和歌山県・那智滝

    No.65.....2008年10月18日(土曜)


行く先の目次... 前頁... 次頁... 那智山周辺図...

東京の根津美術館が所蔵する「那智滝図」は那智滝を描いた国宝の絵画である。実物を見たことはないが、縦160cm・横60cm弱の絹本着色の掛け軸仕立てとなっているらしい。

この絵はおそらく日本の風景画のうちで最高位のものであろうと思っている。写実性が強いが、いうにいえない神秘性を強く感じさせる絵である。

構図は単純である。絵の上下を8等分すると、上部1/8の狭い空間に那智山が描かれ、そこから大岩盤の真ん中を白い瀑布が長く落ちていく。画面半分のところで滝幅は広くなり、画面下部2/8の位置にある滝壺に落下して飛沫があがっている。落ち着きどころを得た水はくねりながら那智川となって杉木立のあいだを流れていく。

この絵を描いた絵描きの技量(12世紀。作者不詳)のすごさもさりながら、対象の那智の滝そのものが姿よく霊気を発散させているのであろう。

一度は那智に行ってみたいものだと思っていたが、名張から那智は遠い。昨年11月に那智について調べたところでは、那智勝浦まで最も早くても3時間10分ほどかかる。往復6時間以上も交通時間にとられるのは、日帰りのテクテクとしてはつらい。そういうことで1年近く訪れる決断がつかなかった。

ところがこの6月に世田谷のA先生が、「夫妻でフルムーン旅行をしてきました。那智の滝も行ってきました。」と、熊野那智大社が発行する「那智に詣でて」というグラビア36頁の本を送って下さった。

さらに数日後、ご本人が撮影されたDVDが届いた。熊野那智大社への表参道(石段)を登る大勢の参詣者が写り、那智滝への石段を下る観光客が写っていた。年配者が多かった。これをみてやや背中を押されるようにして、秋の好天の日に必ず那智へ行こうと決めた。


10月18日の天気予報は快晴であるという。この日をおいては那智行きのチャンスはなかろう。

朝は靄っていた。夜間の気温が低下していたためである。それは夜間に雲がなかったからである。今日の好天気を約束している。

紀伊勝浦までの所要時間は@名張→松阪(近鉄)が33分、A松阪→紀伊勝浦(JR紀勢線)が2時間21分。これ以上に早く行ける列車の便はない。

名張を8:27の特急に乗れば、松阪発9:15の列車(ワイドビュー・南紀1号)に間に合うのだが、実際には7:05の近鉄特急に乗った。松阪では1時間35分の待ち合わせ時間となる。


JR松阪駅。列車は全部ジーゼルカーである。屋根の上に小さな煙突が突き出ている。

2日ほど前に老眼鏡のレンズを拭いていたら、めがねのフレームとツルを結ぶ蝶番が壊れてしまった。セロハンテープでこれを固めて、家では使っていたが、外出先に持っていくことはできまい。松阪は大きな町だから、9:00ころに店を開いている眼鏡店があるかも知れない。

松阪の駅前あたりをウロウロして眼鏡店を探したが、まあ常識的には多くの商店の開店時刻は10:00である。眼鏡店のシャッターは閉まっており、開店時刻は9:30からと書いてあった。

ひょっとしてドンキホーテのような店があるかと少し期待していたが、駅前周辺にはないようである。しかたがない。老眼鏡を買うことは諦める。




「ワイドビュー・南紀1号」に乗り込む。ワイドビューと名づけられているだけあって、座席が通路から一段と高い位置に設置してあるので、車外の景色を見下ろすような目線になる。車窓はできる限り広く取ってある。前方の運転室の窓も広く、列車の進行方向を見ることができる。

老眼鏡が入手できないときのために、大きな天眼鏡を持参していた。いざとなれば、天眼鏡を通して本を読めばよい。

近鉄電車の中では、事実そうして持ってきた那智についての資料を読んでいたのだが、片手に資料、反対の手に天眼鏡を持ち、焦点をあわせながら文字を読むことは、実に面倒な所作であることがわかった。

思い切って天眼鏡を離して裸眼で見ると、小さな文字であるのに判読できる。天眼鏡を使っていたから目玉の焦点が近くなって視力が回復したのかと喜んだが、車内が明るいせいであろう。




一車両の定員は60名くらいだが乗客は10名ほどであった。私の座席は進行方向の右側にある。だから山ばかりが見える。

紀伊半島の平野部は西に大阪平野、東に伊勢平野、中心部に奈良盆地があるくらいで、その他のほとんが山地である。半島の中央部に位置する奈良県吉野郡の大峰山脈はひときわ高い山々が連なっている。次図の(b)山上ケ岳(1719m)、(c)大普賢岳(1780m)、(d)八剣山(1915m)、(e)釈迦ケ岳(1800m)などである。

奈良県と大阪府は、生駒山地および葛城・金剛山地が県境となっているが最も高い金剛山でも1112mでしかない。大阪府と和歌山県の県境には和泉山脈があるが、1000mを超える山はない。

奈良県と三重県の間には(a)大台ケ原を中心とする台高山脈が南北に連なっている。北から高見山(1248m)、国見山(1419)、池木屋山(1396m)、南端に大台ケ原((日出ケ岳1695m)がある。 奈良県と和歌山県の間には果無(はてなし)山脈があって、1000mを超える山が連続する。







中央部には、このように高い山地・山脈の塊りがあるから、そこを走る鉄道はない。列車に乗って新宮に行こうと思えば、名張→大阪→和歌山→田辺→新宮のコースをとるか、名張→松阪→尾鷲→新宮のコースしかない。どちらにしても、紀伊半島を半周することになる。

熊野本宮大社・新宮の熊野速玉大社・熊野那智大社を称して熊野三山といい、平安後期から「熊野詣で」が盛んになった(江戸期から衰退する)。このときのコースはまとめて「熊野古道」と呼ばれているが、5つのコースがある。
  1. 中辺路(なかへち)は大阪→和歌山→田辺→本宮(田辺まではJR路線と同じ)。

  2. 大辺路(おおへち)は大阪→和歌山→田辺→那智→本宮(那智まではJR路線と同じ)。

  3. 小辺路(こへち)は高野山→本宮

  4. 伊勢路(いせじ)は伊勢→尾鷲→熊野→本宮(または新宮)(熊野または新宮まではJR路線と同じ)。

  5. 大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は吉野→本宮

図は尾鷲(おわせ)の手前の紀北町あたりから見た山(だと思う)。重畳する山々のさらに奥に大台ケ原があるのであろう。どこまで行っても山また山である。

熊野詣でのメインルートは中辺路であったらしい。京都から船で淀川を下り、摂津の天満橋につく、そこから徒歩で、堺→和歌山→湯浅→田辺と南下する。田辺からつらい山道(中辺路)を上って本宮に着く。

本宮から熊野川を船で下って新宮へ出て、海岸沿いの道(大辺路)を歩いて那智に至るのが楽なコースであったらしい。熊野川を下る代わりに、本宮から那智への山道を歩き、海沿いの道を通って新宮に至るというコースもある。こうして熊野三山を巡って熊野詣が完了する。

東海方面からは伊勢路をとる。これは今の近鉄・JRの路線とほぼ同じである。伊勢から山中を徒歩で進み尾鷲に出る。ここからは海岸沿いの道になり熊野に至る。熊野から本宮へ行くか、先に新宮に行って本宮に行くかのコースが選択できる。だが本宮は果無山脈の南、大塔山(1122m)の北に位置するから、熊野古道のどれをとっても最後はつらい山間の道となる。

尾鷲が近くなると海が見えてくる。リアス式海岸なので入り江が多い。

入り江をつくる岬がジグザグに海に突き出ているために、入り江を見たと思ったらすぐにトンネルに入り、トンネルを出ると入り江がまた現れるということを繰り返す。

リアス式海岸は、山地であったところが沈下して海水に浸かってできた地形である。かつての尾根は岬になり、谷間は入り江になった。よって海と山が接しており、平坦地はない。山はすぐに海となる。

熊野を過ぎたあたりであろうか、入り江は無くなった。海は太平洋である。

紀伊勝浦駅に到着。「南紀1号」の終点である。

私がいた車両には5人ほどが終点まで残っていたが、全体では3〜40人が下車した。年配者が多いが若い人も10人くらい混じっている。案外である。みんなも那智滝を見に行くのであろうか。

(次図)駅前は思ったよりも繁華であった。二筋の商店街がある。1つはアーケードになっていて「黒あめ・那智黒」の看板が掲げられている。いまひとつはバス道を挟む商店街で、「ようこそ勝浦へ」とある。


このとき、私はこの駅に降りるつもりではなかったことに気づいた。ここは勝浦である。予定していたのはJR那智駅から出発して、近くにある補陀洛山(ふだらくさん)寺を見て、それから那智滝および熊野那智大社に行くはずであった。

新宮で「南紀1号」を下車して、普通列車に乗り換えて那智駅に行くのが正しかったのではないか。各駅停車なら、新宮→三輪崎→紀伊佐野→宇久井→那智→紀伊天満→紀伊勝浦と止まるはずである。

地図を見ると勝浦駅と那智駅の距離は2Kmほどである。タクシーで那智駅まで行くか? すでに11:40である。よほどテキパキとことを進めねば見損なうところが出てくる可能性がある。

駅前に熊野交通の停車場があった。ここから那智山へのバスが出ていた。片道600円、往復1000円とある。10人ほどが窓口に列をなしてキップを購入している。バスは40分に1本程度出ているようである。次の出発時刻は11:50であった。

これはよい。時間待ちしなくてよい。予定を変更して、先に那智山に行くことにした。

これは結果的に正しい選択であった。那智駅へ行く列車は滅多にないことをあとで知った(3時間もない時間帯がある)。

バスは最前列の席に座れた。急ぎ今日の予定を練り直す。名張に戻る最終の列車は勝浦発17:12の「南紀8号」である。これに乗り遅れると今日中には戻れない。


往復券を購入したときにもらったバスの時刻表によると、那智山までは25分を要する。途中で那智駅を通ることがわかった。帰りは那智山発15:00のバスに乗って、15:17に那智駅で下車すれば、小1時間かけて補陀洛山寺を見ることができる。那智駅から勝浦駅まではバスかタクシーで戻ればよい。

以上のことを決めて、それにしてもなぜ紀伊勝浦で下車すると思い込んだのであろうかと、紀勢線の路線図を見ながら考えていたら、「ああっ」、新宮駅の次の駅は「三輪崎・みわさき」とあるではないか。

前回、禅定寺および猿丸神社を訪れたが、万葉集巻三の264の

  苦しくも        降り来る雨か
  神(みわ)の崎   狭野(さの)の渡りに
  家もあらなくに   (長忌寸奥麿・ながのいみきおきまろ)

という歌を掲げた。通説では桜井市の三輪山か 新宮市にある三輪崎であるとされているが、これが新宮の三輪崎だ。さらに見ると「三輪崎」駅の隣は「紀伊佐野」である。歌にある「みわの崎」と「狭野(さの)」の地名が隣り合わせにある。ここが歌われた場所であろう。これは思わぬ収穫だった。

調べた観光案内書では、終点の那智山神社前駐車場まで行かずに、「大門坂」で下車すれば、熊野古道の一部を歩くことができるとあった。これにしたがって大門坂バス停で降りる。

同じようなことを思っている人が12〜3人下車した。

大門坂(だいもん)というのは、この道を登っていくと、熊野那智大社および青岸渡寺(せいがんとじ)の境内に入るための大門が建っていたからである。つまり大門坂がかつての表参道であった。

しだいに坂道らしくなる。このあたりは地道で、ところどころに石段がある程度である。

向こうに鳥居が見える。一の鳥居とよぶべきものだろう。

鳥居の先に、赤い小橋がかかっていた。振ケ瀬橋というらしい。朱で塗られているのは、おそらくここから向こうが、かつての那智大社の神域であったのであろう。

振ケ瀬橋の脇に「那智山周辺案内図」が立てられていた。


  1. はバス停である。地道を歩いて、振ケ瀬橋に来ている。

  2. すぐに熊野古道が始まるようだ。

  3. が大門跡である。ここで熊野古道はいったん尽きる。

  4. 一般道路を少し歩くと、大社への参詣道があり、これを登ると

  5. 熊野那智大社および青岸渡寺に至る。

  6. そこを下れば飛瀧(ひろう)神社の鳥居があり、(b)さらに石段を下ると、

  7. 那智の滝がある。
私は(A)のバス停で下車したが、バスは図の灰色の舗装道路をくねくねと登っていき、(F)の飛瀧神社前を通過し、(D)の参詣道前を少し過ぎて、(C)の駐車場が終点となる。



熊野古道が始まった。スタート地点には巨大な2本の杉が立っている。

「夫婦杉・樹齢800年」の立て札があった。800年ということは、西暦1200年 ころに植林されたわけである。平安末期から鎌倉幕府が開かれた時期である。

この時期には、その後の日本の仏教者を代表する名僧の過半が排出した。没年で古いほうから挙げると
  1. 東大寺を再建した重源(真言・浄土宗)1206年
  2. 法然(浄土宗)1212年
  3. 貞慶(法相宗)1213年
  4. 栄西(臨済宗)1215年
  5. 「愚管抄」を著した慈円(天台宗)1225年
  6. 明恵(華厳宗)1232年
  7. 道元(曹洞宗)1253年
  8. 親鸞(浄土真宗)1263年
  9. 日蓮(日蓮宗)1282年
  10. 一遍(時宗)1289年
  11. 叡尊(真言律宗)1290年
などなどである。



石畳の道である。10mほど歩くと2段3段の石段が積まれ、ゆっくりと坂道を登るようになっている。

古道脇には丁石が立つ。この図は「三町」の文字が彫られていた。この丁石は新しかったので、熊野古道が世界遺産に登録されたときに整備されたものだろう。

それにしても、この石畳のすごさである。誰が作ったのであろうか。この道を石で覆うには膨大な量の切石を要する。どこからか切り出して、ここまで運び、石を並べる、という途方もない労力をかけている。

単に山道に石を置いていくのではないだろう。まずは道のコースを決め、急勾配になる箇所が出ないように道の高低を調整した地道を作っただろう。

ここへ、水はけをよくするために砂利や小石を埋め、運んできた石を平面が平らになるように、地面をできるだけ覆うように、石の角度をあれこれを変えて置いていったのかと推測する。




しだいに坂は急になっていき、3歩進んで1段上るという割合になる。

初めて熊野古道(ここは大辺路)を歩くのでよくは知らないのだが、例えば伊勢路も石畳であるようだから、熊野古道の多くは石畳であったようである。伊勢から那智までの距離はざっと130km〜140kmあるかと思う。海沿いの道は石畳にはなっていなかったが、山間の多くの道は石畳であったのではないか。

地面が露出している山道は、人が歩くにつれて深くえぐれていくし、雨が降れば道は川となって、道の土を流してしまう。また山の地形に合わせた道では高低さがありすぎる。

快適に歩行するためには、何十段もの階段を設けることなく、緩やかな勾配にする道を作り、石畳による舗装をして道の形を保持する必要があったのだと思われる。




往古の人々は、熊野三社に行くためにこのように気の遠くなるような労力を投じて道を作ったのである。それは生活のための道ではない。軍事用の道でもない。信仰のための道である。

30分ほどで古道を登り詰めた。山裾の振ケ瀬橋から6町の距離であった。

この場所には大門が建っていたという。 大門跡に立つ案内板に、石段は267段、距離600m。両側に植えられた杉並木は232本あると書かれてあった。

何事もそうだが、作ってからのほうが大変である。人が歩けば敷石は崩れていく。当初は平らな道であっても次第にデコボコが出てくる。大雨で地面の土が流されることもある。そのつど道の手入れをせねばならない。

それだけではない。杉並木の杉の枝は定期的に伐採する必要があるし、毎年杉の枯れ落ち葉の掃除をせねばならない。台風で倒れる杉もあるだろうし、虫食いや病気で立ち枯れになる木もでてくるであろう。





熊野古道ができて以来、これら一切合財のことを誰かが面倒を見てきたのである。文化財が後世に残った裏には、名も残っていない多くの人々の大変なご苦労があったし、今後も努力は続けられるのである。

一般道路に出た。那智の滝が遠くに見える。

一般道路から石段が天に向かって伸びている。那智大社および青岸渡寺への表参道である。

石段を挟んで土産物屋が軒を連ねている。(店は一軒ごとに石段に沿って高くなっているので、軒は並んではいないが)

那智黒の置物、碁石、硯とついでに墨と筆も売っている。

那智黒そのものも売っている。ソラマメかピーナッツくらいの大きさの小石をビニール袋に詰めて、100円である。

よく見れば、碁石を作るために平板(厚さ1cm足らず)な15×20cmくらいの那智黒原石を10円玉大に打ち抜いた(10円玉大の穴があいた)残りカスの原石さえ売り物にしている。これも100円。

那智黒とはいうが、その原石は熊野市(三重県)で産する。 那智黒は炭素を含む泥が堆積したものである。堆積岩であるから加工が容易である。碁石の素材とするために均一の厚さに切り出すことができるし、彫刻を施したり、窪みを掘って硯にすることができる。

なぜかは知らぬが、お面も売っている。「魔除け面」とある。

天狗はよいとして、エビス・大黒・赤鬼・青鬼・おかめにヒョットコはどうしたことか。はては狸に狐まである。

那智大社に縁やゆかりがあるものではなさそうである。身内の誰かが手先が器用なので面を彫らせて店頭に出した、ということだろうか。


コンクリート造の建物が見える。青岸渡寺の付属施設のようである。もうじきだ。

石段を登り切る。左には熊野那智大社、右には西国33か所観音の1番札所である青岸渡寺がある。

まずは青岸渡寺に向かう。

図の左の石段を登れば青岸渡寺本堂に着くはずだったが、正面に白い岩壁があり、そこに那智の滝が白く落下しているのが見えた。

招き寄せられるようにして滝の方向に進んだ。

三重塔がある。手前に白い布袋像が据えられている。布袋に何の意味があるのかわからない。しかし布袋像の横の小公園から、那智の滝がよく見えた。

あとで知ったが、三重塔の3層目まで登ることができるそうである。ここからの滝の眺望が最高であるらしい。

那智の滝は落差133m、滝幅13mという。

これまでにいくつかの那智の滝の写真を見たが、季節によって水量は異なっている。冬場は水量が少なく滝幅は細い。雨季の水量は多いだろうが、今日のような好天は少ない。

茶褐色の大岩盤は垂直に切り立ち、その中ほどを真っ白な水の塊りが垂直に落下している。風はないようである。

初めて見る景色だが、今日の滝は申し分ない姿ではなかろうか。



滝の下に行かねばならない。三重塔の横に滝への道があった。道路は舗装されている。いざというときのために救急車や消防車がやってくる道路であるらしい。

道の両側にはツツジ、桜、楓が植えられていて手入れが行き届いている。このような道を通って滝までいけるのかと思っていたら、違った。


途中でアスファルト道路から分かれて古道があった。石段である。古道は裏参道であるという。

この石段には参った。勾配が急な石の階段なのである。登ってきた熊野古道は緩やかで、平たい道を何mか歩いて2段か3段の石段を登るというラクな道だったが、ここは違う。一歩ごとに石段が大きく下っている。

しかも石は平らではなく、丸い大きな石が積んである(「鎌倉積み」であると途中の立て札にあった)。石と石の間には大きな隙間があるので、足元を見ながら石の中央に足を下ろすように気配りせねばならない。周りの景色を見ながらというわけにはいかない。

石段は結構な高さがある。ドスンドスンという感じで下っていくのである。帰り道にこの石段を登ることは無理だ。息切れして悲鳴をあげることになろう。


飛瀧(ひろう)神社前に下りてきた。熊野古道を登り詰めて舗装道路に出たとき、ここで初めて滝を見たが、その道路の延長であろう。

土産物屋が並んでいるのは、神社前には数台の観光バスやタクシーが駐車できる広い場所があるからである。

観光バスによる観光客は、バスでここにきて滝を見、再びバスに乗って表参道の近くまで行って那智大社に詣でるのであろう。

定期バスによる観光客は、まずここで降りて滝を見、バス道を通って表参道から那智大社に行く。そうすれば勾配のキツイ裏参道を通ることがない。


飛瀧神社の石の鳥居をくぐると、下りの石段である。裏参道のように急な階段ではないので高齢者でも上り下りができる。


飛瀧神社は滝をご神体とする。よって本殿はない。拝殿さえもない。滝の前には鳥居があり、ここから滝を遥拝する。 祀神は大己貴命(おおなむち)である。

本殿がないのは大神神社(おおみわ)と同じである。三輪山をご神体とし、大物主を主神とし、大己貴命と少彦名命を配神とする。

三輪山を拝することは、大物主・大己貴命・少彦名命を拝することであり、那智の滝を拝することは大己貴命(大国主)を拝することである。

鳥居前から見た滝。手前の木立がじゃまである。大岩盤が見えない。滝壺も見えない。

(次図)「一遍聖絵」(ひじりえ)は一遍が兵庫の観音堂で没した10年目の1299年に、直弟子(一遍の異母弟ともいう)の聖戒(しょうかい)が作った12巻の絵巻物である。

この絵巻物を作るにあたって、聖戒は絵師の円伊(えんい)および、かつて一遍に同行した数名の時衆(じしゅう)とともに、一遍が訪ねた土地をいちいち回っている。

その絵は巧みである。もろもろのものが細かく書き込んであって写実性が強いが、一遍の心境を風景で表現するところもあり、人物の表現も生き生きしている。製作年代がわかっているので、当時の社会の様子を知ることができる第一級の歴史資料でもある。

一遍は遊行の初期(絵巻12巻のうちの3巻目で)、熊野三山を訪れている。絵巻は新宮→那智→本宮の順に描かれているから、この順に詣でたらしい。


一遍の師は、法然の弟子の証空(浄土宗西山派の祖)のまた弟子の聖達である。一遍は九州で「南無阿弥陀仏」の名号を称えることで極楽往生するという教義を学んだのであるが、知ることと身につくことはちがう。

どこかで「感得」することが必要である。「回心」するといってもよい。一遍の回心は2度ある。1度目は善光寺で「ニ河白道図」を見たときである。2度目は熊野本宮で熊野権現の夢をみたときである。

この2度の回心によって一遍の阿弥陀信仰は強固なものになるのであるが、どちらも庶民が大勢詣でる寺や神社にいったときに回心したのが面白い。念仏を称えてわかったのではない、高邁な僧に教わったのでもない、浄土三部経を読んでわかったのでもない。

もっとも本地垂迹(ほんちすいじゃく)によれば、熊野本宮の祀神である家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)は阿弥陀如来であるというから、夢で熊野権現の神託を得たのことは阿弥陀如来から直接教わったということになる。ただ絵巻に描かれているのは仏ではなく、完全な「権現」の姿である。

絵巻に描かれた那智の滝(その左には那智大社・如意輪堂(後の青岸渡寺)が描かれているが省略する)。

図の左下から右上に向かって伸びる茶色がさっき下ってきた石段であろう。現在、鳥居が立っている場所には2棟の建物が描かれている。千手堂である。滝=大己貴命は本地垂迹(ほんちすいじゃく)によれば千手観音であるという。そういうことから千手堂があったのだろう。


鳥居前では何組かの観光客が家族写真を撮っている。その向うに建物がある。土産物屋だと思っていたが、神官が座っているではないか。

行くと「お滝壺拝所参入口」の看板が軒にぶら下がっている。300円を払えば滝壺が見えるところまで行けるらしい。

入ってみたが滝壷は見えなかった。手前に岩が積み重なっていて、おそらく青々と水が満ちているだろう滝壺は見えない。

だが鳥居前からよりも近いし、じゃまな木立が少ないので滝は迫力を持って迫る。滝口から流れ落ちる水を追って、眼は上から下へ、上から下への運動を繰り返す。

風があるようだ。滝は落下するにつれて右に曲がり、滝幅が広がっている。那智滝図や一遍聖絵のように、一定の滝幅を保ってまっすぐに 落ちて欲しかった。

このたびの世界遺産の認定は「紀伊山地の霊場と参詣道」である。霊場とは@修験道のメッカの「吉野・大峰」、A真言密教の「高野山」、B神仏習合の「熊野三山」である。この3つの霊場は密接な繋がりがある。

宗教の初めは自然崇拝である。姿のよい山、峻険な山、巨石、川の水源、滝、大木などが崇拝の対象になった。だいたいが神秘性を持つ場所である。古人はその場所に土地の神がいると思い、結界を張って霊地・聖地とした。

仏教が伝わると、神社の教義は仏教に比べて格段に粗野なものであることがわかった。神社はそれを補うべく神社境内に寺を作り始めた。神宮寺である。(例えば大神神社の近くには神宮寺である平等寺が残っている)。

一方仏教側も神社を祭るようになる。東大寺の境内には手向山八幡宮がある。興福寺の隣には春日大社がある。寺の鎮守として祀ってあるのである。

水は133m落下して滝壺に落ちて飛沫を上げる。あっ、虹が見える。

前々回訪れた上醍醐寺は、理源大師・聖宝が修行の場を探して醍醐山に登り適地を見つけたが、そこにはすでに横尾明神という地主神がいた。聖宝は横尾明神からその地を譲り受ける。

空海も高野山に金剛峰寺を建てるにあたって、山中に適地を探していた。そこへ狩場明神という地主神が現れて先導したという言い伝えがある。仏教側も古くからある地主神を無視することはできなかったのである。

こうして仏教は神社を取り込んでいく。思想的な裏づけは「本地垂迹」である。神さんはどれかの仏(如来や菩薩)がこの世に姿を現したものであるとした。

例えば、伊勢神宮の天照大神は十一面観音菩薩が垂迹したものとされる。熊野三山でいえば、熊野本宮社の祭神は阿弥陀如来、 新宮の熊野速玉神社の祭神は薬師如来、那智神社の祭神は千手観音菩薩であるとされている。

石段を登って飛瀧神社を出た。急な裏参道を登って那智大社に戻る気力はなかった。バス道を歩いて表参道へ戻る。

熊野三山は、神は仏であるという神仏習合を最もうまく使ったかと思われる。すなわち新宮は過去仏である薬師如来とし、本宮は未来仏の阿弥陀如来とし、那智は現世の救済をする観世音菩薩とした。熊野三山を詣でると現在・過去・未来の諸仏を拝めるのである。

上皇が熊野詣でをすることを「熊野御幸(ごこう)」という。初めて熊野を訪れたのは宇多法皇である。897年に醍醐天皇に譲位し、2年後の899年に仁和寺で出家し法皇となった。熊野御幸はこのころのことであろうか。

第60代の醍醐天皇と62代の村上天皇は摂政・関白を置かずに親政をした。天皇の力が最も強かった時期である。63代の冷泉天皇から71代の後三条天皇までの約100年間は藤原氏による摂関政治が行われ、天皇の力は落ちていく。その初期の第65代天皇が花山(かざん)天皇である。

もう一度、表参道を登り、那智大社への石段を登る。

「歴代天皇総覧」(笠原英彦)によると、花山天皇は奇矯な振る舞いがあり、艶聞の多い人物であったようである。在位はわずか2年(984〜986年)である。

寵愛する女御が妊娠8か月目に亡くなり、天皇は極端にこの世を悲観していた。そこに藤原兼家(道長の父・前回の禅定寺でも名が出た)が陰謀をめぐらせ出家を勧めたのである。天皇は兼家の娘が生んだ円融天皇の第一子に譲位し、東山にあった花山寺で出家する。

この花山法皇も熊野御幸をしている。ばかりか、那智の滝の上流にあるニの滝の近くに庵を構え、千日の修行をする。修行によって精神が安定したのか、千日行を成し遂げた後に、西国33か所観音霊場巡りを始めた。出発地はこの那智の滝そばにあった青岸渡寺である。ここにおいて青岸渡寺は西国33か所観音霊場の第一番札所の栄誉を得たのである。



熊野那智大社の拝殿。本殿は拝殿の奥にあるが立ち入ることはできない。

熊野御幸は、花山法皇の後、約100年間行われなかった。盛んになるのは第72代の白河天皇が退位して上皇になった1086年以降のことである。

白河上皇は院政を始めた最初の上皇である。堀河・鳥羽・崇徳の3天皇の40年以上にわたる院政によって上皇の権力や財力は平安期を通じて最強のものとなる。この白河上皇が9度の熊野御幸をしている。

鳥羽天皇(在位1107〜1123年)は退位して上皇になったが院政をしくことはできなかった。祖父の白河上皇が権力を握っていたからである。しかし白河法皇(出家した上皇)は1129年に亡くなった。

鳥羽上皇は崇徳天皇に退位をせまり、近衛天皇を即位させるが、近衛は早世し、ついで後白河天皇が即位する。院政という権力と故白河法皇の財力(荘園)を手にいれた鳥羽上皇は21度にわたる熊野御幸を繰り返した。



図は拝殿横の塀の格子から本殿を覘いたもの。右からいうと、第2殿に熊野本宮の家津御子大神が祭られている。その左の第3殿に新宮の御子速玉(みこはやたま)大神、続いて第4殿に那智大社の主神である夫須美(ふすみ)大神、左端の第5殿には天照大神が祭られている。

写真に写っていないが右端には第1殿がある。滝宮と呼ばれ、大己貴命が祀られている。

社殿の屋根は妻入りで庇がついている。これだけから判断すると「春日造り」ではないかと思うのだが、正面には蔀戸がついていて出入りはできない、出入りは側面にある格子の引き戸からするそうである。ここが春日造りと異なるところなのか、「熊野権現造り」と呼ばれている。





拝殿の右手にある樟(くす)の木。樹齢800年と推定され、熊野三山の造営の勅使としてやってきた平重盛(清盛の子供)が植えた、と案内板にあった。

崇徳も後白河も鳥羽上皇の子供であったが、崇徳は祖父の白河上皇の落胤であると噂されていた。白河上皇が手をつけた(後の)待賢門院を孫の鳥羽の皇后にし、生まれたのが崇徳である。よって形は自分の子供ではあるが、実際には祖父の子供である。つまり子供であって叔父なのである。鳥羽上皇は崇徳のことを陰では「おじご」と呼んだそうである。

鳥羽上皇と退位させられた崇徳上皇は当然に憎み合い敵対していた。鳥羽上皇がなくなると、崇徳上皇は後白河天皇から皇位を奪わんとして兵を挙げた。保元の乱(1156年)である。

乱では後白河方が勝利した。味方した武士は平清盛と源義朝であり、敗れた崇徳上皇に味方したのは義朝の父の源為義である。後白河は在位3年にして、子供の二条天皇に譲位し、上皇となって権力を握るのである。翌年1159年に平治の乱が起き、源義朝が討たれてしまう。ここから平家の時代が始まり、同時に後白河上皇と平家の確執も始まることになる。


一遍聖絵に描かれた那智大社。5殿が並んでいる。第2殿から第5殿までは同じ基壇の上に建っているが、右の第1殿だけは別の基壇の上に建つ。また今のような拝殿はない。

5殿の奥行きは3間ある。屋根は今と同じく妻入りに庇が付いているようだが、千木や鰹木がついていない。

社殿の前に3人の僧が描かれている。左向きに2人が並んでいる。手前にいるのが一遍であろうか。そうならその奥にいるのは超一、一人反対を向いているのは念仏房であろう。

右の縦長の桁行6間・梁間3間の建物は、その前に灯篭のようなものがあるから如意輪堂であろう。手前の崖造りの建物は僧坊か。三重塔は描かれていないから、その後に建てられたものであろう。

右下の石段を3人が登ってきている。これからくぐろうとしている楼門の左右には仁王像が描かれている。さらに上方に楼門があって境内に至る。

後白河上皇が院政をしいた1158年から亡くなる1192年までの34年間にした熊野御幸はなんと34度である。平均すれば1年に1度の割合であるがこの34年間は激動の時期である。保元・平治の乱で覇者になった平氏は1179年に後白河を幽閉し院政を停止させる。この後平氏が壇ノ浦の戦いで破れて滅亡するのは1185年のことだから、この6年間の熊野御幸は無理だったろう。

熊野御幸は思いついて簡単にできるものではない。京から熊野を往復するには1か月を要する。それも一行は1000人規模である。舟・宿泊所・食事の手当てをし、十分な警護をしてようやく御幸ができるのである。よほど資力があり、安全な時期でなければできない。


青岸渡寺。言い伝えでは4世紀の仁徳天皇時代にインド僧の裸形上人が、ここにやってきて那智の滝のもとで修行を積み、観音菩薩を感得した。丈8寸ほどの如意輪観音を彫り、ここに小さな庵を建てて安置したのが始まりであるという。

その後推古天皇の時代に、大和からやってきた僧(生仏上人)がより大きな(4mの)観音像を彫り、その体内に裸形上人の8寸の観音像を入れ、本堂を建立したのが如意輪堂の始まりである、と案内板にある。

如意輪堂は織田信長によって焼討ちされるが、豊臣秀吉が再建する。下賎の生まれである秀吉は朝廷から下賜される位階の高さ(最高位は関白)によって各国の大名たちを制御するしかなかった。


朝廷が喜ぶことや要望することは快く引き受けるしかなかったのである。おそらく平安中期以降の熊野御幸や花山法皇の西国33か所観音巡りの記憶から、朝廷が如意輪堂の再建を秀吉に要請したのであろう。

1590年に再建された如意輪堂は、桃山風で秀頼が再建した上醍醐寺の諸堂と同じ雰囲気を持つ。重文。

なお青岸渡寺という名前は当時はなく、如意輪堂と呼ばれていた。明治初期に廃仏棄釈によって寺がいちど閉鎖された後、再び仏教が復権したときに新たに名づけられたのが「青岸渡寺」である。

如意輪観音は秘仏であると書いてあったが、堂内に入ると内陣奥に立て膝をした如意輪観音があった。ただ、とても4mもの丈があるとは思えなかったので、秘仏とは別の如意輪観音だろうか。


境内から三重塔と那智の滝が見える。

あまたある諸仏のうちで最も人気が高かったのは観音であろう。観音は窮した民が願えばそれをかなえてくれる。精神的に悟らせるのではない、現実の物質的な利益を与えるのである。

長谷寺の観音は、1本の藁を拾った貧しい若者を長者にした(わらしべ長者)し、壷坂寺の観音は、谷底に飛び込んだ貞淑な妻を蘇生させ、盲目の夫の目を見えるようにする(壷坂霊験記)。

また清水寺の観音は貧しい女に陸奥守の子息と引き合わせて夫婦にさせた(今昔物語)し、六角堂の観音は鬼につばをかけられて透明人間になった若者をもとの生身の姿に戻したのである。 こういう説話を往時の庶民は知っていた。

14:30である。15:00のバスに乗らねばならない。山を去ることにする。

石段の下に仁王像がある楼門が作られていた。一遍聖絵と同じ場所に同じ様式の仁王門を建てたようである。案内板によると、昭和8年に再建している。

表参道を下る。上臈風の着物姿の女性が歩いている。着物は那智大社横の案内所に申し込めば貸してくれるらしい。1時間2000円、一日5000円とかの料金が掲げてあった(金額は忘れた)。

「夜目遠目傘のうち」とはよく言ったもので、薄絹で顔を覆い、笠をかぶり、派手な室町風の着物を着た女性を、遠くからみとめればアッと目を引く。ただし近づいて見ないことだ。たいてはガッカリする。

15:00のバスに乗って、山を20分ほど下るとJR那智駅に着いた。

駅舎は立派だが無人駅のようである。時刻表を見ると、勝浦方面へいく16時台の列車は1本もなかった。

駅前で客待ちをしているタクシーの運転手さんに尋ねると、勝浦までは5分でいけるそうである。 かなり時間の余裕がある。安心して最後の訪問地の補陀洛山寺へ行ける。

観音は補陀洛浄土に住む。観音は現世においても困窮する者を優しく救済してくれるのである。補陀洛浄土に行って生身の観音に会い、この地で往生できればこれほど嬉しいことがあろうか。

補陀洛山はインドの南岸あるいはその沖合いの孤島にあるという。そこで那智にある補陀洛山寺から舟を漕ぎだしてはるか彼方にある補陀洛山を目指すということが始まった。


実際には生きて浄土に着くことはないことは誰でも思っていることである。どこでどういう姿で死ぬかという問題である。五穀断ちをしてミイラになって往生した僧もあれば、燃えさかる焚き火の中に身を投じて往生した僧もあった。極楽浄土の東門に通じるという四天王寺の西門から出て夕日を拝みながら入水して往生した僧もあった。遠い海上に出て餓死するか、舟が沈んで海の藻屑となるという往生のしかたがあってよい。

図は室町期に描かれた「熊野那智山宮曼荼羅図」である。鳥居の奥の瓦葺きの建物が補陀洛山寺、その右隣にある3つの社が熊野三所大神社である。補陀洛山寺と熊野三所大神社は、那智大社と青岸渡寺と同じ関係(神仏習合)である。

補陀洛渡海する者は補陀洛山寺に身を寄せ、ここで一連の儀式をして、鳥居をくぐって白砂の浜辺に出て、渡海のための舟に乗って青い海に出ていく。そういう様子が描かれている。


那智駅の前の舗装道路を渡ると熊野三所大神社の鳥居が立っている。 ここは熊野詣でをする際に立ち寄って奉幣したり読経した「浜の王子社」の跡であるの案内板があった。

往時はこの鳥居の近くに浜があり、ここから補陀洛渡海のための小舟を出したという。

熊野三所大神社の本殿。三所とは本宮・新宮・那智であり、ここに祀られている神々をこの神社も祀っている。

本殿は桃山風で、重文。

隣に補陀洛山寺がある。本尊は当然のことながら観音菩薩である。重文の千手観音が安置されている。

井上靖さんの短編小説に「補陀落渡海記」がある。時は永禄8年(1565年)、場所はこの補陀洛山寺、主人公は住職の金光坊である。

初めて補陀洛渡海をしたのは、平安初期の貞観11年(869年)に渡海した慶竜上人である。それ以来、金光坊の時代までの700年間に渡海したのは10名もいなかった。ところが金光坊の時代(戦国終期)になって渡海が一種のブームになった。

祐信上人が渡海したのは享禄4年(1531年)で金光坊が27歳のときである。補陀洛山寺にやって来て半年足らずの金光坊はこのとき初めて渡海の次第を知った。


10年後の天文10年(1540)に補陀洛山寺住職の正慶上人が渡海した。上人は61歳であった。11月に浜から舟を出した。金光坊は37歳であった。

4年後の天文14年(1545)に補陀洛山寺住職の日誉上人が渡海した。上人も61歳であり、やはり11月に浜から舟を出した。金光坊は41歳である。

15年後の永禄3年(1560)に補陀洛山寺住職の清信上人が渡海した。上人も61歳であり、やはり11月に宮の浜から舟を出した。金光坊は56歳である。

金光坊は清信上人の後を受け継いで補陀洛山寺住職になった。700年間で10指に足らなかった渡海僧が近年になって4人も出たのである。しかも最近の3人は、@補陀洛山寺住職であり、A61歳の年の、B11月に渡海している。世間は金光坊が61歳になった年、当然にこの11月には宮の浜から渡海するものと思ったのである。


渡海舟が復元されてあった。

井上さんが書かれたところによると、金光坊は檀徒から尊崇されていた。人望があった。自身もそういう心境になったとき、尊敬する師の正慶上人のように立派に渡海を果たしたいと思っていたのである。

しかし11月が近づくにつれて心は穏やかではなくなる。先に渡海した4人の上人たちはどう思っていたのかをあれこれ考え、自分がまだ渡海を決意するほどには悟っていないことを思い、渡海の実際はどうなるのかを心配し、心の葛藤が続くのである。そこがこの小説の核心である。

渡海するという心境になる前に渡海の日はやってきた。本堂の千手観音の前で読経した。時刻がくると、お経や小さな仏像・衣類・食料が運び出された。金光坊とつき従う僧らが寺を出ると、そこは見物人でいっぱいであった。金光坊は、鳥居前の宮の浜に用意されている渡海舟に乗せられた。すぐに屋形がかぶせられ、釘を打って固定された。


渡海のための舟は小さい。四方に鳥居があり、玉垣で囲まれた中に屋形がある。4つの鳥居は、発心門・修行門・菩提門・涅槃門を表しているという。 櫓はついていない。奥に「南無阿弥陀仏」と書かれた小さな帆が立てられているが、これがこの舟のただひとつの推進力である。

金光坊の乗る小舟は3〜4艘の舟に引っ張られて、宮の浜の沖合いにある綱切島まで運ばれる。そこで一泊して同行者と別れを惜しんだのち、渡海舟は大海に向けて押し出されるのである。

ところが今回は違った。綱切島に着くや「お上人さん。おさらばですじゃ」の声をかけられた。嵐が近いので見送りの舟はすぐに戻るという。金光坊は、島から沖へ押し出された渡海舟の屋形の中で一夜を過ごした。体がゴロゴロと転がって目をさますと大シケである。舟は大波に翻弄された。金光坊は暗い屋形から逃れようとした。体ごと屋形にぶつけて屋形を破ったところで舟は転覆した。無我夢中で板子にしがみついた。


浜はJR那智駅の東にある。夏場は海水浴場になるらしい。

金光坊は綱切島に打ち上げられているところを発見され救助された。同行の者たちは嵐が強くて戻ることができず、島で一夜を明かしていたのである。しかし渡海が中断されたわけではなかった。同行者たちは長らく相談をした結果、金光坊を漁師の舟に乗せた。

金光坊は「助けてくれ」とかすかな声でいったが、付き添いの僧らはこれを無視した。急ごしらえの箱がかぶせられ、船底に釘でしっかりと固定された。何人かの手によって小舟は潮に向かって押し出された。

金光坊の渡海後、補陀洛山寺の住職が61歳になった年の11月に渡海するということはなくなった。住職が死んだら死体を舟に乗せて流すことを「補陀洛渡海」というようになった。そういう渡海者は7名あった。といったことを井上さんは書かれている。


(次図)地図を見ると、海水浴場から東に約1kmの位置に金光坊島というのがある。写真を撮ってみたが、金光坊島らしいものは見えない。図の右側の緑色の小山は勝浦であろう。その左にある茶色い岩礁も勝浦であろう。金光坊島はどれなのか。 画面左から1/5のところに白い波が立っている。そのすぐ左に茶色い岩礁らしきものが見えるのがそれだろうか。


別の写真を拡大してみると、2つの黄色いブイの間に岩礁があった。これが金光坊島であろうか。

小説には綱切島は海上三里の距離にあると書かれているが、地図にはそれに該当する島はない。沖合い約4kmのところに太平石・小平石という小島があるだけで、これより遠くに島はない。

金光坊島を綱切島だとすることはできまい。これは明らかに岩礁であるし、那智湾の中にあるから、潮に乗って外洋に流れていくことはできない。金光坊になにかしら関係がある岩礁だとは思うが不明である。

那智駅前からタクシーに乗って勝浦駅に着いたのは16:00ころであった。帰りの切符を購入して、勝浦の町をぶらついていたら眼鏡店を見つけた。老眼鏡を3つ買った。

この前老眼鏡を3つ買ったのは姫路駅前の商店街であった。度数が1.0、1.5、2.0の3つを買ったのだが、今回は度数が2.0、2.5、3.0となった。買うたびにレンズが厚くなる。

今日の万歩計は23000歩だった。そのうちの7000歩は松阪で眼鏡店を探したときの歩数である。那智での正味の歩数は16000歩ほどだった。

写真はお土産である。上は那智滝壺で延命長寿の水を飲んだときの神杯(100円)。右は那智黒の小石(1000円)。左の小石は湯浅町の砂浜で拾った小石。今回のテクテクとは関係ないが、那智黒とほぼ同じ大きさなので、それぞれを両掌につかんで指先を動かしていれば、手先の運動になるかと思う。


行く先の目次... 前頁... 次頁... 那智山周辺図...            執筆:坂本 正治