京都・醍醐寺

    No.63.....2008年7月5日(土曜)


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昨年の10月11月は井上靖さんの本を手当たり次第に読んだ。2か月で20数冊を読んだが、最も余韻を残したのは「星と祭り」であり、ついで「風濤」(ふうとう)だった。

その後、明恵上人に関係する本に関心が移り、その結果、和歌山県湯浅町と京都高山寺を訪れた。

末娘が誕生日に姉からウォークマンをプレゼントされて、喜んで使っているのだが、これはUSB端子から充電せねばならないしろものである。私のパソコンのUSB端子から充電していたが、USB端子がついた充電器があるはずだと思いあたって、アマゾンで探すとやはりあった。

900円そこそこの価格であったので、ついでに未読の井上靖の本があるかと探すと、「私の古寺巡礼」が見つかった。合わせて注文した。

「私の古寺巡礼」は井上さんが昵懇にされていた作家や文学者を指名して、1か寺について小文を書いてもらい、これをまとめたもので、京都@、京都A、奈良、諸国 の4巻からなる。

井上さん本人はどこを訪れているのかと目次を見ると、京都@では醍醐寺、京都Aでは高山寺である。採り上げられている醍醐寺には行ったことがない。

「京都建築マップ」で、醍醐寺の五重塔は京都市内で現存する最も古い建物であることを知って、いつかは訪れようと思っていたのだが、井上さんの小文を読んで急に行くことを決めた。


朝6:12の近鉄電車に乗り、大和八木で京都線に乗り換え、丹波橋で降り、京阪電車で中書島まで戻って、宇治線に乗り換える。

六地蔵は中書島から3つ目の駅である。私は24〜25才の2年間、伏見に住んでいた。醍醐寺は歩いてでもいける距離にあるのだが、若い時期は近くに見るべき宝物がゴロゴロあるのに気づかない。無知は罪である。

六地蔵には8:00ころに着いた。地下鉄に乗り換えて醍醐寺にいくつもりだったが、駅前に京阪バスの停留所があって、山科(やましな)行きのバスに乗れば醍醐寺前まで行けることがわかった。

道は細かった。広い道幅の箇所でしかバスとバスがすれ違えないところもある。

12〜3分で醍醐寺前に着いた。運賃は210円。白塀は三宝院(さんぼういん)。道は旧奈良街道であるという。

醍醐寺は、下醍醐と上醍醐の2つの寺院群で成っている。図は下醍醐の伽藍の配置であるが、この東(地図では上側)に醍醐山(深雪山)という標高450mの山があり、この山頂に開山堂・五大堂といった伽藍があって上醍醐と呼ばれている。

醍醐寺は、春は花見、秋は紅葉の名所である。観光客が来るのは下醍醐である。上醍醐は西国33か所観音巡礼の第11番札所である准胝堂(じゅんていどう)があるので、訪れるのは多少とも信仰心のある人間か、ハイカーである。(山頂へ行くには1時間の登山になる)。

醍醐寺は門跡寺院である。門跡寺院とは天皇・親王が入道して住職になる寺(宮門跡)のことだが、九条・近衛といった摂関家の子弟が住職になる摂家門跡もあるし、准門跡(じゅんもんぜき)とされる寺もある。

これまで見た寺では、仁和寺・大覚寺・青蓮院・妙法院・知恩院などは宮門跡、興福寺一乗院・大乗院は摂家門跡、西本願寺は准門跡であるらしい。

醍醐寺はもとは理源大師(聖宝。しょうぼう)が874年に醍醐山山頂に准胝堂・如意輪堂を創立したものである。醍醐天皇(在位897〜930年)はこれを祈願寺として大いに庇護するとともに、醍醐山山麓に伽藍を建て、ここに上醍醐と下醍醐の2つの伽藍群ができあがったという。

醍醐天皇の先帝(父親)の宇多天皇は仁和寺を作り、醍醐天皇に譲位したのち、出家して仁和寺に住んだ。これが門跡寺院の始まりである。よって仁和寺は寺格が最高の寺なのである。

醍醐天皇の時代は摂政・関白を置かず、天皇みずからがまつりごとをした(親政)ので、天皇が持つ権力・財力は平安期のピークであったといってよい。(平安末から鎌倉初期の院政時代(白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇)には天皇は無力であり、上皇に権力と富が集中した)だからこそ南朝の後醍醐天皇は、醍醐天皇に憧れ、追号を「後醍醐」とするように言い残したのだろう。

総門を入ると、正面遠くに西大門が見える。ここは桜の馬場と呼ばれ、両脇には桜木がずらりと植えてある。

醍醐天皇は父親の宇多天皇が仁和寺に入ったように、早く譲位して醍醐寺で入道したかったのだろうと思うが、病をえて朱雀天皇に譲位し、まもなく崩御する。

醍醐寺のすぐ近くに醍醐天皇陵がある。醍醐寺の名前からであろう、死後、醍醐天皇と呼ばれることになる。

醍醐天皇が法王となって、醍醐寺の住職になっていれば、仁和寺と同じ寺格を持つ宮家門跡となったのだろうが、代々の住職(座主)は摂関家からきたようである。(それでも醍醐寺五門跡と呼ばれる5つの門跡があるから、並の門跡寺院とは違うが)

桜の馬場の左側が三宝院(さんぼういん)である。もとは三宝院門跡が住んだところである。

8:30ころ。三宝院の門前では掃除をしている。自転車を押すおばさんは出勤してきたばかりと見受けられる。聞けば9:00から拝観できるという。

醍醐天皇が建てた下醍醐の伽藍は応仁の乱によって、五重塔を除いては創建当時の建物はことごとくが焼失し、寺は廃れに廃れていた。ここへ剛毅な救い主が現れる。豊臣秀吉である。

秀吉は晩年(1598年)、豊臣家だけが集って花見(醍醐の花見)をするのだが、このために醍醐寺の大整備をした。朽ち落ちそうであった五重塔を修理し、西大門を修理し(死後)、三宝院に書院を建て、唐門を作り(死後)、池を穿ち名石を集めて作庭し、桜の馬場を広げ、700本の桜を植え、金堂を移築(死後)したりして、現在ある醍醐寺の姿にしたのである。

拝観料は、三宝院が600円、奥の伽藍の拝観が600円。2つセットなら1000円。

入り口に「庭内の撮影禁止」と書いてある。建物内部の撮影禁止はよくあるが、庭も撮ってはいけないとは異常である。思わず受付で念を押してみたが、靴を脱ぐまでは撮ってもよいが、脱いだ瞬間から撮影禁止であるという。

写真は門を入ってすぐにある「大玄関」(重文)。写真が撮れたのはこれだけである。

大玄関から右手に広い廊下が伸び、勅使の間を含んで3部屋が並ぶ。各部屋には襖絵が描かれてあったが、かなり褪色している。

今日も一番のりである。観光客は私だけである。

廊下の突き当たりを右に折れると、写真左側の「泉殿」に出る(写真はパンフレット掲載のもの)。

泉殿の右手の長い建物は「表書院」(国宝)、奥の高い屋根の建物は「純浄観」(じゅんじょうかん。重文)である。この裏に本堂があった。表書院の裏に「奥宸殿」があるが内部には入れない。

建物のことごとくが国宝か重文であるためか、各建物には監視のおばさんが配置されている。3人のおばさんはまだ観光客がいないので、池の鯉に餌をやり始めた。

私は書院より一段高い図のL純浄観の縁側に立って見ていた。 表書院の欄干下に大池と繋がっている小池があって、ここから「ハナコー。のぼるぅー」と声をかけると、驚いたことに鯉が小池に集まってくる。おばさん達は勝手に鯉に名前をつけているらしい。

書院に降りていくと、板麩を1枚手渡された。「京都は豆腐や麩が名物やからなあ」というと、板麩の袋の裏を見て「山形県と書いてある」とおばさん。

書院は醍醐の花見の際に豊臣家の夫人たち(北政所、淀殿、京極殿ら)が衣装をあらためたところであるという。早く着替えができた側室らは、他の着替えがすむのを待つあいだに、あるいは鯉に餌を投げやったかとも想像できる。誰もいない書院で鯉に餌を与えるという思わぬ贅沢ができた。


三宝院を出ると、院の門とは別に唐門がある。秀吉が醍醐寺の整備を急いだのは、花見のためだけではなく、来年(1599年)に後陽成(ごようぜい)天皇の行幸が予定されていたためである。

唐門は秀吉が死んだ翌年(1599年)に作られた。門扉には秀吉の紋である五七の桐が、その両脇間には菊の紋が大きく浮き彫りにされてある。

秀吉が手がけた城や建物は異常に早く完工している。例えば1582年の本能寺の変のあとの山崎の戦いで明智光秀を破ったのは6月のことであったが、その翌年12月には大阪城ができている。おそらくは1年あまりで、未曾有の規模の城を作ったのである。

茶々(淀殿)のために作った淀城も1589年1月に着工し3月に完成しているし、隠居城として作った伏見城は1594年1月に着工し3月に完工するという早業である。 京都における秀吉の邸宅であり政庁でもあった聚楽第は、1586年2月に着工し9月に完成している。


秀吉亡き後、秀頼が建てたという西大門(仁王門)は修復中であった。

秀吉が居た伏見城から醍醐寺は近い。約5Kmの距離である。秀吉は1598年3月15日の花見の前に何度も醍醐寺を訪れて下検分をしている。

醍醐の花見は、伏見城から行列をなして寺にきたのかと思っていたが、違うようである。井上靖さんの「淀どの日記」によれば、当時秀頼と淀殿は京都の新邸に住んでいた。秀吉は伏見城を出て、京にいき、秀頼を加えて隊列をつくりなおし、山科を経て醍醐寺へやってきた。

道中、夫人がたは輿に乗った。1番の輿には北政所、2番は三条の局、3番は京極の局、4番目は秀吉と5才になる秀頼、5番が淀殿、6番が加賀の局だったという。輿のまわりに侍女と警護の武士がつき、ゆるゆると進んだのであろう。


工事中の仁王門をくぐると、桜の馬場とは違って、こんどは楓の並木である。向こうに金堂や五重塔がある。

三宝院に着くと、警護のものはいったん返され、夕方に迎えにくる手はずである。残ったのは秀吉・秀頼と正室・側室とその侍女たちで、ほとんどは女性であったろう。

夫人がたは三宝院で、この日のために新調した華美な衣装に着替え、仁王門に集まったと井上さんは書いておられる。

金堂。秀吉の命令により、秀吉の死後すぐに紀州湯浅にあった満願寺の本堂を移築したという。後白河法皇が建てた平安期の建物で、国宝である。

前々回訪れた湯浅の地名がでてくるし、前回訪れた高山寺について井上さんは書いておられるし、最近の3回のテクテクは不思議なつながりがある。

一行は醍醐寺座主の義演に先導されて、この金堂跡(花見のときには金堂はまだない)と五重塔のあいだを抜けて女人堂へ進んだ。


金堂の南に清龍宮本殿(せいりゅうぐう)がある(重文)。醍醐寺でもらったパンフレットによると11097年に上醍醐にある清龍宮から分祀され、現在の社殿は1517年に再建されたものだという。

醍醐寺の鎮守で、4月には桜会(さくらえ)という法要が本殿前で営まれるそうである。

秀吉の当時、すでに醍醐は桜の名所になっており、醍醐の花見の前の年に秀吉はわずかの取りまきとやってきて、観桜しているそうであるから、この本殿前の桜を見ていたに違いない。

このとき、来年は一族のために花見をすることを思い立ったという。


五重塔(国宝)。相輪の高さが全体の1/3を占めており姿のよい塔である。各層の屋根のソリが美しい。

930年に醍醐天皇が崩御され、次の朱雀天皇が菩提を弔うために、951年に建立したものであるという。室生寺の五重塔とともに平安期を代表する塔であり、京都市内で最も古い建築物でもある。

やはり寺には塔がなければ収まりがつかない。平安末期から鎌倉初期にかけて現れた禅宗や浄土宗・浄土真宗の寺には塔がないようである。塔があるのは奈良の南都六宗と平安初期に始まる密教の系統の寺院だけではなかろうか(不確か)。

奈良期までの塔は仏舎利を収めるためのものであり、密教においては両界曼荼羅を象徴する建物である。この五重塔の内部には諸仏諸尊が壁面いっぱいに描かれているそうである(当然のことながら公開されていない)。



いま書いていてようやくわかった。南禅寺、知恩院、西本願寺を訪れてその建物を見ても何かつまらない感じしか持たなかったのは、塔がないからである。

特に浄土宗・浄土真宗の寺は、大きな阿弥陀堂と御影堂があるだけで、大きな建物であればなにがしかの工夫があってもよいと思われるのに、ただでかいだけである。建物としては面白くない。

図は祖師堂。屋根は桟瓦葺き(さんがわら)であるからそう古い建物ではないようだが、正面は板唐戸、そのほかは蔀戸である。縁は高欄が取巻いている。

隣に大講堂がある。これは1930年に建立されたものだというが、古い様式を具えた美しい建物である。

中央の間が広く、脇の間は狭い。扉は桟唐戸(さんからと)で観音開きである。頭貫の上には出三斗(でみつど)の組み物で軒を支え、柱と柱の間(中備・なかぞなえ)は蟇股(かえるまた)が梁を支える。軒は深い。

ここにも縁に高欄がある。高欄があると、平安期の寝殿造りをつい連想するのであるが、あらためて醍醐寺の建物を思い出すと、三宝院の書院と純浄観、金堂、祖師堂、そしてこの大講堂に高欄がある。

どういうことであろうか、平安期の寺院には高欄が付き物なのであろうか。

興福寺の東金堂は、石の基壇の上に建つので縁はない。よって高欄もない。奈良期までの大寺は法隆寺・興福寺・薬師寺・東大寺などほとんどが基壇上に建っているので奈良期には高欄がある建物はないのではないか。
と思いながら、かつて訪れたことのある寺院から高欄があるものを探してみると、東大寺の法華堂(三月堂)にあった。これは天平年間(740年ころ)の建物であるという。写真の左側部分。(右側は礼堂で鎌倉期のもの)。

奈良期にも高欄つきの寺院はあったわけである。この程度の規模だと太い柱を立てる必要がなく、したがって基壇も不要なのだろう。

内部は板敷きではなく土間であった。ここに重そうな不空羂索観音(ふくうけんじゃく)を本尊として四天王・梵天・帝釈の像がまつられていたが、床が板張りではこうはいかない。重さに耐えられない。

室生寺の金堂は9世紀初頭の平安初期の建物である。やはり高欄があるが、手前の庇は後に付け加えたものというから、建立当時に高欄があったかどうかはわからない。

あったとしても懸造り(かけつくり)であるから、転落防止のために必要だったのかも知れない。東大寺二月堂や清水寺・長谷寺にも高欄がある。
当麻寺本堂は平安末期の1161年に建てられたものである。ここにも高欄がある。石の基壇ではなく、縁束の奥に白い亀腹(かめばら)が見える。

本堂は板張りで、中央に須弥壇があり、そこに厨子が置かれ、当麻曼荼羅図が収められている。

平安期に遣唐使が廃止されて和様化が進み、寝殿造りにみられるように、床は板張りになり、縁側が建物の周りに設けられ、ここに高欄がつけられた。ということであろう。基本的には高欄は平安期以降のものであろう。


大講堂の隣に弁天堂がある。さきほどから異臭がしていたが、弁天堂下にある池を浚えていたからであった。

大講堂と同じ1930年に建てられた弁天堂にも、むろん高欄がついている。

これで下醍醐のすべての伽藍を見た。

大講堂の前から東を見ると左右に山が見える。これから行く醍醐山は地図で見るとどうも右側の山のようである。左の山よりひと山遠くにあるようだ。

下醍醐の境内を出ると、上醍醐への道標があった。

西国33か所第11番霊場である准胝堂(じゅんていどう)までは2.2km、徒歩51分。やけに細かな所要時間が書かれている。山頂の開山堂へは2.6Km、徒歩60分とある。

今日はさいわい薄曇りでさほど暑くはないが、日中の最高気温は30度になるとテレビが言っていた。

醍醐寺のバス停前の酒屋でお茶(伊右衛門)のペットボトルを買っていたが、三宝院内にある売店で、水のペットボトルを追加して購入した。「伏水」とあった。灘では宮水を使うように、伏見の酒は伏水(ふしみず)を使って仕込むのである。「月桂冠」や「黄桜」は伏水を使っているはずである(?)。


女人堂。往時はこれより先は女人禁制であった。11番霊場には行きたくてもいけなかった。代わりに女人堂に祀られている不動明王を拝んで帰る。

男にとっては上醍醐への出発地であり、女にとっては下醍醐の終点がこの女人堂である。

秀吉の醍醐の花見においては、この女人禁制の結界域に女人が入ることを許された。ここから4〜500mほど先に、醍醐の花見のメイン会場があったからである。


上醍醐に向けて出発する。道はわずかに登り坂といった感じである。

醍醐寺境内を通り抜けてきた秀吉一家のうち、男は62才の秀吉と5才の秀頼しかいない。女は北政所(きたのまんどころ)を筆頭にして、主だった5人の側室と前田利家の妻のお松ら。ここへそれぞれの侍女たちがつき従っている。華美な衣裳をまとった女性群が、三々五々この道をそぞろに歩んだのであろう。あるいは桜よりもあでやかであったかも知れない。

当然のことながら、醍醐山に不審者が入り込まないようガードされていた。道から見えないところに多くの警固所が設けられ、武装した武士らが見回りをしていた。

ゆるやかな坂道となる。

この道の両側には竹垣がめぐらされてあり、竹垣がないところは幔幕が張ってあったと「淀どの日記」にある。老人と幼児と婦女子の一行である。片方が崖になっているところは、崖上からの落石防止あるいは崖下に転げ落ちないように竹垣を組んだのだろうか。

花見のために700本の桜木を植えたというから、この道の両脇にも元からある桜木に加えて、新たな桜木が植えられたのであろう。

秀吉は、4年前の1594年に吉野山で花見をしている。このときの参加者は豊臣秀次・徳川家康・前田利家・伊達政宗・宇喜多秀家らといった大名と茶人、連歌師らで、いわば社員旅行といった性格のものである。

このたびの花見は豊臣一家の家族旅行(ピクニック)である。 秀吉は、自分が各側室のいる大阪城や伏見城、あるいは京都の新邸を訪れ、どこかへ出かけるときも一人あるいは二人を連れていく(吉野の花見には加賀の局が同行している)、といったように秀吉対ひとりの側室の関係を持ち続けた。

だが今度ばかりは違った。初めて日頃なにかと対立する側室らを醍醐寺に集めた。秀吉は醍醐の花見の5か月後に大阪城で亡くなるのだが、あるいは死期を予感していたものか異例の行楽となった。

女人堂から花見のメイン会場までの道中には趣向をこらした8軒の茶店が設けられていたという。


「淀どの日記」には、『苔蒸した石橋の左に板庇の茶亭が出来ていた。増田少将の構えた茶亭であった。緋の衣を着て、萌黄の腰裳をゆるく結んだ増田の妻が迎いに出て、秀頼の手を取って茶店の中へ招じ入れた。』とある。

このあたりは道の勾配はまだゆるやかである。谷川といえるほどの流れはない。上図のような岩走る細流があるだけである。このような細流の上に石橋を架け、茶店を作ったのだろう。 めいめいの側室グループは、疲れると気のむくままに茶店で休憩した。

道には1丁ごとに丁石が立っている。「5丁」とある。准胝堂へは20丁あるというから、まだ1/4ほど来たに過ぎない。


「5丁」の丁石から、やや急な坂道になり、少し登ると平坦地があった。ロープが張られていて立ち入りができないようになっている。

案内板が立っている。ここは槍山(やりやま)という場所で、この平坦地は千畳敷と呼ばれている。ここに花見御殿を建て、めいめいが歌を詠んで、短冊にしたため桜の枝につりさげた。といったことが書かれていた。

写真の両側は落ち込んでいる。左側の下には登ってきた登山道があり、右側は谷間で大きく落ち込んでいる。この場所は醍醐山の尾根のひとつであるようだ。

しかしどう見ても、この平坦地は狭い。目測では60〜100坪程度である。しかも横幅が狭い。何十人何百人もの人間が入れる花見御殿を建てられるほどの広さではない。


吉野の花見での本陣は吉水神社(当時は吉水院という寺)であった。ここにある書院は南朝の後醍醐天皇の行在所であり、玉座もあったが、書院の一方は崖にせりだしているようで、崖の下には小さな川が流れていた。当時は何も思わなかったが、書院の崖側は懸造りであったのだろう。

同じように、花見御殿は右側の崖にせり出した懸造りだったのではなかろうか。そうならある程度奥行きのある建物が建つし、その御殿から右側の谷間に生えている桜が一望できる。

帰途、千畳敷のある尾根を意識して見ながら下ったが、この尾根はかなりの長さがあった。写真の場所からは奥行きがないように見えるが、尾根はゆっくりと低くなっている。勾配に合わせていくつかの観桜台を作ればかなりの人数が収容できたかと思う。

メイン会場の場所の狭さに首をひねっていたら、短パン姿の青年が登ってきた。格好からして近所に住む人のように見受けられた。ここが本当に千畳敷なのかを尋ねたら、「よく、そう(狭い)いわれます」とニコニコしながら答え、上醍醐を目指してスタスタと登っていった。

花見御殿は後に三宝院に移築され、先に行った純浄観(じゅんじょうかん)になったという。


「6丁」あたりから急坂になった。石段になる。

西国33か所のうちで、第11番札所の上醍醐寺への道が最も険しいといわれている。

吉野山の金峯山寺(きんぷせんじ)に行ったとき、山伏には、@南都六宗系、A天台宗系、B真言宗系、C金峯山寺、D葛城山系などの系列があるらしいことを知ったが、天台宗系の元締めは聖護院であり、真言宗系の元締めは醍醐寺である。

つまり上醍醐は修験者が修行する場所である。ほかの33か所霊場とは違う。山伏の寺なのである(実際に吉野山や大峰山のように山伏がいるのかどうかは知らないが)。

とはいいながら、急な石段を登るのはつらい。

「10丁」のところに「不動の滝」があって、休憩所が設けられていた。ここで初めてひと休みする。

この後、ここで休憩していた人たちと言葉を交わすようになった。「えらいですな。」「あとどれほどやろう?」といった程度であるが。


急坂は続く。ここからはほぼ1丁ごとにペットボトルの茶を飲んで一息つくことを繰り返す。

初老の女性がひとりで黙々と登っていて、一休みしているうちに追い抜かれ、途中で追い抜いて、腰を降ろしているうちにまた抜かれ、と何回か繰り返していたが、「そんなに急がなくても、足を一歩ずつ出していれば自然に着きますよ」と声かけてくれた。 私は「その一歩を持ち上げるのがエラくて」と情けないことをいっている。

「坊さんもこの山道を歩かねば上醍醐に行けないなら、大変ですなあ。それとも別に車道があるんやろか?」
「車道はあるけど、消防車のためのもので、普通は通れません。」
そんなことをいっているうちに「もうじき下り道になりますよ。」

おおそうか。元気を出して登るうちに「16丁」の丁石が立っていて道は平らになった。女性は「ここから少し下ったところから理源大師の開山堂が見えます。」といわれた。

突然に「理源大師」の名前が出たので、この人は上醍醐寺には何度も足を運んでおり、上醍醐について詳しいことを知った。

「16丁」から少し下ったところで醍醐山山頂が見えた。右の建物が開山堂で、左が如意輪堂である。

「私の古寺巡礼・京都@」で井上靖さんは、この場所に立って、次のように書かれている。

『城砦でも置かれているかのように、三つの伽藍が山の一番高いところに坐っているのである。正直に言って、驚きと言っていい気持ちであった。このとき、私はそれまで何となく頭に描いていた上の醍醐というものに対する認識を改めなければならない思いにさせられていた。』

井上さんは何度も何度も醍醐寺を訪れられているが、それは下醍醐ばかりであった。「淀どの日記」を執筆中に取材で初めて千畳敷まで登った、といわれている。「古寺巡礼」の執筆のために初めて上醍醐に来たときの驚きが、この文である。

下醍醐は三宝院に見るように貴族的な寺院である。下醍醐には車で乗り着けられるが、上醍醐には自らの足によって急坂を一歩一歩登らねばならない。 王朝風の門跡寺院と、山岳に籠もり修験する上醍醐寺とは違う。

「ああ、まだ先は長いな。」とつぶやくと、「遠そうに見えますが、准胝堂からは5分で着けますよ。」といわれる。

上醍醐の寺務所(の裏門)。くだんの女性はこの裏門を入っていかれた。上醍醐寺に関係する人であったようである。


裏門前にある20段ほどの石段を登ると、清龍宮拝殿(国宝)がある。妻入り(屋根の△があるほうが正面)かと思ったが、本殿は右側にあった(本殿は小さく新しかった)。

本殿が右にある以上、拝殿の正面は右側である。普通なら左側から拝殿に入り、右側の本殿に向かって拝礼するところだが、拝殿の左側は崖になっている。左側から入ることはできない。

本殿の建つ位置は重要な霊地であり、これを移動することはできない。そこで拝殿は崖の上にせり出す「懸造り」とし、変則的に妻側に入り口をつけたのだろう。

人が向かっている方向に「醍醐水」がある。

醍醐寺でもらったパンフレットによると、弘法大師・空海の孫弟子であるところの理源大師・聖宝が、『山岳信仰の霊山であった笠取山に登り、地主神である横尾明神から、こんこんと水が湧き出るこの山を譲りうけ、准胝・如意輪の両観音を刻み、山上に祀ったのが、醍醐寺の始まりである。』

湧き出る清水を飲んだ横尾明神は、「ああこれが醍醐の味である」と言い残して姿を消した。聖宝はこの山を醍醐山と名づけた。

醍醐水の石碑の上方に准胝堂(じゅんていどう)が見える。

菱格子の塀の中にあるお堂風の建物を覗くと、板壁の下方に中ぶりな石が積まれて、井戸のようになっていた。

不動の滝から先になったり後になったりして、声掛け合って登ってきた男性が、「ここにコップを置くと水が出てきますよ。」と教えてくれた。

お堂の右脇に祠に似た木製の装置があって、正面に小窓がある。小窓の中には、餅を焼く金網が据えてある。コーヒーの自販機のごときである。 どれどれと白いプラスチックのコップを金網に置いたのだが、水は出ない。

コップを置く場所が違うのかと別の場所に置いてみるが出ない。教えてくれた男性は「さっきは、いくらでも出たんだけどなあ」といいつつ、どこかにボタンか蛇口のバルブがあるのではないかと祠の周りを一周した。

金網がジャラッと音を立てるほど強くコップを置いたとき、醍醐水が出てきた。上品にそっと置いたのでは感知しないようである。醍醐水は横尾明神が嘆息したほどにおいしかった。なるほどダイゴ、ダイゴである。

醍醐水の祠を見下ろしながら石段を登ると准胝堂である。時計をみると11:20である。女人堂を10:00に出発したから1時間20分ほどかかった勘定になる。

第11番霊場である。テクテクを始めるまで、西国33か所という言葉は知らなかったが、いま数えてみると、@16番札所の清水寺、A24番札所の中山寺、B7番札所の岡寺、C8番札所の長谷寺、D9番札所の興福寺南円堂、E6番札所の壷坂寺、F18番札所の六角堂、G17番札所の六波羅蜜寺、そしてH11番札所の上醍醐寺、に行っている。

案外多く訪れている。

私は信仰心はないから、33か所の全部を訪れたいとも思わないし、全部の寺の朱印を集めるという癖もない。縁があれば訪ねるかというほどのものである。

今ある准胝堂はいつ建てられたものかは知らないが、その姿は端正である。

入母屋に庇がつく妻入り。庇に唐破風といった変な曲線を用いず、水平の軒が先でひょいと反っているのがよい。屋根は銅葺き。出入り口は両開きの板戸、窓は蔀戸。ここも醍醐寺風というか、気品がある建物である。

おばさんたちが、護符を貰うためか、朱印を押してもらうためか、うろうろしている。

はて、登山中にはこんな気楽な格好の人はいなかったはずだ。まるで観光バスに乗ってやってきたかのような感じである。たいていの人は女人堂前に立ててある杖を借りて、これで体を支え、大汗をかきながら急坂道を登ってきた。

准胝堂から先には五大堂・薬師堂・如意輪堂・開山堂がある。ここに通じる道の角に机が置かれていて修行中かと思われる若い坊さんが受付をしている。入山料600円を払えば先に行けるのである。

受付で運転手らしい帽子を被った中年男性と、腕章をつけた若い男性が先客でいて、「我々はせめて400円にしてもらえませんか?」と入山料を値切っている。若い坊さんはしかたなしに許諾すると、領収証をくれと帽子がいう。

坊さんは慣れない世俗の決まりごとを証するために、ボールペンで記入し始めたが、テキパキとはいかない。領収証をちぎるのにも手間取ってようやく私の番になった。


薬師堂(国宝)。醍醐天皇の御願によって建立されたものだが、平安期の1121年に再建されている。

檜皮葺きの入母屋造り。軒下の組み物は平三つ斗、中備(なかぞなえ)は間斗束(けんとづか)。外見には特別な特徴はない。

「日本建築様式史」(本田博太郎)によれば、『代表的な五間仏堂である。内部は土間で身舎(もや)と周囲の庇を区画した平面に特色がある』そうだが、その特色は外から見てもわからない。


五大堂。五大とは五大明王のことであるらしい。

醍醐天皇の御願によって907年に建立され、1606年に豊臣秀頼が再建したがそれも焼失した。秀頼が再建した様式を踏襲して1940年に再建された。と案内板にあった。

五大明王とは、@不動明王、A降三世夜叉明王、B軍荼利夜叉明王、C大威徳明王、D金剛夜叉明王 であるそうだ。



プロンズの像が3体ある。中央は理源大師・聖宝であろう。向かって右は役行者、左は弘法大師・空海だろう。

聖宝は頭に頭巾(ときん)、手には錫杖を持ち、鈴懸けの衣装と完全な山伏スタイルである。

役行者も右手に錫杖、左手には巻物であろうか。足には一本歯の高下駄を履いている。

弘法大師・空海は右手に三鈷杵(さんこしょ)、左手に数珠を持つ。

五大堂の下には休憩所があって、トイレがあり飲料水の自動販売機も置かれているのだが、ここへ10人単位の参拝者が集まってくる。休憩所の中を覗くと、例の運転手らしい男性も座っている。どうも近くまで観光バスがやってきているようである。

20丁の山道を登らなくても、安直に上醍醐に来れるルートがあるのではないか。


如意輪堂(重文)。1606年に秀頼が再建。

遠目にしかわからないが屋根は檜皮葺きであろう。妻入りで懸造り。当然に高欄がついている。



開山堂(重文)。同じく1606年に秀頼が再建する。

秀頼は1606年に、五大堂・如意輪堂・開山堂を一度に再建したわけである。

1600年、秀頼が7才のとき、関が原の戦いで西軍は破れ、豊臣は大阪を支配する65万石の一大名に成り下がった。しかし並みの大名と大いに違ったのは摂関家と同じ位の公家でもあったことである。

司馬さんの「豊臣家の人々」の「淀殿・その子」の章によると、1601年(8才)には従二位大納言になっている。家康は1603年まで大阪城に行き年賀の礼をとっている。

秀頼は1603年には内大臣になった。しかし同じ年に家康は征夷大将軍になる。



家康は1604年に秀頼が年賀挨拶に伏見城に来るように初めて要請する。立場は逆転したことを認めさせようとしたのである。しかし秀頼は出向かない。

1605年家康は将軍職を秀忠に譲り、秀頼に政権を戻すことはないことを明らかにする。

このとき秀頼は右大臣の位にあった。これより上は関白職だけである。もし秀頼が父の秀吉と同じ関白になればどうなるのか。関白は人臣最高の位であるが征夷大将軍は武士の棟梁の位でしかない。

そのとき両者が対立したならば、なんとか今の劣勢を跳ね返すことができるのではないか。 大阪方はそう思ったのか、あるいは神仏にこの状況が好転することを願ったのか。

とにかく司馬さんの言葉でいえば「物狂いのような宗教投資」が始まるのである。



「淀殿・その子」に、豊臣家が再建・修築した主だった社寺を掲げられてある。
  1. 京都・北野神社
  2. 出雲大社
  3. 鞍馬の毘沙門堂
  4. 河内・誉田八幡
  5. 東寺南大門
  6. 比叡山・横川中堂
  7. 三条曇華院
  8. 摂津・勝尾寺
  9. 大阪・四天王寺
  10. 醍醐寺仁王門
  11. 京都・南禅寺法堂
  12. 山城・岩清水八幡宮
  13. 大阪・生国魂神社
  14. 上醍醐寺の開山堂・五大堂・如意輪堂
などがそうであるという。吉野にいったとき、吉野水分神社も1604年に秀頼が再建していることを知っているので、数え上げればさらにさらに「物狂いの宗教投資」があったのであろう。



しまいには、秀吉が創り、1596年の慶長伏見大地震で崩壊した方広寺の再建に大金を注ぎ込み、梵鐘の銘文に難癖をつけられて、豊臣家は滅ぶことになる。

だが秀頼が再建した神社仏閣はすばらしいといえる。

(開山堂の1画面目)檜皮葺きの屋根。

(開山堂の2画面目)それを支える組み物の軽やかなこと。

(開山堂の3画面目)庇下の手挟(てばさみ)の彫刻。

(開山堂の4画面目。右図)庇を支える蟇股の彫刻。


開山堂の側面を見ると、柱と蔀戸がリズミカルに連続し、その上には組み物と中備が連続する。さらにその上には上下2本の梁をつなぐ支輪が並び、2段の垂木が細かく伸びる。その上は檜皮葺きの屋根である。

鋭くとがった軒は水平に伸び、最後にひょいと反り返って屋根が軽いことを表現する。

上醍醐に秀頼が再建した3つの伽藍はすべて重文であった(五大堂は焼失したので昭和に再建)。下醍醐寺の仁王門も重文である。三宝院の唐門にいたっては国宝である。

司馬さんが掲げられていない吉野水分神社(みくまり)でさえ、@本殿、A拝殿、B幣殿、C楼門、D回廊の5つが重文である。

徳川家康が京都に建てた寺で有名なものは、知恩院と南禅寺である。知恩院を徳川家の菩提寺としたが、ただの寺ではない。東山山麓に巨大な三門を建て、石垣を築いてその上に巨大な御影堂を建てた。いったんことあれば二条城を本城とし、知恩院を詰城の代わりにするためである。

南禅寺には家康のブレーンの金地院崇伝がいた。南禅寺は京都の諸寺を取り締まる役目を持っていた。どちらも政治目的のために作った寺である。家康のすることはケチくさい。後世に残した文化財という点では、豊臣秀頼は徳川家康を圧倒している。


開山堂では何かの催事があったようで、桐紋が入った幔幕が張られていた。醍醐山山頂には車は入れない。キャタピラーのついた運搬機で催事で使ったかと思われる品々を運び降ろしていた。

秀吉は築城の名人であったばかりでなく、どこで学んだのか歌も読めたし、茶にも通じ、作庭も得意としたようである。

司馬さんの「豊臣家の人々」の「八条宮」の章では、以下のようなことを書かれている。

関白になった翌年(1586年)、秀吉は正親町天皇の皇子である誠仁親王(さねひと)の子供の智仁親王(としひと)を願い出て猶子とした(猶子は養子と同じであるが養子と違って同居しなくてよいらしい)。

同じ年に誠仁親王が亡くなり、智仁親王の兄である周仁親王(かたひと)が正親町天皇から譲位されて後陽成天皇となる。 智仁親王は皇弟となった。後陽成天皇はまだ16才であり子供はいない。天皇に万が一のことがあれば、智仁親王が皇位に着く立場になった。


雨が降ってきたが、空は明るい。10分か20分で雨は上がるだろう。

1589年に淀殿は初めての子である鶴松を生む(2年後に死亡)。秀吉に世継ぎができたので、翌年1590年に皇室側の希望によって、智仁親王との猶子の縁組は解消された。智仁親王は宮廷に戻ることになった。

秀吉はなにかの形で親王に報いたいと思った。

秀吉は智仁親王のために新たな宮家を創設することを願い出て、八条宮家ができた。3000石を与え、邸宅を八条河原に建てた。このとき宮は14才である。

秀吉は宮の意見も取り入れて八条宮の邸宅の設計をし、普請にかかる。秀吉は当時小田原の北条征伐に出向いていたので、宮は何度か普請の現場に足を運んだという。

邸宅が完工した後、秀吉は庭の気にいらないところを指図して直した。八条宮はこのときから建築・作庭に興味を持ったようである。秀頼が大阪夏の陣で自刃した1615年に、宮は桂離宮を作った。

八条宮は3代将軍家光の在世中に亡くなった。ほどなくして家光はキンキラキンの日光東照宮を造るのであるが、桂離宮と東照宮を比べてみればその美意識の違いは歴然としている。桂離宮は秀吉の美意識が織り込まれているといってよい。



醍醐山山頂から南を望む。はるかかなたの連山は南山城の山々であろうか。手前の黒い山は宇治の山々であろうか。

写真右端に街がある。伏見の向島であると地元の人に聞いた。平安京ができた当時は巨椋池(おぐら)と呼ばれた湿地帯である。



これですべての上醍醐を見た。 下山には1時間弱かかったかと思う。

女人堂前の小さな休憩所で一息いれていたら、近所の老人が声をかけてきた。 この6月から上醍醐に入山するには600円を払わねばならなくなったことが不満であるようだ。信仰の地である准胝堂に行くために入山料を取るのはおかしい。といわれる。

聞くと、醍醐山の裏にゴルフ場があって、ゴルフ場に繋がる道を観光バスが通るようになった、観光バスの駐車場から醍醐山山頂まで徒歩10〜15分でいけるそうである。やはり上醍醐でみた気楽な格好の団体は観光バスできていたわけである。

バスを降りた観光客は開山堂・如意輪堂・五大堂までは無料で行ける。しかし肝心の第11番札所の准胝堂に行こうとすれば、准胝堂の一角にある受付で600円を支払わねばならない。


逆に下醍醐の女人堂から山道を登った人は准胝堂までは無料であるが、開山堂・如意輪堂・五大堂に行こうとすると、600円を支払わなければならない。

同老人は有料化した6月以来上醍醐に上ったことはないといっていたが、登山すれば11番札所の准胝堂は入山料はかからない。醍醐の水もタダで飲める。老人は誤解している。

バスに乗って京阪六地蔵駅まで戻った。プラットホームから山並みが見える。どれが醍醐山であろうか。

醍醐寺は格式ある門跡寺院であるが、秀吉・秀頼がいなければ今の姿はないことがよくわかった。今日の万歩計は21800歩だった。


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