮った。穴師山は三輪山より手前にあるので高く見えるが、穴師山(409m)、三輪山(467m)の高さである。



龍王山。

図の最も高いところが山頂。山頂から右に1cmほどのところから山裾にかけて窪み、浅い谷になっている。これが清張さんのいう「死の谷」、龍王山古墳群だろう。

人麻呂の時代、龍王山は「引手(ひきて)の山」と呼ばれていたようだ。また人麻呂は「羽易(はがい)の山」とも歌っている。

巻向川のほとりにいたであろう人麻呂の妻が死んだとき、次の長歌と2首の短歌を詠んでいる。

初めの14句は先に掲げたが繰り返す。


妻が生きているころ、
手を携えて近くの堤に立つ槻の木を
二人で見た。

どの枝々にも若葉がびっしりと
茂っているように、
私は妻を思っていたし、
末長く頼んだ女性であった。

だがこの世の定めに背くことはできない。
陽炎が燃え立つ荒れ野に、
白い領巾(ひれ。天女が首にかけている長い天衣)に包まれて、

鳥が朝飛び立つように
日が落ちていくように隠れてしまった。
妻が形見に残した
幼な子が、乳を求めて泣いても
与えてやれるものはない。

男らしくないが、乳飲み児を腋にかかえ上げ
妻と二人で寝た
嬬屋の中で

昼はうらさびしく過ごし
夜はせつなく夜明けを迎える。

どんなに嘆いたところで、なんともしようがない。
恋しく思っても逢える手立てはない。

大鳥が羽を交わすような姿をしているあの山に
私が恋しく思っている妻はいると
人がいうので、岩を踏み分け 難儀しながらやってきたが、 よいことは何もなかった。

生きていると思っていた妻は
ほのかにすらも
見えなかった。

昨年見た秋の月は、今年も照っているが、去年ともに月を見た妻は、年月とともに遠ざかっていく。

長歌から、人麻呂には子供があったことがわかる。

人麻呂の時代の結婚は、妻の家に通う「通い婚(妻問い婚)」であったといわれているが、すべてがそうではなく半分は同居していたらしい。妻の実家に労働力が多いときは、妻は実家を出て夫と同居することができたし、労働力が少ないときは夫が妻の許に通う通い婚になったようだ。

「奈良時代の婚姻についての一考察」(伊東すみ子)によれば、残っている当時の戸籍を調べると、
  1. 男は15才から30才、女は13才から25才で結婚する。

  2. 男が30〜35才までは通い婚が多いが、35才を超えると同居のほうが多くなる。
そうである。嬬屋(つまや)は妻の実家のすぐそばに建てられた小屋で、通ってきた夫と妻が過ごした家だったろうとされている。人麻呂はおそらく、車谷・穴師・隣の渋谷あたりに住む妻の許へ通っていたのであろう。 嬬屋があるということは妻の実家は二人の結婚を認めていたということであるから、人麻呂は妻の「野辺の送り」をしたはずである。陽炎が燃え立つ荒れ野に白い天領巾に隠れて・・・というのは火葬したときの白い煙がのぼり立つ比喩であるとも思える(すでに火葬の時代になっていた)。



この辺りに「衾道を 引手の山に・・・」の歌碑があったはずだがと進んでいくと、あった。道から張り出しているのは農作業をするときに駐車するための施設であるようで、白い軽トラックが止めてある。

歌碑は犬養孝さんの揮毫によるものだったので、犬養さんが万葉の歌の愛好者を連れて、ここで説明されるとき、歌碑の前に同行者が集まると道からあふれるだろう。

そこでこの施設を設けてあるのかと、前回来たときは思ったがそうではなかった。



歌碑の背景は龍王山。右の高いところが山頂。

歌碑は万葉仮名で書かれているが読み下すと次の歌である。

 衾道(ふすまぢ)を
 引手(ひきて)の山に
 妹(いも)を置きて
 山路(やまぢ)を行けば
 生けるともなし   (2-212)

衾道を、引手の山中に妻(の墓か霊魂)を残して山路を行くと、生きていく気がしない。

引手(ひきて)の山は龍王山のことである。衾道(ふすまじ)はこの近く(次図)に手白香皇女の陵墓があるが、それは「衾田陵」とも呼ばれている。この一帯は「衾(ふすま)」と呼ばれていたらしい。衾の道という意味である。


中西進さんは「妹(いも)を置きて」というのは埋葬したということではなく、「妻を置き去りにした」という意味であるといわれる。

おそらく妻の墓があって、妻の霊がいるとされる引手の山に登ってみたが、妻を偲べるものは何も無かった。

本当に私は取り残されてしまったのだ。一人で山路を下っているとあらためて寂しさが身に滲みる。

歌碑の左に衾田陵、写真の右端に龍王山(引手の山)の山頂が見える。


上の写真を撮って再び歌碑に戻って、隣で農作業をしていた老人に山を指差して山の名を言い、正しいかどうか確認した。「衾道を  引手の山に  妹を置きて ・・・・」と声を出して読み上げて、それにしてもこの歌碑は立派だ。山の辺の道にある歌碑のうちで最も大きいのではないか。といったら老人はにっこりする。

歌碑の裏側に読み下したものが書かれているかも知れぬと思って裏側に廻ったら、「坂本金属工業所」が昭和45年に天理市に寄贈したといったことが彫られていた。老人が「その会社は襖(ふすま)の引き手を作っている会社や」という。一瞬「???」となったが、気づいて大笑いとなった。

「襖(ふすま)の引き手」は、「衾道(ふすまぢ)と引手(ひきて)の山」と同じではないか。作ろうと思ってもできる話ではない。聞けば、この土地は老人が所有する田んぼであったが、引手山と衾田陵が同時に視界に入るこの土地に、歌碑を建てたい。書は犬養孝先生にお願いします。ということであったので必要な広さの土地を譲った。

後日、犬養孝さんと坂本金属工業所の社長が老人宅(当時は青年であるが)を訪問し、実は会社は襖の引き手(金具)を作っているということを知ったそうである。老人は「こんな話を知る人は多くないで」といい、また二人で大笑い。ハイカーたちが立ち止まって、この歌碑のどこが面白いのかと怪訝な顔をしつつ去る。



「衾道」の歌碑がある場所の最寄の駅はJR長柄駅である。地図を見るとその近くに大和(おおやまと)神社がある。訪ねたことがないので立ち寄ってみた。

檜原神社、三輪神社、大和神社は日本で最も古い神社である。天照大神は伊勢に移されたので今の檜原神社は三輪神社の摂社になっているが、大和神社は動かず、未だに大きな神社である。

祈祷受付所に本殿の桧皮(ひわだ)を葺き直すので奉賛をお願いしますの張り紙があったので、社務所に声かけて5束分(10000円)を差し出すと、日本酒小瓶とトロロ昆布の入った下りものを頂戴した。

帰宅してカバンから地図を取り出したら、桜の花びらがはらりと落ちた。相撲神社の桜だろう。大和神社でもらった日本酒をコップ酒にして、花びらを浮かべると花見の気分だ。今日の万歩計は27100歩だった。 


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