京都・高山寺

    No.62.....2008年6月1日(日曜)


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明恵上人が後半生を過ごし、亡くなった高山寺を訪れる。

和歌山県湯浅町を訪ねたあと、その週末にでも高山寺にいきたかったのだが、2週続けて週末は雨だった。昨日土曜日も小雨となり3週の延期もやむをえぬかと思っていたところ、夜の天気予報では晴れるという。

日曜日は近所の公園の掃除(毎月10人ばかりでする)の当番に当たっていたのだが、高山寺行きを断念することがガマンできず、娘に代わりに掃除に行くように頼んで家を出た。

名張を朝6:12分の近鉄電車に乗って、7:50に京都についた。

山田守の京都タワーが天に向かって伸びている。

「日曜日の京都は人が多いやろな」と京都に住んでいたことのある娘がいったが、「朝早い時刻はひとはおらん。これまではだいたいが一番に入って気ずい気ままに見学できた。」と返して出てきたが、よく考えれば、高山寺は有名ではないか。

世界遺産に登録されている京都の17か寺の1つだそうだし、「女ひとり」が京都に来て訪ねる先は、@大原・三千院、A栂尾(とがのお)・高山寺、B嵐山(らんざん)・大覚寺、と決まっている(そういう歌があった)。案外に高山寺には人出が多いのかも知れない。

高山寺は栂尾にある。京都駅前からJRバスが出ていて、50分ほどで着くらしい。

バスの時刻表を見ると8:10発であった。だいたい1時間に2本の便がある。バス路線図を見ると「周山行き」か「栂尾行き」に乗ればよいようである。

並んでバスの到着を待っているうちに、後方に並ぶ客がどんどん増えてくる。ついには40〜50人ほどの列になった。いったいどこへ行こうとしているのか。

前に並んでいるハイカーの格好をした4人づれにどこまでいくのかを尋ねたら「周山」と答える。バスが周山行きなのだから、周山に登るのが当然であろうといったふうであった。

ふむ。ハイカー姿は山登りであるとして、幾人もの黒いスーツの男女が並んでいる。彼ら彼女らはどこへいくのだろうか。



50人ほどがバスに乗ったが、全員が席にすわれた。バスは地図のピンク色の道を走ったかと思う。西本願寺を見ながら七条堀川を西に向き→西本願寺の西の大宮通りを北上し→四条大宮にいく。ここでは阪急電車からの乗客が20人ほど待っていたがなんとかバスに入った。

千本通りに出てJR二条駅前で待つ乗客はわずかしか乗れず、大半が乗りそこねた。いったいこのバス路線はどうなっているのか。通勤ラッシュ並みである。運転手さんも客を乗せられなくてイライラしているのか車体を寄せてきた隣の車線の車に向かってクラクションを連発した。

京福電鉄の北野白梅町でも降車した乗客分しか乗れず、やはり積み残した。乗客はどこで降りるのかと見ていたら、立命館大学前で、あきらかに学生らしい若者らとともに黒スーツも下車した。校門に「東京消防庁・採用試験会場」と立て看板があった。

車内は一気にがらんとなる。

先ほどまで斜め前方の通路で押し合いへし合いされていた中年の女性が後ろの席にすわったので、「えらい人でしたな。」と声をかけると、「なにごとかと思いましたわ。試験があるんやね。」

「いやあ、高山寺はいつもこんなに賑わうんかとおもいましたわ。」「秋のシーズンでもこんなに混むことはありません。」

竜安寺でも仁和寺でも降車客はない。神護寺に行く人が高雄で降り、栂尾で高山寺に行く者が私のほかに1人降りた。

バスは乗降の時間がかかったわりには定刻に到着したらしく、9:00である。駐車場には観光バスが2台止まっている。すでに団体旅行客がやってきているか。

残った10人ほどの乗客を乗せて、バスは周山めざして去った。

車道の右に清滝川が流れているはずである。先に清滝川を見よう。

明恵上人は釈迦(仏陀)に憧れ、釈迦のように生きようと思い、釈迦に関わりのあるものを特に大切にし、身近な物や場所に釈迦にちなんだ名前をつけている。

この清滝川は「尼蓮禅河(にれんぜんが)」にたとえていたそうである。尼蓮禅河とはナイランジャナー川のことである。

釈迦が29才で出家し、6年間にわたって苦行をしたが、苦行によっては悟ることはできないことを知る。釈迦は苦行を捨てナイランジャナー川で身を洗い、河畔で村娘(スジャータという)から乳粥の供養を受ける。釈迦の痩せ衰えた身はたちまち回復し、体からは金色の光が出たという。

駐車場の隣に「高山寺裏参道」の木標がある。

回復した釈迦はナイランジャナー川を渡り、対岸のガヤーの地にある木の下で瞑想し、ついに悟りを得る(成道)のである。ガヤーの地はブッダガヤーと呼ばれるようになり、結跏趺坐する日陰の場所を提供したイチジクの木は菩提樹と呼ばれるようになる。

明恵にとって清滝川は釈迦におけるナイランジャナー川であったのだ。


坂道を3分も歩くと到着した。石垣に白壁は石水院(せきすい)であるらしい。

不吉なものが目にとまった。前方に立て看板があって、赤色の字でなにか書いてある。何かの工事をしているらしい。


石水院山門。1206年、明恵34才のとき後鳥羽上皇より栂尾の高山寺を賜る。

それまでは神護寺の別院の十無尽院(じゅうむじんいん)と称される寺があったのだが、この寺が荒れ果てていたので、神護寺の文覚(もんがく)が上奏して別所として公認してもらい、高山寺の名前とともに明恵に下賜されたということである。

文覚は明恵の叔父の上覚の師匠である。文覚はもとは西行と同じく北面の武士で、あやまって友人の妻を殺しために出家したといういわくがある。武士だけあって学問はなかったがエネルギッシュであった。

最澄・空海も住み、東の比叡山に対して京都の西を鎮護する神護寺が荒れ放題に荒れているのを見て、これを復興させようと決意する。

熱意のあまり後白河法王の宴席か歌会かなにかの席に乗り込んで勧進するが、あまりに無礼であったので捕えられて伊豆に流される。

しかし禍福はあざなえる縄のごとし、伊豆に配流されていた源頼朝に平家打倒の旗上げを勧め、頼朝は挙兵し、ついには鎌倉に幕府を開くことになる。

そういういきさつもあったためか神護寺は大層な寺として復活したようだ。






中へ入ると「いけない」。工事用の柵が並んでいる。どこを工事しているのか。まさか石水院ではあるまいな。

文覚は弟子の明恵を非常に高く評価していた。「伝記」は次のようにいう。
「文覚上人、常に人に逢いて仰せられけるは、『在世の舎利弗・目連らは証果の聖者なれば、三昧解脱戒、定恵の徳はさることにして、心の仏法におきて潔くけだかく優しきことは、明恵坊の心ばえに過ぎては、いかにおわしけんとも覚えず』と云々。」

文覚は、、釈迦の弟子のNo.1の舎利弗(しゃりほつ)やNo.2の目連(もくれん)は別格として、明恵ほど「潔くけだかく優し」い法師はいないと思っていたらしい。とにかく明恵を手許におきたかったようで、神護寺を出て湯浅の山間で修行していた明恵を呼び戻したこと再々であった。

明恵は一時は京に戻るが、修行ができないと紀州に帰ってしまう。明恵を京にとどめるには、修行ができる別所を与えるのがよいと思ったのか、おそらくは文覚のはたらきかけによって、明恵に高山寺を与えられたのかと思う。

石水院は工事のシートで覆われていた。がっかりだ。

高山寺は当初はまったく小さな庵からスタートした。伝記には、栂尾に住みはじめたころは「松柏茂り人跡絶え」ており、ここに草庵を結んで、明恵と伴の僧とただ二人で住んでいた、とある。

やがて明恵を慕う同行者が増えていく。「行状」「伝記」を残した喜海も初期の弟子である。

弟子が増えるにつれて寺は大きくなっていくのだが、この石水院は明恵がこの地にきてから10年後の1216年に、後鳥羽上皇の別院(学問所という)を移して建てられたものだという。当然に貴族風の様式をもつ建物であるはずだ。国宝である。

石水院建物とは別棟にある受付で600円を払って院内に入る。

受付の方が「修学旅行の生徒さんたちが来ると連絡があったので、早くご覧になられたほうがよいですよ。」

たぶん今日はじめての参観客であったためか受付の棟と石水院をつなぐ渡り廊下まで先導された。渡り廊下の下にある池を指差して「ここにモリアオガエルの卵がたくさんあるんですよ。」といわれ、受付に戻られた。モリアオガエルの成長を気にかけておられるらしい。

写真の左が池。右は石水院の西側の縁側だが縁板を取り替えるらしく、すべての板が取り除かれている。

誰もいない。暗い。 工事シートが一層暗くしている。だがこのシルエットはかえって建物の造作をあらわにしてくれる。

右からいえば、縁側の上方には蔀戸(しとみど)が引き上げられている。蔀戸は格子の木枠に裏板を貼り付けてあるのだが、その格子の筋が向こうに向かって伸びている。

蔀戸の左は板間である。床の板はまっ平らではなく凹凸があることがよくわかる。

向こうに菱格子の引き戸がある。その上には細かな装飾がつけられた蟇股(かえるまた)がある。菱格子や蟇股を透かして明りが入り、影絵をみるようである。

天井を見ると天井板を支える水平材は右方向に下がっている。おそらくは母屋(もや)から張り出された庇であろう。庇はだいたいが建物の正面にあって、その下は出入り口となっているから、この板間が正面であることになる。



フラッシュで撮る。客を迎えるかのように、手を合わせた童子の木像が配置されている。善財童子であると横に説明があった。

板間の左に部屋がある。左右は板壁のようであり、善財童子の後方は板の引き戸である。4枚の引き戸の中央の2枚が左右に引かれているらしい。

普通なら板間から引き戸を通って次の間に入るのだろうが、開口部の下に菱格子の仕切り、さらに竹を柱から柱に渡して出入りができないようにしてある。これは後に付け加えられたものだろう。



縁側を曲がって東側に行く。

板間より向こうに4本の柱が並び、蔀戸が外へ引き上げられている。その上の軒を支える垂木(たるき)は2段になっている。下にあるのが地垂木(ぢだるき)、上にあるのが飛檐垂木(ひえんたるき)。2段になっているので「二軒」(ふたのき)という(「日本建築のみかた」宮元健次)。

垂木が2段になっているということは、屋根は軒先に向かって角度が緩やかになり、反りがあるということだろう。(工事用シートですっぽりと覆われているために、石水院の外観を見ることはできないのである)

この部屋は清滝川に面していて、下は急な谷(やってきた道路もあるが)になっているはずだが、工事の鉄パイプがじゃまをする。ただシートは引き上げられているので、日が射している東側は先の板間のように暗くはない。



手前にカーペットが敷いてある間は、元は板間だったろう。その奥に3つの部屋があって、中央の間は左右の間の2倍の広さがある。

中央の間の入り口の上に扁額があって「日出先照高山之寺」とある。日は出て、まず高き山を照らす、という意味であろうか。もっとも先に日があたるのはこの高山寺であるということか。後鳥羽上皇の勅額であるという。

明恵は紀州時代は成弁(じょうべん)といったが、ここに来てから高弁と名を変えている。高山寺の「高」をとったのかも知れない。









メインの部屋の奥の左半分が床の間のようになっていて、ここに「明恵上人樹上座禅像」が掛けられていた。

私が得た明恵についての知識はほぼすべてが以下の
  1. 「名僧列伝(1〜4)」 紀野一義(講談社学術文庫)
  2. 「明恵上人」 白洲正子(講談社文芸文庫)
  3. 「明恵・夢を生きる」 河合隼雄(講談社+α文庫)
  4. 「法然対明恵」 町田宗鳳(講談社選書)
  5. 「明恵上人集」 久保田淳(校注)(岩波文庫)
本によるのだが、@からCの本の全部がこの樹上座禅像について書かれている。中でも白洲正子さんはこの絵のすべてを語られているかと思う。

「伝記」には、明恵は高山寺の裏山を楞伽山(りょうがせん)と名づけ、後ろの山に入り、木の下、石の上、木の洞、岩窟などで座禅をし、「すべて此の山の中に、面(おもて)の一尺ともある石に我が坐せぬはよもあらじ」と明恵が語ったとある。

絵はこのときのもので、弟子の成忍(じょうにん)の手によると伝わる。国宝であるが、写真は模写したもの。


絵を通して明恵上人の精神を述べることは私にはできないので、描かれていることのみを掲げると、
  1. 松林の中に二股にわかれた松の木があり、この上で墨染めの衣をつけた上人が座禅を組んでいる。

  2. 松の根元には脱いだ高下駄が揃えてある。その右横に松とは別の細い木がまっすぐに生えているが、その枝先に数珠と高炉が下げられてある。

  3. 上人の前に立つ松の幹には藤蔓が巻きつき、ほかの枝にも絡んでいる。

  4. 上人が座す松の木の前には大きな岩があり、背後にも岩がある。その後ろにも磐石があって小鳥が2羽飛んでいる。

  5. 明恵の顔は優しげである。これは親鸞や道元の肖像画と比べてもきわだっている。上人を左側から描いてあるので、若き日に切り捨てた右耳は描かれていない。




カーペットが敷かれた部屋には「仏眼仏母」(ぶつげんぶつも)の複製画がかかっていた。

湯浅の白上峰で修行中に、この仏画の前で念誦した後、剃刀で右耳を切リ落としたということは前回のテクテクでいった。

これも本物は国宝である。本物は京都国立博物館にあるらしい。


本間の右側の部屋には「鳥獣人物戯画」の複製が陳列されてある。

明恵上人を知ったのは恥ずかしながらつい2年ほど前である。それまでは京都の高山寺はこの「鳥獣人物戯画」を所有する寺であることだけしか知らなかった。

この絵は明恵の生存中にはなかったようである。高山寺にはもうひとつ国宝の絵がある。明恵が作らせた「華厳宗祖師絵伝」という6巻の絵巻物である。

鳥獣人物戯画を除く3点は明恵に関係する絵であるが、鳥獣人物戯画も明恵上人のお寺であるからという理由で、この高山寺に託されたものかも知れない。


「樹上座禅像」のある間の右隅に子犬の木像がある。運慶の作であるという。子犬は黒くなっているがツヤがあるのは、しじゅう撫でられていたためか。

明恵は苅藻島で拾った小石(蘇婆石(そばいし))や鷹島で拾った小石とともに、この子犬もかわいがったのであろう。

子犬の写真がうまく撮れていない(3枚とったが全部だめ)なのは、ケースにあたる光が反射しているせいだが、このときくだんの修学旅行の生徒らがドーッとやってきて焦ったからでもある。

それからの石水院は宿屋の状況になった。

男子生徒は縁側やカーペットの部屋に寝転がるし、女子生徒は鳥獣人物戯画に描かれた蛙をみて連想したのか、「蛙の歌が聞こえてくるよ・・・」の歌を合唱し始めた。輪唱されなかっただけましであるが。

聞けば千葉県の柏市の中学生であるらしい。中学の先生は完全に観光先の選定を誤っている。修学旅行なら金閣寺と清水寺、御所と二条城に行っておればよいのである。高山寺は中学生には程度が高すぎる。

携帯電話の初期CMで、白い犬が「おまえには、まだわからん」といっているではないか。(「おまえには、まだ早い」だったか?)

しかし私は怒っていたわけではない。どうせスケジュールどおりに行動するのだから、と待っていたら、思っていたよりも早く帰っていった。ガイドさんも引率の先生も、明恵上人や石水院や、ましてや「樹上座禅像」についての説明はいっさいしなかった。

生徒らがいなくなるのを待って、もういちど縁側を回る。 建物の正面だと思っている板間から外に向かって見ると、蟇股(かえるまた)の連続である。板間あるいはその奥の部屋から外をみると柱は両サイドを入れて5本ある。

庇を支える桁を支える柱の上には舟肘木(ふなひじき)が載っているが、中央の柱は舟肘木でなく蟇股で桁を支えている。柱と柱の中間にも蟇股があることや、蟇股が繊細な透かし彫りになっているのは、禅宗様式を取り入れているのであろう。

蔀戸のことである。窓とか出入り口の扉の仕組みは基本的には、
  1. 柱に板戸を蝶番(ちょうつがい)などで止めて左右に開くタイプ
  2. 上の梁などに板戸を蝶番(ちょうつがい)などで止めて上下に開くタイプ
  3. 引き戸
この3つだろう。@のタイプは現在でも使われている両開きのドアや窓である。扉を押せば左右に開く。開く力もそういらない。Bのタイプは障子やふすまである。これも建てつけがよければ開ける力はいらない。

疑問に思っていたのはAのタイプである。このタイプの開閉はやっかいそうである。蔀戸がそうだが、現在では見ることはない。上に開くのであるから、扉の重さの分だけ力がいる。

石水院の蔀戸は、半蔀(はじとみ)である。半蔀は扉を上下半分に分けて、上図のように上半分の扉を引き上げ、軒先から吊るした金具に引っ掛けて落下しないように止める。引き上げる力は全部の扉を上げる半分の力ですむ。

石水院はもとは住宅だから蔀戸は小さいのでなんとか引き上げることができるだろう。

図は法隆寺の聖霊院である。1枚だけ蔀戸が引き上げられて、軒先から吊るされた金具にひっかけて止めているのがよくわかる。このように大きな寺院の蔀戸はどうやって引き上げるのか。人の手は吊り金具まで届かないのではないか。

この疑問は、法隆寺で坊さんが蔀戸を引き上げているのを見て解けた。長い棒(専用の細工がしてあるのだと思う)を使って扉を押し上げ、金具にひっかけていた。

下部半分の扉は出入りの邪魔になるので取り外さなければならない(窓として使うなら取り外さなくてもよいが)。どうみても左右開きのタイプに比べて面倒である。

ところが平安期からこの蔀戸がメインに使われているのはどうしてか?

ずっと合点がいかなかったのだが、縁側に中学生が寝そべっているのを見ていて思い当たった。理由は2つあるかと思う(シロート考えである)
  1. 左右の開き戸の場合、90度開いたときは、扉が縁側に直角に出っ張るので縁側を通ることができなくなる。引き戸の場合はこの問題は起きない。

  2. 縁側を通るためには、左右の開き戸は180度に開かねばならない。そうなると扉は隣の開口部をふさぐことになるので、部屋一面の扉を開け放すことはできなくなる。引き戸はいつでも半分しか開かないので、全面を開放することはもともとできない。

縁側を通れて、全面すべてを開き放すことができるのは、上下に開く蔀戸タイプのものしかないのだ。

下半分の扉が取り外されて縁側の隅に置いてあった。

よく見ると柱の中間に四角い穴が掘ってある。上図の蔀戸の先の左右にはスライドする金具がついている。蔀戸を下ろしたら金具をスライドさせて柱の穴に入れて、扉が開かないように固定するのである。

取り外す下半分の扉を見ると格子の裏に同じようなスライドする金具があった。敷居の穴に扉を嵌め、扉の上部をスライド金具で固定するようだ。

千葉県柏市の中学生らのお陰で蔀戸の役目と仕組みがわかった。

善財童子の後ろの部屋の天井を見る。格天井(ごうてんじょう)である。

あれっ、光が漏れている。

ははあ、屋根を修復しているのか。

渡り廊下を渡って受付に戻る。その手前に記帳のための机が置いてあった。

石水院は柿葺き(こけらぶき)であるという。写真の板切れが「こけら」である。1枚千円でこけらが寄付できるという。

受付の方に申し込むと、「好きなことを書いてください。」ということである。先客はどんなことを書いているかと見ると、「家内安全」とか「みんなが幸せになれますように」とある。神社の絵馬と勘違いをしている。 私はひどい悪筆なので、墨は使わずにマジックペンで名前だけを書いた。

屋根の葺き替えは何年ごとにするのであろうか。50年か100年か。 長さ1尺・幅2寸(と思う)のこけらを何層にも重ねるのだろう。何10万枚かの「こけら」がいることであろう。わずか1枚のこけらだが、貧者の一灯という言葉もある。気分がよい。

石水院は、観光客が入ることができる高山寺唯一の建物であるが、仏をまつる場所ではなく、修行する場所でもない。見てきたように中には善財童子のほかには一体の仏像もなかったし、「仏眼仏母」は複製でしかもサイズは本物よりもかなり小さいのではないかと思われた。

寺である以上、金堂・講堂・塔・鐘楼・経蔵といった建物があって当然だが、明恵上人の時代のもので残っているのは石水院だけである。

これから高山寺にあるすべての建物を見るのだが、その数はわずかなものである。

行った順番は図のようになる。
  1. 石水院
  2. 開山堂
  3. 御廟
    金堂へ行く途中に仏足石があった。
  4. 金堂
赤色は現存しているものである。明恵の存命中の高山寺が描かれた絵図(1230年)が神護寺に残っている。その絵には図の青色の建物が描かれていた。

金堂を挟んで左から順にいうと、

@鎮守
A鐘楼
B塔(屋根が4層ある塔が描かれているが、正しくは三重塔か)
C金堂(本堂と書き込まれている)
D阿弥陀堂
E羅漢堂
F経蔵

鎮守は別にして6つの堂塔が山を背にして並んでいた。地図の等高線をみると、この6つの建物が山によって「コ」の字型に囲まれていただろうことがわかる。


山に向かって石段を登る。 左右は石垣が積まれている。

高山寺は華厳宗の道場の性格を持つ寺であった。明恵は当時の仏教界では最高の学僧でもあった。寺では華厳の注釈書を記述したり、講義をしたりしたのであろう。そこへ何十人かの弟子が集まっていた。これら石垣の上には僧坊が点々と建っていたのだろう。

吉川英治の「親鸞」に明恵について以下のようなくだりがある。

「この上人は、そこらにざらにあるいわゆる碩学とは断じてちがう。満身精神の人だった。学問の深さも並ぶ者がまずあるまいという人物だ。

(栂尾の上人がこういった)といえば、その一言は、思想界をうごかす力があった。しかも、明恵は、めったに言論を弄ぶような人ではなかった。自重して、深く晩節を持し、権力とか、名聞とか、そんなことに軽々しくうごく人でもなかった。」

その明恵が奮然、起ち上がって法然の浄土宗を攻撃した・・・という文をよんで、私ははじめて明恵を知ったわけである(オクテすぎて恥ずかしいことだが)。

開山堂。明恵上人をまつる。

江戸期に建てられたものだが重文である。江戸期のものにしては上品なのは、格子の蔀戸と禅宗様式の花頭窓、屋根が瓦葺きではないためか。

開山堂の隣に明恵上人の御廟がある。奥のお堂の中に墓石があるのであろう。白洲さんの本には五輪塔の写真があった。

五輪塔はだいたいが密教のものである。明恵は密教式に葬られたのか。師匠の文覚・上覚は神護寺にいたし、若いころは神護寺や仁和寺で学んでいたためか。

明恵にとっては、華厳であれ、密教であれ、浄土教であれ、釈迦に近づけるのであればどのような教義でも受け入れるべきものであった。

死ぬ年のことであろう、「伝記」は次のような遺戒(ゆいかい)を記している。(私が口語訳したので正しいかどうかわからないが)

私は長く諸仏菩薩を恃んで釈迦(如来)の本意を知りたいと願ってきたが、すでにこれを得た。皆には釈迦の本意、解脱への道を示したはずである。この志を全うしてほしい。如来の戒律を守り、精進して勤行してほしい。今の時代には正しい知識はない。もし自宗(華厳)で不明なところがあれば、禅宗のえらい僧に相談すればよい。宗派や人物にこだわってはならない。

そのあと「我は釈尊入滅の儀に任せて、右脇臥(うきょうが)の儀にて臨終すべし」といった。釈迦と同じ格好で死にたかったのである。

1232年1月19日、「その期近づきたり。」と右脇を下にして横臥し、胸に蓮華印(掌の付け根を合わせて指をひらけば蓮の花のようになる)を結んだ。右足はまっすぐ伸ばし、左足は少しひざを曲げて右足の上に置いた。

「面貌、歓喜の粧(よそお)い忽ちに顕れ、微咲(みしょう)を含み、安然として寂滅し給う。春秋60歳なり。」

これ以上はない死にかたである。

御廟の回りは石垣で囲ってあり、さらにその外側に木の柵があって観光客は木柵より内には入れないようにしてある。図の石の卒塔婆は木柵の内に立っているものである。明恵上人の歌が書いてある。

  山のはに   われも入りなむ
  月も入れ   よなよなごとに
  また友とせむ

前掲の「明恵上人集」から探すと、その前書きに「山のはに傾くを見おきて、峰の禅堂に至るとき」とあった。禅堂とは「禅堂院」のことであろうか。隣の開山堂のある場所に禅堂院があったという。ここは修行の場である。明恵が起居する建物は別の場所に建っていたろう。

明恵が自坊を出たとき月が山の端に傾いていた。禅堂院に入るときに月を見るとまさに山に入ろうとしていた。私はこれから院に入る。おまえも山に隠れろ。明日の夜も同じようにともに入ろう。そういう意味だろうか。

御廟から金堂に向かう。中央に見える祠には仏足石があったが省略する。祠の向うに小さく見えるのが金堂である。

先にもいったが高山寺にあった建物は多くが失われ、残っているのは@石水院、A開山堂、B金堂の3つで、C御廟をいれても4つである。高山寺の広い境内には失われた建物に替わって大きな杉の木が林立する。そのため日陰が多く、地面の多くは苔で覆われている。時間が早いせいで観光客の姿は遠くにちらほら見える程度である。音がない。杉や苔が音を吸収しているためか。

明恵は日本仏教史のなかで特異な存在である。だが明恵が特異なのではなく、日本の仏教が釈迦時代のそれとは大きくかけ離れてしまったために、釈迦の教えに忠実であろうとした明恵が際立って見えるのである。

金堂。室町期のもので重文。本尊は釈迦如来である。

正面は蔀戸、側面は遣戸(やりど。板戸に水平な桟が入る)。屋根は桧皮か柿葺き。和様の建物であるが、庇の下の軒柱には木鼻(きはな)が見えるのは禅宗様を取り入れている。

3つの建物は建てられた時代がそれぞれに異なるのに、和様を主として一部に禅宗様を取り入れ、建物のスタイルが統一されているのがよい。

これですべての建物を見た。まだ11:00になっていない。そこでひそかに思っていたことを実行することにした。それは裏山に登ることである。



金堂の右側。今は杉木立があるばかりだが、明恵の時代には阿弥陀堂・羅漢堂があった。

明恵が栂尾に来た当初の高山寺には寺らしい建物はなかった。それが弟子が増えるにつれて坊が建ちはじめ、明恵自身の修行ができづらくなった。

10年ほど後の1215年(43才)に「栂尾の西峯の上に一宇の庵室を構えて練若台(れんにゃだい)と号」し、ここに3年間逼塞するのである。

また1225年(53才)のとき「この山寺の後に三町計り去りて一の峯を占めて楞伽山(りょうがせん)と名づ」け、ここに2つの草庵を建てて修行する。そのときの様子が石水院でみた「明恵上人樹上座禅像」に描かれている。




阿弥陀堂・羅漢堂の先のやや奥まった位置に、往時は経堂があった。今は経堂への石段が残るだけで、例によって経堂に代って杉木立となっている。この経堂が石水院で、明治になって今の場所に移築されたという。

「樹上座禅像」に描かれている場所を見たかった。石水院を出るときに、受付の方に

「楞伽山に行けますか?」と訪ねたら、

「今は道が無くなっていて行くことはできません。でも登山者が寺に降りてきているので、ほかに道があるのかも知れません。」

前掲の白洲正子さんの本に楞伽山に登られたことが書いてあるが、40年前のことである。今では修行した草庵跡への道はないらしい。しかしハイカーが裏山を歩いているのだから登山用の道があるのであろう。







大問題は裏山の場所である。先に掲げた地図の一部を再掲すると、西側の山は「コ」の字型に高山寺を囲っている。草庵を構える場所は尾根近くであろう。湯浅の草庵も白上峯の山頂近くにあった。

とするならば図の(A),(B),(C)のどれかであろう。「練若台」は伝記が「栂尾の西峯の上」と記述しているので、(C)あるいは(A)かも知れない。だが「楞伽山」は「この山寺の後に三町」とあって方角は記していない。(A)(B)(C)のどれにも当てはまる。
金堂の左側。大きな杉が立っている。この右の位置に三重塔があったであろう。

笠置寺の解脱上人(貞慶)からもらった2粒の仏舎利を、明恵はそれは大切にして、三重塔に収めていたのである。
さらに左を見ると、平坦地があってやはり杉が植えられている。この場所に鐘楼や鎮守(春日大社から勧請したものと思う)があったに違いない。
鎮守があったろう場所に行くと小道があって、山に登れるようである。

白洲さんの本には、

「楞伽山には庵室の跡がいくつかあり、登って行くのは大変ですが、何れも景色のいい場所で、「樹上座禅像」に見られるような、赤松の林を通して、遠く嵐山の方まで望めます。」とか、

「美しい歯朶の茂みの中に、例の石塔婆が点々と立っています。」とある。

@赤松の林がある。Aシダが茂っている。それから「樹上座禅像」には大きな岩がいくつも描かれているから、B岩がたくさんある。

この道を登って、そういう場所にいけるのかどうかである。

だが行けども行けども杉木立である。赤松はない。岩もない。

とうとうこんなに高い位置まで登ってしまった。

コンパスを持っていないから、太陽の位置をあてにするしかないが、向こうの山は東になる。

遠くの方角はだいたいわかるのだが、足下にあるだろう高山寺はどの方角にあるのかはわからない。

「伝記」では、楞伽山にあった草庵は、寺から3丁登ったところにあったのである。だが感じでいうと最低でも10丁くらいは登ってきたはずである。

「伝記」を読み直してみたが、やはり「三町」とある。どうやらこの峯ではないらしい。下ることにした。

ただし途中で来た山道とは別の山道に進んだ。

何のためか、平たい鍋が吊るしてある。まわりは杉ばかりである。

平坦地があった。しかも崩れた石垣がある。畑にする広さではないからなんらかの建物があったに違いない。

だが白洲さんがいわれている石塔婆は立っていないし、シダも生えていない。赤松もない。岩もない。

オートバイの音が聞こえた。見下ろすとすぐそこに橋があった。バスで通ってきた白雲橋だろう。

これでは金堂のある場所のほうがよほど静かである。ここではないことが確実となった。

バス道へ下ると、高山寺の表参道の入り口が近くにあった。

ここが寺への正式な道である。山門はないが大きな石に「栂尾山 高山寺」と趣のある字が彫ってある。「鉄斎百練書」とその横にある。

正式な道を通って寺に戻ることにする。

道はまっすぐ金堂に向かっている。左右にあるのは杉と石垣と苔だけである。

前掲の町田宗鳳さんの「法然と明恵」は法然の他力(専修念仏)と明恵の自力(聖道門)を対比されているので、両者の思想や生きかたの違いが明快である。

釈迦が入滅すると、釈迦の教えはたちまちにして乱れていく。そこで釈迦十大弟子のうちの二人である阿南(アーナンダ)と優婆離(ウパーリ)は大勢の弟子たちを結集し、阿南は「私はこのように聞いた」と教法について話し、優婆離は戒律について話して、釈迦の教えを統一する。

だが100年たつころに戒律は乱れ、釈迦のいったことだけが正しいとする上座部と在家信者を基盤とするために戒律をゆるくした大衆部に分裂する。この後それぞれの部は幹から枝が出て、枝から枝に分かれるようにして次々に分化していく。

再び御廟前の石段まで戻った。朝きたとき、この横に山道があることを知っていた。この道が(B)地点にいけるかどうかを試みる。

上座部の仏教は主に南方(スリランカ・タイ・ミャンマー・カンボジア)に伝わり、大衆部の仏教はチベット・西域を経て中国に伝わる。この過程で釈迦仏を超える多くの仏(弥勒・阿弥陀・薬師・毘慮舎那)が生まれ、経典も84000といわれるように膨大な量に膨らむ。 これら膨大な経典の一部が中国から朝鮮をへて日本へと伝わった。

釈迦の菩提成道へのシステムの根本は「戒・定・慧」である。戒律を守り、禅定・瞑想によって精神を集中し、法にのっとって知恵をえるのである。

日本に伝わった仏教は大衆部から発展した大乗仏教であったから、戒律はさほどうるさくなく、仏の慈悲による救済がメインになっていた。そのいきついた先が法然の専修念仏である。

明恵にとって、釈迦は仏であり父である。華厳や真言あるいは禅を学んだがこれは「慧」の部分であろう。行動は釈迦の教えのとおりに「戒・定」に専念した。それでこそ自力で菩提成道できる。

よって明恵は、世間のしがらみにとらわれたくなかった。執権北条泰時は明恵に深く信服していた。丹波国のある庄を高山寺に寄進したいと申し入れるがこれを断る。建仁寺の栄西が臨済宗を継いでくれといってきても断る。明恵にとっては持戒し、深山で禅定に入ることが最重要なことであった。

まわりの様子は先ほどの(A)(C)への山道と同じである。ところどころに岩が出ているが、上に登る道はない。上に登らない限り楞伽山の草庵跡へ行けないのである。

意とは逆に道は少しずつ下がっていき、ついには小さな渓流に出た。道は向こうに続いているが、渓流を渡ると別の峰になる。 楞伽山行きは断念する。

「我は後生資(たす)からんとは申さず。ただ現世に有るべきようにて有らんと申すなり。・・・後生ばかり資(たす)かれと説かれたる聖教は無きなり。」 来世で助かろうとは思わない。現世であるべきようにありたいと思う。「あるべきよう」とは明恵においては持戒と禅定であった。南無阿弥陀仏と唱えて来世で救われるというような経典はないのである(それは法然の独創なので、ないに違いない)。

伝記にはないが「行状」には、明恵の臨終に、

「われ、戒を護(まも)る中より来る。」

という言葉を残したとあるようだ。私は生涯、戒律を守ってここまできた、と言い切ったのである。この僧は日本の仏教史上で最高の生きかたをしたと思う。

12:40ころである。時間があるので近くの神護寺まで歩こうかと思ったがやめた。「明恵上人樹上座禅像」(複製だが)を見ただけで十分ではないか、これ以上のものを見てもうるさいだけではないか。

13:10ころの京都駅行きのバスに乗った。車内は空いていたが、仁和寺からは多勢が乗り込んだ。

14:00ころ京都駅に着いた。近鉄京都駅で名張行きの直通の切符を頼んだら14:50発の電車だった。時間があったので食事をしようとしたが、どこも満員であった。

ちらし寿司とチューハイ・ビール・リザーブの水割りを合計5缶買って帰りの車内で昼飯にすることにした。公園の掃除を代ってもらったので娘らにお土産も買った。

「伝記」に、上人が病に倒れ食事が細くなったとき、医者が弟子に、酒を暖めて少しずつ飲ませなさいと勧めた。上人は「飲酒戒をば犯すべからず。特に酒は二百五十戒のなかより十戒にすぐり、十戒の中より五戒にすぐりたる、その随一なり」ときつく戒めたとある。

毎晩晩酌して酔っ払っている私は、随一の破戒者であるのか。さびしい。

みやげは鶴屋吉信の「柚餅」を買ってきた。この菓子はどこかを訪ねるときの手みやげにすると決めて20年になる。関西ならどこでも売っているし、軽いし、第一誰もが喜ぶからである。

包装紙を開くと、

 益精 養気
 八十翁 鉄斎

と書いてある。富岡鉄斎が80才のとき、鶴屋吉信の主人に頼まれて書いたようである。先の高山寺の揮毫も鉄斎によるものだった。京都人は鉄斎が好きですな。まあ鉄斎も京都人だからそういうものか。

今日の万歩計は16400歩だった。


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