大軽町から甘樫丘

    No.66.....2009年3月7日(土曜)


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写真は近鉄・橿原神宮駅の構内。東出口に向かっている。

昨年の12月から今日までは、わずかの時間があれば柿本人麻呂についての本を読み、今もまだ読み続けている。万葉集の1巻・2巻・3巻も合わせて読んでいるのだが、歌われている土地、山、川、池に詳しくないものだから、歌のイメージがよく湧かない。

万葉集から「柿本朝臣人麿の作れる歌」を抜き出し、それに関連があると思われる「柿本朝臣人麿の歌集に出ず」歌も少し追加して、ワープロで打ち、印刷して1冊に綴じてみた。

人麻呂は持統天皇時代(686年〜702年)の宮廷歌人であるから、毎日、飛鳥浄御原(きよみはら)京ないしは藤原京に出仕していたはずで、この地を詠んだ歌は当然に多い。

歌われている大和の地名は、@真弓丘、A雷丘、B布留山、C飛鳥川、D越智、E藤原宮、F埴安、G香具山、G百済原、H城上(きのへ)、I猟路野、J八釣山、K軽の市、L畝傍山、M巻向山、N穴師川、O三輪山、P檜原、Q弓月岳、R引手山、などなどである。

この地の多くは、テクテクを始めた初期の2002年9月〜11月にかけて訪れている。だが哀しいことに、人麻呂の歌を知らずに行っているものだから、とおり一遍の印象しか持たなかった。無知は無感動の原因である。


人麻呂の歌を初めて知ったのは、山の辺の道 B日目 (2002.10.12) で、龍王山の麓にあった歌碑によってである。

  衾道(ふすまじ)を   引手(ひきて)の山に
  妹(いも)を置きて   山路(やまじ)をゆけば
  生けりともなし    (2-212)

さほどの歌であるように思わなかったのは、私が無学無知であったためである。今思えば恥ずかしい。

< 次に人麻呂の歌に出会ったのは、大宇陀町 (2005. 4.30)で、阿紀神社の近くの「かぎろいの丘」に行ったときである。

  ひむがしの     野にかぎろいの
  立つみえて     かえりみすれば
  月かたぶきぬ    (1-48)

大宇陀町(現在は宇陀市)のHPに、692年(持統天皇6年)陰暦11月17日の早朝に軽皇子(かるのみこ)の狩に随行した人麻呂が、狩を始める前の払暁の情景を歌ったものであるとあった。

シロート(私)は、「東のかぎろい」は、軽皇子の新しい時代が始まるのだなあという思いが入っているのか?「西に傾ぶく月」はかつて親しくつかえた草壁皇子の思い出を重ねているのか?といったように解釈したが、受けとめかたがまるで浅かった。

これら2首の短歌は、長歌とセットになっているである。つまり長歌を詠んだ後に、長歌で歌ったうちで特に思い入れの深いこと、長歌を補佐するものが、反歌や短歌として歌われている。よって短歌を単独で読むのではなく、長歌と合わせて読み、味あわねば、その味覚は薄味にならざるを得ないのである。

暖かくなって天気がよい日があれば、人麻呂にゆかりのある未訪問の地、見落としている地を訪ねてみたい。できればその際には、その場所を詠んだ歌を暗誦しておきたいと思っていた。 いつでも出かけられるように地図だけは用意していた。この1週間は雨や曇りの日が多かったが、朝の天気予報では夕方まで晴れるという。


急に出かけることを決めたのは、9:00過ぎであった。 まずは、飛鳥京と藤原京が見渡せる甘樫丘に行こう。甘樫丘は飛鳥 @ (2002.10.26)で、いったことがある。

名張から近鉄橿原神宮前駅へは小1時間あれば着く。甘樫丘は駅から歩いて30分で行ける。

  熱田津(にぎたつ)に
  船乗りせむと
  月待てば
  潮もかなひぬ
  いまぞ漕ぎ出でな

  (1-8 額田王の歌)

である。地図のピンク色枠は藤原京、赤枠は藤原宮のあったところ(多くは橿原市)。青色枠は飛鳥京のあったところ(明日香村)。地図に打った@からGまでを歩いた。
  1. 剣池(つるぎ)
  2. 見瀬丸山古墳
  3. 大軽町(おおかる)
  4. 小墾田(おはりだ)宮跡
  5. 甘樫丘(あまかし)
  6. 雷丘(いかずち)
  7. 大官大寺跡
  8. 藤原京朱雀大路跡
である。


10:00である。橿原神宮前駅の東口を出て20〜30m歩くと、丈六(じょうろく)の交差点がある。車が走っている道路は国道169号線で、交差点を左(北向き)に行けば近鉄・大和八木駅、右(南向き)は近鉄・岡寺駅に達する。岡寺の手前には国道沿いに見瀬丸山古墳がある。

169号線は藤原京時代には「下ツ道」と呼ばれ、都の西端を南北に伸びる大幹線道路であった。この下ツ道をどんどん北上すると、奈良・平城京の朱雀大路に繋がっていた。

手前から向こうに伸びる道路は甘樫丘や雷丘に行く道で、かつては阿倍山田道と呼ばれた東西に伸びる幹線であった。

この古代からある下ツ道と阿倍山田道が交差しているのが丈六交差点である。日本書紀の推古天皇19年に「軽の街」(かるのちまた)という記述があるそうであるが、それはこの丈六交差点らしい。このあたりは「軽(かる」と呼ばれていた。

交差点を突き抜けてまっすぐ東に向かっている。道はいにしえの阿倍山田道である。阿倍山田というのは、この道の突き当たりに「山田」という字があり、ここには飛鳥寺に匹敵するほどの規模を持つ山田寺があった。

山田のあたりで道はゆっくりと北に向き、南北にまっすぐになったところが「阿倍」である。ここにやはり大寺だった安倍寺跡がある。南北に向いた道は「上ツ道」と呼ばれていた。

下ツ道と上ツ道のほぼ中間には「中ツ道」があって、おそらくは藤原京の東端のあたりを南北に通っていたらしいが、現在ではこれに比定できる道路はない(私の知識の範囲では)。



駅から10分ほど歩くと剣池(つるぎ)に着く。地図には石川池とあるのは、このあたりが石川町であるからである。

池の中に突き出た島は第8代・孝元天皇の陵である。正しくは剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえの みささぎ)という。

何しろ第8代目の天皇である。孝元天皇の事責は何も残っていない。陵墓がここであるということ、都を軽境原宮(かるのさかいはら)に置いたことだけが伝えられている。

天皇の宮が「軽」の「境原」にあったのだから、昔の「軽」はある程度の広がりがあり、よほど古い土地であることがわかる。 また、池のほとりに立つ案内板には、剣池は第15代・応神天皇の時代に修築か拡張をしたとある。この池は孝元天皇の陵墓の周壕であったが、それが拡張されて広い人工池になったことが知れる。



逆光になって孝元天皇陵は黒い塊にしか写らないので、先に大軽町にいくことにした。

陵墓の西側に池に沿って舗装された道路が伸びている。山田道よりも広い。分かれ道があって角に畝傍東小学校があった。ここを曲がると下り坂になっている。剣池は小高い場所にあったのだ。

坂を下ると正面に小高い丘があり住宅が立ち並んでいる。大軽町であろうか。(あとで詳細な地図をみると小学校も大軽町だった。写真の道路の右側は石川町、左側は大軽町)



坂を下りきったところにシャッターに「大軽町不燃物置場」と書かれた平屋の建物があった。この一帯が昔の「軽」の地であったのだ。

万葉集は20巻より成り、ここに約4500首という膨大な数の歌が集められているが、それを区分すると以下のようになるそうである(「万葉集全訳注」中西進)。

歌体で分類すると、@長歌、A短歌、B旋頭歌(せどうか)の3つ。 内容で分類すると、@雑歌(ぞうか)、A相聞歌(そうもんか)、B挽歌(ばんか)の3つである。

この3か月ほど、人麻呂についての本を読み、人麻呂の歌を万葉集から探し、をしているうちに、私は人麻呂の挽歌・長歌にひどく感心するようになった。



南を向いて歩く。 万葉集の詞書に「人麻呂が作った」とある長歌は16首、短歌は61首ある。(そのほかに「人麻呂の歌集」にあると詞書のある歌が長短合わせて約370首ある)

挽歌は、人の死を悼み、死者を追慕する歌である。人麻呂は宮廷歌人であったから、皇子や皇女の挽歌をいくつか歌っているが、私的な挽歌もある。

私的な挽歌で、長歌と短歌がセットになったものは2つあって、いずれも人麻呂の妻が亡くなったときの歌である。そのひとつは冒頭に掲げた「衾道(ふすまじ)を 引手(ひきて)の山に ・・・」を含む挽歌であり、もうひとつが「軽」にいた隠妻(こもりつま)が亡くなったときの挽歌である。

万葉集2巻-207の詞書(ことばがき)に
「柿本朝臣人麿(あそみ ひとまろ)の妻死(みまかり)し後に 泣血(いさ)ち哀慟(かなし)みて作れる歌二首 併せて短歌」とあって、次の長歌と2首の短歌(これがワンセット)、と「衾道(ふすまじ)を 引手(ひきて)の山に ・・・」の長歌と短歌2首のセットが挙げられている。(「衾道(ふすまじ)を」のセットは、今回は掲げない)

歌体で最も古いのは旋頭歌(せどうか)である。(五・七・七)・(五・七・七)の形式で、前半と後半で問答をする。長歌は、(五・七)・(五・七)・(五・七)・・・・と繰り返し、最後を(五・七・七)で結ぶ。 短歌は、(五・七)で始めて(五・七・七)で結ぶ。つまり長歌の(五・七)の繰り返しをしないのが短歌である。 (五)とか(七)がひとまとまりの言葉で、これを1句と呼ぶ。


左の長歌は53句から成っている。大方の意味は、

「軽」は私の妻の里であるから
よくよく見たいのだが
しょっちゅう行くと人目につくし
人に知られてしまうだろう。
だからそのうちに逢いたいものだと思って
外に隠し心のうちでは恋焦がれていた。(1-18句)



だが、日が西に沈んで暮れるように
月が雲に隠れるように、
私と寄り添って寝た妻は
もみじ葉が落ちるように逝ってしまった。
と、使いの者がやってきて言った。(19-28句)



驚くべき知らせを聞いて、
口もきけず、なにをどうしたらよいのかもわからない。
妻の死を聞いただけでは納得がいかず、じっとしていられないので
心の痛みの千分の一でも慰められるかと思い
妻がよく出かけていた
「軽の市」に私も行ってみた。(29-42句)


だが畝傍山でいつも鳴いている鳥の声も、妻の声も聞こえない。
道行く人の誰ひとりとして妻に似た人はいない。
どうしようもないので、妻の名前を呼んで、袖を振るしかなかった。(43-53句)


秋の山にもみじが茂っているので、道に迷ってしまった妻を捜したいのだが、その山の道がわからない。

長歌の「黄葉(もみぢば)の 過ぎて去(い)にき」に呼応する短歌。

黄葉(もみじば)が散っているころに、妻の死を知らせた使いと会うと、妻との逢瀬が懐かしくしのばれる。

「沖つ藻の靡(なび)きし妹」、「黄葉(もみぢば)の 過ぎて去(い)にき」、「玉梓(たまづさ)の 使い」に呼応する短歌。


以上の訳の大方は「柿本人麻呂」(中西 進)および「万葉集全訳注」(中西 進)の訳注を参考にした(シロートは文章を崩したが)。


「万葉の旅(上)大和」(犬養 孝)によれば、大軽町には軽寺跡と春日社があるということなので、これを探していたのだが、突然に家並が途切れて視界が開けた。

おお。これは見瀬丸山古墳ではないか。軽寺跡を見て次にここへ来るつもりだったが、方向が違っていたらしい。

前回は国道169号線を歩いて古墳の向こう側にやってきた。そのあたり一帯は家屋が密集していた。反対側は(たぶん畑であったのであろう)このように平坦な地だったのか。

見瀬丸山古墳は前方後円墳である。上図の左側の木立が茂るところが後円部で、右側のぺったりしたところが前方部である。古墳はなだらかに土が盛り上げられているのではなく、階段状に築かれていることがよくわかる。

見瀬丸山古墳は古墳時代の最後期(500年代末)のもので、奈良盆地のうちでは最大の古墳(全長318m。全国でも6番目に大きい)である。 かつては天武・持統天皇を合葬した檜隅大内陵(ひのくまのおおうち)がこれであろうとされていたが、明治になって明日香村にある古墳が天武・持統天皇陵であることが明らかになった。

見瀬丸山古墳は比定すべき天皇が見つからないので、いまのところ宮内庁は後円部の一部だけを陵墓参考地として管理している。だから一般人でも管理していない部分に立ち入ることができるのである。写真の細道は前方部に続いている。私も小道を登る。


前方部に立って後円部を見る。いやあ長い。深々と雑草が生えているが、充分に6コースをとって100m走ができそうである。ことによったら直線200m走もできるのではないか。

それではこの巨大な古墳は誰を葬ったものであるか。「古墳とヤマト政権」(白石 太一郎)は、欽明天皇であろうといわれる。現在、欽明天皇陵とされている古墳は近鉄・飛鳥駅を出たすぐのところにあるが、その大きさは見瀬丸山古墳の半分にも満たない。

6世紀末に最も権力を持っていたのは欽明天皇であるから、当然に最大の陵墓が築かれたはずである。半分ほどの規模の現欽明天皇陵は、当時の実質的な権力者である蘇我稲目(いなめ)の墓であろう。そういうことらしい。

前方部に立って眺望する景色はすばらしい。ほぼ真北(やや東より)には耳成山が見える。

その遠くには、たぶん天理から奈良市へかけての大和青垣がある。高円山(432m)、城山(529m)、高峯山(633m)のどれかだろう。

人麻呂が最後に詠んだ歌は、

  鴨山の
  岩根し枕(ま)ける
  われをかも
  知らにと妹が
  待ちつつあるらむ
  (2-223)

である。(大意は、鴨山の岩を枕にして死のうとしている私のことを、知らずに妻は私の帰りを待っているのだろう)人麻呂のまさに死に臨んでの歌である。この歌とそれに関係する4首の歌のあとに「寧楽宮(ならのみや)」の詞書がある歌が続いている。 寧楽宮とは平城京のことである。奈良に都が移ったのは710年のことである。万葉集は同じテーマのものは年代順に並べてあるから、人麻呂が亡くなったのは710年以前であることになる。人麻呂は平城京を知らずして死んだ。(生年は不明)


目を北西に向けると、中央に三輪山(467m)、その左に龍王山(586m)、右に巻向山(567m。まきむく)。奈良盆地南東部の大和青垣の骨格となる山は龍王山と巻向山である。三輪山は巻向山から表に飛び出した端山である。

巻向山の背後に初瀬山があり、その麓近くに長谷寺がある。 初瀬山のさらに奥(東側)に榛原(はいばら)にある貝ケ平山が見える。この山は大和から伊勢に行く道のうちで最も高い山である。貝ケ平山、ついで額井岳の山すそを行けば名張に出る。

人麻呂が詠んだ歌にでてくる山をあげると、畝傍山・香具山・布留山、三輪山・巻向山・龍王山(引き手の山)・初瀬山、葛城山、高角山(島根県)・鴨山(島根県)などであるが、最も数多く詠んだのは巻向山である。次が初瀬山である。 人麻呂が日ごろ目にした山は巻向山と初瀬山であったようだ。


真東に目をやれば、最も手前の緑色の丘は甘樫丘であろう。その奥に弓状に高まっている山は多武峰(とうのみね)である。このうちの最も高い峰は御破裂山(おはれつ。619m)である。

多武峰の裏にはさらに高い山並みがあるのだが、見ている位置が近いために多武峰に隠れてみえない山もある。

写真左側からググッーと高まって緩やかな勾配になったところが音羽山(852m)である。そのすぐ右の尖った山は経ケ塚山(889m)、その右には多武峰に隠れて見えないが熊ケ岳(904m)がある。3つを総称して「音羽三山」という。


真北に向かって伸びる道路は169号線。いにしえの下ツ道である。ビルがかたまっているところが丈六交差点。いにしえの軽の街(ちまた)であろう。

北からやや西寄りに畝傍山がある。

人麻呂には「軽」に隠妻(こもりづま)がいた。わけあって世間に知られてはならない妻である。人麻呂は妻に逢いたい逢いたいと「恋ふれども」簡単に逢える妻ではなかった。妻との逢瀬の日の連絡は使いの者がしていた。人麻呂はいつも使いが来るのを待っていた。その使いがようやくやって来た。しかし使いが告げたのは「妻が死んだ」ということであった。

人麻呂は驚愕する。「梓弓 音に聞きて」がそのショックの大きさを表現している。そして「言はむすべ せむすべ」を失うのである。すぐさま妻の家に駆けつけたいが行くことは許されない。人麻呂が亡妻を思うとき、第一番に頭に浮かんだのは「軽の市」であった。妻は軽の市に「止まず出で」ていたことを聞いていた。あるいは人麻呂が初めて妻に出会ったのは軽の市であったのか。茫然自失して、軽の市にやってきた。

市であるから人出は多い。物売りの掛け声、値段を交渉する声、ひさしぶりに出逢った人とのはずむ話、親に手を引かれた幼児がものをねだる声、荷を引く馬のいななき、これらが発する音や声が交じり合いざわめいていた。


畝傍山の西、遠くに二上山(517m)、続いて岩橋山(659m)。

市の雑踏のためか、あるいは気が動転していて耳が音を拾えなかったのか、いつもなら聞こえる畝傍山に鳴く鳥の声がしない。ましてや妻の声が聞こえるはずもない。

道行く人の誰一人として妻に似た者はいない。「すべをなみ」である。どうしようもない。なにをしたところで死んだ妻と再び会えることはできないのである。

人麻呂は妻の名を呼び、なんども袖を振った。妻の名は大声で叫んだのか、小声でつぶやいたのか。袖は千切れんばかりに振ったのか、力なく振ったのか。「妹が名喚びて」とあるので、おそらく人麻呂は絶叫し、激しく袖を振ったのであろう。


真西には岩橋山(659m)があり、そこから南にかけて、高いがなだらかな山嶺が続く。葛城山(959m)である。

葛城山の南には金剛山(1125m)。葛城山と金剛山の間の鞍部は水越峠である。

手前の低い山は貝吹山で、この近くの小山に「益田岩船」がある。

その南に真弓丘。ここには牽牛子塚古墳、マルコ山古墳、岩屋山古墳、束明神古墳、岡宮天皇陵などの著名な古墳がある。

見瀬丸山古墳を降りて軽寺跡を探すことにする。

万葉集(11-2453)に「さきの149首は柿本人麻呂の歌集に出づ」とあって、葛城山が詠まれた歌がある。

  春楊(はるやなぎ)
  葛城山(かづらきやま)に
  たつ雲の
  立ちても坐(い)ても
  妹(いも)をしそ思ふ

中西進さんによれば、古来より雲は霊魂の運搬者であると考えられていたようである。古代の人は雲を見れば、離ればなれになっている伴侶や恋人を思い、死んでいった妻や夫を偲んでいた。

人麻呂が妻の名を呼び、袖を振ったのは「招魂」のための行為である。死んだ妻の魂は山の上にたなびく雲に乗って戻ってくるのである。人麻呂は葛城山に限らず、巻向山であれ初瀬山であれ音羽山であれ、高い山にたなびく雲を見ては軽にいた妻を思い出したのであろう。

犬を連れて散歩している男性に軽寺跡を尋ねると、それはすぐ近くにあった。私は見瀬丸山古墳からの眺望のよさに少し興奮気味であった。こんなに低い場所から、広範囲の遠望がきいたのは大発見である。

「いやあ、見瀬丸山古墳は、すごい展望台でもありますなあ」と褒めると、嬉しそうに、しかし「近くの者は誰も登りませんがね」

軽寺跡には法輪寺という小寺が建っていた。敷地一杯に本堂が建っているので、境内はないようである。それらしいもの(礎石とか瓦とか)は何もない。その前に錆びた説明板が立っていただけであった。

日本書記の天武天皇の条に「軽寺」の記事があるそうであるから、亡妻の面影を求めて軽の市にやってきた人麻呂は寺を目にしているはずである。

法輪寺のブロック塀が切れたところに路地があって、ここを入ると春日社の境内であった。境内は狭い。

だが入ったところに石碑が立っていて、この場所は第15代・応神天皇の軽島豊明宮跡(かるしまのとよあきらのみや)であると書いてある。

歴代の天皇の諡号(しごう)で「神」の文字が入るのは、第1代・神武天皇、第10代・崇神天皇、第15代・応神天皇の3天皇だけである。神武天皇はいうまでもなく天皇家の始まりである。第10代・・崇神天皇は上田正昭さんのいわれる「三輪王朝」の始まりであり、第15代・応神天皇は「河内王朝」の始まりである。

「歴代天皇総覧」(笠原英彦)から天皇の皇居(宮)があった場所を探してみると次のようになる。(色をつけた天皇は今回のテクテクに関係がある)

天皇没年皇居皇居地陵墓地
1代 神武(じんむ)橿原宮 (かしはら)奈良県橿原市奈良県橿原市
8代 孝元(こうげん)軽境原宮(かるのさかいはら)奈良県橿原市奈良県橿原市
10代 崇神(すじん)320年?磯城瑞籬宮(しきのみずがき)奈良県桜井市奈良県天理市
11代 垂仁(すいにん)340年?纒向珠城宮(まきむくのたまき)奈良県桜井市奈良県奈良市
12代 景行(けいこう)360年?纒向日代(まきむくのひしろ)奈良県桜井市奈良県天理市
15代 応神(おうじん)400年?軽島豊明宮(かるしまのとよあきら)
大隈宮(おおすみ)
奈良県橿原市
大阪市
大阪府羽曳野市
16代 仁徳(にんとく)420年?難波高津宮(なにわのたかつ)大阪市中央区大阪府堺市
21代 雄略(ゆうりゃく)479年泊瀬朝倉宮(はつせのあさくら)奈良県桜井市大阪府羽曳野市
26代 継体(けいたい)531年樟葉宮(くずは)大阪府枚方市大阪府茨木市
29代 欽明(きんめい)571年磯城島金刺宮(しきしまのかねさし)奈良県桜井市奈良県明日香村
30代 敏達(びたつ)585年百済大井宮(くだらのおおい)奈良県広陵町大阪府太子町
31代 用明(ようめい)587年池辺双槻宮(いけへのなみつき)奈良県桜井市大阪府太子町
32代 崇峻(すしゅん)592年倉梯宮(くらはし)奈良県桜井市奈良県桜井市
33代 推古(すいこ)628年豊浦宮(とゆら)奈良県明日香村大阪府太子町
34代 舒明(じょめい)641年飛鳥岡本宮(あすかおかもと)奈良県明日香村奈良県桜井市
35代 皇極(こうぎょく)
37代 斉明(さいめい)
661年飛鳥板蓋宮(あすかいたふき)奈良県明日香村奈良県高取町
36代 孝徳(こうとく)654年難波長柄豊碕(なにわのながらとよさき)大阪市中央区大阪府太子町
38代 天智(てんじ)671年近江大津宮(おうみのおおつ)滋賀県大津市京都市山科区
40代 天武(てんむ)686年飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)奈良県明日香村奈良県明日香村
41代 持統(じとう)697年飛鳥浄御原宮・藤原宮(ふじわら)奈良県橿原市奈良県明日香村
42代 文武(もんむ)707年藤原宮(ふじわら)奈良県橿原市奈良県明日香村
43代 元明(げんめい)715年藤原宮・平城宮(へいじょう)奈良県奈良市奈良県奈良市


境内から外の鳥居を撮る。

第1代・神武天皇から第13代・成務天皇までの13代は皇居・陵墓ともに奈良県にある。だが第15代・応神天皇天皇から第25代・武烈天皇までの11代のうち皇居が奈良県にあったのは9代(大阪が2代)あるが、陵墓が奈良県にあるものは3代でしかない。うち2代は奈良県でも大阪府との境にある香芝市であるので、ほぼ河内だといえる。

陵墓はその部族の勢力圏内に築くのが普通である。河内に陵墓があるのは本貫の地が河内であることを意味する。したがって応神天皇のときに「河内王朝」が「三輪王朝」にとって替わったという学者は多い。だが出自は河内でも、日本を統治するには、都を河内にではなく大和におかねばうまく治まらなかったらしい。応神天皇は軽の地に皇居を定めたのである。

軽の地は、4代・懿徳(いとく)、8代・孝元(こうげん)、15代・応神(おうじん)の3天皇が皇居にしていたのだから、神話時代には後の飛鳥のように都とすべき土地であると思われていたのかも知れない。


「軽島豊明宮跡」の石碑の隣には歌碑が据えられていた。

  天飛ぶや<       軽の社(やしろ)の
  斎槻(いはひつき)  幾世まであらむ
  隠妻(こもりづま)そも   (11-2656) 作者不詳

大意が書いている説明板も立っていて、『社の槻(ケヤキの古名)のように、いつまで人目を憚って隠しておかねばならない妻なのであろうか、という意味です。』と書いてある。

万葉集の(11巻-2656)の歌であるから、人麻呂より後の人の歌である。人麻呂の歌を手本(本歌)にして詠んだことは明らかである。


「天飛ぶや」と読み上げられたとき、人は天空を想像する。青空か夕暮れ時の暮色かはその人の好きずきである。次に「軽の社」と読まれたとき、ああ天空を飛ぶのは雁(かり)であったとわかる(雁=軽)。「天飛ぶ」は「軽」の枕詞である。むろん人麻呂が創出した枕詞である。

雁は「雁行」という言葉があるように「ヘ」の字型に並んで飛んでいく。今の航空自衛隊のジェット機と同じ飛び方である(先頭を行く鳥の左右に少しずつ遅れて飛べば「ヘ」の字型になる)

先頭を行く鳥は頼もしく、静かに、しかし目的地を目指して急ぎ飛んでいるように見える。「天飛ぶや 軽」までを聞いて、「飛ぶようにして早く妻のいる軽に行きたい」そういうイメージを浮かべるのである。


この歌で人麻呂にないものは「社の斎槻」だけである。斎槻(いはいつき)は「幾世」にかかって時の長さをイメージさせるのか、「隠」にかかって隠れていることをイメージさせるのかは、知識不足で判断できない。

ちょうど近所に住むらしい老婦人が通りかかったので、「この境内に斎槻はありますか?」と問うと、写真の切り株がそれであるといわれる。

1998年に大阪・奈良・三重を超大型台風が上陸し、近鉄電車の架線を支える鉄骨の柱がぐにゃりと曲がって電車は全線不通になった。三輪山の山頂の樹木はなぎ倒され、室生寺の杉の巨木が倒れて五重塔が損壊した。このときの台風で「軽の社の斎槻」も倒れたといわれた。

案内板には、この地で軽の市が開かれたとの説明もあったが、そうではあるまい。人麻呂の時代、ここはすでに社であったのだ。社となったのは応神天皇の皇居跡であったためであろう。市は交易に便利な「下ツ道」と「阿倍山田道」が交差するあたりにあるのが自然である。そこで人麻呂は「妹が名喚びて」袖を振ったのであろう。

「天飛ぶや 軽の路は わぎもこが 里にしあれば 〜〜〜」と人麻呂の長歌を吟じながら、剣池へ戻ってきた。(私は「軽」の歌を暗誦できるほど幾度も読んだ)

孝元天皇陵は島のように見えるが、向こうでは繋がっている。背後は菖蒲町という新興の住宅地である。

池の周りには誰一人いない。水面は静かで、島影を映している。こういうおとなしい大池であれば水鳥が群れていてよさそうなものだが見当たらない。

池の周りは遊歩道になっていて、そこに紀皇女(きのひめみこ)の歌碑があった。紀皇女は天武天皇の娘であるから、人麻呂と同じ時期の人である。


  軽の池の    浦廻(うらみ)行き廻(み)る
  鴨すらに     玉藻のうへに
  独り宿(ね)なくに    (3-390)

横に『軽の池のほとりを泳ぎ廻る鴨でさえ、玉藻の上に独りで寝ることはないのに という意味です。』と説明があった。 くどく付け加えると、ましてや人間の私が独りで寝るのは哀しい、ということであろう。

調べてみると、万葉集にある紀皇女の歌はこの一首だけである。その代わりに彼女のことを詠んだ歌がいくつかある。

天武天皇は7人の皇后・妃をもっていたので子だくさんである。皇子が10人、皇女が7人いる。紀皇女は穂積皇子と母が同じで、異母兄の弓削皇子(ゆげのみこ)と年齢が近かったのか仲がよかったようである。「弓削皇子の紀皇女を思(しの)へる御歌4首」として掲げてある。そのひとつに、

  吾妹児(わぎもこ)に   恋ひつつあらずは
  秋萩の           咲きて散りぬる
  花にあらましを        (2-130)

(わが妹子に恋して苦しんでいないで、秋の萩の花のように美しく咲いて散っていきたいものだ)

皇子と皇女は互いに惹かれあっていたのかも知れない。だが一応は兄妹である。例がないとはいえ、結ばれることはないのである。皇子は「咲きて散り」たいと思い、皇女は皇子を思いつつも寄り添うことなく独りで寝るのである。

さあ甘樫丘へ行こう。道幅の狭い山田道を進む。

人麻呂について学ぶために次のような本を揃えた。
  1. 地図とあらすじで読む万葉集 (坂本 勝)
  2. 新訓・万葉集(上下) (佐々木信綱)
  3. 万葉集・全訳注(一二三四巻) (中西進)
  4. 万葉集事典 (中西進)
  5. 万葉の旅(上中下) (犬養 孝)
  6. 柿本人麻呂 (中西進)
  7. 柿本人麻呂論 (北山茂夫)
  8. 柿本人麻呂ノート (佐々木幸綱)
  9. 秘められた挽歌 (末田重幸)
万葉集は膨大であるのでまだ通読できてはいないが、人麻呂についての本は一読した。それぞれの著者の見解があってそれぞれに感心したが、最も唸ったのは「万葉集事典」(中西進)である。

@万葉集20巻の特徴、
A(万葉集を伝えてきた諸本の一覧、研究書の一覧、研究史)、
B(万葉仮名一覧、活用表、用字法)、
C(古代の皇居・陵墓、遣唐使、官位、官制組織図)、
D(国名、系図、地図、年表)、
E(人名解説、地名解説、動物植物一覧)

などなど多岐にわたって調べ上げてある。中西進さんには脱帽してしまった。「学者は偉いなあ」と心底から思った。

特にE(人名解説、地名解説、動物植物一覧)は便利である。例えば、紀皇女の歌を知ったとする。万葉集に皇女の歌があるかを調べるには、人名事典を見ればよい。
  1. 紀皇女は天武天皇の娘で、穂積皇子と同母妹、弓削皇子と異母兄妹、とある。

  2. 紀皇女の名前は(2-119)の題と、(3-425)の左書きに出ている。

  3. 紀皇女の歌は(3-390)と(12-3098)にあるが、(12-3098)は多紀皇女の誤りであろう。
こういうことがすぐにわかる。

そこで「万葉集・全訳注」から(2-119)を探すと、「弓削皇子の紀皇女を思(しの)へる御歌4首」と詞書があって、弓削皇子の4首の歌を知ることができる。(3-390)を見れば、剣池の歌碑に刻まれていた歌が出てくる。 実に便利な事典なのである。

まもなく着くぞ。遠くに音羽山、手前に多武峰(とうのみね)、最も手前の緑色の小山は八釣山(やつり)であろう。


向原寺の前を通る。向原寺は、推古天皇が即位(592年)した豊浦宮の跡に建てられている。本堂の奥には、発掘調査によって現れた当時の石が敷き詰められた層や版築された層の一部が埋め戻されずに残っている。今日は見学はしない。

飛鳥の地に皇居を定めたのは、第23代・顕宗(けんぞう)天皇(没年487年)である。近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつり)とあるので、八釣山の麓にあったのだろう。だがこの後長いあいだ飛鳥に都は置かれなかった。多くは桜井市の磐余(いわれ)や泊瀬(はつせ)に都があった。

100年後に推古天皇が飛鳥(厳密には飛鳥の北方だが)に皇居を設けたのは、この地が蘇我氏の地盤であったからである。豊浦宮は蘇我稲目(そがのいなめ)の邸宅があった地に建てられた。

向うは甘樫丘。

それ以来、都はほとんど飛鳥から動いていない。持統天皇が694年に藤原宮へ遷宮するまでの100年間で、飛鳥以外の地に都があったのは、舒明天皇の6年間(百済宮)、孝徳天皇の10年間(難波長柄豊碕宮)、天智天皇の5年間(近江大津宮)だけである(「飛鳥−水の王朝」千田 稔)。

初めは蘇我氏をバックとしてこの地に宮を置いたのであろうが、645年の乙巳の変(いつしのへん)で、飛鳥板蓋宮において蘇我入鹿(いるか)は殺され、父の蘇我蝦夷(えみし)は自殺して蘇我宗家は滅んだ。よって蘇我氏と関係のない地に遷都してもよかったのである。

飛鳥はよほど土地柄がよかったのか。

甘樫丘の標高はわずかに147mである。頂上へ登る道は「万葉の植物園路」と名づけられて、道の脇に植えられた木々の名前を教えてくれる。 しかし今の時期はまだ落葉している木が多いので、その木の特徴はよくわからない。

その木にちなんだ万葉集の歌も併記してあるのが「万葉の・・・」と名づけられている理由である。例えば「ヒノキ」には人麻呂の歌として

  鳴神(なるかみ)の
  音のみ聞きし
  巻向(まきむく)の
  檜原(ひばら)の山を
  今日見つるかも  (7-1092)

が挙げられている。これは人麻呂の歌集にある歌である。

どう解釈すればよいのか。「鳴神」とは雷のことである。雷がゴロゴロ鳴っているが光ってはいない。音だけが聞こえる。そのように音には聞いていたが、今日初めて巻向山の檜原(地名でもあるが、ヒノキが立ち並んでいた地)を見たことである。

そういうことだろうか。人麻呂歌集に入っている歌は、@人麻呂が作った歌、A人麻呂が収集した歌、が混じっている。もしシロートの解釈のとおりであるならば、この歌は人麻呂が作った歌ではなかろう。人麻呂は巻向山の檜原にはしばしばやってきていただろうからである。

まあそんなことはどうでもよい。驚いたのは甘樫丘は万葉集に詠まれていないらしいことである。「万葉集事典」の地名解説で「あまかし」を探してみても、それがない。

頂上へ着いた。人影はない。真東を向いて取る。

鳥形山に向かって道がある。鳥形山には飛鳥の地主神である飛鳥坐神社(あすかにいます)があるからである。

鳥形山の背後、左には八釣山、右には多武峰。その奥は音羽山。

家並みの右端にある四注屋根(方形造り)の建物は安居院、昔の飛鳥寺の一部である。ここに丈六の飛鳥仏が今なお伝えられている。


真東から30度ほど南に視線をずらすと、御破裂山が見える。この少し右側の稜線の向うに藤原鎌足を祭った談山神社(たんざん)があるのだが、ここからは見えない。

御破裂山から手前に伸びた支峯というか尾根というかは細川山と呼ばれている山であろう。

その先っぽの平地部に丘があるが、ここに亀形石遺跡が近年発見された。その丘の反対斜面には昔から名高い酒船石がある。

(ひょっとしたら、私は丘を1つ間違っているかも知れない



真北から45度、南東を向いて撮る。

飛鳥京があった場所である。飛鳥板蓋宮跡には、丸い石が敷き詰められている。

「百(もも)敷きの」は大宮に掛かる枕詞であるように、石が敷きつめてあると聞けば、古代人はすぐに大きな宮殿をイメージした。

人家が集合しているところは明日香村の中心で、明日香村役場はここにある。村役場から東に行けば岡寺への参詣道がある。門前町の風情で、そこそこの商店が並んでいる。



ほぼ真南の方角。

橘寺の白く長い塀が見える。

聖徳太子はこの寺で3日間にわたって勝鬘経(しょうまんきょう)の講義をした。

講義が終わったとき天から大きな蓮の花が舞い落ちてきて、高さ1mほども降り積もった。これを埋めた場所が今も残る蓮華塚である。

橘寺の西には、川原寺跡、亀石、天武・持統天皇陵、鬼の俎板、鬼の雪隠などが点在しているが、ここからは見えない。









甘樫丘のほぼ真北に香具山がある。大和三山のうちでこの山だけは相違点がある。 1つは畝傍山(198m)と耳成山(139m)は平野部に孤立しているが、香具山(152m)は多武峯の端山であって孤立していない。

もうひとつはこの山だけが「天の」という修飾語がつくことである。「天の香具山(香久山)」なのである。

香具山は天から降ってきたという。天から落ちてきて、ぺったりと高まりのない山になったのであろう。

真北から30度ほど東を見ると、龍王山(585m)、その支峰の穴師山(409m)、龍王山に連なる巻向山(565m)、巻向山の支峰である三輪山(467m)がある。その奥にあるのは初瀬山だと思う。

三輪山よりずっと手前の深緑色の丘は石寸(いわれ)の山であろうか。そうなら、この上に石寸山口神社があり、聖徳太子が設けた国立演舞場である土舞台がある。

真北から30度ほど西を見る。

耳成山から南の平地は藤原宮跡である。緑色の木立は大極殿跡。以前は一面の田んぼであったが、次々に買収して発掘が続けられている。

左手のなだらかな長い山は矢田丘陵。麓は大和郡山市である。丘陵が低くなったあたりは奈良市である。ずっと奥の低い山並みは山城と大和の境になる奈良山であろう。

都はこの甘樫丘の麓の豊浦宮から少し南の飛鳥京に移り、そこから北の藤原京(694年〜710年)に、最後にあの奈良山の平城京に移った。

真北から60度西に畝傍山(198m)。その背後に二上山(517m)。

都といえば、神武天皇が即位したのは畝傍山の麓の橿原宮である。ここが日本で最古の都である。

甘樫丘からは、日本の古代の都をすべて眺望することができる。

畝傍山は戦時中は、神の山であるので登ることが禁止されていたそうである。皇国史観によらずとも、すでに人麻呂の時代には天皇家につながる特別な山であった。

「軽」の歌にも、「玉襷(たまだすき) 畝火の山に 鳴く鳥の・・・」と出てくるが、天皇家の歴史を歌うときは、畝傍山から始めるのである。

右は「近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌」である。天智天皇が、飛鳥を捨てて近江大津宮に遷都したのは667年のことである。

少し前の663年に百済の要請で朝鮮に大軍を出兵したが、白村江において新羅・唐の連合軍に完膚なきまでに負けてしまった。天皇(まだ皇太子)は新羅・唐の報復を恐れて近江に遷都したのである。

しかし天智天皇は671年に亡くなり、翌年の壬申の乱によって近江軍は敗戦、都は焼け落ちてしまう。勝利を得た大海人皇子は飛鳥に戻り、即位して天武天皇となる。

人麻呂は持統天皇の時代にかつての近江京があった場所を訪ねて左の歌を詠んだ。

実にリズミカルな歌だと思う。ひとつの言葉が次の言葉につながり、新たなイメージを生んでいく。枕詞が多用されているので歌のイメージがより広がる。

甘樫丘を下る。眼下に見える川は飛鳥川。

畝傍山の枕詞は「玉襷」である。中西進さんによれば、襷(たすき)は「うなじ」に「掛ける」ものであるから、「うな・うね」あるいは「かける」の枕詞になるそうである。

美しい襷をかけたような畝傍山の麓にある橿原宮から天皇の時代が始まった(1-5句)。

現人神はつぎつぎに代替わりをされてこの大和を治められていたのだが、その大和を捨てて、奈良山を越えて近江の大津に都を移されたのは、どうお考えになったのか。(6-24句)

天皇がおられた大宮はここだと聞くが、大殿はここだというが、春草が茂り、春霞にかすんでいるばかりである。そのような大宮の跡を見ると悲しい。(25-37句)

人麻呂の真骨頂が発揮された歌である。天(あま)離(さか)る→夷(ひな)にはあれど、と「ど」で逆接とした後、「石走る」→「淡海の国の」→「楽浪(さざなみ)の」→「大津の宮」まで一気に次から次へと言葉がつながる、このリズム。また 「大宮は ここと聞けども」→「大殿は ここと言へども」の対句によるリズム。最後は「春草の 繁く生いたる」と「春日の霧(き)れる」と自然の景色を歌って、「百磯城(ももしき)の 大宮どころ 見れば悲しも」と、石が敷かれた人工の建造物の廃墟の残影をイメージさせて結ぶ。 人は滅ぶ、自然は残る。である。


飛鳥川は随所で川底の浚渫をしている。川辺まで行ける箇所があったので、降りてみた。 「軽」の歌にも「沖つ藻の 靡(なび)きし妹(いも)は」とある。飛鳥川の川底の石に生えた藻が水の流れにゆらゆらと靡いているかも知れないではないか。

しかしガッカリだ。空き缶、ペットボトルが沈んでいる。 水の流れに靡いているのは、打ち捨てられたビニール袋である。

「沖つ藻」の「沖」とは海または川の沖である。沖に生えている藻は、水面より上に出ることはなく「隠れ」ている。また水の流れに「靡く」。

向うの木立は雷丘(いかずち)。

「沖つ藻の・・・」と歌われたとき、聞き手は、沖の藻をイメージし、次に来る言葉(「隠れ」か「靡く」)を待つのである。名張を歌った歌がある。

  わが背子(せこ)は
  何処(いずく)行くらむ
  奥つもの
  隠(なばり)の山を
  今日か越ゆらむ    (1-43 当麻真人麿の妻)

「奥つもの」は「沖つ藻の」と同じである。この場合の「沖つ藻」は「隠れる」という言葉に繋がっている。古代、名張は「隠」という字が当てられていた。隠(こも)る土地だったのだ。

雷の交差点に着いてみると、なにやら前回と様子が違っている。前回きたときは、雷丘はフェンスで囲まれていたと記憶している。木立も手入れがされていなくて、篠竹が混じり、木は蔓草に巻かれていたのではなかったか。

今は木が生えている場所はここだけであるが、写真に写っている家屋も雷丘で、その家屋の裏に家が建て込んでいるところも雷丘である。古代の雷丘はもう少し範囲が広かった。

おや、丘に登る階段がつけられている。



雷丘に登ってみた。頂上部分は平坦であった。斜面に生えている木は残してあるが、頂上部分の木は切られて草原になっている。

もともと道路から5〜6mしか高くない丘である。たいした眺望は望めまいと思っていたが案外に高い。多武峰が見える。その下は飛鳥坐神社のあたりであろう。手前の田んぼは石神遺跡と呼ばれ、今でも発掘調査が続けられている。(ただし調査が終わったらすぐに埋め戻されるので、いつまでたっても田んぼのままである)

幼児を連れて老婦人が登ってきた。尋ねると、この雷丘は私有地であったが、買い上げて公園にしたそうである。明日香村が買ったのか国が買ったのかは知らないが、1年ほど前のことであるそうだ。


三輪山が見える。人麻呂は持統天皇が雷丘に遊行したときに供をして、次の歌を詠んだ。

  大君(おおきみ)は
  神にし座(ま)せば
  天雲の
  雷(いかずち)の上に
  廬(いほ)らせるかも   (3-235)

持統天皇は雷丘の頂上で休息したのであろう。天皇は現人神であるのでピクニックシートを広げて弁当を食べることはしない。ちゃんとした休憩所が設けられていたはずだ。

そこで、天皇は神なので雷よりも高いところに仮の宿りをされているのだ、と歌った。ほめ歌である。

壬申の乱(672年)が終わった後の変化は、単に近江京から飛鳥京に都が戻っただけではない。それまで天皇家は有力部族の支援を得て日本を支配していた。河内王朝のころは葛城氏であり、推古天皇から皇極天皇までは蘇我氏がそれである。しかし蘇我氏はすでに無く、壬申の乱によって生き延びていた蘇我氏や天智天皇のブレーンだった中臣氏は没落した。

天皇は名実ともに最高の権威者・権力者になったのである。この時期に人麻呂が登場して、天皇の神格化を完成するために天皇を寿(ことほ)ぐ歌を次々に歌い上げる。

だがそういう政治的な環境に身をおいた人麻呂の人生は危うい。政変によってその身が抹殺されることもあるのである。

雷丘から香具山を目指す。北に向かっている。道路の右にあるのが香具山。左は単なる木立。


大官大寺跡にやってきた。手前の梅ノ木が立っている畑が金堂のあった場所である。

だいたいこの辺りが藤原京の東端である。藤原京の範囲はいまだに確定していないようだが、
  1. 北端は横大道(よこおおじ)
  2. 南端は山田道
  3. 東端は香具山
  4. 西端は下ツ道
とするとわかりやすい(冒頭の地図を参照)。


香具山を横に見ながら西を向いて歩くと、耳成山が見える。

手前の田んぼは藤原宮跡である。国がせっせと買い上げて、ようやく藤原宮があった区画を保存した。

この位置に藤原京の中心線である朱雀大路が南に向かって伸びていた。


飛鳥川を渡る。ここでも川底をさらえている。

人麻呂の絶頂期は持統天皇の在世時と重なっている。人麻呂が初めて万葉集に出てくるのは、689年(持統3年)に天武・持統天皇の皇太子であった草壁皇子に捧げた挽歌からである。年代がわかっている最後の歌は明日香皇女の挽歌(700年。文武4年)である。文武天皇に譲位した持統はまだ存命で、亡くなったのは702年であった。

それ以降、人麻呂は公的な歌を詠むことはなかった。残っている歌は哀しいものが多い。たぶん「軽」の歌(2-207)も、石見の国の妻の歌(これがまたよい。2-131)も、鴨山の歌(2-223)も700年より後の歌である。

これらは、ほとんどが別離の歌である。

(次図)飛鳥川を挟んで畝傍山がある。ここから見ると畝傍山は耳成山のように均整がとれた山のように見える。数学の正規分布のカーブである。だが畝傍山のよさは、甘樫丘から見る象がのそりと進むような姿であると思う。

畝傍山の左奥は葛城山、さらに左は金剛山。畝傍山の右には岩橋山(二上山は見えない)。人麻呂にとっての畝傍山は、現人神である神武天皇が即位した神宿る山であると同時に、恋こがれた軽の妻を思い出させる山でもあったのだ。



今日は半年ぶりにテクテクをした。名張はよいところである。今日のように急に出かけても、充分に楽しめる土地が近くにあまたある。飛鳥・奈良・京都・大阪、兵庫、滋賀。これらの場所はその気になれば日帰りでテクテクできるのである。

名張に住もうといったのは死んだ家内であった。それは故郷の吉野に近いということが大きな理由であったかと思う。私は名張という町は、江戸川乱歩が生まれた地だという知識しかなかった。 名張に越してきた当初は、あまりに鄙びた町であることに後悔したが、いまではよいところに終(つい)の棲家を得たものだと思っている。名張に住むことになったのは亡妻の大きなプレゼントであったと思っている。

今日の万歩計は19800歩だった。


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