桜井市・初瀬から忍阪

    No.67.....2009年3月21日(土曜)


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近鉄電車に乗って大阪・上本町から名張へ向かうとき、その所要時間の半分は奈良盆地を走っている。奈良盆地を通過するあいだじゅう、東西南北どこを見ても山並みが見える。その山の名前を知ることは楽しいことである。名前を知ると「ああ、あれが歴史に出てくる山だったのか」とちょっと感激する。

これまでのテクテクで少しずつ山の名前がわかってきたが、まだわからない山が残っている。本に載っている山の姿はある一点から見た姿であるから、別の方角から見ると、その山容はすっかり別物になっていることが多い。特に遠くに重畳する山々は、どちらの山が高いのかわからないので、地図を見てもこの山がそうなのかと推測するほかない。

一番よいのは、近くに行って山を眺めながら歩き、位置を変えて見ることだろう。


今日は近鉄「長谷寺」で降りて、次の駅の「大和朝倉」→「桜井」までを歩いた。路線距離は6.0Kmだが、あちことに寄り道したので、10Kmくらいを歩いたかと思う。訪れた順に番号を振ってある。
  1. 近鉄・長谷寺駅下車
  2. 出雲・十二柱神社
  3. 出雲・ダンノダイラ
  4. 脇本・白山神社
  5. 金屋・馬井手橋
  6. 外鎌山・舒明天皇陵・ 鏡女王墓・大伴皇女墓
である。初瀬といえば長谷寺であるが、今日は訪れない。

長谷寺駅は山の中腹にある。谷あいを流れる初瀬川から100mほど高い位置にあるのではないか。初瀬川に沿って走っている国道165号線を歩くので、まずは写真の石段や坂道を下らねばならない。

「万葉の旅(上)大和」(犬養 孝)を読んでいたら「初瀬・桜井」地方の中に「忍坂の山(おさか)」の章があって、山の写真が掲載されていた。

近鉄電車で大阪から名張に帰ってくるとき、桜井に着けばすでに道中の2/3が終わっている。電車が桜井駅を出ると、それまでは遠くに大和青垣が見えていたものが、急に左右の山が接近し始める。「隠口(こもりく)の初瀬」に入るからである。

初瀬(はせ。古代は(はつせ)といった)の入り口には、まるで門柱のように秀麗な山が線路をはさんである。左手(北)にあるのは三輪山であり、南にあるのが外鎌山(とがま)である。三輪山は丸くゆったりした山容だが、外鎌山は少し尖っていて、2つの山は仁王門の阿吽(あうん)2体の力士像のようなよい対照を見せている。

犬養さんの本にある「忍坂の山」はどうやら外鎌山のようなのである。これは確かめてみなければ。ついでのことだから長谷寺駅から、山々を見ながら「隠口の初瀬」を抜け出ようと思ったわけである。


駅から初瀬川(はせがわ)へ下る途中で、地元の人らしい40年配の男性に、山の名前を尋ねて確認する。

初瀬山(546m)と巻向山(567m)は、そのとおりだと言われる。

では、巻向山(まきむく)と三輪山(467m)の境目はどこなのか?である。巻向山と初瀬山との間には深い谷があって白河川が流れているから、この2つの山ははっきりと別であるとわかる。だが三輪山との境はどこなのか、私はいまだにわかっていない。


電車から見ていると、三輪山は頂上に向かって高まり、なだらかに頂上をつけるが、そこからは少し低くなったかと思うと、再び高まりを見せて巻向山に連なっている。

男性は、見える範囲のすべては巻向山ではないかといわれる。(A)から(B)まではそうかも知れないが、(B)と(C)の間が少し低くなっているのではないか?(C)が三輪山ではないだろうか。

巻向山(567m)は三輪山(467m)より100mほど高いが、(A)と(C)の差が100mあるのかどうかが判断できない。


地図を広げて話をしていたら、今度は60年配の男性が加わって、「出雲(いずも)という土地の上にあるのが巻向山だ」といわれる。

私は、三輪山は(C)ではないかと見当をつけているのだが、40年配はこの場所から三輪山は見えないというし、60年配は(D)がそれであるという。(D)はちょっと低すぎるのではないか? 土地の人でもかように意見が割れている。

まあ「出雲」は今日訪ねる予定の土地であるから、行ってみれば巻向山と三輪山との境くらいはわかるだろう。


国道165号線を歩く。大字「初瀬」は桜井市である。以前に桜井市の165号線を歩いたことがあるが、歩道がついていない箇所が多く難儀した記憶がある。 さいわいこのあたりは狭いながらも歩道がついている。歩道が途切れたら脇道(旧初瀬街道)に入ろう。

正面遠くの山は葛城山(959m)か金剛山(1125m)か。

初瀬街道を歩かなかったのは、初瀬川を見たかったからである。近鉄・長谷寺駅を下ったあたりで、川は165号線の南側を、国道に近寄ったり離れたりしながら流れている。旧道から初瀬川を見ることはできない。

「万葉集事典」(中西 進)で初瀬川(泊瀬川)を詠んだ歌を調べると、7巻までに5首がある(20巻全部だと12首)。人麻呂は初瀬川を詠んでいない。

例えば次のような歌がある。

  石走(いはばし)り
  激(たぎ)ち流るる
  泊瀬(はつせ)川
  絶ゆることなく
  またも来て見む    (6-991  紀朝臣鹿人)

古代の初瀬川は、岩がごろごろしていて、そこへ激流が流れていたわけだ。この川の流れが絶えぬかぎり、私も絶えずここへやってきては川の流れをみよう。ということであろう。シロートにはさほどの歌であるとは思えない。

今の初瀬川は上流に「初瀬ダム」ができて、水量がコントロールされているので「激(たぎ)ち流」れることはない。濁った水が流れている。

165号線の歩道がなくなった。大型トラックがすぐ脇に向かってやってきては衝撃波を顔に吹きつけて去る。これはかなわんと、旧初瀬街道に入った。

巻向山から伸びた尾根の麓にある集落は「出雲」であろう。麓に赤い鳥居が見えた。



旧初瀬街道。

犬養さんは白山神社の東方の黒崎の山腹に、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくら)跡の伝承地であるという標木が立っていたと書かれている。

ここで散歩をされているらしい老夫妻に神社(白山神社)について尋ねた。老夫妻がいうところでは、見えている赤い鳥居は白山神社ではなく、十二柱神社である。ここからだいたい1.5Km先に「脇本」という地名があって、白山神社は国道165線に接してあるそうである。

街道に面して十二柱神社の参道がある。ありふれた地元の鎮守であろうと思っていたので訪ねる気はなかったが、参詣道の入り口に「相撲開祖・野見宿禰(のみのすくね)顕彰碑」と彫った石が据えてあった。

2003年に当麻寺に行ったが、その途中に「蹴速(けはや)塚」があった。 第11代垂仁天皇(すいにん)の7年に出雲の国の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)は、天覧相撲をとったが、蹴速はあばら骨を踏み折られて負けた。 当麻町は、蹴速を誇りにしているらしく、「当麻町相撲館(けはや座)」が建てられており、「蹴速」という地酒もあった。

私は野見宿禰の出身地は島根県の「出雲」であると思っていたので、「大和国」対「出雲国」の闘いだと理解していたが、野見宿禰はここ大字「出雲」の人間であったのだ。

「当麻」は奈良盆地の西の二上山の麓にある。「出雲」は奈良盆地の東の山合いを少し入った「隠口(こもりく)」にあるから、大和における東西のつわものの戦いであったわけだ。今の大相撲は東と西に分かれているが、この起源もここからきているのかも知れない。 東の横綱が野見宿禰で、西の横綱が当麻蹴速であった。

境内に入ると説明板が立っており、第25代・武烈天皇の泊瀬列城宮(はつせのなみき)は、ここ出雲にあったと伝承されている、と説明があった。 おおそうか。思いがけずに武烈天皇の皇居の場所を知ることができた。

武烈天皇は粗暴にして残虐な天皇であったと伝えられている。例えば、妊婦の腹を裂いたとか、生爪を剥がせて山芋を掘らせたとか、髪の毛を抜いて木に登らせその木を切り倒すとか、人を池の樋(とい)に押し込み、出てきたところを矛(ほこ)で突き刺すとか(「歴代天皇総覧」(笠原英彦))である。


まことにすさまじい天皇として伝えられているが、これにはわけがある。 応神・仁徳天皇から始まった「河内王朝」は武烈天皇で絶え、第26代・継体天皇が越前の三国から大和へやってきて新王朝が始まる。

その皇系の初代は立派な天皇であり、最後の天皇は国を滅ぼす不徳で暗愚な天皇であるとされがちである。 「三輪王朝」の初代の第10代・崇神天皇、「河内王朝」の初代の第15代・応神天皇の両者には「神」の文字が入っている。その王朝最後の天皇は暗愚であるから、徳の高い新王朝にとって替えられるとするのが「易姓革命」の考えである。武烈天皇はこの思想の犠牲になったようである。

境内の説明板にも「武烈があまりの悪政非道な政治をしたから、仁徳の皇系は絶えたことを記紀では強調しているが、実際のところはわからない」と述べてあった。


泊瀬朝倉宮の伝承地は白山神社の東方の山腹にあるという。「脇本」に着く前のどこかの山を探しさねばならない。「脇本」の手前は「黒崎」である。

ここは「出雲」である。初瀬街道が165号線と合流する手前に山に登って行く道があった。皇居があったのだから、それなりに平らである程度の広さがある場所でなければならない。その場所の見当をつけるためにも、山に登らねば始まらない。そう思って写真の道を登り始めたのだが、それはよいカンであった。

100mも登らぬうちに眺望がひらけた。

手前は棚田である。棚田の下に出雲の家並みがある。165号線に沿って出雲・黒崎・脇本の集落があり、桜井市街も見える。

その先に右に耳成山、左に畝傍山。さすれば畝傍山の手前の緑色の丘は香具山であろう。その手前の茶色の丘は石寸(いわれ)であろうか。

奥の大きな山塊は右が葛城山、左が金剛山。


(次図)さらに(とはいっても50mほどだが)登ると、説明板が立っていた。それによると、古代の「出雲村」はこの上の山(つまり巻向山の一部)の尾根にあって「ダンノダイラ」と呼ばれていた。どうやら私が思っている三輪山と巻向山の山頂の中間の尾根をダンノダイラと呼ぶようである。




(上図)の棚田は古くは丘であった。万葉集の第1番目に出てくる歌は雄略天皇の次の歌である。



きれいな籠(かご)を持ち、
きれいなヘラを手にして、
この丘で菜を摘んでいる娘よ
どこの家の、名はなんというのか。

大和の国は、
すべて私が従えているのだ。
すべて私が支配しているのだ。
わたしこそ告げよう、家も名も。

娘が菜を摘んでいる丘こそが、写真の丘である。そう説明されてあった。 そうかここが万葉集の巻頭に歌われた丘なのだ。それにしても、この歌は高圧的な態度の歌である。古代の女性は名前を他人に教えない。日ごろは「どこどこの娘」で通している。隠している娘の名前を聞くことは求婚することである。


丘を下る。高い位置から見るので、南には音羽山や多武峰(とうのみね)が遠望できる。

前半(1句〜8句)で、菜摘みをしている娘に求婚している。春の日の野辺で菜を摘む娘の姿が目にみえるようである。

だが後半(9句〜17句)はどうしたことであろうか。いきなり大和の国は私が支配している、とくる。この国は私のものであるから、お前も私の宮廷に入って仕えよ、と命令の調子になる。前半だけでよかった歌ではなかろうか。


丘を下って165号線に出た。

それにしても菜摘みの丘(これは私が勝手に名づけた名前)に立てたことはラッキーだった。案内板はどこにもなかったから、行こうと思っても行けるものではない。

雄略天皇は「菜摘みの丘」のごとく、美しい娘を目にすれば、すぐに名を聞いたようである。「古事記」(梅原 猛訳)に次のような話が載っている。

天皇が三輪川(三輪山の麓の初瀬川)に出たとき、かわいい童女が川で洗濯をしていた。天皇は例によって「名告らさね」と声を掛けると、童女は「引田部(ひけたべ)の赤猪子(あかいこ)です。」と名のった。「大きくなったら宮中に呼ぶので、待っていろ」と言って宮に帰られた。


巻向山は後方に過ぎた。

童女は迎えがくるのを毎年毎年待って、とうとう80歳を超える年齢になってしまった。老女である。老女は天皇を訪ね、かつての約束のことをいうと、天皇はこのことを忘れていた。「可哀想なことをした。だが交わりをするにはあまりにも年をとりすぎている。」と思われ、次の歌を詠まれた。

  みもろの
  厳樫(いつかし)が本(もと)
  樫が本(もと)
  ゆゆしきかも
  樫原童女(かしはらをとめ)

みもろの山(三輪山)の神聖な樫の木のもと、その樫の木には畏れ多くて近寄れない。同じように畏れ多くて樫原の乙女( 老女)には近寄れないのだよ。という意味であろう。 天皇はこうしてやんわりと老女を宮中に入れることを断り、替わりに多くの品物を下賜された。 老女は次のように歌って返事した。

  引田(ひけた)の
  若栗栖原(わかくるすはら)
  若くへに
  率寝(いね)てましもの
  老いにけるかも

大意は、引田の若栗栖原に実をつける若栗のように、私が若かった時分にお迎え下さって共に寝ることができればよかったのに、いまはすっかり年老いてしまった。老女は少し未練を残している。



初瀬→出雲→黒崎→脇本までやってきた。 この「字」の地区を「隠口の初瀬」と呼ぶのであろう。約3Kmほどの道のりである。

犬養さんは黒崎のはずれの「天ノ森」に雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくら)跡の伝承地があると書かれていたが、国道を歩いてもそれらしい案内板は無かった。

国道165号線に面して木立があるのは白山神社である。

白山神社の境内にはいると歌碑があった。

  籠(こ)もよ
  み籠(こ)持ち
  掘串(ふくし)もよ
  み掘串(ぶくし)持ち
  この岳(おか)に
  菜摘(なつ)ます児(こ)
  家聞(いえき)かな
  名告(なの)らさね

の歌である。保田與重郎の揮毫による。保田與重郎は桜井の生まれであるから桜井にその手になる石碑が多いようだ。山の辺道の長岳寺でも見た記憶がある。

別に説明板が立っていた。桜井市黒埼の「天の森」が朝倉宮の地であろうとの説があるが、立地的に見て宮を営むのに適地ではない。保田與重郎はこの白山神社付近をその候補地とした。といったことが書かれていた。

古事記には雄略天皇は在位23年、124歳で亡くなったとあるそうだ。124歳で亡くなったとするから、先の引田部(ひけたべ)の赤猪子(あかいこ)が80歳を過ぎて天皇に拝謁したことはつじつまは合うが、人が124歳まで生きることはできない。

そういう不確かな時代の泊瀬朝倉宮であれば、その跡地を探すことは無理である。ただ前回訪れた「軽」の春日社に第15代・応神天皇の「軽島豊明宮跡」の石碑があり、さっき行った十二柱神社が第25代・武烈天皇の泊瀬列城宮(はつせのなみき)跡と伝承されているように、古い皇居跡には神社が建っていることが多い。

白山神社から少し歩いたところから、南方面に音羽山(851m)が見えてきた(それまでは写真左側にある山並みがさえぎって、国道を歩く限りは遠くにある音羽山は見えなかった)。

その手前右の山が外鎌山(とがま。292m)だろう(あるいはAの山かも知れない)

三輪山が横に見え出した。 隠口の初瀬から見える山々はすべて「泊瀬の山」である。

隠口の
泊瀬(はつせ)の山の
山の際(ま)に
いさよふ雲は
妹(いも)にかもあらむ

と人麻呂は歌っている。この妹は、人麻呂の妻ではなく人形娘子(ひじかたのおとめ)である。「泊瀬の山に火葬(やきはふ)りしとき・・・」と詞書がある。


おおむね西に向かっていた165号線は、このあたりで南よりに方向を変え、初瀬川を跨ぐ。

完全に「隠口の初瀬」は抜け出ている。初瀬の山並みは去り、遠くの山が見える。いつしか外鎌山は通りすぎていて新たに見える低い山は鳥見山(とみ)である。


私は165号線からはずれて、初瀬川沿いの道路を進む。

振り返ると正面に外鎌山(とがま)が見える。この姿を見たかったのだ。

外鎌山は古代「忍坂(おさか)の山」と呼ばれていた。大和から初瀬への入り口にあり、山容もととのっているから古代人に好まれた山であると思う。初瀬川に下りると、散歩道が設けられていた。

初瀬川はこの先で90度曲がって左側方向に流れている。よって、この位置からは、川の突き当たりに「忍坂(おさか)の山」がある。川と山の対比がすばらしい。

「万葉の旅(上)大和」(犬養 孝)の「忍坂の山」の章に作者未詳の次の歌が掲げられている。


隠口の初瀬の山、
青幡がなびくように山裾をなびかせている忍坂の山は、
走り出てきたような形がよい。
聳え立つ姿が美しい。
だがこの大切な山が荒れていこうとしているのが、惜しい。

奈良時代に「山の荒れまく」と歌ったのはどういうありさまであったのか。木が切られていったのか、山裾が開墾されたのだろうか?ここから見る限りでは山は木立が茂って、荒れているようではない。

忍坂の山に背を向け、初瀬川の下流に向かって歩くと、見たことのある橋が架かっている。「うまいではし」ではなかろうか。

そうなら右手の木立の辺りに「仏教伝来之地」と彫られた大きな石碑があったはずだ。「うまいで」は、遣隋使の小野妹子が隋の使者を伴って帰国したときに、この地に上陸したのだが、そこへ阿部比羅夫が飾り馬75頭を従えて迎えた。ということが説明板に述べてあった。

(そのとき「うまいで」は「馬出橋」と書くのかと推測したが、あとで橋を渡ってみると「馬井手橋」とあった。)


河川敷は公園として整備されている。コンクリートでできた飾り馬が数頭置かれてあるのは、子供らがこれにまたがって遊ぶためのものである。

川の堤防の一部(飾り馬のバック)はタイルが貼られていて、この地に関係する万葉集にある歌が嵌め込まれていた(次図)。

  泊瀬川
  流る水沫(みなわ)の
  絶えばこそ
  我が思う心
  遂げじと思はめ   (7-1382 作者未詳)

訳が左に書いてある。泊瀬川を流れる水泡が絶えることがあったなら、私の恋は遂げられまいと観念もしようが、(そんなことはない)。


今ひとつですな。中西進さんの「万葉集・全訳注」で調べると、男女共用の民衆歌であると書いてある。

川は違うが、人麻呂の歌集に次の歌がある。

  巻向の
  山辺とよみて
  行く水の
  水沫(みなわ)のごとし
  世の人われは   (7-1269)

訳は、巻向山の山合いを音をとどろかせて流れていく水に浮かぶ水沫のように、生きている身の私ははかない存在である。

先の歌は水沫に恋の行方を託しただけのものだが、この歌はわが身を水沫に投影し無情を歌っている。こちらのほうが余韻がある。おそらくは人麻呂が詠んだものではなかろうか。


河川敷から土手に上ると「馬井手橋」があり、その前に「仏教伝来之地」の大石碑が立っている。この背後は「海石榴市(つばいち)」である。

横に立つ説明板に、 この地は横大路・初瀬道・山田道・山辺の道が集まり、初瀬川を上り下りする水運の港もあった。よってさまざまな物産が集まり、大きな市(いち)がたっていた。市には老若男女が集まって賑わい、春秋には歌垣(うたがき)が催された。といったことが述べられてある。

歌垣は集団見合いの場でもある。男女はここで伴侶としてふさわしい相手を見つけるのである。歌垣で歌われる歌の多くはすでにある民衆歌だったろうが、才覚あるものは自作の歌を披露したかも知れない。

海石榴市を詠んだ有名な歌がある。万葉集については
  1. 地図とあらすじで読む万葉集 (坂本 勝)
  2. 新訓・万葉集(上下) (佐々木信綱)
  3. 万葉集・全訳注(一二三四巻) (中西進)
  4. 万葉集事典 (中西進)
  5. 万葉の旅(上中下) (犬養 孝)
を揃えたが、「地図とあらすじで読む万葉集」(坂本 勝)のしょっぱなに次の歌が掲げてある。むろん「万葉の旅・上(大和)」(犬養 孝)の「海石榴市」の章にも出てくる。(河川敷のタイルにも掲げてあった)。

紫の染料には灰汁(あく)をいれるものだ。
海石榴市の道で逢ったあなたの名前を教えてほしい。

男からの求婚の歌である。女(紫)は男(灰汁)と一緒になって美しくなるのだ。とややエロチックな表現である。
母が呼んでいる私の名前を教えてあげたいが、
行きずりのあなたは、どこの誰かを知らないものだから。

女は、男のほうから名を告げよという。「母が呼ぶ名を申さめど」というのは、言ってもいいのだがの気持ちがあるようで、女は男を嫌ってはいない。

まあよくできた問答歌である。特に男のほうの歌は、ちょっとひねってあって、いくつかの意味が込められている。
  1. 紫は高貴な宮廷人が着る色であるから、1句目で女を「紫」に例えることによって女心をくすぐる。
  2. 紫色の染料は紫草の根を絞り、ここに椿の木を焼いた灰を水に溶かしてまぜあわせると、紫色の発色がよくなる。「灰さす」ことで一層きれいになるのだから、共寝して交わらないか。と意味を持たせる。
  3. 「灰さすものそ」の灰は次の3句目の「海石榴市」に繋がって、「椿の灰」の意味になる。
  4. と同時に「海石榴市」は「八十のちまた」に繋がって、この場所の賑わいぶりを表している。br
馬井手橋を渡る。川上(だいたい南東方向)を見ると、「走り出のよろしき山、出立ちのくわしき山」である外鎌山(忍坂の山。292m)がある。

川下を見ると、正面遠くに二上山(474m)がある。その左に岩橋山から葛城山。

馬井手橋の辺りからは三輪山がよく見えないので、さらに川下に向かい、次に架かる「だいこうじはし」から三輪山を見る。

それでもまだ三輪山から伸びた端山が手前にあって三輪山のふくよかな曲線は見えない。

初瀬川に沿った家並みは「金屋」の集落である。
逆に真南を見ると、中央に鳥見山(とみ。244m)。その左に音羽山8851m)、鳥見山の右に多武峰(とうのみね。607m)がある。

前回、明日香から見ると手前に多武峰、その背後に音羽山の一部が見えた。音羽三山は多武峰に遮られてその全容が見えず、2つの山塊は一体化しているかのように見えた。

この地点からは、音羽山と多武峰の間には深い谷があって、まったく別の山塊であることがよくわかる。

外鎌山(292m)に向かって歩いている。最後の目的地は写真の外鎌山の裏側にある舒明天皇陵である。

外鎌山は古代、忍坂(おさか)の山と呼ばれていたことは先にいった。この辺りの「字」は「忍阪(おつさか)」である。つまり古代は「忍坂(おさか)」という地であり、そこにある山だから「忍坂の山」と呼ばれていたが、その後外鎌山というちゃんとした名前がつけられたのだろう。

「忍坂」は実に古くからある地名である。神武天皇が橿原で即位する前、まだ磐余彦(いわれひこ)であった時代に熊野に上陸し、敵を打ち負かして大和に向かったという「神武東征」の伝説に登場する。

道は国道166号線。この道は宇陀市に続いている。川は粟原川。

神武天皇は、熊野に上陸したとき高倉下(たかくらじ)から布都御魂(ふつのみたま)なる刀を貰い、八咫烏(やたがらす)に先導されて吉野に向かう。そこで、阿陀の鵜飼の祖先 や吉野の祖先らを従わせる。次に宇陀に出て、兄ウカシ・弟ウカシを服従させたあとで、忍坂(おさか)にやってくるのである。

国道の向うからこちらへ神武軍がやってきたわけだ。忍坂には大きな洞穴があって、尻尾の生えた土雲(つちぐも)の部族がそこで待ちかまえていた。

神武軍はいきなり戦うことはしなかった。まずは友好のあかしとして土雲族を饗応する。ただし土雲族のひとりひとりに神武の配下の者をつけて接待させた。

国道から離れて忍阪(おつさか)の集落に向かう。

神武の部下たちは、次の久米歌(くめうた)が宴席で歌われるのを待っていた。久米歌が土雲族を攻撃する合図である。( 「古事記」(梅原 猛)による)

忍坂の        大室屋(おおむろや)に
人多(さわ)に    来入り居り
人多(さわ)に    入り居りとも
みつみつし      久米の子が
頭椎(くぶつつ)い 石椎(いしつつ)い持ち
撃ちてし止まむ     (以下省略)

意味は、忍坂の洞穴に人が多く来て入っているが、勇敢な久米の兵が刀や石鎚を持って殺してしまおう。


久米歌が歌われたとたん、土雲族は惨殺されてしまった。まあ騙まし討ちである。スサノオが八俣の大蛇を退治したのも、ヤマトタケルが熊襲猛を討ったのも、同じような策略(酒を飲ませて酔わせて討つ)によるものである。

神話時代はうまく敵を欺くことができるのが、その人間の能力であり、能力が高い人間が英雄であったのだ。今の判断基準を物差しにしてはいけない。

路地を通って行くと宇陀に通じる旧道があった。今日はカンがよい。すぐに舒明天皇陵の案内板が立っていた。倉の下、人がいるところにである。 倉の左側の道を行けば天皇陵があるらしい。


舒明天皇陵への道。御陵までは舗装されているが、その後は山道となる。

神武軍の主力部隊は久米一族であったようだ。この一族は大伴氏と佐伯氏の祖先である。だから天皇家を除けば、日本建国の立役者は大伴・佐伯の2氏であることになる。

特に大伴の子孫はその自負が強い。大伴氏の家長であり、万葉集を編纂した大伴家持(おおとものやかもち)は万葉集に自身の作った長歌を収めている。

 ・・・(略)

 大伴の          遠つ神祖(かむおや)の
 その名をば       大来目主(おおくめぬし)と
 負(お)い持ちて    仕へし官(つかさ)
 海行かば        水浸(みず)く屍(かばね)
 山行かば        草生(くさむ)す屍
 大君(おおきみ)の  辺(へ)にこそ死なめ
 顧(かへり)みは   せじと言立(ことだ)て

 ・・・・・(略。18-4094)

「海行かば 水浸(みず)く屍(かばね)  山行かば  草生(くさむ)す屍」の句はあまりにも有名である。曲がつけられたのは戦時中のことか。白山神社に保田與重郎の揮毫による雄略天皇の歌碑があったが、保田は戦時中の日本を代表する評論家であった。ために戦争を正当化したとして、戦後公職追放される(後に復権する)。

「柿本人麻呂論」(北山茂夫)の冒頭で、北山さんと人麻呂との出会いについてを述べられている。影響を受けたのは、斎藤茂吉・武田祐吉・沢瀉(おもだか)久孝・土屋文明などの歌人・研究者の著作であったが、『これら(著作)は戦争の直接的な刺激のもとに生まれたのではなかった。』 続いて・・・『むろん、他方に、茂吉を攻撃の対象にしつつ、人麻呂の作品を皇国の道義の宣揚に供した口舌の徒保田與重郎らがいた。』・・・『そのおぞましい光景をわたしは忍耐強く見守りながら、保田の万葉論への批判をノートに書き記した。』

北山さんは保田與重郎を強く非難されている。私は北山さんの「柿本人麻呂論」は感心しながら読んだが、保田與重郎の著作は1冊も読んでいない。だからどうともいえないのだが、人麻呂の天皇を讃仰する歌や先の家持の歌は戦意高揚に利用されたかと思われる。人麻呂・家持の歌はそれほど強く人を引きつける力がある。


舒明天皇陵に着いた。守衛所の小屋の上に円墳があった。

第34代・舒明天皇(在位629〜641年)は、推古天皇の次の天皇で、その皇后は舒明の次の天皇になる皇極天皇(斉明天皇)である。 その子が第38代・天智天皇、第40代・天武天皇であるから、飛鳥時代は舒明天皇の皇系であったといえる。

万葉集の第2番目は舒明天皇の歌であるが、第1番目の第21代・雄略天皇の歌から第34代・舒明天皇まで13代の天皇の歌が抜けている。ざっといって100年間ほどの空白である。

舒明天皇の歌からは、皇極天皇・天智天皇・斉明天皇・額田王など時代が飛ぶことなく万葉集に歌が並んでいる。実質的には万葉集は舒明天皇から始まったといってよい。



万葉集第2番目の歌。

大和には多くの山々があるが、
とりわけ装いのよいのが香具山である。
その山に登って、国見をすると、
陸のあちこちに炊煙が立ち上っている。
海には多くの鴎が飛び立っている。
蜻蛉島(あきつしま)である大和の国は、
ほんとうに美しい。

国褒めの歌である。よい歌だ。



「蜻蛉」とはトンボのことである。トンボが多い地方は物成りのよい豊かな国である。コブラや、ライオン、虎、龍、鷲などを国の象徴とする諸外国にくらべて、自らトンボの国であるという日本はエライ。日本は蜻蛉島なのである。

舒明天皇陵の横手に細い山道が伸びていて、少し登ると鏡女王(かがみのおおきみ)の墓があった。

墓(円墳)の前に説明板があって、@夫の藤原鎌足との問答歌、A天智天皇との問答歌など4首が万葉集に載っている。B額田王の姉である。といったことが述べられていた。

そのうちの天智天皇との問答歌が掲げてあったが、天智天皇の歌への返歌であるので、それだけを読んでもよさはわからない。シロートには平凡な歌のように思われた。



墓の裏手に梅畑があった。そこで弁当を食べて、さあ帰ろう。

春である。梅や桃が花をつけている。

もしかして、忍阪(おつさか)には土雲がいたという洞穴が残っているかもしれない。そこが神社かなにかになっていれば面白い。帰りは国道166号線ではなく、忍阪の旧街道を帰り道とした。

街道沿いには旧家が多い。大和屋根で煙出しを備えた家もちらほらあった。大和の農家は裕福である。

洞穴あるいはそれに因む神社を歩きながら探してみたが、そんなものは無かった。




朝倉まで戻ったが、近鉄朝倉駅は各駅停車の駅である。ついでのことなので急行電車が停車する桜井駅まで歩くことにした。約2Kmの道のりである。

桜井は古い町だけあって、歩いていると読み方が特殊な地名がある。例えば「外山」、これは「とび」と読む。「城島」は「しきしま」である。「磐余」は「いわれ」、「石寸」も「いわれ」。

桜井駅に近づくと三輪山は土饅頭のような姿になる。三輪山の山頂の木はまばらになっている。1998年の台風で木が倒れたためである。それまではきれいなカーブを描いていたが、今はシロートが散髪した頭のように毛羽立ってやや荒れた感じになった。



桜井駅に辿りついて、名張に帰る電車を待つ。

電車の架線の下に外鎌山が見える。そこからは「隠口(こもりく)の初瀬」である。

「万葉集事典」(中西 進)で調べると、
  1. 「泊瀬」が出ている歌は8首
  2. 「泊瀬道」が出ている歌は1首
  3. 「泊瀬川」が出ている歌は12首
  4. 「泊瀬山」が出ている歌は11首
以上のように「泊瀬(初瀬)」を歌った歌は多い。

近鉄朝倉駅から長谷寺駅の間は、南側は山だから眺望はきかない。北側は線路の近くまで杉木立が並んでいる。「隠口の初瀬」を眺めることができるのは、木立が途切れた瞬間だけであると思っていた。


ところが「菜摘みの丘」から南を見たとき、近鉄電車が走っていくのが認められた。つまり電車から「菜摘みの丘」が見えるわけだ。

「籠(こ)もよ  み籠(こ)持ち  掘串(ふくし)もよ ・・・」の歌はぜひともキチンと覚えよう。その地を電車から眺めながら万葉の歌を口ずさめるとはステキではないか。

万歩計は25100歩だった。


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