宇治田原町・禅定寺

    No.64.....2008年9月27日(土曜)


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今年は初めて柿が実をつけた。この柿の木は、2001年1月に死んだ家内が、前年に庭先に苗木を植えていたものであるが、まる8年目にようやく結実した。

昨年も実をつけることはつけたが、3〜4cmの大きさになったころ、青い実のまま次々に落下して、赤くなるまで枝に残った実はひとつもなかった。

数えてみると今年は12個の実が黄色く色づきはじめている。この調子なら大丈夫だろう。 「桃・栗3年、柿8年」という言葉は実に正しかったわけである。

東京世田谷のA先生は、長年地元で医院を開業されていたが、この春に引退され、今はご夫妻で旅行を繰り返す日々を送られている。そのA先生が8月の末に「大法輪6月号」を郵送してくださった。

「大法輪」は特定の宗派に偏したものではなく総合的な仏教誌である。ここには各宗の教えのほかに、各月ごとに特集があり、寺院の探訪記・座禅の体験記・石仏を訪ねてといった紹介記事や連載の講座などが盛りだくさんに収められている。

6月号から「日本仏教建築の歴史」(野村俊一)という連載が開始されたので、お送りしますとの添え書きがあった(私はこの2年ほど建築に興味を持っている)。さっそく開いて建築の講座を読んだが、実にためになった。6月号の特集「仏教の常識」も私が知らないことが多く、よかった。

よい雑誌だったので、この続きを読みたくなって、アマゾンで7月〜10月号を注文した(一部は在庫がなく古本)。その7月号の巻頭のグラビアに「南山城の隠れた名刹・禅定寺の古仏」があって、少し驚いた。

図は大法輪に載っていた禅定寺の十一面観音菩薩。

京都の禅林寺なら名前だけは知っているが、南山城の禅定寺(ぜんじょうじ)は初めて聞く寺である。そこにあるという10体の仏像の写真が掲載され、お寺の紹介がされてあった。その藤原期(平安期)の諸仏像は均整がとれており、柔らかな彫りがおとなしく優しい印象を与えている。ああ、これが藤原期の仏像であるのかと感心したのである。

これはぜひ訪れてみたいものだと思っていたが、9月に入ってからの土曜日曜の天候はすぐれなかった。9月23日の秋分の日は晴れていたが、彼岸の日に寺を訪問すると、墓参りの人でごった返しているだろう。結局今日まで延び延びになっていた。

禅定寺は京都府綴喜郡宇治田原町にある。地図を見ると木津川の東、宇治川の南に位置する。

律令時代(奈良・平安時代)、全国は五畿七道の行政区画をもって統治されていた。

五畿とは、首都(平城京や平安京)を囲む5つの国(大和・山城・河内・和泉・摂津)である。

七道とは、@山陽道、A東海道、B東山道、C北陸道、D山陰道、E南海道、F西海道、である。これは単なる「道」を表すものではなく行政区画でもあった(現在の北海道のように)。

例えば、東海道は、伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の15か国から成る。

東山道は、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の8か国。北陸道は、若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の7か国から成る。

「道」についていえば、平城京時代の東海道は、平城山(ならやま)を越えて山城国に入り、木津川(泉川)に沿って伊賀に向かい→伊勢に出て→尾張に到る(赤色の●)。

東山道は木津川を渡って、地図の↓(城陽市)からピンク色の●をたどって→禅定寺越えをして近江に入り→瀬田川に沿って北上し、近江の国府があった瀬田に到る。

北陸道は、地図の↓(城陽市)から緑色の●をたどって→宇治→六地蔵から山科へ北上し→逢坂越えして→浜大津→琵琶湖西岸を北上して若狭へ到る。こういう道順であったようである。

これらの街道に沿って、多くの寺院が建てられ、今も残っている寺が多い。東海道では、木津に泉橋寺、加茂に山城国分寺(跡)、笠置に笠置寺。北陸道では宇治に平等院、醍醐に醍醐寺。東山道には今日訪れる禅定寺がある。

朝7:27の近鉄電車に乗って名張から京都線の新田辺駅に到着したのが8:40ころ。高架駅で西口と東口があったが、駅には駅付近の地図がなかった。どちら側にバスの停留所があるのか、どちら側が繁華街であるのか不明である。

東口に出たらコンビニのサンクスがあった。バス停はなかった。階段を上って反対側の西口に出たらバス停があった。時刻表を見ると、宇治田原行きのバスは1時間に1本あって、次は9:15発であることを知った。

急に今日来ることに決めたので、現金の持ち合わせが少なかった。不足することはないだろうが、多めにあったほうがよい。所持しているキャッシュカードはセブンイレブンか郵便局でしか現金を引き出せないものである。西口にはローソンしかなかった。



図は近鉄・新田辺駅前にあったモニュメントの一休さん。この近くに一休禅師が隠居寺とした一休寺があるようである。一休さんは大徳寺を退いて、ここに隠遁した。森(しん)という盲目であるが絶世の美女が一休の傍に仕え、一休も彼女を深く愛したという。その寺が近くにあるのか。

バス停を通りすぎる人に尋ねたら、セブンも郵便局も東口であるという。急いで東口に引き返し、尋ねながらセブンイレブンを探し当て、またまた西口に引き返す、というドタバタを繰り返してバスに乗った。


バスの乗客は10人ほどであった。

バスは木津川を渡り、東に向かっている。この道は国道307号線である。奈良時代の東山道はこの道かあるいはこの近くを通っていたのだろう。宇治田原の役場を少し過ぎたところから当時の東山道は307号線を離れて、禅定寺前を通り、瀬田に抜けていたのではないか。と地図を見て推察している。

先にいった東海道・東山道・北陸道は奈良に都があった時代のものである。都が平安京に移ってからは、東海道・東山道・北陸道は粟田口が起点になった。奈良時代の東山道は重要性を失い、奈良時代の北陸道は京と奈良を結ぶ奈良街道となる。


「維中前」というバス停で降りた。維中とは維孝館中学の略称である。中学校の生徒が大勢乗降するためか、乗降のためのバス専用レーンが設けられている。道路左側のバスがこのレーンに入って停車するのは無論、右側を走るバスもわざわざ道路を右折してこのレーンに入って停車する。

バスの待合所があって、帰りの時刻表を見ると、各時間帯に14分発のバスがあることがわかった。13:14か14:14のバスに間に合うように戻ってくればよい。


維中前バス停の裏に田原川(たわら)が流れていて、その土手が「やすらぎの道」と名づけれ、散歩道として整備してあった。これはよい。車道から離れて歩けるのはありがたい。

今回のテクテクは、@禅定寺にある藤原期の仏像を見るのが最大の目的である。多くの寺院では仏像の撮影は禁止されているから、今日のテクテクに添える写真は貧弱なものになるであろう。

A地図を見ると禅定寺のさらに奥、滋賀県との県境近くに「猿丸神社」がある。ここも訪れるつもりである。

梅原猛さんは「水底の歌−柿本人麿論(上下)」で、猿丸とは流罪になった柿本人麿のことである、という新説を打ち出されている。ことによっては、このテクテクが「万葉集」という新たな知識への広がりのきっかけとなるかも知れない。

地図を見ると、宇治田原町は北・東・南が山に囲まれている。北に大峰山(506m)、南に御林山(402m)、鷲峰山(685m)などという山があり、この山間から川が流れ出ている。北からは禅定寺川、東から田原川、南から大打川が流れ出て集まり、宇治川へと合流する。

道は多くが川筋に沿っている。北西には宇治からの道、南西には奈良からの道、北東には近江からの道、東には信楽からの道が、役場あたりに集まる。京・奈良・近江のいずれにも通じている。

さらに東の信楽への道は、徳川家康が本能寺の変の直後、この道をころがるようにして駆け抜け、伊賀越えをして三河に逃げ帰った道である。伊賀・伊勢・尾張にも繋がっている。

宇治田原町は小さな町ながら、交通の要所にあることがわかる。


白鷺がいる。

散歩道に「歴史街道と宇治田原町」という案内板が掲げてあった。これによると、

宇治田原町は、奈良から近江へ抜ける古道沿いに発展した人口1万人の小さな町である。その古道は現在の旧国道307号線および府道宇治田原大石東線とほぼ重なっていると書いてあった。

やはり奈良時代の東山道はこの道であったようだ。


稲の刈り入れは終わっている。 田んぼの畦には、彼岸花が列をなして咲いている。

のんびりと歩くだけでも出むいてきた甲斐がある。


「やすらぎの道」が尽きたので、高欄に「さんげ橋」と書いてある橋を渡る。

「さんげ」とは「散華」であろうか。なかなか風情のある名前の橋であると思っていたが、橋をわたって振り返ると「山下橋」とある。「やました」を音読みしただけの名前であった。

先ほどの案内板によると、この地は江戸期から(一時的に幕府の天領であったが)宮廷の禁裏御料となっていたそうである。今でも御林山という山名を地図上で知ることができるが、そこは元は御料林であり、そこで採れる栗や松茸が禁裏のおかずになったという。

そういう土地柄であるのか、たぶん漢籍に詳しい学者か坊さんがいて、山下橋を「さんげ橋」と名づけ、村人にそう読ましたのだろう。そうなら往時は「さんげばし」ではなく「さんげきょう」と読んだのか。


北に向かって山が見える。橋の名になった「山下」の山とは、この山であろう。荒木山であろうか。

右の山は地図には名前は載っていないが、禅定寺に続く山であろう。


おそらくは昔の宇治田原村のメインストリートであったろうと思われる道を進むと、北向きに枝分かれした道があった。石の道標が立っている。

「左 石山道」とあり、その下に「禅定寺 廿丁」と「石山寺 二里半(?)」「大津 五里」と彫ってある。

ここから禅定寺までは約2.2Kmである。


禅定寺への道。流れている小川は禅定寺川。

大法輪7月号の記事によると、禅定寺は平安中期の991年に東大寺別当であった平崇(へいそ)上人が、一宇を建立して、十一面観音を安置したことから始まったそうである。平崇上人は寺の維持のために杣山千町を含む田畑をこの寺に施入したという。

宇治田原の北は宇治の地である。この地は藤原氏の別荘地であり、藤原道長はここに別邸を持っていた。道長死後、頼通はこれを平等院として建て替えた。1052年のことである。

道長の父の藤原兼家(摂政・関白を歴任)は990年に死んでいるが、平崇上人に帰依していたという。頼通は道長から譲り受けた宇治田原の土地を禅定寺に寄進し、ここにいたって禅定寺は莫大な所領を有することになる。


その後、禅定寺は1071年にこの寺領を平等院に寄進して平等院の末寺になる。寺領を藤原氏の荘園にして所領の保全を図ったわけである。

よって禅定寺一帯は実質的には禅定寺の所領であった。今でもこの地は「禅定寺」という「字」であり、川も禅定寺川である。

(禅定寺川は先ほどの「さんげ橋」の少し上流で、田原川に合流していた)


ここまでの道は、府道・宇治田原大石東線というらしい。歩道こそないが、車はあまり通っておらず、歩きやすかった。

だが別の道が合流した。これは国道307号線と歩いてきた府道を繋ぐバイパスである。ここでトラック・トレーラー・観光バスなど大型車が次々に入り込んでくるではないか。


歩道はない。写真の道は、まだセンターラインが引かれているだけましである。完全に1車線の箇所もあって、大型車両は道の端ぎりぎりまで寄せないと、すれ違うことができない箇所もあった。 向うからトレーラーが来るたびに、道路脇に立って身を縮めることを繰り返す。

この道は、奈良期は東山道、平安期以降は石山道とよばれた道である。往時は石山寺に詣で、瀬田の唐橋を見物に出かけた道である。あるいは東海道に出るために旅人が歩いた道である。今はトラックとトレーラーが我がもの顔にすっ飛ばす。

奈良や京都南部から琵琶湖へ行くには「奈良街道」と呼ばれている国道24号線を北上して伏見に入る。24号線はここで「竹田街道」と名を変え、十条あたりで「河原町通り」と再び名を変えて、五条で国道1号線に突き当たって、24号線は終わる。



京都市内では「五条通り」と呼ばれる国道1号線を西に向かい、東山を越えて山科に入り、逢坂を越えて大津に到る。 こういうコースが普通だろう。

狭いこの道を使うのは、滋賀県と奈良・南山城間の最短距離だからではないか。おそらくガソリンが高騰した昨年あたりから、この道を走る車が急増したに違いない。

ここまでは緩やかな登り道だったが、平坦になった。「禅定寺越え」と呼ばれた峠のピークに近いところであろう。向こうに立つ看板には禅定寺とある。道路を挟んで禅定寺の駐車場もある。


看板が立っている場所へ行くと、ちゃんとした「禅定寺」の石碑があった。石段が山門に続いている。

それにしてもトラック・バス・トレーラーがゴーゴーと騒音を撒き散らしていく物騒な府道に面して入り口があるのは、寺の不幸である。

まあ私のように歩いてやってくる者はあまりいないだろうが、 危険な道を通ってようやくたどり着いたという思いである。

30段ばかりの石段を登ると、禅定寺の全体が姿を現した。

禅定寺は、東大寺別当の平崇上人が開基した寺であるから、当時は華厳宗と真言密教の兼学の寺であったが、平等院の末寺になってからは天台宗に変った。

平安末期になると頼りとしていた藤原氏の力は衰え、鎌倉期以降の禅定寺は廃れていく。

江戸初期の1680年に、加賀国大乗寺の月舟禅師(げっしゅう)がこの寺にやってきて、諸堂を建立した。これが今に残る寺の形である。このとき宗旨は天台から曹洞宗に改宗した。

山門。八脚門の左右には花頭窓がついていて、これは禅宗様式そのものである。

曹洞宗は道元が開祖である。紀野一義さんは「名僧列伝(一)」の「道元」の章に、あらかた次のようなことを書かれている。

道元の禅の中核をなすものは「只管打坐(しかんたざ)」である。坐禅を組むことによって悟りを得ようとするのではない。坐禅をすることが成仏なのである。昼も夜もひたすらに坐禅していると身心脱落(しんじんだつらく)する。


身心が脱落すると五欲(財産欲・性欲・食欲・名誉欲・睡眠欲)が離れ、五蓋(貪欲・怒り・睡眠・躁鬱・疑い)が除かれる。そうなったときに悟りを得るのであるが、悟りは悟ろうとして得られるものではない。いくら考えても悟りは得られない。悟りは「はるかに超えてくる悟りの力によって悟らされる」ものである。(これを読んでも私にはほとんど理解できていないのだが。)

花頭窓の奥には仁王像と大きなワラジが立てかけてある。禅宗の寺に仁王は置かない。これは曹洞宗に改宗以前の仁王像が伝わっているので、ということだろう。

道元においては日常生活のすべての行いが修行であった。ために厳しい規律を定め、いちいちの所作についても細かな手順を決めている。

つまり道元が目指すものは徹底した自力行である。道元と道元が指導するわずかな弟子を除いて、凡夫には実行することが困難な修行方法であった。簡単に庶民に広まるようなものではない。



ところが曹洞宗は15500あまりの末寺を抱える日本で最大の宗派なのである。(「日本の仏教と経典」広沢隆之(監修))。浄土真宗は全体としてはもっと大きいが、本願寺派・大谷派・高田派などに分かれているので各派としては曹洞宗より小さい。例えば最大の本願寺派の寺院数は10300、大谷派は8600余りである。

司馬さんの「街道をゆく・越前の諸道」に「永平寺」の章があって、ここで司馬さんは、曹洞宗の変遷について記述されている。

永平寺第二世は懐奘(えじょう)、第三世は義介(ぎかい)、第四世は義演(ぎえん)である。いずれも道元の直弟子である。 第三世の義介は、『道元の好みとはおよそかけ離れた中国式の大伽藍主義をとり、豪奢をもって教団存在を顕示した』が、これを義演に攻撃されて第三世の座を退く。義介は永平寺を去り、加賀に行って大乗寺を開く。



受付にはご住職が座っておられた。「大法輪を見てやってきました」といったら、ニコニコされる。拝観料は500円。

義介は密教や神仏習合を取り入れて、民衆禅の普及に努めた。結果は道元の精神を守ろうとする永平寺は廃れ、大乗寺は大いに栄えることになる。

大乗寺第二世の瑩山(けいざん)は曹洞宗中興の祖といわれている。義介の大衆化路線をいっそう強め、各地に寺を建て、育てた優秀な弟子たちが室町期には全国に布教する。

一方永平寺には俊英が出なかった。室町末期になると大乗寺派から永平寺を継ぐ僧が出るに至る。民衆を引きつけて資力があった大乗寺派に永平寺派は屈服したといえる。永平寺は曹洞宗大乗寺派の根本道場になったのである。


禅定寺の住職の奥さんらしい方が本堂(禅宗だから仏殿というのか)のガラスの開き戸を引いて、上るようにいわれた。禅宗のことなので、多くの仏像があるわけではない。禅宗はだいたいが釈迦如来を本尊とする。須弥壇は簡素なものであった。

本堂は萱葺きだと思ったが、後で尋ねると「葦(よし)葺き」であった。軒下の幔幕には2つの紋がある。1つは「五七の桐」でいまひとつは知らない。尋ねると「笹りんどう」だそうだ。

なぜ2つの紋があるのかと聞くと、「1つは永平寺のもので、もうひとつは総持寺のものです」と答えられた。なるほど曹洞宗は福井に永平寺、横浜に総持寺の2つの本山があるからなあ。

どちらが永平寺かと聞くと、奥さんはご住職に確認しにいかれて、「笹りんどうです。」




奥さんはホトケについては何も説明されずに、本堂の裏にある墓地の崖に描かれた釈迦の涅槃図についてしゃべられた。(図は大法輪から写したもの)。

縦8m、横45mの大壁画である。完成したときにはNHKが取材に来て、朝のニュースの時間帯に放映されたそうである。

塗料はアサヒペンが特殊なものを提供してくれたが、「この先どのくらい保つかはわかりません。」といわれる。本堂と崖は接近しているため壁画の全体を見通すことができず、一部が見えるだけである。ためにほとんど私の興を引かなかった。


隣に観音堂があって、「大きな地蔵さまがあります」といわれる。もとは重文の十一面観音が安置されていたが、宝物館ができたので、他の重文仏像とともにそこへ移されている。

主のいない観音堂には、2m近い大きな地蔵菩薩坐像と大日如来、金箔を貼った下地の漆がめくれかけた薬師如来、色鮮やかな青不動(?)などが残されていた。

大日如来坐像は肩や膝に埃が積み重なっていたが、きれいに洗えばかなりのできばえであるように思われた。

曹洞宗の禅定寺としては密教の大日如来や旧仏教の薬師如来を構うことに手がまわらないようである。観音堂にある諸仏は塵を払ってもらえず、修復もされず、ややあわれであった。



観音堂を出て受付に戻ったが、ご住職も奥さんもいなかった。奥にモニターテレビが据えられていて、宝物館の内部をモニターしているようであった。 観音堂を見学したら宝物館へ行くようにいわれていたので、勝手に行くことにする。

受付から宝物館に向かったとき「ピンポーン」という音がした。ははあ、受付の建物と宝物館の境界に赤外線がとおっているらしい。これによって来訪者があることを察知するのだ。宝物館の扉のカギははずされていた。引き戸を引いて中に入る。

板壁に囲まれて、正面に十一面観音菩薩像がある。その右側に左脇侍として日光菩薩が、左側には右脇侍として月光菩薩が立つ。観音の正面には経机や仏具が置かれ、読経ができるようになっている。

左右にも仏像が並んでいる。右側には、四天王の多聞天と持国天、その手前に地蔵菩薩の半跏像(左図)。左側には、四天王の増長天と広目天、その手前に獅子に乗る文殊菩薩(次図)。以上の9体は重文である。

どれも平安期の木像である。図は大法輪のグラビア頁を写したものだが、特に地蔵と文殊の2体には感心した。半跏の地蔵は初めて見る。右手には錫杖を持っていたはずだが、これは失われている。左手の上にある宝珠は後から補ったものであろう。

その坊主頭の顔は童顔にして慈愛に満ちている。地蔵は人が六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のどこに落ちても救ってくれるホトケである。大法輪7月号に地蔵について次のような説明があった。

『子供は仏の慈悲にすがる知恵がない。子供は死ねば地獄に落ちる。だから、不慮の事故や災難に遭わぬよう、お地蔵さんに顔を覚えてもらうよう(に町の辻々に石の地蔵がまつられている。)子供中心の行事、地蔵盆は現在も盛んである』。 地蔵が童顔なはずである。



文殊菩薩もグラビアで見て感心していた。均整のとれたプロポーションと端正な顔立ちがまず目に付いた。そして何かシンプルでスッキリした印象を持った。

菩薩が着ける衣服は簡単なものである。腰に裳(も)を巻き、上半身には条帛(じょうはく)を肩から反対側の脇にかけて斜めに巻く。腕に長細い布である天衣(てんね)をたらしている。これだけである。

ただしきらびやかな装身具をつけている。上からいうと、頭に宝冠を、胸には瓔珞(ようらく)と呼ぶ胸飾りを、上腕には臂釧(ひせん)、手首には腕釧(わんせん)と呼ぶブレスレットをつける。これは古代インドの王族のスタイルであるという。すなわち菩薩のモデルは、シャカ族の王子であった出家前の釈迦(ゴータマ・シッダルタ)なのである。

この文殊菩薩がスッキリしている印象を持ったのは、1つには装飾品が少ないためである。宝冠こそあるが、胸飾りは着けていない。上腕の腕輪もない(手首の腕輪はあった)。

2つには裳の襞が簡単(上図の地蔵の裳と比べるとわかる)で彫りが浅い。文殊を乗せる獅子もライオンとはとても思えない。これを彫った仏師は観念的に形を決めている。細部は省略されている。タテガミもなければ耳もない。獅子さえもシンプルである。だが頭部・胴体・四つ足の均整はとれている。

これが藤原期の仏像であるのか。禅定寺は991年〜996年ころに初期の伽藍ができあがったそうだから、この部屋にある諸仏はそれ以降に作られたものであろう(他の寺から貰い受けた客仏もあるかもしれないが)。

造仏の技術は古くは新羅・百済からもたらされ、ついで遣唐使によってより高度な技術が輸入されたのであるが、最後の遣唐使は838年のことである。禅定寺ができた時期は、中国からの仏像技術が伝わらなくなってから160年も経っている。これら仏像は当時の日本人の感性と技術力によって造られたのである。

藤原期からの仏像は日本人の感性に合うものになっていったのであるなあ。私はこれまで藤原期の仏像をこのようにしげしげと見たことはなかったから、「うーむ」とうなり、やや感動したのである。




普通、寺の仏像は薄暗い内陣にある。暗い上に遠くにあるから仔細に見ることはできない。四天王に至っては本尊を囲んで四隅に配置されているので、後方に置かれる多聞天(毘沙門天)や広目天などはほとんど全体を見ることが難しい。

しかしこの宝物館は美術館のような造りである。明るいし、空調設備もある。禅定寺の本尊ではないから、ろうそくや線香に火をつけ読経することは多くないだろう。密教ではないから護摩を焚くこともない。ために仏像が黒く煤けることもない。

美術館と異なるのは陳列ケースに入っていないことである。ガラスに照明の明かりが反射することがなく、顔を仏像に近づけてまのあたりに見ることができるのである。

文殊菩薩の隣にある大威徳明王像は完全な姿では残っていない。本来は牛に乗るそうだが、今は普賢菩薩が乗っていたであろう象にまたがっている。普賢菩薩は失われている。明王がもし象に乗らず牛に乗っていたならば当然に重文である。あるいは普賢菩薩が失われず、象に乗っていたら重文である。

宝物館には「禅定寺」という16頁だての小冊子が置いてあった。200円である。ほかに家内安全とか学業成就の祈祷の申し込み書も置かれていた。祈祷+幟で3000円である。値段にこだわったのは、この室内にある藤原期の諸仏に感心して、これを守り伝えてきた禅定寺になにがしかのお礼をしたいと思ったからである。

まず1万円はしたい。となると「家内安全」「厄難削除」「学業成就」の3つの祈祷をしてもらうか? いまさら学業成就を願っても意味がないしなあ。第一このような願い事は嫌いである。とりあえずは小冊子を求めることにして、受付に戻った。




受付には誰もいなかった。声を掛けると奥さんが出てこられた。小冊子の代金を払い、「あのように優れた仏像がよくぞ残ったものですね」といってから奥さんとの会話が始まった。仏像のこと、葦葺き屋根のこと、庭に咲く草花のこと、ここへ来るまでの道路のこと。どういうふうに話が進んだのか「住職は石川県から来ました」といわれる。

そうか。江戸期には加賀・大乗寺から月舟禅師がやってきて禅定寺を復興し、昭和には今の住職が同じ加賀からやってきて法灯および藤原期の諸仏を守っておられるわけだ。

「私は北海道から京都の学校にきたのですが、まさか南山城にすむとは思いませんでした。そうそうお茶をいれますから、そこ(本堂)の縁側に腰掛けてお待ち下さい。」

宝物館にある諸仏像は、1000年の年月を経てきたとは思えないほどきれいだったので、最近洗われたのかと尋ねると、「滋賀県の美術館(博物館だったか?)に出展したとき、専攻の学生さんが丁寧に埃を取ってくれました。」

本堂に賽銭箱があれば賽銭を入れて帰ろうと思っていたのだが、そんなものはない。禅宗は自力成道の門である。賽銭を出して仏にお願いする他力の門ではない。

考えあぐねて、お礼の件を申し出ると、「それなら瓦寄進をして下さい」といわれる。本堂に再び上がって記帳して、やれやれわずかの寄進をするのも難しいものである。

奥さんはお盆に干し柿を乗せてやってこられた。「ころ柿といいます。観音様が渋柿を干し柿にすればよいと、みなにお教えになったといいます」。観音様とは禅定寺の十一面観音のことであろうか。

「毎年11月23日には、近在の農家が集まって、皮を剥き、干しておくと12月の末には食べられます。これは去年作ったものを冷凍しておいたものです。あと1時間たつと解凍するので、ちょうど昼どきに食べられます。」

恐縮して戴いた。帰宅してから食べた。4〜5日後にご住職から礼状が届いた。

山門を出ると一面に彼岸花が生えている。その中に石の聖観音が立つ。

このとき気づいた。彼岸花は曼殊沙華(まんじゅしゃげ)ともいう。これは文殊菩薩の花ではなかろうか。

文殊は「マンジュシュリー」を漢訳したものである。文殊菩薩は正しくは「文殊師利」あるいは「曼殊室利」である。曼殊室利と曼殊沙華はよく似ているではないか。(これは単なる思いつきである)


再び府道宇治田原大石東線を歩く。向かっているのは滋賀方面である。猿丸神社を訪れる。

道まで柿の枝が伸びている。ドングリを大きくしたような柿の実が数多くついている。枝はその重さに垂れ下がっている。これが禅定寺で頂戴した「ころ柿」になるのか。

梅原猛さんは「水底の歌−柿本人麿論(上下)」で次のような新説を出されている。
  1. 柿本人麿は通説がいうような低い身分(六位)ではない。古今集仮名序には「おおきみつのくらゐ」とあるように正三位(後から贈位)である。

  2. 古今集真名序には「柿本の大夫(たいふ)」とあるように、中宮 大夫または春宮大夫の官職にあった。

  3. 人麿の名前は正史にでてこないが、日本書記には、和銅元年に「従四位下柿本朝臣左留(サル)卒す」とある。これが人麿のことである。なぜ人麿が「サル」とされたかというと、それは藤原不比等によって流刑に処せられたからである。古事記・日本書記は不比等の時代にできているから、反逆者であった人麿はサルと変名されて記されたのである。


初めの流刑の地は、猿丸神社より少し先の滋賀県の曽束(そつか)であるとされる。これを説明するために、梅原さんは万葉集の巻三の263番から267番の歌を挙げられている。
  1. 馬ないたく 打ちてな行きそ 日ならべて
    見てもわが行く 志賀にあらなくに
    (刑部垂麿・おさかべのたりまろ)

  2. もののふの 八十うじ河の 網代木(あじろぎ)に
    いさよふ波の 行く方知らずも (人麿)

  3. 苦しくも 降り来る雨か 神(みわ)の崎
    狭野(さの)の渡りに 家もあらなくに
    (長忌寸奥麿・ながのいみきおきまろ)

  4. 淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば
    情(こころ)もしのに いにしえ思ほゆ (人麿)

  5. むささびは 木末(こぬれ)求むと あしひきの
    山の猟夫(さつお)に あひにけるかも (志貴皇子)


15分ほどで猿丸神社に着いた。

梅原さんは先に掲げた万葉集の263番から267番は連続した物語であるといわれる。263番と264番については解釈されているが、265番以下は解釈されていない。どう解釈され、どういう物語であるとされるのかは知らないが、歌われている地名を掲げると
  1. わが行く志賀(志賀へむかっている)
  2. 網代木が設置されている宇治川へ出る
  3. みわの崎の狭野の渡り(桜井市または新宮市)
  4. 淡海の海(琵琶湖)に着く
  5. 地名はない(吉野か?)
である。たぶん梅原さんは、人麿が大和(当時は藤原京)から流刑地の近江へ行くときの順に歌が並んでいるといわれたいのであろう。

猿丸太夫の歌とされる歌碑があった。
奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の
声きく時ぞ 秋はかなしき
感じでは平安期以降の歌である。万葉のころの歌ではない。そもそも猿丸太夫が読んだという確かな歌はひとつもない。この歌も読み人知らずの歌を猿丸太夫のものとしたというのが多くの意見である。


  1. 配流先の志賀に向かうのにそんなに急がないでください。と従者らしい刑部垂麿が歌ったのは大和から近江へ通じる東山道であろうか。

  2. 宇治川に出た。漁師が仕掛けた網代木に淀む水をみて、人麿は自分の行く末がどうなるのかを嘆き歌う。これを見たのは後に平等院が建てられた付近のことであろうか。あるいは禅定寺越えをした後に現れる宇治川でのことなのか。

  3. 「みわの崎」は通説では和歌山県新宮市、または奈良県桜井市の三輪山の麓の渡しである。これは梅原さんにとっては苦しい。梅原さんは宇治川から瀬田川と名前が変わるのは配流先の曽束の地であるといわれる。ここには最近まで「渡し」があって対岸の山城国へ渡れたそうである。曽束が「みわの崎の狭野」であればよいのだが、これについては何も言っておられない。物語としては「渡し」があるところまでやってきた。まわりには家の一軒もないのに雨が激しく振ってきて苦しい。ということをこの歌で表現していると思われているのか。


  4. 琵琶湖に出た。当時の近江の国府は瀬田にあったので、流刑先の曽束を管轄する国府に出頭したのか。

    あるいは11世紀半ばの古書に、「柿本人丸。近江権守従三位・・」という言葉がある。梅原さんは位の高い者は「権守(ごんのかみ)」という位階に比べて低すぎる官職に落とされて流刑に処せられるといわれている。近江の権守であれば、国府に出向くのは当然だろうから、琵琶湖へ出る必要があった。

  5. は何を物語ろうとしているのか。シロートが解釈すると、むささびは、枝葉の茂みに潜んでいれば猟師に見つからないものを、遠くに飛び移りたいと思って木の梢の先まで駆け登る。そして猟師に見つかって撃たれてしまう。という意味か?

    人麿は流刑のこの地でなにかを画策し、これが露見したのだろうか。梅原さんによると、人麿は曽束に1年足らずいて、次は讃岐国の狭岑島(さみね)へ、さらに石見国の鴨島に流される。しだいに都から遠ざけられたのは、罪がそれだけ重くなったのであるといわれる。

猿丸神社は、ありふれた神社であった。唯一変っていたのは、神社を守るのは狛犬ではなくサルであることである。

このサルは烏帽子をかぶっている。古くても江戸の末期、新しければ明治以降のものではないかと推測する。

「奥山にもみじ・・・」の歌からか, 神社は周囲に紅葉の木を植林しようとしているようで、「紅葉植樹奉納のお願い」の貼り紙があった。1本5000円。

丸く竹垣で囲ってあるところが猿丸ゆかりの地であるという。猿丸とか蝉丸とか苗字がない人物はだいたいが伝説の人物である。

そうではあるが、その元は誰かがモデルになっていたはずである。梅原さんは、柿本人麿が配流されていたことから猿丸伝説がこの地に残ったと考えられている。

人麿は石見国の鴨島で生涯を終えるが、梅原さんは配流のすえ水死刑に処せられたのだとされる。辞世の歌は、

  鴨山の     岩根し枕(ま)ける
  われをかも   知らにと妹(いも)が
  待ちつつあらむ

である。いまや鴨山の岩を枕にして横たわる私だが、そうとは知らずに妻は私が帰ることを待っていることであろう。そういう意味か。この次が妻の衣羅娘子(よさみのをとめ)が歌った、

  けふけふと     わが待つ君は
  石川の       貝に交じりて
  ありといはずやも

である。今日戻ってくるか明日戻ってくるかと待っていたのに、あなたはすでに石川の貝とともにあるそうではありませんか。「貝に交じりて」は、人麿が海中に葬られ、口を開いた白い貝殻が堆積する海底に沈んでいるというイメージである。「水底の歌」の書名とされたのはそういうことである。


帰る。向うに見えるのは禅定寺集落である。万歩計は22500歩だった。





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