和歌山県湯浅町

    No.61.....2008年5月17日(土曜)


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紀伊半島はリアス式海岸で入り江が多い。

入り江を挟む岬、入り江の奥の渚や岩場、遠く広がる静かな海、そこに点在する小島。これら3つ4つの情景を組み合わせると、リアス式海岸の風景が美しくないはずがない。

和歌山県有田郡湯浅町は、その入り江のひとつに面する人口1万4000人ほどの小さな町である。温州みかんと醤油の発祥の地だと町役場のHPに紹介されている。

地図的にいえば、和歌山市から海沿いに南下すると海南市→有田市→湯浅町→由良町→日高町→御坊市→白浜町→串本町になるのだが、私は和歌山市より先へは行ったことがない。

湯浅町を訪れたいと思ったのは、この入り江(湯浅湾)の中に苅藻島(かるもじま)・鷹島(たかしま)と呼ばれる島が浮かんでいるらしいのだが、この島々を強く見たいと思ったからである。

だが私の住む三重県名張市から湯浅町は遠い。調べてみると、近鉄電車(大阪線)で1時間かけて大阪に出て、南海電車かJR阪和線で和歌山市にいくのに1時間少しかかる。ここでJR紀勢線に乗り換えて50分ほどで湯浅に着く。うまく乗り継げると3時間20分、下手をすると4時間を要することがわかった。


早朝5:58の近鉄電車に乗り大阪・天王寺駅についたのが7:20ころ。ここでJR阪和線に乗り換える。

列車の方向からして右側の座席に座れば海が見えるはずだと席を定め、先ほど買ったパンと牛乳で朝食とする。食べ終わるころ発車した。

土曜日の早朝のことなので乗車客は少ないかと思っていたが、通学の生徒が頻繁に乗り降りをする。関西は私学が多く、土曜日でも授業をする学校が多いからである。

電車は大和川を渡って堺市に入り、鳳(おおとり)を過ぎ、泉府中(和泉市)、貝塚(岸和田市)、熊取(熊取町)を過ぎても乗車客は減らない。私は阪和線に乗って最も遠くまできたのは熊取(くまとり)までであるので、ここからは初めて見る景色になる。

だが次の日根野(ひねの)駅で乗客の2/3が下車した。ここから関空を結ぶJR関西空港線が分岐しているらしい。




和歌山駅で紀勢線に乗り換える。昨年6月に奈良法隆寺を訪ねて以来のテクテクである。ここまで2時間半ほど座っていたので、早くも尻が痛い。尻の肉が減ったのか、筋肉が細くなって背骨に負担がかかっているのか。

最短時間で帰れる電車の時刻に合わせて訪問先を欲張らないようにしよう、と早くも帰り道のことを考える。

海が見える。写真は箕島(有田市)の手前の初島の沖だと思う。 このあたりはまだ瀬戸内海であろうか。(上の地図を見ると、湯浅の南の日ノ御崎と四国の阿南市の蒲生田岬の先にある伊島との間に「紀伊水道」とあるので、ここより北は瀬戸内海、南は太平洋ということになるのではないか。(不確か)

9:26に湯浅駅に着いた。駅前には土産物店(主に味噌)・駅前食堂・喫茶店・酒屋、あとはタクシー会社があるばかりである。商店街はない。

これから目指すのは栖原(すはら)という字(あざ)である。そこには施無畏寺(せむいじ)という明恵上人(みょうえ)が開創した寺があり、その背後に白上(しらかみ)と呼ばれる峰がある。若き日の明恵上人が、庵を建て、岩に座して修行をした場所である。

白上から栖原の海岸方向を見ると、苅藻島・鷹島・黒島といった島々が見えるという。そのためには、今日の天候は晴れ、澄み切っていなければならないのだが、湯浅の空は水蒸気が多く、遠くの山は霞んで見える。

初めての土地へ来るのであるから、地図は大雑把なものと、道がわかるほど詳細なものと、4種類を用意していたのだが、歩き始めると地図に描いてある道路と目の前にある道が結びつかない。

この道は熊野古道である。地図では広く描いてあったので、初めはこの細い道が辿るべき道だとは思えなかったのだが、電柱に取り付けられた街灯はややおしゃれなデザインである。

ここは商店街ではないから商店街組合が設置したものではない。湯浅町が力をいれて整備した道(すなわち熊野古道)であろうと判断して、向こう(北)に向かって歩く。


石の道標があった。「右 いせ かうや」とある。直行する道は伊勢・高野山へ繋がる道であるらしい。

進んできた道は「→ きみゐてら」とある。おおそうか、この地は高野山金剛峰寺、さらにその先の伊勢神宮へ通じ、熊野三山にも紀三井寺にも通じているのか。

紀伊半島をおおよそ菱形であると簡略化すれば、@東の角に伊勢があり、A南に熊野・新宮・那智があり、B西の突端に紀三井寺があり、C菱形の中央に高野山がある(北には菱型の先端はないが、奈良あるいは京都が北の先端に当たる)。この道は菱形の角々にある聖地・霊地を結ぶあっぱれな道であることになる。

熊野古道を挟む地域は湯浅の地名では「道町」と呼ばれている。湯浅町のHPに、残っている熊野古道で市街地を通っているのは湯浅町だけであると紹介されていた。

「蟻の熊野詣で」といわれた鎌倉末から室町期にかけては熊野詣での旅人で、江戸期には伊勢参りで賑わった街道筋であったろうと想像する。

一遍上人が遊行を始めた初期のころ(1274年)、四天王寺から熊野へ詣でている。このときある衝撃的な事態に出くわしたが、その夜、熊野権現の神示によって「正覚を成就」したことが「一遍聖絵」にでてくる。

絵巻の見せ場の1つである。音楽でいえば「提示部」というか、一遍の真の遊行がここから始まるといってよい。

熊野は一遍のターニングポイントとなった地であるが、熊野に向かう道中で、一遍はこの湯浅の熊野古道を辿ったに違いない。一遍上人も歩いた道である。



道町を北進すると山田川に突き当たるのだが、1本手前で右に折れた。

この道は「北町通り」と呼ばれ、醤油・味噌のメーカーが軒を連ねていたという。湯浅町のHPに「湯浅は醤油の発祥の地である」とも紹介してあった。

なぜ醤油がこの地で生まれたのか?であるが、それは鎌倉期の禅僧、法灯国師・心地覚心(しんじかくしん)が湯浅の南隣りの由良の地にある西方寺(今は興国寺)にやってきて、宋の径山寺(きんざんじ)で学んだ味噌・醤油の製法を伝えたからであるという。


熊野本宮にて悟った一遍はその帰りに由良の法灯国師を訪ねている。その後も由良にやってきては国師から禅的な精神を学んだようである(紀野一義さんが「名僧列伝(4)」の「一遍」の章で書かれていた )。

径山寺味噌が、隣村の湯浅で製造されるようになったのは、湯浅のほうが由良よりも人口が多く商業がやりやすかったためだろうか。

ともかく日本の食生活では不可欠な味噌・醤油の発祥地という名誉ある町になったのであるが、今では大店はないようだ。

工場で作る味噌・醤油に押されてしまったのか、「角長醤油」というメーカーが目に付いたくらいである。




北町通りを北に折れると、川に突き当たった。

山田川の河口。海に近い。今は引き潮の時刻なのか、水面は低い。

漁船あるいは渡船が繋留してある。湯浅の特産物は、@魚、Aみかん、B味噌・醤油であるらしい。湯浅町のHPに、湯浅湾はアジ・サバ・シラスの宝庫であるとある。

春先になると神戸の義姉が「いかなご」を佃煮にして送ってくれる。今年も頂戴した。シラスもだいたいその時期に獲れるのではないか。帰りに時間の余裕があって「シラスご飯定食」といったものがあれば食べて帰ろうと「決心」する。

山田川の向こうに岩肌が露わになっている小山がある。

地図(次図)をみると左が海で、海に向かって岬が伸びている。岬は「端崎」と呼ばれているらしい(ハシサキなのかハザキなのかは知らない。土地の人に聞いても知らなかった)。

(A)の駅から赤色線を歩いて、現在は(B)の地点にいる。これから「端崎」へ伸びる小高い小山を超えて、(E)の施無畏寺に向かう。

(向こうの岩壁は地図の(K)である)



山田川に架かる北橋を渡ると山間の道となる。先にみた岩壁の山を越えるのかと覚悟していたが、小山と小山の低いところを切り通してあるので、道は緩やかである。しかもきちんと舗装されているのでラクラクと越せた。


地図(C)のあたり。ここはすでに栖原(すはら)地区であるらしい。みかん畑の中を道が通っている。

切り通しの大きな道をそのまま進めば、道に迷うおそれはなかったのだが、悪い癖で小道を選んで進んだ。途中でわからなくなって、土地の人に地図を差し出して現在地を尋ねた。「この地図の見方がよくわからない」といいつつ、今いる場所を指で示されたが、ここまでかかった時間や距離からして、指摘された位置は間違っているように思われた。

まあ、いざとなれば海に向かって進めば海沿いの道に出るから、迷うはずはない。現在地は不明ながら、みかん畑に沿って歩く。


湯浅は「温州みかん」の本場であるが、もうひとつ「三宝柑」(さんぽうかん)という柑橘類も有名であるらしい。「町の花」は三宝柑の花であるという。 その三宝柑の白い花が咲いている。

それにしても「三宝柑」とはたいそうな名前ですな。三宝とは仏・法・僧のことであろう。釈迦(仏)がブッダガヤで悟りを得て、サルナートにいる5人(かつての修行仲間)に(法)を説いたのを「初転法輪」という。5人の仲間はすぐに釈迦に帰依して比丘(僧)になる。ここに仏・法・僧が揃い、仏教が始まるのである。

みかんの変種に「三宝柑」と名づけたのは湯浅の坊さんであろうか。残念なことに「三宝柑」をそれと知って食べたことはないのだが、おそらくは、すっぱさがあり、苦味もあり、甘いがすっきりしたあと口であるのだろう。この3つの味をもってホトケの味であると思ったのか、と勝手に想像する。


海が見えた。地図の(D)地点である。

向こうの岬は「霧崎」であろう。さすれば入り江は栖原海岸である。


道から浜辺に下りた。砂浜である。夏は海水浴場になるらしい。

道に戻る。道は二手に分かれている。右側が施無畏寺への道である。石標が2本立っている。

1本は道標で、「右 明恵上人開基之地 施無畏寺」とあり、側面には「左 須佐明神××」とある。

おそらくは元はこの場所に立てられていたものではなく、道が二手に分岐する場所にあったのだろう。右の道を登れば施無畏寺へ、左の道(今は車道)を進めば須佐明神へ、を示していたはずだ。

今ひとつの石標には「史蹟 明恵上人 東白上 西白上 遺蹟 従是七丁」とある。ようやく着いた。

「ようやく」というのは今年になってから、明恵上人ゆかりのこの地を訪れたいと強く思っていたのだが、仕事の都合や天候の具合から、今日まで願いがかなわなかったためである。

写真は施無畏寺への道。ゆるやかな坂道である。

平安末期から鎌倉期にかけて日本の仏教史上に名を残す宗教家が現れる。それも異常といってもよいくらいに次々に名僧が生まれた。


新しい仏教としては@法然、A親鸞、B日蓮、禅ではC栄西、D道元、旧仏教では、E明恵、F貞慶(解脱上人)、G西大寺の叡尊、Hその弟子の忍性。

明恵上人は1173年に生まれ1232年に60才で亡くなるのだが、その同じ時期に同じ空気を吸って生きていた著名な宗教家が以上の僧である。このほかに天台座主で「愚管抄」を著したI慈円、東大寺を再建したJ重源もいる。(先にいった一遍は明恵が亡くなって7年後に生まれているので、時代を共有していない)。

写真は施無畏寺の本坊のようである。人が生活しているような雰囲気がある。


掲げた11人の僧についてはわずかの知識しか持っていないが、好みというかシンパシーを感じるのは明恵上人が第一番である。たぶん日本の仏教徒のなかでは、最も釈迦に近づいた人ではないかと思っている。

施無畏寺からは湯浅湾を眺望できる。写真(次図)は南西方向を向いた眺めである。




沖の中心に茶色い双コブの小島(岩)があるが、これは「毛無島」。「毛無し」というのだから草木が生えていない岩礁なのだろう。

毛無島の右側に、とんがった小島と平たい小島がくっついているように見えるのが「苅藻島」(かるも)。毛無しの左側手前の島が「鷹島」、その向こうのやや霞んだ大きな島が「黒島」である。



施無畏寺の山門を出ると、さらに山へ続く道があって、進むと木立の奥に甍が見えた。施無畏寺の本堂であるらしい。

昨年暮れから今年にかけて明恵上人についての本を読んだ。
  1. 「名僧列伝(1〜4)」 紀野一義(講談社学術文庫)
  2. 「明恵上人」 白洲正子(講談社文芸文庫)
  3. 「明恵・夢を生きる」 河合隼雄(講談社+α文庫)
  4. 「法然対明恵」 町田宗鳳(講談社選書)
  5. 「明恵上人集」 久保田淳(校注)(岩波文庫)
明恵については多くのエピソードが伝えられている。@からCの本にもそれぞれの著者がエピソードを紹介されているが、かなりの部分がダブっている。



著者がめいめいに同じエピソードに共感されたからであるが、そのエピソードは明恵の弟子の喜海(きかい)が残した「栂尾高山寺明恵上人行状」や「明恵上人伝記」、明恵上人の手になる「夢の記」、弟子の高信がまとめた「明恵上人歌集」に残されているからでもある。これが上記のDの本である。

本堂。木片に観音堂とも書いてあった。山門には「補陀洛山・施無畏寺」とあったので、本尊は観世音菩薩であるようだ。(観音は補陀洛浄土に住む)

明恵は、1173年に有田郡有田川町吉原で生まれた。父は平重国、母は湯浅宗重の四女である。湯浅氏は湯浅町の名が残るようにこの一帯を統べる豪族であった。

有力な武家の家に生まれた明恵(幼名は薬師丸)であったが、8才のときに母が病死し、同じ年に父は源頼朝が挙兵した当初の戦さで戦死する。薬師丸は8才で孤児になった。



開山堂。明恵上人をまつる。白洲正子さんの本の巻末にある年賦によると、
  1. 9才のとき、母方の叔父(上覚)がいる京都の神護寺に預けられ、
  2. 16才のとき上覚(じょうかく)について出家する。

  3. 18才のとき「遺教経」(ゆいきょうぎょう)を書庫から発見し、釈迦の遺児であることを自覚する。このころより「仏眼仏母」(ぶつげんぶつも)を本尊とする。

  4. 19才から「夢の記」を書き始める。
  5. 21才から22才にかけて、奈良東大寺に出仕して華厳の講義を行う。


開山堂の脇に山道があって、「明恵上人 鷹島歌碑 この先80米、白上遺蹟 この先700米」と木碑が立てられてる。これを登る。

預けられた神護寺には、これといった学僧がいず、経学についての明恵の疑問に答えられる人物はいなかった。 明恵(当時は成弁(じょうべん)といった)は、経堂の経文をあさり、華厳について独学し、修行に励む。

その学識を認められたためか、東大寺へ出仕して華厳教学の講義をするよう要請される。だが約2年間の東大寺への出仕によって、大寺院の僧は俗欲深く、今の仏教界がいかにくだらぬものかを痛感する。明恵が目指したものはそういうものではなかったのである。

『山寺は、法師くさくて居たからず。心清くばクソ拭くにても』と言い放って神護寺を去り、独力で修行せんとこの地にやってきた。明恵23才(1195年)のことである。


明恵はとにかくよく夢を見た。仏や菩薩の夢を見、春日権現の夢を見、空海の夢を見、夢の中でインド僧に教わり、天上に昇ったり、犬にわが身を喰わせたり、陶器の人形が生身の女性に変身したりと、見た夢の多くは「夢の記」として書きとめられて残っている。かように多くの夢をみたのは、常人とはやや違う体質であったためか、修行によって得た能力によってなのかはわからない。

鷹島の歌碑があった。

われ去りて のちにしのばむ 人なくば
飛びて帰りね 鷹島の石

とある。「しのばむ」は「愛ばむ」と漢字を当てている例があるので、「自分が死んだのち、かわいがってくれる人がないならば、鷹島に飛んで帰れよ」という意味であろう。小石に声かけた歌である。

この白上で修行していたころ、明恵は毎日写真の風景を見ていた。

ある日明恵は鷹島(中央の毛無島の左の黒い島)にいき、小石を拾ってきた。後に京都高山寺に移ってもこの小石は手元に置いており、死ぬ前に先の歌を読んだのである。

右手の苅藻島へは、高山寺から「島殿へ」宛てた手紙を出している。このくだりは意表をついており面白い。

明恵は「その後お変わりないか。その昔磯で遊んだこと、大きな桜の木があったことなどが思い出されて、恋しくてたまらない。もういちど行きたいのはやまやまであるが、それができないので文を送る」といったことを記して、弟子に託すのである。



白上遺蹟に向かって山道を登る。

手紙を託された弟子は、相手が本当の島であると知って驚き、島の誰に渡せばよいかと問えば、

「ただその苅麿(苅藻)の島の中にて、『栂尾の明恵坊の許よりの文にて候』と高らかに喚(よ)ばわりて、打ち捨てて帰り給え」

と「伝記」にある。このエピソードは先の4人の著者の全員が取り上げられていて、なぜそのようなことをしたのかをそれぞれに解釈されている。物にさえ感情移入をしたという明恵の天性の資質によるものではなく、華厳教学を究めた明恵にとっては当然の行動であった、とされる町田宗鳳さんの解釈が一番整然としている。


西白上遺蹟に着いた。石碑の左側に5〜6坪ほどの平らな土地があって、そこに説明文が高札にして掲げてあった。

明恵上人は初めこの地に庵を設け、修行を始められたが、波の音や漁師の声が騒がしかったために、しばらくして東白上に移られた。というようなことが記してあった。


説明板の左に細い山道があって、上に続いている。この先に明恵が建てた庵があった。明恵亡きあと庵は朽ちたか取り壊されたのだろうが、その場所に弟子の喜海(伝記や行状の著者でもある)が木の卒塔婆を立て、後に石の卒塔婆に代えられたという。

白上について「伝記」は次のように語る。

『その峯に大磐石左右に聳えて、小さき流水前後に出ず。かの高巌の上に二間の草庵を構えたり。前は西海に向かえり。遙かに淡路島に望めば、雲晴れ浪静かにして、眼(まなこ)窮(きわま)り難し。北にまた谷あり、鼓谷と号す。渓嵐響きをなして、巌洞に声を送る。また草庵の縁を穿(うが)ちて、一株の老松あり。その下に縄床一脚を立つ。また西南の角二段ばかり下にあたりて、一宇の草庵を立つ。これは同行来入の為なり。・・・・』

庵を想像して下手な絵図にしてみた。
  1. まず峰の上には大磐石が聳えている。
  2. 小さき流水は、この岩盤の間を流れ落ちているのか?
  3. 大磐石の一方に二間の庵を建てた。
  4. 一室は西を向いていて淡路島が見える。
  5. 北は谷である。強い風が吹きぬけて、大音響を発生している。
  6. 庵のどこかは不明だが、老松が縁側を突き抜けている。(老松を避けて縁側を作ったのだろう)
  7. その老松の下に座禅のための椅子(縄床)を立てた。
  8. 庵の西南に、同行(弟子か訪問客か?)のためにもうひとつ庵を建てた。

だいたいこのような配置になるだろうか?

細い山道を40〜50mほど上ると卒塔婆(説明文には「卒都婆」とある)が見えた。

大きな岩がある。ここからは見えないが、卒塔婆の下方には「大磐石」が聳えているはずである。

私は西を向いている。木立が邪魔して見えないが、海の先には「遙かに淡路島」が見えるのだろう。

卒塔婆は鉄柵で囲われていて、柵内は立ち入り禁止である。(卒塔婆は国の「史跡」に指定されている)

この場所に草庵があったのか。

「二間の草庵」の一間は西に面しているからもう一間は東に面している。おそらく東の間は寝たり、食事を摂ったりする居間的なもので、西の一間が、読経し、経文を学び、瞑想(観想)する場ではなかったか。

「一株の老松」があったのは、深く考えずに庵の東南角と想像したが、西側の縁側であったわけだ。なんとなれば禅定のための縄床(じょうしょう)は老松の下においたと「伝記」が述べているからである。

卒塔婆の足下は岩である。たぶん地面が平らになるように岩を掘り返して並べかえたかと思うが、庵はこの均された岩々の上にあったのだ。

卒塔婆の立つ南側に海を見下ろせる場所があったので、そこから南を向いて見る。

写真の左端にある堤防や防波堤は栖原の漁港である。中心より少し右の黒い島は鷹島。

なるほど漁港に近い。湯浅町の名産のひとつは魚であるといったが、その本場はこの栖原である。湯浅町のHPに、栖原家という網元があって、代々の栖原の当主は、房総の漁場を開拓し、蝦夷の漁場を開拓したとあった。栖原の漁法は他の地域に比べて一歩進んでいたようである。漁場の開拓をしたのは江戸期のことだと思うが、明恵の時代にも栖原は漁業で繁盛していたのだろう。

浜辺では、毎朝出漁のための掛け声が飛び交い、漁を終えて帰港すると陸揚げのために漁師のカミさん連中が集まってワイワイ騒いでおれば、明恵がこの地を離れるはずである。明恵は「景色は申し分ないのだが、うるさくてかなわん」といったのか。

真西方向は木立がじゃまして見えないので、南東方向を見る。 松の木が2本見える。草庵の縁を穿って生えていた「一株の老松」とは、あのような姿をしていたのであろうか。

苅藻島は詳細な地図でみると大小9つの(全部が小さいのだが)島や岩礁の総称である。比較的大きな島は3つあって、見る方向によって、1つの島に見えたり、2つの島に見えたりする(陸地から3つが見える場所はないようだ)。

高いほうの松の木の左に苅藻島のひとつが見え、もうひとつは松の枝がさえぎっているので一部分だけが見える。


西白上を去って、明恵が新たに修行の場としたのは東白上である。西白上からは350mほどしか離れていない。東白上へ向かう。

「伝記」には書いてないが「行状」には、白上峰について以下のように記述してあるらしい。白洲さんの本から孫引きすると、

『・・・その峰の体たらく、大磐石そびけたてり。東西は長し二丁ばかり。南北はせばし、わづかに一段余り。彼の高巌の上に、二間の草庵をかまえたり・・・』

白上の頂上付近には大磐石が聳え、頂上は東西が約220m、南北の幅がわずかに1段であるとあるのだが、「1段」とはどのくらいの長さであろう。調べたがわからなかった。


ただ、これは面積の単位だが、1町=10反(段)であるので、長さの1段は1丁(町)の10分の1ではないかと推測する。

1丁は約110m(109.09m)だから、1段は約11mになる。 白上峰の山頂部は、東西220m・南北11m の細長い形をしている。

「伝記」「行状」は、地図に緑色線で囲ったあたりを白上として描写しているに違いない。つまり西白上についての描写であり、東白上についての描写はしていない。

西白上と東白上の位置を掲げる。ピンク色線が歩いた道である(と思う)。歩いているのは頂上部である(尾根というべきか)。いったん下がって、緩やかに上ると東白上である。

どちらもその付近の頂上だが、そこからの眺望はまるで異なる。西白上からは海が見えるが、東白上からは海は見えない。みえるのは谷と山だけである。

じきに東白上遺蹟についた。案内板には明恵の耳切り事件(?)と文殊菩薩の幻視について簡単に記してあった。

西白上からここへ移った明恵は、「伝記」によると

「此の所にして、座禅行法、寝食を忘れて怠りなし。ある時は仏像に向かいて、在世の昔を恋慕し、ある時は聖教に対して。説法の古(いにしえ)をうらやむ。」

のである。修行に励むのだが、思ったようにならない。「在世の昔を恋慕し」というのは釈迦が生存していたなら、釈迦の説法を聞くことができたのに、という思いである。しかし釈迦はすでにない。自身の修行によって釈迦に近づくしかないのである。


尋常のことでは近づけない。そこで

「形をやつして人間を辞し、志を堅くして如来の跡を踏まん事を思う」のである。五体満足な姿でいれば、まわりからちやほやされて出世の欲がでるかも知れない。人間を辞するためには、眼をえぐろうか、鼻を切ろうか、手を切ろうか。耳を切るのが一番支障がでないと決めた。

明恵は、仏眼仏母(画像)の前で念誦したあと、剃刀で右の耳を切り落とす。血が噴出し仏具や床に飛び散った。

痛みに耐えながら眠ったその夜、インド僧が現れ「頭目手足を法のために惜しまざる所作を記する者なり」といって、1冊の書におそらくは明恵の名前を記入した夢を見る。

その翌日は、釈迦が諸菩薩を前にして説教している夢を見る。うらやましくて経文を唱えていると、いつのまにか自分も混じって説教を聞いている。さらに華厳経を読み続けていると、「眼の上たちまちに光り輝けり。目を挙げて見るに、虚空に浮かびて現に文殊師利菩薩、身金色にして、金獅子に乗じて」いる姿を見た。

明恵が修行僧から菩薩の位に近づいたターニングポイントであったのだろう。1196年、明恵24才のことである。



東白上の卒塔婆のすぐ近くの周りを見遠せる場所に出て、西を見る。(上の白上山頂付近の地図の(a)の方向)

西には西白上の山がある。どこかに「大磐石」があるはずだが、この位置からは見えない。

視点を45度北に向けて、北西を見る(上の白上山頂付近の地図の(b)の方向)。

手前の山は西白上。「伝記」に「北にまた谷あり、鼓谷と号す。渓嵐響きをなして、巌洞に声を送る。」とある鼓谷(つづみだに)とはこの谷のことであろう。

写真右下に(防砂堰があるのか)水が貯まっている。ここを吹き抜ける風は「巌洞に声を送る」であろう。

北を眺める(上の白上山頂付近の地図の(c)の方向)。

眼下は深い谷である。向こうの山はみかんを栽培しているらしく段々畑になっている。

このように東白上の周りは山と谷である。修行の邪魔になる人声は聞こえなかったに違いない。

この地で明恵は文殊菩薩を見、一層の研鑽に励んだのだが、1198年(26才)に神護寺に呼び戻される。

半年ほど京都にいたが、しかしじきに戻ってきた。京都では修行ができなかったのであろう。

「もと住み捨てし紀州白上の峰に帰り給いしが、此の所猶人近くして、樵夫の斧の音、耳かしましくして、又三四町下は大道なり。うるさきことあればとて・・・」

文面からすると東白上にではなく西白上に戻っている。とすれば西白上に草庵が残っており、東白上に草庵はなかったのではないか。

東白上に草庵があれば、一度はうるさいと離れた西白上に戻るはずはない。東白上へは西白上の草庵から出かけて修行したのではないかとも思われる。

この後明恵は白上に庵を作ることはなく、おおむね有田川沿いの山(地名では@筏立、A糸野、B星尾、C崎山、D神谷など)に庵を構えて修行を続けた後、1205年(33才)に京都に戻る。1206年に後鳥羽上皇より栂尾(とがのお)に高山寺を与えられ、京都で為政者・貴族・武士・弟子たちに教えを説くことになる。

(次図)白上を下る。湯浅湾の明恵なじみの島々が見える。点在している島をぴょんぴょんと跳ねていけば、ずっと先まで行けそうである。



河合隼雄さんの「明恵 夢を生きる」によると、「仏教では求道者(菩薩)の修行の段階を52に分け、十信・十住・十行・十回向・十地および等覚、妙覚とする。」そうである。 妙覚(みょうがく)が迷いなく正しい知恵がそなわった最後の位である。修行者はこの52の位を順次究めて仏の境地に到達するのである。

明恵が見た夢は次のようである。52個の石が1丈(3.3m)間隔で大海に向かって並んでいる。明恵はああこれは52位の石であるなと察して、渡って行った。初めの「信」位の石のところには僧俗らが多くいたが、「住」位の石のところでは誰もいくなった。ただ一人で「行」位の石、「回向」位の石、「地」位の石をたどって、ついには「妙覚」の位の石に着いた。

妙覚の石に立ってみると、向こうは無限の広がりである。来たほうを振り返ると遥かかなたにある。「今は還りて語らむと思」って戻り、このことを人に話した。という夢を見た。

河合隼雄さんは精神病理学者でもあるが、このとき明恵が戻っていなければ死んでいたであろう。禅定に入って修行を積み重ねた明恵であるからこそ、還ることができたのだといわれている。

下り道で振り返って白上峰を見た。

杉木立の間に白上峰があり、なんとそこに「大磐石」が見えるではないか。たぶんこれが西白上の卒塔婆の下にある岩壁であろう。

登るときは、どの峰が白上であるのかを知らないので気づかなかったが、白上の位置と距離を経験したあとでの帰り道だから目にとまったのだろう。大満足である。


施無畏寺に戻ってきた。


施無畏寺を出て、再び栖原海岸に下りた。向こうの岬は霧崎。

夏場は海水浴場になるあたりは砂浜だが、端にいくと岩場である。波がゆったりと寄せては引き、寄せては引きを繰り返している。

「北天竺に蘇婆河といふ河の辺に如来の御遺跡多くあり、その河の水も、この海に入れば同じ塩に染まりたる石なれば・・・」

と「伝記」は伝える。明恵は、苅藻島で拾った小石に「蘇婆石」(そばいし)と名づけて、終生手許に置いた。

「蘇婆河」はガンジス河のことだろうか。釈迦が修行し、悟りをえて、初めて法を説き、竹林精舎に僧を集めて説法した、これらの場所はガンジス河の流域である。





ガンジス河の水が大洋に出て潮にまじり合い、はるばると苅藻島にたどり着き、波となって浜辺の小石を洗った。潮に洗われた小石は釈迦につながっていると、明恵は思ったのであろうか。

鷹島でも小石を拾い、「飛びて帰りね鷹島の石」と歌に詠んだことは先にいった。

南を向いて海水浴場となる砂浜を写す。向こうの岬は端崎。

海水浴場になる砂浜には、おそらく定期的に砂を入れていると思うが、砂が入っていないところには小石が散乱している。

明恵上人の形だけ真似して小石を2つ拾った(あとでもっとよいのを見つけたので3個になった)。

12時を少し回っていた。今日見るべきものはだいたい見た。時間があるので端崎をぐるりと廻って湯浅に戻ることにする。陸上からの「岬めぐり」である。

栖原漁港には釣り船が繋留されている。見れば3艘とも「かるも丸」である。苅藻島への渡し船であるらしい。

漁港から振り返って、白上峰を撮る。

山上付近の2か所にわずかに岩壁が見えるのは、「その峯に大磐石左右に聳えて・・・」の2つの大磐石であろう。

ここまで離れて、ようやく白上の全貌を見ることができた。

往時はもっと岩肌が広く露出しており、海上から白い岩壁を見て、船頭は湯浅湾であることを知ったのであろう。白上の白い岩壁は湯浅のランドマークであったのではないか。


端先の突端。

岬の突端に出ると、下は岩場である。磯釣りをしている人がある。

ここからは、毛無島が真西に見える。毛無島の左にあるのはもちろん苅藻島である。この位置からは2つの島が区別できる。


岬に沿って道路がある。向こうは湯浅の街である。

防波堤の上から海を覗く。きれいな海水である。岩に藻が生えて波にゆらいでいる。

苅藻島にはもっと藻が繁茂しているのだろう。漁師や漁師の女房は舟を漕ぎ出でて島に渡り、藻を集めて戻って、栖原の浜で干したのか。(この藻とはいったいなんであろうか?)

湯浅の町に戻ってきた。どこへ渡っていた船なのか。釣り人を乗せて山田川に入って行く。

「シラスご飯」を食べなければならない。ずいぶん探してみたが、昼時であるのに、鮨屋も食堂もほとんどが店を閉めている。

湯原町役場の近辺が最もにぎやかであろうかと役場まで行ったが、役場が休みの日には客が少ないからか、3軒あったすべての店が「本日休業」であった。

こんなことなら、さっき通ってきた北町通りにあった魚屋の「焼きサバ」でも買っておくのだったと後悔する。

食い物に未練があったのか、たまたま写真を撮っていたのが右図。焼きさばは1匹700円。カツオは500円。鯛は1000円である。ものすごくキリのよい値段ですな。

駅前の食堂でカツ丼をアテにしてビール中瓶を飲む。(知らぬ食堂ではカツ丼を注文することに決めている。あたりはずれがない。)

湯浅駅で、最も早く大阪に着く切符を求めたら「くろしお」という特急であった。これだと大阪・天王寺まで1時間15分で着くそうだ。

時間が少しあったので、食堂の1軒隣りの酒屋でカンビールを2本買った。

今日はジャスコの買い袋に地図やらカメラやらを入れて歩いたのだが、白上峰に登る前にペットボトル2本を買って入れたから、ビニールの袋は重さでヘタリ気味であった。ここへカンビールを突っ込んだために、プラットホーム上で袋がついに破れてしまった。

天王寺で途中下車して、駅前の近鉄百貨店(阿倍野橋)で肩にかける小バッグを買った(3500円)。次回からはこれを袈裟懸けにして歩く。万歩計は24600歩だった。


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