正面の本堂の上の塔の図案は蓮である。うーん、これがインドの仏教寺院のイメージか。今に残るインドの建物の多く、例えばタージマハールなどの有名な建物はイスラム様式である。インドには今でも仏教寺院が残っているのだろうか。
歴史主義の第1世代 (辰野金吾・片山東熊・妻木頼黄(つまきよりなか)・山口半六が代表)は西洋の建築様式を学び、それをもとにクラシックやゴシックを基調とした建築物を多く建てたのだが、まあ手本をみて日本でも作れるということを示したにすぎない。辰野金吾の日銀本店や東京駅をみてもそう感激はしない。海外の建物を見れば辰野のような建物はありふれていることがわかる。
しかし辰野らに教わった第2世代になると、日本の伝統様式をどう扱うかを問題にする者たちが現れた。そのさきがけが伊東忠太である。
伊東は日本の伝統様式を研究し、法隆寺の中門の列柱を見て、これはギリシアのオーダー(列柱)やエンタシス(柱の中ほどが少し膨らんでいる石柱)に繋がるのではないか。日本固有と思われていた建築様式はギリシャ・ローマ・あるいはインド・中国に通じるものがあるのではないか。と考え、明治26年に「法隆寺建築論」を発表した。
ちょうどその頃京都では平安京遷都1100年を記念して、大極殿を復元しようということになり、設計が伊東にゆだねられた。このとき伊東はまだ大学院生であったが、明治28年になんとか復元させた。それが京都左京区岡崎にある平安神宮である。
伊東はこの後も日本建築の伝統様式を研究し、その源流を辿ろうと、明治35年から世界の建築物を見学する大旅行に出かける。中国→ビルマ→インド→トルコ→ギリシア→エジプト→エルサレムなどへロバに跨ってポクポクと歩を進め、3年をかけて各地の遺跡の探訪をした。この
大旅行によって伊東は、日本の伝統様式に加えて、中国、インドの様式も身につけたのである。
この旅行中に中国の西域で当時の西本願寺の法主である大谷光瑞が派遣した大谷探検隊と出会い、これを機縁にして帰国後、伝道院 (明治45年)や築地本願寺 (昭和9年)の設計を任せられた。伊東忠太は京都の西本願寺近くに、インド風・イスラム風・日本風・壁はイギリスの煉瓦造という伝道院を設計した。
伝道院が見たくて京都にいったことがある。2007年4月のことである。しかし伝道院は古くなってしまい、崩落の危険性があったためか、全体がシートで覆われていた。垂れ下がったシートの裾をからあげて上を仰ぎ見ただけであった。
伝道院と道を挟んで仏具屋さんがあって、主人が道路に佇んでいたので、いつ復元されるのだろうと尋ねると主人はいちど座敷に引っ込んで、新聞の切り抜きをもってきて在りし日の伝道院の姿を見せてくれた。
「私らが小さい頃は伝道院の階段を、下駄を履いて登ったもんや。そのうち本願寺さんも余裕ができたら伝道院を本気で修復するやろ。まあ長生きしなはれ」ということであった。(それから11年たったが、いまだに伝道院は修復されていない)
築地本願寺のことである。浄土真宗には京都に東西2つの本山があるが、私は東本願寺の建物のほうに惹かれる。明治期に再建されたものだが、鎌倉期の建物と同じようにキリっとしている。大げさにいえば建物のもつ精神性が見て取れる。だが築地本願寺の特異性はそういうレベルの違いを絶している。第一、大寺院のような木造ではない。石造(実際はコンクリート造)である。様式も和式ではなくインド風である。
本堂への入り口。白壁の下は大理石。扉の上にはステンドグラスの装飾。柱はクラシックのオーダーを思わせる。クラシック建築
風に分解すると、@大理石の柱台(ペデスタル)に、A丸い柱礎(ベース)、Bその上に白い石の円柱(シャフト)が乗る。C円柱の上部にはレリーフが施されている。Dその上に鉢形のエキノス、E最上部に方形のアクバスと呼ばれる石板が梁を支える、ということになる。
まあクラシック様式を伊東なりにアレンジしているわけである。伊東は2つのことを思っていたようだ、1つは日本の伝統的な木造建造物を石材あるいはコンクリートで作れないか。いま1つはアジアに共通するアジア様式を作りだせないか。である。
伊東の興味は欧米の様式にではなく、日本あるいはアジアの様式にあった。
2018年10月末に三重県伊賀市の上野天神祭りが行われた。京都の祇園祭りのような山車(ダシ)や山鉾が出て賑わうから坂本さんも見物したらどうかと近所の方にいわれたので、娘とエミちゃんと私が出かけた。なかなか立派な山車であった。
これを見た後上野城のすぐ近くにある俳聖殿にいった。松尾芭蕉を顕彰した建物である。訪れるのは2度目。伊賀上野は忍者で売り出そうとしているようであるが、忍者ではリピーターは望めないだろう。
右は俳聖殿。
俳聖殿の設計者は伊東忠太である。つい2〜3
年前に重文になったという。
孫のエミちゃんに芭蕉や伊東忠太のことをいってみても、理解ができるはずはない。
芭蕉記念館の前の庭で、砂利を掬っては椅子の穴に投げ入れるという作業を繰り返していた。
■ 酔夢夜話(10) 2019. 1. 4 ■
正月2日に長男夫妻が我が家に顔をだした。昨年はドローンを持ってきていた。
「東京では飛ばす場所がなくて」
「まあ名張でも自由に飛行させることはできまいが、うちの敷地の範囲なら問題にはなるまい」として、うちの屋根の上や庭木の上を飛ばしていた。
私は初めてドローンが飛ぶところを見たのであるが、案外にスムーズな飛び方をした。
今年は望遠レンズ付きのカメラを持ってきていた。40〜50万円はしたという。ああっ、去年のドローンといい、今年のカメラといい、これは遊び道具ではなくMV(ミュージックビデオ)を作るために必要だったのだ。
ということは、そういう機材を買えるような収入が得られているのだ。
そこで「どうだ仕事は順調か?」と聞いてみると、「お父さん、これ」とMVのための専門誌を出された。「MdM」が本の名前であるらしい。毎月発刊しているようだ。(
今年からは隔月刊になるらしい...)。
本の特集は『この曲はなぜ このアプローチで 撮ったのか』である。ここに映像監督8人の最近のMVが乗せられていた。ホーッ、映像監督か。
2010年に本に取りあげられたときは『映像作家100人』のうちの1人であった。次の年には『腕っこき映像作家たちに学ぶ 映像制作20通りのDIY』であった。20人が自分のテクニックを公開していた。20人のうちに入ったのか。
まだ他にも本に載った記事があるのかどうかは知らないが、今回は映像監督に格上げされて、8人の中にはいっている。長男はその業界では着々と地歩を固めているようである。いまやオヤジ(私)を追い越したな...と嬉しかった。
坂本渉太MV作品・・・
坂本渉太のMV(音楽紹介ムービー作品)のいくつかを紹介します。
■ 酔夢夜話(11) 2019. 1.10 ■
「酔夢夜話」で思い出を語るのであれば、ぜひとも東研ソフトを創立したころの話を書いてほしいという要望があった。思い出話というものは、脈絡もなく、ああ、あんなことがあったな。と思い出すのがよいのであるが、しかしまあよい機会なので、できるだけ順を追って思い出して書くことにした。
右図は電波新聞社の月刊誌「マイコン」という雑誌である。1980年5月号とある。「マイコン」は3年間くらい購読していたと思う。雑誌や本は1年に1回は処分する。だから吉川英治・司馬遼太郎・井上靖さんの文庫本、万葉集・古事記・日本書紀などの古典を除いて、常時置いておく本はあまりない。
約39年前の雑誌「マイコン」を1冊だけ残しているのは、私にとって特別なものがあるからである。
今ではパソコンと呼ばれているコンピュータは、1980年当時はマイコンと呼ばれていた。米国で1977年ころからマイコンが大ブームになり、アップル(ブランドもアップル)とコモドール(ブランドはペット)が双璧だった。
そこへタンディラジオシャックという家電販売店がTRS80というマイコンを比較的廉価に発売したため、マイコンは一気に広がりをみせた。
この米国の盛況を見て、いち早く日本製のマイコンを出したのがNECである(ブランドはPC8001)。ただしマイコンの価格は高かった。上図のNECのPC8001の基本モデルは、@キーボード(この中にコンピュータが入っている)が168,000円、Aモニター(グリーン単色)が48,000円、の2つで、合計216,000円。(モニターの下にある筐体はB拡張ユニットといって別売品。これがないとハードディスクやプリンターが使えなかった)
B拡張ユニットは148,000円。当時出たばかりのCフロッピードライブ(写真右側の黒色)は310,000円。合計458,000円を追加しないとフロッピードライブは使えなかった。全部を合わせると674,000円もかかる。
現在のパソコンの価格を思えば10倍〜30倍以上も高い。雲泥の差である。しかしパソコンに未来をみた若者や大学学院生や学者たちはこの高額な商品を手に入れて、パソコンがどこまでのことができるのかを試したのである。国産のマイコンは日立も発売したし、右図のシャープも発売を始めた。
1980年というのは日本のマイコンが誕生してヨチヨチ歩きをしだした黎明期である。
フロッピーディスクを使うことは、若者にとっては金銭的に難しかった。それでどういう磁気媒体にプログラムやデータを保存していたのかというと、カセットテープレコーダーである。
右のシャープ(ブランドはMZ-80)の赤色のモニターの右にあるのがカセット。ここからプログラムを読み込み、出来たデータをカセットに記憶させるのである。
シャープMZ-80は基本の機能だけに絞り、モニター画面も小さかったが、それでも価格は268,000円。おいそれと買える価格ではなかった。
1980年の私は32才で独身だった。当時の私の興味は統計の一分野の「多変量解析」に向いていた。重回帰式を計算したり、主成分分析をするために、カシオの関数電卓を使っていたのだが、@入力ミスが多くなる、A計算の途中の経過がわからない、B計算結果は紙に筆記しておかねばならない、などなど非常に不満であった。
そこに「マイコン」誌を見たのである。カセットテープとはいえ一応は計算結果が残せるし、なによりもプログラムにデータを書き込んでおけばデータを打ち込むことが要らない。おおっ、これはマイコンを買わねばなるまい。
右図はタンディのTRS-80の基本セットだが、@キーボード(この中にコンピュターが入っている)+Aグリーン(カタカナ)モニターの合計で218,000円。ここに記録媒体のカセットレコーダー12,000円を追加すると230,000円で最小限のものが揃うことがわかった。
「マイコン」誌に出ている宣伝を見ると、大阪の西区土佐堀に「N学院」というマイコン教育と販売をしている会社があったのでここを訪れた。
私はマイコンに触ったこともなければ、どうやってプログラムを作るのか、どうやってデータを記憶させるのかについての知識はゼロである。しかしマイコン教育をしている会社ならアドバイスはしてくれるだろうと思ったのだ。
訪ねてみると、MさんとKさんの2人で経営していた。私と同じ学年であった。まだマイコンの客は少ない時代であったからすぐにうちとけて、TRS-80を購入した。
ローンを組んだのか現金で買ったのかは忘れたが、半年も経たぬうちに、フロッピードライブ128,000円と、これを接続するための拡張インターフェース75,000円を購入しているから、エイヤーッとばかり現金で支払ったらしい。
■ 酔夢夜話(12) 2019. 1.11 ■
図はTRS-80シリーズのフルセットである。全部を揃えると80万円くらいになる。(フロッピードライブは2台、カセットレコーダーは1台に減らしての価格)
TRS-80基本セットには、右図の手前にある白色の本(Basicプログラム言語の解説書)と奥に立てかけてある茶色のバインダーの(操作説明書)がついていた。初めに白い本のBasicの解説書を読みはじめたのだが、意外なことに理解できるのである。
Basic(ベーシック)はFortran(フォートラン)によく似ているのである。そのころは科学技術の計算はFortranで、商業用の計算や帳票の出力などはCOBOL(コボル)と決まっていた。むろん大型コンピュータや商用コンピュータ(オフコンと呼ばれていた)で使われていた。
マイコンのBasic言語はFortranを手本しているらしい。Basicはマイクロソフトのビルゲイツが若き日に作ったものである。
解りやすいBasicを開発したビルゲイツは世界中のマイコンメーカーを顧客にして、マイクロソフト王国を作ることになるのであるが、この当時はまだBasic以外にもマイコン用の言語(パスカル)なども開発されていた。
なんだBasicはFortranと同じようなものではないかと気づいた。だが私はFortranの勉強はしたことはないし、大型コンピュータにも触ったことはない。どうしてぼんやりとでもわかるのだろうと疑問に思っていたが、どうやら「多変量解析」の本から知らず知らずにエッセンスを吸収していたらしい。
今では「多変量解析」の本は1冊も保有していないが、当時のやや高価な本には、@理論、A具体例、Bそれを解析するためのアルゴリズムが順次述べられ、最後にCFortranのプログラムが掲載されているという体裁のものが多かった。カシオの関数電卓を叩いていたときでも、それを知らないと数値の打ちこみができないので、やや真面目に本を読んでいたと思われる。
上図はBasicによるプログラムである。このころのプログラム言語の多くは左端に行番号を振っていて、行番号の若い順に演算を実行していた。途中で演算を後戻りさせたいときや、行を飛ばしたいときは行番号を指定して(例えば goto 60行)で戻したり飛ばしたりすることができた。(今のベーシックはまるで違う。行番号は使わない)
そうか、それではFortranのプログラムをBasicプログラムに置き換えてみようと思って、作業を始めたところ、2か月で@重回帰分析、A主成分分析、B因子分析、C判別分析、D各種の細かな統計プログラムができた。プログラムを実行してみると、答えは本に載っているものとほぼ同じであった。これでいいのだ。Basicは身構えるほどのものではなかった。(まあそれだけ、ビルゲイツはわかり易いプログラム言語を作ったというべきであろう)
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■ 酔夢夜話(13) 2019. 1.15 ■
1980年の暮れは私が働いていた会社が立ち行かなくなった。新しく進出した事業で失敗したのである。私はMさんとKさんの会社に行って「会社がバンザイしたよ」というと、Mさんが「じゃあうちに来てくれないか。給与は年300(万円)出しまっせ。」といってくれた。そのころMさんとKさんは会社をもう一つ作り、KさんはN学院での教育、Mさんは新しく創った別会社の「N販売」でパソコンの販売に当たっていた。
Mさんは、私が3か月足らずで「多変量解析」のプログラムを作ったことを評価してくれていた。1981年4月から出社してくれということだった。
1981年2月に失業中の身ながら結婚した。当然にささやかな結婚式であった
4月になって入社したときの仕事は「多変量解析」ソフトに手をいれ、マニュアルを書いてパッケージ化することであった。これは私が自分で勝手に決めた。まだ実用的なパソコン用のプログラムは何もなかったからである。対象のパソコンは、NEC・OKI電気・東芝・三菱・富士通に及んだ。メーカー各社は基本的にマイクロソフトにプログラム言語のBasicの作製を依頼し、そのBasicをパソコンに組み込んでいた。他社との差別をつけたいために少しずつ違ったBasicになっていたが、その言語には大した差はなかった。
1980年6月に沖電気が if800というパソコンを発売した。if800はオールインワンが売り物であった。(図はコンピュータ博物館のHPより)
- モニターは640×200ドットでカラー。
- その右横に5インチフロッピードライブが2台内蔵されていた。フロッピーの容量は280KBである。
- キーボードの先にはプリンターが埋め込まれていた。
この1台で何でもできる。これまでのホビー用のパソコンではなく、ビジネス用のパソコンである。価格は1台148万円であったと記憶している。148万円は高いようだが、例えばTRS-80のフルセットを購入すれば80万円になり、しかもモノクロ(グリーン)であり、フロッピーの容量は85KBしかなかった。
TRS-80がホビーのためのパソコンであったことは、モニターがドット単位では操作できなかったことでもわかる。モニター画面は横64X縦16個の文字(キャラクター)を出すことができるだけであった。従ってモニター画面に斜めの線を表示させたいと思っても■の文字が階段状にブツブツと並ぶだけで、とても斜線を描いているとは見えなかった。
その点if800はモニターの640×200ドットの1つひとつをコントロールができるので、斜線を描いても大きなギザギザの段差はできなかった。画面にまともな描画ができた。沖のif800はビジネス用パソコンとしては最先端を突っ走っていた。
このころMさんの会社(N販売)は沖電気の代理店になっていた。当然に代理店各社で販売競争が生まれたのであるが、Mさんは「多変量解析」をパッケージのメインとした。どこに売ればよいのかであるが、統計処理が必要なところはいくらでもある。例えば大学の医学部・薬学部・病院・製薬メーカーをすぐに思いつく。
そこで営業マンがこれら大学や会社にアポを取り、説明会では私が多変量解析パッケージの使い方を説明するという役割分担で臨んだ。説明した先は、阪大医学部・大阪医薬・塩野義・奈良県立医大などを覚えているがほとんどは忘れた。
その結果1981年の年末に集計するとN販売のif800の売り上げは100台か150台かを売っていた。100台としてもif800の売上げ高は約1億5000万円である。ここに多変量解析パッケージの20万円×αが加わる。N販売は関西でNo.1の沖製品の売り上げをしたのである。
「給料は年300だしまっせ」ということであったが、その年のボーナスは100万円が加算されていた。まあよき時代であった。今から思うと「多変量解析」パッケージは大したものではない。稚拙であった。だが誰もプログラムを組むことができなかったので、独走できたのである。今なら「こんなもの」と投げ捨てられるのが落ちだ。
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翌年1982年は、Mさんが「今度は何を作るのか?」と尋ねたので、株式分析ソフトを作ると告げた。if800ならきれいなチャートを描くことができるのである。
これには先駆者があった。コンピューターイレブンという会社がif800を使って株式チャートのソフトをいち早く発売していた。どうやって入手したのか、そのソフトを見せてもらった。よいできであった。丁寧に作ってあった。
これを超えるには、@もっとよいチャートを入れる、A計算機能を入れてよい銘柄を検索させ、プリンターに印刷させる、の2つであろうと思った。(その後コンピュータイレブンは倒産した)
会社でもプログラムをしたが、早く完成させたくて自宅の押し入れの中にif800を据えて、夜中とか休日にもプログラムを組んだ。if800のキーボードをおもちゃにしているのは、長男の渉太である(酔夢夜話(10) で書いたMV監督)。
株式分析ソフトは何と名づけたのかは忘れた。だが関西ではこういう株式ソフトが欲しかった人が多かったと見えて、予想していた以上の見学者が来て、何人かはif800と一緒に購入された。多くが自分のしたいことやテクニカルな分析方法を持っていて、ソフトの強化について熱心であった。
特に大阪の倉庫会社の経営者のK岡さんと神戸の歯科医師のA先生は熱心であった。休日にうちに来て、私が望むチャートを作ってはもらえないかといわれるので、だいたい1か月に1度、2人なので月に2度は休日をつぶした。1回行くと5万円と食事というのが報酬であったから、いいアルバイトであった。家計費も助かった。
(右図はNECのPC9801)
その後1981年にNECはPC8801を出して沖と同様な640×200ドットカラーモニターを出し、1982年に16ビットパソコンであるPC9801を出すと、たちまちにしてパソコン市場を独占する(シェア90%までになった)。
PC8001とかPC9801の「PC」はパーソナルコンピュターを意味している。NECはマイコンジャーなどに組み込まれている部品としてのマイコンと、完成品のマイコンを区別したかったようである。
完成品のマイコンはNECがPC8001→PC8801→PC9801と日本でシェアを高めるにつれて、パーソナルコンピュータは略して「パソコン」と呼ばれるようになり、誰もマイコンとは言わないようになった。
沖のif800はCPUが8ビットである。8ビットパソコンでは漢字の出力はできないため、if800は衰退していった。むろん沖電気も16ビットパソコンを出していたのだが、NECの圧倒的なシェアに埋没していった。
1982年の半ばころから、if800の販売台数は伸びなくなり、衰退が感じられるようになった。
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■ 酔夢夜話(14) 2019. 1.16 ■
1983年3月に退社した。自分が思っているプログラムを自由に組みたいと思ったからである。
会社では社員全員(といっても20人ほどだが皆若かった。M社長と私が35歳で最年長であった)が集まって送別会を開いてくれた。去る者を惜しみつつ、快く送り出してくれたことが嬉しかった。
3月に退職して6月までの3か月間は株式ソフトのパッケージ化に取り組んだ。雑用や打ち合わせがなく、それだけをすればよいので早くに完成した。
大阪に事務所を構えていたのは、約18年間である。うち9年間は新大阪に近い淀川区の西中島にいた。@西中島1丁目(R工業の間借り)、A西中島3丁目(ワンルームマンション)、B西中島5丁目(ビル)の順で、売り上げが増えるに連れてだいたい2年ごとに引っ越した。あとの9年間は天王寺区にいた。
事務所はR工業のフロアーの隅っこ(約15坪くらい)に置くことが決まっていた。R工業の社長に「いてくれるだけでよいから」と懇願されたからである。パソコンについての相談をしたかったのであろう。
R工業はエアーシューターの設計・施工をしていた。エアーシューターはA点からB点まで太いパイプを引いて、ここに円筒形の容器に連絡事項や図面を入れ、圧縮空気で「プシュッ」とばかり送り出す仕組みである。
潜水艦内の伝達に使っていたのを映画で見た覚えがある。
私が山一証券に入社したのは1970年のことであるが、兜町の証券取引所の見学にいったとき、エアーシューターで売買注文伝票を送っていると聞いた。立ち合い場(フロアー)の裏側に各社のシューターの出口が、学校にある水道の蛇口のように並んでいたそうである。
図は旧東京証券取引所。まだ「場立ち」がいた時代の建物である。設計は横河民輔。昭和2年に完工した。1階にドリス式の円柱が建物をとりまき、2階部分は花弁のような形の半円がぐるりと並ぶ。建物の正面は円柱状で取引所は小さいように見えるが、建物の平面は三角形であり、正面は三角形の頂点にあたる。取引所は奥へいくほど広がっているので面積は広い。
1900年前後、横河はしばしば米国に行った。米国では鉄骨構造が主流になっていた。ビルは巨大化し、高層化への道を歩んでいた。日本のオフィスビルのように3階建までなら階段が使えるが、ビルの巨大化・高層化が進むとそれでは済まなくなる。まずはエレベータであり、空調設備が必要になる。
もしビルが従来のような石積構造であるならば、支える柱は下になるほど太くせねばならない。4階建て以上になると1階などは柱や厚い壁幅のほうが空き空間(この空間が一番大切)よりも面積を占めるという本末転倒した建物になる。
鉄骨構造は柱と梁が鉄骨である。壁で支えてはいない。日本家屋のように柱構造である。したがって壁は建物を支える必要がない。石壁の代わりに窓を嵌めたり、薄いセメントで化粧するだけですむ。当然に広い空間を利用することができる。
横河民輔は帰国後、三井本館(M35)を鉄骨構造で作ったが、3階建てであった。壁は煉瓦で装飾していた。まだ鉄骨構造になれていなかったのか、需要がなかったのか。次に三井貸事務所(M45)を作った。6階建てであり、外壁は石を貼っているようだが、全体は直方体で装飾ははほとんどなかった。我が国の大型ビルの嚆矢である。
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エアーシューターのことである。シューターで送られる伝票は小口の注文である。大口の注文は立ち合い場の後方にテニスの観客席のような階段状のスタンドが設けられていて、証券会社から電話で注文が入る。電話を受けると、立会場にいる自社の場立ち(ばだち)に身振り手振りで銘柄と株数と売買の区別を連絡する。
例えば「三越」を5万株買いたいなら、
@3本の指を立てて額から頭を越して後頭部まで回し(3つ越しである)て銘柄を示し、A5本指を立てて株数を示し、B指を内に向けて手前に引く(これは買いである。売りのときは指を外に向けて押し出す)
場立ちは注文を確認したら、業種によって分かれているポストという場(図の中央にある一段高い囲み)に注文を書きにいって約定するのを待つ。ここにエアーシュターで送られてきた注文も加わる。
1980年代にはすでに大型コンピュータが使われており、FAXも普及していた。エアーシューターは確実に滅びていく運命にあった。R工業もなんとかパソコンとかワープロといった電子分野に転身を図りたかったのであろう。ミロクの会計機器や東芝のワープロを購入していた(300万円くらいだったか?)。
R工業の社長は東芝のブランドにこだわっていた。無論「東芝」を社名に入れることはできないので、あれこれと考えたのだろう。「東XX」という社名をいくつか並べて、どれがよいかと私に尋ねた。私は「東研ソフト」を選んだ。「東研ソフト」の白いプラスチックの看板がR工業とともにドアの外側に張られた。よく何故「東研」という関東風の社名にしたのかと聞かれるが、含む意味は何もない。こういういきさつで決めただけである。
■ 酔夢夜話(15) 2019. 1.18 ■
西中島1丁目(1984〜1985)のころは、大阪には株式ソフトを開発し販売している会社はなかった。東研ソフトの独壇場であったといってよい。
認知度を上げるために株式市場新聞社が発行している雑誌「株式にっぽん」に広告を出していた。
今と違って株式の情報は少なかったから、本格的に投資をする人は、日刊の株式専門紙をとり、月刊あるいは隔週誌刊行の専門雑誌を購入していた。
したがって東研ソフトの広告は注目度が高く、月に何人かは訪問者があって、月に1〜3本のソフトが売れていた。ちなみにソフトは「実戦株価分析・基本編」と名づけ、価格は20万円であった。今からすると高い。高いがパソコンを使って投資をしたいがために150万円する沖電気のif800を購入する人も大勢いたのである。
この時期はパッケージの充実に努めていた。パッケージで最も重要なものはむろんソフトの内容であるが、操作説明書もそれに劣らぬほど重要である。さらにはソフトで描いたグラフ(チャート)の見方や、計算結果を印刷した表の見方を解説することも必要であった。
R工業の東芝ワープロは、女子社員が手書き原稿をワープロに打ち直す作業で四六時中使っていたので、私が使うことはできない。ミロクの会計機に付属しているワープロ機能を使って操作説明書などを活字にした。そのワープロは平面にありとあらゆる(は大げさだが)漢字が配置されていて、タッチペンで文字を選択していくのである。カナ漢字変換が一般的になるのはもう少し後で、漢字変換ができるワープロは東芝ワープロのように高価だった。
ところがパソコンが普及するにつれてワープロソフトが出回るようになった。1985年にジャストシステムは「一太郎」を発売した。これによって東芝ワープロの300万円の価値は急低下した。
R工業は1年あまりで300万円の減価償却をせねばならなくなり、ワープロが身近なものになったために顧客も失った。ジャストもしばらくはよかったがWindows時代になると、ワープロソフトはパソコンにバンドリング(組み込み)されるようになったので、今や鳴かず飛ばずである。1980年から2000年までのパソコン業界は、今日の勝者は明日の敗者になるという乱暴な世界であった。
■ 酔夢夜話(16) 2019. 1.17 ■
R工業の業績が不振となり、1丁目の会社に出社してもドアに鍵がかかったままであることがたまにあった。部屋に入れないと仕事ができないので、西中島3丁目のワンルームマンションの1室を借りた。(1986年〜1987年)
マンションの前の道路は広く、道路を挟んで北側の角には西友系列のしゃれた小スーパーがあり、道路の東のJR高架を潜るとキーエンスの本社があった。日建設計の設計であろうか、一面硝子貼りの高層建物は廻りを睥睨していた。
ここは最寄りの駅(地下鉄は「西中島南方」、阪急は「南方」)がうんと近いため、大勢の客やユーザーが訪れるようになった。西宮のK井さん、豊中のOさん、千里のK原さん、大阪のK岡さん、千里中央のIさんなどがふらりと寄って、エントランス・ロビーのソファーに腰掛けて雑談したり、喫茶室でコーヒーを飲んだものだった。
1986年のことだったろうか、日経総合販売の人が訪ねてきて、御社の実戦株価分析で日経テレコンから株価データが取得できるようにして欲しいと要望された。日経新聞は1984年からこれまでの記事やリサーチ結果の電子化に取り組み、さまざまのデータをデータベース化し始めていた。
その一部として株価データを配信するサービスを始めたのだそうだ。
さっそく送信してくるデータの仕様を聞いて、「実戦株価分析・基本編」にデータを取り込めるようにした。株式ソフトを販売している会社は関西でもまだ5〜6社くらい、全国でも30社程度であったろうか。ほとんどの株式ソフト販売店はプログラムを外注してたので、こういう話にはすぐには対応できなかった。
いち早くテレコンに繋げたので、頼りになると思ったのか、日経新聞や日経総合販売は日経テレコンのデモ(ショー)があるたびに、株式チャートの見方の講師兼テレコン受信の操作の説明員として呼んでくれた(アゴアシつきである)。日経新聞・日経総販では株式ソフトは東研ソフトの「実戦株価分析」が第一番目であるとされ、ソフト購入の希望者があれば、実戦株価分析を勧めてくれた。
テレコンからの受信であるが、1986年にはインターネットは全く普及していなかった。日経テレコンが配信するデータはデジタルである。受けるパソコンもデジタルのデータしか扱えない。だが遠隔地にデジタルで送るインフラはなかった。あっても証券会社とか大手企業がNTTと特別のデジタル専用回線を引いていたくらいである。これには法外な設備投資と毎日のメンテナンスが必要であった。
個人のユーザーはいかにしてデジタルのデータを入手するのか? 考えられたのが電話回線を利用することである。音声なら北海道と沖縄とでも会話ができる。デジタルでもそれが可能なはずだ。しかしいきなりNTTがデジタル回線を廉価に提供することはできない。どうするか? 日経の大型コンピュータから出力すると、デジタル信号はアナログ信号(音声)に変換される。これを電話回線を通じて相手の電話に届け、相手側はアナログ信号をデジタル信号に復元してパソコンで使えるようにするのである。こうすれば電話回線さえ繋がっていればどこのパソコンでもデジタルなデータを利用できる。
アナログ信号をデジタル信号に復調するには「カプラー」という機器を使った。右図のピンク色の受話器の下にある白色の箱がカプラーである。カプラーには(聞く)(話す)の受話器のサイズに合わせた2つのゴム製の丸い穴があった。これに受話器を強く押し込んで密着させる。電話機のダイアル(プッシュボタン)を押して先方のコンピュータに接続し、パソコンにデータを取り込むのである。
カプラーの横に耳を近づけると「ピーピーガーガー」と音を発している。送られてきた音声のデータである。これがデジタルに復調されるのだが、カプラーからは音声が漏れてくる。逆にいうとカプラーの近くで大きな音が鳴るとカプラーがこの音を拾ってデータが壊れてしまうという欠陥があった。
その後音声を使わないモデムに切り替わっていくのであるが、2年くらいはカプラーを使って通信をしていた。
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■ 酔夢夜話(17) 2019. 1.21 ■
NECのPC9801が発売されたのは1982年のことであるが普及し始めたのは1985年くらいからである。私はたぶん1986年に入って購入した。
PC9801はその性能は抜群であった。ディスプレーは640×400ドットでフルカラー。8ビットパソコンでは難しかった漢字も漢字ROMを搭載することで簡単に、しかも文字のサイズは小さく表示できた。
8ビットで文字を表現するとき、2^8(2の8乗)=256種類の文字しか扱えないが、16ビットだと2^16(2の16乗)=256×256=65536種類の文字を扱うことができるのである。通常使う漢字は3000~4000文字であるといわれるから、16ビットならすべての漢字を扱うことができるのである。
何よりも16ビットになって様変わりしたのは、パソコンのスピードである。「早い!」の一言につきた。米国ではIBMがいち早く16ビットパソコンを発売し米国を席巻していたが、IBMは8ビットバスである。1度に8ビットの信号しか送れない。一方PC9801は16ビットバスで1度に16ビットの信号を送り出せる。単純に考えてもIBMの2倍のスピードがでる。
図は一目均衡表。均衡表のチャートは
- 9日仲値線
- 26日仲値線
- 52日仲値線
- 26日遅行線
で構成されている。最も目につくのが「雲」と呼ばれている抵抗帯だが、これはB52日仲値線と(@9日仲値線+A26日仲値線)の平均線との間を緑色の破線で塗りつぶしたものである。
この仲値線を計算するには時間がかかる。例えば26日平均線と26日仲値線の計算時間を比べると、仲値線のほうが平均線の26倍の時間を要する。9日仲値線・52日仲値線はそれぞれ平均線の9倍・52倍がかかる。
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沖電気のif800で均衡表を描画させたとき、1銘柄の一目均衡表チャートを描くのに2分くらいかかったことを覚えているが、トロトロと描いている様子が目に見えてわかるスピードだった。ところがPC9801で描画させるとほぼ一瞬(1秒くらいか)で描画した。驚嘆した。パソコンは16ビットでないと屑だ。
その後NECはWindowsがリリースされるまではトップシェアを維持していたが、Window以降は他社のパソコンでもWindowsは動くので、次第にシェアを落としていき、Windows95になったころにPC9801の命脈は事実上終った。まことにパソコンの盛衰は激しい。
(帝国ホテル新本館。1970年(S45)竣工。設計:高橋貞太郎)
1987年に入ってからのことだと思うが、日経新聞のAさんから電話があって、
「今度日経新聞社主催で株式ソフト・コンテストを行うので、坂本さんも応募して欲しい」
とのことだった。
「いやあ、テレコンの株価データサービスを利用しているのはうちのユーザーが一番多いはずだから、いまさらコンテストに応募しなくてもいいんじゃないの」
「いやとにかく応募してよ」
という会話があって、コンテストに応募することになった。8
月になって「実戦株価分析は優秀賞を受賞することになった。ついては表彰式を東京の帝国ホテルで行うので受賞の挨拶をして欲しい」と連絡があった。
表彰式には日経新聞の森田社長以下、審査員の方々が出席されており、祝辞をいただいた。返礼として私が出品者を代表して少ししゃべった。その後は立食パーティとなって、ああ緊張した。疲れた。
コンテスト優秀賞受賞のことは、翌日の日経新聞に記事が出た。記事を見て、「実戦株価分析」にかなりの数の引き合いがあり、実際にも売れた。この記事を見て「実戦株価分析」を購入された方々の多くは東研ソフトのファンになられて、《カナル》を新発売したときもこれに乗り換えていただいている。あれから30年以上も経ったのか・・・
■ 酔夢夜話(18) 2019. 1.22 ■
会場でいただいていたのは賞品の目録であった。大阪に戻って少し経ってからコンテストの賞金が振り込まれてきた。当時Dマックが東研ソフトの関東以北の代理店であった。社長のO田さんはN販売のMさんの友人であった。だから私と同じ年だ。この方にはよく動いてもらった。
例えば東京のユーザー向けに講習会を開くときは、新宿の住友ビルの会議室を借りたり、ユーザーに案内状を出してもらったりなどである。
O田さんにテレフォンカードを作ろうと思うので、デザインを誰かに頼んでほしい。といったら右のものができた。携帯電話がない時代のことである。テレフォンカードは重宝されていた。図のディスプレーはブラウン管型だし、8インチフローピーを手にしているのは時代である。右側の陰陽足は私が指定した。
コンテスト優勝以来、ソフトの注文は飛躍的に増えた。企業からも自社のためのソフトを作ってくれないかとの打診もいくつかあった。
例えば三菱電機である。証券会社の店頭フロアーにタッチパネル式のチャートを描く機器(中身は三菱のマルチ16というパソコンである)に入れるソフトを作って欲しい、ついては丸の内の三菱電機に来てもらえまいか。という依頼である。
本社で担当の部長さんと打ち合わせをして、神戸にある三菱電機・制御製作所で作ることになった。だいたい2日に1度は兵庫区の和田岬にある三菱村(三菱重工や三菱電機・三菱病院などが集まっていた)に通った。多くは三菱電機の社員が送迎してくれた。帰宅は夜11:00を過ぎることもある。送迎してくれる社員も大変だ。
しかし大メーカーの品質に対する厳しさががよくわかり大変勉強になった。
なにしろソフトが入った筐体を出荷するときは48時間テストとかいって、2日間動かし続けるのである。ソフトを担当したほうとしては筐体の性能には関係がないのだが、長時間立ち会わされた。タッチパネルのチャートシステムは「投資くん」という製品名だった記憶があるが定かではない。販売は西華産業が担当していた。
商品先物業界のリサーチ会社から商品先物用のソフトを作って欲しいの依頼があったので作った。何度も東京に出ていくことになった。社長のI田さんは業界ではよく知られていた。こわもてするタイプである。どういうわけかとても仲良くなって、来阪されたときはこちらが接待し、東京にいったときは接待してもらうという間柄になった。
(旧九段会館。竣工:S9年。設計:川元良一)
いついつに東京に出かけると電話で告げると、今日は九段会館に泊まりなさい。銀座ホテルに泊まりなさい。芝にある東京グランドホテルはどうか。と行くたびに違うホテルを教えてもらった。私の懐具合をおもんばかって宿泊費の比較的安いホテルを選んでくれたようだ。
今となっては九段会館に宿泊した経験は貴重なものである。九段会館は帝冠様式の重厚な建物(もとは軍人会館)であった。1934年2月26日のニ・ニ六事件では、戒厳令司令部が設置された歴史ある建物である。だが2011年3月の東日本大震災の地震の影響で天井が落ちて2名が死亡し30人以上の重軽症者がでた。九段会館は5月に廃業した。
泊まった九段会館の客室は和室であった。朝大きなガラス窓から外を眺めるとすぐ近くに武道館が見えた。こちらの位置のほうが高いのか、やや見降す感じで建物の全容がみえる。視界を遮るものはなにもない。I田さんはよくぞ九段会館を紹介したくれたことだ。
日本武道館は(竣工:S39年。設計:山田守)1964年の東京オリンピックの柔道競技会場として建設された。設計者の山田は若いころは明治・大正・昭和(戦前)まで続いてきた歴史主義(伝統様式)を捨てたモダニズムのはしりであったが、年をとるにつれて作風は変幻自在となった。
武道館の平面は正八角形で、法隆寺の夢殿をイメージしたのかと思うが、屋根は頂点に向って伸び、富士山をイメージしたものだという。
JR京都駅を北側にでると、ビル(京都タワービル)の上に灯台をイメージさせる京都タワーがすっくと立っている。これも山田の作品である。以前にお茶の水駅から神田川に架かる聖橋(ひじりばし)を通って湯島の聖堂に行ったことを書いたが、聖橋も山田守が設計したものである。東京に行けば武道館を、京都にいけば京都タワーを見ることができる。
I田さんは15年ほど前にガンで亡くなられた。余命を告げられていたらしい。大阪天王寺の私の会社にやってこられたので、毎日のHPを書き上げるまで待ってもらって飲みにいった。
死後聞いたが、来阪して大阪にいる幾人かの知り合いを訪ねていたらしい。最後に私のところに来て「さよなら」をいってくれたのか。最後にゆっくりと会いたかったのは私だったのか、と思って涙がでた。
I田さんはガンに罹る以前に、投資日報社の鏑木繁さんを紹介してくれた。鏑木(かぶらぎ)さんは当時は投資日報社の社長だったが、今では90才に近いから現役は引退されていると思う。鏑木繁さんは相場師ではなくジャーナリストである。著作物も多く、またその語り口が上手である。
鏑木さんはI田さんと私を道頓堀の割烹店に招待してくれた。最後はスナックで飲んだ。そこで、I田さんは「坂本さん、カブさんの投資日報に広告をだしてあげてよ」といった。ああそういうことの紹介だったのかと思ったが、鏑木さんに会えたので、一も二もなく承諾した。
■ 酔夢夜話(19) 2019. 1.24 ■
日経テレコンの株価データ受信の料金は今から考えると法外に高かった。1銘柄1日分のデータ料は3円である。225銘柄の1日分のデータを受信すると、3円×225銘柄=675円。仮に1か月に25回受信するならば、1か月の料金は675円×25回=16875円である。
その後、大阪有線(今はYUSEN)が自社のケーブルを利用して、全銘柄の一日分を配信するサービスを始めた。料金は1か月8000円だった。
Windows95が出てからインターネットが急速に普及していったが、1996年ころシ―ネットという会社がインターネットを利用して全銘柄の配信を始めた。月に2100円だった。通信方法がデータの価格を大幅に下げたわけである。1889年以降は、電話回線利用のテレコンの株価サービスが消え、ケーブル利用の有線もなくなり、インターネットを利用したシーネットが株価データの配信では最大のシェアを持つようになるのである。シーネットで株価データ受信する客の7〜8割は《カナル》のユーザーであった。
1988年から西中島3丁目のワンルールマンションの地上げが始まった。地上げして更地にして転売する商売である。そのためには入居者を退去させなければならない。出ていってくれといわれて「はいそうですか」と引っ越しする者はいない。
基本的には退居料を支払って穏便に出ていってもらうのが正当であるが、そうすればその分だけ地上げ屋の利益が減る。入居者によっては高い退去料を要求する者もいるだろう。
地上げ屋は強硬手段に出た。嫌がらせをするのである。例えばロビーにデカい犬を連れてきて引き廻したり、火災報知器を鳴らしたりする。
これは「辛抱たまらん」そのうち東研ソフトを訪ねてくる人が怖い目に会って、客足が減るかも知れないな・・・。
そこで大きな道で2筋北側にあるビジネスビルに引っ越した。10階建ての最上階に部屋はあった、私一人では広すぎる。とりあえず壁際に3台のパソコン台を並べてパソコンを置き、3台の事務机やソファーを別の壁際に置いたが、部屋の中央部分には置くものがなく空っぽである。まあ動きやすかったが静かな寂しい部屋であった。
だが新幹線の新大阪駅から歩いて5分のところにあったので、訪ねてくる客やユーザーは急に多くなった。東京から出張のついでに寄りました。という人が多かった。
西中島3丁目から5丁目の間の細い道は賑やかである。飲食店や一杯飲み屋・バー・スタンドには事欠かなかった。だれかが尋ねてくると誘って酒を飲んだ。右は近くの大衆酒場でのもの。ちょうど実戦株価分析の操作説明書ができたところだったので、写真を撮ってもらった。実戦株価分析時代の11年間で写真に残っているのはこれ1枚だけである。
(上図)それにしてもマニュアルとしては豪華である。ビニールカバーをつけ、やや厚めの紙に印刷して、300頁あった。表紙のデザインは印刷屋を通じて買ったものである。800冊作った。沖縄の古い家の門の前にヒンプンという石の衝立てがあるが、これと同じで、事務所の入り口を入ると積み上げられたマニュアルの山を右か左に回らねばならなかった。寂しい空間はたちまちに満たされたのである。
前の道路をはさんで北側には公文教育会館(公文の本部)があった。10階は日照権の関係でビルの屋上から外壁は斜めにカットされている。カットした部分には部屋をつくることができないので、ベランダになっていた。ベランダに出て、公文のビルを見下ろすと、教師の応募や教育、教材の研究や企画をしているのであろうか、いつも人が集まっていた。
引っ越しの少し前に東研ソフトは組織変更して株式会社にした。
1987年のコンテスト受賞以来売り上げは鋭角的に伸びていた。1987年の確定申告書をまとめてみると、所得税・住民税・事業税の税金は、私にとっては負担できかねる金額になっていた。個人営業による収入の半分近くが税金に持っていかれるのである。預金を吐き出しても700万円くらい不足する勘定であった。税務署には年2回払いにしてもらって、預金を全部吐き出すことは免れたが、2回目の納税の猶予期間は半年である。
ユーザーである西宮のKさんは不動産業を営むかたわら司法書士もされていたので、相談にいった。一切合切の会社設立の手続きをしてもらった。「(株)は前株、後株のどちらにするのか。俺は前株のほうがよいと思う」というので「株式会社 東研ソフト」が誕生した。
資本金は当初300万円であったが、その後株式会社の資本金は最低1000万円になったので増資した。支払いを猶予してもらった残りの税金は富士銀行(みずほ銀)から借りた。去年の税金のために借金をせざるを得なかった。今年は相当節約しないとまた借金ということになりかねない。
この3年間(1987年〜1989年)は@税金、A部屋を借りるときの敷金、B増資の資金、C会社の維持のための顧問業者の供託金、などのために働いたようなものである。会社員のときはこういうことは考えることもなかったが、小なりといえども会社組織にしてからは面倒なことばかりが起きた。
会社にしてよいこともあった。1つには給料制になったことである。個人の事業では課税所得金額の基本は(収入−経費)である。ソフトにかかる経費は収入に比べてごく小さい。1本20万円のソフトを売っても経費は1万円とかからない。利益率は90〜95%あるのである。したがって個人所得の課税額は非常に大きなものになっていたのである。
会社にして私の給料を月200万円にした(年間2400万円)。家内は20万円(年間240万円)の給与所得者になった。給与所得には給与所得控除が適用される。当時の給与所得控除額は覚えていないが、2019年の給与所得控除は、給与が2400万円なら220万円。240万円なら80万円が所得から差し引かれるのである。
課税所得額は私の場合(2400万円−220万円−162万円=2018万円)なので、所得税額は2018万円×40%−280万円=527万円である。(注)各種控除は、38万円×4人=152万円と生命保険控除の10万円の162万円になる)。家内の240万円のほうの課税所得額は(240万円−80万円−43万円=117
万円)なので、税額は117万円×5%=の計算で約6万円になる。家族併せた所得税額は533万円である。所得の約20%である。この金額を12等分して毎月44万円ずつ源泉徴収をするので、月々に払う税金は多くない。
個人事業のままで、仮に粗利益が2640万円だったとすると、課税所得額は(2640万円−各種控除)である。各種控除は基礎控除38万円×5人=190万円と生命保険10万円の合計200万円なので、税額は(2640万円−200万円)×40%ー280万円=696万円。粗利益の26%である。給与所得は大きな節税になるわけだ。
会社にとっては支払給与は経費だから会社の粗利益額から2640万円を引くことができる。仮に粗利益が2800万円、給与以外の経費が120万円としたら、会社の純利益は(2800万円−2640万円−120万円=40万円)であるから、これに掛かる法人税は15%の6万円である。個人所得533万円+6万円=539万円は個人事業の税額696万円よりも157万円の節税となる。細かな話になったが、会社にしてよかったことの一つである。
■ 酔夢夜話(20) 2019. 1.25 ■
西中島5丁目時代の1988年に財務近畿局から電話があって、財務局に来てほしいと告げられた。行ってみると「投資顧問業者の登録手続きをとらないか」という話であった。投資顧問業法は1986年に成立していた。
それまでの投資顧問業者はいい加減であった。自らが先に株式を買っておいて顧客に買いを勧めて、自分の玉(ぎょく)を売り逃げたり、銘柄を半分の顧客には買いを、半分の顧客には売りを推奨したりする者もあった。
法律を作ったきっかけは「投資ジャーナル事件」である。投資ジャーナルは株式投資の月刊誌を刊行していたが、その裏で主催者の中江茂樹は、投資家から金を集めていくつかの銘柄を推奨し買わせた。投資家は一気に買うものだから株価は急騰するものが多かった。ここへ次々に第二第三の推奨をして第一回目に買った投資家に利益をもたらせた。いまなら株価操縦の法令違反だが、当時は「仕手株」として見逃されていた。早くに買った投資家は利益がでるものだから仕手株の人気はいつもあった。
さらには投資家から保証金を集め、10倍の融資ができるという仕組みを考えて投資家から金を吸い上げたが、実際に株式は買わず、株式の引き渡しはしなかった。今なら出資法違反で金融取引法違反である。これは詐欺事件である。中江は1985年に詐欺容疑で逮捕された。
これではいかんというので国は「投資顧問業法」を成立させ
た。財務省に登録や認可の権限を持たせ、法令違反者には罰金や懲役刑を科することができる、という結構強力な法律であった。(2006年にはより厳しい「金融商品取引法」が成立し、投資顧問法はなくなっている)こういう背景があり、投資顧問法が成立していたので各財務局は顧問業者を増やすことに力をそそいだのであろう。私のようなソフト業を営む者にまで声をかけてきたというわけだ。
株式のソフトを売ることが投資顧問業に該当するというのは腑に落ちなかった。
どこが顧問業に該当するのかと聞けば、@あなたのところの実戦株価分析ソフトは売買マークがでるが、これは銘柄の推奨に当てはまる可能性がある。A月々の会費はとっていなくても当初のソフト代金が会費であるといえばいえなくはない。との答えである。顧問業に当てはまるかどうかは財務省の匙加減ということだ。
担当の役人が実績をあげたかったのであろう。@については、売買マークは条件表から出すが、ユーザーが条件表を設定するので売買マークがでる銘柄は一様ではない。仮にユーザーがひとつの条件表も設定せず、サンプルとしてこちらが用意している条件表を使う場合でも条件表は100本以上ある。とても実戦株価分析が銘柄を推奨しているとはいえない。Aについては月々の会費や成功報酬が投資顧問業者の収入であるから、会費や成功報酬をとらないソフトがどうして投資顧問といえるのか?
(右は日銀大阪支店 PL36年)
日銀大阪店も日銀本店と同じく辰野金吾の設計であるが、日銀大阪支店の建物様式はネオ・ルネッサンスである。目につくのは中央の屋根上にあるドームである。
正面玄関の屋根の下には、ほどよい大きさのぺディメント(三角破風)を持つ。その下のポーチは2連のイオニア式の円柱で支えられている。
窓は同じ形の長細い長方形が左右に4連ずつ連続している。この繰り返しはルネッサンス様式の特徴である。どこが「ネオ」だといわれても新しい装飾や技術が加えられたものというしかない。
私はコチコチのクラッシック様式の日銀本店よりも、ネオ・ルネッサンス風の日銀大阪支店のほうがよい姿だと思うが、本店は記念碑的な価値があるので、良し悪しはあまり問題にされない。本店のほうが断然に知名度や評価は高い。
などなど抗弁してみたが、財務局の担当者のBさんが、「坂本さん、できれば取っておいたほうがよいよ。変なことで財務局が調査をしなければならないことがあるかも知れないし、何よりも今後投資顧問業者に登録することは年々難しくなるよ」といわれた。必要はないと思ったが、登録することにした。
だが相手は政府機関であった。近畿財務局に手続きをするのであるが、近畿財務局は当時各地に12か所あった全国の財務局に同様の書類を配布するのである。つまり12部の書類を用意しなければならない。近畿財務局で書式や内容・顧客との契約締結のための契約書のひな形を審査して、不備や間違いがあれば、訂正してまた12部を作って届けるのである。これを5〜6度繰り返して、ようやく投資顧問業者の登録ができた。
国には500万円の供託金を積んだ。実際には日銀大阪支店に額面500万円分の国債を預けたのである。これらは実戦株価分析の売り上げ増加には何も役立たないことであったが、よいこともあった。
(右は日銀京都支店。竣工:PL39年。設計:辰野金吾。長野宇平治も手伝っている)
日銀大阪支店とは関係がないが、日銀京都支店も訪れたことがあるので、余分ながら掲げておく。
見るように煉瓦造2階建てである。辰野は日銀建物については、@クラシック→Aネオ・ルネッサンス→Bクイーンアン と違った様式を採用したわけだ。今は日銀としてではなく京都文化博物館の別館として使われている。
のちの辰野の煉瓦造(東京駅を代表とする)のように煉瓦の間には水平に白い石が貼られて水平性を強調しているのだが、水平線が多過ぎてゴチャゴチャしている。中央玄関の上の屋根や建物の左右の屋根の上には塔が建てられて装飾過多である。
よいこととは、日銀に供託金を差し入れてから日銀大阪店を年に2回訪れるようになったことである。1990年ころの10年国債利子(表面利率)はおそらく7〜8%であったろうと思う。500万円なら年に35〜40万円の利子である。年に2回利払いがあるので、1回につき17.5万円〜20万円を受け取ることができる。これは日銀大阪店で払われるので、中之島の御堂筋西側にある日銀へ定期的に受け取りにいった。
客はほとんどいない。日銀に預金ができるわけではないから一般の客がいるはずがない。窓口に利札を出して、ゆったりしたソファーに腰掛けて待つのだが、壁の裾は大理石かと思うほどに立派な石が貼られていた。ついでだからトイレも見てみようといってトイレに行ったが、同様に豪華なものでチリのひとつも落ちていない。ピカピカに光っている。
家内にこのことを話し、次回からは家内にいってもらうことにした。それが家内の役目になって続いた。なお上図の旧日銀大阪支店では業務はしていない。旧建物の奥にある低い白いビルが日銀大阪支店である。(もっと奥の高層のビルは大阪中之島ビルである)
■ 酔夢夜話(21) 2019. 1.30 ■
1989年の大納会が株価バブルのピークとなった。この日のザラバ高値は38957円、終値は38915円だった。
翌年1990年の大発会は38920円で寄り付いたが、1月末の株価は37180円で昨年高値(終値)より1700円安く終った。それほど大きな下落ではないので誰も悲観していなかった。
しかし4月には27250円まで下げた。ピークから-11170円(-30%)の大幅な下落である。
それでもなお強気の癖が抜けない投資家は5月に押し目買いを入れ、株価はいったんは33340円まで戻したのである。
この時点では昨年のピークから-15%ほどの下げでしかないと思う人もいたであろうが、大勢はすでに決まっていた。この反発では私が重視している18月平均線・36月平均線・48月平均線の3本の平均線のうち最も高い位置にある18月平均線を上抜くことはできなかった。いわゆる「戻り一杯」であった。
最も下位にある48月平均線は27000円であったが、4月の安値27250円はギリギリこれを割り込んでおらず、まだ大勢波動(2〜5年の波動)は下降トレンドになっていなかった。だが株価は再び下げだした。8月に48月線を大きく下抜き、9月には20670円まで下げて、ピーク38915円から-47%の下げとなった。
10月には19780円まで下げて、ピークの38915円から半値になった。1989年のピークへ向けて上昇を開始した最後の上昇波動は1987年10月の安値21040円からであったが、既にこの水準は下回った。つまり1988年〜1989年の2年間に亘る株価の急上昇は誤りであったことになる。投資家はムードに浮かれすぎていたことが明らかになったのである。株価は完全に崩壊したと投資家のほとんどが確信したと思う。あとはいつ立ち直るのかを祈るばかりであった。
しかし土地バブルはまだピークを打っていなかった。あとで1990年の年末が地価のピークだったことがわかるのだが、土地は下がらないという神話は続いていた。株価は1985年のプラザ合意以降5年間で3倍になり、地価は4倍になっていたのである。株価以上に地価が下落してもおかしくはなかった。
日銀は物価について判断を誤っていた。物価はたいして上昇していないと判断していたのである。家賃の上昇は物価統計に跳ね返るが、地価の上昇は資産の上昇であるので物価の統計には入らない。通常は土地や店舗を使って収入(インカムゲイン)を上げ、これがGDPを成長させるのだが、地価だけが騰がった。土地を利用するのではなく値上がり益(キャピタルゲイン)による収入にばかりに目が向いたのである。これは一見すると物価が騰がっていない、GDPも急成長はしていないということになる。
むろん土地売却によって巨額の利益を得た者もあったが、多くは地価の上昇による含み益を担保にして、新たに銀行から融資を受けて新規の物件を買っていた。会社もコツコツと稼ぐ利益よりも土地の値上がり益のほうがはるかに大きかったので、土地や株式を買った。これは「財テク」と呼ばれた。(財務テクノロジー)とはよくも言ったものである。テクノロジーはなかった。時代のムードに乗っかっただけである。
国も浮かれた。リゾート法を成立させて、厚生省などは各地に豪華な保養施設を作った。各地に職業訓練やスキルアップのためにための教育機関を作り、立派すぎる建物を作ったが、たいして利用されなかった。民間企業も豪華保養地や贅沢な社宅や独身寮を作った。これらはGDPを押し上げるにはわずかの力でしかなかった。
右は大阪中之島にある大阪市中央公会堂。(竣工:T7年。設計:岡田信一郎)
中央公会堂は株式仲買人で相場師でもある岩本栄之助が寄付した資金によって建設されたものである。岩本は日露戦争が終わったあとの株式暴落に全財産をつぎ込んで株式を買い支え、株式市場を救うとともに、大きな利益を得て「北浜の風雲児」とたたえられた。1907年(PL40年)のことである。
岩本は単なる相場師ではなかった。公会堂建設のために100万円の寄付をしたことでもわかる。だが
岩本は、1916年(T5年)に第一次世界大戦による相場で売り手となって、巨額の損失をだし、自殺した。公会堂竣工の2年前のことであった。公会堂は重文。
右は東京皇居前にある明治生命館。(竣工:T9年。設計:岡田信一郎)
クラッシック様式で円柱が並んでいるのをオーダーというが、明治生命館の正面にはコリント式の円柱がなんと10本もならんでいる。これは日本で最も大きなオーダーであろう。また建物の姿が非常にすぐれている。重文。
東研ソフトの売り上げは1990年2月期にピークをつけた。1990年2月期は、私一人がプログラムを組み、マニュアルを書いて、講演にでかけて、約5000万円の売り上げであった。1991年3月期は前年比で-20%くらい低下したが、それほど苦しくはなかった。何しろ粗利益率は80%を超えていたから、売り上げはすなわち利益である。固定費(家賃・給料・光熱費)は変わらないので利益は売り上げの低下以上に減ったが、支払いに窮することはなかった。
株価(日経平均)がピークから半値になった10月の安値19780円が底になるのであれば、今後何年間はピーク株価を奪回することは無理としても1年間に5000円幅くらいの変動はあるのではないかと思っていた。5000円幅とは安値(約20000円)の+25%の動きである。1年間の変動率としては珍しいことではない。年に25%の変動があれば投資家が投資して利益がでるチャンスはある。
■ 酔夢夜話(22) 2019. 1.31 ■
1991年1月17日の米国(一応は多国籍軍といった)はイラクを攻撃した。スカッドミサイル(トマホーク)を大量に打ちこむと同時に空爆を行った。
ミサイルの威力は強烈であった。イラクの重要な軍事施設は破壊され、イラク軍は組織的な反撃ができなかった。無力であった。ミサイル発射の様子は長時間テレビで放映された。
投資顧問業者になると、顧客にどういうアドバイスをしたのか、顧問収入はどれほどだったのかを、毎年財務局に報告しなければならない。例によって全国にある財務局のために12部を近畿財務局に提出するのである。
東研ソフトは近畿財務局で第64号の登録者であった。この64号のうちの半数以上は「一任勘定」(投資運用)をする企業である。例えばA社の子会社BがA社グループの企業の資金を運用するとなると「一任勘定」ができる登録をしなければならないのである。東研ソフトは「投資助言」ができるだけなので、投資家から金銭を預かることはなく、客の資金の運用をすることはできない。
(右は近畿財務局がある合同庁舎の近くにある高床式倉庫(復元)。淀川沿いにあった古墳時代の港湾施設である。淀川を上り・下って船で運ばれた租(米)や調(布などの特産物)をこの倉庫に陸揚げしていたのだろう。
財務局は、毎年の報告が正しいかどうかを登録業者の会社を訪ねて調査をする。2〜3年に1度はある。
ちょうど湾岸戦争でミサイルを発射している日が調査の日であった。近畿財務局のBさんと他2人が会社にやってきたが、東研ソフトは投資顧問といえる業務は何もしていないのである。
皆でテレビの回りに腰掛けてミサイル発射をずっと見ていた。翌日も調査があったが何も不都合なものはないので、早々と戻っていったのだが、事前にチェックしていた間違いを告げ、再度報告書を提出するようにと告げられた。間違いの箇所は、報告書に「非常勤役員」を2人と書いていたが、監査役をいれて3人が正しい、というものであった。たったこれだけの訂正のためにまた12部の報告書を作るのである。
■ 酔夢夜話(23) 2019. 1.31 ■
1989年のバブル時には西宮の公団住宅に住んでいた。結婚したのは1982年であるが前年の1981年から2DKを借りていた。1986年に同じ団地内に3LDKの棟が建てられた。室内面積は80平米で、家賃は10万円であった。その後、もう1戸借りれば家賃は半額にしますという制度ができたので2戸目を借りた。家賃は合計15万円である。いまなら、特に東京ではこんな家賃で160平米の部屋を借りることはひっくり返ってもできないが、まだ大阪では土地バブルはたいしたことはなかった。住宅公団は入居者の募集に汲々としていたぐらいである。
(右は3LDKに越した年の夏)。入居していた棟から10分ほど歩けば淡路島行きのフェリー乗り場(地図をみると今はなくなったようだ)があったので当日の朝に思いついて海水浴に出かけることがしばしばであった。
フェリーの畳敷きの桟敷というのか、ここに寝転がってテレビを見、子供たちにお菓子を与えてゴロゴロしていると1時間で淡路島の志筑港に着くのである。ラクチンな海水浴行であった。
多くは志筑港からタクシーに乗って近場にあるいくつかの(大阪湾に面している)海水浴場に行ったが、一度だけ家内が運転する車で、瀬戸内海に面した五色浜海水浴場に行ったことがあった。近くには慶野松原(けいのまつばら)がある。今なら柿本人麻呂の
飼飯(けひ)の海の
庭よくあらし
刈薦(かりこも)の
乱(みだ)れ出ず見ゆ
海人(あま)の釣り舟 (万葉集3-256)
を復習して出かけるのであるが、まだこのころは万葉集には馴染んでいなかった。
左は長男、右は長女。現在は二人とも結婚して東京に住んでいる。右端のベビーベッドは生まれたばかりの次女が眠っている。現在、次女はエミちゃんの母親だ。このときは明日は淡路に行こうと予告していたのだろう。二人は浮き輪に入って泳ぐ真似をしていた。(子供が小さいころの写真はアア懐かしい)
同じ1986年に名張に土地を買った。東京の地価をみているとどうも土地は上がる一方である。土地をもっていなければ銀行からの融資が受けられなくなるかも知れないと心配したのである。
契約した前日、私は名張に住む唯一のユーザーに呼ばれて初めて名張という土地に行っていた。
名張は近鉄大阪線にある。上本町駅を出た近鉄電車は、信貴山の麓を迂回して南下し、二上山の裾を登っていき、奈良盆地の南部に出る。そこからしばらくは奈良盆地の平坦な線路になるが、隠国(こもりく)の初瀬(長谷寺)に向かって次第に山中を登り始める。登りつめると榛原駅(はいばら)である。ここの山々は名張市との境界である。
榛原(今は宇陀市)から線路はしだいに下り坂になる。線路の両側は杉や雑木が繁っていて薄暗い。電車は木立に挟まれた陰気な線路をどんどん進んでいく。酔夢夜話(5)で掲げた万葉集の「・・・沖つ藻の名張の山を
今日か越ゆらむ・・・」の山道はこのあたりのことであったろうと今では思っている。
急に視界が開けた。突然だった。それが名張の盆地であった。日差しは明るかった。土地は平らかで、一面は田ん圃である。のどかな風景が拡がっていた。新天地に迷い込んだのかと錯覚するほどであった。
訪ねたユーザーの家は後から知ったのだが近鉄不動産が開発したもので、各戸の敷地は80坪くらいの広さがあった。土地は盛り上げられており、敷地の周りには大きな石が積んであった。まあ大阪の下町ではこのように大きな石を積んだ家はそうお目にかかれない。大阪から1時間離れて幾つもの山裾やトンネルを辿ると、こんなに立派な住宅地があったのか。キツネに騙されたような気分で帰宅したら、家内が今日不動産のセールスがきて名張の土地を勧められた。セールスは若くて感じのよい娘だったといった。ハーッ、今日初めて名張にいったが、山のなかによい住宅地があったぞ。といえば明日もう一度セールス娘が来るということであった。
翌日そのセールス娘が上司をつれてやってきた。名張という田舎の土地なので高いものではない。私にとっては不動産を所有することが必要であったので買うことにした。ただ敷地面積は60坪で、ユーザーの敷地ほど広くはなかった。契約書を書く時セールス娘の手がひどく震えて、文字が書けなかった。新人である。初めての成約である。無理はない。
その後セールス娘は年賀状をくれたり、結婚式の写真を送ってきたりしていた。だれでも初めてセールスで成約したときは嬉しいものである。いつまでも相手客のことを覚えている。土地を買って半年くらい後に、その不動産会社から家を建てませんかといってきた。実は本業は住宅の建築会社で、分譲地も開発していたわけだ。
1987年に家を建てたが、なお西宮の公団に住んでいた。団地は甲子園球場に近かったし、今はもうないが阪神パークという動物園もあるし、大きなCOOPもあり、団地内には多くの飲食店があって便利な生活ができていたのである。
だが公団の家賃と住宅ローンの2つに加えて東研ソフトが借りているビルの家賃の支払を合計すると1か月に75万円になっていた。これは減らさねばならない。相場がよくなるまで何年かかるか知れない。公団から名張に越そうときめた。家を建てたころは近くに小学校はなく、遠くまで集団で登下校をしていると聞いていたが1990年に近所に小学校が建てられて、子供の登下校に不安がなくなったことも要因のひとつであった。田舎暮らしは初めてだが何とかなろうと引っ越しに踏み切った。
■ 酔夢夜話(24) 2019. 2. 1 ■
1991年は1990年の安値19780円を下回ることなく、相場は保合いだった。だが株価が上昇しても3本の平均線を上抜くことはなかった。完全に戻り売りの相場になっていた。
西中島1丁目時代は、実戦株価分析を補完するためのいろいろなプログラムを作り発売した。(1989年ころから男性1人と女性1人の社員がいて、商品の発送や事務、ハードディスクへソフトとデータをセットアップするなどの仕事をしてもらっていた)
@「実戦株価分析・検索編」を作った。これは3〜5つのチャートを1本にまとめて、それぞれのチャートに売買条件をつけて検索ができるようにしたものである。トレンドを重視するもの、モーメンタムに注目するものなど30本ほどのプログラムを纏めていた。
A「実戦株価分析・業績編」は企業業績から銘柄を選ぼうというもの。
B「実戦株価分析・統計編」はチャートの数値の統計をとり、どういう局面が多いのか、よく当たるのかを調べるもの。
C「実戦株価分析・CB編」は株式がダメならCB(転換社債)はどうか。CBは余程のへまをしない限り損失がでることはない。割安のCBを見つけるためのものであった。
D「売買管理」はトレードした損益を集計するもの。株式・CB・商品先物などあらゆる対象のトレードの管理ができた。
思いつくままプログラムし、マニュアルを書いたものの、大きな反響はなかった。やはり需要は圧倒的に株式分析に関するものが多かった。
1992年3月には1990年のバブル崩壊後の安値19780円を下抜き、8月には14190円まで下落した。株価はピークの36%(-64%安)になってしまった。ピークにいたる上昇相場は
- 1982年10月の6850円を起点として1984年5月まで約1年半ほど上昇した(一段上げ)
- 1984年7月の9700円を起点として1987年10月まで約3年3か月ほど上昇した(二段上げ)
- 1987年11月の21040円を起点として1989年12月まで約2年上昇した(三段上げ)
をしていた。1982年を起点にすると、約7年間上昇した株価は5.7倍になっていたのである。3段上げで上昇が一服するということは相場の常識である。これが逆転し、3段下げをしようとしているのかも知れない。このころは嫌な予感がしていただけだったが、のちにそれは現実のものとなった。
東研ソフトの売り上げはピーク時の40〜50%に落ち込んでいた。売り上げが半分になったのだから西中島5丁目のビルを出て、安いビルに移らねばならないな。
1990年に越した名張から西中島に通うには時間がかかった。
- 自宅から名張駅までだいたい20分かかる。電車の椅子にすわるためには10分ほど早く駅についておくことが必要だったので(30分)。よいことにはバス停でバス待ちをする数人の近所の人と仲良くなった。
- 名張から近鉄難波駅までは大阪上本町で乗り換えをするので(1時間10分)。
- 難波で地下鉄御堂筋線に乗り換えて(約20分)で西中島につく。
- そこから歩いて会社まで(5分)。だいたい片道の通勤時間は(2時間強)である。
通勤時間を短縮するには、会社を上本町6丁目におくのがよい。上本町6丁目は略して(上六。うえろく)と呼ぶが、ここには近鉄の本社がある。その割には駅周辺に繁華街はなく、近鉄百貨店。都ホテル・近鉄劇場(今はない)といった近鉄が経営するビルが多かった。ともかく名張から通勤するには一番便利な駅である。大阪に向かっては乗り過ごすこともないし、名張に向かっては確実に座席に座ることができる。
不動産屋に探してもらったら、上六の隣りの上七(上本町7丁目)に貸し事務所が見つかった。
(右図の中央のピンク色の建物)1階はドイツの焼菓子の製造販売をしていた。2階は事務所の造りで、5室ほどが並んでいて、外からドアを開けて出入りができた。3階以上はマンションである。
室の面積は半分になったが家賃も半分になった。狭くなったが、トイレや湯沸かし室があり、フロアーには3台のパソコン台と事務机4台、広げるとベッドになるやや大きいソファーと接客用のテーブルが収まった。
隣の茶色いビルは1階が胃腸科クリニック。3階以上はマンションになっている。その裏に「国際交流センターが建っていて各国から大勢の外国人がやってきていた。元は司馬遼太郎さんの母校である大阪外語大学があったところである。
■ 酔夢夜話(25) (2019.2.4)■
天王寺区上七に越した1993年から1995年の3年間は1992年の安値
14190円を下回ることなく、3本の平均線の最上位の平均線を上抜くことなく過ぎた。「大保ち合い」である。株価が動かないときは売上が極端に減る。
1992年2月期の売り上げはピーク時の売り上げより-35%ダウンした。1992年にバブル崩壊後の安値14190円をつけたからである。株価が-63%下げたのに比べれば、売り上げの-35%減はまあよしとせねばならない。
しかし1992年の最安値をつけた時期を含む1993年2月期の売り上げはピーク時の-55%減になった。売り上げはちゃんと日経平均と連動していた。私の給料もピーク時の-35%減になった。1995年2月期は少しよくて売り上げはピーク時の-47%減まで戻ったが、大きな流れはなお下降トレンドにあった。
1993年からの大変化はマイクロソフトが Windows を出したことである。1993年5月にWindows3.1が日本でも発売されていた。パソコン誌ではWindowsの時代がやってきた。従来のプログラムは駆逐されてしまうだろう。と騒ぐので、1993年の年末に日本橋の上新電機にWindowsパソコンを買いにいった。
IBMのディスプレー一体型のVision というモデルを買った。CD-ROMドライブはなく、別売のCDドライブを増設するようになっていたと思う。FD
(フロッピー)は5インチのドライブが内蔵されていたと思うが、写真は3.5インチのようなので、のちに作られたモデルかもしれない。ディスプレーは10インチか12インチで、広くはなかった。
早速プログラム作製に取り掛かった。Windowsの開発言語はVisual Basicである。従来のメーカー各社が用意している旧BasicではWindows用のソフトの開発はできない。だがマイクロソフトは Quick Basic という開発言語をWindowsに先んじて1988年に発売していた。MS-DOSをOSにして動くのだが、プログラムを構造化してわかりやすいプログラムにし、別のプログラムでもその一部(パーツ)が使えることを目的としていた。
構造化とは、@行番号はない、Aさせたい仕事を1つのサブルーチンにまとめておく、Bいくつかのサブルーチンを用意しておき、Cサブルーチンの名前を指定してその仕事をさせる。DDo ....Loop を使い繰り返しの仕事をさせる。Eサブルーチンの中ではそのサブルーチンだけで使う変数が定義できる。(旧Basicではプログラムで使う変数の数値はいつまでも記憶していたので変数の管理は大変だった)、といったものである。
Quick Basicはユーザーの大津のAさんが「自分では使う時間がないから」というので貰ったものである。たぶん1990年くらいから、旧BasicのプログラムをQuick Basicに移植していたと思う。
《Qエンジン》というソフトは今までもあるが、これはQuick Basic の機能をうまく利用したソフトである。条件表が簡単に設定できる。その条件表を@描画と、A計算に使う。B条件表は各ソフトで共通して使える。というアイデアはQuick Basic を学ぶ過程でひらめいたものである。Quick Basicのお陰でその後の東研ソフトが開発するソフトは大きくハンドルを切ることになった。《Qエンジン》の「Q」はQuick BasicのQである。
Windowの開発言語のVisual Basicの文法はQuick Basic とほぼ同じだったから、この置き換えは簡単であった。ただ画面に関係するものは一新した。画面(フォームと呼んでいる)にボタンやパネル・ファイルリスト・テキストボックス・ラベル・イメージといったコントロール(パーツ)を配置して、このボタンがクリックされたらどのサブルーチンに行けとするのである。(イベント・ドリブンという。ボタンをクリックするというイベントが起きて初めて何をするかが決まる)
Visual Basic はフォ−ム(画面)の自由な位置にコントロールを配置でき、コントロールの大きさを自由に変更できる、といった機能を持っていた。旧Basicではプログラムする前に紙面に画面の設計をして、キチンと画面のイメージを作り上げておいてから、プログラムで画面を表示させていたが、Visual Basicは綿密な画面を設計することはしない。自在にコントロールをフォームに貼りつけて画面をつくるのである。まさしくビジュアルに画面ができる。これは便利すぎる機能であった。
その上Visual Basic はコンパイルして動かすこともインタープリターで動かすこともできた(Quick Basicも同じ)。インタープリターとはBasicを実行すると、その都度プログラムに記述してある文を解析してマシン語に置き換える方法である。一単語ごとに解析するので実行スピーはやや遅かった、コンパイラーとはVisual Basic で記述した文をマシン語に変換してプログラムを実行するので実行速度は速い。(ただしVisual Basic はコンパイルしても中間言語に変換するだけで、完全なマシン語にコンパイルはしていない。)
プログラムを組んでいるときは、インタープリターで動かしてデバッグする。プログラム中に曖昧であったり間違っている箇所があると、それはそれは丁寧なメッセージがでる。プログラムのどこで、どういうエラーが発生しているのかを教えてくれる。旧Basicに比べてプログラムの効率性は格段に高くなった。
エラーがでなくなったらコンパイラーにかける。このときはプログラムの全体についてデバッグしてくれるので、いつエラーがでるかと心配することはほとんどなくなった。(それでも扱うデータ・処理したデータによってはエラーが発生することがある)
■ 酔夢夜話(26) (2019.2.5)■
IBMのVisonで1994年6月ころには実戦株価分析をWindows 対応に移植した。Windows版の新しいソフトは《カナル》と名づけた。
カナル(キャナル)は運河のことだが、火星に運河があったという話が戦前にあった。また火星人が存在するという話もあった。火星の運河のことを単にカナルと呼んでいた。
いまでは火星人も運河もないことは否定されているが、地球人は火星(マース)に愛着をもっているのである。大衆に火星が浸透したきっかけは、戦後すぐの1950年に執筆されたレイ・ブラッドベリの「火星年代記」である。
外国の小説の翻訳はなかなか難しい。翻訳本はとても吉川英治さんや司馬さんの文章の滑らかさには負けるのであるが、小笠原豊樹さん訳の「火星年代記」は読みやすかったので直ぐに話に引き込まれてしまった。ブラッドベリの詩情と悲哀が漂っている。こでは短編を年代順に配置して、前半は火星と人間の関係について語り、後半は地球人が火星でしたことを静かに語っている。
1980年以降のことだと思うが、深夜に「火星年代記」のTVドラマを何日間か連続で放映していた。この1回目をたまたま見たので、続いて毎回見ることになった。TVドラマを見ることで火星年代記のイメージの手掛かりを得た。火星年代記は、
@地球人が火星を探検にいく、
Aそこでは火星人との対立があり双方の目指すものが大いに異なっていた。
Bしかし地球人が知らずに持ち込んだささいな病原菌が火星人を滅亡されさせてしまった。
C火星人滅亡を知ったのは第4次探検隊の隊長のワイルダーであった。ここから主人公が特定されて、物語が進むのである。
TVドラマは幼稚な撮影技術といわれたりしたが、詩情があり、火星人の悲しみや人間の哀しみと愚かさが基調にある素晴らしい話であった。
今度ソフトを作ったときは《カナル》と名づけるぞと決めていた。
移植といえば簡単そうだが、全面的に新しいプログラムを作ったというほうが正しい。Windows版ではどういう違いがでたかというと、
- 画面(フォーム)はVisual Basic様式になった。旧Basicの画面とはまったく別物になった。
- 画面に自由な位置に自由な大きさのコントロール(パーツ)が配置できるので、画面を予め設計しておく必要がなくなった。
- ドライブ・ディレクトリ・ファイルの指定が簡単にできる。
- 画面に計算結果などをリスト型式で表示させ、リストはその場で修正したり、追加や抹消をするこができる。
- エクセルのように表形式で文字や数値を表示させることがきる。1つのマス目(セル)をマウスで指定して、内容を変更することができる。
実に視覚的に(ビジュアルに)操作ができる画面ができるのである。
|
画面(フォーム)に
@リストbox Aラベル label Bテキストbox Cチェックbox Dオプションbutton Eコマンドbutton
などのコントロールを自由自在に配置できるので、
まずフォームで使いたいコントロールを配置する。
左側のツールボックスという縦長の画面からコントロールを選択し、フォームの配置したい場所をダブルクリックすると画面にコントロールが貼りつけられる。
上図の緑色の線はテキストboxを貼りつけている。テキストboxの枠内をクリックすると、枠内に文字や数字を入力することができる。図のテキストboxは検索期間の最も古い年月日を入力するので、このコントロールの@名前は「txtsymd」と名づけ、A表示する文字は、サイズが10ポイントで、Aゴシック体、B文字数は6文字まで などを右図の右端の下部にあるプロパティ欄で決める。
図の太い青色の線はボタンbuttonを貼りつけたことを示している。ボタンをクリックするとボタンによってそれぞれの仕事を行わせる。図のボタンは検索を「開始」する、条件表を「修正」する、この画面を「終了」する ために、3つのボタンを配置している。このコントロールの@名前は「btnok」と名づけ、A「開始(Y)」という文字を表示する などを右図の右端の下部にあるプロパティ欄で決める。
コントロールをフォームに配置すると、コードを記述する箇所に、(sub btnok_click() )という場所が自動的にできている。
サブルーチンの名前は( private sub btnok_clik() )と名づけられている。これはボタン(button)をフォームに貼りつけたときにボタンの名前を(btnok)と名づけたからである。
ここに「開始」ボタンがクリックされたらどうするかのプログラム(コード)を記述する。プログラムを記述した部分は「コード」と呼ばれる。
図のコードには
Dim d$
SWESC = 0
JNO = lstjoken.ListIndex + 1
NM$ = "No." + Right$(Space$(3) + Str$(JNO), 3) + " " + atl(JNO).name
JNOdwm(KDW) = JNO
JNOdwm(KDW + 3) = COMJNO
PEnd = Val(txtsaisin.Text)
PStart = Val(txtterm.Text)
などのVisual Basic の文法にもとづいた記述をする。初めての人には取っつきにくいが、Quick Basicと同じ文法である。旧Basic→Quick Basicにプログラムの移植ができていれば、コード部分はほとんど手直しすることなくVisual Basic の文法に移植できる。
このようにVisual Basicはフォームとコードの2つによって成り立っている。フォームにコントロールを貼りつけることは簡単で、短時間で済む。あとで必要なコントールを追加したり、不必要なコントロールを抹消することもできる。1つのコントロールは1つのコードを記述するが、とくに何もしなくてよいコントロールにはコードを記述しなくてよい。
これならいくらでもソフトが短時間で組める。そのフォームは同じ様式なので、ソフトによってどこをクリックすればよいのかと迷うことはない。感動といえば大げさだが、それくらい感心したのである。Visual Basic はBasic言語に革命をもたらせた。
Visual Basicは1993年にVB2.0→1995年にVB4.0→1998年にVB6.0が発売された。Viual Basic 2.0の価格は10万円以上していたがバージョンアップのたびに安くなり、Visual Basic 6.0では5万円くらいになっていたのではないか。
Visual Basic 6.0のコードを記述することは易しいし、ビジュアルなフォームが簡単にできるので、圧倒的な人気があった。他の開発言語は(C++)のようになんでもでき、高速に動き、他のソフトに組み込むことができる、といったよいところがあったが、文法は難しく、プログラムは巨大なものになった。初心者であれ、ソフトの開発業者であれ、社内のシステムを作る者であれ、だいたいはVisual Basic を使っていた。
だが開発言語は進化する。2002年に(C++)を基本としたVisual Basic.NETが発売された。Visual Basicの愛用者は少しずつ.NET に移っていったが、なにしろ.NETは難しい。そもそもVisual Basicとはプログラムに対する考え方が違っていた。すでにVisual Basicで多くのソフトを開発している者にとっては取っ付きにくく、Visual Basicのような爆発的な人気にはならなかった。
VB6.0は.NETが発売されて以降は消えていく運命にあったが、VB6.0の愛好者は多く、マイクロソフトは2008年までVB6.0のサポートを続けた。発売してから10年間も生き続けた開発言語は稀有の存在であった。
ところがVisual Basic 6.0はこれで終わりとはならなかった。現在のWindows 10でもきちんと動いている。マイクロソフトが発売しているExcelやWord にはVBAが使えるようになっている。VBAとは Visua Basic for Application の略語である。つまりVisual BasicはVBAとしてExcelやWordで利用されているのである。Windows10はWindowsの最後のバージョンであるといわれているが、Excel や Word が無くならない限り、Visual Basic 6.0 は使い続けることができることになる。
■ 酔夢夜話(27) 2019. 2. 6 ■
すでに1994年には《カナル》は完全にWindows上で動作していたが、《カナル》の販売はしなかった。まだWindowsマシンが普及していなかったし、Windows3.1では動作が遅かったからである。
1995年11月にWindows95が発売された。
@画面が精細でユーザーインターフェースが完璧であったこと、Aネットワーク機能が充実していたこと、の2つで革命的であった。
@はVisual Basicで作られたフォーム上のボタンなどのコントロールをクリックして仕事をする。フォ−ムはディスプレーに何枚でも表示でき、別のフォ-ムをクリックすれば別の仕事をすることもできる。
Aはインターネット接続ができたことである。Windws95のころはまだ電話回線を利用していた。その後、より高速な通信をするために1999年くらいからISDNとかADSLが普及していき、2001年くらいからCATV→光ファイバー→無線LANへと発展していったのである。
Windows95時代は電話回線を利用したので通信時間はかかったが、インターネットエクスプローラを起動すれば簡単にHPを見ることができるようになった。
Windows95は爆発的な人気となった。インターネットエクスプローラ(IE)が標準で付いておりVer.2であった。次のWindows 98はIEのVer.4が乗り、WindowsXPはIEVer.6が乗っていた。その後バージョンアップが重ねられて、Ver.11までいった。Windows10になるとIEは廃止されEdge(エッジ)が組みこまれた。
右は天王寺区上本町七丁目(上七)の事務所の一画。
Windows95が好評なため、Windowsが乗ったパソコンは大いに売れた。だがMS-DOS上で動いている実戦株価分析
の売り上げはドンドン減っていった。Windows95が出る前の1995年2月期の売り上げはピーク時の53%であったが、1996年2月期の売り上げはピーク時の30%まで落ち込んでしまった。ピークから-70%減である。
1996年2月期はWindows95が発売されてから3か月しかたっていなかったが早くもWindows革命に引きずり込まれてしまった。《カナル》を発売する準備はできていたが、まだWindowsのソフトに切り替えることは躊躇していた。その主な理由は
- Windows3.1で動くソフトは動作が遅かったことである。買ったIBM visionのメモリーが少なかったので、メモリ整理のために動きがよく止まっていた。メモリを増設してもさして速度はあがらなかった。これはWindows3.1そのものが遅いのだろうと判断していた。
- 次にユーザーの全員はOSがMS-DOSパソコンで実戦株価分析を動かしているが、CPUは286とか386ではWindowsは動かない。
ユーザーが果たしてWindowsマシン(PC/AT互換機やCPUが486のDOS/V)に買い替えるだろうか、という心配があった。東研ソフトがWindows対応のソフトに移行しても、ユーザーがWindowマシンを買わないならソフトは売れない。
- 最後に悩んだのは《カナル》の価格である。IBM Vision を買うと、いろんなソフトが入っていた。一番重宝したのはお絵描きソフトの「Image Folio(イメージ・フォリオ)」であったが、これは26年経ったいまでも使っている(毎日のHPの記事の画像はこれを使っている)
。またWindowsにはメモ帳(エディタ)や電卓のソフトがついている。
小さなソフトや単純な操作ですむソフトが今後は無料になっていくことは明らかであった。大きなソフトであっても10万円を超える値段では売れなくなるだろう。《カナル》は発売する前から68,000円で発売しようと決めていた。そうなると23万円で買っている実戦株価分析のユーザーはガッカリして《カナル》を購入しないことも考えられる。
一番悩んだのは3)であったが、パソコン価格はこの13年間で1/15になった。ソフトもいずれ1/5とか1/10の価格になるだろう。パソコンに必須のソフトはバンドル(組み込み済み)されて無料になるだろう。さいわい株式ソフトは売ってから手間がかかるものだから、無料になることはない。アフターケアをしない株式ソフトなら無料になるかも知れないが、そういうソフトは広く流布しないし、ユーザーは根付かない。68,000円なら、まず売れるだろうと思っていた。
Windows時代に突入すれば、売り上げは減るに決まっているが、何もしなければもっと減る。今発売しているすべてのソフトをWindows対応にするには時間がかかる。Windows3.1の動作は遅くとも、まずはWindows対応のソフトを他社に先がけて発売することだ。
■ 酔夢夜話(28) 2019. 2. 7 ■
1994年の後半から製品としての《カナル》を作り出した。Win3.1で作った《カナル》はいわば試作品である。これに実戦株価分析を上回る便利さと機能を追加するのである。
《カナル》の完成版は1995年7月から作り始めたが、その年の1995年11月にWindws95が発売された。早速Windws95とNECのPC9801を購入した。
翌年1996年2月に商品としての《カナル》が完成した。PC9801で動かしてみると、動作はスムーズで早かった。これで実戦株価分析を抜くソフトができたなと大満足であった。
1988年から1990年にかけて、株式ソフトの販売店は雨後の筍のように増えていたが、バブルの崩壊で1995年当時は半数へ減っていたと思われる。投資顧問法による業者登録の問題もあって廃業した店もあろう。そして今度はWindowsで動くソフトにしなければならなくなった。多くのソフトの発売者が売る株式ソフトはほとんが自社で開発していなかった。株式については一家言を持っていてもソフトを作る能力はなかったし、ソフトハウスのプログラマーは株の知識はなかった。半分ずつしかわかっていない者たちが相談してソフトを作るのであるから、金も時間もかかったはずだ。多くの業者はWindows対応を断念したかと思う。
東研ソフト(つまりは私)は、株の知識はあるし、チャートの見方も習熟している。しかもプログラムが組めるのである。考えた通りにWindows対応のソフトを一人だけで作ることができる。おそらく株式ソフトでのWindows対応版を出したのは日本で1番目か2番目であったと思う。少なくとも大阪を含めてそれ以西では唯一だった。
《カナル》のテスト版は1995年の夏には完成していた。IBM vision でVisual Basic 2.0を開発言語にしてプログラムすることには慣れていた。完成版の《カナル》は1995年の7月から着手し、翌1996年2月に完成した。7か月がかかったわけであるが、Windows95の発売からは3か月目のことであった。Windows95を入手してから作りだしていては、3か月で完成することはとても不可能である。テスト版を作り始めてから1年2か月をかけたからこそ、1996年2月に完成したのである。
《カナル》は「条件表」という仕組みを導入した。導入したとはいってもどこかですでに使われていたものではない。東研ソフトが考え出した画期的な仕組みである。どう画期的で、かつ独創的であったかというと、
- 条件表に設定してあるチャートを描く。
- また条件表に設定してある計算をする。
- 条件表に設定してある売買条件が合致すれば、グラフ上に売買マークがでる。
- 条件表に設定してある売買条件が合致した銘柄を検索する。
ことができるのである。1つの条件表を設定しておけば、@思い通りのグラフを描かせ、売買マークを表示させることができるし、A計算でチャートの数字を出力するだけでなく、売買条件の合致した(つまり売買マークをだした)銘柄を検索できるわけである。
それだけではない。いくつもの条件表を設定しておけば、条件表を指定することで別のグラフや別の検索をすることができる。
右図は条件表の一覧表。条件表にはタイトルをつけることができるので、条件表に何を設定しているかがわかりやすい。当初の《カナル》の条件表は1本のファイルに記憶されており、そこにはNo.1〜No.99の99本の条件表が設定できた。
その後条件表を記憶保存するファイルを(描画1)(計算2)(標準3)(拡張4)(拡張5)・・・(拡張9)と名づけた9種類のファイルに増やし、各ファイルには99本の条件表が記憶できるようにした。設定できる条件表は約900本(=99本×9種類のファイル)となった。
《カナル2》・・・作製:1995年7月〜1996年2月
条件表にしたがってグラフを描き、条件表に設定してある売買条件にもとづいて売買マークをグラフ上にだし、同じ条件表を用いて売買マークがでた銘柄を検索できる。画期的なソフトであった。
《ウェーブ3》・・・作製:1996年1月〜1996年3月
先物とオプションのためのシステム。コールとプットのチャートや先物を含めたポジションが組める。Windows対応のものは他になかった。データは大証のHPからダウンロードして変換する。
《Qエンジン》・・・作製:1995年9月〜1996年5月
《カナル》の条件表を、@最適なパラメータにし、A最適な売買条件(以上・以下)を見つけ、Bさらには「オートマ」機能によって勝手に条件表を作る。画期的なソフト。オートマに時間をかけたので完成が遅れた。本来なら《カナル》の次に発売する予定だった。
《カナルFA》・・・作製:1996年4月〜1996年6月
(FA)はファンダメンタル・アナリシスの略。企業の過去5年と予想の1年の売上げ・利益などの推移、いくつかの要素をハウス型の図にする。チャート以外の企業業績を分析する。(現在は廃版)
《投資管理P》・・・作製:1996年7月〜1996年8月
株式売買の管理(トレードごとの利益や手数料・税金)や集計を行う。商品先物・転換社債(CB)・オプション・債券の利子なども管理できる。(現在は廃版)
《デンドラ》・・・作製:1996年10月〜1996年10月
カギ足を元に1000パターンに分類し、そのパターンのその後の上昇率・下落率を統計処理して、次の上値メド・下値メドをグラフ表示する。グラフは《カナル》の条件表を使い、検索は《カナルの検索に加えて、@次のメドから現在はどの位置にあるのか、先のピーク・ボトムを抜く確率が高いもの、などを追加して検索できる。
■ 酔夢夜話(29) 2019. 2. 8 ■
Windows95は1996年になって急速に普及した。Windows95は29,800円の定価である。高い価格ではなかったがWindows95を購入しても、Windowsが動かないパソコンがまだ電気店にあふれていた。
なかなか売り上げは上がらなかった、さすがに1995年のようなピーク時の-70%減ということにはならなかったが、1996年から1998年までの売り上げはピーク時の-50%減の水準を上下していくことになるのである。
Windowsに対応できないパソコンを持っているユーザーが購入しないのはしかたがないとしても、Windowsマシンは売れているのである。Windowsマシンを購入した人に売り込むしかない。そう思って「プロモーションCD-ROM」を出した。
1996年当時、パワーツールという会社がFXtoolsというパーツを販売していた。これはデモ用のツールらしく、
- 画面の絵が、芝居の幕を開くように中央から左右に開いたり、
- 次の画面を表示するときに、同じく芝居の幕を閉めるように左右から中央に向かって同時に画面が閉じられる。画面が閉じられるにつれて次の画面が現れる。
- また簡単なメッセージは上図の「カナル2」のように目立つ枠の中に表示することができるが、文字を3Dで表示することができる。上図の「東研ソフト」の文字が3Dである。
- 文字は画像の上にも書くことができた。上図の2つ目の画面の赤色の説明文がそれである。
この他にもいろいろな機能があったが、忘れてしまった。
Windows95はプログラムから音楽を鳴らすことができたので、画面に応じてモーツアルトのハフナーセレナードやアイネクライネをバックミュージックにして、飽きがこないようにした。
ただしプロモ-ションCD-ROMを買った人のうち10人ほどが《カナル》を買ったに過ぎなかった。
これくらいのデモなら今ではインターネットで勝手に見てもらえばよいのだが、当時は電話回線だったので画像や音楽を受け取るには時間がかかりすぎて、画面がしばしば止まっただろう。
このプロモーションCD-ROMの寿命は2年あったろうか。いつしか廃版になり、現在は手許に残っていない。
上下2つの図は1997年9月にHPで「プロモーションCD-ROM」を紹介したときの宣伝記事が残っていたもの。
宣伝記事なので静止画である。音楽は鳴らないし、画面の切り替えはしないが、1996年のWindows95の懐かしい時代のことを思い出した。売り上げを維持するためにいろんなことをしていたのだな。ケナ気であったなと懐かしい。
■ 酔夢夜話(30) 2019. 2. 12 ■
過去に作ったWindows対応のプログラムはCD-ROMに保存している。CD-ROMはそこそこの本数のソフト(完成品ではなくVisual Basicで作ったソース)が格納できるし、ハードディスクやフロッピーのように誤ってファイルを末梢することがないので、保存するメディアとしては非常にすぐれている。
CD-ROMにプログラムを保存することを始めたのは、1996年9月からである。その後は新しくソフトを作ったりバージョンアップしたつど保存していたので、今では35枚の保存用CD-ROMが残っている。
「酔夢夜話」を書く都合で、これまでに発売したソフトの年月を調べるために、1996年6月に保所存したCD-ROMの内容を調べた。1本のソフトを作るには、Visual Basic ではいくつかのフォームやコードをファイルとして記憶する。このファイルの作成年月日を見れば、いつ完成したのかがわかる。
ファイルのうち最も古い日付のものはプロブラムを作り始めた日であり、最も新しい日付のものはプログラムが完成した日である。例えば《カナル》の最も古い日付のファイルは1995/07/27
で、最も新しい日付のファイルは1996/2/9 であるから1995年7月から開始して1996年2月に完成したことがわかる。プログラムが完成したら、動作確認を兼ねてヘルプを書き、ほかに必要であればガイドブックを書くので実際の発売はプログラムが完成した1〜2か月後である。
ついでのことなので、FD(フロッピーディスク)の変遷につい思い出したことを書いておく。
残念なことに実戦株価分析シリーズのプログラムは1本も残っていない。
当時のメディアは8インチFD→5インチFD→へ小型が進み、1995年ころは3.5インチFDになっていたと思う。図は左から右に8インチ→5インチ→3.5インチである。8インチはN販売時代・西中島3丁目のころに使っていた。サイズは20cm×20cmで暑い時は団扇としても使えるほど大きかった。
5インチは西中島3丁目・5丁目の時代に使っていた。13cm×13cmまで小さくなったのでパソコンにFDドライブが内蔵されるようになった。実戦株価分析のソフトを5インチFDに書き込んで新規の購入者に送ったら、プラスチックのカバー(図の橙色の保護カバー)を外して、中に入っている円盤状の茶色い磁気ディスクをFDドライブにはめ込み、動かないといってきた人もあった。8インチのように大きければカバーを剥がすことは考えなかっただろうが、5インチは手ごろな大きさである。カバーを剥がすのだと思っても無理はなかった。
3.5インチは9cm×9cmのサイズで、天王寺時代それもWindows95が出たころから流行りだした。ソニーの発明である。磁気部はプラスチックケースの中に収められており、3.5インチFDを取り出すと薄い金属板が磁気部分をを覆い、磁気部に傷がつかない。FDドライブに差し込むと中で金属板がスライドして磁気部分が現われる。という仕組みであった。だからFDを分解して使おうというユーザーは無くなった。5インチFDのようにペラペラでなく、堅いプラスチックケースに入っているので、郵便封筒で郵送することもできた。
CD-ROMの HOMEPAGE フォルダを開くと、INDEX.HTM ファイルがあった。.HTM とか.HTML が付いているファイルはインターネットに乗せる記事である。どれどれと開いてみると右のような「東研ソフト・ユーザー情報」の画面があらわれた。
今のHPの体裁とあまり変わってはいない。「最近の日経平均の動き」の日付は96.11.1 とあり、一番上にNo.78号とある。1996年11月1日はNo.78号目であるということは、もし毎日書いているなら1996年7月12日から東研ソフト・ユーザーを始めたことになる。
オオー、この日がNo.1号だったのか。現在2019年1月25日は5507号だから、1996年7月12日から黙々と書き続けて、22年あまりが経つのだな。休んだ日も10日や20日間はあったと思うけれど、よくも持続できたことだと我ながらエライと思う。
どういった内容をHPにアップしていたのかは、当時の記事を残していないので不明だが、「225オプション用ソフト《ウェーブ3》は語る」という目次があるので、先物・オプションについても毎日記事を書いていたようだ。
記事の内容は日経平均のグラフ、オプションのコール・プットの出来高グラフ、コール・プットレシオのグラフを毎日掲げていたのではないか。また《ウェーブ3》のQ&Aも書いていたようである。まだ(今もそうだが)オプション取引はほとんど広まっていなかったから、オプションの解説も適宜していたようである。
そもそもオプションの値段はどうであれば妥当であるのかは、1973年にブラックとショールズの2人の経済学者が、ブラック&ショールズ式と呼ばれている数式で示し、オプションは初めて理論的な背景ができたのである。2人は1997年にノーベル経済学賞を受賞している。
その一人のマイロン・ショールズは1994年に設立したロングターム(LTCM)という投資運用会社の経営陣に参画した。1998年までの4年間で資金を4倍にするという目覚ましい成績をあげていたが、1998年にロシアが短期国債のデフォルトを宣言したため、保有しているロシアを含む
新興国の債券や株式を手仕舞うことができず、破綻した。ノーベル経済学賞を受けた人物がいても破綻するという事実は衝撃的であった。
このブラック&ショールズ式を《ウェーブ3》に組みこんで、(妥当なオプションの値段)や逆に投資家がどれほど日経平均が変動すると予想しているかの(インプライド・ボラテイリテイ)を表示することができるようになった。当時はオプションのソフトは極めて少なかったので、このようなことができる市販ソフトは《ウェーブ3》だけであったといってよい。(証券会社や投資ファンドでは内部ではずっと早くから内部的に作っていたことは間違いないが...)
インプライドボラティリテイは、オプションの証拠金金額の決定
や恐怖指数と呼ばれるVIX(volatility index)で使われている。シカゴオプション取引所は1993年からVIXを公表しているが、2003年から計算式を変えて精度を高めているという。日経新聞社はかなり遅れて2010年から「日経VIX」を公表している。(これはWikipediaの記事から)
■ 酔夢夜話(31) 2019. 2.13 ■
売り上げが最低になった年はWinodws95が発売された1995年である。MS-DOSの実戦株価分析はいずれ使えなくなるので、ほとんど売らなかったのが原因である。
ピーク時の-70%減という惨めな結果になったが、Window95に対応した《カナル》を出してからは少しずつ売り上げが上向いてきた。
これはWindows95のお陰である。実戦株価分析のユーザーは徐々に《カナル2》に(1997年に《カナル》から名前を変更)切り替え始めた。1998年の売り上げはピーク時の半分近くまで回復した。
実戦株価分析の価格は230,000円であったが、《カナル》は実戦株価分析の価格の1/3以下の68,000円である。3倍の本数を売って、1本の実戦株価分析と同じ売り上げになる計算だ。ピーク時の売り上げを回復することは難しい状況になっていた。
ひところ日本のパソコンのシェア90%を誇ったNECのPC9801の出荷シェアは1996年ころには40%を割っていたのではないか。新しくでたPC9821シリーズの販売価格はPC9801シリーズよりもかなり安く、10万円を切っていた。1997年にNECはPC/AT互換機を発売してNECもWindowsマシンに転換した。
1997年に発売したソフトは次の4本である。(現在ではすべて廃版になっている)
《カナル基本》・・・作製:1997年2月〜1997年5月
実戦株価分析で組み合わせていたチャートと計算を取り出してWindows対応にしたもの。実戦株価分析と同じグラフ(Windowsのほうが細かいが)が描け、売買マークもでる。また計算もチャートの数値が印刷できるし検索もできる。実戦株価分析の愛好者は多かった。(廃版)
《カナル1》・・・作製:1996年8月〜1997年7月
条件表の設定の質問がでないように、《カナル2》の条件表を極力簡単にしたもの。《カナル2》の入門用で、データの変換はマスターネットから受信したものだけができる。19,800円と安くした。(廃版)
《コモディティ》・・・作製:1997年6月〜1997年8月
商品先物のためのソフト。先物は限月があるため同じ金先物でも限月の分だけ銘柄がふえる。グラフは《カナル2》とほぼ同じだが、サヤトリのグラフや計算ができる。(廃版)
《ファゴット》・・・作製:1997年8月〜1997年9月
個別株オプションのためのソフト。基本は《ウエーブ3》であるが、1つの銘柄の行使価格が3500円のコール、3500円のプット。3000円のコール、3000円のプット・・・・と多くの銘柄ができるので、銘柄の管理とデータの入手に追われてしまい、実用性がなかった。(廃版)
Window95によってNECは打撃を受けた。チリかゴミのような存在である東研ソフトも株式市場がよほど活況にならない限り、売り上げの維持ができない状況になっていた。
パソコンに必要なエクセル(Excel)とかワード(Word)ならばWindowsマシンの成長とともに売り上げが伸びたろうが、東研ソフトの《カナル2》は日本の個人投資家に向けてのものである。株式投資をする人間は人口の10%ほどである。もともとニッチな分野をターゲットにしていたからこそ、230,000円という値段が受け入れられていたのである。しかしWindows95になっても、株式市場が活況になっても、バブル期のようなことが起きない限り株式投資家が増えるものではない。
1995年から1998年にかけては金繰りで困った。困ったので投資顧問業者の登録を取り下げることにした。日銀に供託している500万円がすぐに戻ってくるのかと思いきや、投資顧問業者の廃業を公告し、訴える者がなければ半年後に返金するということであった。ああ、資金繰りに使おうと予定していた国債は半年先にしか現金にならないのである。供託金とはそういう性質のものである。
1997年11月3日に準大手証券の三洋証券が倒産した。社長の土屋さんは日経コンテストの審査委員長をされた方である。このときはていねいなお祝いの言葉をもらった。少年時代はパソコン少年といわれていたという。パソコンが大好きだった土屋さんは、株価バブルの1988年4月に江東区に世界最大のディーリングルームを作った。その面積は東証の1.8倍もあったという。それから10年も経たぬうちにひっくり返った。倒産の原因はディーリングルームへの投資ではなく、子会社のノンバンクが土地に融資していたものが焦げついたからだという。(Wikipediaから)
その後2週間もたたぬ1997年11月(15日)に北海道拓殖銀行が破綻した。拓銀は北海道の拓殖のために(明治33年)に設立した国策銀行である。それが倒産するのかと驚いた。
もっと大きな破綻が出た。1997年11月23日に山一證券が自主廃業に追い込まれた。コール資金がとれなくなっていたのである。1965年の証券不況時に、山一は4大証券で唯一、日銀からた特別融資を受けていたが、今回も2度目の日銀特融を受けた。その代りに政府は自主廃業を要求した。
翌年1998年10月に長期信用銀行が破たんして国有化された、12月には債券信用銀行が破たんした。どちらもかつては国に長期融資の役割を与えられて、長期債を発行できる特殊銀行であった。国をバックにしている銀行がいとも簡単に斃れていった。
■ 酔夢夜話(32) 2019. 2.14 ■
1997年から1998年は大銀行がバタバタと倒産し、整理をせまられた。ところが株式市場は下落しなかった。
それどころか1998年10月の安値12787円を底にして、2000年4月12日には20833円まで一本調子で上昇した。約1年半の上昇であったにもかかわらず+8000円(+62%)の上昇である。
これは米国から始まったインターネット・バブルが、日本でも1999年から発生したためである。ナスダックの高値は1998年1500P→1999年2000P→2000年3月には5133Pまで上昇した。
米国ではインターネット関係の業種が次々に出現したが、インターネットに出遅れた日本は目ぼしいインターネット関連の業種は育っていなかった。
買われたのは、次の業種であった。
@プロバイダ(ライブドアなど多数)
A検索エンジン(ヤフー)
Bインターネットのコンテンツ(ソニー・大阪有線など)
C携帯電話(ドコモ・KDDI・光通信)
D通信機器メーカー
E光ケーブルメーカー
F半導体メーカー
などであった。
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図の左側はヤフーの1999年〜
2000年にかけてのグラフである。1991年大発会の始値は26,500,000円(2650万円)であった。それが1年後の2000年2月には167,900,000円(1億6700万円)の高値を出した。約1年間で6.3倍になった。
それにしてもとてつもない株価である。現在までこの株価を抜く銘柄は出ていないし、今後も出でる可能性はない。
1億6700万円という高額な株価になったひとつの理由は当時の株式の額面が5万円であったからである。
2001年10月に商法が改正されて、株式の額面はなくなった(無額面制という)。それまでは圧倒的に50円額面の会社が多く、5万円額面の会社はだいたい新興企業であった。
例えば50円額面の株価が1200円をつけていたとすると、50000円額面ならその1000倍の1200,000円(120万円)になる計算である。逆にいうと5万円額面のヤフーの167,900,000円の株価はヤフーが50円額面であったなら、その1/1000の167,900円(16.7万円)に匹敵する。1株が16万円でも高額ではあるが、億という桁には決してならない。
図の右側は銘柄名を「tokumei」としておくが、当時新興市場に上場していた企業である。(今は上場廃止になっている)tokumei株の1999年1月の大発会の始値は1600,000円(160万円)であった。50円額面に換算すれば1600円である。1999年の春にtokumei社のN社長が天王寺の事務所にやってきた。これまでにも何度か来てはいたが、本社を東京に移してからはご無沙汰であった。
あれこれと雑談をして話し疲れてきたころ、
「坂本さん。うちの株価は今いくらしていると思います?」とN社長が聞いてきた。
「そうやなあ...新興市場のデータは受信していなから、わからんが、20万円くらいかいな?」 上場して長い間株価は20万円(50円額面で200円)近辺をうろうろしていた記憶があったからである。
社長はニヤリとしてインターネットで株価を検索した。株価は430万円(50円額面で4300円)であった。驚いた。いつの間にこんなに上がったのか。
「悪いことはいわんから、持ち株を売ったらどうか。売って引退すれば、一生安楽にすごせるぞ。それとも経営者が株式を売却すると、インサイダー取引にひっかるのか?」
と思わずいってしまったが、その8か月後に株価は1870万円(50円額面で18,700円)まで上昇した。まあ私の目利きが大間違いだったわけだが、ITバブルは気が狂ったように株価の暴走を促した。バブルを過小評価したのが一番の間違いであった。
「株は売りませんよ。もう少し社長を続けさせてくださいや。」といって、N社長は帰っていった。
ITバブルは1月の1999年と2000年初頭までの短期間でしかなかったが、東研ソフトの売り上げは、1999年(200年2月期)はピーク時の売り上げの80%まで回復した。バブル崩壊以来この売り上げを回復することは難しいだろうなと薄々感じていただけに、ピーク時に迫まる売り上げになったことは喜んだ。10年間辛抱していれば、よい時期がまた巡ってくるというのはいつも思っていた(景気循環ではジュグラーサイクルである)が、1989年→2000年はそのとおりだった。だが2000年→2010年の売り上げは2000年ITバブルを2番天井にして下がっていく一方だった。2010年に来るはずのジュグラーサイクルのピークはこなかった。
ジュグラーサイクルとはだいたい10年間でピークからピーク、ボトムからボトムをつける。その原因は設備投資である。短期の3〜5年のキチンサイクルは、HPで200日平均線を使って見ているが、このサイクルでは投資家はそう浮かれない。10年のジュグラーサイクルとキチンサイクルが重なったときに投資家は楽観し、大きな利益を得るのである。(3〜5年のサイクルと10年のサイクルが重なるのはだいたい10年に1度であるから、株式投資で大儲けができるのは10年に一度であると思ってよい)
次のピークは2010年の前後であろうと思っていたが、2008年にはリーマンショックが発生し、世界は下手をすれば恐慌になるかと危惧した、100年ぶりの不況・金融危機に陥る可能性があったから、株式ソフトが売れるような要因は皆無であった。10年周期でよい時期が巡ってくるという私なりの「時代の循環」の期待はできなかった。さらに2011年3月には東北大震災が発生した。あと5年から10年間は我慢しなければならないのか、と観念していた。
■ 酔夢夜話(33) 2019. 2.15 ■
思えば株式バブルの最後の年の1989年は平成元年であった。平成2年から株式バブルは崩壊した。1999年(平成11年)にはITバブルがあったが、大きな花火が2〜3発打ちあがったな、と思ったとたんに終わってしまった。
以降は過剰な不良債権を抱えた銀行が整理され淘汰されるという金融危機が始まる。金融危機は2003年(平成15年)の4月まで続いた。しかも日本は戦後世界で初めてのデフレに落ち込んでいた。経済が上向く兆しは100%なかった。
誰かが言っていた。「平成になってよいことは何ひとつなかったな。」
その通りである。だが2001年からは21世紀が始まるぞ、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」では21世紀になってから地球人が火星に行き、入植者たちがカナル(運河)を掘るのである。新しい希望をもってよいはずだ。家内は2001年元旦に「オトーサン、今日から21世紀やで。すごいなあ」といっていた。
ところが松飾りがとれないうちに家内が死んだ。天王寺の会社から戻ってみると、台所に倒れていた。2か月ほど前から飼い始めていた子犬が、動かない家内の周りを尻尾を振りながらグルグルまわっていた。「クモ膜下出血」であった。2001年1月9日のことである。救急車で病院に運ばれ、緊急の手術をした。9日・10日 は病院につきそったが、最早やイケナイ。手遅れのようであった。
子供たちを病院に呼びよせて、皆でベッドを囲んで足をさすったり、「お母さ〜ん」と呼びかけてしだいに細くなっていく母子の絆をなにがなんでも繋ぎ止めようとしていた。この間、私は病院からどうしますかと尋ねられた。このままでもある程度は命が保てるらしい。しかし脳にメスが入っているので、植物人間と同じである。どうしますかと聞かれたので子供らを付き添いの控え室に集めて、「もうお母さんをラクにしてやろう。さよならをしよう」と告げた。子供も泣いたし、私も泣いた。家内は47才(私は52才)で世を去った。
11日は通夜。12日が告別式だった。朝目覚めると、冷たく澄み切った青空で、白い雪がうっすらと地面を覆っていた。ああ、よい日に旅立つのだな。子供たちのクラスメートや家内が活動していた生協の人たちが大勢やってきてくれたので、葬儀会場を急遽広くして200人分の椅子を並べたが座り切れなかった。式は豪華なものになった。
納骨が終わり、坊さんが7日ごとにやってきた。七七日(なななぬか)に満中陰となる。家内を失ってどうなることかと思っていたが四十九日の法要が済むと気分は落ち着いてきた。しかし部屋の中には居るべき人がいない。居たはずの空間はぽっかりと空いている。「おい」と呼びかけても返事はない。虚しかった。寂しかった。もう二度と会話することができない。子供らもそうであったろう。各自の部屋にとじ籠っていた。
家内がいない生活が本格的に始まった。家内がやっていたことを私がせねばならないのである。
@朝5時に起床して娘がもっていく昼の弁当をつくって食卓の上に置いて出勤する。
A天王寺の事務所では9:00〜仕事を始めて、5:30に終わる。それから近鉄百貨店や上本町の店屋で夕食の買い物をしてから名張に帰る。帰宅するのは7:00ころである。バスを待っていては時間がかかるので、帰りはタクシーを使った。
B7:00からその日のHPの記事を書いてアップする。
C8:00から夕食のしたくをする。(まあロクなものは作れなかったが)
D食器を洗ったり、洗濯をしたり、風呂に入ったりしてPM11:00ころに寝る。
日頃はこういうスケジュールであるが、平日でも三者面談のために高校(長女)や中学校(次女)に行かねばならない(特に長女は津市の高校に行っていたから一日をつぶして津までいくのである)。日曜であっても父兄が集って学校周りの清掃をする日があるので、参加せねばならない。会社の仕事としては、会社で源泉徴収している税金を毎月1回払いにいかねばならない。会社は2月決算なので、3〜4月に決算して、申告書を提出しなければならない。(決算書を作成したり、申告書を書くのも家内の仕事であった)。
炊事・洗濯・食器洗い・学校行事への参加に加えて、会社の経理・
支払いなどの仕事が全部私の肩に乗ってきた。ソフトを新しく作る時間的な余裕はとてもなかった。 |
AM7:30の近鉄特急で上六まで通勤するのだが、電車が名張駅を出るとすぐに名張川に架かっている鉄橋を渡る。その前方の丘の上に名張市立病院が立っている。家内はここで死んだのだ。ここからサヨナラとどこかに行ってしまったのだ。市立病院の建物は丘の上に立つ墓に見えてしばらくは涙がでた。
坊さんの寺(弥勒寺)には墓所がなかったので三原の父母の墓に納骨した。
■ 酔夢夜話(34) 2019. 2.18 ■
2000年から銀行の不良債権問題は少しずつ進展していた。
1998年10月に国有化された長期信用銀行は、2000年にリップルウッドが買収し、新生銀行になった。
同じ1998年に国有化された債券信用銀行は、2000年にソフトバンクやオリックス、東京海上の連合へ売却され、2001年にあおぞら銀行になった。2行とも生き延びた。
写真は住友ビルヂング。竣工:S5年。設計:長谷部鋭吉+竹腰健造。昔の住友銀行本店。今は三井住友銀の大阪本店営業部。
2000年9月には、興業銀行・第一勧銀・富士銀行が「みずほ」ホールディングスに統合された。
2001年4月に住友銀とさくら銀が合併して「三井住友銀」になった。
右は大阪市堺筋のりそな銀の大阪本社。かつては大和銀本店であった。
大阪を地盤にしている銀行はややもたついたが、2001年4月に三和銀・東海銀・東洋信託銀が「UFJ」ホールディングスに統合された。だがこれはうまくいかず、2006年に三菱東京銀と合併して三菱UFJ銀行になった。
13行〜15行あった(数える時期によって銀行数は異なる)都市銀行下位の銀行は消滅の歴史を辿った。
1990年に三井銀・太陽銀・神戸銀が合併し、太神三井銀になり、1992年に商号を「さくら銀」へ変更した。都市銀行のうち2つが消えた。先の拓殖銀行を含めて都銀は3行減って12行になった。
1991年に埼玉銀と協和銀が合併して「あさひ銀」になり、都銀は11行になった。1996年に東京銀が三菱銀と合併して東京三菱銀になった(都銀は10行)。
2000年には、興銀・第一勧銀・富士銀が「みずほH」に統合したので都銀は2行減って8行になり、2001年に住友銀とさくら銀が合併したので都銀は7行になった。同じ年に三和銀と東海銀が「UFJ」に統合されたので、都銀は6行になった。
大和銀を中心にした国内行のグループは大和ホールディングスに統合されていたが、2002年にあさひ銀が子会社となって統合され、大和Hは「りそな」に名称を変更した。都銀は1行減って5行になった。最後にUFJが東京三菱銀と合併して三菱UFJ銀になった。現在残っているメガバンクは、@三菱UFJ、A三井住友、Bみずほ、Cりそな の4行である。かつて15行あった都銀のうちから11行が消滅した。
■ 酔夢夜話(35) 2019. 2.19 ■
2002年3月に大阪に3LDKの部屋を借りた。3年間ほど大阪に住むつもりであった。天王寺の事務所に通う時間は短縮されたが、毎日の朝食から夕食を作ることは同じだったし、その他の家事も減ったわけではない。
娘(次女)が名張の仲の良い友達と離れてしまったので、大阪に住むことを嫌がった。母親をなくして1年ほどの15才では無理もない。
余りに大阪を嫌うので6月に名張の家に戻った。
そうなると天王寺へ通勤するのはこれまでと同じことになる。時間を作るには思い切って名張の自宅を事務所にすることである。これならば往復4時間の通勤時間が浮いてくる。少しは新しいソフトが作れ、バージョンアップする時間が生まれるのではないか。
右図は事務所を移した年の秋の写真だと思う。天王寺の机とかソファーは処分して、3台のパソコン机と3台のパソコンと周辺機器、マニュアル類だけを名張に持ってきた。写真のような配置にした。
机の目前の窓は南向きで、ソファーの向こうの窓は東向きである。夏は日が高いので日光が部屋に射し入ることはないが、秋から冬になると太陽の南中高度が低くなるので、日の光が部屋のなかに射し込んでくる。だから冬はまぶしい。
右の写真をHPにアップしたことで、東研ソフトはなんとか存続するのであろうと思ったユーザーは多かったと思う。ユーザーにしてみれば、私が大阪にいようと名張にいようとどっちでもよかったのである。
細かいことに気をとられるユーザーは多い。HP記事で私がこんなものは誰でも知っていることだと思って、その根拠を省略して述べると、「過去にどんな事例がありましたか」とか「どうしてそう言えるのですか」とかの質問がくる。質問をする前に「過去の記事」を調べてはどうかと思うのだが、ユーザーは勝手である。その返答にかかる時間は大変なものである。
写真を掲げると、丁寧に見ているユーザーがある。例えば
上図の仕事場の写真の右上隅にあるアルミの額に収められた絵を見つけて、「あれは誰が書いたのか、どういうことを表現している絵ですか?」と問い合わせがあった。
これは私が若いころに模写した絵である。原画は1800年ころのオランダ人のジョルジュ・ド・ラツールの絵である。ラツールの絵は1900年ころまで長く評価されなかった。絵の題名は《生誕》とされているが後世が名づけたものである。
私は絵の写真を見て、このような神秘的な絵があるのかと驚いた。色は赤(マリアの服)、白色は(アンナのガウンの下のブラウスとイエスの縫い包み)。あとは暗黒で、マリアの母のアンナがイエスに向けて差し出したローソクの光が明暗をハッキリと区別している。
私が20才代から30才に移ろうとしていた時期である。大きな画集を買って、《誕生》を模写した。5〜6枚は模写したであろうか。模写は技術不足で失敗続きであった。
2002年夏にはケーブルTVを引いて、インターネットの高速化をはかった。通信速度は、電話回線とは桁違いに早くなって、毎日のHP記事もラクにアップできるようになった。これで大体の仕事場の環境は整った。(現在は光回線になっている)
2002年以降に名張で新規に作ったソフトは次のものである。
《リアル24》・・・作製:2005年2月〜2005年11月
楽天証券からリアルタイムのデータを受信して、1分足・2分足・3分足・5分足・・・・60分足・日足のデータを作り、リアルタイムでグラフを描かせ、売買マークを表示するもである。《カナル24》と同じように条件表を使うので、検証や最適化もできる。(廃版)
《アラーム24》・・・作製:2006年5月〜2006年7月
《リアル24》と同じように、楽天証券からリアルタイムのデータを受信して、5分足・日足のデータを作り、リアルタイムでグラフを描かせ、売買マークを表示するもである。《カナル24》と同じように条件表を使うので、検証や最適化もできる。先物や一般銘柄を合わせて255銘柄の受信ができる。
《YBメーカー》・・・作製:2016年4月〜2016年5月
寄り引け売買のためのソフト。売買マークがでたら翌日の始値で仕掛け、その日の終値で決済するという超短期的なトレードをするための条件表を生成する。1年に1回くらい条件表を作成させるとよい。(廃版)
ITバブルが崩壊した後の2001年〜2005年の売り上げは思ったほど減らなかった。名張に訪ねてくる客は皆無だと思っていたし、通販でソフトを売るにしても、住所が三重県名張市である。購入しようと思った客は「名張ってどこにあるのだ?」という警戒感や不信感を抱くであろう。今後は当然に売り上げは落ち込むはずである。
名張を根拠地にしてから6〜7年は目標を下回ることはなかったが、2009年(2010年2月期)から売り上げは急速に低下し始めた。売り上げ目標の年間1200万円は達成できなくなった。原因はスマホの普及である。
■ 酔夢夜話(36) 2019. 2.20 ■
(図はiPhone 4S。2011年)
2008年にソフトバンクはアップルのiPhoneを発売した。AUも追随し、2011年にはドコモもスマートフォンを発売した。インターネットの閲覧やメールはスマホでできるようになったのである。
どっしりと机の上に置いているパソコンは不要になったし、ノートパソコンもいらなくなった。
スマホにはキーボードはなく液晶画面をタッチすることで、操作ができたから、まさにポケットにパソコンがあるようなものだった。
若者はインターネットを通じて、買い物・オークション・銀行振込をするようになった。写真を撮ることも、ゲームもできるし、音楽をダウンロードして再生することも、テレビ電話もできる。とんでもないことに自分が写メで撮った画像や動画もアップできる。SNSやYouTubeにも投稿できる。なんでもスマホ1台でこと足りる。
動画のYouTubeは大はやりだ。
1才9か月の孫のエミちゃんは、最近はYouTubeの
「アンパンマン」か韓国のドタバタ動画に執心している。
幼児がスマホで動画を見ても画面が小さすぎる。とてもテレビの画面にはかなわない。母親が私が使っていないパソコンにYouTubeをセットしたものだから、パソコンを起動するたびにエミちゃんは私を呼びにくる。
別のパソコンで仕事をしている私の服をまずは引っ張って注意を喚起する。「どうしたの?」と手を差し出せば、私の指を力一杯握って自分のパソコンの前に引っ張っていくのである。
まだ言葉は話せないから、パソコンを指さして「アパ」といえばアンパンである。「メルちゃ」といえば人形のメルちゃんのことである。どちらも多くの動画がアップされている。
スマホはタッチパネルだから適当に画面をさわっていれば、幼児でも画面を進めることができる。だがパソコンはマウスを使う。私も最近は視力が低下してマウスが画面のどこにあるのかを探さないとわからず、マウスの位置を確認するために結構な時間をとられる。マウスはインターフェースとしてはよくないなと思っているが、しかし細かな画面の位置を示すには最高だ。
エミちゃんは、マウスを操ることはできない。だが動画が始まるとパソコンの画面は広い。スマホで見るよりもパソコンで見たがるのである。
かくしてスマホ全盛の時代がやってきた。たったのこの10年間で劇的な大変化が起きた。なにもかもが変わった。社会のすべてがスマホを中心にして動くようになった。なら株式分析もスマホで行うのかと思いきや、スマホでそんな分析をする者はいない。ネット証券につなげば、現在株価を知ることができるし、現在値動きがよい銘柄もわかる。注文も出せるし、注文が約定したなら知らせてくれる。
ネット証券の中には自社が開発したソフトで売りや買いになった銘柄を教えてくれるものもある。誰もが簡単に情報を得て、投資する銘柄やそのタイミングを安易に知ることができるのであれば、自分だけが投資で成功するはずはないということは投資家の全てが知っていることだが、今のスマホ世代はそれがわかっていない。だが初心者にとっては銘柄や売買のタイミングを教えてくれるのだから重宝する。
(図は左側が iPhone XS。右側が iPhone XR。2018年)
パソコン全盛期のときは、
- 株価データを蓄積しておいて
- 《カナル24》で検証をしたり、
- 《Qエンジン24》で最適化やオートマで条件表を作っていくことによって、
- チャートに精通し、投資の確率を高める
ことで自分なりの相場の見通しを得たものだったが、スマホの時代ではこういうことは通用しなくなった。
だが株式投資とは自分の経験や過去の統計を根拠にして行うものである。株式投資で成功した人間は、自分の長い投資経験を持ち、統計をとってその経験を補強してきた人たちである。これを無視してスマホに頼る経験の浅い人はコロリと負けるし、統計を取ったことのない人は最近の事例だけをみて間違った判断をする。それではスマホが経験則や統計を教えてくれるのかだが、
- 過去20年間という長期間に起きた事例をスマホで知ることはできない。
- 過去20年間の統計をとることができない。従って最近の動きしか知ることはない。だが株式投資にとって一番重要なものは過去20年(あるいは10年)の株価の習性を知ることなのである。
こういうことをおろそかにして、
スマホを使って売買をしている人は全部をネット証券にゆだねてしまっている。自分の考えはさほどない。まあ「おみくじ」を引いて、これに従っているようなものである。
したがって、2010年〜2011年を境にして《カナル24》の売り上げは激減した。パソコンはスマホに駆逐され、株式投資のしかたも変わってきたのだから、東研ソフト流の株式分析ソフトが見放されていくことはしかたがない。
誰でもそうだがリタイヤするときは必ずくる。世が私を必要としなくなれば会社を清算するほかはないな。65才になる2013年に終わろうかと思っていたが、「HPを楽しみにしている。」「HPがアップされてないと坂本さんに何かあったのではないかと心配します。」というメールが来るので、じゃあ70才の2018年一杯までは続けるかと清算を伸ばした。だが今年はその期限も過ぎてしまった。
一時体力が弱っていて寝込むこともあったが、幸いなことに今は食欲旺盛で、体調はすこぶるよい。元気が甦ってきている。もう少しは続けられそうだ。だが(株)東研ソフトの清算は別物である。会社を清算しておかないと、私が死んだら、残された子供らが清算処理をしなければならなくなる。清算申告書や貸借対照表に載っている資産・負債の処分をハッキリさせなければ清算できないが、これは当事者でないとできまい。
会社履歴の終わりに
私が30才くらいからパソコンにかかわってきた簡単な歴史をまとめるだけなのに、過去の決算書を調べたり、パソコンやWindowsの発売年月を調べたりして、大層な時間がかかった。
作ったソフトを動かすことができないのも残念であった。「実戦株価分析」の写真は1枚もなかった。当時はデジカメはなかったので気軽に写真を撮ることはなかった。またソフトを残していたとしても、MS-DOSマシンは今や存在していない。ソフトはフロッピー(FD)で販売していたが、いまどきFDを内蔵したパソコンはないから「実戦株価分析」を動かして見ることはできない。
デジカメは2000年に普及品を買ったが、酔夢夜話に載せている写真で最も古いデジカメによる写真は酔夢夜話(33)に載せた家内のものである。デジカメになってからは簡単に写真が撮れるので、HPに多くの画像をアップすることができるようになった。
ソフト(プログラム、映像、音楽)を個人で残すことは難しいものだと思う。「実戦株価分析」などは、ソフトそのものが残っていないし、パッケージの写真すらない。これを作ったことが夢マボロシのようである。今となっては本当にあったのか?と疑われてもしかたがないくらいだ。ハード(機械)に依存するものは残らない。手に触れることができる 紙・器・絵画・彫刻・建築物などは残る。
結局、私がなした仕事は残ることはないことがハッキリした。ソフトを組むことは自分の思ったこと(よくいえば創造性)を実現できて面白かったが、これが何一つ残らないということは寂しいことである。だがその面白さを体験したことで十分ではないか。自分がなした仕事が残ったとして何になるという思いもある。のちの世にゴミは残さないのがよい。
これで東研ソフトについての「酔夢夜話」は終わります。時間はかかったが東研ソフトの思い出はあらかた書いたつもりです。
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